2-(03)スピリチュアリズム他界説の特色

 

具体的過ぎる?他界観
スピリチュアリズムの最大の特色は、死後に霊魂が移行する世界の、詳しい情報にあります。様々な宗教が神話や教義の形で、漠然と説いていた「あの世」が、現にそこにいる住人たちのダイレクトな情報として、伝えられているわけです(ただし、そこに偏りや誤報がある可能性もあるので、全部を鵜呑みにするわけには行きません)。

とりわけ「マイヤーズ通信」と呼ばれる『不滅への道』『人間個性を超えて』、オーウェンの『ヴェールの彼方の生活』などは、地上を離れた霊が赴く世界の「生活の様子」を子細に伝えています。

このことは、スピリチュアリズムの特色でもありますが、同時に多くの人が困惑を示すところと言えるかもしれません。
まず、そこは、あまりにも地上の世界に似ています。人々は住居を持ち、服を身につけています。糧を稼ぐ必要こそないものの、なすべき仕事を持ち、時には宗教的な集会を開いたりもします。街があり、花や虫や鳥などもいますし、音楽・文学・美術、さらには哲学や科学的研究といったものも存在します。
このような「あの世」は、土着的宗教の神話としてたまに語られることはあっても、通常の宗教的な教義にはあまり出てこないものです。宗教にしろ、神秘哲学にしろ、「あの世」をもっと高尚な世界として想定する傾向があります(中には宇宙意識の一部になるといった、高尚ではあるものの内実がよくわからない説を説く人々もいます)。
こうした人々から見れば、スピリチュアリズムの提示する「あの世」は、幼稚で、俗っぽいことこの上ない、となるでしょう。

また、このような他界観は、人間中心主義であり、個人を重視すぎると感じる人もいるようです。こう主張する人たちは、「死後存続」自体も、個人重視として否定するのかもしれません。あるいは、「何らかの存続はあるが、個人は別の形態になる」と主張するのかもしれません(それがどういう情報源から来たものなのか不明ですが)。

いずれにせよ、心情的には理解できない反論ではありません。というより、このような霊信を受け取った霊媒自身、またそれを受け入れたスピリチュアリスト自身、いささかの当惑を感じないわけではないからです。
けれども、「実際にその世界にいる肉体を離れた霊魂」(と判断せざるを得ない通信者)が、そのように報告している以上、これは「やむを得ない」ものです。いくら、死後に赴く世界はもっと高尚なものであってほしい、と願っても、事実はそうなのですから仕方がありません。

しかし、「あの世」はそういった「現実に似た世界」だけではありません。その上には、地上の人間が思い描くことすら不可能な、より高尚で、精神的・霊的で、複雑精妙な世界があるというのです。
そして、人間の個性というものも、絶対のものではありません。高次の世界へ行けば行くほど、個人を隔てている外壁は浸透性を増し、霊と霊とは共感によって融合の度合いを高めることになります。そして、遙か高次の世界では、霊魂は他の「類魂」(別項参照)の体験を自分のものとし、ついには「本霊」(あまたの類魂を束ねる偉大な霊)と同化していくのです。また、高位の霊は、個人性は希薄になり、影響力のようなものになるとも言われています。

残念ながら、人間はあまりに未熟な霊であるために、このような高次の世界のことははっきりと理解することができません。われわれの知性や精神性は、どんな天才や聖人であっても、高次の霊的存在に比べれば、赤子のようなものに過ぎません。そんな存在が、死後に「神と合一」するなどということはありえません。赤子のような霊魂は、幼稚で俗っぽくあろうと、次の「幻想界」に行き、そこで成長し、さらに一歩一歩高次の世界へと向かっていくしかないのです。

ですから、スピリチュアリズムが説く他界観は、人間中心主義や個人絶対主義ではありませんし、即物的で幼稚なわけでもありません。

天国と地獄
多くの宗教が説く天国と地獄は、そのようなものとしては存在しません。それは、おそらく霊が断片的に伝えてきた霊界の情報をもとに、人間が勝手に作り上げた想像です。
先に述べた「幻想界」は、ある意味では、「天国」であり、「浄土」であるかもしれません。食べ物や衣服や住まいを獲得するためにあくせく働く必要はありません。まったく毛色の合わない人々と一緒になり、苦痛を感じたり諍いを起こしたりする必要もありません。芸術でも学問でも、没頭したいのなら好きなだけ没頭することができます。病気はなく、害虫・害獣もいず、伝染病(肉体的な)もありません。
しかし、それは「天国」ではありません。生活苦にあえぎ、病に苦しみ、過酷な環境に汗する人間から見れば、夢のような天国ではあっても、壮大な霊魂の進化・成長の旅にあっては、一場のステージに過ぎません。霊魂はその環境に飽き、さらに向上の道を選ぶ必要があるのです。
一部の霊魂は、そこが「最終ステージ」だと錯覚してしまうことがあると言われます。「ここは神の国だ、ここでずっと神への祈りを捧げて(あるいは神秘を瞑想して)暮らし続ければよいのだ」と思い込み、さらなる成長への意志を捨ててしまうのです。
とりわけ、特定の宗教教義に凝り固まった人や、「生を超越した解脱の境地」ばかりを求める人は、このような陥穽にはまりやすいと言われています。これを破るのは容易ではなく、魂がそのことに自覚し、成長への道に復帰するのは、途方もない時間がかかるそうです。

