3-(16)マイヤーズ通信より「正しい愛の道」

〔以下に収めたのは、G・カミンズ著、梅原伸太郎訳『人間個性を超えて』の「第14章 正しい愛の道」の全文です。同書は、心霊研究協会の創立者の一人であるフレデリック・マイヤーズが死後に自動書記霊媒ジェラルディーン・カミンズを通して通信してきたとされているもので、先行する『不滅への道』と併せて、「マイヤーズ通信」としてスピリチュアリストの間で高く評価されているものです。
「マイヤーズ通信」は様々な内容を含み、哲学的な色彩も強いものですが、ここでは、ゴータマ・ブッダとナザレのイエスを比較しつつ、「霊的成長」へのアドバイスを説いています。マイヤーズ自身の意見という色彩が強く、キリスト教徒の多い読者層を想定しているせいか、「主」「キリスト」など言葉遣いもキリスト教寄りのものになっていますが、その奥に説かれている、「人間は人間の本性を否定すべきではない」という教えは、「宗教=欲望否定」というステレオタイプを打破する、非常に深い教えだと思われます。残念ながら『人間個性を超えて』は現在絶版になり、一般書としては流通していないので、ここに紹介します。〕

プラトンは正しい愛の道を見出した魂の旅について語っている。まず最初に地上のものに、ついであらゆる形態の美しさを認めなければならない。それから魂は次第に正しい行為、正しい原理を認め、ついにはすべてのものの究極の原理――すなわち絶対美の知識に到達する。
プラトンが「正しい愛の道」という言葉で旅の心得を述べた時、彼は霊感を吹き込まれていたのである。しかし想像的理解のない愛は無力で、魂を前進させずに後退させ、人を高い水準へでなく低い水準へと導くことがあることを心に留めておいてもらいたい。そこで私は「正しい愛の道」と言わずにむしろ「叡智の道」と言いたいのである。というのは叡智は愛が非地上的な純粋さに到達するようにと監督するからである。この純粋さは槍のように生命の核心まで突き通り、存在の深部に達する。叡智は人に表面の醜さの中にある美を見通す力を与え、ただの女性、醜悪な不具の老人、醜く厭わしい生活と環境に取り囲まれながら外見からは想像できない精神の美しさを他人に示しつつ戦うすべての人々の魂に美を認める。
是非ともプラトンの勧めに従って正しい愛の行ないを求めることにせよ。しかし知性によって通じる道は一つしかない。そしてこの道を行く人は知性より大きくならなければならず、叡智の扉を開く力が必要である。神知から吹き寄せる風に鳥のように浮かぶことができなければならないのだ。叡智だけが彼を前進させ正しい愛の道へと上昇させるからである。
「真理についての正しい判断」――この言葉には、人が個別な愛のみではなく神愛についても知らなければならないすべてのことが含まれている。評価し判断する力によってのみ、また操作し計測することによって初めて人は金と金クソとを分離し、真と偽を見分け、そのことによって完成した絶対美を発見できるであろうから。
そしてこれを瞑想的生活のうちにか、それともある高い目的をもった仕事のうちに見出す人は、必ずや永遠の価値についての知識を獲得するであろう。そしてこの泥の肉に縛りつけられている間に、本来死後の世界に属し、厳密に言えば地上の運命とは無関係な高次の意識世界に生きることができよう。
このような人の生活は何と崇高であることか。彼はいわば神の知識をもった天使であり、肉の重みを感じながら大衆の悲しみを分かちもつことができる。この世を超え、嵐の上を飛ぶ鴎のように荒れ狂う騒乱を見、同時に地上の現実生活を特徴づける欲望、闘争、憎悪などの逆巻く波を超えた静寂の境涯に住んでいるのである。
