1-(04)体脱体験と臨死体験

体脱体験(OBE)
初期のサイキカル・リサーチの中で研究されたものに、体脱体験(体外離脱体験 out of body experience 略してOBE)というものがあります。
これは、自分の意識が身体を離れるように感じられ、それとともに知覚も遊離し、自分の姿を上から眺めたり、また離れた場所(時には相当遠く)を飛行しながら見て回るように感覚される体験です。だいたい半数くらいは、半睡状態や睡眠状態、また麻酔をかけられている状態で、あとの半数は、意識が継続したまま起こると言われています。(これが呼吸停止などの「臨死(near-death)」状態で起こると、「臨死体験(Near-Death Experience=NDE)」と言われるものになります。)
飛んでいくところも、現実の場所である場合と、「他界」と表現するのがふさわしいような環境へ行く場合とがあります。
OBEを体験する人はきわめて多く、アンケートによると、少ない集計結果でも10%強、多い場合では34%という数字があがっています。
これはもちろん主観的な体験ですから、そのまま「体外離脱」つまり心と体の分離が起こったと言えるものではありません。特に半睡ないし睡眠状態(あるいは瞑想状態)では、「自覚夢」と同義となり、まったく立証不可能です。自分の姿を見たとしても、想像力の働きであることを否定できません。
しかし、遊離したと感じられる主体が、現実と一致する、しかも通常では知り得ない内容を知覚する、ということもきわめて多く報告されています。ひとつだけ例をあげましょう。

《ある女性は、夜、夢の中で、同じ市内の友人の家へ飛んでいった。しかし友人の姿はどこにも見えないので、心配になって探索すると、(別の家の)ミシンの置かれた裁縫室らしい部屋で、カウチに寝ている友人が見つかった。話しかけてみたが、友人は目を覚まさなかった。その三日後、昼食を共にすることになった友人にその話をすると、友人はひどく驚いて、そのとおりだと答えた。そして一週間後、友人はある家にその女性を連れていった。「それは、まさにあの夜私がカウチで眠っている彼女を見つけた部屋でした。ミシンの上に置かれた作りかけのブラウスまで、すべて私の見たとおりだったのです。」》

ただし、これが「魂の肉体との分離」の証拠ということにはなるかというと、事はそう簡単ではありません。懐疑的な人は、これを、「ESP(透視)と飛行感覚が同時に起こっただけだ」と反論するからです。体験をした当人は、自分が「遊離」したことを感覚的に信じていますが、客観的な立証という面からは、主観的な感覚は問題にならないものと切り捨てられてしまうのです。
それに対して、このような体験と同時に、視覚の対象となった相手方に、OBE主体の姿が(時にはごく普通の人間の姿として)見えたり、手を触れられたような感覚があったりするということも少なからずあるので、透視では説明できないとする立場もあります。しかしこれに対しても、透視と同時にテレパシーが起こり、相手の感覚に同調現象が生じたのだと主張することが可能です。
このようにESPを拡張して解釈していくと、OBEはなかなか証明することができません。そこで研究者は、OBEを意図的に起こせる「能力者」を被験者にして、様々な工夫をこらした実験をしています。たとえば、離れた部屋にターゲットを置き、それをOBEによって見るように要請し、その際、ターゲット周辺で何か変化が起きるかどうかを観測する方法があります。ある実験では微細な磁気や光や電気を観測する機械によっては、ほとんど結果は得られなかったが、ターゲットの近くにいた人間に何かが感じられたり、また動物が特殊な反応を起こすということがあったという報告がなされています。さらに、ターゲットを覗き込もうとする「何か」の力がひずみ計で観測されたとか、特殊な角度から見た場合にのみ像が見えるような装置を使って行ない、見事にそれを当てたといった結果も報告されています。しかし、ESPとPKの能力を極端に拡大して解釈すると、たとえばESPで遠隔透視すると同時に、その場にあった装置や生体に対しても「遠隔PK」を用いて作用を及ぼしたのだというような説明が可能になり、「離脱」は棄却されてしまうわけです。
また、心と肉体が分離することは認めても、それが「死後」にも適応できるかは、また別の問題だとする見方もあります。OBEの研究者で、次第に懐疑派に転向したスーザン・ブラックモアは次のように述べています。
「実際問題として、OBEの最中には肉体は生きているため、死とは永久的OBEであり、分身は肉体と独立して存在しうると主張するためには、論理の飛躍が必要である。」(グラッタン=ギネス編『心霊研究』、ちなみにこの論文は超心理学者がいかに「自己収縮」していくかを示す格好の論文と言えるでしょう。)
心と体は分離するかもしれない、しかし、それは体が失われても心が存在し続けることを意味しない、というわけです。厳密に論理的にはその通りでしょう。
なお、この「体脱体験」を専門に研究し、特殊な装置を使って多くの人に生起させているモンロー研究所といった機関もあります。そこでは「体脱」感覚と透視(遠隔透視やサイコメトリー)の間に深い関連があることが報告されています。
また、宗教人類学の「シャーマニズム」研究では、OBEは「脱魂」(extacy)として広く観察される現象となってます。シャーマンが、儀礼や薬物によって昏睡状態になり、その間遊離した魂によって予知・透視や治病などがなされるというものです。日本でも古来から「魂が遊離する」という観念は広く認められ、『源氏物語』の六条御息所が夢うつつ状態で魂が遊離し、恋敵の女性のところを訪れて苦しめる、という場面はよく知られているところです。
臨死体験
このOBEのひとつの特殊例として、「臨死体験」(Near-Death Experience=NDE)があります。これは近年よく知られるようになった現象で、病気や事故で呼吸停止・心停止状態になった人の意識が、肉体を離れ、自分の姿や周囲の様子を見聞きしたり、この世ならぬ世界(光に満ちた世界やすでに死んだ人々の姿)をかいま見、それを意識が回復した後に報告したものです。
この研究は、近年始まったものではありません。すでに1926年、ダブリン王立大学物理学教授でSPRの創立者の一人だったウィリアム・バレットが、臨終の人がみるビジョンを収集し、『臨終時の幻(Death-bed Vision)』という本にまとめています。
しかし、近年、人工呼吸器など生命維持装置の普及と蘇生術の飛躍的な改善がもたらされたために、こういった体験の機会は激増したと推測されます。そして、ほぼ同時期に刊行された二つの書籍によって、臨死体験は広く知られるようになりました。一つは、レイモンド・ムーディ『かいまみた死後の世界』(1975)、もう一つはカーリス・オシスとアーレンダ・ハラルドソンの共著『人は死ぬ時何を見るのか』(1977)です。前者は、医者が偶然遭遇した事例に触発されて、探究を深めていく経緯を記したものですが、後者は、サイキカル・リサーチ=超心理学の立場から、ムーディの研究とは独立に行なわれていたものです。
ムーディの本以後、同様の事例報告・研究報告が「洪水のように」公刊されていきます(日本でも立花隆を始め、多くの評論家・学者がこの主題について著書を刊行しました)。それによって、それまでほとんど語られることがなかった「臨死体験」は、きわめて多くの人が経験していることが明らかになりました。アメリカでは、1982年のギャラップ調査で、臨死体験はほぼ800万例にのぼるであろうという驚くべき数字が発表されています。

