2-(15)スピリチュアリズムの12の「救い」

スピリチュアリズムが明らかにしたことはたくさんありますが、そのエッセンスとして、スピリチュアリズムは私たちに何を訴えたいのか、どういう「救い」をもたらしてくれるのかを、簡潔な形でまとめてみることにします。

①死はない
②愛する人とは死後も会うことができる
③おおかたの人は死後に「楽園」に行く
④地獄や永遠の罰はない
⑤生まれ変わることができる
⑥魂は孤独ではない
⑦魂の経験は失われることがない
⑧一人一人に見守ってくれる「霊的存在」がいる
⑨退歩はない
⑩不公正はない
⑪何も恐れるものはない
⑫宗教は必要ない

①死はない

私たちが何よりもまず言わなければならないことは、「私たちは死によって消滅することはない」ということです。そして、私たちはたくさんの証拠を理性的に検討して、それを受け入れ、主張しているということです。
死は終わりではありません。消滅ではありません。私たちの「魂」、つまり人格や精神的な営みの主要な部分は、死を超えて生き続け、活動し続けます。
現代の多くの人はこのことをなかなか受け入れようとしないかもしれません。はなから「ばかな」と拒絶する人もいます。残念ながらそういう人たちには何も言えません。万人をたちどころに納得させるような方法はないからです。ただ私たちが言えることは、「証拠はたくさんあります」「私たちは理性的に検討して、それを受け入れたのです」ということだけです。そして、「場合によっては受け入れてもいい」と思っている人たちには、できるだけ「証拠」を示し、「理性的に検討して、判断してください」と言うだけです。

「私は死の後も生き続ける」――この単純な命題こそ、スピリチュアリズムの最重要命題です。そして、これを真理として受け入れるならば、それは大きな救いとなります。
「私が死後も生き続ける」のであれば、死をむやみに恐れる必要はなくなります。多くの人は、死によって「私」が消滅してしまうという恐怖を持っていますが、その必要はないのです(中には「私」が消滅することが救いだと感じる人もいるようですが、それは仕方ありません)。
死の恐怖は、人間にとって最大の恐怖だと言われています。それが消え去るのであれば、それは大きな救いではないでしょうか。

ただし、「死はない」からといって、自殺することは、「ほかの人を救うため」といった特殊な場合を除いて、非常にまずい結果となることは付け加えておかなければなりません。自殺は苦しみの解決にはなりません。ネガティブな思いにとらわれて自殺した魂は、その暗澹とした思いの中で長いこと苦しむと言われています。

②愛する人とは死後も会うことができる

愛する人と死別するということは、大きな悲しみです。
しかし、相手が先に死んでも、自分が先に死んでも、真に愛する人とは、死後の世界で再び巡り会うことができます。
死別を悲しむことは、人間として致し方ありませんが、長く悲嘆に沈み続けることはよくありません。それは自らの生を傷めることであると同時に、死した魂を不必要に地上に引き留めることになるからです。他界した魂の幸福を祈ることはよいことですが、自分の悲しみを訴えることはエゴであり、よくありません。

「どのようにして出会うのか」はケースバイケースのようです。死後すぐに出会う人もいれば、しばらく時間がかかる場合もあります。魂同士のレベル(成長度合い)が近く、互いに深く愛し合っている場合はすぐに出会えるでしょう。また、死後の世界において霊魂はある程度自分の身体(霊体)を操作できるので、相手が最も喜ぶ姿を取ることができます。幼くして死んだ子供は、そのいたいけな姿のまま(しかし一人前の霊魂として)、出会えるというわけです。

③おおかたの人は死後に「楽園」に行く

多くの人は、時に善くない思いにとらわれることがあるにしても、根本には善なる魂を持っています。「人を苦しめることに喜びを感じる」というような、悪に浸りきった魂はきわめて稀です。そうした善なる人々は、死後に、「自分の欲求が満たされる」ような世界に行きます。釣りが好きな人は好きなだけ釣りが楽しめ、芸術の創作活動に打ち込みたい人は好きなだけ打ち込むことができる、そういう世界です。死後に厳しく裁かれ、ひどい苦しみの世界に行くわけではありません。ほとんどの魂は楽園に行くのです。ただし、それはその人の欲求や夢に応じた、「幻想」の世界です。魂は、次第にそこに退屈を感じ、さらなる成長を求めて、さらに高い世界へ向かうか、地上に再生します。