有限な心の持ち主は美を知らない。判断に慈悲の心なく、過ちを犯した人に憐れみを持たない清教徒なぞは本質的に地上に属し、私の述べた巡礼者のように二つの世界に住むことはできない。というのも寛大さに欠け、高次な世界へのビジョンがないからである。「ビジョンがなければ人々は滅ぶ」〔旧約箴言29-18〕のである。想像的知覚のないところでは個人は次第に霊的に悪化していくのであり、表面的には良い生活を送っていても内面的には知性の混乱した思考の霧の中に迷い、注意しなければ来世においては低次の世界に沈んだり、まったく魂が洗われないままで再び地上に戻ってくることになる。
「絶対美」を求めるのなら、現実の地上世界を送る間は五官の喜びを軽侮すべきではない。なぜなら彼はこうした種類ないし状態の生活を十分に経験するためにこそ地上に生まれてきたからである。彼は花々や野原、山や海の美をめでるべきである。大都会の美、動き呼吸するすべての生き物の美しさを鑑賞すべきである。絵画や音楽に喜びを見出し、流麗な言葉の美に心と魂を震わせるなら、その人は罪深いどころか霊的力を増大させているのである。
最後に精神的敏感さに関して言えば、彼は宇宙的生活を鋭く意識し続けなければならない。賢者は可視的世界の壮大、恐怖、不可思議、神秘を感じていなければならない。
恋する人と孤高の人、快楽主義者と禁欲主義者、聖者・賢者とただの人、これらのすべての面が彼の中に含まれていなければならない。しかし、むろん、賢者が劣った兄弟を抑え、最終的にはすべての性質を支配すべきである。

完全な人間であったキリストのことを研究せよ。そうすればこれらの様々な面が明らかになろう。
「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」〔マタイ22-21〕。このようにこの世の知識を持っていたあの「人」は言ったのである。
「汝の敵を愛し、汝を迫害する者のために祈れ」〔マタイ5-44〕。こう言って聖者は彼の天上的な夢を明らかにした。また姦淫をしている時に捕らえられた女の物語を通じてわれわれはこの賢者の一面を見る。キリストはこう言って女を責める人を咎めている。「罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」〔ヨハネ8-7〕。
「幼子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である」〔ルカ18-16〕。人間的な愛の「声」はこう語った。人々はこうした言葉の中に自分たちと同じ人間性を認めるのである。
だが、快楽主義者はどうか。私がキリストのことを快楽主義者などと呼ぶと、疑問を感じ、冒涜だと思う人さえいるであろう。しかし私は、水を葡萄酒に変えた「青年」〔ヨハネ2-7〕に、また、かの女性が「彼」に香油を塗った時、「彼」の弟子たちにこうたしなめた「人」の中に、快楽主義者の面影を見るのである。「貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」〔マタイ26-11〕
マルタとマリアの物語はいつの時代にもある種の女性たちの目には謎めいて見えたものである。しかし「マリアはそのよい方を選んだのだ」〔ルカ10-42〕とキリストが言った時、キリストの内なる賢者がそれを言ったことに気づくなら、この女性たちは、朝早くから晩遅くまで家事に追われ心労に悩まされる女性に向けられた一見厳しく見えるこのたしなめの意味を理解できるであろう。この言葉の内にはすぐには理解しがたい意味が隠されていたのを読み取れよう。すなわち、自我の一面だけが他のことを押しのけてマルタの生活を占領しかつ支配して、彼女の本性を傷つけていたのである。人間の本性そのものは元来多面的で、人間全体を形成し、土くれのうちに型どられた「神」の似姿に栄光を与えるべきものなのである。
同様に、禁欲主義者は、福音書に現われたキリストと一見何の関わりもないように見えよう。だが前の頁に戻ってみると、その初めの頃に荒野に行き、悪魔に誘惑されながらすべての王国を拒絶し、四十日と四十夜荒れ野で孤独に過ごした一人の男を見る。
