10.どんな人生にも意味がある―霊学の視点から

どんな人生にも意味がある――霊学の視点から
掲載日:2012年3月26日

「どんな人生にも意味がある」というのは、ロゴセラピー・意味の心理学を提唱したヴィクトール・フランクルのモットーです。フランクルの『それでも人生にイエスと言う』を始めとする著作は、素晴らしいものです(人気もあります)。スピリチュアリズムとは関係ありませんが、唯物論的ニヒリズムに論駁したもので、お薦めできる本です。
ただ、フランクルの論は、スピリチュアリストの目から言うと、「不十分」だと思います。彼は唯物論と真っ向から対立することを避けたので、「精神」の価値をいくら言い立てたとしても、最終的には根拠がなくなってしまうのです。「意味がある」ということを、心情や信仰に訴えざるを得ないのです。もちろんスピリチュアリズムでも最終的にはそこに訴えざるを得ないのですが、論理的に説明できる幅が違うのです。
だから、スピリチュアリズムの観点から、「どんな人生にも意味がある」ということを言わなくてはなりません。

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人間は平等ではありません。
当たり前の事実です。特別な才能を持った人、幸運に恵まれた人、そういう人がたくさんいることは明らかです。
普通の人情としては、羨ましい限りです。私は芸術が好きですが、どうも創造的な才能はないようで、だから音楽にしろ美術にしろ文学にしろ、天賦の才を持った人は、正直、羨ましいなと思います。また、知り合いには事業を立ち上げて年商数十億の会社を作った人もいます。その商才というか、現実対応能力も、羨ましいなと思います。さらに、そういった名声や富とは関係なく、多くの人に好かれる「何か」を持った人もいます。それもまた羨ましいなと思います。
そういう才能は私にはないし、多くの人にもない。そういうものなのだからしょうがない。人間は平等には創られていない。これは冷厳たる現実で、そこから目を背けて理想を語っても何の意味もありません。

〔ちなみに、人類が獲得した政治的理想としての「平等」というのは、「扱いの平等」のことです。もっと明確に言うと、「法の下における平等」です。これは、わかりやすく言えば、大統領であろうがホームレスであろうが、法は等しく扱うということで、その人の出自や地位によって扱いに差をつけてはいけないということです。殺人をしたのなら、大統領であろうとホームレスであろうと殺人罪に問われることは同じ。これが法治主義の大原則です。これを揺るがせてしまうと、「人治主義」となり、有力者が得をしたり、賄賂で物事が決まった、権力者が好き放題したりする、無秩序で非効率的な社会になります(中国や韓国はいまだにそういう色彩が濃いようです)。
ところが、この「平等」を共産主義が読み換えて、「結果の平等」を提唱した。所得や資産はできるだけ均等に分割されるのが望ましい、と。これは「扱いの平等」「法の下における平等」を、実は真っ向から否定する考え方です。ある人が頑張って9俵のコメを作った。別の人はどういう事情か1俵しか作れなかった。「結果の平等」では、9俵の人の4俵を強制的に1俵の人に移転することになる。これは「扱いを不平等にする」ことになります。こうした試みがどういう結果を招いたかは、数十年前に明らかになりました。
つまり、「平等の理想」といっても、いまだに理想であり続けている「扱いの平等」と、悪夢を招いた「結果の平等」とを混同してはならないということです。〕

はっきり言えば、「平等」というのは偽の理想です。平等が達せられるには、知力、感性、意志力、創造力、運、といったものが皆同じでなければなりません。全員が同じ色・大きさ・形をしていないとなりません。そんなつまらない世界があるでしょうか。全部が同じ色・大きさ・形の積み木があったとして、それで遊びたい子供がいるでしょうか。「多様性」「複雑性」はこの宇宙の本質です。この宇宙は多様で複雑な存在様態を生み出し、それから構成されるものです。それぞれ多様で複雑な存在の間に、「平等」という概念など、存在する余地はありません。赤い積み木に比べて黄色は不平等だとか、太いのと細いのがあるのは不平等だ、と言ってみても意味はないでしょう。

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才能や運は平等ではない。だったら、才能や運によって輝かしい活動をした人の人生は意味があり、そうでない人の人生は意味がない、か。
これはけっこう多くの人が半ば無意識に持っている神話のようです。特に歴史を重視する西欧のエリートたちは、歴史に名を刻むことに執着心を持っているような感じがします(たとえばパリの通りは歴史的人名がほとんどです。パリ市庁舎にはパリに関係した偉人の肖像彫刻が柱を埋め尽くしています)。日本人は諸行無常の感性を持っているからそうでもないような気もしますが、それでも「有名になりたい」という執着は多くの人が持っているのかもしれません。
これ、よくよく考えてみると論理破綻をしているのであって、歴史や時代文化というのは、それを受け止める人々がいるから成立するものです。そういう無名で凡庸な人々の生に意味がないのなら、歴史も時代文化も意味がありません。歴史を動かした人や時代の寵児だけをひょいと取り出しても、それだけでは意味を持つものではない。偉人や天才に意味があるのは、共に生きている人間全体に意味があるからです。人間全体に意味がないのなら、歴史も天才も意味がありません。
〔ちなみに、一部の科学者は、そうは思っていないようです。彼らは、人間はそれを生み出した宇宙を観察・分析するほどの知を持ったということにおいて、意味があると考えます。物質世界は偶然に人間という生物を生み出したのだが、それは唯一、宇宙に対峙し、その謎を解こうとしている生物である。宇宙は、そういう生物を生み出すことで、自分を初めて客観的に観察することができるようになったのだ。――これがエリート科学者の神話です。まあずいぶん奢ったもので、彼らの論理で行けば、唯一意味がある存在は宇宙を科学的に探究する科学者(つまり彼ら自身)であって、他の人間は獣に等しいと言っていることになります。〕