④地獄や永遠の罰はない

「最後の審判」や「地獄行きの判決」や「永遠の苦しみ」といったものはありません。魂は、それぞれの思いにふさわしい世界に行くだけです。間違った考え、異常な執着、他者への悪意といったものを持ってしまった魂は、しばらくそうした思いが渦巻く世界に行きますが、やがて気づきが訪れると、新たなステップを踏み出すことになります(多くは学習のために生まれ変わる)。「○○を信じないと厳しい裁きに遭う」「○○という行為をしないと地獄へ行く」といった偽宗教の脅しを気に掛ける必要はありません。

⑤生まれ変わることができる

魂の成長に必要がある場合は、再び地上に生まれてくることもできます。どうしてもこの地上世界が好きで、そこで何かをなしたいと願うのであれば、生まれ変わることができるわけです。
ただし、生まれ変わった人生が、大成功の人生になるかどうかは、わかりません。魂は、自らの成長にふさわしい人生をあらかじめ選んで生まれてきます。それがどういう人生であるかは、「成功」といった地上の尺度では測れません。

⑥魂は孤独ではない

一人一人の魂は、「類魂」と呼ばれる集団に属しています。類魂のメンバーは、共に生まれ変わりをして、家族になったりすることもありますし、またまったく見知らぬままの場合もあります。メンバーの数はまちまちですが、数十という規模だとされています。ただし、さらに上の次元では、類魂がさらに結びついて大きな「心霊族」を形作っているとされています。大きく捉えれば、人類はみな、巨大な心霊族グループの仲間とも言えます。
類魂は現実にかかわりあったり、見えない仕方で連絡を取り合ったりしています。愛し合ったり、憎しみ合ったりする場合もありますし、ある大きな活動の中で影響を与え合ったりする場合もあります。
ですから、どんなに孤立しているように見えても、魂は孤独ではありません。私たちは、自分の人生を生きていると同時に、多くの類魂とともに生きているのです。

⑦魂の経験は失われることがない

霊魂は死によって失われることがないので、魂の体験は、次の段階に行っても消え去ることはありません。学んだこと、成長したことはもちろん、失敗や恥や罪も、次のステップで活かされます。「罪や愚行も残るのか」と心配する必要はありません。高次の霊的存在から見れば、おおかたの人間の罪や愚行は、微笑ましい些細な間違いに過ぎません。そしてそれもまた魂の成長のために役立つものです。
また、魂が地上で経験したことは、高次の霊的世界(幻想の世界を超えた世界)で、類魂の間で共有されます。その世界では、同じグループに所属する魂が体験してきたことを、知ることができるようになります。そうしたたくさんの体験を糧にして、類魂全体はより大きな霊的成長を遂げていきます。
ですから、一人一人が体験したことは、まったくの無になってしまうことはありません。喜びや幸福はもちろん、悲しいことも苦しいことも、すべてが類魂の記憶の中に蓄積されます。そして、その厖大な蓄積が、類魂の霊的な成長の糧になるのです。⑥の最後の言葉を言い直せば、私たちは、自分の人生を生きていると同時に、類魂全体のものである生を生きているのです。