最後に、「神聖な生涯」の恐るべき最終場面では、賢者の光が鮮やかにそして永遠に光り輝いている。というのもキリストの中における賢者は、その弟子も世間も、もし死と復活の仲立ちがなければ彼の言葉を受け入れないであろうことを見抜いていたからである。
この最も高貴な犠牲こそが、かがり火に燈火を点じ、人間の思想と努力の傾向がどうなろうとも、あらゆる時代にわたって光明を投げかけ続けるのであろう。
キリストがゲツセマネの園で苦しみもだえつつこう祈った時には、この賢者が他のすべてを圧し、低い心を抑えたのである。「父よ、御心ならば、どうぞこの杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、御心が成るようにしてください」〔マルコ14-36〕。
かくして賢きものが、荒野の孤独の内で、またエッセネびと〔禁欲主義者集団〕の中にいて救いを求めた賢者をたしなめたのであった。聖者の側はこれ以降、神との霊交により、完全なる生涯を送ったというかもしれない。だが快楽主義者の方はこの孤独でまだ若さ溢れる人物に、生涯の年月がまっとうされることを、健全なる身体と美しき魂の生得権を要求したのである。
愛の人は人間の絆を説いた。世間知の者は指導者の死は信者の散乱を招き、それまでの長年にわたる営為は紅葉の散りゆくように跡形もなく消え失せるだろうと推測した。賢者はしかし、暗黒の時代にあって、すべてに打ち勝ち、自我の他の側面を抑え込んだのである。恐怖の夜、賢者はキリストに彼が神の子なることを教え示した。かくて主は兵士たちに向かい合われた。そして彼の告発者たちの前に立った時、再び沈黙のうちにその神の叡智を現わしたのである。
私がイエスの最後の日々には賢者が支配したと言っても、それは彼を貶めるためではない。なぜなら賢者は永生の知識をもち、人の生涯を直視することのできる者の謂いであるからだ。賢者は聖霊の叡智を受けるのであり、それゆえにこそまた、ごく稀な人の場合でさえ、その生涯の頂点、おそらくは人生の盛りの時において、さもなければ静謐だが活力ある老年の最終の時においてしか完全な形では現われないものなのである。
あなたがたの時代の浅薄な思想家は、キリストの生涯の美を認めながら、一方でこう言う。彼はその最晩年の日々は狂気であり、死に屈服したのみならず、自らを神の子と呼ぶことによって死を招き込んだと。
どの時代においても愚か者が賢者を狂人呼ばわりするものである。他人を狂人呼ばわりする者こそが愚か者であり霊感の鈍い者であることが分かる。というのも、普通の凡庸な人は叡智に対して盲目であるから、キリストは、自ら神の子たることを宣言し、十字架上の死を甘受することによって初めてその生命と言葉が永らえるということを知っていた、ということに気がつかないからである。
神の子であったこの賢者は、偉人のように彼と共に歩む一時代を征服したのみならず、まだ生まれざる何百万人の人々をも従えた。ほかの何が滅びようとも彼の物語は滅びないであろう。なぜなら彼の生涯は神の叡智の顕現だからである。
福音書を学ぶ時は、キリストの慎重な準備期間のことに注意せよ。イエスの心の多面性を見よ。彼がその本性の表現によって完成に達したことを知れ。この多面性によって、彼は性格の均衡を保ち、以来匹敵する者のない生涯を支配する力を獲得した。それらによって彼はあらゆる階層の人間たち――取税人や平民、家事に忙しいマルタ、精神的なものの愛好者マリア、売春婦、司祭、学者、パリサイ人、漁師、金持ち、権力者、乞食など――を理解した。これらの彼と本性上の様々な自我や様態を共感する人々を通して、これらあらゆる人々の誘惑、罪、性的悪徳などを理解した。これらの人々は、今日も二千年前と同じく人間の本性の代表者たちである。
