【第三部 祈りと神秘体験】

人間個性を超えて 第三部 祈りと神秘体験
(F・W・H・マイヤーズによる霊界通信)

G・カミンズ筆記/梅原伸太郎訳
(C) 2000 by Shintaro UMEHARA

掲載日:2010年12月14日

【内容】
第三部 祈りと神秘体験
第十二章 祈り
集団の祈り
孤独の谷での祈り
賛美と感謝
運命と祈り
静 寂
第十三章 地獄
地獄と死後の生活
われわれは自分で地獄を創るか?
悪人の栄え
第十四章 正しい愛の道
知識と叡智
仏陀として知られるゴータマ
キリスト、仏陀、および霊的世界
ナザリーンとキリストの弟子たち
第十五章 予見と記憶
概念的世界
霊能者の被暗示的性質
第十六章 自然霊
動物の死後存続
第十七章 狂気
第二の処置法
準備期間
地縛霊のいろいろ
老 衰
憂鬱症
幻 覚
妄 想
第十八章 正義
第三部 祈りと神秘体験

「しかし結局のところ、永生のような重大な問題に関しては、私たちは皆、苦しい懐疑の後に到達した自分の見解は発表し、他の全く違った道を辿って同じ信念に達した他人の意見は尊重するほどの心の大きさが必要である。前の世代にあらゆる信仰を窒息させた唯物論に反対するものは、どのような立場の人であろうと、真の意味で私たちの『仲間』である。その人が自分の用いる以外の武器で闘おうとそれは問題ではない。」
――ジェイムズ・マーチャント卿編集による『死後の世界』(キリスト教とスピリチュアリズムによる)に寄せたロンドン司教の序文より

第十二章 祈り

祈りに関して言われるべきことのすべてはキリストによって完全に言われているので、このテーマについて書くことは難しい。そこで私が〈至高者〉との霊交の方法について何かを言うとすれば、それは福音書のことばの深い意味を充分に理解しているキリスト教徒がほとんどいない――殊に礼拝者の心の態度に関して述べている件については――ことを言いたいためである。
われわれキリスト教徒は、数世紀に亙って、祈りの実践を蔑み誤用してきた。われわれはそれを自己の利己的な目的のために用いてきたのである。敵の破壊を祈願し、神が選良――それは社会のほんの一握りの人のことである――のみを心に留めるよう懇願した。そして他者すなわち人類全体を無視したのである。さもなければわれわれは口先だけの饒舌家よろしく、言っていることについては何も考えず、ずっと昔に死んだ人の作った文句を、まるでそれらに魔術的な意味でもあるかのように、また、ことばの音そのものが望みの効果をもつとでもいうかのように機械的に唱えてきた。おそらく歴史上で今ほど福音書に立ち帰り、祈りの真の性質と働きを再発見する必要のある時はあるまい。
私は不滅への道を地上の人よりも幾らか永く旅してきた者である。死後の生活において私は祈りの効果はそのことばにあるのではなくそのときの心の態度によるのだということが分かった。神を呼び、神に己が心を開かんとする者はまず厳しく己れの心を浄めなければならぬ。自らの創造者の前に祈願や嘆願の祈りをしようと決したときは、利己心の混入や己れの利益を計る気持ちがあってはならぬことを心に銘記しておかなければならない。そのときは人類同胞への想い、宇宙の奇《くし》びに触れる想いに満ち溢れた状態でなければいけないのである。言い換えれば、自分自身の小さな個我から出て、あらゆる生命あるものの魂と融合しようとしなければならない。そこで初めて彼は神の前に立ち、祈りのことばを口にし、他人を傷つけたりするものでない限りにおいて、自分の赤心からの願いを述べることができるのである。
祈りを無価値にする最たるものは疫病、戦争、経済的圧迫等のある時である。このようなときに神の前に立てば、それはいと高きものへの冒涜であり罪である。しかし人生の苦難、その孤独、危険な圧迫に際して、心からの援助と慰めを願うなら、それは誤りではなく、扉は開かれるであろう。しかしそれはいつもというわけではなく、また願いのままに聴き入れられるというわけでもない。というのも、魂は永遠への旅の巡礼であり、彼の通らなければならない道は例外的な場合を除いては、人生が困難で環境が耐え難いというだけでは変更できないものだからである。
あなた方が自分のために祈るときは、本霊が賜物を下すようにと祈りなさい。ただ他人のために祈るときのみ、物質的窮乏の軽減を願いなさい。もしあなた自身を幼子のようにして、繰り返し天の父への祈りをするなら、その祈りごとの中にあるように、日々の糧を願っても無駄にはならないであろう。しかしあらゆる祈りのうちでも最も大きなこの祈りを口にするとき、あなたは大人の心を奇麗に片づけて、キリストが彼の前に呼んだ子供たちの聖なる単純さに自分を戻さなければならない。キリストはその御言葉の中で「幼子のごとくなければ、神の国に入ることはできない」〔マタイ18:3〕と言ったのである。
祈りの行為をなしつつある人は、今まさに神の国に入らんとしているのだということをよく心に留めておかなければならない。彼は取るに足りない煩いや些細なことを気に掛ける日常意識から無限意識へと移っていく。彼は永遠の生命と一体にならなければならない。それゆえ、心と目的を単純にして、疑いや恐れや不信その他神の国の入口を閉ざしてしまう人生のあらゆる重荷を投げ捨ててしまわなければならないのである。
これまで私は祈りについての概括的な見方を披露してきた。人が神に近づく様々なやり方を詳しく書き示すには一冊の本を書かなければならないであろう。しかしながら私は、祈りはそれが捧げられる場所によって神聖さを増したりするものではないことを強調しておきたい。寺や教会や古代の大寺院などの場所は、至高な存在との霊交に入ろうと思うなら、あなたが心を正すのによい助けになろう。同様に丘の上に独り祈ることも、自我の殼から脱出するのによい雰囲気を生みだす。だから、それがよければそうした場所で祈るようにせよ。ただ、恐怖、懐疑、不信、利己心、怒り、嫉妬などのあらゆる霊の罪となるものは払い落としておきなさい。それらは蛇が鳥を捕らえるようにあなたを捕らえ、祈りの翼を完全に抑え込み、むしり取るからである。
野生の鴎を心に描いてみなさい。それは崖の安全地帯を離れ、固い大地を後に海面を横切って遠く見事に飛翔する。上昇し、浮かび、また舞い上がる。そのように、祈りのときは神を求め、あなたの魂を上昇させ空にはばたかせなさい。
私の意見は完全主義的忠告のように思えるかもしれない。しかし人それぞれのやり方ですればよいのである。知的感情的本性に従って、これらの勧めを加減よくあなたの生活に応用してくれればよい。しかし本当の祈りを捧げたいと思う人なら、そのことばに確信とまことがあるときにだけ祈りなさい。純朴な羊飼いが子供の心で、つまり無邪気にひたすら神を信じて祈るなら、いかなる教会のいかなる高位の権威者よりも立派に確実に神に近づく。
年月が過ぎ、中年が若さにとって変わり、煩いと責任があなたを包むにつれて、あなたはますます注意深く、じっくりと自分を見守るようにせよ。そして心を神に向け、あなたや他人に必要なことを祈願しようと心の準備が整うそのとき、あなたの祈る所がそのまま「聖なる場所」なのだというこの知識を胸に刻んでおくとよい。

◆集団の祈り

個人の祈りよりももっと難しいのが集団の祈りである。あなた方が集団の中で祈るときは心が散乱しやすく他人の個性の網に引っ張られやすい。しかしもし全体が一つの心になって魂の底から祈りのことばを唱えるなら、大勢が集まってする祈りには霊的力がある。その祈りは永遠の霊に届くばかりでなく、世の暗闇に霊感の明るい燈火を投げかけ、それが礼拝を意に介さない心の薄暗がりに明かりを点す。なぜなら、情動的で霊の吹き込まれた想念が熱烈に信念をもって発せられると、それは空間を伝播し、無分別、無自覚な心の中に浸透する。それはあたかもそのときの音声がエーテル中を伝播して地球の最果てまでも伝わり、それを受信すべく同調した装置によって聴取されるのと変わらない。
ある大きな目的と必要から集団で全身全霊をもって祈る人々は、時満ちて豊かな収穫をもたらす種を蒔いているのである。しかし私はもう一度、機械的祈りや形式的な公祈祷は駄目だと言っておきたい。馴れあいになりすぎて気が抜け、生命がないからである。心のまことも魂の美しさも響かせないただの祈り言を口さきから出しているだけだからである。
あなた方が祈祷集を学び聖なる礼拝に参列することがあれば、あなた方はきっと、「嘆願」〔訳注1〕の中に私の言った「偽りの謙虚さ」の調子があることに気づくであろう。牧師や出席者たちは繰り返し自分たちが罪人であることを嘆くが、その実、それほど自らを責めながら、大抵の場合自分を哀れとも罪深いとも感じていない。それゆえわれわれには、彼らが自分たちを無価値だとする信念を強調しすぎることによって、偉大にして力ある神を一所懸命なだめたりすかしたりしているとしか思われないのである。
こうして祈る人は確かに余りにも軽々しく聖なる道に歩み入っていはしないか? もしわれわれを形相の世界を超えた人と比較するなら、間違いなくわれわれは霊的進歩の度合いにおいて切なくみじめである。しかし人は「嘆願」のことばを唱えるときこの事実を知ってはいない。そこでこの特殊な祈りはおそらく英国国教会にとっては慎重に扱われなければならぬものの一つであろう。もし彼がその中に含まれることばに実感がなく、自分自身やまた他人に関してその真理を信じられないなら、そのとき彼は黙っているままの方が遥かによい。
私は知的偽善が微妙な敵で、祈る人を襲う中でも最たる危険ではないかと思う。それゆえ、素朴さと広い視野をもってのみ、われわれはそれを克服し、また勝ち抜いて、それだけが祈りを永遠の霊との霊交たらしめる魂のあるべき真の態度に到達する。
私はこれまで祈りを死後の世界との関係では述べてこなかった。われわれの愛した人は最後の審判の日がくるまで永い安息の状態にいると信じているキリスト教徒は、間違いなく、墓の向こうの世界に祈りはありえないと言うことであろう。論理的前提からすればこれは正しい言い分であるようである。なぜなら祈りは努力を要し、魂の労働は疑いもなく死者の永い眠りを妨げるからである。しかし私は不滅への道は無限に延び、努力や闘争や難題克服の勝利感は旅路の途中にある「私たちの父の多くの館」〔ヨハネ14:2〕と呼ばれる休憩所間ですべて経験されると言ってきた。そして帰幽者は祈りを必要とし、地上で絶えず祈っている男女よりは遙かに熱心にまたその真の意味を知って神との霊交を求めている。
形相の世界にいるわれわれは、あなたがた地上人の決して窺い知ることのできないことであるが、どうすれば有限の状態を脱し無限に移行できるかを知っている。われわれもまた、あなた方がするように「我らの父」に泣いて訴えるのである。しかしわれわれは神の神秘の深い意味を知り、礼拝行為や接神を尊重している。われわれが類魂に入り、その多くの部分や仲間の存在に気づき、一つの霊を分け持つとき、われわれは調和の祈りに入る。それは地上の大集団から立ち上ってくる最も崇高な祈り言に勝る集団の祈りである。なぜなら、「聖霊」の臨在にまざまざと気づいているわれわれは、もっと容易にもっとうまくその御前に進み出て、神に願いの筋を申し上げるからである。
さて、私はこの「臨在(Presence)」ということばをよく気をつけて用いているつもりである。なぜなら、私はこの語のほかに神が身近に遍満する感じを表わす語を知らないからである。われわれは神の臨在のうちにいるのであるが依然として神を見ることはないであろう。がしかし、太陽が薄い雲に隠れているときにさえその光線を人に射し注ぐように、われわれが類魂の中で神を求めて祈りを嘆願するときには、神を感じとることができる。魂の霊眼には強すぎる「光明」を最後のヴェールが隠しているだけなのである。その光はこのように弱められて全身に浸透し、輝く力を授けることにより、われわれを暖め、元気づけ、慰め、啓発してくれるのである。
私はこうした経験を書き表わすことばを見出すことができない。その恍惚感は私が類魂の内に留まりながら、思い切って形相の世界を超えたところまで踏み入ったほんの短いあいだに知ったのである。それは仲間たちが魂の妙なる領域で礼拝をしているほんの僅かのあいだのことであったが。
今は地上を去った多くの巡礼に関係のある祈りのことを長々と話すときではない。私は意識の階段を上りつつある人にとっての祈りは、あなた方の世界のどんな国のどんなことばで神を拝む人々にとってよりも遙かに現実的で重要であることを言いたいのである。というのも、肉体は魂の感受性を殺し、霊的人間とかなたの光明のあいだに垂れ籠めている雲を厚くするからである。

日々は眠りとともに死ぬ。祈るとき高次な世界の霊人の経験に参加する人は、この意味において死ななければならない。つまり昼が夜に変わるように身体から完全に脱け出さなければならない。そのときはもはや肉体を意識することなく、魂が自分の本霊に溶け込むなら、高次世界に上り、無心の熱情とまことをもって至高者に祈ることができる。
神秘家や、素朴な人は、歴史上稀にではあるが、このような完全な祈りの経験をした。彼らは大体において、この高次世界へ参入したことを人に告げなかった。私は今はただ次の真理を明らかにするためにそれを言う。人間の信仰は山をも動かすであろうし、また、心から欲するなら、形相世界のさらに上の次元に住む者たちの経験するような神との霊交を達成できるであろうと。

◆孤独の谷での祈り

ごく普通の人間の人生には、これといった喜びもないがさりとて格別の悲しみもない、どうにか満足すべき平穏無事の生活の続く時期というものがある。このあいだは定まった仕事や娯楽を脅かすようなものは何もない。だが、どんな人でもいつかは心労や悲哀や重病、またひょっとして経済的損失などに見舞われることがある。とにかくその人は突如として定まった人生の軌道から振り落とされ、自分の弱さや奥深い霊的孤独に気づかされる。今や何の援助もなく、神なしにであれ神と共にであれ、自分の卑小さと窮状に直面するのである。しかしどうやって彼はこの暗夜に神を見つけたらよいのか。彼はどうやったら暗闇を手探りで進みこの孤独の谷においても〈不可視の存在〉を発見できるのであろうか?
キリストが祈ったような祈りにおいてのみ彼は自分が孤独ではないことを発見するであろう。絶対の窮状を告白し、父への祈りを繰り返すことによってのみ彼は問題打開を計り、自分の孤独が神の遍満する臨在に満たされ、神が苦難の夜においても彼と共にあることを発見する。
ひとたび父なる神との繋がりができると、彼の嘆願は聞き届けられるであろう。不平は衣を脱ぐように脱け落ちるであろう。そのとき彼の魂は高揚し、拡大し、完全亡我の瞬間にこれまで決して経験したことのない力と決断を授けられるのである。
それゆえ祈りと神の内在がもたらす確信とはおそらく、魂に対する影響の上では、あらゆる献身的な行為のうちでも最も重要なものである。
「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。」〔ルカ22:42〕
人が短い人生のうちに十字架を負わされなければならないときは、その苦痛の底からこのことばをあげるがよい。何度も何度も繰り返しせよ。必ず無傷の勝利者となることであろう。

