9- ラウンジ

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【ニュース】国会図書館で『心霊研究協会会報』が読めるようになる(2010年5月13日)

TSL事務局

朗報です。笠原敏雄先生が所蔵されていた Proceedings of the Society for Psychical Research (現行訳だと『心霊研究協会会報』)の創刊号以来の全巻が、国会図書館に収蔵され、近々閲覧可能になるそうです。(当会でもかなり収集していますが、欠損があります。)
これで、SPRが蓄積してきた成果が、日本でも保存され、いつでも閲覧可能になります。ありがたいことです。
全巻を収集され、さらにそれを公的利用のために寄贈されたことについて、笠原先生に敬意と賞賛を捧げたいと思います。
なお、催眠の専門誌 Zoist も同様だそうです。

ウィルバーさん、ちょっと詐欺っぽくない?(2010年5月12日)

高森光季

個人的な感想ですが、小生はニューエイジャーやトランスパーソナリストが言う「宇宙意識との合一」という言葉に、ずっと違和感を抱いてきました。私見では、彼らはこういう言葉を使うことで、「死後存続問題」や「現世と交渉を持つ霊的存在の問題」を捨象しようとしているように思えるわけです。(ちなみに現代ギリシャの聖人ダスカロスは、その評伝を書いたライターの「ニューエイジの人たちは死後、宇宙意識と合一すると言っていますが、どう思いますか」という問いに、「は? そんなら早く死ねばいいということになってしまうじゃないか」と笑って答えたと言います。)
ところで、そのトランスパーソナル思想の権化であるケン・ウィルバーが、なんとインタビューに答えてこう言ったそうです。
《アメリカでは、残念ながら、いまだに「生まれ変わり」を認める人は全体から見ると非常に少ない。このような現状下では、自分の著書で「転生問題」に関して積極的に言及することをあえて避けてきた、とウィルバーは述べた。「生まれ変わり」を強調しすぎると、読者の半数が離れる可能性があり、現時点では、まず少しでも多くの人がインテグラル段階の社会へ移行する手助けをすることのほうが、人類にとって急務であり、「転生」の受容を求める必要はないからである、と。》(久保隆司「ケン・ウィルバーをデンバーに訪ねる」『春秋』2010年5月号)

あれ、宇宙意識と合一するんじゃないの?
読者が離れていくからあえて避けた?
まあ、無明の衆生を導く遠大で慈悲深い意図ということなのかもしれませんが、「あなたがたはもはや真理を隠そうとしてはならない」と告げられた(ハイズヴィル事件での霊のメッセージ)スピリチュアリストの立場とはだいぶ違うようです。

自殺についてのシルバー・バーチのメッセージ(2009年10月21日)

TSL事務局

自殺をするとどうなるのかというご質問がありましたので、とりあえず、シルバー・バーチからのメッセージを引用しておきます。ほかの霊信にも言及がありますが、それはまた改めて。

《事態を改善するよりも悪化させるようなことは、いかなる魂に対してもお勧めするわけにはまいりません。自殺行為によって地上生活に終止符を打つようなことは絶対にすべきではありません。もしそのようなことをしたら、それ相当の代償を支払わねばならなくなります。それが自然の摂理なのです。地上の誰一人として、何かの手違いのためにその人が克服できないほどの障害に遭遇するようなことは絶対にありません。
むしろ私は、その障害物はその人の性格と霊の発達と成長にとって必要だからこそ与えられているのですと申し上げたいのです。苦しいからといって地上生活にさよならをしても、その苦しみが消えるわけではありません。それは有り得ないことです。ばたそれは摂理に反することです。地上であろうと霊界であろうと、神の公正から逃れることはできません。なぜならば、公正は絶対不変であり、その裁定はそれぞれの魂の成長度に合わせて行われるからです。
物質の世界から霊の世界へ移ったからといって、それだけで魂に課せられた責任から逃れられるものではありません。それだけは明確に断言できます。》(シルバー・バーチの霊訓9 P206-7)
《果たすべき義務に真正面から取り組むことができず、いま自分が考えていること、つまり死んでこの世から消えることがその苦しみから逃れるいちばんラクな方法だと考えるわけです。ところが、死んだつもりなのに相変わらず自分がいる。そして逃れたはずの責任と義務の観念が相変わらず自分につきまとう。その精神的錯乱が暗黒のオーラを生み、それが外界との接触を遮断します。その状
態から抜け出せないまま何十年も何百年も苦しむ者がいます。》(P209-210)

「スピリチュアリズム点字文庫」のお知らせ(2009年5月6日)

TSL事務局

次のようなお知らせが届きましたのでご紹介します。

《目の不自由な人たちに「スピリチュアリズム」にふれていただくための「スピリチュアリズム点字文庫」のサイト http://www.spten.jp/ が一般公開されました。
「スピリチュアリズム」に関係する書籍を点訳するグループ 「スピリチュアリズム点字文庫」が製作した点字データを提供するとともに、他館製作の点訳書についての情報も掲載してあります。
一人でも多くの必要としている目の不自由な方が「スピリチュアリズム」を知るきっかけとなりますように
皆様のご存知の目の不自由な方がいらっしゃいましたら、このサイトのことを知らせてあげてください。
ご協力よろしくお願いいたします。》

3年になりました(2009年2月23日)

TSL事務局

このホームページを立ち上げて、3年になりました。
たった3年。けれどもけっこういろいろなことがありました。
石の上にも三年、というべきか、嬉しいことに同志も増えてきました。

世は「スピリチュアル」ブーム。それに乗じたと思う人もいるかもしれませんが、それはちょっと違うのでありまして、むしろ、危機感のようなものを抱いて、というのが正直なところなのです。まあ、そのあたりのことは詳しくは述べられませんが。

難しい、理屈っぽすぎる、という御批判はたびたび受けますが、それは半ばやむを得ないと諦めています。スピリチュアリズムは理性的・知性的な面もあるのだということを強調したいからです。不遜ながらこういった形の手引きもあっていい、というよりなくてはいけないと思っているわけです。まあ、それしかできない、ということなのかもしれませんが。

インターネットの大海の中の、小島というより岩礁に過ぎない存在ですが、これからも地道に地味に活動していきたいと思っています。どうかご支援のほどをお願いします。

霊信を読むということ(2009年2月21日)

m. taizo

TSL(スピリチュアリズム)に漂着してまだ十ヶ月足らずです。幸運なことに霊的生命を「主観的に」確信できた自分にとって、存在証明についてはそれほどこだわる必要がありません。第三者を説得して普及するほどの段階には未だ居ないからでしょうね。同僚の江原さんファンには『霊の書』を貸しましたが。ラウンジの場を借りて自分の体験を書こうと思ったりもしましたが、機が熟していないのか、未だ変化の渦中にあるせいか、あえなく挫折しましたんで、以下にとりとめもなく雑感を。

ホワイトイーグルやシルバーバーチ、インペレーター、マイヤーズ、カルデック霊信の聖ルイ他、分量的には刊行されているそれらのおよそ半分ほどを読んだに過ぎませんけれども、情報としてではなく感覚として自分に刷り込むようにして読んでいるので、読み終わったものであっても決して「読了」ではありません。読み終わらないうちに気に入ったところを何度となく読んだりするから、なかなか読み進めないわけです。霊信に限りませんが読んでる際に顕著なこととして、集中して読むことができている時はエネルギーが流入してくる感覚があったりします。これは霊的な生命に主観的に気付くようになった一昨年末から起きた体質的な変化と関係があるようで、心の道場さんの「霊訓の読書こそが交霊会だ」という主旨の発言には、だから感覚的に頷けたりもします。うまくまとめられているTSL基本編「祈りについて」を、一時は必ず出勤前に読むことにしておりました。ホワイトイーグルを知ったのもここです。ラウンジでホワイトイーグルについての言及がありましたけれど、必ずしも「情報」を目当てにしない読み方をしている者としては、個別具体的な(たまには地上の低次レベルの)質問への答えに“奉仕”させられがちなバーチの霊訓よりも、夾雑物の少い一方的な語りであるイーグル霊言のほうがストレートに心地よく響いたりします。つまり、問答と語りの差です。マイヤーズの難解さにエネルギーの流入が阻害されがちな読解力なので、受容力によっても差が生じますけれど、自分の場合、代表的な霊信には読んでいて共通する心地よさがあります。

読んでいて心地よいとはいえ、安易に“ありのままの自分”を肯定してくれるような甘さは無く、「(地上の人間に)完全はない」という言葉が「どの段階にあっても、より完全を目指しうる」という叱咤でもありえるように、教条主義的で無い≒安易な答えが与えられていないからこその厳しさがあります。スピリチュアリズムで説かれている真理はシンプルそのものであるようで、それゆえにと言いますか、個々人の個別具体的な状況に照らして適用するとなると手探りにならざるを得ず、その際の手がかりは「良心」のようなものを頼りにするしかなく、その良心の声みたいなものをはっきりと嗅ぎ出すには善性への志向を強めていくほかないようです。言うは易し・・・です。

受け手側たるこちらの在り様によっては「良心の呵責」に働きかけているに等しいわけです。複雑な現実を前に何が善であり何が悪であるかははっきりとしないことがままあるにしても、誰しも自分なりに善性を強めようとすることは可能なはずで、あらゆる証明が究極のところは不可知のような状態に置かれたまま「自由意志」によって現実的には何かしらの具体的な選択を迫られるところにおそらく「動機が何よりも大事」という教えとも繋がる、安易な公式を作りえない奥の深さがあるはずで、スピリチュアリズムに親しみ始めている自分ですが、およそスピリチュアリストを名乗るのは大変なことだなとも思っている次第です。霊信は何しろ現世を超越した“霊”からの発言なので、俗な説教にありがちな利益誘導があり得ず、そういったところにも言葉の根底に脈打つ愛情と相まって強く惹かれてしまうところがあるようです。

悪霊憑きパソコン?(2009年2月20日)

滝沢 遼

偶然見たNHKの番組「クローズアップ現代」で、恐ろしいニュースを聞いた。
個人のパソコンが知らないうちにbotとかいうウィルスに感染し、外から操作されるようになってしまうというのである。
そして感染したパソコンは、また持ち主の知らない間に無防備なパソコンを探し、botを感染させる。そうやって数十万台にのぼった感染パソコンは、ある日突然、大元の指令に従って、企業のサイトや特定国のインターネットなどに攻撃のアクセスやメールを送る。そうするとサイトやインターネットは麻痺状態になる、というのである。
ひとつのbotにつき数十万台の「感染ネット」があり、それが全世界で200だか存在して、それを「時間貸し」する裏ビジネスも存在するという。個人攻撃や競合相手のサイトつぶし、敵対国家の通信麻痺などを目論む者が利用するのだそうだ。
ぶるぶる、である。これはまさに悪霊憑依みたいではないか。知らないうちに侵され、無意識のうちに悪意の行動を起こし、さらに無防備な別の宿主を探し仲間に引き込む。
防ぐにはきちんとウィルス駆除ソフトを入れなさい、ということらしい。あまり知識のない高齢者ユーザーなどが狙われるそうである。
悪霊憑依などと言い立てると悪質霊感商法を助長するので気をつけなければいけないが、人間も同じで、心を清く保っていないと、侵入される恐れはないとは言えない。オールマイティの「ウィルス駆除ソフト」はないのが残念である(お経とか聖水とかがそういった効能を謳ったが、まあ、どこまで……)。
しかし、インターネットという素晴らしい(やはり素晴らしいものだろう)発明(それは霊界の仕組みの稚拙な模倣だという説もある)を、一握りの「悪」が汚染し、そのために厖大な手間とお金と精神的苦痛が費やされているのを見ると、深いため息が出てしまう。人間の悪のなんと絶えないことか。浜の真砂は尽きるとも。
悪は深く、恐ろしく、そして謎である。
それはともかく、みなさん、パソコンにはウィルス駆除ソフトをつけましょうね。

「アセンション」という言葉(2009年2月16日)

高森光季

「アセンション」(上昇)という言葉を、ニューエイジ支持者たちはよく使う。ウィキペディアによると、「『惑星地球の次元上昇』。ニューエイジ、新興宗教などのスピリチュアルな考え方を尊ぶ思想では、未来の予測の一つとして盛んに取り上げられるが科学的根拠はない。アセンションの存在を支持する人々によれば、アセンションとは人間もしくは世界そのものが現在の三次元からより高次元の存在へと進化することとされる。アセンションの存在を支持する人々は、アセンションは2012年前後に起こるのではないかと推測しており、現在の地球の環境問題や混沌とした社会現象〔?〕、人間の善悪に対する意識レベルの低下〔?〕をその変化への前触れであると見なしている」。2012年云々は「フォトン・ベルト」(宇宙の高エネルギー帯とされる)を地球が通過するという説らしい。またマヤの暦がそこで終わっている云々という説や、「ホピの予言」説などもあるらしい。
あまり人のことを批判したくはないけれど、個人的に言えば、ちょっと乗れない。批判者が言うように論拠がいかにも「擬似科学」っぽいし(フォトン・ベルトが存在しないという証明はないけれど)、「三次元」が「四次元」になるという表現もちょっとねえと思うし、有史以来いろいろな予言が行なわれたけれども総じて「スカ」だったという思いもあるし。だいたい、空から何だか宇宙線のようなものが降ってきて、小生のような未熟者でも霊徳人にしてくれるなどというのは、まあ天の経綸としてどうしてもそうしてくれるというのならうやうやしく従うし、内心「ラッキー」と雀躍するかもしれないけれども、霊的成長というのは困難や苦悩を通して一歩一歩つかんでいくものだというスピリチュアリズムの教えからすると、そんな虫のいい話があるものではないと思う。それに地上が一挙に「高次世界」となったら、みんなついて行けないだろうに。
ただ、この数千年間、物質世界に深く「沈んで」きた人類が、精神性や霊性へ向かって「上昇する」ということなら、スピリチュアリズムも早くからそのようなことは宣言していた。スピリチュアリズムの発端となったハイズヴィル事件では、霊は「友よ、この真実〔人間の死後存続と現界・霊界の交渉可能性〕を世に伝えなさい。これは新しい時代(New Era)の曙である。このことをもう隠そうとしてはならない」と告げたとされているし、モーゼスの『霊訓』やオーウェンの『ベールの彼方の生活』、さらにホワイト・イーグルのメッセージなどにも、「今や霊界からの大々的な働きかけが開始されている」「人類は物質の探究から霊性の探究へと向かう」といった主旨の記述がある。スピリチュアリストからすればスピリチュアリズム自体が、「新たな時代の幕開け」であったということになる。
しかしながら、スピリチュアリズムのそういった宣言も、その後、スピリチュアリズムが勢いと拡がりを失っていった(一般人の普通のオプションとして確立しなかった)という、いささかつらい事実があるので、反対論者からは「スピリチュアリズムの予言もやはりはずれたではないか」と批判されてしまうところではある。
ただ、反対論者からは言い訳と見られるかもしれないが、「物質志向から霊性志向への転換」は、ひそかに進んでいないとは言えないだろう。ニューエイジャーが言うように、そうしたことはある日突然起こるというものではない。「ルネッサンス」という新時代がいつから始まったかは定かでないように、それは曖昧で進み戻りしながら、後から見れば「あの時代」と言われるようなものになる、そういうものではなかろうか。1848年、科学(そして唯物論)の急成長期に、その対極としてやはり急成長した霊的な潮流は、一時的な後退を見ながらも、やがて再び高まっていくのではないか。
その一つの兆候が、「科学の手詰まり」に見られるようにも思う。物質科学は、特に19世紀後半(ちょうどスピリチュアリズムの勃興時と重なる)、飛躍的な発展を遂げた。電磁気、放射線、素粒子、といった華々しい発見に始まり、それは20世紀前半の相対性理論や量子力学まで登り詰めた。しかし、20世紀後半になると、「新たな発見」は少なくなってくる。現在の最新の物理学研究は、とてつもないお金を要する実験施設が必要になり、しかもそれによって明らかになることは、昔のような「飛躍的発見」ではない。こうした「科学の手詰まり」は科学者自身が認めているところであり、また最近のアメリカや日本の学生の「科学離れ」にも影響を与えているようである。現在の科学の主流は、技術的応用(実用価値の探究)や生物科学などに移ってきている。
もう一つ、これはちょっとあぶなっかしい話題だが、若い世代の精神的・肉体的変化というものもあるかもしれない。一時話題になった「インディゴ・チルドレン」説がどこまで正鵠を射ているのかはわからないが、確かに若い世代は、物欲・権力欲・名誉欲といったものをあまり強く持っていないような感じもする。また、これも信憑性は不明だが、男性の精子数の激減や性欲の減退というような生物学的変化もあると言う。
オーウェンの霊信によると、人類はこれまで数千年、物理的探究と男性原理の発現を目標としてきた(それが神の意志だった)が、これからは、精神性の追求と女性原理の復権の時代になると言う。ニューエイジャーにもこうした意見を持つ人は多いようである。小生のような年寄りが「今の若い男どもは女を誘惑する覇気もないらしい」などとけなすのは間違いなのかもしれない。
さらに言えば、近年の「強欲の権化」のようなマネーゲームとその破綻、その後に出てきた「助け合い精神」「高額所得批判」なども、一つの小さな波頭なのかもしれない。
よい時代の訪れを望むのは、万人共通の思いだろう。懐疑家や冷笑家が何とくさそうと、人類の進化向上を願うのは、そしてそれが物資的な向上ではなく、精神的なものであることを願うことは、愚かなことではなかろう。ただ、「人類の進化向上はあなたがた一人一人の進化向上にかかっているのです」というシルバー・バーチの教えを、スピリチュアリストは肝に銘じなければならない。しんどいけれども。