地獄は、別の意味で存在します。といっても、閻魔大王がいて、永遠に死者を焼いたり刺したり刻んだりしていたぶる、というようなものではありません。それは人間の残酷さの投影であり、「創造主」への侮辱ですらあります。
生前、低級な欲望に執着し、身勝手さ、残酷さにまみれた霊魂は、死後も、その性向を保ち続けます。これらの霊魂は、同類と引き合い、粗暴で暗く、恐ろしい「境域」を作り出します。彼らは相変わらず低級な肉体的欲望や自己中心的な野望を満たそうとしますが、物質を離れた世界ではもちろんそれは満たされることはありません。渇望だけがどんどん肥大し、霊魂を苦しめます。
中には、もう一度よこしまな官能の快楽を味わおうと、地上世界に降りてくる霊もあります。そして盛り場や賭博場などをうろついて、似たような性向の人間を探し出し、それに憑依して、何とか束の間の快楽をむさぼります。憑依された人間は、さらに酒食や悪徳を求め、犯罪にまで手を出すようになる場合もあります。これが「邪霊」と言われるものです。
救済を使命とする高次の霊は、このような霊を手間暇かけて救おうとします。しかし、光から目を背けた霊魂は、なかなかこれに応じません。そして、ようやく気づきが訪れても、彼らの前にはさらなる試練が待っています。彼らは、それまで自分の行為がその犠牲者に与えてきた、ありとあらゆる苦悩の感情を、自らのものとして味わわされるのです。人に与えた苦しみや恐怖を、そのまま自分が味わうわけです。それは、まさしく、地獄にも等しいプロセスかもしれません。
また、「中には善なるものへの欲求をすべて失い、不純と悪徳に浸りきり、奈落の底へと深く深く沈んでいく者もいる。そしてついには意識的自我も失い、事実上、個的存在が消滅していく」(モーゼス『霊訓』)といった、恐ろしい事態もあるようです。

もちろん、このような例は、めったにあるものではありません。地上の大半の人間は、いくらかの罪を犯すことがあっても、善や聖性への志向を失っていないので、恐ろしい「あの世」へ落ちたり、「邪霊」となってさまようようなことはありません。
けれども、「他者へ与えた苦しみは、必ず自らのものとして味わわされる」というプロセスは、どの魂も免れることはできません。この世を離れ、「幻想界」へと移行する時、霊魂は今回の生を回顧・反省するプロセスを経ます。その時にもこのことが行なわれるのです。罪への償いはどんな魂も免れることはできません。「蒔いた種は刈り取る」という原理は、すべてに適用される原理として、スピリチュアリズムが強調することです。

「罪の消滅」の誤り
霊魂は、死後も存続し、自らの「霊格」に合った成長の道を歩みます。高位の霊の援助はありますが、未熟をただし、罪を償うのは、自らの責任においてです。
ですから、「イエス=キリストを信じると信仰告白をすれば、罪は赦される」とか、「献金をすれば赦免される」といった宗教の宣伝はまったく誤っています。このような考えは、むしろ霊を冒涜し、宗教を破壊するものです。
インペレーター霊は、次のように言っています。
《わずか一つの信仰、一つの考え、一つの思いつき、一つの教義を盲目的に受け入れることで魂が清められるなどという信仰を、われらは断固として否定し且つ告発するものである。これほど多くの魂を堕落せしめた教えは他に類を見ぬ。》
《われらの教説と、汝らの信じる教説〔キリスト教〕、すなわち己れの思いのままに生き、隣人に迷惑を及ぼし、神を冒涜し、魂を汚し、神の法も人間の法も犯し、人間としての徳性を辱めた人物が、たった一度の半狂乱の叫び声、お気に入りの勝手な信仰、その場限りの精神的変化によって、眠気を催すが如き天国への資格を有するとの汝らの説……何をしようと天国はいかなる堕落者にも開かれており、悶え苦しむ人間の死の床でのわずか一度の叫び声によって魔法の如く魂が清められ、遠き未来に訪れる審判の日を経て神の御前に召され、そこにて当人自身退屈この上なく思うはずの礼拝三昧の生活を送るとの教え……の、いずれが人間の理性と判断力に訴えるか、どちらが罪を抑制し、さ迷える者を確実に正義の道に誘うか、……それは明々白々である。》(モーゼス『霊訓』)

「念仏を唱えれば悪人も往生する」というのも、似たようなものかもしれません。悪人も、死後存続があるので、「あの世」なり「生まれ変わり」によって罪を償う機会を持てるという意味なら、それは正しいでしょうが、「ナムアミダブツ」と唱えることで罪が消えてなくなると捉えるのは、まったくの誤りでしょう。