◆賛美と感謝

神への賞賛と尊崇は個人と〈創造者〉のあいだに存在する。彼を心から神つまり〈至高の精神〉への賛美をしたい気持ちにさせる尊敬、憧憬、表現し難い畏れなどを神に伝えるためには、彼自身が敬意や感謝に満たされていなければならない。
同様に、この気持ちを吐露しているときの魂の状態は、われわれと〈最も聖なるもの〉とのあいだに内的な流れや交流を作り出す元となる。詩情溢れる世界的音楽に聴き入るときに神を賛美するとよい。巨匠によって書かれた交響曲は実際神への賛美のラプソディーである。それは音波に乗せて魂を〈いと高き〉ものへと運び、心と意識を〈創造者〉への恭しい感謝に低頭せしめる捧げものとなる。
声のない祈りは口に出された祈りよりも力強い。魂は沈黙を通してこそもっとも神聖なものへ到達するからである。しかしこれは大部分の人にとっては困難な方法である。だからその祈願と賛美、懇願と内省のことばを声高に唱えせしめそれぞれの仕方で宇宙のメロディを歌わしめよ。というのも生きとし生ける者は皆それぞれのやり方でその創造者に祈るからである。無神論者でさえ、人生のある時期にはその懐疑の鎧の紐を緩め、艱難に遭えばそのときには見えざる神に歎き訴え、彼の嘆願を創造の心なき暗闇を通して訴える。われわれはいつも絶えることなく、時の書物の上に想像し、型造り、刻み込む。われわれはいつも、自分の素材のみではなく、各人の宇宙の素材――各人から見るとバラバラで個別的な――をイメージし、またイメージし直す。
人はそれぞれ独自の宇宙に住む傾向がある。ごく稀にだが、彼は孤立に気づき、そのときはその考えが彼を圧倒し地震のように彼を打ち砕く。しかし彼にとっても全人類にとっても彼自身の作った宇宙から逃走する手段がある。彼は祈りの扉を叩くことができる。そうすれば扉は開け放たれて、孤独の彼に〈神の宇宙〉は啓示されることであろう。

◆運命と祈り

私は決定論者ではない。私はすべての筋書きが永遠に書かれてしまっていて変更がきかないとは思わない。運命は祈りによって変えられるだろうが、それは一般に考えられているようなふうにではない。それは人の性格の変化によって変えられるのである。そのときもはや試練や苦難を具体的体験としては必要としない変化があったということである。
悔い改めて全身から祈り出す祈りは〈最高精神〉に届き、その結果必ずその霊は還流する。すなわち神からの啓示は人が無限へと送り出す祈りによって穿〈うが〉った水路を通じてやってくる。内的存在と溶けあい、心からの願いによって招霊された聖霊は人間をすっかり変え、粗野を和らげ、歪んだ心に美を与える。魂の土壌を浄め、弱さだけがあったところに力を与える。かくして強められたこの地上の巡礼は、彼の恐れる試練や苦痛の原因となっていた彼の本性上の過ちを克服した。彼は祈りとその孤独な請い願いの力によって災厄から脱出した。
しかしながら、祈りの最も高貴な形態は嘆願、懇請、賛美の類ではない。それは創造者たる父と子のあいだにおける霊的交流である。子は長老の助言と忠告を求める。というのも若者にとって「長老」のことばは叡智の源泉そのものであるから。
叡智を求める祈りであれ。真理、人生万般の真なる行為、そのときどきの正しい思考を求める祈りであれ。絶えず熱意をもってこのような賜物が神から下されることを祈ろう。また祈りは根本においては未経験な若者と忠告を与える賢明にして慈しみ深き父とのあいだの交流を意味するのだという確信を心に刻みこめ。

◆静 寂

日々の喧騒がわれわれを取り巻いている。われわれの肩にかかる荷物の重みと責任が甚だしいために、われわれは一瞬もその包みを道端に置き、静寂の中に引き龍もることができない。このような静寂のうちにこそすべての精神に必要不可欠な生命賦活剤があるのである。もしあなた方が魂を痛ましむることなくこの世を過ごそうと思うなら、これを摂取すべきである。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ」〔詩篇46:10〕――このことばはおそらく普通の人には謎めいて聞こえるであろう。しかしこのことはこの世界の偉大な真理のひとつなのである。沈黙と孤独の中にあってこそ、われわれはすべての仮装と虚飾を投げ捨て、人生の虚飾と見せかけを振り捨てることができる。われわれは今や問題を厳しく直視し、われわれ自身を、弱々しくではあるが振り返ってみようと努力する。この反省を超えてさらに進んだとき、受動状態で神に聴く瞑想へと入ってゆくのである。
私は最大の敬意をもって「神に聴く」ということばを用いている。私はそれによって永遠の霊(内在意識の知覚によってのみ捉えられる)についての触知しえない感知力を意味している。この感知力によって、われわれは修練努力の結果、日常の表面意識を鎮め、かくして静寂と孤独によって遂に神の驚異を知るに至る。「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである」〔使徒行伝17:28〕ということを知るようになる。
このことばの意味を実際的体験によって悟得する人はほとんどいない。しかしひとたびそれを体得するや巡礼にとってそれは精神と肉体に対する記念すべくまた驚嘆すべき征服と勝利なのである。そしてこの内なる感覚の認知の始まりは、キリストの命令によって盲目の人の目が開いたのに等しく、彼はそこに驚異の新世界を見るのである。
しかしこの喩えは単純すぎる。これだけでは最初に自我の獄から出た後の、静寂の中であらゆるものの魂と一体化したという恍惚感を伝えることはできない。
われわれが孤独の中で無音の静けさに取り巻かれているときに味わう状態と統一の度合いは様々なのである。最初は沈黙の中に自己の霊のかすかな光を見る。そしてその光に刺激される。しかしまだ「非我」との接触はない。これはまだ統一の初段階なのである。第二の状態に入ったとき、意識は魂の世界に気づく。第三にこれが最後の段階であり、それには多くの労苦と探求の道のりを覚悟しなくてはならぬが、静寂の中で「神に聴く」段階に達するのである。
各人はもちろん、自分なりの方法でこの聖なる恍惚への道を見出さねばならぬ。誰も長くはこの高みにとどまることができない。何となれば、人間には、たとえ条件が整っていたとしてもほんの僅かな瞬間しかこの高所の空気を呼吸することができないからである。この状態は主観的には一世紀ほどにも感ずるものだ。かくのごとき実在感はわれわれにとって強烈すぎてむしろ恐ろしい。それは神への帰入の永い道のりにある他のあらゆる経験を超越する、余りにも高揚した平安の境地だからである。
しかし地上的物理的な意味での時間をこの状態に適用して考えては駄目である。準備には長い時聞がかかっても、原則として聖なる時間の静けさは、喩えて言えば夜の海面をかすめる燈台の燈火ほどにも持続しないからである。
静寂の中に入っていくとき、あらゆる想念を投げ捨てなければならない。これを行なうときは個人的生活や単独の感じを連想させず、「全体」を示唆するイメージを思い浮かべるがよい。このシンボルを心に暖めていると、次第にあなたは変化してゆく。あなたの自我はゆっくりと解き放たれ、拘束的な神経の網や肉体の重みの感覚を振り捨てていく。最初の平安に満ちた静けさが達せられると、あらゆる感覚的なものからの滑走、沈下、移行が起こり、その後に目覚めがやってくるはずである。
昼の喧騒が鎮められると夜の静けさが世界を支配し、あなた方の周囲に脈打つ無数の頭脳の活動を眠りに閉じ込める。そのときあなた方は日中よりも容易に「非我」の探索にでかけることができる。またもし自然が身近にあるときは、風吹く丘に登り、そこで人生の仮面をかなぐり捨て、非人格的な魂に対して自分を投げ出すのに必要なしじまと安らぎを見出すであろう。この非人格的な魂は大変身近なものだが目には見えず、かすかであるがあなたの外にも内にもあると言える。が、それは最高の努力がなされたときにのみあなたに繋がるのである。
懐疑家も信徒も皆、こうして自我の谷から這い上がり、能力に応じて時空から脱出し、遂には宇宙の永遠のリズムの鼓動を感じとるであろう。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ」――このことばは地上に生きるあいだでさえあなた方を死後の世界に引きつける。あなた方は余り遠くまでいくことはできないが、もしあなたの状態がそれにふさわしければごく稀な瞬間に、聖なる状態の経験をするであろう。それは本来、魂の旅路の最終に近づいた帰幽者だけが実感できる、ことばにならず人間的理解も超えた崇高な意識状態なのである。

〔訳注〕
(1) the Litany、リタニ。カトリックでは「連祷」、国教会では「嘆願」と訳す。

第十三章 地獄[原注1]

地獄はあなた方の内にある。このテーマに近づく者は諸々ある神学上の知識を頭から払拭しておかなければならない。
ヴィクトリア朝時代にあっては地獄は深刻な現実のものとしてあり、仲間の多くが永劫の火の中に投げ込まれるという信念に卑しくケチな快感を覚える信心家や、信心家ぶる人々の関心を引き寄せていた。西洋人の大部分は、妬む神によって罰が与えられるという考えをもっていない場合でも、少なくとも地獄をその凄まじい責め苦からは逃れようのないはっきりした場所として受け入れていたのである。
さて、時の車輪が一回転した今となっては、新時代の人々は死後に罪人を待つ永劫の火という考え方を抱いてはいない。知的な人々が地獄について考えるとしたら、それは地上生活との関係においてのみである。もし運命が彼らを手荒く扱うなら、それは彼ら自身には何の罪もない最悪の不幸を不当にも味わわされていると感じるのである。外的環境や不快な人間ないし彼らの肉体的遺伝が、今ここにある彼ら自身の個人的な地獄の中で彼を苦しめる悪魔として考えられている。彼らは邪悪な金融業者や暴君的な支配者を罵り、彼らがやがてその相読者となる自分たち直接のグループを非難する。もっとも私が言うのは人類のうちの知的な部分に関してのみである。彼ら第一次大戦以降の男女は、ヴィクトリア朝時代の先輩と同じく、こうした外的な影響は、地獄が彼らの内部にある以上非難するにあたらないことを認めようとはしない。
悲惨という語の適用される状態は、地上においてばかりではなく死後の特殊な領域においても経験される。地獄ということばは、余りにも長いことある限定された区域を意味してきたので、説明不充分である。その実際の場所というのは、しばしば善悪の知識を持ちながら故意に悪く愚かな生き方を選ぶ人たちの意識の中に見出されるであろう。なるほど、地獄は明らかに正しい人間の中にも暫くは宿り、その人は自分が原因ではない苛烈な悲劇に直面しなければならない場合があることも事実である。しかしそんな場合でも、その人にその苦悩の責任がないとは言えず、自分がその悲劇の書き手であるかもしれないのである。というのも、前生において、彼が自分の行為によってか、または彼の類魂が彼のためにこの過酷な時期を作りあげた結果、彼には不当としか思えない現在の責め苦の状態が招来されたのかもしれないからである。
罰という観念を捨てる必要がある。この語は過去の神学上の著作にしばしば登場した語で、信心深いサディストの高位聖職者が描きだしたものである。この世においても死後の世界においても、われわれが失敗したことで罰せられることはない。われわれは一連の行為に引き続いて起こる当然の結果を経験するだけなのである。どうしても「地獄の苦痛」を味わわなければならないときは、それを成長のための苦痛とみなさなくてはならない。すなわちわれわれはこうした経験が進歩のためには必要なことに気づかなくてはならない。地獄を通して天国に至るのである。地獄なしには天国もない。悪が善に対して必要であり、善が悪に対して必要なように、地獄と天国は互いに必要としあうのである。
旅する魂の大多数は、その永い旅路の所々で、煉獄の火を想像上で経験しなければならない。しかしこれは清めであり浄化である。このような経験の後で旅人には必ず良いことがある。彼は霊的知覚を増し、なかんずく克己を学びとる。そして遂には地獄が彼を支配しないような時がくるのである。そのときには彼は外的環境がどうであれ、心の静謐を維持し、永遠の霊との調和に生きることができるような意識状態に達しているのである。

◆地獄と死後の生活

これまで述べたことは生前、死後の状態の両者にあてはまる。地獄に人の永く滞留する都市はない。地獄は個人の健康と最終的な救済のために必要な状態であるとみなさなければならない。その人が肉体人であれ帰幽者であれ、また地上時間の内にいようと、幻想世界の別の時間の内にいようと、あるいはまた形相の内にいようとそれは同じである。
「永劫の火」という語は大変誤解を招きやすい語で、現在では論理的精神の持ち主なら誰でも進歩の法則に従って、生き物が絶え間なくその苦痛を感受することはないことを認めている。この観念は自然の法則に反しているのである。実際、地獄と呼ばれる状態は、多様でそして時たま楽しいことどものあいだに、間欠的に、体験されるはずである。しかしこれはあくまでも最初「動物的な人」となり、それから「魂的な人」、最後に人間的な不幸や苦痛を超えた高次世界へと進む普通の人のことを言っているのである。
幻影の国すなわち「努力なしの国」においては人間的な観念が残っていることを思い出してもらいたい。だから、嫉妬深かったり喧嘩好きな男女がこの死後の幸福国に入ると、この人々は古い所有欲や怨恨を持ち込み、自分と同じ型の人間を探して昔の情念を爆発させることがある。無論、彼らの親しい人が遙かに進歩して追跡できなくなっている場合は別である。不滅への旅は独りで辿るものではない。たとえ一時的に仲間から全く引き離されたと思っても、遅かれ早かれ霊的引力の法則に従い、愛憎的関わりのある自己のサークルヘと引き戻されるのである。誰もわれわれが地獄と呼んでいる悔恨と惨めさの状態を永遠に苦しまねばならぬということはない。助けはいつもすぐ傍らにある。時満ちて、あなたが援助を受け入れる準備が整ったとき、愛する人があなたを救い、樵悴し打ちのめされたあなたを絶望から希望へと引き上げてくれる。
道ゆく人が、後戻りしてまで疲れきり脱落しそうな魂を探すときほど、愛の美しさを印象づけられることはおそらくない。キリストは彼が愛した子らを救うために天の最高の高みから地の深淵まで下りてこられた。しかし無数の魂が同じようにして父、兄弟、息子、母、妻、友人たちを個人的に探し求めた。彼らはそのことによって自己の霊的力を増すのみならず、彼らが助けた魂の成長を促し、霊的な花を開花せしめるのである。
私が「愛する」ということばを用いるとき、私は必ずしも一個人または異性に属する同魂者を指してはいない。この語が指す人は二人、三人、あるいはもっといるかもしれない。このことに関して法則は作りえない。なぜなら人々が霊的引力に反応する仕方にはひどく相違があるからである。彼らがめいめい自分の本性を追究し、類魂の特質に応じた進歩をすることもしばしばである。それゆえ、最高形態の愛にはいかなる拘束も設けることができない。われわれはただ愛が死と地獄を征服できることを知っているだけである。

◆われわれは自分で地獄を創るか?