ホワイト・イーグルの言葉(2009年2月2日)

高森光季

高級な霊からのメッセージと見なされているものは、いくつもある。多くの人に人気があるのはシルバー・バーチのものだろうが、インペレーターの言葉(モーゼス『霊訓』)も、マイヤーズの通信(カミンズ『不滅への道』)も、劣らず素晴らしい。
霊信には発信者の個性があるし、読む側にもそれぞれの魂の色合いというものがあるので、あるものはぴったり来るが、別のものはあまり琴線に触れない、というようなことはあるようだ。「どれの方が優れている」などと序列をつけることは人間にはできないし、すべきでもないだろう。魂に触れるものを糧にすればそれでいいのだと思う。
シルバー・バーチの「弟分」にあたる「ホワイト・イーグル」という霊のメッセージ(霊媒グレース・クックによるスピーチ)は、バーチに比べると人気は劣るようである。キリスト教的な言葉遣いが多いため日本人には忌避感が働くのかもしれない。入神談話を記録したものなので、文体も少し特殊で、そのためか現行の日本語訳もかなり癖があるからかもしれない。
けれども、その優しい、温かさにあふれた語りは素晴らしいと私は思う。落ち込んでいる時、その言葉を読むと、慰められ、元気づけられる。
ということで、ここでごくわずかだが紹介したいと思う。

《皆さんは悩みをもち、疲れて、前途に不安をお持ちかもしれない。では、心を静めてよく考えてみられよ。過ぎて来た年月に目をやってみられよ。無事に切り抜けた困苦や試練のこと、また幸福だった日々のこと。お分かりかな。苦しみがあっても貴方は今ここにこうやって居る、神は決して貴方を一人では置かなかった、見捨てはしなかった。常に貴方の何かを改善するものがあったはず。かりに物質面では良くならなくても、心を平静にし我を克服する何かを学ばなかっただろうか。以前より賢くならなかっただろうか。かりに失うものがあっても、霊性の進歩啓発はなかったろうか。苦しみと試練と涙を通じて、光があなたに差し入ったはず。いろいろな事があって、はじめて神の愛と導きの手に、少しずつ気づくようになったのではありませんか。》

《静かに黙って、内心の静寂につとめなさい。微動だにしない湖水、それが貴方の魂です。もし魂が静寂を保てば、内在の神意が発動し、湖水に映る光のように、魂の水面に、真理が素直に映るものです。静寂を守れ、自己の神性を自覚せよ。人が独りで神の前に立つ時、神は語りかけます。》

いずれも『ホワイト・イーグル霊言集』(桑原啓善訳、潮文社)からのもの。いいなと思った方には、同じく潮文社から出ている『霊性進化の道』や、「でくのぼう出版」から出ている『神への帰還』などもお薦めしたい。

<ノート>「個々人の霊は天界にある」というカタリ派絶対派の見解(2009年1月28日)

高森光季

渡邊昌美著『異端カタリ派の研究』(岩波書店、1989年)を読んでいたら、たいへん面白い記述に出会った。
言うまでもなくカタリ派とは、中世(11~13世紀)に北イタリアや南フランスにおいて隆盛となった「異端」で、正統教会と激しく対立し、「アルビジョワ十字軍」や「異端審問」によって絶滅させられたキリスト教の一派である。グノーシスやマニ教の流れを引き、善なる天界と悪なる現世との対立を強調し、旧約の神は悪であり新約こそが救いの聖典であるとした。
カタリ派は、この世を作ったのは「悪の天使」(ないし「悪の神」)であり、人間の魂は誘惑されて天界から堕落し、この世の苦しみの中に閉じ込められている、とする。また、カタリ派の中にも二つの大きな派閥があり、「悪」も究極的には神に包摂されるという「穏和派」(暫定的二元論)と、「善悪二神の並立」を説く「絶対派」(絶対的二元論)があるという。ちなみに「輪廻転生」を肯定したのは絶対派の方らしい。
カタリ派の詳しい教学にはここでは立ち入らない。ただ、その「絶対派」の教説の中に、スピリチュアリズムの説くところ(しかもかなり高度部分)と通じ合うものがあって、非常に興味を引かれたので紹介しておきたい。
それによると、人間の(「善なる人間の」なのかもしれないがそのあたりはよくわからない)魂である「アニマ」は、「悪」の誘惑によって地上に落とされたのだが(この解釈はもちろんスピリチュアリズムとまったく異なるが)、残りの部分である「霊の体」と「スピリット」は天界にとどまっており、スピリットはアニマと常につながろうとしている。そして、カタリ派の秘儀を通して天界に戻れば、アニマはスピリット及びその霊体と再統合する、それこそが救済である、というのである。
少し引用してみよう。同書156~158頁からのもので、細かな出典などは略す。《 》は原資料、「 」は著者、〔 〕は引用者注である。
《天使〔善なる天界にいる存在〕らは三つの部分、すなわちコルプス〔形相、体〕、アニマ、スピリトゥスから成る。〔この世を創造した悪神の誘惑に際して〕コルプスは撃ち倒されて天にとどまった。〔中略〕スピリトゥスも残った。》
《今一つの世にてアニマはコルプスを離れ、この世すなわち地獄へ墜ちた。》
「〔悪神に〕誘惑され地に、つまり現世に墜ちたのはアニマのみだったのである。《コルプスは撃たれて天にとどまった。これぞ〔中略〕使徒が天上の体と呼びしところである。スピリトゥスもまたここにとどまった》。〔中略〕以後、アニマは現世の体(コルプス)に入れられて輪廻転生の業苦を嘗めつつ彷徨する。他方、スピリトゥスは罪人となったおのれの半身を探し求める。《〔中略〕汝らはいう。スピリトゥスとともに天にありて罪を犯せるアニマは今汝らの中に在り、スピリトゥスはそうではない、と。また言う。スピリトゥスそれぞれに、ともにありて罪を犯せるアニマを尋ね求め、めぐりあえばともに語り、おのれの忠言に従わせる、と。》」
そして、カタリ派最重要の儀式である救慰礼を受け、厳しい戒律を守って帰天した魂(アニマ)は、天に残ったおのれのスピリット及びその霊体と出会い、合体する。
「彼らは言う。アニマは〔救慰礼の〕按手によって、導き手たるべきおのれ本来のスピリトゥスを受ける〔スピリットとのつながりを取り戻す〕。〔中略〕このスピリトゥスを聖霊、すなわち確固たる霊と呼ぶ。確固としてかの欺きに耐えたがゆえであり、また現在にあってもおのれのアニマを治め護り、悪魔に欺かるる能わざらしめるがゆえである。……かくのごとく、惑わされ欺かれたるアニマの現在の生における護り手、導き手として与えられるものの一つ一つを、彼らはスピリトゥスと呼び、確固として留まり欺かれざりしがゆえに聖なる霊と言う。」
《その〔救済の〕時、いかなるアニマもそれぞれに、曾て欺かれし時天に遺せるおのれ本来のコルプスを得べしと言い、……このコルプス受領こそ〔キリストの〕使徒の述べたる死者の復活にほかならずと言いかつ信じる。》

スピリチュアリズム霊学の中には、人間的知性では理解不能としてあまり詳しく述べられていないが、「私の魂(ソウル)は、本霊(大文字のスピリット)の部分であり、本霊は常に(本霊のやはり部分魂である守護霊を通して)私の魂を導いてくれている。そして(高次の)霊界では魂は本霊と再融合を果たす」という説がある(マイヤーズ通信、またシルバー・バーチの「ダイヤモンドの多面体」説など)。
こうした説と、カタリ派の「分魂出生」説とは、もちろん異なるところは多いものの、どこか通じるところがあると言えないだろうか。
別にスピリチュアリズムとカタリ派がつながっていると言いたいのではない。そうではなく、カタリ派がこのような教説をどうやって形成したのか、ということが不思議なのである。単に、偶然に、頭でひねり出したのだろうか、それとも、何らかの「霊界からの情報」によって、こうした説が生まれたのだろうか。
カタリ派はこの世を「悪」と決めつけることによって過ちに踏み入った(共感しないでもないが)。しかし、人間の内なる魂は、霊界の大いなるスピリット(神といった普遍的なものではなくかなり個別的な存在)とつながっている、魂はその教導を受けている、ということを、おそらく何らかの霊的方法による情報取得によって知っていた――ということは言えないだろうか。

がん患者と死生観(2009年1月18日)

滝沢 遼

ネットに以下のような記事が出ていた。

《がん患者「死後の世界」信じる割合低く 東大調査(1月14日11時18分配信 毎日新聞)
がん患者は一般の人に比べて、死後の世界や生まれ変わりなどを信じない傾向が強いことが、東京大の大規模調査で明らかになった。……
「死後の世界がある」と考える人の割合は一般人の34.6%に対しがん患者は27.9%、「生まれ変わりがある」は一般人29.7%、患者20.9%で、患者の割合が目立って低かった。生きる目的や使命感を持つ割合は患者の方が一般人より高く、「自分の死をよく考える」という人も患者に多かった。》

なかなか考えさせられる報告である。もちろん、死後存続を信じないからがんになるのだ、などと言うつもりは毛頭ない。
がんというのはいまだによくわからない病気で、どうもいろいろなものが含まれているようだが、興味深いのは、かなりのがん患者にはある種の性格傾向が認められるという主張である。よく言われるのは、「几帳面、生真面目」「自分自身の感情に疎い」といったことである。特に几帳面・生真面目というのは目立つようで、「病院で規則を一番よく守るのはがん患者」という説もある。
几帳面・生真面目だと死後存続説は認めないということか? まあ、現代の支配的世界観が唯物論だから、それに楯突くような説を峻拒するというのは、一種几帳面・生真面目だとは言えるだろう。「融通の利かない清教徒」と一種通じるものなのかも。「まあ、そんなこともありかな」くらいの柔軟性を持っている方が健康だということなのかもしれない。
このニュースを聞いて、がんになりたくない人が死後存続説を信じるようになるといいな、というのは冗談です(笑い)。

英国の「無神論」キャンペーン(2009年1月18日)

高森光季

1月10日のロイターのニュースに次のようなものがあった。

《英国の無神論者が今週、同国の公共交通機関で「神は存在せず」と通勤客らに呼び掛ける広告キャンペーンを立ち上げ、話題となっている。英国全土の都市で運行する800台のバスとロンドンの地下鉄の車内に貼られたポスターには、「おそらく神は存在しない。心配することを止めて人生を楽しもう」(There’s probably no God. Now stop worrying and enjoy your life.)と書かれている。無神論推進派で作家でもあるリチャード・ドーキンス氏は、宗教に関心を持ち過ぎることが幻滅につながるということを示す手助けになればと、今回のキャンペーンを支援する理由を語った。……コメディアンで同キャンペーンの主催者でもあるアリアン・シェリン氏は、車内のポスターが通勤客らに笑いをもたらすことに期待を寄せているとし、「とても楽天的で緩やかな哲学的キャンペーンだ」と語った。》

なかなか面白い。確かに笑みが出る広告だ。
時を同じくして、ユダヤ教のイスラエルとイスラーム急進勢力との紛争がまたも頭をもたげてきていて、「もう宗教はいい加減にしようよ」という気分が世界に満ちている。
ドーキンスの『神は妄想である』は、非常に興味深い著作である。スピリチュアリストがこんなことを言うのは奇妙に思われるかもしれないが、そして確かにその理論的主張には反論がたくさんあるのだが、宗教の弊害(原理主義、派閥主義、子供の虐待など)を厳しく糾弾するその内容は、実に心を打つ。
世界を見回せば、宗教が悪の原因となっている事例は枚挙にいとまがない。特に、一神教文明の「宗教絶対主義」、宗教の社会支配は、どうも手に負えない。「もうやめようよ」と言いたくなる。
2000年も前のわずかな情報と、人間が好き勝手に作り上げた奇矯で野蛮な神学の堆積には、もう別れを告げよう。そういう意味では、あちらの文明の中での無神論キャンペーンは、歓迎したい気持ちを抱いてしまうのである。
ただし、もちろんわれわれの主張は、There’s probably God なのだけれども。

三浦清宏著『近代スピリチュアリズムの歴史』をお薦めします(2009年1月17日)

TSL事務局

しばらく更新できずにいたために、ビッグニュースを掲載するのが半年以上も遅れました。それは、三浦清宏氏による『近代スピリチュアリズムの歴史』(講談社、1900円)の刊行です。三浦氏は、芥川賞作家・英文学者で長年日本心霊科学協会の理事も務められた、日本のスピリチュアリズム研究の大先輩です。
スピリチュアリズムの歴史については、これまでレナードの『スピリチュアリズムの真髄』(世界心霊宝典第3巻)が一番まとまったものでしたが、記述が第一次大戦までと古い感じは否めませんでした。オッペンハイムの大作『英国心霊主義の擡頭』は非常に詳細な歴史書ですが、やはり時代が限定されているし、そもそも懐疑主義的立場からの記述なので、スピリチュアリストにとってはあまり面白いものではありません。
三浦氏の著作は、ハイズヴィル以前から超心理学まで、時代的にも広範ですし、最終章には「日本の事情」も描かれていて、非常に役立つ内容です。以下に目次を収録します。
第一章 ハイズヴィル事件とその波紋
第二章 ハイズヴィルに至る道のり
第三章 心霊研究の黄金時代Ⅰ――霊能者の活躍
第四章 心霊研究の黄金時代Ⅱ――霊能者たちvs.研究者たち
第五章 心霊研究後期――英国以外の研究者たちとその成果
第六章 スピリチュアリズムの発展と挫折
第七章 超心理学の時代
第八章 日本の事情
スピリチュアリズムの基本図書として、文句なしにお薦めの本です。

勉強会ご参加の方々へお礼(2008年12月30日)

TSL事務局

毎月一回のTSL勉強会も、この12月で26回となり、第二シリーズも一応完結しました。
規模は小さなもので、人の出入りもありますが、毎回出席してくださる中枢メンバーの方々のご支援で、無事続けて来られたことは嬉しいことです。一、二回で来られなくなった方もいて、主催者側の対応が悪かったのか、肌合い(霊統?)が合わなかったのか、少し残念ですが、そういう方にも何かわずかのきっかけになってくれればと願うばかりです。
会に来られた方からは、「こういう主題を普通に話し合える場があるのは嬉しい」「本を始め、いろいろな情報が得られてよい」といった感想をいただいて嬉しく思います。中には、「このような勉強会が開催されていなければ、一人で書籍等を読んで、半信半疑の状態が続いたことになっただろうと思います」とおっしゃってくださった方もいて、事務局としても感激です。
「こういうジャンルの会だから、アヤシイのではないか、ましてお寺でやっているし、と思っていたけど、そういうところがないので安心した」という声もありました。勉強会は、あくまでスピリチュアリズムの霊信による情報を整理し、理解を深めていこうというのが目的で、考えを押し付けたり、「洗脳」したりする意図はまったくありません(まあ、時たま発表者の主観が多少出てしまうことはあるかもしれませんが)。これからも「できるだけ信頼性の高い、偏りの少ない情報を取り上げ、判断はそれぞれの人に任せる」という姿勢を崩さないようにしたいと思っています。
勉強したからといって、「人生がうまくいく」とか「隠れていた能力が目覚める」といった手っ取り早い御利益はありませんから、あまり人気が出るものではありませんが、これからも地道に、ささやかに、スピリチュアリズムの理解と普及に努めていきたいと思っております。新年からはまた新たなシリーズを開始する予定です。よろしくご支援のほどお願いいたします。

<ノート> 中世の“スピリチュアリスト”たち(2007年10月18日)