フェルメールの『牛乳を注ぐ女』という名画中の名画があります。私は30年ほど前にこの実物を見て、腰を抜かすような衝撃を受けました。驚異的なマチエール、画面のどこを取っても手抜きのところがない完璧な構成。
で、この絵は、何を中心に描いているか。女の美貌? 注がれる一筋の牛乳? テーブルに並べられたパン? どれでもありません。それらは確かに視線を集める「ハイライト」部分ですが、そこだけを取り出しても全然絵にはなりません。窓や籠や食器や衣服や、テーブルの下の闇、一見無造作に白塗りされたように見えながら微細な陰影を見せる壁、そういったものがすべてあって、あわさって、初めてこの作品ができている。どれが欠けても、手抜きされても、この作品はできない。
もちろん、部分だけ取り出しても面白く見られる作品というものはあります。でも、やはりすごい作品というのは、全体ですごい。本当の作品というものはそういうものでしょう。

人間のたくさんの魂が織りなす「絵」も、そういうものではないでしょうか。いや、神(宇宙の至高知性)の創造というもの自体が、そういうものなのではないでしょうか。
確かに一見「ハイライト」に見える部分はある。けれども、そこだけでは意味がない。一見地味に見える背景にも、完璧な意図が与えられている。そして様々な部分が複雑に絡みあい、響き合って、この上ない絶妙な「意味」をつむぎ出している。
私の存在は、ハイライト部分ではない、テーブル上のパンの小さな穴を示す一筆かもしれない。壁の白塗りにわずかに表情をつける一筆かもしれない。でも、それは全体の構成にとって、ハイライト部分と同じく、意味がある。
意味があるという点においてのみ、すべての存在は平等です。すべての存在は、神の創造・想像力の一片であり、この大宇宙の創造劇の一端を担っている。それぞれがそれぞれの場所で独自のものを表現している。それによって、世界は複雑で豊かな作品を構成するわけです。

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私は何も特別な表現・行動をしていない、凡庸な存在に過ぎない、と言う人もいるかもしれません。
外側のことは重要ではありません。問題なのは、「魂の体験」です。
何か輝かしい活動をしなくても、特別な表現などしなくても、すべての魂の記憶は自分が所属する「類魂」の共通の宝になります。細かい事実の記憶ではありません。世間的に何をなしたかという記録でもありません。残っていくのは魂の体験――心の深い感情や、自ら獲得した叡智など――です。それらは、類魂の記憶の中に組み入れられ、類魂全体の成長の糧となります。類魂に属するそれぞれの魂は、その糧によってさらに成長進化し、やがてこの地上での転生を卒業していけるほどの力を持つようになります。われわれの体験は自分自身を成長させるだけでなく、仲間の魂をも成長させる栄養となるわけです。
さらに、すべての魂の記憶は、「大宇宙記憶」に刻まれます。アカシック・レコードとも呼ばれるこの「大記憶」は、通常の感覚では、「あり得ない」と思われますが、様々な霊的情報がその実在を語っています。死後の世界へ行けば、魂はそれにアクセスすることができます。未熟な魂は、自らのいくつかの転生を知るだけですが、成長した魂は、類魂の記憶や、さらに「霊的部族」の記憶まで呼び出すことができます。
この「大宇宙記憶」は、しばしば「巨大図書館」のように表現されることもありますが、それは決して死したデータ蓄積所ではないでしょう。それはちょうどクラウド・コンピュータのように、超多数の魂の記憶の連合からなる、巨大ネットワークなのでしょう。それは人類の達成であり、神の作品でもあるでしょう。さらにそれは次の世界を生み出す母体にもなるのでしょう。
だから、どんな魂の営みも、類魂の記憶を富ませ、大宇宙記憶を豊かにするという、意味があるのです。

こうした観点からすれば、人間の生にとって重要なのは、現世の物理的事実ではないことがわかります。魂がどれだけ深い感情を経験し、叡智を獲得したか、ということです。苦闘や苦悩を通して、他者の心に共感したり、真・善・美のありようを会得したり、より高度に構成的な知を獲得したり、魂の真実の姿をおぼろげに感得したり、といったことです。
現世の富や権力・地位や名声などは、それ自体では意味を持ちません。それによって活動の可能性を拡げ、より深い体験ができるなら、それはよい助けとなるでしょうけれども、それに捕らわれて非道や悪事をなしてしまうのなら、この上ない災厄となるでしょう。
また、魂の体験にとって避けるべきなのは、停滞であり、無感受です。恵まれた生活をしていても、日々の気晴らしを繰り返すだけで、何も得ることなく過ごすのでは、魂の体験は豊かになりません。羨ましがられる仕事をしていても、機械的にこなしているだけでは、意味がありません。ダンテの『神曲』には、地獄の門の前には「前庭」があって、「そこでは無為に生きて善も悪もなさなかった亡者が、地獄にも天国にも入ることを許されず、ここで蜂や虻に刺される」とされています。面白いですね。

それよりもむしろ苦悩の人生の方が、魂の成長にとっては望ましいと、高級霊は言っています。苦しむことによって、魂は力を強め、傲慢を改め、知や感情を拡げ、より深い真理を求めるようになるというのです。人は誰でも苦しむことはいやで、避けようとするのですが、それはほどほどにしておいた方がいいようです。そして苦悩が自らの前に避けがたくある時、このことを思えば耐える力も出てくるのではないでしょうか。

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以上のことを、宗教的な表現をいとわないで、単純に言うと、次のようになるでしょうか。

人は誰もが神の子(神の創造・想像力の一片)です。
神の創造には意味があり、その子であるすべての生には意味があります。
他人がどうこうではなく、自分の生をこの上なく貴重なものとして生きなさい。

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