われわれが自分の地獄を創っていると一般化して言うのは必ずしも事実の正確な記述ではない。疑いもなく、ある魂たちは肉体の健康もエーテル体の健康も申し分なく、諸条件が良いにもかかわらず、故意に自分の地獄を創り出している。しかし多くの魂は過去世によって間接的には現在の苦悩に責任があるのかもしれないが、今生で現実に地獄を作っているわけではない。
「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」とキリストが言ったとき、キリストはゲツセマネの園で地獄を体験していたのである。この神の珍《うず》の御子が全生涯の絶頂期の背後にある神の目的から解放されたいと祈らざるをえないほどに苦悩した不幸というものを思い描いてみよ。
あなた方の肉体と精神がもはや耐えられぬと思われるまでの悲劇のとき、またあなた方の慰め手であるはずの神があなたを見捨ててしまうように思われるときには、ゲツセマネでの暗黒の時間と、父への哀訴の背後にあるキリストの感情の激変と苦悩を思い起こしてみよ。それはあらゆる時代に響き渡った叫びであり、絶望の影が濃く谷を覆い、すべての高所が永遠に姿を隠し見えなくなってしまったかと思えるときには、霊的な精神の持ち主であっても皆、あげた叫び声である。
ある人々は、それが続くあいだ超人間的な忍耐を要するような短期間の激越な苦悩には会わないですむかもしれない。しかしその代わりに性に合わない仕事を長々とやらなければならない不幸というものがある。彼らの魂は欲求不満でちぢこまり、野心は挫かれ抑圧される。外面的には苛烈な体験のない生活を送っているように見えても、その永く引き続く試練は、短期間のいかなる激烈な苦痛より遙かに耐え難いものである。ほかにもまだ欲求不満の人々がいる。仕事のない人たちである。彼らは愛する者たちのためには卑しさも不安も忍び、何ヵ月も生きようと努力するが、救援は永く待った後にようやくやってくる。そのときは、おそらく心臓は未来を希望したり信じたりするのをやめて、止まってしまっていることであろう。
こうした人たちは私が「魂の試練」と呼ぶものに耐えているのであり、それは数日、数時間のあいだに最大苦悩を味わうのと同じことなのである。この世の栄華を味わっていると見える人も、気の合わない相手である妻や夫と生活すれば地獄である。進歩に必要な苦痛の過程は様々あるのである。しかしながら救済は必ずやってくる。もし遅れて地上で間に合わなかったとしても、その分素晴らしい死後の世界の幸福と歓喜は確実に彼らのものとなる。
形相の世界では巡礼は矛盾と闘争から時たま苦痛を味わうが、それはいかなる意味においても地上で忍んだような種類のものではなく、またそれを克服したときの歓喜と勝利感は計りしれないほど増大している。
死後の最初の状態に地獄がないというのは普通の人の場合を言っているのである。異常に嫉妬深かったり利己的であったり、残忍であったり、人を騙すとかいう連中は幻想界に滞在中地獄の苦しみを逃れるわけにはいかないかもしれない。彼らの歪んだ性情が自己の欲望の充足を妨げるのである。真の意味において人を愛するということのできない性格が霊的な引力を圧倒してしまう。地上で結婚し所有していたはずの相手が見つからないのである。彼らは他人の犠牲などはお構いなく自分たちだけが慰められ奉仕されるべきだという幻想の霧の中を空しく手探りで探しまわらなければならない。孤独の運命が彼らを待ち構えている。そのため彼らは永くこの状態にとどまっていず、地上に再生する手段を求める。しかしときたま、その内省的な地獄の経験によって真の愛が生まれることがある。すると地獄はまるで招喚を受けでもしたかのように消え去り、この帰幽者たちの広大な王国で彼らは近親者や気のあった人たちと再会する。
地上からやってきた旅人は様々なので、その経験や、苦痛、快楽、歓喜、悲哀といったものについての彼らの死後の知識に一定不変の規則を定めることはできないのである。地上と「努力なしの国」において魂の織りなす模様は絶えず交錯したりほどかれたりしている。多くの魂は身内の魂や同じ世代の親しい者たちがそこに集うまで幻想の国にとどまるのである。彼らは仲間を必要とし、一団となって旅するからである。但しそこにとどまらずに形相の世界に直進する魂も多くいる。このことは彼らが愛する人と断絶していることを意味しない。彼らは幻想の国に帰り、短いあいだだが一時的に友人や親族と交歓することができる。そこで、後に残したものたちと全く切り離されるというような苦しみは味わわなくてもよいのである。この特殊地獄から解放されているということは帰幽者に与えられた少なからざる恩寵の一つなのである。
死後の世界は地上やその住人から全く隔絶したものであるというのが俗世間の人の多くの見解である。越えることのできない淵があるという観念はもちろん誤っている。霊的引力に従って働く者たちはしばしば死者たちとの交流の道をみつける。そうだとしても、よく考える人たちの中には、彼らが死後に再会するまで永い別離の期間があるなら、再び出会ったとき、彼らは一世代ものあいだ同じ経験も記憶も共有しなかったために見知らぬ者同士のようになってしまうのではないか、という思いに苦しむ人がいる。おそらく、よき友人を失うことの苦悩は原則として認知し合えないことの恐怖に原因しているのであり、変化を通じて完全な別離となるかもしれないということの恐れなのである。この孤独地獄から、魂が完全な「喪失感」という形を取ってしまうこともありうる。そうならないためにも後に残った者たちが、彼らを愛する死者たちと接触を失うことはなく、事情が許せば彼らと日常生活の一部を依然として共有することができることを理解すればよいのである。
あなたが眠るとき、その魂は複体すなわち統一体の中に入り、あなたは閾下自我に移行する。この自我は愛する人と霊交することができ、また現にそれをしているのである。愛する人たちもまた自分自身の閾下自我を通じてあなたと交渉をもつ。こうして経験の交流が行なわれるのである。こうした経験は、原則として肉体記憶の中には招致されない。しかし死後においてあなたは、睡眠の深部において体験した生活が、地上を去った後に残る複体の中に記録されているのを見出すであろう。そこで一世代の間あなたは愛する人たちと別れるが、見知らぬ同士としてではなく年来互いに友好を暖めた同士として再会するのである。
しかしながら、こうした経験はあなたの織りなす模様とデザインの中に入ってきて永い旅路の中で重要な意味をもつほんの僅かの人たちとによってのみ共有される。あなたと共に記憶を保存する帰幽者はあなたの想像以上にそのことに気づいている。しかし彼らもまた他界で積極的な生活を送るあいだは眠りの身体を纏って地上からやってくる魂との出会いの記憶から離れているのである。しかしながら、彼らが遂に同じ世界で会い、挨拶を交わすときには、揃って大自我の中に入り込むことによって、この内なる生活が彼らに明かされるのである。
人間がこの事実に気づくならこの世から多くの悲惨が取り除かれることであろう。そのために私はこの地獄に関する章で再び同じことを言っているのである。というのも完全喪失の感情は、最も絶望的な悲哀の一つと考えられようが、この悲哀は上記のことを受け入れさえすれば、たちまち消散してしまうからである。

◆悪人の栄え

邪悪で冷酷な人間が栄え、正直な人が酷い目にあったり、挫折して中途で倒れるなどするのを見ると、神の正義を信じ難いと思えることがしばしばであろう。
実際、冷酷残忍な者が一生「地獄の火」に会わずに過ごしてしまうこともあるであろう。しかしこのような男はまだ野獣的創造段階に属するもので、意識の階梯の最下段にいるのである。彼はどこかで――おそらくは「努力なしの国」で――地上時代に味わわなかった地獄の苦しみを味わうことであろう。永い歴史の中でいつかは彼も成長しなければならず、成長は苦痛を通してやってくるからである。それゆえ残酷不正と見えるものの責任を神に帰してはならない。天秤は公平に釣り合いをとっている。各人にそのモノサシがあるのである。悪人にその報いの与えられるのが時空のどの時点でであろうと問題であろうか? この男を邪悪な奴とか悪人とか呼ぶ際には、彼はただ歪んで未成熟な段階の魂でこれから数限りない経験によって形造られてゆかなければならないこと、あなた方が今辿る道を彼も旅するのであり、いつかは試練を受け、あなた方が昔味わった辛い深刻な挫折を知るのだということを心に留めておいて欲しい。大多数の魂がかつてはこの未発達段階にあったのである。霊魂の示す様態は多様であるから。
ヨブ記は人間霊魂の地獄克服を記し讃えた最大の賀詞である。実際、正義の人ヨブは意識の階段を駆け上がろうとする魂を象徴したものと考えられなければならないのである。この哀切、苦難の物語において神は試練を与えたといわれるが、この男を養ってきた本霊が彼に試練を課すことを望みかつ同意したことは確かである。というのは、結局のところ至上精神たる神は本霊に選択の自由すなわち自由意志を委ねるからである。本霊は光であり、光の影響によって上方からわれわれに働きかける。が、本霊は全くわれわれと同じものというわけではないので、例外はあるが、この土くれの肉体に深く埋められた意識に高い叡智を伝えることはできないのである。
ヨブ記第十九章[原注2]で彼は勝利に満ちた不滅の叫びを上げるのだが、その叫びはいつの時代にあっても死と地獄に打ちかつことであろう。「私は知る。私をあがなうものは生きておられる。後の日に彼は必ず地の上に立たれる。私の皮がこのように滅ぼされたのち、私は肉を離れて神を見るであろう」

[原注]
(1) 厳密に言えば、地獄という語は「隠れた場所または界」(それは報酬であったり罰であったりする)を意味し、俗人がこれを堕ちた意味で使った、と学者はいう。ヴィクトリア朝時代にはそれは確かに拷問の場所と状態を意味した。便宜上私はこの語を一般的な意味で用いることにする。――マイヤーズ
(2) この章数は通信霊の求めでここに挿入された。――ギブズ

第十四章 正しい愛の道

プラトンは正しい愛の道を見出した魂の旅について語っている。まず最初に地上のものに、ついであらゆる形態の美しさを認めなければならない。それから魂は次第に正しい行為、正しい原理を認め、ついにはすべてのものの究極の原理――すなわち絶対美の知識に到達する。
プラトンが「正しい愛の道」という言葉で旅の心得を述べたとき、彼は霊感を吹き込まれていたのである。しかし想像的理解のない愛は無力で、魂を前進させずに後退させ、人を高い水準へでなく低い水準へと導くことがあることを心に留めておいてもらいたい。そこで私は「正しい愛の道」と言わずにむしろ「叡智の道」と言いたいのである。というのは叡智は愛が非地上的な純粋さに到達するようにと監督するからである。この純粋さは槍のように生命の核心まで突き通り、存在の深部に達する。叡智は人に表面の醜さの中にある美を見通す力を与え、ただの女性、醜悪な不具の老人、醜く厭わしい生活と環境に取り囲まれながら外見からは想像できない精神の美しさを他人に示しつつ戦うすべての人々の魂に美を認める。
是非ともプラトンの勧めに従って正しい愛の行ないを求めることにせよ。しかし知性によって通じる道は一つしかない。そしてこの道を行く人は知性より大きくならなければならず、叡智の扉を開く力が必要である。神知から吹き寄せる風に鳥のように浮かぶことができなければならないのだ。叡智だけが彼を前進させ正しい愛の道へと上昇させるからである。
「真理についての正しい判断」――この言葉には、人が個別な愛のみではなく神愛についても知らなければならないすべてのことが含まれている。評価し判断する力によってのみ、また操作し計測することによって初めて人は金と金クソとを分離し、真と偽を見分け、そのことによって完成した絶対美を発見できるであろうから。
そしてこれを瞑想的生活のうちにか、それともある高い目的をもった仕事のうちに見出す人は、必ずや永遠の価値についての知識を獲得するであろう。そしてこの泥の肉に縛りつけられている間に、本来死後の世界に属し、厳密に言えば地上の運命とは無関係な高次の意識世界に生きることができよう。
このような人の生活は何と崇高であることか。彼はいわば神の知識をもった天使であり、肉の重みを感じながら大衆の悲しみを分かちもつことができる。この世を超え、嵐の上を飛ぶ鴎のように荒れ狂う騒乱を見、同時に地上の現実生活を特徴づける欲望、闘争、憎悪などの逆巻く波を超えた静寂の境涯に住んでいるのである。
有限な心の持ち主は美を知らない。判断に慈悲の心なく、過ちを犯した人に憐れみを持たない清教徒なぞは本質的に地上に属し、私の述べた巡礼者のように二つの世界に住むことはできない。というのも寛大さに欠け、高次な世界へのビジョンがないからである。「ヴィジョンがなければ人々は滅ぶ」〔訳注1〕のである。想像的知覚のないところでは個人は次第に霊的に悪化していくのであり、表面的には良い生活を送っていても内面的には知性の混乱した思考の霧の中に迷い、注意しなければ来世においては低次の世界に沈んだり、まったく魂が洗われないままで再び地上に戻ってくることになる。
「絶対美」を求めるのなら、現実の地上世界を送る間は五官の喜びを軽侮すべきではない。なぜなら彼はこうした種類ないし状態の生活を十分に経験するためにこそ地上に生まれてきたからである。彼は花々や野原、山や海の美をめでるべきである。大都会の美、動き呼吸するすべての生き物の美しさを鑑賞すべきである。絵画や音楽に喜びを見出し、流麗な言葉の美に心と魂を震わせるなら、その人は罪深いどころか霊的力を増大させているのである。
最後に精神的敏感さに関して言えば、彼は宇宙的生活を鋭く意識し続けなければならない。賢者は可視的世界の壮大、恐怖、不可思議、神秘を感じていなければならない。
恋する人と孤高の人、快楽主義者と禁欲主義者、聖者・賢者とただの人、これらのすべての面が彼の中に含まれていなければならない。しかし、むろん、賢者が劣った兄弟を抑え、最終的にはすべての性質を支配すべきである。