高森光季

スピリチュアリズムというのは、19世紀に生まれたものであるけれども、「スピリチュアリスト」と名乗る人々は、13世紀にも存在した。フランシスコ会修道僧の中で「聖霊主義者」と言われている人たちである。「聖霊主義者」の原語(ラテン語)は「スピリトゥアーレス Spirituales」であり、まさしくスピリチュアリストである。
この宗教運動の源となったのが、フィオーレのヨアキムというシトー派の修道僧である。1135年頃、イタリアのチェーリコに生まれ、カラブリアの修道院長などを務め、1202年3月30日、シーラ高原の小さな教会サン・マルティーノ・ディ・ジョーヴェで死去している。『調和の書』『黙示録注解』『十弦琴』といった(ひどく難解な)著作がある。
ヨアキムの思想はその後異端と宣告されるが、生前の彼自身の活動はきわめて穏当で保守的でさえある。旧新約聖書や教会の権威を心底認めていたし、三位一体論もこれを信奉して深く考究した。教皇とも近い関係にあり、彼自身、「異端」の拡大(おそらくカタリ派のこと)について警戒していたという。その彼が異端とされたのは、彼の死後、三位一体説に関して彼の対立者ロンバルドゥスの思想が正統とされたためである。なお、ヨアキムが異端宣告をされた1215年の第4回ラテラノ公会議では、ヨアキムの他、ワルドー派、アルビ派(カタリ派)が異端宣告され、異端審問所の設置(!)が決められている。
しかし、彼はもちろん単なる護教主義の修道僧ではない。二度ないし三度の神秘体験をしており(1187年のエルサレム王国陥落を予言したともいう)、それを元に、聖書の象徴的(かなり神秘主義的な)読解と終末論的歴史解釈を発表した。そして、彼の唱えた、キリスト教の歴史の三〈段階〉説、そして新時代の到来の予言(彼自身は1260年からそれが始まるとした)は、後の世代にきわめて大きな影響を及ぼした。
彼の「三段階」説とは、単純に言えば、アダムからイエス・キリストの出現までを「父」(神)の時代、その後を「子」(キリスト)の時代、そして来たるべき次の時代を「聖霊」の時代とするものである。父の時代は、神とその律法の支配する時代、子の時代は、キリストとその後継である教会が支配する時代、そして、聖霊の時代は、律法や教会を通してでなく、聖霊が個々人(といってもそこで想定されているのは修道生活を送る人々ということだろうが)を教え導く時代だ、というのである。
これは、素直にそのまま敷衍していけば、律法も教会も無用だということになる。ヨアキム自身はあくまで教会の権威を崇敬しており、教会無用論を主張したわけではないが、これは教会権力から見ればとんでもない異端としか言いようがない。そして、教会の堕落を厳しく批判していたフランシスコ会の一部の修道僧たちが、これに乗っかったのも当然のことだったろう。また、1260年に反キリストが出現し教会に大打撃が与えられるだろうという終末論的予言は、世俗権力やイスラームとの武力闘争が頻発していたこの時代の人々に、きわめて現実的な予言として受け取られただろう。
結局、1260年には特別なことは起こらず、ヨアキムの三位一体論を始めとする神学は異端とされ、ヨアキムに賛同したフランシスコ会修道僧たちも弾圧され(フランシスコ会の正統回帰に尽力したのがボナヴェントゥラだった)、教会権力は事なきを得た。(ただし、1292年から94年まで、聖霊主義者であるケレスティヌス五世が教皇となっている。この教皇は教皇庁のあまりの堕落にあきれ果て、とっとと辞任してしまったらしい。)

しかし、ヨアキムの「新時代の予言」は、ある意味で歴史的先駆となったようである。いわゆる「千年王国」論、そして「教会でなく聖書」を主張したプロテスタント運動、さらには近代になって現われる様々なユートピア思想に、ヨアキムの影がほの見える。もちろん、「地上に神の国が到来する」という思想はずっと昔からあったものだが(それは特にイエスの時代にはかなり高まっていたようだが、結局は「スカ」だったわけだ)、それを歴史(あくまで聖書による歴史だが)の発展段階説として展開したという点で、ヨアキムの思想は先駆的だったのだろう。(歴史の段階的発展とユートピアの到来という思想は、最終的には共産主義に流れ込んだことになる。いや、ひょっとするとニューエイジの「アクエリアン時代」にも影響しているかもしれない。)

ヨアキムに触発された「聖霊主義者」たちは、権力と富と煩瑣な神学にまみれた教会の終焉を夢見、一人一人の信仰者に直接聖霊の働きが下される理想の信仰社会の到来を願った。何と歴史を先取りした運動であったか。聖霊主義者たちの夢は、その後、プロテスタント運動(聖書のみによる信仰)という形で、キリスト教内ではある部分、実現したとも言える。しかし、それによって「聖霊の時代」が到来したかどうかは、歴然としている。地上にユートピアが生まれるという思想は、近代になって、共産主義を始めとする世にも恐ろしい悲惨をつむぎ、結局は頓挫した。
しかし、聖霊主義者たちの「個々が直接に霊的導きを得る」という姿勢は、現代においても、というより現代においてこそ、大きな意味を持つものだろうし、近代スピリチュアリストとも共通する。「千年王国」と象徴されるユートピアの運動はことごとく失敗したからといって、よい社会を作ろうとする願いがなくなっていいものでもない。「千年王国」はあと千年でもして人類がもう少し善い存在にならない限りやってこないかもしれないが、「ケチでちっぽけな世界」(マイヤーズ霊の言葉)がこのまま続いてよいというものでもない。

とはいえ、中世のスピリチュアリストたちの言う聖霊とは、キリスト教が説く唯一の神からの慈悲教導であり、信仰もあくまで聖書に基づくものであった。それがキリスト教の限界である。死者霊や高級霊などを通して、神の慈悲教導が与えられるなどという考えは、キリスト教徒たちには毛頭ないし、認める余地もないだろう。そして「唯一」にこだわる宗教は、異端を弾圧し、宗教戦争を引き起こす。
「キリスト教神学は人類の呪いであった。しかし、もうそれも終わりつつある」と述べたのはかのシルバー・バーチであった。確かに呪いは終わりつつあるように見えるが、まだしつこく粘っているようにも見える。
中世のスピリチュアリストがキリスト教の枠内に留まらざるをえなかったことはやむを得ない。近代のスピリチュアリストが夢見ていることは、特定宗教の呪いを脱して、人間の一人一人に「聖なる霊」の導きがあるような世界だと言えるだろう。

<コラム>「不遇は恩寵」というレッスン(2007年7月27日)

日守麟伍(HIMORI, Ringo)

どこかで、「試練は甘い蜜であり、恩寵をもたらす」といった文章を読んだことがある。章句を特定するまでもなく、「試練は恩寵」という教訓は、信仰的には常識といってよい。「試練」という言葉は、たとえば落選中の元政治家もよく使うが、ここではそうした厚かましい意味ではなく、もっと厳しい状況でのことである。「不遇」という言葉を使えば、誤解が少なくなるかもしれないので、「不遇は恩寵」と言い換えよう。
愛すべきチェホフの短編に、長期間を牢獄で過ごす男の話がある。「何十年か牢獄に入っていられたら多額の賞金をやる」という賭けに乗って、ある若者が自ら牢獄に入り、長年の苦悩の中で魂が成熟し、期限直前になって、「賞金」の受け取りを拒否するために逃亡する、というようなストーリーだったように記憶している。ここにあるのは、自由(だいたいは、つまらぬことにうつつを抜かして、人生を無駄にするための自由)を制限する境遇が、気晴らしのない内面的で作業に沈潜させることで、魂を成熟させる結果になる、という教訓であり、現世での生き方として、一つの理想が描かれている。修道院での苦行が自発的なのと比べて、牢獄での服務は強制的だが、チェホフの短編は、自発的に牢獄に入ることで、かぎりなく修道院での苦行に近づいている。
古来、世俗の地位や働きを、霊的専心の障害と感じ、現世的な幸福や成功を避ける思想は少なくない。快楽主義の祖エピキュロスの生活とは、暖衣飽食、酒池肉林、酒とバラの日々ではなく、逆に生活のための活動を最低限にして苦を避けるという意味であり、普通の目からみれば、あたかも禁欲主義のライフスタイルであった。時代が下がると、スピノザは思索に沈潜するためにレンズ磨きを職業とし、アインシュタインは気遣いの不要な配管工や燈台守のような仕事に憧れた。
もちろん、極端な不如意がかえって気苦労を増すことを憂えて、最低の安定のために「官僚と作家」のような二重生活を選んだ人も多く、それなりの成果を残している。人間の働きを「(必要のための)労働labor」と「(作品を作る)仕事work」と「(政治的な)活動action」に三区別したアーレントは、政治的人間として、「活動」を第一位においたが、他方、「労働」の単調さが労働しながら別のことを考える自由を与えることから、古来「観照の生活」のために推奨されてきたことを、指摘してもいる。柳宗悦が、同じ作業を繰り返す民芸を、称名念仏の他力行に比定したのも、この一例に他ならない。同じ動作を単調に繰り返すところに、作品が成仏する、それはあたかも称名念仏を繰り返すところに、念仏者が成仏するのと同様である、というのが、柳の民芸論と念仏論の接点だった。
芸術や思索や信仰のために、よいライフスタイルというものはあるが、いうまでもなく、それは世間でいうよい生活とは違う。一八〇度とは言わずとも、いわば九〇度ほど違う、つまり同じ次元の反対側ではなく、それに交差する別の次元を向いた生活である。いかなる意味でも禁欲的とは言い難かったゲーテの書斎が、彼の裕福さには不似合いなほど簡素だったというエピソードは、頂点的な創作のための環境がどうあるべきかを雄弁に語っている。ダーウィンの書斎は実験室のようであったし、ピカソのアトリエは、画材の他、拾った貝殻や何かの部品であふれかえっていた。さらにいえば、ダーウィンに進化論の優先権を略奪された(という近代科学史のスキャンダルの被害者となった)アルフレッド・ウォレスが、その画期的なアイデアを思いつき、形にまでしあげたのは、議論すべき同僚も、参照すべき文献もない、生命の危険すらある、熱帯アジアの粗末な小屋だった。猫足の家具や金糸銀糸の刺繍、シャンデリア、ペルシャ絨毯、油絵、大理石彫刻に飾られた部屋で、どのような作品が作られるかを想像すれば、極限的な創造に求められる環境の傾向は、明らかである。時代の平均よりも快適な状況では、快適な仕事(たとえば、金儲けや社交といった対人の仕事、演奏や宣伝といった流通の仕事など)ははかどるかもしれないが、自分の限界、人類の限界を超え出ようとする仕事は、むずかしいだろう。限界を超えれば、快適な現在が失われるかもしれないからだ。
ムージルの『特性のない男』に、環境が整ったとたんに創作力が枯渇した「芸術家」の話がシニカルに描かれるが、そのムージルの実生活は、義捐金に頼らずには生活できないほど、自らを追い詰めたものだった。現代日本のある二流の文筆家も、昔は狭い書斎で、最近やっと立派な書斎になったが、もう老い先が短い、人生とはそういうものだと「達観」していた。「男の書斎」などという特集をみると、世俗的な意味でも、「いい仕事」と「いい書斎」は無関係か、あるいは反比例しているようである。いい書斎は、余生を養う隠居部屋のようである。
グラムシの頂点的な思想が、もともとの身体の障害に加えて、獄中で探究されたことは、環境と創造の関係を示す好例である。グラムシの獄中書簡は、どん底の境遇で頂点的な働きをする人間が、どれほど気高い位置に達するかを、見事に示している。しかもそれは、「政治犯」という、体制によっては犯罪にならない行為による、いわば無実の罪によるものであり、グラムシの獄中生活は、他の誰の不幸の上に立ったものでもない。ある意味でそれは、自ら志願して入った修道院のようなものである。グラムシはその決意にふさわしい実りをつけた。
人間がどん底に落ち込んで自らを責めているとき、それに輪をかけて非難する人がいる。逆に、苦境を我が事のように理解してくれたうえで、必ずよくなると教えてくれる人がいる。「春の来ない冬はない」「苦は楽の種」という諺は、人生の永遠の智恵である。さらに、不遇こそ恩寵であり、それによってあなたは得がたいものに導かれる、と教えてくれる先達がいる。限界的な状況で、それを語る資格のある達人が語り、それを聞く資格のある求道者が聞くとき、このような教えは、次元を突破するきっかけになることがある。「今ここ」での不遇――それが自由な訓練であるにせよ、不可避の贖罪であるにせよ――が、その人の生活・生命のおどろくべき向上につながるという教えは、「今ここ」以外のリアリティがない人には、わからない。
ここから得られる智恵は、何かを得れば何かを失う、という世俗の諺どおりである。大きな代価なしに、価値あるものは得られない。まして、霊的な宝、錆びることなく盗まれることのない天の宝は、この世のすべてをもってしても、代えがたいものと表現されている。パウロは「キリストを知ることで、この世のすべてを失ったが、今やそれらは糞土のようにしか思えない」と言った。これを引用した明治日本のキリスト者は「まことに然り」と応じている。宗教の言葉は矛盾しているように見えるが、そうではない。「命を捨てるものは命を得、命を守ろうとするものは命を失う」という教えは、「束の間の生活のための計らいを捨てるものは、高次の生活のための備えを得る、束の間の生活のための計らいにしがみつくものは、高次の生活のための機会を失ってしまう」と説明すれば、聞く耳のある人にとっては、まさにその字義通りなのである。
十字架のイエスを悲劇の極みとして描くのは、いわゆるキリスト教の世俗・所有・肉体への執着の反映である。ニーチェの罵詈雑言を浴びるに相応しい、低級なものへの執着があるからである。近代日本のあるキリスト者は、いわゆる「受難」に関して、「イエス先生ほどの人が、あのような情けない言葉を言われるはずはない」と言い放った。天の栄光、永遠の生命を体現し、その喜ばしい教えを地にもたらそうとした預言者、あるいは救世主とも仰がれる人が、この世の苦痛を嘆かれるはずがない。
これは武士出身の多くのキリスト者の感想だったにちがいないし、現代の軟弱な私ですら、そういう感想をもつ。人を殺害する能力には長けた「西洋人」だったが、開国間もない明治期、ある事件の責任をとって武士が切腹する場面に立会って、端然として自分を殺す(自刃)という武士の能力に、心底恐怖したようである。異教徒の一介の武士ですら、この通りであった。キリスト教世界においても、直弟子の時代から、殉教者が続出しており、しかも彼(女)らの半分ほどは、悲劇的にではなく、嬉々として死に臨んでいる。その師であった「イエス先生ほどの人が、あのような情けない言葉を言われるはずはない」のである。
「受難」は手違いで起こった不遇ですらなかった。それは――誤解の堆積であるキリスト教の教義によってすら――人類のため(の贖罪)という、イエスの本来の使命の一貫であった。苦痛を身に受けることは、自発的にせよ償いのためにせよ、よりよい生活・生命のため、この世の誰かが引き受けざるを得ない行為である。それらの苦痛によって私たちは、人間にとって何が望ましいことであり、何が忌まわしいことなのか、リアルに学ぶのである。誰かが苦しい役割を引き受けなければならないとき、それを自分に引き受けること(を許可してもらえること)は、成長のためであれ贖いのためであれ、いずれにせよ自分のためになることである。すべてこの世の不遇(と見えるもの)は、(永遠の相のもとで見れば)かならずや恩寵なのである。

<コラム>神と人格(2007年5月10日)

柴田哲也

いつも跳ねっ返り的な物言いですみません――さて。
神を人格的なものとして想定することは、どこか原始的で、幼稚なものだと思っていた。これは近代人の無意識的趨勢なのかもしれない。あんた、阿弥陀さんやシヴァ大神や大天使ミカエルなんて、ほんとに信じているの? 高次のものがあるとしたら、そんな人間くさいものじゃないはずだろう。まあ、うなずけないでもない。
しかし、待てよ……。じゃあ、神は機械的な(たとえ非常に複雑なものだとしても、数理的な)法則か。絶対を機械的・数理的法則とするのは、むしろ唯物論科学のお得意ではないか。
ひとつのイデアが降ってきた。
本質的な人格性とは、機械的法則より高次のものではないか。プラナリア(原生動物です)の機械的行動パターンと人間の人格性を比較して、後者が高次なものだと見なすのは、むしろ当然ではないのか。
だとしたら、至高の存在に、何らか人格性を――少なくともそれにに通じるものを――見て取ることは、自然なことではないか。
ううむ。これはちょっと考え直さなくてはならない。高次存在に人格性をまったく排除してしまうというのは間違いではないか。人間のどろどろした営みではない、よき意味での人格性は、むしろ高次存在の特質なのではないか。逆に人間はその高次の人格性を、少しだけ獲得しただけではないのか。
そう、ここで言う人格性とは、卑俗な人間臭さというものではない。自他の諸要素の絶妙・精妙な統合をなす知性であり、自由で革新的な創造をなす主体性であり、他者(自らが生み出したものであっても)を主体とみなす寛容・共感・慈愛の働きである。そのような人格性を高次存在、ひいては至高存在に認めることは、幼稚でも恥ずべきことでもないはずだ。
さて、この降ってきたイデアは正しいか。

イアン・スティーヴンソン氏の死(2007年4月29日)

TSL事務局

生まれ変わり研究の大家で、ヴァージニア大学精神医学教授・人格研究科主任であった、イアン・スティーヴンソン氏が、去る2月8日、シャーロッツヴィルで亡くなりました(享年88歳)。
周知のように、スティーヴンソン氏は、「生まれ変わりと思われる事例」を2000例以上にわたって収集・検討し、「事実と符合する幼児の証言」「(主張されている)前世の傷や病気に強く符合する母斑や先天性欠損」「真性異言」などによって、生まれ変わりの実在、そして魂の実在について、きわめて強力な証拠を提出してきました。
数十年にわたる彼のフィールドワークは、その綿密周到さはもちろん、時にきわめて危険な地域にも臆せず足を踏み入れるという、勇猛果敢なものでもありました。そして、そこで彼が収集した事例は、実証性・説得力の高さにおいても、また、「超ESP仮説」への強力な反証としても、きわめて意義深いものでした(この件に関しては本ホームページ各論編の「超ESP仮説は棄却された」をご参照ください)。
彼の仕事は、サイキカル・リサーチ(実証的心霊研究)の精華であり、その核心的な主題「魂の実在」についての、現在の最高峰たるものと言えるでしょう。その意義は、今後ますます評価されていくでしょうし、ひょっとしたら、数世紀後、彼は人類に多大な貢献をなした偉人と見なされるようになるかもしれないとさえ思われます。
彼はスピリチュアリズムに対して距離を取り、時に否定的な言及もしてきましたが(あるいは意図的にそうしたのかもしれません)、「霊魂の実在」を核心的主張とするスピリチュアリストにとって、彼の研究は、最高の援軍だったと言えるでしょう。その死に際して(スピリチュアリストは死を悼まないのが本来ですけれども)、ここに弔意を表し、改めてその研究の偉大さを賞賛したいと思います。