それゆえ、清教徒であれ快楽主義者であれ、本性の一面しか持たず、人生や永遠を一つの見方でしか見ない人たちは神の国から遠く隔たっている。あるいは少なくとも前途は遼遠であり、死後の世界で彼らを待ち受ける高次世界まで上ることは容易ではない。彼らは未発達な魂集団の構成単位たちなのである。

◆知識と叡智

私が叡智の必要を説いたことと、「知識は美徳なり」というあの考え方とを混同しないでもらいたい。ペダンチックな学者たちはいつの時代にもその生涯と行為によってこの言葉が誤りであることを証明した。知識は賢者を作らないということを何度繰り返しても繰り返し過ぎることはない。無学文盲のお百姓が哲学者や優秀な科学者や明敏な神学者にまるで欠けた叡智の恩寵に恵まれているかもしれないのである。「先の者は後になり、後のものは先になるであろう」〔マタイ19-30〕――この素晴らしい言葉の内にキリストは、私が「叡智」と呼ぶ聖霊の賜物を受けた純朴で名もない人々のことを言ったのである。

◆仏陀として知られるゴータマ

イエスの生涯を仏陀の例との比較において考えてみよう。キリストの不滅の言葉とベナレスの最初の説教でゴータマの言った「四つの高貴な真理」(四諦)とを比較してみよう。それは以下の通りである。
「苦は普遍的なもので、人は誕生から死までそれから逃れられない。この苦の原因は欲望と煩悩であり、これが再生の導きとなり欲望や悲惨を継続させる。苦からの解放は欲望の制圧とあらゆる熱情の断滅によって得られる。すなわち満ち足りており、かつ持たぬ物を持とうと渇望しない静かな心の状態によって得られる。この境地の達成は聖なる八つの道(八正道)を行なうことによって得られる。それらはすなわち、正しい信念(正見)、正しい希望(正思)、正しい発言(正言)、正しい行為(正業)、正しい生計の立て方(正命)、正しい目的と努力(正精進)、正しい記憶(正念)、正しい瞑想(正定)である。」(編者E・B・ギブズによる注・通信霊の要望によってこのところはハーミワース百科事典から読まれた。)
これらの「四つの高貴な真理」から高尚な倫理規定が発展した。仏陀はその信徒たちに次の規則を守って生活せよと言った。
「生き物を殺すな。人のものを盗るな。断じて姦淫をしてはならない。虚偽を言ってはならない。酒類は避けよ。正午以後食事をするな。舞踏、歌謡、音楽、演劇等を見聴きするな。また花飾り、香料、香油、私的装飾等を用いるな。大きすぎる寝台で寝るな。金銀を所有するな。」
この大雑把な説明だけでも仏陀の教えとキリストの教えとはまったく一致しないのが分かるであろう。それらは注意深く比較すればあるいくつかの点ではなはだしく相違している。
仏陀は欲望を抑えることによる苦からの解脱を要求した。彼は苦の源を絶つべきだと説いた。事実、彼の使徒たちは地上的本性の基本部分を殺してしまえと要求されたのである。
一方、キリストは彼の弟子たちに欲望をコントロールすべきであり、彼らがめいめいの家で〔自己存在〕の支配者になるようにも要望した。キリストは弟子たちにその本性の核心部分に死の宣告をさせはしなかった。
カナの結婚式に出席した「青年」は水を葡萄酒に変え、仏陀がその信徒に要求した「酒類をとるな」の戒律を破った。女に貴重な香油を塗らせることを許したキリストはゴータマの規則を再び犯した。主が取税人や罪人と共に食事をし、魚や肉を食べた時もまた、この東洋の信仰の狭い道に外れたのであった。
さらにキリストの言葉の中には生への愛と欲求に満ちたものがある。「彼らに命を得させ、豊かに得させるため」〔ヨハネ10-10〕という言葉そのものが偉大な東洋の師とは一致しない視野の広さを表現している。
私がここで言いたいのは、反省的、禁欲的生活のみならず神が人に与え給うたすべての感覚の使用による広く豊かな経験を通しても、必然的に霊的生活の豊かさが得られるということである。
ナザレ人イエスの宗教は恐怖なしの宗教である。一方仏陀の宗教は道徳的怯懦を暗示しており、そのことは彼の目的が霊的な進歩にあったとか、あるいは霊的な完成への憧れであったとかの美辞麗句――その目的は実のところ再生の定めから逃れることであった――によっては言い逃れられない。