完全な人間であったキリストのことを研究せよ。そうすればこれらの様々な面が明らかになろう。
「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」〔マタイ22:21〕。このようにこの世の知識を持っていたあの「人」は言ったのである。
「汝の敵を愛し、汝を迫害する者のために祈れ」〔マタイ5:44〕。こう言って聖者は彼の天上的な夢を明らかにした。また姦淫をしているときに捕らえられた女の物語を通じてわれわれはこの賢者の一面を見る。キリストはこう言って女を責める人を咎めている。「罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」〔ヨハネ8:7〕。
「幼子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である」〔ルカ18:16〕。人間的な愛の「声」はこう語った。人々はこうした言葉の中に自分たちと同じ人間性を認めるのである。
だが、快楽主義者はどうか。私がキリストのことを快楽主義者などと呼ぶと、疑問を感じ、冒涜だと思う人さえいるであろう。しかし私は、水を葡萄酒に変えた「青年」〔ヨハネ2:7〕に、また、かの女性が「彼」に香油を塗ったとき、「彼」の弟子たちにこうたしなめた「人」の中に、快楽主義者の面影を見るのである。「貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」〔マタイ26:11〕
マルタとマリアの物語はいつの時代にもある種の女性たちの目には謎めいて見えたものである。しかし「マリアはそのよい方を選んだのだ」〔ルカ 10:42〕とキリストが言ったとき、キリストの内なる賢者がそれを言ったことに気づくなら、この女性たちは、朝早くから晩遅くまで家事に追われ心労に悩まされる女性に向けられた一見厳しく見えるこのたしなめの意味を理解できるであろう。この言葉の内にはすぐには理解しがたい意味が隠されていたのを読み取れよう。すなわち、自我の一面だけが他のことを押しのけてマルタの生活を占領しかつ支配して、彼女の本性を傷つけていたのである。人間の本性そのものは元来多面的で、人間全体を形成し、土くれのうちに型どられた「神」の似姿に栄光を与えるべきものなのである。
同様に、禁欲主義者は、福音書に現われたキリストと一見何の関わりもないように見えよう。だが前の頁に戻ってみると、その初めの頃に荒野に行き、悪魔に誘惑されながらすべての王国を拒絶し、四十日と四十夜荒れ野で孤独に過ごした一人の男を見る。
最後に、「神聖な生涯」の恐るべき最終場面では、賢者の光が鮮やかにそして永遠に光り輝いている。というのもキリストの中における賢者は、その弟子も世間も、もし死と復活の仲立ちがなければ彼の言葉を受け入れないであろうことを見抜いていたからである。
この最も高貴な犠牲こそが、かがり火に燈火を点じ、人間の思想と努力の傾向がどうなろうとも、あらゆる時代にわたって光明を投げかけ続けるのであろう。
キリストがゲツセマネの園で苦しみもだえつつこう祈ったときには、この賢者が他のすべてを圧し、低い心を抑えたのである。「父よ、御心ならば、どうぞこの杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、御心が成るようにしてください」〔マルコ14:36〕。
かくして〈賢きもの〉が、荒野の孤独の内で、またエッセネびと〔禁欲主義者集団〕の中にいて救いを求めた賢者をたしなめたのであった。聖者の側はこれ以降、神との霊交により、完全なる生涯を送ったというかもしれない。だが快楽主義者の方はこの孤独でまだ若さ溢れる人物に、生涯の年月がまっとうされることを、健全なる身体と美しき魂の生得権を要求したのである。
愛の人は人間の絆を説いた。世間知の者は指導者の死は信者の散乱を招き、それまでの長年にわたる営為は紅葉の散りゆくように跡形もなく消え失せるだろうと推測した。賢者はしかし、暗黒の時代にあって、すべてに打ち勝ち、自我の他の側面を抑え込んだのである。恐怖の夜、賢者はキリストに彼が神の子なることを教え示した。かくて主は兵士たちに向かい合われた。そして彼の告発者たちの前に立ったとき、再び沈黙のうちにその神の叡智を現わしたのである。
私がイエスの最後の日々には賢者が支配したと言っても、それは彼を貶めるためではない。なぜなら賢者は永生の知識をもち、人の生涯を直視することのできる者の謂《い》いであるからだ。賢者は聖霊の叡智を受けるのであり、それゆえにこそまた、ごく稀な人の場合でさえ、その生涯の頂点、おそらくは人生の盛りの時において、さもなければ静謐だが活力ある老年の最終の時においてしか完全な形では現われないものなのである。
あなたがたの時代の浅薄な思想家は、キリストの生涯の美を認めながら、一方でこう言う。彼はその最晩年の日々は狂気であり、死に屈服したのみならず、自らを神の子と呼ぶことによって死を招き込んだと。
どの時代においても愚か者が賢者を狂人呼ばわりするものである。他人を狂人呼ばわりする者こそが愚か者であり霊感の鈍い者であることが分かる。というのも、普通の凡庸な人は叡智に対して盲目であるから、キリストは、自ら神の子たることを宣言し、十字架上の死を甘受することによって初めてその生命と言葉が永らえるということを知っていた、ということに気がつかないからである。
神の子であったこの賢者は、偉人のように彼と共に歩む一時代を征服したのみならず、まだ生まれざる何百万人の人々をも従えた。ほかの何が滅びようとも彼の物語は滅びないであろう。なぜなら彼の生涯は神の叡智の顕現だからである。
福音書を学ぶときは、キリストの慎重な準備期間のことに注意せよ。イエスの心の多面性を見よ。彼がその本性の表現によって完成に達したことを知れ。この多面性によって、彼は性格の均衡を保ち、以来匹敵する者のない生涯を支配する力を獲得した。それらによって彼はあらゆる階層の人間たち――取税人や平民、家事に忙しいマルタ、精神的なものの愛好者マリア、売春婦、司祭、学者、パリサイ人、漁師、金持ち、権力者、乞食など――を理解した。これらの彼と本性上の様々な自我や様態を共感する人々を通して、これらあらゆる人々の誘惑、罪、性的悪徳などを理解した。これらの人々は、今日も二千年前と同じく人間の本性の代表者たちである。
それゆえ、清教徒であれ快楽主義者であれ、本性の一面しか持たず、人生や永遠を一つの見方でしか見ない人たちは神の国から遠く隔たっている。あるいは少なくとも前途は遼遠であり、死後の世界で彼らを待ち受ける高次世界まで上ることは容易ではない。彼らは未発達な魂集団の構成単位たちなのである。

◆知識と叡智

私が叡智の必要を説いたことと、「知識は美徳なり」というあの考え方とを混同しないでもらいたい。ペダンチックな学者たちはいつの時代にもその生涯と行為によってこの言葉が誤りであることを証明した。知識は賢者を作らないということを何度繰り返しても繰り返し過ぎることはない。無学文盲のお百姓が哲学者や優秀な科学者や明敏な神学者にまるで欠けた叡智の恩寵に恵まれているかもしれないのである。「先の者は後になり、後のものは先になるであろう」〔マタイ 19:30〕――この素晴らしい言葉の内にキリストは、私が「叡智」と呼ぶ聖霊の賜物を受けた純朴で名もない人々のことを言ったのである。

◆仏陀として知られるゴータマ

イエスの生涯を仏陀の例との比較において考えてみよう。キリストの不滅の言葉とベナレスの最初の説教でゴータマの言った「四つの高貴な真理」(四諦)とを比較してみよう。それは以下の通りである。
「苦は普遍的なもので、人は誕生から死までそれから逃れられない。この苦の原因は欲望と煩悩であり、これが再生の導きとなり欲望や悲惨を継続させる。苦からの解放は欲望の制圧とあらゆる熱情の断滅によって得られる。すなわち満ち足りており、かつ持たぬ物を持とうと渇望しない静かな心の状態によって得られる。この境地の達成は聖なる八つの道(八正道)を行なうことによって得られる[原注1]。それらはすなわち、正しい信念(正見)、正しい希望(正思)、正しい発言(正言)、正しい行為(正業)、正しい生計の立て方(正命)、正しい目的と努力(正精進)、正しい記憶(正念)、正しい瞑想(正定)である。」
これらの「四つの高貴な真理」から高尚な倫理規定が発展した。仏陀はその信徒たちに次の規則を守って生活せよと言った。
「生き物を殺すな。人のものを盗るな。断じて姦淫をしてはならない。虚偽を言ってはならない。酒類は避けよ。正午以後食事をするな。舞踏、歌謡、音楽、演劇等を見聴きするな。また花飾り、香料、香油、私的装飾等を用いるな。大きすぎる寝台で寝るな。金銀を所有するな。」
この大雑把な説明だけでも仏陀の教えとキリストの教えとはまったく一致しないのが分かるであろう。それらは注意深く比較すればあるいくつかの点ではなはだしく相違している。
仏陀は欲望を抑えることによる苦からの解脱を要求した。彼は苦の源を絶つべきだと説いた。事実、彼の使徒たちは地上的本性の基本部分を殺してしまえと要求されたのである。
一方、キリストは彼の弟子たちに欲望をコントロールすべきであり、彼らがめいめいの家で〔自己存在〕の支配者になるようにも要望した。キリストは弟子たちにその本性の核心部分に死の宣告をさせはしなかった。
カナの結婚式に出席した「青年」は水を葡萄酒に変え、仏陀がその信徒に要求した「酒類をとるな」の戒律を破った。女に貴重な香油を塗らせることを許したキリストはゴータマの規則を再び犯した。主が取税人や罪人と共に食事をし、魚や肉を食べたときもまた、この東洋の信仰の狭い道に外れたのであった。
さらにキリストの言葉の中には生への愛と欲求に満ちたものがある。「彼らに命を得させ、豊かに得させるため」〔ヨハネ10:10〕という言葉そのものが偉大な東洋の師とは一致しない視野の広さを表現している。
私がここで言いたいのは、反省的、禁欲的生活のみならず神が人に与え給うたすべての感覚の使用による広く豊かな経験を通しても、必然的に霊的生活の豊かさが得られるということである。
ナザレ人イエスの宗教は恐怖なしの宗教である。一方仏陀の宗教は道徳的怯懦を暗示しており、そのことは彼の目的が霊的な進歩にあったとか、あるいは霊的な完成への憧れであったとかの美辞麗句――その目的は実のところ再生の定めから逃れることであった――によっては言い逃れられない。
仏陀が信徒たちにすべての欲望を抑えること、五官を通して得られたいかなる幸福も邪悪な性質のものであり、それから逃れるために彼らは逃亡し、いわば誘惑を避け、この世と肉に背を向けなければならないと要求するときは、彼は苦への恐れ、すなわち神が人に授けた本性に対する恐れを表わしているのである。
しかしながらキリストは、肉と悪魔に直面し、あらゆる種類の人々の中に住み、欲望のコントロールされた表現の中には悪を見なかった。いや、彼はむしろわれわれがこの世から学ばなければならない教訓を活かし、それらを勇敢に学び、われわれの性格を発展させ、死を超えた世界における意識の高次レベルを旅し続けるのにもっとふさわしいものとなるためにこの世界に生まれたことを認識していたのである。
キリストが人里離れて祈りと内省に日を送るエッセネ派の隠者たちを非難しなかったのは本当である。彼はこうした運命がある種の人々にはふさわしいと分かっていた。しかし彼の送った生活を見れば、エッセネ派の静かな隠遁生活は、彼には満足すべきものではなく、その限界、つまりそれが人間の本性のごく一部のみを表現する結果になることに気づいていたことが分かる。そこで彼はもっと勇気あるコースを選び、世の中に出てゆき、しかもその中で完全な生活を送ることがいかに可能かの範を示したのである。彼はいかなるときも彼の本性のどれか一部を枯らしてしまうようなことはしなかった。彼は時として怒ることも悲しむこともあったし、また幼子のように陽気で朗らかであるかと思えば気高く霊感に満ちて、司祭や学者やその他あらゆる卑しい悪の群れに立ち向かった。イエスは人々のために、地上で最も高貴な生活の道を創造してみせたのである。
仏陀は高尚な道徳律を説教した。しかし彼は信徒たちに世間から隠遁し誘惑から遠ざかることを要求した。つまり生活に背を向けたのである。というのも禁欲主義者や聖者が自己内部の他の自我を圧倒し、ついにはすべての自我を支配したからである。
そこで仏陀に関しては、キリストについて言えること――すなわち「完全な人間」――があてはまらないのである。ゴータマの本性の低い部分を聖者が占有した。彼はキリストのものであった人間的で同情的な叡智に支配されていなかった。その叡智の全き開花によって、主が真実神の子であることが証明されたのである。

◆キリスト、仏陀、および霊的世界

一見、仏陀は「四つの高貴な真理」において有徳の全法則を宣したかに見える。
「こうした境地は聖なる八つの道を行なうことによって得られる。それはすなわち正しい信念、正しい希望、正しい発言、正しい行為、正しい生計の立て方、正しい目的と努力、正しい記憶、正しい瞑想である。」
だが、仏陀が「正しい」という形容詞を用いるとき、彼はゴータマ流の「正しい」を指しているのである。それはキリストの言う「正しい」とはまったく同じというわけではない。
仏陀は、キリストの次のようなパリサイ人への答えに賛成しなかったであろう。
「『ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちが断食しているのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか』
するとイエスは言われた。『婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食するであろう。」〔マルコ2:18-20〕
ここでイエスは、人生を楽しめる間は楽しむようにと勧めているのである。いつか喜びの日は過ぎ去って、断食しなければならない日が来るであろう。言い換えれば断食の時もあるが、幸せで健康な生活や無邪気な陽気さと喜びを求めてその欲望を満足させるための時もあるというのである。
仏陀もあの父と放蕩息子の間の和解については認めるにやぶさかではあるまい。しかし、祝いの宴や、太らせた牛の食事、そして父の言う次のような言葉に対しては非難することであろう。「このあなたの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである。」〔ルカ15:32〕
ゴータマはこうした言い方に含まれる熱っぽい調子や感情的陽気さを断滅せよと要求する。というのも、彼の冷たい禁欲的な性格は無害な楽しみの時の後に来る父の一層の苦悩――おそらくは兄弟間の嫉妬か放蕩息子の失敗によって引き起こされることになる苦しみ――を危険視することであろう。しかしキリストは慈悲深い両親の自然な喜びを誉め、そうすることによって人間生活についての繊細な見方をしたのである。
イエスは到るところで人々に言った。「パリサイ人のように愁い顔をするな」。彼は楽しげであることが善良な人間の義務であると思っていたらしい節がある。
キリストが「わたしのために自分の命を失うものはそれを見出すであろう」〔マタイ16:25〕という不思議な、そして素晴らしい言葉を言ったとき、彼は金持ちや権力者を批判していたのである。しかしこの批判は、同じように仏陀の厳しい戒律にも当てはまるかもしれないのである。
自我の統制を求める仏教徒ならば冷たい自己本位の道を実践しなければならない。彼は誰も傷つけない。人々に道徳や禁欲生活を教え導く限りにおいて、人々を益することもあるであろう。しかしながら彼は自己の救済のみにかかずらわっている。自分の魂の幸せを得ることにのみ全力を投球している。欲望と、そこから発する人間感情のすべてを除去することによって人類全体からは孤立してしまう。やがて彼はいわば無人島に住むに等しいこととなる。このような修行の生涯の後には死後の世界においてどのような運命が待っているのであろうか。
彼を再生の運命を逃れた正真正銘の仏教徒であると仮定してみよう。地上にあっては彼は通常人の罪は一つも犯さなかったが、未来のことに心を使い過ぎた。さらに悪いことに彼は未来永劫までを考え詰めてしまった。従って来世においては彼は孤独に住み、地上生活のあいだ彼を閉じ込めていたサナギの中に永遠に住む傾向がある。停滞し、植物的満足ともいうべき状態にとどまるのである。おそらく仏教天国〔涅槃〕に到達したとの幻想に執着し続けよう。にもかかわらず彼の地上的世界観は第三〔幻想界〕、第四〔形相界〕の意識界へ進んでもなお彼を制約し続けるほどであろう。彼は神聖なことどもについての瞑想を続けるかもしれないが、神や大宇宙を真に認識するに至らないであろう。彼は鈍く消極的になり、あたかも夢から覚めず眠り続ける人のようである。もしそうでなければ、ふいの確信によって自己の幻想を打ち砕く時が来る。そして、通常生活で仲間たちと一緒に共同しなかったために類魂から孤立する決定を自ら下していたことに気づく。そして第五界〔火焔界〕において、そこでの共同生活を通じて霊的に発展進歩すべき段階になっても、自分たちの兄弟たち〔類魂〕に仲間入りができない。つまり彼の生き方が彼を仲間から引き離してしまったのである。そこで彼は彼の恐れていた再生をするか、苦痛を忍んで知的自己没頭のサナギ状態から抜け出すかの選択をしなければならないのである。
もし彼が自己の全存在をはりつけにするような試練に耐えうるなら、そして類魂のすべての構成員に対して自己の魂を開き、単に知的な意味でばかりでなく実際的、行動的な意味で「ひとりひとりお互いの肢体」〔Ⅰコリント12:27〕であれという法則に従うなら、そのとき彼はおそらく彼に下された宣告に従うことであろう。すなわちそれは、少なくとも一つの地上生活で、彼がかつて逃避した経験のすべてに直面すること、恐怖と格闘してそれを克服し、魂の六つの様態――愛者、孤高に住せんとする高慢者、快楽主義者、禁欲主義者、聖者、賢者〔訳注2〕――を表現し、かつまた、できる限り賢者がすべてを支配するのに任せるこの世の叡智の探求者を表現しようとすべきである、という宣告〔再生をするということ〕である。このような生涯〔高い霊界から再び地上に再生した生涯〕にあっては、彼は大衆のうえに立ってある高い使命を遂行することになろう。というのも彼はとにかくその本性の一部を完成にまで導いたのであり、今や鎖をほどき、ほとんど間違いなく、善なるものへの奉仕に参加して大きな影響力を与える人となるであろうから。

