3-(10)神道とスピリチュアリズム

仏教と同様、神道というものも、はっきりと定義できません。神道は、日本という国において、自然発生的に生まれてきた(様々な外来宗教・思想の影響を受けつつ)ものです。教祖や聖典があるわけではありませんし、従って定まった教義もありません。崇拝対象も、ある意味でばらばらです。普通の日本人が思い描いている神道のイメージ(七五三、結婚式、みそぎ修行など)は、明治以降の国家神道、神社神道のもので、それほど古いものではありません。
神道は、もともと、人間の霊性に付随した、自然的な信仰だと言えます。祖霊(家族・氏族の死者霊)、夭折者や非業の死者の霊、自然霊(山の神や竜神など)、土地の霊、動植物の霊など、様々な霊的存在を認め、祭祀を通してそれと交渉を持つという、きわめて素朴にして霊的感受性豊かな宗教です。それが、仏教や儒教といった外来思想の影響を受け、それらに対抗しあるいは融合する形で組織や教説を生み出していき、古代氏族神道、中世神仏習合神道、近世民俗神道、近代の国家神道および啓示型神道(新宗教)、などの様々な表現として展開してきました。

神道の基盤にある土着的・民俗的な信仰は、スピリチュアリズムときわめて親和的です。人間を霊魂と認め、死後存続を認め、動物から山川草木までを霊的存在とみなし、さらに高級霊や未浄化霊の存在をも認める、その豊かな霊的世界観は、素朴で思想化されてはいないものの、スピリチュアリズムが説く霊学と、大きな齟齬を見せるものではありません。よく言われているように、全地球的に存在する「シャーマニズム・アニミズム型原始信仰」とスピリチュアリズムは相通じるものであるわけですから、当然神道も相通じるわけです。
しかし、神道にはスピリチュアリズムとはまったく相容れないものがあります。それは、儀礼への固執、氏族・土地・神道譜(神名・流派名)への固執、安易な現世利益主義、そして民族主義及びそれに関連した政治への野心、などです。
これらははっきり言えば、現世の欲望――特に権力欲、アイデンティティ欲求(自己正当化や劣等感の克服)――による信仰の汚染です。とりわけ、近代の民族主義の台頭による神道の歪んだ展開は、恐るべきものがあります。
現代の神社神道も、こうした病弊を引きずっています。いや、むしろ近代の唯物論に負けて、神霊の存在やそれとの実際的交渉を曖昧化するという、自殺的な傾向さえ見せています。神霊の存在なしに神社も神祭りもあり得ないのに、それを語ったり、しっかりと交渉したりすることができなくなっているのです。
神道は、形骸化し、内面的信仰を見失っているのではないでしょうか。民族主義のパフォーマンスや、博物館的な意義だけの儀礼では、神道は広まるどころか、死に絶えるでしょう。

むしろ、幕末期以降の「啓示型新宗教」の方が、より霊的に深い信仰を見せています。黒住教、金光教、天理教、大本教は、日本独自の「霊信仰運動」であり、神霊の啓示、憑霊・脱魂現象、霊的治療などによって、広く大衆の支持を得ました。これらは通常は神道プロパーとは見なされず、「神道系新宗教」と呼ばれますが、むしろ、きわめてラディカルに基底的な神道を復活させたものと見ることもできます。
とりわけ大本教は、スピリチュアリズムの影響をかなり直接に受けており、日本スピリチュアリズムの泰斗・浅野和三郎師が、一時大本教の幹部として活躍したことはよく知られています。そして、大本教から生まれ出た、世界救世教、生長の家、真光文明教団、白光真宏会などの「新・新宗教」には、スピリチュアリズムの思想的影響が色濃くあります。
ただし、こうした新宗教では、教祖や特別な神格への崇敬が中核となるという傾向があります。これはスピリチュアリズムから見れば、よいこととは言えません。特に教祖やその言葉の絶対視は危険ですらあります。また、呪術によって現世的な利得を得ようとする面もないとは言えません。

日本人はもともと素晴らしい霊的感受性を持った“自然スピリチュアリスト”であった、と言うことさえできるでしょう。“近代スピリチュアリスト”の側から言えば、神道が余計な夾雑物を洗い流し、神霊との交渉という中核を取り戻し、日本人の霊性の復活に寄与してもらいたいところです。