“神を冒涜する罪は赦される”?(2007年4月28日)

高森光季

本ラウンジに掲載された柴田君の宗教批判(「宗教嫌いからの一言」)はいささか過激で一面的すぎるところもあると思うが、それに関連してちょっと思い出したことがあるので、述べておきたい。
ナザレのイエス(言っておくが、イエス=キリスト教ではない)の言葉に、次のようなものがある。
「神を冒涜する罪は赦される。人の子を冒涜する罪も赦される。しかし、精霊を冒涜する罪は赦されない。」
なんと過激な言葉か。その過激さゆえもあって、この言葉をめぐってはもちろんいろいろな解釈がある。中には、「しかし」以下を切り捨ててしまう――つまりイエスの直説ではないとする――意見もある。だが、それは無理だろう。この「Aである、Bである、しかしCである」という表現形式は、イエスの好んだ文型だから、これも直説であり、主眼は最終文にあると見るべきではなかろうか。
さて、これをいささか我田引水で解釈する。
「(諸)宗教が主張する“神”を否定・拒否するのは、全然問題ではない。その“神”の教えを伝える者=宗教者を否定・拒否するのも、全然問題ではない(ここで「人の子」を自称するイエス自身、自らを相対化している――絶対性を留保している――ことは注意すべきだ)。しかし、人が、自らが霊である――この世のすべてを創造し生かしている神の霊の一部である――ことを否定・拒否するのは、許されない罪である。それは、霊魂である存在が、自らの本質を否定することであるからである。
(諸)宗教はあれこれいろいろなことを言う。それが自らの魂に響くのなら、それに従うことは悪くなかろう(もっともその責任は各自が負うのだが)。だが、響かなければ、捨て去ってかまわない。平然と踏みにじってもかまわない。神の教えを説く者を嘲笑してもかまわない。それらは所詮人間の構築でしかない。不完全であって絶対妥当の真理ではない。しかし、人間が――自らが――霊的存在であるということは、捨て去ってかまわないものではない。踏みにじってかまわないものではない。それを踏みにじると、現世においても、死後においても、とてつもない踏み誤りを犯すことになるのだよ。
私としては、このイエスの言葉をもじって、世の人に言いたい。宗教なんか信じなくったってかまわないよ。宗教者を自称する人を笑い飛ばしたってかまわないよ。けれど、自分が「単なる肉体の随伴現象」であると思うのは、あなた自身の自己否定であり、それはとんでもない間違い、許されざる罪だよ、と。
柴田君につられていささか過激になったが、私はここにスピリチュアリズムの核心があると思う。

<コラム>オリジナルとコピー――ピアノの教訓から(2007年4月14日)

日守麟伍(HIMORI, Ringo)

つい先ごろ、布団を叩きラジカセを大音量で鳴らし、大声で隣人に叫び続ける、という事件があった。裁判沙汰になり、騒音による傷害事件ということで、一審では実刑判決が出たようである。こういう意図的な騒音はともかくとして、日本には商業地と住宅地とを問わず、騒音が溢れている。国際比較は見たことがないが、欧米の生活空間を知っている人は、経験的な比較から、日本の無神経な騒音を批判する。
長く日本に住んでいる知人のヨーロッパ人が、アパートの隣近所からの騒音に悩まされているという。ヨーロッパのアパートの壁は厚いが、日本のアパートはコンクリート造りでも壁が薄く、音が筒抜けで、落ち着いて考えごとができないそうである。私も騒音ではずっと悩んできたので、文化比較と騒音談義で、話が盛り上がったことがある。選挙や物売りの大音響も、どうして野放しにしておくのか?
住宅地、マンション、アパートの騒音から起こる紛争はいたるところ起こっており、事件にならないだけで、騒音による精神的被害は日常といってよい。文化人の棲息する空間でも、騒音は少ないわけでない。私はしばしば不思議に思うのだが、「もののあわれ」という、何かに(ものに)深く感じ入る(あわれを覚える)状態は、静寂を必要とするのに、音に鈍感な人間がいったいどんな繊細な精神的営みができるのだろうか? 低レベルの存在ほど、原始的な生命力が強いのは、いうまでもない。「鈍感力」を持ち上げるまでもなく、騒音に鈍感になった日本社会では、生命力の強い鈍感な人間しか生きられなくなるだろう。
さて、だいぶ昔、「ピアノ殺人事件」というのがあったのを、覚えている方がおられるだろう。いうまでもないが、ピアノを弾いていたほうと、それに怒って殺人を犯したほうと、どちらを責めるつもりもなく、どちらを擁護するつもりもない。それくらい、騒音という問題は根が深い。そしてまた、この「ピアノ」という楽器は、人間社会というものを考えるのに、見事な教訓を与えてくれる。
少しでも音楽の知識がある人は、「ピアノ」がもともと「ピアノフォルテ」「フォルテピアノ」の略であること、それは音楽用語のピアノ(弱く)とフォルテ(強く)から来ていることを知っているだろう。ピアノフォルテの前身であるクラヴィコード、チェンバロ、ハープシコード等々は、音の強弱表現が不十分であり、なによりも大きな音が出せなかった。ロマン派の音楽がダイナミックな音を求め、また大きな会場での演奏効果を求めたので、大きな音(フォルテ)も自在にだせるピアノフォルテ、フォルテピアノが発案されたわけである。この楽器の教訓はいったい何か。
まず、大きな音が求められたという経緯からすれば、「ピアノ」という誤解を招く略語はおかしい。人を騙そうという悪意がないのであれば、正直に「フォルテ」と名乗るべきである。本論では以下、いわゆるピアノを「フォルテ」と記したい。つぎに、フォルテが出せるようにしたのは、表現のダイナミックスが求められた以上に、大きな会場用であったのだから、小さな空間で弾いてはならない。「日本の住宅」(と一言でいっても、時代により、地域により、資産により、千差万別であるが)は、しばらく前に「ウサギ小屋」と揶揄されたくらいで、とても広々しているとはいえない。しかもそのウサギ小屋に、「フォルテ」を置いた家が少なくないのである。騒音という観点から幸い(?)なことは、あるだけでほとんど弾かないという家が多いことであるが、時々熱心な人がいて、音を垂れ流している。昼間はやむをえないという弁明もあるが、24時間社会になった現在、昼間に寝て夜間に働いている人もいる。そもそも、昼間に住宅地で騒いでいいと考えるのは、あまり繊細な人間ではない。繊細でない人間が多い社会は、繊細な人間には住みにくい。
さらに製造段階で考えると、「フォルテ」を作っている楽器メーカーは、製造物責任法には触れないとはいえ、「ピアノ殺人事件」が起こった事態に、道義的な責任を感じないはずはない。音楽用に「防音室」という商品が出ているくらいだから、音楽が近隣に騒音を出していること、騒音被害を防ぐには発生源で留める、つまり防音設備をつけるべきであること、これは当然のことである。騒音被害を防ぐために、近所に耳栓を配って歩くべきだ、と考える人はいない。二、三十年前、騒音を遮断する勉強用の防音室(一坪弱の、むしろ防音箱)が商品化されているのを見て、なけなしの金をはたいて買おうかと思いつめたことがある。その後広告を見かけないから、商品として採算がとれなかったのだろうが、これが商品化されたことは、日本騒音史において、画期的だったと思う。
自分の生産活動が生み出す被害に「耳をふさいでいる」のは、有害物質を垂れ流していた、一昔前の公害企業の発想と変わるところがない。楽器メーカーには、大きな音の出る楽器は防音室あるいは弱音器とセットで販売するよう、強く求めておきたい。防音室を設置できないような人間に、「フォルテ」を販売するのは、極端にいえば、犯罪幇助的である。
「フォルテ」の騒音は現世的な問題であり、以上は私の個人的な苦情であるが、電子ピアノの問題を考えていくと、もっと微妙な問題に触れてくる。電子ピアノの宣伝文句に、夜でもヘッドホンで気兼ねなく練習できる、というのがある。音色が多彩であるとか、ベースを弾いてくれるとか、録音できるとか、学習機能がいろいろあるが、やはり音量調整が出来るのが、最大のメリットだろう。
「フォルテ」を買うか電子ピアノを買うか、という議論を小耳に挟んだことがある。「フォルテ」派は、「本物」の「フォルテ」のタッチは電子ピアノにはない、電子ピアノは録音だから電子音である、「本物」は五十年、百年と使えるが、電気製品は十年くらいで壊れる、といった本物志向の意見。電子ピアノ派は、調律が要らない、音量の調整ができる、といった功利派の意見である。
「フォルテ」派には、十九世紀にヨーロッパで完成したフォルテピアノが「本物」である、という前提がある。本物という言葉を、「オリジナル」と言い換えれば、これは正しい。十九世紀に製品化されたフォルテピアノは、完成した時点でオリジナルである。その原形、あるいは前身であるチェンバロやクラヴィコードも、それなりにオリジナルである。しかし、ピアノフォルテがチェンバロのコピーである、とは誰もいわない。であれば、電子ピアノも電子ピアノとして、「フォルテ」を前身とするオリジナルである。キータッチが違う、音を加工するメカニズムが違うというのは、別のキータッチ、別の加工法ということにすぎない。
では本物とは、より古いほうなのか、より新しいほうなのか、それともある形態がピークに達した完成品のことか。完成品であるとは、誰が決めるのか。たとえば、ウードで弾かれるアラビアの楽曲と、チターで弾かれる「第三の男」は、音色も曲風も違うだろうが、ウードはチターの前身である。ウードで「第三の男」を弾けば、たぶん印象は異なるだろうが、それで「ウードは本物ではない」ということにはならない。またたとえば、三味線の撥は、かつては象牙でつくられていたが、象牙が入手不可になってから樹脂製になった。それを使ったある名人は、象牙の撥とは手触りも手ごたえも音も違うが、これはこれで別の音であり、どっちが本物ということはない、といった。楽器には、かならず前身がある。猫の皮を張って象牙の撥ではじく三味線というのは、楽器の系譜の中で、特定の時空間に成立した、ごく特殊な形にすぎない。音色、曲風、風情などが、あれこれの曲趣によくマッチしている、ということはあるが、それ以上の永続的な権利を主張できるものではない。
大小の物品の複製が大量に出回り始めると、オリジナルとコピーの関係は、ますます身近な問題になる。ベンヤミンのノスタルジックな複製論から、ボードリヤールのシュミラークル論を経て、デジタル化、ネットワーク化の進展は、オリジナルとコピーの相互サイクルを加速させている。貨幣経済の長い歴史のせいで、最も現実的と思われてきた「現金」が、富を保証するオリジナルなのかどうか、電子マネーの普及や、金融商品の日常化によって、一般市民の実感でもあやふやになり始めている。これらはみな、オリジナルとコピーの関係の流動化と無関係ではない。
コピー商品、違法コピーなどは、商標や著作権を侵害する犯罪である。画家になるプロセスでは、名画を模写する練習がある。芸のプロセスで、摸倣は一般的である。作品を模倣するのではなく、コピーとして職業的に生産するのが、贋作画家である。普通の犯罪レベルで究極のコピーは「贋金造り」であろうが、政府や中央銀行発行の貨幣や紙幣も、主権に裏付けられた証書にすぎず、主権がどういう意味でオリジナルなのかは、別の問題である。偽造あるいは行使したときの罰則が、一般的な公文書偽造よりも重いということで、その効力がわかるだけである(私文書偽造はさらに罰則が軽い)。
音楽の話題に戻ろう。ハイファイという言葉は、録音技術が進むプロセスで出てきた商標であり、コピーの品質の高さを主張している。より生の音に近く、というのが、レコード会社や音響メーカーのスローガンになった。生の音とは、楽器や声による演奏のことである。しかし創作の現場、演奏の現場に身をおいてみれば、楽器や声による演奏が、必ずしもオリジナルとは思われていない。
バッハは、自分は天上から漏れ聞こえてくる音楽を楽譜に写し採っているだけだ、といった。霊感的な、つまり天性の詩人や音楽家は、異口同音に同じような述懐をしている。ブラームスは蝋管に録音された自分の演奏を聴いて、「生」の演奏よりも感動した。ノイズに埋もれたそのかすかな響きは、楽譜に記され、楽器で演奏される以前の、音楽家の魂に聴こえるオリジナルの音に、時として近いのではないだろうか。楽譜を読む趣味を持つ人、また記憶の中で音楽を響かせる人は、演奏家よりも作曲家に近く、したがって魂の音楽に近いものを経験する人である。魂の中で響く音にくらべれば、演奏会のがさつな音楽は、あまりに夾雑物が多い。
録音による音楽表現をめざした音楽家(ストコフスキーやグールド)は、「生」の音楽という幻想から自由だった。音に色や香りを加えたスクリャービンは、神智学の影響を受けて、音楽の霊的な意味が気になっていた。演奏会場でのクラシックなスタイル(燕尾服を着て、弦、管、打、そして鍵盤、その他の楽器を用いてという)にこだわった人々(ドレスアップして、可能な限り音響のバランスのいい場所で聞く)は、高々数百年のテンポラルな習慣を、そっくりそのまま、普遍的なものと思い込んでいたにすぎない。
オリジナルとコピーのこうした教訓は、霊的実在を念頭におく私たちに、つぎのような事柄を示唆する。オリジナルなものは、特定の形式や運動に嵌め込まれた表現ではなく、それを創り出す側にあり、特定の表現はどのようにでも表現が可能である、ということである。
この世のことはみな、より大事な何ごとかの影であり、暗示である。「印」といわれるものは、そのような影、暗示であり、それにはこの世を超えた世界につながる意味がある。最も素晴らしい音楽でさえも、不可聴の音の貧弱な残響にすぎない、最もすばらしい景色さえも、不可視の光景の影にすぎない、という述懐は、耳目に触れるものよりも、はるかに強烈な実在、「彼方なるもの」を予感する人々から発せられる。そのような人にとって、大聖堂の歴史的なオルガンと、おもちゃの楽器との違いは、ほとんどないに等しいだろう。
現世は「うつしよ」と読む。語源は「虚ろ」な世とも、「写し」の世ともいわれる。フェノメノン、ファントム、ファンタジー、イデアなどは、いずれも目に見える形を意味する。手触りの荒いものにせよ、微細な影のようなものにせよ、いずれにせよ見聞きされるものは、鈍重さの度合いに応じて、オリジナルから遠い。現世のものを、そのまま見聞きするのではなく、よりリアルな存在のコピーとして見聞きすること。現世にあっては、これがとりあえずの霊性を高めることにつながる。それ以上の究極を求めることは、低級な人間の身分では僭越なことになるだろう。

ボードレールとカルデック(2007年4月10日)

滝沢 遼

余話ではあるが、ボートレールはカルデックを読んでいた。
『哀れなベルギー』に、カルデックについて
「心情と精神とを満足させる宗教」と短いコメントがある(『ボードレール全集Ⅳ』378頁)。
晩年滞在していたベルギーへの悪態オンパレードの本に、1行だけぼそりと出てくる。口の悪い彼が、珍しくまっとうに言っているのは、本音が出たということなのだろう。
もっとも彼はスウェーデンボルグも読んでいたというから、霊的なことには興味があったようだ。あのいわゆる“退嬰的”な詩の世界と、霊界への想いが、彼の中でどう関係していたのか、興味が湧くところではある。

祖先祭祀への疑問(2007年2月21日)

柴田哲也

私は伝統破壊者を標榜するわけではない。文化的伝統には、おそらくわれわれが知り得ない叡智がしばしば内蔵されていて、それを壊してしまうととんでもないことになりかねない、ということも認める。だから、以下の物言いは、あくまで問題提起である。

私には親が2人いる。まあ、処女懐胎でもない限り、誰もがそうだ。死別・離婚・継親などで親と呼べる人の数がまちまちだというのはあるが、生物学的には誰もが2人の親から生まれている。
さて、祖父母は? 父親の両親と、母親の両親がいるから、4人である。
で、ひいじいさん、ひいばあさんは? 4人の祖父母にそれぞれ2人の親がいるから、8人である。
で……とやっていくとしつこいからやめる。要するに、「親」というのは、一代遡ると2倍になるわけだ。つまり2のn乗という格好で増えていく。3代前なら、2の3乗で8人、5代前なら2の5乗で32人。まあこのくらいなら驚かない。ところが、10代前となると、1024人、20代前になると、なんと104万8576人となる。1世代を約30年とすれば、600年前。そこに遡ると、私の祖先にあたる人は百万人もいる?
もちろんこれは数字のトリック。まったく重複がないと仮定した場合である。実際には、どうも何回も私の親の親の親の……になっている人がかなりたくさんいるはずだ(想像するとちょっと変な気分だが)。まあそれはともかく、祖先を遡れば遡るほど、その範囲、人数は厖大になることは確かだ。
で、われわれは祖先祭祀をするが、そこで祭るのは、たとえば10代前までの祖先だったら、その家長10人あるいはその妻を含めて20人。あとの1000人(延べ)はどこへ? 彼ら彼女らだって、私の祖先に変わりはないだろうに。20代前になったら、百万(延べ)の祖先たちになるわけで、いったいどうする?
要するに、祖先祭祀というのは、「家」の祭祀であって、祖先そのものを祭っているわけではない。女系の祖先は祭祀の対象にならない。古代以来の「家」イデオロギー――男系長子継承――なのである。
フェミニズムなら格好の批判対象とするところだ。別にそこまでの立場を取らなくても、私は、自分の母親の母親に、父親の父親に対してより少ない感謝を持つわけではない。祖先に感謝を捧げるなら、同じように感謝したいし、さらに遡っていけば、20代前で数字上は百万になるあまたの祖先たちにも、「何々家」に関係なく感謝したい。また、私は自分の娘の娘、次男の次男たちに、長男の長男より少なく愛情を持つわけではないから、長男の長男から祭祀は受けるが、娘の娘や次男の次男からは祭祀を受けないとする考え方は、あまりしっくり来ない。(家督相続の見返りに祭祀を捧げるという考え方が成り立たないではないだろうが、何かあまりに経済的見方がすぎるようにも思う。)