◆ナザリーンとキリストの弟子たち

以上私は、仏教徒がその師の教えを文字通り順守した場合に、死後の彼らの行く手をはばむ危険について述べた。しかしキリストの弟子たちが師を模範としてその足跡を辿る際に待ち構える危険についても述べておくのが公平というものであろう。
クリスチャンという言葉は汚され貶められてしまった。あらゆる時代の何百万といういわゆるクリスチャンが敵を罵り、隣人を憎み、その仲間に対して想像を絶する迫害を加えた。だから、キリストの信徒という意味でならクリスチャンという語は廃棄してしまった方がいい。「ナザレのイエス」という言い方は高貴な霊感に満ちた生涯を送ったひとりの完全な人を想わせる。そこで私は主の御跡に従おうとする現代人を表現するときには「クリスチャン」よりもむしろ「ナザリーン」〔ナザレ派〕という語を用いた方がよいと思う。
ナザレのイエスはその信徒たちに人生に恐怖を持たずに立ち向かうようにと言う。彼らがその本性全体、つまり先に私の述べた六つの自我の様態を表現すべきだと要求する。賢明にも彼は普通の人には実行不可能なほど高い行動基準を求めるのである。というのも、高き理念こそ超人間的努力を喚起しうるからである。イエスの戒めを文字通りに実行できる人はいないであろう。しかし彼の弟子は、他のどんな師に従うよりも立派な生涯を送ることができよう。というのも、キリストによって説かれた教義にその本質を示された「偉大な霊の実在性」〔高度な霊性を人間のうちに表現すること〕は、これまで人間に説かれたもののうちで最も高貴な理想だからである。他のどんな道もこれほどには辿ることが困難ではない。ナザリーンが自己の信条に忠実であろうとすれば、二十世紀においては殊に、あらゆる困難に出会わざるをえない。彼は貧者に持ち物のすべてを与えることはできず、自分のパンを稼ぎかつ人を養わなければならない身であれば、明日のことを思い煩わないわけにはいかない。しかしそのようなときも人類の兄弟たちを心に留め、とりとめもない悩み事に身を任せるようなことがなければ、彼は主の教えに従っていると言えるのである。
イエスはわれわれを呪う者を祝福し、われわれの敵を愛せよと命じた。同様に、われわれを攻撃し傷つけようとする者に対し、極力、こうした人間味のある態度をとれるなら、その人はキリストの道を歩んでいるのである。
ナザリーンは日ごとに「私たちはひとりひとりお互いの肢体である」との考えを胸に刻むべきである。この言葉は日々の行為に祝福をもたらす。この考えはそれを復唱する人に、他人ばかりか自分をも助ける寛大さを示唆するであろう。「私たちはひとりひとりお互いの肢体である」と「汝の敵を愛せよ」の言葉はそれ自身の秘められた叡智を含んでいる。つまり他人を傷つける者は己れを傷つけ、他人を益する者は己れを益するの意である。キリストは家族の絆に関しては厳しく語った。彼の弟子は家族愛に自己を限定してはならない。すべての人が兄弟と見なされるべきである。われわれは皆、天の父の子であるから。この教えがきちんと胸に収まるなら、国家間の危険な相違点はなくなり、キリスト教のヨーロッパは、戦争の脅威や経済的利益追求の絶え間ない操作によって破廉恥にもキリストを否定するようなことはなくなるであろう。それは国家間の障壁を取り払い、これらの暴力的に引き裂かれた諸国民は、実践的なナザリーンとして一つの家族のような統一と一致のうちに生き続けるであろう。
聖パウロの考えは幾つかの点でキリストより仏陀の考えと一致していた。聖パウロは死と罪、すなわち現代的に言えば生と情熱的愛を恐れていた。パウロはゴータマが自己の本性の欲望を恐れたようにそれらを恐れたのである。そして福音書の物語に不滅化された見事な生き方からは尻込みしたのである。
キリストは自己の本性を支配していたので恐れることはなかった。彼の弟子の目標は恐怖心なしの無邪気な状態に達することでなければならない。そうなればその弟子は仏陀や聖パウロの弟子よりも高次の意識の世界に住むことになろう。
聖パウロは、人はみな本性上悪であり、「オールド・アダム」と呼ばれる存在を内に持つと考えた。この遠祖アダムは仏陀が否定した欲望の別名である。実際、この二人の偉大な禁欲家たちは、罪を恐れる点においては一つであった。キリストには断じてこの「オールド・アダム」の嫌な面影はない。彼はパウロが絶えず悩んだ罪の暴虐という問題にはかかずらわなかった。それゆえ、ナザレのイエスはおよそ罪とは無縁な存在で、彼が寓話で語ったようなあらゆる「才能」〔「タレント」=神から預かった元手、マタイ25:14以下参照〕を役立てたのであった。彼はその生涯を十全に生き、人類への愛を通じて彼の本性のすべてを表現した。キリストは憎まなかったけれど怒ることはあった。彼の見事な義憤はパリサイ人を非難したときや、両替人を神殿から追い払ったときに一度ならず表わされた。
キリストの弟子たちは純潔を求めるあまり正義の義憤に駆られやすかったかもしれない。この怒りは人間の本性からほとばしり出るもので、偽善、貪欲、暴虐などを破壊することができる。仏教哲学のキーワードは自制と自己統御である。これとて自然人をあまり厳しく抑えると善への良き力を抑え、善導すれば全人類を益するはずの力を枯らすことにもなるであろう。
聖パウロと仏陀は多くの才能を持っていた。しかし彼らはその天分を圧し殺し、信徒たちにも同じようにするよう勧めた。しかしながらキリストはその教えと生涯の足跡によって、神の与えた才能はすべて用いられるべきこと、人間本性のいかなる部分もおしつぶしたり焼却したりすべきではないことを示した。
われわれは肉体、魂、そしてその二者を鼓舞する霊を持って現世に生まれた。これらの三者は自己を益し、他を益するために用いられるべきである。われわれは現世を豊かに生きるべきであり、ナザレのイエスの御跡を追う者としてパウロの説いたごとき罪や死とは関わりを持たない。仏陀が霊の道を求めたときその心を占めていた個人の救済へのいかなる懸念とも無縁なのである。

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パウロはキリストの血が人を贖い、またそれによって人の罪の許しを得ることもできると明言した。しかし人間はキリストの血によってというような魔術的なやり方で救われることはありえないのだ。長い年月の勇気ある努力によってのみ自らを救うことができるのである。人間は責任ある存在であり、彼や彼の属する意識世界、また「神」に対しても責任を持つ。そこで彼は芸術家のように本性にともなう涙と悲惨と喜びと愛の中で営々と努めなければならない。それはついに本性が形と美しさを身につけ、真に絶対美のイメージや、それの似姿となるまでは続くのである。
女性の劣等や、女性への恐怖、そしてまた神がふいの悔恨によって買収されるというようなパウロの考えは、歪んだ彼の本性によって吹き込まれたのである。その考えは彼のような高貴な自己否定の生涯を送る人にふさわしくない。
私のパウロへの批判はあまりにも厳しすぎるかもしれない。またはるか昔、私がこのタルソスの徒に対する敬意と憧れを表わそうとしたときとは、この偉大な聖者に対する私の評価が変わったと見られるかもしれない。しかし私は、以上述べたところでは、パウロをキリストと比較したのだということをはっきり理解してもらわなければならない。キリストの光の前ではすべてのものが色褪せるのである。神人キリストと比較して見ると、霊的ではあるが人間的な人間であるパウロは(彼でさえも)、ひどく見劣りして見えるのである。詩の中で私は聖パウロの本性と生涯の高次な側面を言葉に表わしてみようとした。そのことは必ずしも私が、彼の本性の感情的側面の表現であり初期における修行や青春時代の彼を取り巻く環境によって生み出された部分に関する彼の判断の誤りに気づいていなかった、ということにはならないのである。人間誰しも理想の人間たりえない。多かれ少なかれ思考の過ちを犯すものだ。パウロがある思想過程にいかにも人間らしい側面を持っており、教育や家の伝統、あの騒乱の時代における彼の同国人や種族に広く行き渡っていた心の態度に影響されているように見えたとしても、それはパウロの闘いの偉大さや、その生涯の高貴な性格、その目的の気高さをいささかも減ずるものではない。ここでは私は詩人としてではなく批評家として書いているのである。従って両者のアプローチの方法にはかなりの違いがあるのである。

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キリストと彼の生涯について書き、福音書に書かれたままを述べるに際して私は批評家たちの批判や論争を無視した。これらは帰幽者にとってはどうでもよいことだ。というのも私は福音書の中に完全な生涯を見る。新約聖書の中に後世の書き加えがあろうとなかろうと、マタイ、マルコ、ヨハネ、ルカの各福音書に書かれたあらゆる時代に通じる理想的生活の仕方のみを私は見ているのである。この四つの福音書の意味や意義を理解することは容易ではない。しかし、キリストの本性や思想行動の中に含まれる叡智を心にとどめ、人生にうまく適用さえすれば、それらは、人間個性を超えて神聖な超越的世界へといつかはわれわれを導いてくれる長い旅路に備えることができよう。
キリストの神性に対する永遠の論争にも私は関心がない。すべての男女が本霊によって霊感を受け取っているのである。本霊とは神の一思想である。それゆえ、すべての男女が「天にましますわれらが父」の子である。が、キリストは最も尊い神の子である。なぜなら彼は人間形式に現われた神聖な叡智の本質の顕現といってもよいものだからである。
偉大な導師たちの中にあって、彼のみが愛の永遠法則の重要さを強調したのである。こちらの死後の世界において、われわれは愛が宇宙的意義を持つことを、地上の人々が決して知りえないところまで知っている。人々が、もし宇宙の実体は心であって、物質は心の一つの表現形式であり、知的、指導的な原理によって織られた衣装であることを認めるなら、その意義をある程度までは理解できるかもしれないが。
叡智に包まれた愛は、単なる物の総計から一つの宇宙を創り出すエネルギーなのである。
人間は日常に思っているほど個性的でも孤立した存在でもない。彼は類魂の糸に編まれた一本の糸であるとも言える。それゆえ、もし叡智に包まれた愛が彼の一生の目標や目的、つまりは人生において獲得しようとする褒賞――すなわちキリストの言った天に積まれる宝〔マタイ6:20〕――となるなら、彼個人の救済、進歩の速さなどが促進されるであろう。
というのは、もしこの愛の力が彼において強大であるなら、彼は類魂内の意識レベルを持ち上げることができ、彼がその一員である巨大な存在が統合するための強い力となるからである。プラトンはこうした存在をそれがその本来の調和状態にあるとき、それを神と呼んだ。なぜなら、ひとたび、この類魂的存在の角がとれ、全体として渾然とした一つの型をなすと、それは神の叡智を表現するものとなるからである。
そこで巡礼の目的は単に自分自身の霊力の発達ばかりではなく、類魂全体の霊力の発達なのである。そしてキリストは山上の垂訓や「汝の隣人を愛せ」の戒めによってこうした創造の要石を据えたのである。
プラトンもまたその言葉で巡礼の発達進化に重要な貢献をしている。プラトン的愛は永遠の愛と美への崇敬と献身の態度を表わしているからである。
この態度は主として宗教的性格を持つように見えるかもしれない。しかしそれは普遍的宇宙的に適用されるもので、現代に行なわれている宗教に限定されるものでもない。それは人間個性を超えたものである。それはまた現代の男女の心からは消えてしまった神の神秘への尊崇というほどの意味である。
わが世代の指導的思想家のある者は、物質の分解や崩壊の具体的過程の研究に関わりを持った。その結果彼らは、至上精神や創造全体を導く知性の可能性を認める能力を失ったのである。
現代文明世界の崩壊ではなく総合が存在するためには、プラトン的愛がもう一度再認識されなくてはならない。しかし、それにはキリストの生涯と言葉の意義やそれが永遠の真理であるという感覚が伴わなければならない。
地上生活は一つのエピソードであると言えるかもしれない。人は死後の世界でまだまだ多くのエピソードと向かい合わなければならない。彼がプラトンやキリストの教えに従うなら、彼は類魂の仲間の先頭に立つばかりではなく、総合化のエネルギーと叡智に包まれた偉大な宇宙法則を通じて上へと引き上げられるのである。
というわけは、人が永遠の生命のうちに含まれる〈偉大な実在〉に勇んで入るときには、彼は自分自身の救済に関わるばかりではなく、彼の本性の完成に必要な彼の愛する人、他人、仲間の魂に関わるからである。
主として個人の霊的悟りや救済にかかずらわっているパウロや仏陀の弟子の夢よりも、キリストやプラトンの信徒の理想の方が素晴らしく、また美しい。
死後の生活においては二つの道が看取される。われわれはその本性に従って仏陀の道に従うかナザレのイエスの道に従うかを選ぶのである。

[原注]
(1) 通信霊の要望によってこのところはハーミワース百科事典から読まれた。――E・B・ギブズ
〔訳注〕
(1) 箴言29:18。日本聖書協会「聖書」(一九五五年)による訳「預言がなければ民はわがままに振舞う」ではこの文脈の意味が伝わらないので自訳した。
(2) sage。これまで見てきたように、マイヤーズ霊は「賢者」を「聖者」(saint)の上位においている。賢者は単にこの世で高潔な生活を送る聖者とは異なり、神の叡智に恵まれた者である。熟さないことばを用いれば「叡智者」ということになろう。