もちろん、懐疑的な人々は、これを脳内麻薬(苦痛などに際して、それをやわらげるために脳が作り出すエンドルフィンなどの神経作用物質)による「幻覚」としています。体験内容についても、共通性がいくらかはあると認めながらも、文化などによって差異が大きい(阿弥陀仏を見る人もいれば、聖者を見る人もいる)ことをあげ、想像力の産物であるとみなしています。
超心理学者はもとより、スピリチュアリストも、すべての臨死体験が「心身分離」や「死後存続」の証拠として決定的なものだと言い張るほどおめでたいわけではありません。懐疑論者はしばしば、一般的な臨死体験の紹介書を表面的にかじって「幻覚」と断じ、それでサイキカル・リサーチや超心理学の研究全体を嘲笑的に否定するということがありますが、その態度は正当とはほど遠いものです。
詳細に検討すれば、臨死体験に、「幻覚」では説明できない点が(すべての報告にではなく、むしろきわめて少数ですが)含まれていることは否定できません。たとえば、いくつかの事例では、自分の姿や病室の様子、医療スタッフの行動などを、事実と符合する形で見ているというものがあります(もちろん、その情報を当人は通常の方法では知り得なかったというのが前提となります)。また、同じ時間に死を迎えていた同室の患者が、その身体的欠損までそのままに体験の中に登場したという例もあります(この例では体験者は意識不明でかつぎ込まれ、同室患者の容態を認識できる可能性はありませんでした)。
もちろん、これらの事例でも、人間のESP能力を法外に拡大解釈すれば、「心身分離」を否定することができないではありません。呼吸停止・心停止の状態でも脳はかろうじて生きていて、ESPによってその情報を得たのだと解釈するわけです。OBEと同様の否定論がここでも繰り返されるのです。「臨死」体験といっても、生き返った以上、脳は死んではいなかった、だから脳内現象やESPで説明できるとするのです。
これに対して、強力な事例が最近報告されています。臨死体験研究者のマイケル・セイボムが『続・「あの世」からの生還』で記述している「パム・レイノルズのケース」です。これは、世界的に著名な脳神経外科医ロバート・スペッツラーによる「低体温」手術で、患者パムの脳底動脈瘤を切除するために、体温を15.6度まで下げ、かつ脳の血液をすべて抜き出すということが行なわれたものです。パムは全身麻酔状態で、自己視や手術室の様子を見聞きし、それは現実と符合しました。さらに脳幹の反応も一切なくなった状態(現在の医学では「脳死」にあたります)で、パムはすでに死んでいる親族と出会うという体験をしています。これは、臨死体験が脳内麻薬や側頭葉の異常活動に由来するという説を、強力に反駁するものだと言えます。(ただし、パムが事実と符合する見聞をしたのは全身麻酔状態の時で、脳幹停止時には抽象的な体験に移行していますので、「完璧な証明」とは言い難いところがあります。)

臨死体験の体験者が、人生観が大きく変わったと述べ、「死が怖いものではなくなった」とか「人生の意義を感じられるようになった」などと発言していることは、後に述べる「前世療法における過去生想起」を経験した人とも共通の特徴と言えるかもしれません。客観的にどう判定できるかはともかく、主観的には、それが「現実の生」を超越した、特殊な体験であることは間違いなさそうです。
しかし、いずれにせよ、OBEも臨死体験も、「死後存続」の客観的な実証現象としては、非常に強力とは言えません。「死後存続」の強力な傍証は、以下に扱う「生まれ変わり」や「死者との交信」に求めるべきでしょう。