霊学的に見ると、祖先祭祀はいっそう曖昧なものになる。生まれ変わりの研究(前世想起催眠も含む)を見ていると、霊は、別に血統に関係なく生まれてくる(同じ部族や家族に生まれ変わることは稀にあるようだが、どうもそれは少数派のようだ)。私はかつてナミビアの部族民だったかもしれないし、ポリネシアの女性だったかもしれないし、その前にはルーマニアの盗賊だったかもしれない。で、私は親や祖先として誰を祭ればいいのか。
もっと言えば、そもそも霊は祭られなければならないのか。霊信や前世療法による中間世想起の報告などを見ていると、肉体を離れた魂は、地上にあまり思いを残さない。墓がきちんとしているかとか、遺族がちゃんと菩提を弔っているかなどと、気にする霊はいないのだ。恨みや執着があって「迷う」霊は、高級な霊が保護観察にあたり、しかるべきタイミングで救済に努めてくださる。遺族が死者に対してあまりに強い思いを抱くことは、逆に霊を地上に引き戻すのでよくないとも言われている。

親には感謝しなければならない。それを否定するほど私は人非人ではない。親の親にも、まあ、感謝はしなければならないだろう。でも、そのくらいでいいだろう。後は、むしろ、すべての人類や生物、そして何よりも神に感謝を捧げるのが筋ではないか。私は祖先祭祀をする気にはあまりなれないし、誰かに勧めたい気持ちにもならない。
日本の霊能者は、よく祖先祭祀を怠っているから霊障が出たというような言い方をする。そういうことが絶対ないとは言えないけれども、これもあんまり気持ちよくない。だいたい、自分の墓や位牌に水や供物を捧げないからと言って、自分の子供や孫や曾孫に、悪さをするような元人間がいるだろうか。いるとしたら、むしろ迷妄に囚われているのはその霊の方だろう。遺族に責任はなく、責任のない魂に無用の苦しみを与えるようなことを「神の法」は許さないだろう。霊能者は霊を叱りつけるべきではないか。
死者を弔い、敬うという心情は、人間の文化の基本だし、なくなっていいというものでもないだろう。しかし、「家」や親族へのあまりの執着は、もうやめにした方がいいのではなかろうか。

祖先祭祀にはもうひとつ、負の面がある。それは宗教者・組織の経済問題である。周知のように、仏教は戒名や法事といった祖先祭祀でしばしば不当な利益を得、それによって堕落している。神道は祖先祭祀を持たないために、いつも経済的に逼迫しており、それゆえに神道界にいい人材はなかなか入って来ない。少なからぬ霊能者は祖先の祟りを強調し、来談者を脅している。祖先祭祀が宗教を歪めているのである。
「日本の宗教教団は祖先祭祀を取り入れないと成功しない」と豪語する人もいる。まあ、経済的にはそうだろうが、逆に言えば、祖先祭祀が日本の宗教と信仰の真の成長を阻害しているとも言えるのではなかろうか。

みなさん、祖先祭祀を宗教組織に頼むのはもうやめませんか。やりたければ、人に頼まず、自分で祈ればよろしいでしょう(宗教者がする祈りは受け取るが、実の子孫がする祈りは受け取らないという祖先が果たしているのでしょうか)。そうすれば、既得権とそれへの羨望で凝り固まった日本の宗教界は、少しは反省するのではないでしょうか。

高次界体験はカルマを消除するか――投稿質問に寄せて(2007年1月1日)

高森光季
霊的体験と人格成長という投稿質問は、ちょうど小生も「霊と心」という問題を考えてみようとしているところだったので、刺激になりました。
「霊と心」というのは大問題なので、そのうちまとまった形で表現してみたいと思いますが、ここでは少し違った仕方の設問をしてみることにします。(敬体が煩わしいので以下常体で記す。)

少し違った仕方の設問とは、「高次界体験はカルマを消除するか」というものである。
たとえばヨーガでは、厳しい瞑想修行をしていくことで、アストラル次元、カラーナ次元、プルシャ次元といった高次な次元に昇り、自らの意識をそうした高次な意識に一致させることをめざす。そして高次の叡智と力を得た魂は、自らのカルマを消除し、輪廻から脱する。仏教も同様に、「さとり」(様々な段階があるとする見方とそうではないとする見方とがあるようだが)を開くことで、煩悩は消滅し、生の苦から離脱すると説く。(こういった考え方はインド的宗教思惟の特徴で、現世は迷妄ないし悪であり、魂は自力で自らを高め、一刻も早くそれを脱するべきだという思いがその根底にはある。)
高次の叡智を得ることで低次の我欲・煩悩は消除される。それは言われてみればありそうなことだし、理想として求めるべきもののようにも思える。だが、ここで少し「待てよ」と思う。
高次の次元は高次の秩序がある。高次であればあるほど複雑で精妙な秩序が。それはわれわれの通常の認識力や理性では、捉えられないものである。何度も生まれ変わりをして高度な精神性・知性を身につけた魂ならいざ知らず、私のような凡人がカラーナ次元やプルシャ次元を体験しても、まったく歯が立たないだろう。幼稚園生が大学の授業に参加しても、ちんぷんかんぷんでしかないのと同じである。その把握は歪んだものとなり、へたをすればとんでもない解釈をひねくり出したりしてしまうだろう。(スピリチュアリズムが脱魂型他界訪問の情報を重視しないのは一つにはこういう理由がある。)
人間の魂の中には高度な霊性が秘められている(あるいは本質的な自己はそういう世界に開かれつながっている)から、そういうことは可能だという考え方もある。だが、脆く粗雑な容器に熔けた鉄を入れたらどういうことになるか。(無節操な無意識掘削が狂気をもたらすケースもある。)
従って、地上に生きる魂にとっては、地上を超えた秩序があることを知り、すぐ上の世界がどのようなものであるかをおぼろげに思い描き、それを励みとして地上の課題に取り組むことが、望ましいことなのではなかろうか。
それに、そもそも我欲や煩悩は、修行によって一挙に消除してしまうべきものなのだろうか。われわれが抱えている我欲や煩悩は、それぞれの魂に課された宿題・課題(それを広い意味でカルマと表現してもいいだろう)であり、それらと悪戦苦闘しつつ、一つ一つ問題をクリアし、より豊かな自己になっていくことが、この世に生きる魂の修行なのではなかろうか。高次の世界と何とかコンタクトをつけて、その過程を免除してもらうというのは、ひょっとすると「ズル」ではなかろうか。幼稚園生が何回か大学の講義を聴いて、ノートをつけたからといって、小学・中学・高校が免除されるものだろうか。
インペレーターの霊訓には次のようにある。
「本性は魔法の杖にて一度に変えるというわけにはいかぬものなのである。性癖というものは徐々に改められ、一歩一歩向上するものなのである。」
魂は、それぞれのレベルの一歩だけ上を見ていればいい。自分が成長していけば、その成長に見合った「高いもの」が受け入れられるようになる。自分の器も知らずに、高次体験や超能力や高度な霊的知識を求めたりしても無意味だし、そういったものを獲得したと自称してみじめな器をさらしているのは愚かである。
(なお高森研究室の「救いとは何か?」に記した「覚我」論も参照されたい。)

投稿質問に便乗して宗教嫌いからの一言(2007年1月1日)

柴田哲也
いささか言いにくい、非難囂々になるかもしれないことを言いたい。
私は宗教が(組織になった宗教が)嫌いです。
その一。今の時代、宗教はいささか白眼視されています。唯物論による教育のせいで、知性的な人たちからは、宗教はまともな人間が近寄る分野ではないとさえ思われているようです。そういったことがあるせいで、宗教組織に集まってくる人たちの知性的レベルは、あまり高いものではないように見受けられます(言わずもがなですが知性と「偏差値」や知識とは違います。知性は自己省察力も含むものです)。知性的でない人たちはしばしば人を唖然とさせるような言動をします。それによって宗教の白眼視はさらにひどくなり、悪循環になります。
その二。宗教教団の場は、しばしば、現世への不満を抱えた人、不安や劣等感を抱えた人の、慰撫の集まりとなりがちです。そして、しばしば、通常の社会では満たされなかった欲望を変な形で満たしたり、不安や劣等感から依存や派閥形成や集団抗争が行なわれたりする、どろどろとした場所になってしまうのです。
その三。そもそも霊的探究運動が組織になることは、矛盾を孕んだものであり、危険なものです。固定化・絶対化された教義や、画一化された戒律の確立は、本来それぞれのレベルや情況においてなされなければならない霊的探究自体を窒息させます。組織につきものの、権力争い、派閥争いが、霊への道を阻害します。組織になった宗教は、ほとんど害悪ではないかと思います。
その四。多くの宗教は、「お手軽」な道を供給します。「懺悔」や「祈祷・祈願」や「儀礼」や「まじない物・霊的グッズ」や「簡単なエクササイズ」で、高い霊との交流や霊的成長がなされると説いているのです。そうしないと人が集まらないし、組織としてやっていけないからです。「お手軽な道」は当然、真の霊的探究を阻害します。
それに対し、スピリチュアリズムは宗教ではないと私は思っています。スピリチュアリズムには知性が(おそらくは相当高度な知性が)要求されます。個人の営みが主体となるので、組織による弊害もありません。固定化・絶対化・画一化された教義や戒律もありません。「お手軽な道」もありません。それが求めるのは、まったく人道的・人格的な生き方(これこそ難しい!)であり、怪しげな高次体験や霊能力の追求ではありません。狂信的・没我的な信仰も否定されます。そのようなスピリチュアリズムのあり方は、宗教を嫌っている私にとっては救いです。
いっそ、物質主義がもっと熾烈になって、一切の宗教が一度消滅した方がいいのかもしれないとさえ思います。そして、理性的・客観的な霊的知識・情報に基づいた、「高度な存在への道」が新たに作られればいいなと思います。私がスピリチュアリズムに期待しているのはそういう点なのです。

投稿質問への一つのレスポンス(2006年12月30日)

滝沢 遼
なかなか耳のご痛い指摘だと思います。
様々な問題が絡み合った、難題だと思いますが、まず、はっきりしていることから。
霊的体験や霊能を、自己愛から――権力欲、名誉欲、異性支配欲、金銭欲などのいわゆる我欲から――求めようとする人は、人格的成長・霊的成長は望めないでしょう。そうした人たちの霊的体験や霊能は、詐称であったり、いたずら霊の釣り餌であったり、我欲の渦巻く低次の霊界のものであったりするために、結局は自らを傷つけることになるでしょう。(「人生の成功」や「未知の才能の開花」や「スーパーな私」を求めるニューエイジは、この点で非常に危ういと思います。)
また、当初は純粋な意図から出発しても、お金が入ったり名声が広まったりするにつれて、我欲が刺激されて、上記と同様なことになるケースもあるでしょう。
以上は、様々な霊信も教えている、わかりやすい事例でしょうが、もう少し微妙な問題もあると思います。私の経験や見聞から、いくつか心理的な側面での問題点を挙げてみます。
まず、宗教的体験が、しばしば「自我肥大」を引き起こすということがあります。宗教的体験のもたらす、自己肯定感、現実超越感、万能感、そして稀に他者や事物への影響力の増大は、当然、一時的に自我肥大をもたらすはずです。これはある意味で人間の心の必然で、致し方ないところです。宗教は伝統的に「戒」を設け、修行と平行的に自己抑制を課し、階梯が進めば進むほどより厳しい自己統御をしなければならないようにしてきました。これは、宗教的体験がもたらす自我肥大を充分知悉し、警戒していたからだと思います。そういった智恵なしに、自我肥大に陥ると、それまでは統御できていた自我の様々な欲望や執着が、一挙に強大化して噴出することがあります。以前は何とか抑制できていた名誉欲や異性への欲望などが、思わぬ形で復活し、「なぜあの人が」と言われるような行動が引き起こされたりするわけです。
高度な霊的体験――「さとり」や高次の霊界体験――をすれば我欲が消尽するというのは、実際にはほとんどあり得ない究極の理想形表現であって、「高度」でなければしばしばその逆も起こりうるということは、注目されるべきことかもしれません。また、「戒」というものも、「文化的禁忌」「身体的潔斎」といったものではなく、そうした心理的予防措置も果たす、良き智恵として見直すべきでしょう。
もう一つ、やはり心理的な問題ですが、宗教などの「理想」への自己滅却的同一化においては、人間の個人意識は集合的意識へと同一化し、それにつれて「無意識性が高まる」と言われます(E・ノイマン)。難しい説明ですが、平たく言えば、「群集心理」みたいなものをイメージしていただければいいかもしれません。たとえば、私が「愛国者」という理想に、熱狂的に同一化していくと、私自身の個人的意識は影が薄くなり(お腹がすいても疲れていても理想的行動に邁進するとか)、それにつれて、私の無意識の部分が頭をもたげてくるわけです。それが、攻撃性であったり、猛烈な支配欲であったり、嗜虐性であったりすると(そうした負の欲求は意識から排除される、つまり無意識化されることが多い)、「理想の名のもとに平然と人を殺す」といったことまで起こります。歴史上の宗教戦争や共産主義イデオロギーによって、最も残虐な殺戮が起こってきたのは、一つにはこうした理由からです。「一人一人は普通の人」なのに、理想を掲げる集団になると、通常の人間意識では考えられないような行動が生まれるわけです。
ですから、「我を滅却し、神の僕となる」というのは、客観的存在様態としてそういうことが実現できれば素晴らしいことですが、主観心理的にそう思うことは、かなり危険を孕むものだと思えます。人間は、自己認識においても、行動主体としても、あくまで個人(特に個人という相対性)にとどまるべきだと私は思います。そして、良き宗教者とは、きちんと個人として振る舞い、個人の限界や相対性を知っているものだと思います。
以上は、「宗教や霊的体験と、人間性というか人格(もっと言えば霊的成長)との間に、口を開いている亀裂のようなもの」をめぐる問題の、ほんの一部についての、しかも私的な感想に過ぎないものですが、ともあれ、宗教や霊的体験には、こうした心理的問題もついて回るということ、そして人格や霊魂の成長のためには、同時的に心理的な次元での営みもきちんと捉えなければならない(たとえば深い内省や自主的な「戒」[一種の行動療法?]などを試みるとか)ということは、確かなのではないでしょうか。
舌足らずのものですが、とりあえずのレスポンスとして、提出させていただきたいと思います。

<投稿質問>霊的体験は本当に人格を高めるのか(2006年12月28日)
*当会宛てに読者から以下のような質問メールが来ましたので、主文を掲載します。
私はこれまで宗教やスピリチュアリズムについて、ほんの少しばかり勉強してきました。もちろん専門家ではなく、仕事の傍らにかじってきた程度の者です。そして、高次の霊や霊界の存在も、祈りや瞑想や信仰の意義も、未熟ながら受け入れています。ただ、その中で、どうもモヤモヤとした感じを抱いていることがあります。うまく表現できるか心許ないのですが、ちょっとそのことについて書いてみます。
それは、霊的な(宗教的な)もの――高次の霊界体験とか、霊能とか、霊的真理の把握とか――と、人の人格とは、どう関係しているのか、というようなことです。
たとえば、私の知っているある人は、トランスパーソナル心理学の熱烈な信奉者で、たくさんの本を読み、ワークなどもして、「人間の自我は諸悪の根源だ」みたいなことをいつも言っているのですが、どうもその人自身は、自己顕示欲や権力欲が強くて、辟易してしまうのです。
またある神道系の宗教者の方は、たくさん修行もして、霊能も身についたし、高次の霊界に行ったこともあるとおっしゃっているのですが、ご当人は、お金にすごく執着し、門下の人たちを大切にせず、時には人種差別・性差別的発言までされるのです。
さらに、私の知っているあるスピリチュアリストは、この方もとても熱烈な信仰者で、「私は神の道具になる」とおっしゃっているのですが、その方の発言はすごく断定的で、お説教調で、他の宗教者や超常現象研究者のことを延々と批判・攻撃します。
まあ、他にも、ニューエイジ好きで、「霊的目覚め」というのが大好きな人たちが、どうにもエキセントリックに、というより非常識に振る舞ったり、信仰者の集まりに来ている人たちが、派閥争いをして悪口を言い合ったり、と、こういった例は枚挙に暇がないというような気がします。
いろいろとそんな経験をして、私の心には、いささか絶望的な気分とともに、ひとつの問いが湧いてきてやまないのです。それは、「霊的体験――霊界体験や、霊能や、霊的認識などをすべてひっくるめてこう表現しておきます――をしても、必ずしも人格が高まるわけではないのだとしたら、いったいそれは何なのだろう」という、少し破壊的な問いです。
もちろん、そういう人たちの「霊的体験」は「本物」ではなかった、と考えることもできるかもしれません。「霊界にちょっと触れただけだ」「低次の霊能だった」「頭だけの知識だった」と、言えるのかもしれません。でも、そういってしまうと、何か問題の本質が見えなくなってしまうような気もします。
宗教者が戦争をしたり、自称解脱者が無差別殺人をしたり、霊能者が詐欺的商売をしたり、「さとった」僧侶が自殺したり、霊媒が、当初は優秀だったのが、もてはやされテレビに出たりしているうちに、堕落したり……
もちろん、人格的に優れた宗教者もいるでしょう。でも、ひょっとしたら、宗教関係者の中に占める人格者の割合は、全然宗教を知らない人たちの中に占める人格者の割合と、あまり変わらない、などということもあるのではないでしょうか。
ここには、何かきちんと解明されていない謎がないでしょうか。宗教や霊的体験と、人間性というか人格(もっと言えば霊的成長)との間に、口を開いている亀裂のようなものが。
「人のことはいいから、自分がそうならないように気をつけなさい」と言われそうな気もします。こういうことは、それぞれが深く自省する以外ないのかもしれません。でも、その「自省」を促すための手段を明確にすることこそ、宗教や霊学や信仰の、一つの(ひょっとしたら一番大切な)役割ではないでしょうか。
うまく言いたいことが伝わったかどうか、自信がありませんが、TSLのスピリチュアリストの方々がどうお考えになるか、お聞かせいただければ幸いです。