第十五章 予見[原注1]と記憶

〈大記憶〉は宇宙生命のあらゆる振動の記録を含むといってよかろう。あらゆる経験がこの記録すなわち永遠の年代記に複写されている。過去、現在、未来が至上精神の想像力のうちに貯蔵されているといえよう。しかしこの〈大記憶〉は個人の記憶と混同されてはならない。この両者は一なるものの他面という意味での違いがあるのである。各個人の記憶は大海に注ぐ一本の川に喩えられよう。ある時点をとってみると魂の意識に浮かび上がるのは記憶の一部分だけである。しかし死後には心は解放され、束縛を緩められる。だが、意識が第五界と第六界に到達するまでは個人は限定された制限内に存在する。第五界では彼は類魂の他のメンバーの記憶と経験のうちに入り、そこで強烈に生きるための能力を著しく増大させる。だが意識の第五界においてさえ、彼は未だ〈大記憶〉の全体を把握することはできず、単に習慣的に類魂の記憶と知識を記録するのである。
しかしながら、魂は肉体のうちにある間にも――上に言ったように――意識の高次レヴェルに上ることがある。私はおそらく瞬間的にだが〈大記憶〉に入り個人の記憶の中にはない過去や未来のイメージを見ることがある。「高地人の第二の視力」といわれる予見の神秘は、こうした意識の上昇によって説明されうる。そのとき高次レヴェルに上った意識は断片的に、魂が以前には持ったことのない過去や未来の経験を見るのだと説明できる。言い換えれば、魂は個人記憶から宇宙記憶へ移り、つかの間、宇宙的に生き、そしてまた個我や個人的記憶の範囲内に舞い戻るのである。
帰幽霊が地上と交信しようとするとき、彼らは通信してくる個人的記憶の断片や、なかんずく彼らの会話、ことば使い、ものの見方に示す性格的特徴によって認知されるであろう。彼らに能力が賦与されていなければ――地上の人間のある者には預言の能力が与えられている――帰幽者といっても未来を予見することはできない。言い換えれば彼らはこの状態に移行する力がない限り〈大記憶〉を頼りにすることができないのである。
しかしながらかなりの数の帰幽者がもっと大きな展望を持つ心の王国に住んでいるので、彼らは時折、まもなく起きる事件を垣間見ることがある。というのも彼らは道のちょっと先を見通すことができ、地上での生存競争に関与している力についての大きな知識をもっているからである。

◆概念的世界

ヨセフがファラオの預言的な夢を解釈して〔創世記40〕以来、あらゆる時代を通じて、人が未来の事件についての心の映像をわずかながら睡眠から持ちかえるということがときたまあった。或る者は実際の事を縮小した形で見た。また他の者は、すっかり目覚めた状態で数ヵ月ないし数年後に起こる幾つかの出来事を、漠然とながら正しく予見したのである。
夢見の人、予言者、見者、そして卑しくおとしめられてはいるが真正な占い師たちはすべて、一時的に他の時間次元に入り、あるいはむしろ心が半年先、五年先に飛び、そしてほんの瞬間だが〈神の想像力〉のうちの一思考作用として既に概念化された未来世界に入り込むのである[原注2]。〈大記憶〉のこの部分のことを「概念的世界」と呼ぶことにしよう。
魂ないし覚醒した意識は、時たま任意に未来の映像の一場面を選択して見ることが可能なのである。これは実際には以下のように行なわれる。霊能者の意識の焦点が未来を知りたいと希望する人の開け放たれた心の状態と一時的に結びつく。すると霊能者は、その人の心を通じて、個人の歴史を貯蔵している「概念的世界」のある部分と連結したエーテルの波に波長を合わせるのである。
霊能者の仕事は容易なことではない。相談者が積極的で切迫した願望を持っていると、それは感情的な想いとなって現われる。ことに霊能者が依頼人の将来にとって最重要なことを予言するというようなときにそうである。こんなとき相談者は、霊能者の意識を一時的に「概念的世界」に繋げる接続の波線を切断してしまう。こうして引き戻されると、霊能者の意識は相談者のイメージ化された願望を読みとってしまい、それを未来の出来事として解釈してしまうことがある。多くの間違った予言がこのようにして生み出されるのである。

◆霊能者の被暗示的性質

霊能者が完全なトランス状態にあるときは、彼を支配する霊はしばしば半催眠状態なのである。そこで霊は暗示にかかりやすい。物理現象を行なう霊媒が犯すインチキの多くはこうした状態に起因しているようだ。もし交霊会に出席している誰かが、霊媒の詐欺やトリックをたとえ潜在意識下においてでも疑ったり予測したりすると、その想念は――特にそれが感情的な偏見に基づくときは――被験者に対する催眠的命令と同じような強い影響力を発揮するものである。この作用者によってなされた自動的暗示が働いて、霊媒は詐術まがいの行為をしてしまうが、彼自身は全く無心なのである。このインチキの張本人は実際のところこの現象の立会人たちであり、懐疑家と科学者たちがこの事実に気づき、彼らは人形でも傍観者でもなく、交霊会の中の一役を演じており、馬鹿げた結果や通信霊の行為に積極的な影響を与えるのは彼ら自身なのだということを知るまでは、物理的心霊現象の本当の進歩はないであろう。
感情的懐疑論者が、無意識のうちにでも、物理現象など起こりえないと思っていると、彼らは現象の発生を禁止したことになり、また催眠状態の通信霊に彼らが無力だと強く暗示したことになる。この禁止のためにもし交霊会での現象が何も起こらないことになれば、彼らはそのことに全責任があるであろう。

[原注]
(1) 予見(prevision)は予言(prophecy)の意味。
(2) 詳細は『不滅への道』第16章を参照。――E・B・ギブズ
第十六章 自然霊
ギリシャ人のディオニュソス信仰についてペーター〔訳注1〕は次のように記している。
「事物について深く思考する高級知性は、木の葉脈のうちにある力や甘美の発生は何によるのかと問い詰める」と。実際、近代人にとって自然の科学過程であるものが、古代ギリシャ人にとっては生きた魂の介在なのである。ディオニュソスの信仰によれば、樹木や花はこのような存在の住処なのであった。これは優雅な空想以上のものであり、今に詩人が、もう一度、樹木や植物には魂があるのかどうかを尋ねる時が来るであろう。遠からず写真が不思議なものを写し出すであろうから。しかしこの問いに対する私の解答は否定的である。魂ということばは、前に定義したように、或る心的な個性の意味をもっている。樹木や、植物や、そしてもっと単純な生命の形態は「非個性的な心」とでも言えるものによってコントロールされている。動物的生命の高次な形態においては、魂の初期形態のようなものが現われるが、結局それの発達したものが人間ということになるであろう。
樹木と植物は呼吸し、神経組織をもつ。人間や、高等動物の構造原理のどこがそれらと違っているのか? この質問には見えない世界の知識によってしか答えることはできない。前にも言ったように、人間には一生のあいだ、複体すなわち統一体が肉体につきそっている。
その根源の核をなすのはエーテル体であり、それは老年期すなわち人の晩年において発達する。その頃次第に形をなして、死後において魂の着る衣装となるのである。エーテル体の中には、霊妙体(subtle body)の種が潜んでいる。もし旅人が地上に帰らず上方に旅することを決断するなら、この霊妙体が開花し形相の世界で花を咲かせる。
樹木や、植物や、それ以下の単純な生命の諸形態は複体だけをもち霊妙体をもたない。複体なしに植物は呼吸できない。複体は生命素を受け入れ、植物を養う。植物が枯れたり死んだりするとすぐにも見えない統一体の崩壊が始まるということがそのうち認められようが、これは、実際正しい結論である。しかしながら、もっと低次の生命形態においてさえ、エーテル的エッセンスが死後に残り、それがすぐにも再生する。すなわちこの要素部分が植物世界に再帰し、昔ながらの四季の経過が再び繰り返されるのである。
近代人の心は自然霊を信じないが、古代ギリシャの人々は、河や、渓谷や頂上や、小川に屯《たむろ》して目に見えない生きものと一緒に生活していた頃は、余程この真実に触れていたのである。そうでない場合には彼らの存在することは霊媒を通してのみ推測されていた。当然のことながら、自然霊を「魂」ということばで呼ぶのは不適当である。魂とのあいだに或る種の類似はあるが、その活力は他の源泉からやってくるのである。
いわゆる自然霊の性格は多様で、その見掛け上の単位は幾つかのものから成っている。例えば一年のある季節に森から放射されるエッセンスは複合合一され、ことばの通常の意味で無精神のままで、われわれが妖精と呼ぶあの形態をとる。そして森の木の茂った空地や川や湖のほとりに孤独を求めてさまよう人の身体に作用したり、その人の感情に影響を与えることがある。
これに対する反応が穏やかでよいものであるときは、人の複体や統一体に栄養を与え、根本生命に触れさせることがある。また一方人間の方が習慣的にバランスを失っているようなときは、有害な暗示を受け易く、水や、大地や、空気や植物のエッセンスないし霊が有害な影響をあたえることもある。霊的な反応がいかなるものにせよ、古代人が自然の山谷にはしばしばこうした目に見えないものが住んでいると信じていたことは正しい。こうした実体を人間のことばにするとき間違ってしまったのである。
人間はエーテル体をもつことによって魂すなわち個人的精神作用の表現体となる。かくして人は高次意識の供給者となるのである。こうした人間の霊的構造を学ぶに際し、オーラと複体を混同してはならぬ。
オーラとは肉体から出る生命の放射物であるといえよう。生きた人間との関連においてのみならず、意識の異なった次元にすむ様々な帰幽霊との関係において種々のオーラが観察される。

◆動物の死後存続

この問題に関しては、『不滅への道』で述べたことに付け加えることはほとんどない。われわれの物言えぬ友人である動物たちとは、もしわれわれが彼らに心からの愛着をもち、その愛情が報いられるなら、幻想世界でもう一度彼らと一緒になるであろう。しかし進化した動物だけが第三界で生活を共にするのである。
しかし、肉体の死は必ずしも狩猟家の本能をすぐになくさせはしない。鳥や獣や魚を撃ったり殺したりすることに刺激を求め続ける者は、幻想の世界で、その本能をフルに満足させるが、その犠牲となるものは地上のような生命原理で生きているのではない。それらは単なる幻想の産物である。幻想界の者たちは、永いあいだ、原則としてこの事実に気づかずに狩りを楽しみ続ける。例えばあなたの亡くなった友人からヤマシギ撃ちを続けてきたと聞かされたとしてもそうしたことを信用することはできまい。
しかしながら、もしあなた方が、この人物は無意識に地上記憶から自分の気に入った仕事を創り出しているのだと知ったら、そのときあなた方は死後の世界で依然としてヤマシギを撃ち続けているという友人の主張を受け入れることができよう。
このヤマシギは想像された想念形態であり、それは人の無意識下に心で形づくられるといえよう。鳥撃ちをしたい狩猟家は鳥を創造する。その鳥は彼の心から放射される電気的な波によって生気づけられ、欲望によって活発化するという意味で生きているだけである。が、この鳥はエーテル体に属しているという点では現実のものである。しかし結局、狩猟家が、キジ、イワシャコ、ヤマシギが彼の想像力から飛び出してくるものであることに気づくとき、それらはもはや鉄砲をかついで出かけたあの素晴らしい日の強烈な喜びを与えなくなるであろう。
第四界には御存じの通り動物は存在しないのだが、形相の世界には動物とか鳥とかに分類してもいいような仲間がいる。それらは不可思議で、奇妙で、美しく、またグロテスクである。彼らは萌芽期の魂であり、いつの日か地上に生まれることであろう。

*      *      *

ローレンス・ジョーンズ卿は故K・ウィングフィールド女史との交霊記録を記した個人的ノートをわれわれに送ってくれました。それは一九〇一年二月十六日の目付です。そのときウィングフィールドは入神状態でした。面白いことに、ジェラルディーン・カミンズ女史によって得られたのと同じような内容のことがその中に見られるのです。ローレンス卿は次のように書いています。「私は狩猟家たちは死ぬと最初どうなるのか、また狩猟によって生きる種族などは死後どうなるのかと尋ねた」
霊は答えて言った。「狩猟家は狩りを続ける。例えば鳥撃ちの人は鳥撃ちをする楽しみのために鳥を創造する。殺すのが楽しみではない。この世界には殺すようなものは何もないのだから。地球の上方に一つの界があって、そこでは自分の望みのものが創り出せるのである。狩猟とか旅行とか、何かに全情熱を傾けて一生を過ごした人は同じことをし続けることができる。と言っても、いつもそうだというのではなく、気晴らしのためにこの界におりてくるのである。しかし、暫くすると彼らは、そこには霊的なものが何もないので満足できないことに気づき、上の界へと上っていく。神は寛大にも彼が渇望するものを好きなだけ与えるのである。芸術と科学はこの限りではない。それらは霊的なものなので持続する。つまりそれらの内には魂があるのである……」―-E・B・ギブズ

〔訳注〕
(1) ウォルター・ホレイシオ・ペイター(Walter Horatio Pater, 1839-1894)は、イギリス・ヴィクトリア朝時代の評論家・批評家・小説家。主な著作に『ルネサンス』、『プラトンとプラトニズム』などがある。

第十七章 狂気[原注1]