仏陀が信徒たちにすべての欲望を抑えること、五官を通して得られたいかなる幸福も邪悪な性質のものであり、それから逃れるために彼らは逃亡し、いわば誘惑を避け、この世と肉に背を向けなければならないと要求する時は、彼は苦への恐れ、すなわち神が人に授けた本性に対する恐れを表わしているのである。
しかしながらキリストは、肉と悪魔に直面し、あらゆる種類の人々の中に住み、欲望のコントロールされた表現の中には悪を見なかった。いや、彼はむしろわれわれがこの世から学ばなければならない教訓を活かし、それらを勇敢に学び、われわれの性格を発展させ、死を超えた世界における意識の高次レベルを旅し続けるのにもっとふさわしいものとなるためにこの世界に生まれたことを認識していたのである。
キリストが人里離れて祈りと内省に日を送るエッセネ派の隠者たちを非難しなかったのは本当である。彼はこうした運命がある種の人々にはふさわしいと分かっていた。しかし彼の送った生活を見れば、エッセネ派の静かな隠遁生活は、彼には満足すべきものではなく、その限界、つまりそれが人間の本性のごく一部のみを表現する結果になることに気づいていたことが分かる。そこで彼はもっと勇気あるコースを選び、世の中に出てゆき、しかもその中で完全な生活を送ることがいかに可能かの範を示したのである。彼はいかなる時も彼の本性のどれか一部を枯らしてしまうようなことはしなかった。彼は時として怒ることも悲しむこともあったし、また幼子のように陽気で朗らかであるかと思えば気高く霊感に満ちて、司祭や学者やその他あらゆる卑しい悪の群れに立ち向かった。イエスは人々のために、地上で最も高貴な生活の道を創造してみせたのである。
仏陀は高尚な道徳律を説教した。しかし彼は信徒たちに世間から隠遁し誘惑から遠ざかることを要求した。つまり生活に背を向けたのである。というのも禁欲主義者や聖者が自己内部の他の自我を圧倒し、ついにはすべての自我を支配したからである。
そこで仏陀に関しては、キリストについて言えること――すなわち「完全な人間」――があてはまらないのである。ゴータマの本性の低い部分を聖者が占有した。彼はキリストのものであった人間的で同情的な叡智に支配されていなかった。その叡智の全き開花によって、主が真実神の子であることが証明されたのである。

◆キリスト、仏陀、および霊的世界

一見、仏陀は「四つの高貴な真理」において有徳の全法則を宣したかに見える。
「こうした境地は聖なる八つの道を行なうことによって得られる。それはすなわち正しい信念、正しい希望、正しい発言、正しい行為、正しい生計の立て方、正しい目的と努力、正しい記憶、正しい瞑想である。」
だが、仏陀が「正しい」という形容詞を用いる時、彼はゴータマ流の「正しい」を指しているのである。それはキリストの言う「正しい」とはまったく同じというわけではない。
仏陀は、キリストの次のようなパリサイ人への答えに賛成しなかったであろう。
「『ヨハネの弟子たちとパリサイ人の弟子たちが断食しているのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか』
するとイエスは言われた。『婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるであろうか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食するであろう。」〔マルコ2-18~20〕
ここでイエスは、人生を楽しめる間は楽しむようにと勧めているのである。いつか喜びの日は過ぎ去って、断食しなければならない日が来るであろう。言い換えれば断食の時もあるが、幸せで健康な生活や無邪気な陽気さと喜びを求めてその欲望を満足させるための時もあるというのである。