<コラム>いじめと自殺――「出口なし」という錯覚(2006年12月24日)

日守麟伍(HIMORI, Ringo)
今年(2006年)後半の日本社会では、学校を舞台に、いじめによる子供たちの自殺の連鎖が起きた。いじめにくわえて、高校の必修科目未履修問題を原因とする教師の自殺もあった。学校にかぎらず、働き盛りのとくに中高年男性も数万人というスケールで自殺に追い込まれている。生徒を自殺に追い込む学校という空間は、閉塞した社会の雛形である。
あらゆる問題がそうであるように、学校のいじめと自殺という問題も、一つ二つの原因ではなく、遠近、直間の多くの原因の重なりから起きている。しかもそれらの原因は、あらゆる問題に影響している。つまり、多くの原因が交錯して、相互に因となり果となって、多くの問題を起こしている。したがって、あれこれの一つの問題を考えることは、ほとんどすべての問題を考えることにつながる。
一つのエピソードからはじめよう。私の存じ上げていたある小柄な先生は、子供の頃ずっといじめられていたそうである。ある時ついに堪忍袋の緒が切れて、親分格の男子に馬乗りになってこぶし大の石で頭を殴り続けた。手加減しないと死ぬかもしれないとも思ったが、それでもいい、殺してやろうと思って、力いっぱい殴り続けた。幸いなことにいじめっ子は死ななかったし、それからは誰もいじめなくなったという。
何十年も前に聞いたこの話を、今でも印象深く覚えているのは、綺麗事ではなくぎりぎりの対応をしなければ子供の喧嘩も解決できないのだと納得したからだった。私は、もちろん嫌な目にはいろいろ会ったが、いじめられた経験はない。嫌な目に会わせたことはあるかもしれないが、いじめた経験もない。というのは、いじめるほどの攻撃性もなく、人が悲しそうにしていると赤の他人でも気の毒になるからである。
ただ、もし自分や家族がいじめや嫌がらせに会って、警察や法律やその他、人間が人工的につくった制度が保護してくれないときは、私もこの先生と同じことをする覚悟があると、こういう報道を見聞きするたびに思う。それは仕返しのためというよりも、現代日本社会は「善意の」人間を守る上で大きな法的不備があることを、出るところへ出て訴えるためである。だから、教育の所轄官庁の大臣宛に自殺予告の手紙がつぎつぎに送られてきたのは、まさにあの頃の私と同じ考えをもった子供だとわかる。
11月のはじめになって、小学生高学年か中学生が書いた自殺予告と思われる匿名の手紙が所轄大臣宛に送られて、文部科学省は深夜に記者会見をする騒ぎになった。報道された手紙の内容によれば、差出人の親が学校や教育委員会に相談したが、学校や教育委員会は積極的な対応をしなかった。この手紙を書いた少年は、学校・教育委員会・文部科学省という制度、そこで働く教員、教育委員、文部科学官僚の全体に対して、いわば自分の命を人質にして、本来の職務を果たすよう要求していた。そうでもしなければ、「学校も教育委員会も」、自己保身が先に立って、生徒を守らないからである。ソクラテスの例をみるまでもなく、裁判やマスコミ報道は、個人の考えを世に広く聞かせるための、恰好の舞台である。ある作家あがりの政治家が、今時の中学生にあんな文章は書けない、あれは大人の偽造だ、と断言していたが、少しものを考える子供なら、あれくらい小学生でも書けるだろうと、私は思う。
少年は、報道された他校の教員や教育委員の対応をみて、保身のための弁解でしかないと見透かして、落胆しているようである。同じようなレベルの関係者が、口を揃えて「命を大切に」と呼びかけても、大人の了見を見透かしている少年には、保身のための呼びかけにしか聞こえないだろう。私などが見ていても、生徒が「あの人が呼びかけてくれるから、生きていこう」と思わせるほどの魅力をもった教育者は、一人もない。自分が同じ年代であったころから想像して、あのような言い方を聞かされれば、かえって生きる力が失せてしまうだろう。職業的な教師は、職を守るのが第一の目的なので、子供に見透かされるような保身しかできない。「金八先生」というキャラクターや、「夜回り先生」のような古風な人格が、今でも少年少女に人気があるのは、人に教えるという熱意、幸せに育てるという善意が、前面に出ているからである。
子供の世界が大人の世界と変わらず残酷であることは、少し智恵があればわかることである。大事は小事のように、小事は大事のように考え、対処するというのが、よりよい智恵の本である。子供の世界の「いじめ」の過酷さは、大人の世界の恐喝・強要・暴行と変わらない。治安や刑罰が行き届かない時代や世界では、自衛、私闘、敵討ちが、一方的な攻撃を防いでいた。大人の世界では、刑事・民事のトラブルは公的な裁きを期待できるが、子供の世界では、「教育的配慮」により、それができないようになっている。「少年法」も同様だが、「加害者」として対応することに、関係者のためらいがあるからである。これは一種の前近代的なアウトローの世界に他ならず、この意味で、現代の学校でのいじめの深刻さは、一般社会のそれをはるかに超えている。
人権思想の発達が犯罪一般への処罰を軽くしている。「決闘」や「敵討ち」が非合法化されたのは、世界でも日本でも、せいぜい一、二世紀前のことである。戦争ですら、「先制攻撃」はよほどの理由があっても、国際社会の理解は得られなくなった。正当防衛という主張は、よほどの条件を満たさないかぎり、過剰防衛と断罪されるおそれがある。戦略上の「専守防衛」というスローガンは、この風潮と無関係ではない。「信賞必罰」の曖昧さという、戦後日本で目立つようになった特徴が、これらを決定的にしている。つまり、狡賢い小役人や、姑息な犯罪者が甘い汁(どぶ川の甘さにすぎないが)を吸える世界になっているのである。人間社会とは多かれ少なかれそういうもので、文明の爛熟期にこの手の寄生虫が蔓延するのは、法則といってよい。「目には目、歯には歯」は、復讐の原理ではなく、そうした社会における公正の原理である。「パンをとったら死刑」という過酷な裁きが公正ではなかったのと同様、「殺人は保護観察に」という褒章的な裁きも公正とは言い難い。
ところで、「死ぬくらいなら、学校に行くのを止めなさい」という意見が、あちこちから出るようになったのは、ここ数年の社会意識の進歩であろう。学校は命を賭してまで行くべき空間ではない、「義務」教育への登校を拒否できる、という考えは、数年前の日本では目立たなかった。この意識の変化は、どう説明できるだろうか。
かつてナチズムの蛮行が暴かれてゆく過程で、「善良」な市民が、官僚や軍人として空前の非人間的な業務をこなしていたことが、世界にショックを与えた。これを説明するために、原理的なプロセスが実験室で再現された。被験者に依頼する際、「これは実験である」「指示を拒否できる」「実験室をいつでも出る権利がある」と告げられるが、閉鎖された空間で「これをやらなければならない」「出ることは許されない」と権威主義的に言われ続けると、被験者はそれに従うようになるという。これはいわば「密室の恐怖」である。
社会が契約によって成立したかどうかはともかく、中央政府をはじめとする機関・制度は、憲法その他の契約によって成り立っているものであり、契約とは、定義からいって双務的である。つまり、一方的な強制や服従ではない。学習塾や家庭教師を例にとれば、話は最もわかりやすいだろう。子供の教育を請け負った教師は専制君主ではないが、ときとして教室や子供部屋は、目的のための手段の域を超えて、専制主義の恐怖の密室となる。
あらゆる機関・制度が「密室の恐怖」化するのは、ルーティンワーク化によって当初の目的が見えなくなり、機関・制度そのものが自己目的化し、自明化するからである。ことは教育にかぎらず、人間の営みはマニュアル化、ルーティンワーク化したとたんに、「時計仕掛けのオレンジ」のように非人間的なものになる。それは安全で安定するという意味で、人間を楽にするが、楽な自動化に慣れれば慣れるほど、万一トラブルが生じたときに適切に対処できないようになる。そしてトラブルは、万一ではなく必ず生じるゆえに、ルーティンワーク化した世界は「死に至る病」の道を辿らざるを得ない。大は「文明の興亡」から小は「生活習慣病」まで、原理は同じである。教育や研究は、目隠しをされた馬車馬のような公僕や御用学者や政治屋、それを反転するだけの反体制批評家が考えているような、マニュアル化できるものではない。それは、芸術や宗教の「極意」がマニュアル化できないのと、少しばかり似ている。
卑近な話に戻れば、必修科目の未履修問題について、受験優先の高校への批判、虚偽の成績表を出していたことへの批判、受験科目の偏りによってそれを助長した大学側の責任、などが取りざたされている一方、必修化そのものが、かつて特定のグループの圧力によって強行されたことの批判もみられた。議論を続ければ、教育課程やカリキュラムの妥当性、学習指導要領などという形で政府が一律な縛りをかけることの是非、教育内容の規制緩和・自由化、「義務」教育の見直し、なども出てくるだろう(出てこなくても、すくなくともこのコラムで出た)。
時・空間的な意味で規模の大きな話をすれば、諸文化は存続のために、試行錯誤しながら機関・制度を作っていく。そのシステムが、地理的その他の諸条件に合致して、効率的になってくれば、文明の段階に達する。幸運が重なってピークを迎えた文明は、文明を作り上げた人間と同じような覚醒は必要としなくなり、覚醒水準が低下し、随所でルーティンワーク化が始まる。「先進国病」といわれるものは、人類史的にいえば、文明末期症状の一種にほかならない。
以上、霊的な事柄に言及せず、個人的な感想を綴ってきたが、もしもスピリチュアリズムの平均的な思想が普及し、教育機関のオプションとして、その世界観を教える学校ができれば、子供の(そして保護者の)選択は、自由度を増すだろう。シュタイナー学校という、オカルト思想を説いた人物の創始した教育機関が市民権を得ているくらいだから、このビジョンはまんざらの夢物語でもない。
密室化した学校におけるいじめの問題に、スピリチュアリズムが提供する大きな救いは、そんな空間に閉じ込められている必要はない、という福音である。学校に限らず、いかなる領域や空間であれ、そこが生きるべき場所のすべてではない。私たちはこの世に住んでいるうちに、「出口なし」という錯覚を埋め込まれてしまう。地上の文明文化は、大小取り混ぜて、古来より興亡しているが、文明文化の中にいる多くの人間たちは、そこで生まれそこで死ぬので、自分の生活した社会が自明の世界であると思い込んでいる。というより、そのことにも気づかないくらい、生まれ死ぬ社会は自明のものとなっている。「私の王国はこの世のものではない」「神の国にはたくさんの住まいがある」という言葉がリアルにわかれば、この世は「出口なし」の密室どころか、穴だらけ、隙間だらけのアバラ家である。
「人にしたことは自分に返ってくる」という倫理観は、教育関係者が力なく訴える「自分と相手の命を大切にしよう」という道徳と比べて、はるかにダイレクトである。「人にしてほしいことを相手にせよ」という新約聖書の教えが押し付けがましいならば、「人にしてほしくないことは相手にするな」という論語の教えがある。実はどちらも同じである。なぜかというと、人にしたことは自分に返ってくるから、もっと短絡させれば、人にしたことは自分にしたことに他ならないからである。「その人にしたのは、私にしたのだ」という言葉は、この意味である。
子供がこの文章を読むことはないだろうから、子供の周囲の大人、とくに親たちに向けて書いておくならば、こういう霊的智恵なしに子供に相対するのは、地図なしに見知らぬ土地を案内するようなものである。本人が迷うだけならよいが、子供をその道連れにしては、親として失格である。子供のためを心から思う親ならば、少なくとも正しい知識を求めて、学びつづけなれければならないだろう。

生まれ変わり問題の難しさ――ある質問への回答(2006年12月17日)

高森光季

本ホームページ宛てに「マイヤーズ通信を読むと類魂に入る資格がない人などは何度か生まれ変わることになると言っているように感じるのですが、江原氏らは、生まれ変わるのは分霊で、当人の個性は霊界に残るとしていて、説明に微妙な差異があるように思うがどのように考えたらよいでしょう」という質問が来て、返信をしたためることになった。生まれ変わりの問題は、神秘的で難解だが、重要な主題でもあるので、少し長々しく、整理されていない文章だが、ご参考までにここに再録する。

《ご質問の件は、「私とは何か」という非常に中核的で重要な問いを投げかける、重要なポイントだと思います。それだけに単純には説明しきれないところでもあります。
そもそも再生、生まれ変わりの問題は、「人間の知性では理解できない」とシルバーバーチは述べています。マイヤーズ通信も、ある種、理解できないものを何とか素描しようと苦心しているようです。初期のスピリチュアリズムでは再生はないとさえ言われていたくらいで、この件については、様々な説明があり、おそらくそのどれもが、全面的な間違いではなく、また全面的な真実でもないというところなのではないかと思われます。

「類魂に入る資格がない人」というのは少し語弊がある表現と思われます。すべての魂は、ある大きなスピリットの分魂として生まれますから、そもそも「類魂の一員」であると言えます。ただし現在の地上に普通に生きている時には、類魂ということに気づきませんし、また、死して後も、自己に囚われている魂、自殺や重犯罪を犯して霊的な目が閉ざされている魂は、類魂の存在に気づかないでしょう。しかし、それでも守護霊は見守り、類魂はどこかでその魂のことを知っているはずです。
類魂の存在に気づくというのが、死後のどのステージでのことなのかははっきりしません。「類魂」という概念のレベルもいろいろだと思われます。近年の「前世・中間世想起催眠」のケース報告などを見ると、低次の意味での「仲間の魂」に出会うのは、死後のほとんどの魂が体験できるものだと思われます。しかし、それは、仲間の魂の存在を知るだけで、霊的学びとしてまだ現実的な体験、自己の直接的体験を求めなければならない魂は、比較的すぐに再生することを選択するようです。これをマイヤーズ通信は、「動物的な人」と表現したのではないでしょうか。その段階を超えると、次第に、仲間の魂の存在だけではなく、その知的体験や感情的体験を共感でき、自らのものとできるような「精神的共感力」を持つようになり、こうした「魂的な人」の「私」は、多面的になり、「動物的な人」のような「全的な生まれ変わり」をする必要はなくなると思われます。

シルバーバーチは、「生まれ変わりはある」と言いながらも、別のところでは「人の自己とはダイヤモンドのような多面体であり、その一つ一つが相次いでこの世に誕生するのであって、今のあなたは再び地上に来ることはない、つまり一般的に考えられているような生まれ変わりはない」と言っています。この際の「自己」とは、私を超えた高度な自己、むしろ様々な「私」を統合する「本霊」としての私というニュアンスに取れます。
マイヤーズ通信が、「全再生」と「部分再生」というように分けて説明したのは、このような魂のレベルによる生まれ変わりの違いを、何とか表現したものだと思われます。
もうひとつの、「死んだら本人の個性はあの世に類魂の一員として永遠に残ることになり、その分霊が生まれ変わってくる」という考えは、上記のバーチの説明の言い換えなのかもしれません(江原氏がどこからその情報を得たのかはわかりませんので、はっきりしたことは言えませんが)。あるいは、マイケル・ニュートンの前世・中間世想起者の報告によれば、「魂は、生まれ変わる時、その一部(「エネルギーの一部分」)を霊界に残していく」とも言われています。
スピリチュアリズムの他の霊信でも、「あなたは今この世にいると同時にあの世にもいるのです」ということが言われますが、これは、そのことを言っているのかもしれません。つまり、「私」というのは分割可能であって、魂は自らを分割してこの世とあの世に、同時に存在しているというのです。「死んだ人が生まれ変わりをしていても、私が向こうに行った時に再会できますか」と問う人に、霊が「できます」と答えるのは、また、浅野先生が、霊媒を通して死者の魂を召還する試みをして、「応答がなかった例はごくまれな例外を除いて存在しなかった。従って再生は部分的であり、全的再生はない」と考えたのも、このような仕組みに基づくものと思われます。
「私」が分割できるというのは、通常のわれわれの知性では思考不可能なものです。私とは、分割できない唯一の主体、ここにしか存在しないもの、と普通は考えるからです。ところが、様々な情報からわかることは「私は分割できる」ということなのです。さらに驚くべきことに、ニュートンの報告例では、「自分を二つに分割して、同じ時期に二つの生を生きた経験を持つ魂も存在する」とされています。