「狂気」ということばで私は全国にある精神病院に収容されている患者と、自由にはしているが、強度の神経症に悩み、実際に時々自分のしていることに責任が持てなくなるために、社会生活に適応できないでいる人々を指すことにしたい。
狂気は二種類に分けられると思う。最初のグループはある身体器官の損傷によって、複体すなわち統一体との連絡が持てなくなってしまった人たちである。この統一機構は魂の命令を脳に伝えるものである。もし肉体部分の病気が原因でこれとの連絡が途絶すれば、例えば魂は松果体や脳中枢を充分にコントロールすることが出来なくなり、その結果、人間は人生の海を目的もなくさまよう船のようになってしまう。しかし舵手そのものが駄目になってしまった訳ではない。彼はただ部分的に自己の表現手段から切り離され、そのために経験を肉体中枢に効果的に記録できないだけなのである。それでも複体はまだ太陽叢や、他の神経中枢と繋がっているので、肉体は生命の供給を受け、潜在意識の指示に従って自然に機能し、完全な健康を維持しているのである。
私はこれまで地縛霊という語で一般に知られている存在には触れなかった。これにも二種類ある。この中には人霊ではない霊ないし人霊以下の霊があって、これらは地上に人間の形態で生まれたことがないものたちである。これらの多くはかつては動物界に属していたものであるが、これが複体に干渉して人間を支配したり、また人間に憑依したりする。激しい狂気の幾つかは、こうした人霊にあらざる霊の憑依が原因で起こる。通常この患者たちは治癒不能であるが、この種の憑依はごく稀である。
しかしながら、われわれの主としてぶつかるケースは、新参の死者が、人間の魂と複体とのあいだの通信に干渉することによって起こる狂気の例である。これらの死者は複体を通じて肉体器官にやってくる。この割合は少なくとも四十パーセントから五十パーセントのあいだであると思う。精神病院に入れられた者のうちには冥府界の下部、もっと適切なことばで言えば「テロリストの世界」の住人によって憑依されているのである。
粗暴な人間、殺人者、犯罪人、薬物中毒患者、力による支配のみを渇望するあくどい金融業者、嫉妬や復讐の欲望にとりつかれた者等々がこの世界に集まっている。そして、地上において身につけた一つの情熱、深く根ざした悪癖などに捕らわれている。
研究者は、こうした存在は霊的欠陥のある男女にのみ憑依することをよく知っておかなければならない。自己中心的な人や意志の弱い者、無気力であったり未発達な魂は彼らに扉を開いているのと同じであるが、健康でバランスのよくとれた人々は、死の岸辺に打ち寄せられてきた仲間に対する責任や配慮の感覚をほとんどか、全く欠いた人間のカスの如き霊を寄せつけない。こうした霊は暗闇に呻吟し、低次な暗い情熱に身を任せ、利己心のみに没入し、本性の力を振り絞って後にしてきた地球への帰還を渇望する。高尚な生活や霊的世界の感覚もないので、彼らは光に辿りつき、そこに人間を認めるまではこの地上のすぐ隣の世界にとどまるのである。この光は人間の男女の放つオーラである。それはさまよっている霊を牽き寄せるが、その霊はその中に夢中で飛び込み、そこで複体を肉体に結びつけている糸に絡み取られてしまうことが多いのである。たちまち騒動がもち上がる。ある場合には帰幽者が自分の死んでいることを知らない場合がある。その霊は松果腺や、脳下垂体――人間個性が自己を表現するための重要な機関――と交渉する手段を獲得しようと必死にもがく。実際男の霊が女性の精神を襲っている場合もあり、うまくいけば、女性の肉体をコントロールしていることを自覚させられる。
狂人の狂暴さの多くはこうした異常な状態におかれたことを知った帰幽霊の驚きによって惹起される。彼は他人の五感や記憶を通してぼんやりと物質世界を認める。しかし当然のことながら、この歪んで見える世界は、彼がまだ自分の死に気づかぬ場合は、彼のうちに激しい怒りか、恐怖の発作か、他のもっと子供っぽい感情を呼びさます。肉体の主人公が強くて、統一体の、脳中枢を支配する部分を掴んでいる霊の把捉を緩めさせるほどであると、霊が支配者の地位から追放されることもあるが、しかしこれは滅多にないことである。ある場合には充分に心霊的な方法で処置されて、言い換えれば地上からの干渉によって、この霊が除去されることもある。
一人の医師とかなりの力量のある優秀な霊媒がいれば、高貴な仕事を遂行して人類に貢献することができる。その場合は、彼らはある暗示法を用いて、憑依霊を狂人から霊媒の複体の中へ誘導するのである。霊媒は深い入神状態に入れなければならず、また健康でバランスのとれた人でなければならない。処置の仕方は次の通りである。
電気治療が施されてもよかろう。この力は憑依霊を混乱させ、その結果霊は強奪した体の拘束から逃れようともがくことになる。うまくいけば、この霊の注意は自然と、霊媒の周囲にかかる輝いたオーラの雲に引きつけられる。霊媒がトランスに入ると、霊は必死でその体に憑依しその声帯を使用する。そこで医師が彼と会話し、彼がなぜこのような不自然な手段で地上に帰ろうとしたかを聞きだす。もしそれが無知によるもので、この他界からの闖入者が自分が死んだことを知らないでいるのなら、そのことについて教え、注意深い説得や示唆を与える。そうするとその霊は自分が重大な罪を犯したことを理解し、盗んだ身体を返し、その獲物を放棄するようになるであろう。というのも医師は、彼が他人の肉体の中にいては決して真の意味で生き続けることはできず、現在の分裂状態を続ける限り悲惨なばかりだと教えるからである。この医師は、霊に何か或る高い霊的な力や、彼よりも先に他界した友人ないし親戚に心を集中するように助言する。すると霊の想念は地上の音波のように伝わって、どの意識レヴェルであろうと彼らの心に届くのである。
私はこれまでも、霊媒が完全なトランス状態にあるとき、彼を一時的にコントロールしている霊はしばしばある程度の催眠状態にあるので、暗示にかかりやすいことを知っておくべきだと言ってきた。原則として帰幽霊は立会人の忠告や命令に従うものである。こうして霊は患者の複体から永遠に身を退く。するとすぐにも、患者の魂が支配を回復し、再び正常な状態に戻る。彼を完全に混乱させていたと思われる狂気の残滓は跡形もなくなる。
憑依霊を完全にトランスに入った霊媒に一時的に移す処置法は、現代ばかりでなく古代においても成功を収めていた方法である[原注2]。がしかし、私は、その価値は将来大いに認められるとしても、これを一般的な医学的治療に用いることは勧められない。なぜなら、未知の霊――それらはしばしば生前低次の人間レヴェルにあった――を一時的であるにせよ複体の中に入れ、これに支配させ、またそれにより脳までも支配させるほどの犠牲を敢えてしても大丈夫なほどよくバランスのとれた性格と、心身両面の強さを兼ね具えた霊媒は、ごく少数しかいないからである。
霊媒は心霊的に進歩していないときはかなりの危険に陥る。霊媒に移された憑依霊は――悪意があれば――支配する微妙な器官を傷つけるからである。従って、慎重にテストされ、例外的な力をもっていると分かった者だけが、用心深い医師の監督のもとにこうしたやり方で命をかけることが承認されるべきである。
天性の霊媒(オートマティスト)であるこうした例外的かつ貴重な人材は、ある情況のもとでは狂人を扱ってよい結果を出せるかもしれない。彼が知的でよくバランスのとれた人ならば、以下のようにして危険を冒すことなく人助けをすることができる。彼は交霊中、また支配霊や指導霊が憑依霊と一所懸命闘っているとき、はっきりと意識を保っていなければならない。とはいってもわれわれは件の支配霊がすでに古代オカルト知識を持っているものと仮定しなければならない。支配霊はあるシンボルや呪文を使って、心霊的力を呼び出すのだが、ある期間それが行使されると、患者が霊媒の行法をしているその場にいなくてもよい結果が得られるものである。
もちろんその場合、霊媒は患者が身に付けていたものを与えられることが必要だ。それが支配霊にとっての一つの焦点として働き、支配霊はそれによって患者の波長を見出し、またそれによって潜在意識との確かな交渉を持つのに役立つからである。
私はここで単なる有能なオートマティストにとどまらない稀有な人々の場合を言っているのである。彼らも同じようにオカルト知識を持っていて、それによって、彼らの記憶の中にある文化的基盤を利用できるような支配霊を引き寄せることが出来る。ソクラテスのデモンと同じように、この支配霊は彼が支配する霊媒よりも大きな視野をもち、精神錯乱に苦しむ人をかなり効果的に処置することが出来るであろう。

◆第二の処置法

エジプトやカルデア〔バビロニア〕文明の時代には精神障害のある人々に理性や正気を回復させるための効果的な方法が知られていた。この知識を持っていたのは予言者とか導師とか言われた人のみで、それはほんの一握りの人にだけ伝えられ、ローマ人がパレスチナや南東ヨーロッパの支配者であったときにはまだ用いられていた。
新約聖書に語られている多くの奇跡はこの治療の知識が用いられたものである。キリストが彼のもとに連れられてきた患者から悪魔を追い出したとき、彼はハーレー街の精神科医なら誰でもやっていることをやっていたのである、つまり、他のケースに用いて成功したことを活用したのである。しかしこれに加えて、彼はその神力と同じように自己の人格的資質のすべてを祈りの中に導き入れていたのである。
聖書の中で様々に物語られている悪霊除去の話は、単なる神話として見過ごされてはならない。それらのうちの或るものは『英国医事ジャーナル』に載る症例と同じくらい正確に事実を報告しているかもしれないのである。
しかし紀元前三十年の医者は、今日の医学校が採用しているのとは違った方法で病気治療のための研究や準備をした。キリスト教時代の初期には、医学に志す者たちにとって、未来の仕事に備えての厳しい心身の苦行をし、人生のある一時期人々の群れから遠ざかって、完全な孤独の中で生活することが必要不可欠なことであった。もし彼が他人の精神状態ばかりではなく自己の肉体も支配できるような精神力を身につけ、かつそれを増大させたいなら、暫く他の人間意識との接触を避けなければならなかった。
われわれが今問題にしているのは主として精神病のことである。紀元前三十年頃の導師であり医師であった人にとっては、完全な意識を保ちながら、精神病者を瞬間的に治療し、その理性と正常な知性を回復させることが可能だったというのは本当である。もしこのような治療は信じ難いと近代の懐疑家が言うならば、それは彼が、判然たる奇跡的治療が起こるためには、医師の心身に永い修練と準備が必要なのだという事実を知らないでいるためである。この修練期間を通じて、彼はまた、帰幽者の住む目に見えない世界が存在することを認め、そしてまたその世界のことを学ばなければならない。言い換えれば現代の医学生のカリキュラムとして解剖学が重要であるのと同様に、心霊研究が重要だったのである。
しかし、導師が力を獲得し狂人をコントロールするためには、瞑想と精神統一の様々な訓練を通じて、自己の精神を強め、それによって至高精神と接触しなければならない。スパルタ式の猛訓練や、生命力の実験研究を通じて、彼は自分自身の肉体器官や複体をはっきりと見る力を獲得する。やがて彼は自己統御に成功し、神経エネルギーや神経中枢を通して複体から肉体に流れ入る生命力をコントロールできるようになったのである。
彼の霊的解剖学の研究がどのようなものかを明確にしてみよう。複体は肉体のエーテル的な相似物である。この両者は人生の最初の頁から最後の頁まで一緒に旅をする。二つの形態は組織され、生命力にコントロールされている。生命力は意識によってコントロールされ組織されている。人間精神は、ことにそれが群集化したときや大都市に集まったときは、無意識に相手の意識の中に飛び込んでいく。われわれが相互不可侵であると信じている境界部分は交錯する。人間は自らそう思っているほどには思考や個性の独立性を持たないものである。
心霊王国の導師となろうとする医学生は、その学習のある時期、おそらくは初期において、世間から引き籠もって、彼の心の境界に、外からのどんな邪悪な攻撃からも防御できる防壁を築く。
ここで精神統一のやり方の一つを述べておこう。実習者は一つの対象をそれと一体になるまで継続的にイメージし続けなければならない。この行法はもちろん、神秘家やオカルティストにはよく知られている。ここでは細かく述べている暇はない。この修練が積もり、ついには神秘的生命の高次な状態に導かれるであろう。しかしそれはまた狂気に対する医学的治療の補助としても用いられてよいのである。
偉大な導師イエスが、人からの邪霊の退去を命じたときは、通常この一体化の対象として人間を選んだわけで、すなわち、その意識は境界を突き破って流れ、患者の無意識を掴む。一方、渾身の力で、彼のもつ生命力を患者の複体の中に集中して注ぎこむ。それは電気ショック療法の効果をもつので、憑依霊ないし悪霊はあたかも地震にでもあったように分捕っていた場所を手放さざるをえなくなる。
この行為に伴う命令のことばは大変効果的な攻撃の役割を果たす。この敵は通常被暗示性の状態にあり、他者からの権威的命令に従いやすいからである。かくして憑依霊は占有状態を放棄せざるをえなくなり、この占有が長期的であった場合、またはこの悪霊ないし悪霊たちが完全な占拠を確立していたような場合には、代用物が与えられるべきである。ガダラの豚〔マタイ8:28〕の場合には悪霊は豚の群れの中に入るように命ぜられたことをあなた方は思い出すことであろう。この見たところ気まぐれのような行為もちゃんと理屈にあっていたのである。というのは、主は、お祓いされた霊が暗闇をさまよって、すぐさままた最初に彼らを惹きつけた光の中に戻り、再び前の犠牲者に憑依するということをよく知っていたからである。そこで治療した患者の正気を持続させるために豚が犠牲にされたのである。
「その群れ全体が、崖から海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった」〔マタイ8:32〕――憑依していた霊が自分たちが動物の複体と結びつき、はなはだ原始的な種類の体の中に閉じ込められたのを知って激しい恐怖に襲われたのである。その気味の悪さと獣性に身震いして、彼らはひたすら逃げようとした結果、豚の自殺を引き起こしたものである。この厳しい経験は彼らに忘れることのできない教訓となった。一たび、動物生命との異常な関係から解き放たれると、彼らはもはや人間に取りつこうとはしなかった。というのは、この二度目の死により、それまで知るべくもなかった自分自身の死に気づかざるをえなかったからである。
既に述べたように、多くの未発達な魂は、自分たちがあの世に移ってしまったことを知らないでいるのである。物質的条件からなる感覚のみに執着するあまり、知的また霊的な精神過程があることや、地上生活のあいだに追求しなかった本性の高次な部分に気づかずにいるからである。

◆準備期間

日の出かまたは早朝に神との霊交を求めるのが主の習いであった。僅かな人以外は皆眠っており、何千何万という人の意識が鎮まり安らっているこの世界の静けさのゆえに、主はこの時間を選ばれたのである。日中のせわしない時間では人々の想念波が霧のように集まって、主の御もとに付き従う魂たちの医師の仕事を邪魔し、干渉し、妨害したかもしれない。しかし、一瞬でも高次世界で叡智との交渉をもった日は、一日中それとの交流を持続できたであろう。
必要とあれば彼は、キリストをして「わたしは世の光である」〔ヨハネ9:5〕と叫ばしめたあの光を自分に引き寄せることができたはずである。そのとき彼は人間に知られるあらゆる知識を超えた知識を表現したのである。それは重い肉の衣を着て世間を歩く人でも、「創造的叡智」が彼を通して輝きその全存在を満たすという意味では、神となることが可能だという真理であった。そうしたとき、僅かなあいだ人は、もし充分にそれが与えられるときは山をも動かし、病を癒し、悪霊を追放し、「不滅の生命のことば」を語る神力をかすかにでも獲得するかもしれないのである。
とはいえ、あの偉大な時代に、キリストだけが自分を「世の光である」と主張できたのであろう。ほかの誰もあのように聖霊に包み込まれ、創造者のようになることは出来なかったのである。
「風も命じなば従わん」〔マタイ8:23-27〕――このことばは、現代の合理主義者には馬鹿げた誇張のように聞こえ、そんなことをいう者は均衡を欠いた精神の持ち主で誇大妄想に陥っているとおそらくは言われることであろう。しかし暫くのあいだ〈神の創造的叡智〉に満たされた主は、風のコースを変えることができたのである。なぜなら、その瞬間、彼は「形成力」の表現する通路となり、大地を創造し、自然法則をもってそれを維持した〈大想像力〉の通路となったからである。そしてこの法則そのものの働きを通して現実に空気の流れを変え、風を支配し、北から南へ吹く風を西から東へ吹かせることもできよう。おそらくいかなる人も、彼ほど自己統御を達成し、「自然」を支配するだけの完全な精神のコントロールに成功した人はいないであろう。しかし、神の国の子供たちである僅かな人たちは霊的また知的本性の研究と進歩に捧げられた一生を通じ、いかにすれば手で触れただけで病気を治し、二言の命令で精神障害者を癒し、水の上を歩くことによって引力の法則を克服したり、或いは現実にパンと魚の奇跡を再び惹起することが出来るほど物質をコントロールすることができるかを学ぶのである。
いわゆる奇跡を生みだすプロセスは、次のように言えるかもしれない。すなわち、精神集中によって、精神原理(The principle of mind)がかなりの高い振動にまで高められ、人間という媒介物を通して暫くのあいだ物質を支配し、自然法則の知識を通し、またその〈不可測の起源〉との交流によってそれをコントロールするのであると。
現代の医学生はそのカリキュラムの幅を広げることで利益を得るかもしれない。キリストの時代の導師たちに必要だった訓練の細かな点をすべて踏襲することは彼の手におえないことである。しかし、自己の心の研究と開発のために時間の一部を割くことはうまく行くであろう。私は前のところで、短時間、ある対象に意識を没入させる集中法のことを述べた。毎日数分間の訓練をすることでよい。もし天分があれば、明確な力を与えられ、自己統御にも成功しよう。それは単に、彼が患者を訪ねていくとき自信を持たせるばかりではなく、彼がただ居るというだけで患者たちに活力を賦与することを可能にするかもしれない。こうして、医師が、形が心を創るのではなく、心が創造し、――知性は凡庸であっても忍耐強く慎重に行なうなら――物質や肉体をかなりコントロール出来ることを学んでいるので、病人はたいへん利便を受けることであろう。