⑧一人一人に見守ってくれる「霊的存在」がいる

一人一人の人生の歩みを、影から見守ってくれている「守護霊」がいます。それは多くの場合、類魂(あるいは心霊族)の仲間で、より先に進んでいる魂です。カルデックの『霊の書』にこうあります。
「あなたのそばにはいつも、あなたより優れた者がいる、その人はあなたに寄り添い助言を与え、進歩の坂道を登るのを支え助けてくれている。この世のどんなつながりよりも深い縁で結ばれ、その情愛は真実、あなたのために尽くしてくれる、その人があなたのそばに居る。こう考える時、これ以上の心の慰めがありますか。」
守護霊は、金銭や名声をもたらしてくれるのではありません。魂が成長の道を踏み外さないように、そっと支援してくれるのです。現実には気づかないことが多いものの、魂は無意識のうちに、あるいは眠っているうちに、こうした守護霊からのアドバイスを受け取っています。
おおぎょうな神に祈る必要はありません。お金や供物を積む必要もありません。一人一人の後ろで見守ってくれている守護霊に、「自分が成長できますように」と祈り、心を合わせていくだけでよいのです。

⑨退歩はない

霊的成長の道には、停滞や多少の後ずさりはあっても、大きな「退歩」はありません。人間が精神的により劣った生物に生まれ変わることはありませんし、ある程度の霊的成長を遂げた人が、悪人や愚か者に生まれ変わることもありません。魂は今回の生で学び得た水準を出発点にして、さらなる成長の道を歩むことができます。罪を犯したからといって、豚に生まれ変わったり、みじめで悲惨な境涯に生まれ変わったりすることはありません。魂が獲得した「宝」は、「天に積まれた宝」であって、失われることはありません。

⑩不公正はない

すべての霊魂が、成長への道を歩んでいます。その道は、とてつもなく多彩なものですが、そこに「不公平」「不公正」はありません。
不正な方法で人を陥れて富を得たり、罪を犯していながら罰せられずに生き延びたりしても、その「埋め合わせ」は必ずあります。死後の世界で自らなしたことの意味をさとって後悔したり、陥れた相手の苦しみを自ら味わったりして、それを償うようなステップへ(自ら選んで)進みます。
現世だけを見れば、成功する人・失敗する人がいて、神は不公正であるかのように見えますが、死を超えて生き続ける霊魂の目で見れば、大宇宙の法則に不公正・不公平はありません。
ですから、不正によって栄えている人を見ても、憎んだり罰したりする必要はありません。人の成功をうらやむ必要もありません。すべての魂が「蒔いた種は自ら刈り取る」のです。(不正や犯罪や非道を見逃せということではありません。)

⑪何も恐れるものはない

霊魂は不滅ですし、すべての体験は霊的成長の糧です。わたしたちは皆、消滅も退歩も不公正もない、霊的進化の道を、常に高い次元をめざして進んでいるのです。
ですから、何も恐れるものはありません。恐怖や不安は霊的成長を妨げる障害ですらあると言われています。それらを取り除くことは人間にはなかなか難しいことですが、霊魂は不滅であり、すべての体験は霊的成長の糧であることをより深く認識していけば、恐怖や不安は少なくなっていくはずです。

⑫宗教は必要ない

スピリチュアリズムの立場から言えば、人間にとって必要なことは、自らが霊魂であることを自覚し、霊的成長の道を進むことを願い、そのための行為を実生活の中で(できる範囲で)なすだけです。
どこかに出かけて、像やシンボルに祈る必要はありません。罪の償いや幸運祈願のためにお金を積む必要もありません。組織に入る必要もありませんし「○○教徒だ」と名乗る必要もありません。宗教を名乗る組織や人が脅しのようなことを言って来ても、耳を貸す必要はまったくありません。
苦しい時は自らの守護霊に祈り、あるいは訴えればよいだけです。苦行をしたりお供えをしたりする必要もありません。
宗教的な行為をするなということではありません。祈りや修行や会合が役に立つこともあるでしょう。しかし、宗教に過度に依存したり、偏った思考や行動に陥ったり、他者に強要したりすることは、霊的成長を阻害する危険性があります。
肝心なことは、自らが霊魂であることを自覚し、自他ともに霊的成長の道を歩むように、努力していくことだけです。
以上は、このサイトなりの、あくまで基本的なまとめで、ほかにも言えることはあるかもしれません。簡潔に書いたので、わかりにくいところもあるかもしれません。ご理解ください。
そして、もし納得できることがあれば、こうしたことを、「聞く耳のある人たち」に伝えていただければと願うものです。