非常に煩瑣な説明になりましたが、つまるところ、生まれ変わり問題は、「私とは何か」という問題を、改めて全面的に考え直すことを迫る、きわめて重要な霊的主題です。「誰が生まれ変わるのか」「ある時代のある人生を生きた私と今の私とは、本当に同一の私なのか」といった、深い謎がそこには口を開いています。「私」をこの世的な、狭い限界内の(他者の経験は共有できない)私だとするなら、「生まれ変わりはない」と極論することさえできます。その私は前世の記憶も想起できず、また次世でも現世のことは想起できないでしょうから、私は今生限りの存在でしょう。霊界に残した自己ともつながりを持たないでしょう。
しかし、私とは、現在の意識――きわめて狭い視野しか持たず、脆弱で、伸展性のない知覚点――ではなく、もっと大きな広がりをもったものと考えるなら(ただしそのことを理解するのは現在の私の意識や知性にとっては難題でしょうが)、私はこの世にもあの世にもあり、またいくつもの生を生きた(生きている)私がおり、さらには類魂もより高度の視点で見れば私の分身であるという見方さえも、生まれてくると思われます(様々な宗教哲学で言われている「多即一、一即多」という神秘的・非論理的命題はこのことを表現しているのかもしれません)。そしてこのような「私」を知り、自己意識としてもそのような全的・霊的な私になっていくのが、霊的な学びの要諦なのかもしれません。
このように考えていくと、「あまり成熟していない魂は何度も全的に生まれ変わる」という説明も、「個性はあの世に残り続ける」という説明も、いずれも間違いではないということになるのではないでしょうか。生まれ変わりは、というより魂のありようは、なかなか現世の知性では捉えきれない、神秘なもののようです。
お答えになったかどうかはわかりませんが、ご参考にしていただければ幸いです。》

<コラム>臓器移植事件に思う――医療技術の過剰(2006年11月8日)

日守 麟伍(HIMORI, Ringo)

最近、臓器移植に関する医療現場の事件が、連日マスコミで報道されている。かねてから危惧されていた臓器売買に近いこともあったようであるが、それよりも、病気で摘出した臓器を別の患者に移植するという、常識では考えられない事態に、所轄官庁の大臣が「異常」とコメントするなど、成り行きは怪奇である。「人は病院で産まれ、病院で死ぬ」といわれるように、人間にまつわる二大神秘が現代は病院を舞台に起こるので、他のあらゆるミステリアスな事件が病院で起こっても不思議ではない。
日本では臓器移植の実施例が、他国と比べきわめて少ない。背景として、最初の心臓移植がスキャンダル化したこと、医療全体への不信、それ以前に、生命観・身体観が臓器移植医療にネガティヴであること、などが指摘される。理由はともかく、臓器移植のために海外に出て行く例も多く、とくに患者が子供のケースは、しばしば人道的ケースとして報道され、そのための募金も定番化した話題といってよい。
科学技術の発達により、あらゆる分野で、奇跡のようなことが可能になってきた。産業革命以後は、そういう驚きの連続だったといってよいが、現在は「神の領域」といわれた生命科学の領域で、移植医療、生殖医療などが日常的に行われ、実験段階では未知の操作が行われようとしているようである。そしてそれらは、自足的な智恵にとっては、しばしば「過剰」と思われている。
すでに周知の臓器移植、生殖医療、遺伝子治療について、賛否の論点を整理すれば、倫理的な一定の基準を定めて可能な医療行為を進めるのは正当である、国際的な基準からしてもそうすべきだ、という推進派の立場と、生命の道具化と医療の経済化の恐れある行為は制限されるべきであるという慎重派、また提供を受ける側(レシピエント)の事情のみが考慮され与える側(ドナー)の事情が抑圧されるという人権派、そこまでして生きたくはないという個人的感情、等々の反対派の立場がある。筆者はあらゆる理由で、後者に属している。目新しくもないが、推進派も繰り返し賛成意見を出すので、反対派としても繰り返し反論を述べておこう。(1)社会経済的な理由、(2)人間科学的な理由、(3)霊的な理由の三つにわけて論じる。
(1)臓器や生殖細胞をものとして扱う道具化、それらが稀少資源であるゆえの高額での売買、高度技術であるゆえの高額な医療費、これらがあいまって、富裕層による貧困層の人身売買の回路を開くだろうという危惧は、当初から大きかった。また、レシピエント側の希望が最大限に配慮され、市民の善意に訴えて、一人の命を救うためという理由で、億単位の募金が集められることもある。それほどの高額医療は実験的なものであって、したがって成功率・生存率が低い(つまり手術は成功しても、患者は長くは生存しない)こと、その金額で他の多くの命が容易に助けられること、などを考えれば、この募金の有効性、正当性にも少なからぬ疑いがある。そうした象徴的な募金活動、医療活動は、下水管に閉じ込められた一匹の子猫を助けるために多くの人材と機材が投入される救出劇と、よく似ている。ヒューマニズム(アニマリズム?)を高揚するためのパフォーマンスとしての効果は、期待してよいが、しかしその背後で、如何に多くの非人道的な行為が隠蔽されているか、そこまでいかずとも、如何に利己的な欲望がまかりとおっているか、多少とも敏感な人々は感じ取るだろう。ここで起こっているのは(労働力が資本によって搾取されるというマルクスの洞察を延長すれば)、身体と生命が資本によって搾取されるという、カニバリズムにも等しい非人道的な出来事である。臓器移植のための募金活動に対して、市民からの批判が集中したエピソードは――いくつかの条件が重なってのことだが――この違和感の発露である。
(2)人間科学の観点からいえば、高度医療、高額医療、先端医療はかなり実験的であり、未完成であるゆえに、コストパフォーマンス(費用対効果比)が悪く、したがって生活のユニバーサル・デザインには馴染まない。技術的に可能であっても、社会的に抵抗があるということは、実用化にそぐわないことの指標である。実用化されたものであっても、ある人に「過剰」と判断されるものは、その人にとっては不要な技術である。
命を助けるためにできることは何でもしたいというのは、医療にたずさわる者の自然な感情である。そのような自発的な救命の衝動なしに、医療は単なる技術の売り買いになってしまう。職業意識を過剰にもっていることは、むしろ望まれるべきことでもある。ものには余剰が必要であり、ぎりぎりでは足りなくなることが多いからである。たとえば、生物の生殖細胞は無数だが、それが次世代の成体にまで成長するのは、おどろくべく低い確率である。それほどの過剰で備えなければ、自然界での目的は達せられないからである。
しかし一般に、過剰にそなわったものをそのまま出しっぱなしにすることは、よい結果をもたらさない。「水は必要だが、多すぎる水は洪水となる」とは、広く知られた智恵である。可能なことは何でも実行するということは、倫理的な一時停止、方向転換が効かないことを意味しており、ブレーキのない永久機関の乗り物に乗ったのと同様である。そして考えられることは、遅かれ早かれ実行可能な技術になる。これが医療分野にかぎらないことも、周知のとおりである。大は軍事、経済のようなグローバルなものから、小は家庭用の機器まで、「そこまでは必要ない」と思われる発明・技術があふれている。人は不精になると、日常生活から何から、すべてを自動機械が行なってくれることを夢見る。そのいくつかの部分は、実現してさえいる。ドアの前に立つとドアが開き、廊下を通ると電灯がつき、便器の前にたつと蓋が開く、等々。こうした技術の進歩にかんして、ますます推進すべきとする立場と、これで十分、あるいは一昔前で十分という立場がある。おそらく、両者のどこかにバランスのとれた立場があるだろうが、しかもそれは固定したものではなく、次第次第に先に進むだろう。明治の不機嫌な日本人にとっては、当時の文明さえ進みすぎていたが、『オールウェイズ』で描かれた昭和三〇年代の人間にとっては、高度経済成長前のあの時代が好ましいだろう。
医療の最適ポイントはどこにあるかも、そのように時代によって変わる。一つの成熟した智恵は、つねに可能なレベルよりも数段前のレベルでとどめる、というものである。一、二段前というのが、最も安全で最も治療効果があるだろうが、一昔前のレベルでとどめるという選択もあり、あえて原始的なレベルにとどまる、あるいは医療を辞退することも可能である。医療行為を患者が選択できるようになってきたのは、個人の成熟でもあり、社会の成熟でもある。
(3)霊的観点はこの成熟を推し進める。ある武術家は八〇代で体調を崩したが、鍛錬した肉体は手術に耐えられる状態にあった。医者は手術を勧めたが、武術家はことさらな手術を断った。またある神秘家は、喉の病が悪化したとき、信者たちから親しい神に治癒を祈願するよう懇請された。神秘家は「こんな糞土のような肉体を直すよう、神様にお願いできるものか」と怒ったそうである。これらは、この世の肉体生活がすべてと思っている人には、理解に苦しむエピソードかもしれないが、生命は肉体に限定されないこと、むしろ肉体は生命にとって、ある条件下で必要だったとはいえ、所詮は拘束衣であることを承知していれば、当然の判断になる。牢屋に入っている人が、外に出てよいといわれたら、その人は自由の身になることを嫌がるだろうか? 嫌がる人は、外よりも牢屋の生活のほうが恵まれている(と思っている)からであるが、外によりよい世界が待っていることを知る人は、喜んで出て行くだろう。
「この世の死は霊界への誕生である(逆にこの世への誕生は霊界での死である)」という言葉は、生きる世界は変わっても、生命は永遠であるということに他ならない。多くのスピリチュアリズム思想の公約数的な教えによれば、その永遠の生命は、さまざまな世界でそれぞれの(必要なあるいは不可避な)経験を積み、それぞれの成長進歩の道を辿るとされる。「私の父の国には多くの家がある」といったキリストの言葉のように、生きるべき世界は無限であり、無理矢理この世に留まるべき理由は何もない。もちろん、これは自殺を勧める教えではない。為すべき苦行があるからこの世(苦界)に置かれているのであって、苦行を果たさなければ出て行く資格はない。無理矢理出るのは脱獄のようなもの、あるいは熟さないうちに落ちた果実のようなものであり、苦さを味わうことになるだろう。果実が熟すのは、暗い土の中で発芽し、地表に芽吹き、陽にさらされ、雨風に打たれた末のことである。この世の苦行が生命を熟させ、やがて落果させることを知れば、苦痛をむしろ喜んで身に受け、しかもこの世に執着しないという達人の教えが、実は最も現実的で賢明な人生訓であることがわかる。

<コラム>過去に生まれ変わることはできるか(2006年8月27日)

高森光季

生まれ変わりはわりとポピュラーな話題になってきているせいか、霊学を勉強したことのない人たちの口にもしばしばのぼるようになってきた。時折尋ねられる質問で、半ば冗談、半ば本気なのだろうが、こういうのがある。「生まれ変わりがあるなら、過去に生まれ変わることはできないの?」
どうしてそんなことを思うのかはよくわからない。もっとのんびりした時代に生まれたいと思うのか、劇的な変動の時代の実態――あるいはそこに生きた英雄の人生の姿――を見たいと思うのか。まあ、織田信長やナポレオンに生まれ変わってみたいというような興味も、あながち不自然・不謹慎とは言えないだろうけれども。
で、答えとしては、「ま、そういうことができないことはないけど、それは生まれ変わりということとはかなり違う」としか言いようがない。
「できないことはない」というのは、霊学的に根拠がある。
一つは、自分の過去世、ないし類魂のメンバーの過去世は、自らが死後、霊になれば、自由に想起できる。しかも、単なる想起ではなく、実感を充分伴った、直接体験としてもう一度生きることができる。前世療法の中で深い催眠に入っているクライエントは、自己の過去の生を、迫真的な実感を持って甦らせることがある。まだいくばくか現世にとどめられているクライエントがそれだけの体験をできるのだから、死後、霊となった魂は、前回の生のみならず、それ以前のいくつもの生を、再び生きるがごとく想起することは可能であるだろうし、実際それはしばしば必要とされると言われている。
ただし、それはあまり愉快な体験にはならないだろう。もちろんそこで味わった栄華や幸福感を再び味わうことはできるだろうが、それはすでに魂が充分知ったものだし、むしろ、そこでなし得なかったことの悔悟や反省が、現在の魂にとって重要なものとして、大きく浮かび上がってこざるを得ないからだ。今、この現世に生きている私にとって、例えば古代ギリシャの神殿巫女として生きた過去世は、不思議な魅力があるように思えるが、死後の霊となった魂には、それはもう充分味わった、そしてかなりほろ苦い、記憶となるに違いない。
もう一つ、過去に生きた人々の「精神的記憶」は、霊界の大記録貯蔵庫に収められていて、霊となった魂は、それにアクセスすることができるとされている。いわゆるアカシック・レコードと呼ばれているもので、それは、単なる事実の記録ではなく、そこに生きたたくさんの魂たちの「心の軌跡」が、思い・記憶となって収められているという。そこにアクセスすれば(それが許されれば)、織田信長やナポレオンが、どのように生き、何を思い、何を感じたかは、再体験できる。しかも、生々しい光景や感情の記憶もきちんと伴って、再び生きるように感じることさえできるはずだ。
過去を改めて生きる、という意味でなら、こうした二つの方法が可能である(少なくとも現在の霊学的知見によれば)。ただし、それはあくまで再体験であり、自由意志を持って、選択をしつつ、それを新たに生き直すということではない。
生まれ変わりとは、魂の成長・進化のために、ある程度の運命は決定されているものの、その中で様々な選択をなし、そこで起こることの責任を引き受け、新たな創造をなしていくことである。だから必然的に、それは未来のものとなる。霊的には時間というものは存在しないのだから、過去とか未来という区別はないという人もいるかもしれないが、それはあくまで霊界ではの話で、現世は過去があり、その築き上げの上に未来ができていくという法則が敷かれているのだから、現世での生まれ変わりを問題にする以上、過去遡行は原則的には不可能と考えざるを得ない。
確かに、この地球文明の歴史に興味を抱いているなら、様々な過去にタイム・スリップしてみたいという思いを持つことは自然であり、筆者もそういう興味はかなりある。もし可能なら、死後、時間の桎梏を解き放たれて、超古代(アトランティスやムー?)から現代に至る、文明の興亡とそこに生きた魂たちのドラマを、じっくりと勉強してみたいものだ。死後にそういう楽しみができるかもしれないと思うことは、なかなかの希望ではなかろうか。

<コラム>ぎりぎりの智恵(2006年8月2日)