◆地縛霊(Earth-bound spirits)のいろいろ

狂気について書きながら、私はこれまで邪霊、つまり古代においては悪魔と呼ばれていた凶暴な霊についてのみ言及してきた。しかしながら、無知でくだらぬ考えにとりつかれた多くの人霊たちが死の門口のところで道草を食っているのである。彼らは別段の邪悪な考えもなく、また霊的進化の過程について何らの観念も持たない者たちだといえるかもしれない。一生を通して彼らはいかなる霊性ももたず、ただ物質感覚のみに生きてきたのである。
不滅への道を歩むこうした旅人は、永遠の旅路の連続的な性格を全く分かっていない。彼らは感覚的経験や濃密な物質世界のみを激しく求めて、他人の人格を部分的に支配することに成功する。彼らはある種の狡知をもって、憑依しようと狙った他人の身体の中に彼らの居場所を確立してしまう。この種の犠牲の典型的な例が多重人格の場合に見られる。こうした種類の二重憑依は憑依霊の腕次第で手際よく運ばれる。霊は初め肉体に繋がった一本ないし二本の重要な連絡線を最初はそっと手中に収めることによって患者の複体にうまく憑依し、暫くのあいだ生命体全体を完全に意識的にコントロールするのである。
もう一つの憑依の例は間欠的に起こる妄想が特徴であるが、その妄想には一、二愚かしかったりつまらなかったりすることはあるものの、狂暴なところはない。このようなケースでは、私が今言ったような未発達未成熟な魂は、通常死後の世界において仮眠状態でおり、かなりの期間それが続くのである。彼らは地上のことや、後にしてきた生活に全く心をとられてしまっている。彼らの本性は知的、霊的な努力とは無縁である。小さな利己心やら怠惰が、彼らをこの状態にとどまらせ、そこへまた他の霊たちが類は類をもって集まる。夢見る帰幽者の霊は、ある弱い人間の潜在意識の中に入り込んでそれと混じりあい、患者の潜在意識下の記憶に現われるある特殊な行為や固有の空想を再生しようとする。
まだ明瞭に自己表現ができる状態なのにもかかわらず、憑依された人はこの侵入した他の魂から仄めかされた特殊な行為や、思考様式や、コンプレックスなどを何度も繰り返さざるをえない。実際魂が魂のうちに、心が心のうちに住むことができるのである。
このような症例では自己暗示と催眠療法が有効である。但し侵入した意識が永いこと住みついていたり強力に居座っていなければであるが。この場合、闖入した霊ははっきり目覚めた活発な意識を持ってはいない。そうした夢の状態では霊の意識は統一を欠き集中の焦点がないのである。肉体を支配したいという意図や計画的な欲望は自覚化していない。従って閾下自我の下層に属する侵入の黒雲は人間の現在の知識によってもくい止め、患者の心から除去することができる。馬鹿げた妄想に悩んではいるが、まだ正気や正常な生活を維持できる多くの人はこのカテゴリーに属し、彼らの身内や担当医師の手に負えない問題を提供する。彼らを隔離するのはしばしば残酷なことになりかねないし、まだ不可能でもあるからである。しかし、部分的には合理的な生活が出来たとしても、夢見る闖入者が次第に目を覚まし憑依しようとしたり、患者の心に消えない傷をつけないように緊急に処置される必要がある。

◆老 衰

年老いた人に見られる老衰の形跡について考えるとき、彼らがもうすっかり死のかなたの世界で生きていることをよく知っていなければならない。そして老人の潜在意識が、地上を夢見る霊に侵入されていない場合でも、本人の魂の離脱により、その頭脳はある程度集合的意識が発散する浮遊的想念の影響を受け入れやすい。かつては知的で活動的であった人が散漫で意味の分からぬことばを発することがあるのはここから起きる。実際のところ老人の意識は今や全面的に中間界に住んでおり、閾下自我の一部だけが神経中枢との活発な交渉を持ち続けている。その神経中枢は脳内にはなく、主として身体器官と結びついている。「老衰者」と呼ばれる大変年とった人は、本当は「肉体から離れた霊」と呼ばれる方がよい。彼は既に死んでいるからである。彼は三途の川を渡ってしまっており、ただ体だけが残ったのである。それに知的生命を賦与していた「言葉」はもうない。

◆憂鬱症

医師に尋ねればおそらく、憂鬱症(メランコリア)にかかっている人を治すのは不可能ではないとしても、極めて難しいと言うであろう。この不幸な精神病とその永続的特性は、憑依霊の理論と、なかんずく件の人物に憑依せんとする霊の特殊性格を理解すれば、もっと容易に理解できよう。
通常このような侵人霊は死後あらゆる犠牲を払っても地上に戻りたいという激しい望みを持っている。時としては彼らには悪意はなく、むしろ強い意志や、しばしば鋭い知性さえ持っている。しかし彼らは前に述べた霊たちと同じく、地上の価値だけを認めているのである。「富んでいる者が神の国に入るよりはラクダが針の穴を通る方が、もっとやさしい」〔マタイ19:24〕ということばは、特殊な意味でここに用いることができよう。もちろん、キリストのこのことばはもっと広い意味がある。しかし、富と与えられる快楽を享受した人が死の関門を越えると大変なハンディキャップを持つというのはある程度事実を表わしているのである。彼らは物質の歓びに浸り、数々の欲望の贅沢三昧な満足を求めて生きたために、自分自身の心の中に避難場所がなく、死後には空白があるのみなのである。そして生前は容易に手に入れることのできた物質的な歓びを心から熱望するので、目に見える物質世界に引き寄せられる。彼らは熱烈に地上への帰還を求め、大概は考えなしに私が前に述べたようなやり方で誰か弱い人の身体に憑依する。しかし帰幽霊が強い感情の原動力に促されて、しっかりと統治権を握り、元の居住者たる霊に退去を命ずるとき、彼らはしばしば恒久的に見知らぬ人の複体に捕らえられるのである。ゆっくりと、しかし確実に、彼らは自分の罪、すなわち半分は真の事情を知らぬところから犯した過ちに気づく。彼らは牢獄に繋がれ、利己的欲望によって他人の肉体に繋がれていることを知る。しかし余りにも無知であり、また閉ざされた地上の生活を送ったことが災いして、彼らは自分を解放するだけの一大奮発が出来ないのである。
こういう人は大抵普通の人で、ひどく後悔している。彼らには償いの可能性はないように思える。彼らには霊の自由を回復し、肉体のコントロールを気の進まぬ主人公に返す手だてが見つからないのである。そこで彼らは絶望に陥り、患者の頭脳に自殺を吹き込まない場合でも、重い憂鬱症に引き籠もろうとするのである。
何日も何年も彼は荒廃した苦悶の表情で、無気力のままに過ごす。一方彼の本来の魂は引き籠もり、見知らぬ絶望の囚人がその場所を占めている。憑依霊はその場所を放棄することもできなければそれの合理的な一貫性のある使い方をすることもできない。おそらくキリストの時代に規定の修行過程を終えた導師だけが侵入者を解放してはっきりした憂鬱症患者を治すことができたのであろう。

◆幻 覚

幻覚は、虚偽の感覚が印象されることだと医者は言ってきた。それには視覚的なもの、聴覚的なもの、触覚的なものがある。一般に、幻覚は自分の記憶から切り離された憑依霊が掻き立てる患者の内面生活に関係した内容のものである。これらの憑依霊は見知らぬ者の記憶中枢を使用して悲惨な結果を生んでいるのである。
このような場合、敵は間をおいて攻撃するが、原則として知的な支配はしない。彼らは間欠的に患者と交渉を持つ。あるいはそうではなく永続的な憑依だとしても表現の機構を使いこなしていない。多くの場合、憑依霊はピアノに向かって、二つのキーを代わる代わる叩く子供みたいである。この楽器で初めから終わりまで弾きこなすまでの腕はなく、何度も同じ音を繰り返しているだけである。
この種の例は毎日同じ自己非難を繰り返し続けている精神病者に見られる。彼ないし彼女はある罪を犯した。例えば二千ポンドを盗ったとか、伯母を殺したとかいうのである。こうした場合、侵入者は患者の潜在意識下にある抑圧された欲望やイメージを始動させるだけである。実際には二つの魂が争う結果、彼らのいる界での知的な活動は麻痺してしまっているのである。そこで心の中の一つの場面――二千ポンドの盗みとかの――が精神の全域を占領し、いわば、完全な精神的無能者に仕立ててしまうのである。
ノイローゼが前生において支配的であった状況から来る場合には、その患者は憑依されているという範躊には入らないのである。彼らは統一体にある欠陥をもち、その症状を医師が見れば、二重人格があるかどうか、つまり二つの精神が一つの肉体機構をコントロールしようとしているかどうかが分かるであろう。

◆妄 想

妄想の二つの主要なタイプは誇大妄想と被害妄想である。この両者においては、二つの自我が混じりあい、第三の自我つまり、潜在意識下の生命の基本要素からなる偽りの人格を作りあげているのである。
ある女性は自分がヴィクトリア女王であると宣言し、女王の役を演じようと努力する。彼女はおそらくいつも卑しく劣等な地位にいたのである。二つの魂が一体になり、自我の埋もれた深層から材料を引き出して、多分に自動機械のような特徴をそなえた新しい性格を作り上げるのである。というのは、これもまた、二つの魂が混交して互いに他を抑制し合うところから生ずる麻痺によって、正常な知性の統一が失われている例だからである。
大部分の場合、侵入霊は個人的意識の記憶中枢にある材料を利用しようとするのだということを記憶せよ。しかし侵入霊はその上に彼の固定観念を刻印し、それによって一層たちの悪い混乱を作り出すのである。
精神錯乱の原因は推論能力の混乱にあるのではなく、推論能力に与えられる材料の混乱にあると言ってもよいであろうか。というのも、異常な神経症状は心の葛藤に起因するように見えるであろうが、例えば集団本能と個体本能間の葛藤は狂気の神秘を説明していないのである。葛藤は魂の防御力を弱める。そこである場合には、患者の潜在意識が憑依霊の閾下自我と患者のそれの複合体からくる暗示的材料を受け入れてしまうのである。そして第三の実体の干渉が、やがて狂気の状態を招くのである。

*      *      *

以上述べたところから魂の侵入といっても様々な度合いがあり、また、憑依霊の力次第、それが身体機関を操る能力次第、その魂の潜在意識の状態次第で違ってくることがはっきりしたであろう。犠牲者の肉体的、心霊的性格は引き起こされる狂気の性質と種類を決定する。こうしたとき、医師は心理学的処方を適用しようとするであろう。彼は患者を調べて「精神分析」――すなわち私の死後に発達を見た学問――を用いようとする。しかし、私は確信をもって断言してもよい。憑依霊がこうした治療で癒されるとしたら、それは患者の注意を直接コンプレックスと呼ばれる固定観念に引きつけることより、患者が侵入霊を放出するきっかけをつくるからである、と。
一たび患者の知的注意が心の暗がりに焦点を合わせると、その暗がりの所有者は敵の侵入者に打ち勝つことができる。憑依霊は、結局は見知らぬ人の潜在意識下の記憶と関係を持つには不利な立場にあるのである。この心の暗がりとはおそらくある古い恐怖であって、これが犠牲者をしてその暗がりに目を背けしめ、心を無防備にし、侵入勢力に明け渡す結果となったのである。知性の光がそこに当たると闇は晴れて消え去り、患者は完全な正気を回復するのである。
しかしまた、精神分析による治療法が、患者に正常と均衡を取り戻すのに失敗する例もある。この種の短いエッセイで、治療法について詳しく論ずることは不可能である。しかしながら私は、精神分析の失敗は、多くの場合、患者がコンプレックスの影響から解放されると同じくらい容易にコンプレックスに圧倒されてしまうという事実によることを言っておきたい。コンプレックスは他の知性体によって刺激されると、ある人工的な生命を帯びるからである。そこで私は、精神分析は、憑依する実体がないか、またはあってもそれの憑依が確固としたものとなっていないために私が述べたような方法で容易に放逐される場合に限って成功するというのが正確なところだと信ずる。
この小論では狂気の全域を扱うことも、また、見えない意識世界が地上生活のある時期に、精神病にかかりやすい欠陥人間に与える影響を表面的にせよ論ずることも出来なかった。私は統一体の損傷や奇形による狂気の多数例についても言及できなかった。実際、憑依によって引き起こされる多くの症例においては、この統一体がやがて相当な痛手を受けるのであり、不治の場合には、原則として重大な損傷を被るか部分的に機能を停止してしまうのである。

[原注]
(1) 私は死後三十五年のあいだに狂気について研究したことはなかった。以下の小論は私の知己である三人の帰幽者の要望で書かれたものである。つまり私は彼らの秘書役を果たしただけである。それ故この小論にある内容の大部分、あるいは実際のところ、それが配列される仕方についても私の責任はない。しかし読者はそこここに私の文を発見するかもしれない。それらは不透明で困難な問題に関する私の浅薄な知識から出たものである。――F・W・H・マイヤーズ
(2)カール・ウィックランド博士の『迷える霊との対話 Thirty Years Among the Dead』〔邦訳、近藤千雄訳、ハート出版〕を見よ。――E・B・ギブズ

第十八章 正 義

人々が公正な神を云々するとき、通常は神に人間的な誤謬の性質を帰属せしめているのである。神というと、彼らは公正な裁判官とか、反社会的な罪人を罰する人を考える。しかし人間には地上生活のあいだは完全に公平な精神で、果たして正義がなされたかどうか、罪人はその報いを受けたかどうかを知ることはできない。〈神聖な宇宙精神〉だけが罪人の過去や彼が属する社会のすべての成員の過去を知っている。それゆえこの宇宙精神だけが人間の偏見に束縛されずに裁断を下し、いわゆる犯罪者を許したり矯正したりすることができるのである。従って、人間の定義するような正義は、宇宙的に考察し永遠の光の下に見る正義とはすべての点で違っている。しかしこうした見方はいつも人間には隠されている。人間は限定された観念のうちに生きねばならないのである。そして神は正義とは何の関わりもないということが出来る。というのも人間はこの語を偏った無知なやり方で用いているからである。人間はいわゆる犯罪者の潜在的未来や過去を見ることはできず、原則として、社会全体が真の犯罪人であり、社会自体の無関心や無能力によって、犯罪を犯したり法律を破ったりせざるをえない環境に個人を置いたのではないかどうかを考察することはできない。
われわれはある意味では皆、侵犯者であり犯罪者なのである。われわれは不完全で、無知で、馬鹿げた存在で、何度も何度も神の法を犯す。そして永遠の霊が公正な――人間の考える意味で公正な――神ならばわれわれは実際、厳しい罰を受けて、二度と生きては審判の座につくことがないであろう。しかし宇宙の霊は慈悲深いので、正義を人間が考えているようにはみなさない。そして至高精神は悪を単なる無秩序、分離、不完全な想像力とみなしている。それは無秩序を通じてゆっくりと進化し、遂には類魂や宇宙的生命のうちの秩序的、調和的状態に至るのである。

(完)

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