日守麟伍 Ringo HIMORI

宗教的人生訓は綺麗事ではない、ぎりぎりの事である
聖書や仏典や四書五経やコーランを典型とする、古今東西の聖者賢者の言行録にちりばめられたエピソードや人生訓は、世俗的な基準で読めば、綺麗事の理想論に聞こえるか、世知辛い世の中で一服の清涼剤にはなる、くらいに思われている。とくに過激に聞こえるのは、新約聖書の(伝)イエスの言葉である。たとえば、「右の頬を打たれたら左の頬を向けよ」「あなたを迫害する人のため祈れ」といった教えは、普通は実践するのが難しいと感じられる。祈るどころか、腹が立ってたまらず、呪いたくなり、仕返しをしたくなり、じっさい仕返しの方法をあれこれ想像する。「この世のすべてを得ても、永遠の生命を失っては空しい」という言葉も、本当に永遠の生命があると実感できない限り、リアリティがない。ある篤志家がいて、「今日は十万円しかあげられないが、十年後には十億円さしあげたいと思う」といわれた場合、十年後を待てる人は、そこそこ余裕があるか、よほど人間を信頼する能力の強い人か、あるいは透視(投資?)力がある人だろう。
最近はあまり評判のよくないパウロが、「自分はキリストを知ったことで、すべてを失ったけれども、今はそれらを糞土のごとく思う」と書いているが、これはキリストを知ったことが、この世の何ごとにも替え難い宝であった、ということである。キリストがもたらす宝のリアリティが想像できなければ、この述懐の意味はわからない。パウロが、利害損得の計算のできない、頭の悪い人ではなかったことは、「人間にはすべてのことが許されている。しかしすべてのことがあなたの益になるわけではない」「小さな欲ではなく、大きな欲をもちなさい」というアドバイスをみればわかる。この世のあれこれの宝は、キリストが与えてくれる宝と比べて、あまりに色褪せたのであった。この世のものごとに執着する人間の無理からぬ気持ちについて、ある聖者は「あなた方は腐ったかぼちゃを抱えて放すまいとしている。見ていて可愛そうだ」と嘆いた。
キリストと称されたイエス自身が、「悪魔の試み」としてこの世のあらゆる栄華を見せられ、「私に跪けばこれらすべてをあなたに与えよう」という申し出を受けた。イエスはこれを拒絶しているが、この辺りの解釈や追体験は、ヨーロッパの平均的な伝統では、苦渋の選択のように描かれている。この世の栄華を見せられて聖者が悩むという絵柄は、如何にも物欲の深いヨーロッパ文明らしいことではある。天の栄光に満たされたイエスほどの人が、この世の栄華を前にいささかも迷うはずはない、というのが、近代日本の心あるキリスト者の実感であった。日本人(東洋人、アジア人)こそ、まことのキリスト教といった表現は、強がりのナショナリズムや、十九世紀的な人種論というだけでは片付けられない、ヨーロッパ人(文明)の物欲への違和感を表現している。
これは、十字架上の「エリ、エリ、ラマ・・・・」という言葉の解釈にそのまま反映する。「神よ、何故私をお見捨てになったのですか」と解釈されるこの言葉は、受難曲のハイライト・シーンにもなって、たいへん感動的な場面ではある。しかしそれは、われわれ平均的な人間の「おいたわしい」「ありがたい」という感情レベルでの話である。インド、中国、日本では、月並みの聖人賢者レベルでも(不遜な言い方で恐縮ながら)、死を迎えることはるかに従容としている。したがって、日本人の一介のキリスト者ですら、「イエス先生がこのような情けない恨み言を言われるはずがない」と感じるのである。「すべて成就した」という言葉はいかにも聖者らしい。十字架上のイエスの言葉に人間らしさを見る、などというのは、あまりに人間的な贔屓の引き倒しの説明である。
こうした贔屓の引き倒しは、「永遠の生命」「天の栄光」という言葉をリアルに想像できないところから出てくる。たしかに凡人にとっては想像、信仰であるが、「私は知っている」といわれたイエスのような人にとっては想像や信仰ではなかったし、そういう確信的な人格を目の当たりにした人々の信仰や想像は、かぎりなく確信に近づいたはずである。「死」を嘆き悲しむのは、永遠の生命を実感できないからである。「私のために悲しむな」「自分たちのために嘆け」「子のために嘆け」という言葉の意味を、終末論的な冥い響きで聞くのも、そのためである。
近代になって「永遠の生命」のリアリティが薄れ続けたとき、スピリチュアリズム現象が頻発し、信仰の根拠の希薄化に苦しむ人々にとって、古代の霊的確信が再保障されたように思われた。諸聖典の言葉は、昔話のレベルからリアルなものになった。なぜ「迫害する人のために祈れ」「あなたを訴えている者と和解せよ」と教えられたのか。それは、すべての人間の生命が永遠であり、迫害する者、訴える者は、理由がなくなるまで迫害と訴えを続けるからであり、いつかは必ず和解しなければならないからである。永遠の生命を納得すれば、これは神秘ではなく、生き死にに関するぎりぎりの常識となる。であれば、早めに和解したほうがお互いに利益である。腹立ちにまぎれて仕返しをし、それで気持ちが晴れるという一時的な利益よりは、明日から永遠に敵が一人いなくなることのほうがはるかに得だ、という教えになる。
こうした計算は、欲を抑えなさいという綺麗事ではなく、人間の欲に訴えて弊害を最低限に抑えるという、ぎりぎりの教えである。そしてそのためには、人間はいわゆる死によっては消滅しない、というリアリティが必要にして十分な条件になる。聖人君子のような人間でなくても、損得を考量すれば、大きい利益のほうが得であることは自明である。キリストを知る知識というのは、最低限のレベルでは、永遠の生命があると知ることであり、それにより、この世の損得が計り直される。この世の一時の利益が、長く続く不利益となる。人に不利益を与えて得た利益は、やがて償わねばならない(「負債は最後の一銭まで払わねば地獄から出られない」)となると、普通の損得勘定ができる人であれば、なるべく人に不利益を与えまいと行動するであろう。人が見ていようがいまいが、「神は神の毛一本まで数えておられる」のだから、あるいは相手の守護天使が、少なくとも自分の守護天使が見ておられるのだから、相手の不利益になることは、易々とはできなくなる。
要領よく生きたい、楽をして儲けたい、人を陥れてでも自分が得をしたい、などと思う人間は、そもそもの品性があまり上等ではないが、品性のよろしくない人間に品性をよくしなさいと教えても、あまり効果はない。むしろ、上品な教えに反発する程度の頭をもっていれば、人間の欲を考えつめることで、その下等な欲を高めることが可能である。「ほんとうに要領よく生きるとは、陰日向なく誠実に生きること」というある賢者の教えは、そのような人のためにある。しかしこれを骨身に染みて納得するためには、すべての人間は死を超えて生き続ける、という実感がなければならない。それがあってはじめて、行なった行為の報いは必ず受けなければならない(「撒いた種は必ず刈り取らねばならない」)、人を苦しめた分の償いは必ず果たさねばならない(「眼には眼、歯には歯」)、という普遍的な道徳律が、時間と空間を超えて共有されることになる。
こうしてみると、「人に与えることは得ることである」という教えは、むずかしい逆説ではなく、人間は同じ大宇宙の中で永遠に生き続けることを前提すれば、ごく当たり前の智恵になる。じっさい「情けは人のためならず」という日本の諺は、庶民のごく当たり前の智恵だったが、これは狭い世間で通用するだけではない。「利他」という難しそうな教えも、欲得ずくで言い直せば、人に与えたものは必ず返ってくるというだけではなく、逆から脅かしていえば、人から奪ったものは必ず奪われる、ということである。理解の早い人間には「こうするのがよい」とやさしく教えるだけでよい。理解の悪い人間には、「こうすれば得ですよ」「こうしないと損ですよ」と下世話に教えたほうがよいことも多い。やさしい言い方は、綺麗事に聞こえるが、意味することは、実はぎりぎりの事なのである。
この物質世界だけの世俗的ヒューマニズムでは、人間の倫理も哲学も破綻せざるを得ない。それは、町内会や学級会の決定がそこだけで完結しないのと同様である。この世は自治会や小学校の学級会のようなもの、外には広大な世界が広がっていると思うのが、「知識の本」である。

<コラム>自然宗教という欺瞞(2006年7月20日)

高森光季

自然宗教という考え方がある。宗教というものは、人間が意識を持ち、思考やイメージ創造力を持つようになって、それにともなって自然に発生したのだという考え方だ。自分たちが意志を持つように、自然も意志を持つと考え、そういう投影から神という概念が生まれた、とそれは説く。まあなんのことはない、ダーウィニズムの自然発生説の延長である。
違うね。一部、投影によって生まれた儀礼もあるだろうけれども、宗教自体がそうやって生まれたということはありえない。
死への恐怖が宗教を生み出したとする一般的に流布した仮説もある。何となく説得力があるようだが、じっくり考えてみると、これも疑わしい。そうすると、死刑囚はみな宗教的になるはずだが、実際はそんなことはない(なる人もいるが)。軍隊では前線になればなるほど宗教が流行るはずだが、そんなこともない。現代人ほど死を恐れている人々は、有史以来いなかったと思われるのに、宗教はどんどん力を失っている。
人間の行為を心理的必要に還元する考え方は、現代人には納得しやすいかもしれないが、真実と言えるかどうかはかなりあやしい。

スピリチュアリズムが示しているように、霊との交渉が今もあるのなら、昔もあったろう。そして霊(特に高級霊)からの教えが、宗教(だけでなく文化全般)をつくったと考える方がはるかに自然だ。古代愛好オカルティストたちが言うように、人間に様々な知や技術を教えた偉大な存在がいたというのは、霊的に拡張して考えれば、正しいのかもしれない。
たとえば、薬草というものがある。スティーヴンソンも指摘しているが、きわめて特殊な植物がきわめて特殊な病気に効く(たとえば麦角などという特殊な菌が分娩時の子宮収縮に役立つ)というのは、自然的に習得された知識だとは考えられない。その特殊な病気にかかった人が、いろいろなものを手当たり次第に試してみて、時には死んだりしながら、ようやくそれにたどり着いた(まあ一種の自然選択説だね)などということは、あるものかどうか、ちょっと考えてみれば明らかだろう。何らかの超感覚的手段による「教示」があったはずなのだ。
同様にして、宗教もまた、霊からの教えに基づくものだった。そう考える方が筋が通るのではないか。近代人は古代人を知能未発達な幼稚園児のように見たがるが、霊との交渉という点においては、彼らは間違いなく近代人よりすぐれた能力を持っていた。だから、古代人の宗教的営為は、間違いなく霊よりの教唆で構築されていたし、その中で確かな霊的交渉が実現していたはずだ。

以前、NHKの自然ドキュメンタリーで、季節的に極度の乾燥に見舞われる地域に棲むゾウの生態を記録したものがあった。その中で、異様に記憶に焼き付いたシーンがある。水を求めてゾウの群れが移動していく。が、その年は乾燥が甚だしく、いつまで進んでも草や水が現われない。するとゾウは、何を思ったのか、寄り道をして、その群れ固有の「墓場」へと赴く。自分たちの祖先がそこで死んだのだ。そして親ゾウたちは、そのあたりに散らばる「祖先」たちの骨を、長い鼻でかき回し、跳ね上げたのである。
ナレーションでは「意味不明」の行動だと言っていたと記憶している。しかし、それはまるで「宗教儀礼」、というより「呪術」に見えた。死した祖先の霊に必死に働きかけているのだ。そして、その行為のせいか否か、ついに雨が降り始めたのである。

これと同様なものとして思い出すのは、イラクの洞窟で、約七万年前のネアンデルタール人の墓らしきものに手向けられていた花の姿だ(もちろん枯れ朽ちたものだが)。なぜ花なのか、その心情は神秘的だ。
古代宗教を幼稚な原始人の蒙昧だと考えるのは、近代人の傲慢であろう。

<コラム>スピリチュアリストはどのくらいいるのか?(2006年4月1日)

滝沢 遼

スピリチュアリストって、日本にどのくらいいるのだろう、ということが、時折私たちの間で話題になることがあります。さあて……
シルバー・バーチの霊言集は、様々な種類が刊行され、その中の多くはしばしば重版もされているようなので、非常に読者が多いことは確かでしょう。おそらく10万単位かもしれません。その人たちの多くが、バーチの教えに納得し、それを生きる上での何らかの糧にしているのなら、スピリチュアリストはかなり数多くいる、と言えるでしょう。
ただし、バーチだけがスピリチュアリズムというわけではありません。スピリチュアリズムは、信仰のみでなく、科学・哲学としての側面を持っているわけですから、様々な霊信を読んで比較考察したり、歴史的な展開を跡づけたり、サイキカル・リサーチのように「実証性・検証可能性」を追求することも含まれます。そこまでのコミットメントをしている人は、あまり多くはないでしょう。

スピリチュアリストは、アカデミーやマスメディアから白眼視され続けてきているので、自分たちは圧倒的マイノリティだという思いがどうしてもあります。そして、少なくとも「死後存続」は、もっと多くの人が認知するようになってほしいと思っているわけです。
これに対し、死後存続を漠然と認めている人は多い、という説もあります。確かに、スピリチュアリズムの歴史も様々な霊信も知らないけれど、「死後存続」「現界と霊界の交渉可能性」を漠然と信じている人(いわば「自然スピリチュアリスト」)は、案外莫大な数になるかもしれません。それ自体は、ある意味人類に普遍的な信仰だからです。また、近年では臨死体験や前世療法などの本を読んで、死後存続を受け入れるようになった人もかなりいるでしょう。しかし、一方では、本当にそうだろうか、という思いがどうしてもぬぐえません。素朴なキリスト教徒や仏教徒の死後存続観は、かなり軟弱で断片的でしょうし。また、「知識層」といわれるような人々は、やはり白眼視の方が強いでしょう。フィフティ・フィフティだとはちょっと言えるかどうか……
無意識的唯物論者の「知識層」なんか放っておけばよろしい、という考え方もあるでしょうけれども、やはり、情報を牛耳ってるのは彼らだから。そのおかげで求めている人に情報が伝わらないとしたら、それはちょっとまずいのでは。「彼らは人を入れさせないし、自分たちも入らない」と皮肉ったイエスの言葉をちょっと思い出すところです。まあ、本当に必要としている人には、ちゃんと伝わるものなのかもしれませんが。
でも、ともあれ、「死後存続」が、もう少し公の場で言及されるようにならないものか、きちんと知性と教養を持った人が、正面から取り上げてくれないものか、とは、どうしても思ってしまうところです。

<コラム>霊界通信のパロディとしての「メール」問題(2006年3月30日)

日守麟伍 Ringo HIMORI

国会の委員会質問に端を発する、いわゆる「メール」問題が、何か月もマスコミで報道された。これは結局、「ガセネタ」(公的場面で公人が使用するのは不適切な隠語だと批判されたが、当のご仁は批判を意に介さない人物)、偽メールであったことがわかり、議員のみか政党指導部の稚拙な対応に、心ある市民は、非難というより、呆れたという思いをもった。この程度の知性、徳性しかもたない政治家集団が、一億の人間の社会生活を采配するという不幸は、計り知れない。おそらく、さらに不幸なことに、わずかな例外を除いて、大同小異の愚かな(ばかりか、さらに邪悪で冷酷な)指導者たちが、数十億の人間の社会生活を支配している。
ところで、いわゆる「霊界通信」をめぐって起こっているのは、このメール問題とまったく同様の議論であることがわかる。発信者は誰か、本当に差出人と名乗っている本人なのか、本人だとしても嘘の情報ではないのか、代理人が出したのではないか、その場合正確に伝わっているのか、まったく無関係な他人の偽造ではないのか、悪意をもった第三者の詐欺、陰謀、計略ではないのか、等々。メール問題といわれるこのような他愛もない問いは、スピリチュアリズムの視点から、霊界通信のパロディとして見ると、別様に見えてくる。霊界通信そのものは、あらゆる意味で議論しにくいが、誰にでもわかりやすいワイドショー的な「メール」問題と引き比べることで、原理的な問題が誰の目にも浮き彫りになるのである。
この問題の登場人物、内容は、報道によれば次のようである。送信者と受信者はフリー・ジャーナリストN氏。メールの発信者として署名があったのは、元ライブドア社長H氏。内容は、H氏から同社幹部に、自民党幹事長T氏の次男に選挙コンサルタント料として3000万円を振り込むようにとの指示であった。民主党の永田議員は、このメールを衆議院予算委員会で取り上げ、自民党幹事長を問い詰めた。話の落ちは、東京大学卒、松下政経塾出身の若手のホープが、悪評高いフリー・ジャーナリストから新手の怪文書をつかまされ、踊らされた、というものだった。
これは偽造文書としては、職業的な文書偽造者が作ったものという、最もわかりやすい説明である。意図は報道では必ずしも明らかになっていないが、(1)偽情報を売って金銭を得るためという、単純な職業的な偽造説。(2)金銭目的ではなく、世間を騒がせようとする愉快犯の趣味的な偽造という説。(3)与党側の一部が、偽情報をジャーナリスト経由で野党に流して、野党を陥れようとしたという、穿ちすぎた陰謀説。(4)何らかの金銭や利益の授受があったことを前提として、ありそうなストーリーを作り上げた告発説、などがあった。機械的な可能性をいえば、(5)H元社長が口述あるいは指示したものを、誰かが代理で送信したもの。(6)H元社長が、みずから入力したものが、誰かによって転送されたもの、(7)H元社長がみずから入力、送信したもの、などもあり得る。
これらは今回の「メール」問題の説明であるだけでなく、おそらく怪文書とされるものの事実は、どれかに該当している。そしてこれは、霊界通信文書に関してもそのまま当てはまる。この七つの説を、霊界通信の解釈に関して言い換えれば、次のようになるだろう。
(1) 霊界通信という道具立て(死者の霊が何らかのメディアを通して語る、という設定)を使って、売れそうな話を、職業的な作家が作った、という職業的な偽造説。
(2) 霊界文書と称して、世間を騒がせようとするトリックスター説。
(3) 偽造文書を、作家や学者や文化人など、文書を発表する便宜をもった人に持ち込んで、霊界通信として出してもらい、権威筋の名声を損なうという、いわば囮説。
(4) 霊界通信の事実を前提したうえで、その枠組みを借りて、霊界思想を語るという、仮託説。
(5) 霊感を受けた人間が、霊の思想と思われるものを編集発表したという代筆説。
(6) 霊界通信を、霊が語ったとおりに、霊媒が鸚鵡返しに語ったとする、自動書記説。
(7) 霊が自らの思想を自ら物理的に筆記したという、直接筆記説。
インターネットの匿名性ということがよくいわれる。メールについては、アドレスその他で本人だと特定できるかどうか、信憑性が問題となると、手書きの文書や音声の通信以上に、とくに素人にとっては、真偽があやふやになる。手書き文書の場合は筆跡や指紋が、タイプ文書の場合は活字の種類や指紋が、決め手となるが、声や筆跡と異なり、PC文字は人格をもたないからである。インターネットという情報技術を、意識や霊のメタファーとして語る人々がいるのは、不思議なことではない。
怪文書をつかまされて、そのまま真に受ける人があり、裏を探ろうとする人があり、まったく取り合わない人もある。霊界通信についても、同様である。実はこうした対応は、一般文書についても、さらには通常のコミュニケーションにおいても、原理的には同じである。つまり、誰かが語っている場合、語っているのはどれほど本人なのか、語っている内容はどれほど事実を反映しているのか、という問いである。
この「メール」問題には、文書作成者の問題と、文書内容の真偽の問題とが、戯画的な形で、わかりやすく出ている。スピリチュアリズムを学ぶ人は、これを霊界通信のパロディとして、作成者の複数性、多面性、内容の重層性などを考える練習問題として、活用してはいかがだろうか。