仏陀もあの父と放蕩息子の間の和解については認めるにやぶさかではあるまい。しかし、祝いの宴や、太らせた牛の食事、そして父の言う次のような言葉に対しては非難することであろう。「このあなたの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである。」〔ルカ15-32〕
ゴータマはこうした言い方に含まれる熱っぽい調子や感情的陽気さを断滅せよと要求する。というのも、彼の冷たい禁欲的な性格は無害な楽しみの時の後に来る父の一層の苦悩――おそらくは兄弟間の嫉妬か放蕩息子の失敗によって引き起こされることになる苦しみ――を危険視することであろう。しかしキリストは慈悲深い両親の自然な喜びを誉め、そうすることによって人間生活についての繊細な見方をしたのである。
イエスは到るところで人々に言った。「パリサイ人のように愁い顔をするな」。彼は楽しげであることが善良な人間の義務であると思っていたらしい節がある。
キリストが「わたしのために自分の命を失うものはそれを見出すであろう」〔マタイ16-25〕という不思議な、そして素晴らしい言葉を言った時、彼は金持ちや権力者を批判していたのである。しかしこの批判は、同じように仏陀の厳しい戒律にも当てはまるかもしれないのである。
自我の統制を求める仏教徒ならば冷たい自己本位の道を実践しなければならない。彼は誰も傷つけない。人々に道徳や禁欲生活を教え導く限りにおいて、人々を益することもあるであろう。しかしながら彼は自己の救済のみにかかずらわっている。自分の魂の幸せを得ることにのみ全力を投球している。欲望と、そこから発する人間感情のすべてを除去することによって人類全体からは孤立してしまう。やがて彼はいわば無人島に住むに等しいこととなる。このような修行の生涯の後には死後の世界においてどのような運命が待っているのであろうか。
彼を再生の運命を逃れた正真正銘の仏教徒であると仮定してみよう。地上にあっては彼は通常人の罪は一つも犯さなかったが、未来のことに心を使い過ぎた。さらに悪いことに彼は未来永劫までを考え詰めてしまった。従って来世においては彼は孤独に住み、地上生活のあいだ彼を閉じ込めていたサナギの中に永遠に住む傾向がある。停滞し、植物的満足ともいうべき状態にとどまるのである。おそらく仏教天国〔涅槃〕に到達したとの幻想に執着しつづけよう。にもかかわらず彼の地上的世界観は第三〔幻想界〕、第四〔形相界〕の意識界へ進んでもなお彼を制約し続けるほどであろう。彼は神聖なことどもについての瞑想をつづけるかもしれないが、神や大宇宙を真に認識するに至らないであろう。彼は鈍く消極的になり、あたかも夢から覚めず眠りつづける人のようである。もしそうでなければ、ふいの確信によって自己の幻想を打ち砕く時が来る。そして、通常生活で仲間たちと一緒に共同しなかったために類魂から孤立する決定を自ら下していたことに気づく。そして第五界〔火焔界〕において、そこでの共同生活を通じて霊的に発展進歩すべき段階になっても、自分たちの兄弟たち〔類魂〕に仲間入りができない。つまり彼の生き方が彼を仲間から引き離してしまったのである。そこで彼は彼の恐れていた再生をするか、苦痛を忍んで知的自己没頭のサナギ状態から抜け出すかの選択をしなければならないのである。
もし彼が自己の全存在をはりつけにするような試練に耐えうるなら、そして類魂のすべての構成員に対して自己の魂を開き、単に知的な意味でばかりでなく実際的、行動的な意味で「ひとりひとりお互いの肢体」〔コリントⅠ・12-27〕であれという法則に従うなら、そのとき彼はおそらく彼に下された宣告に従うことであろう。すなわちそれは、少なくとも一つの地上生活で、彼がかつて逃避した経験のすべてに直面すること、恐怖と格闘してそれを克服し、魂の六つの様態――愛者、孤高に住せんとする高慢者、快楽主義者、禁欲主義者、聖者、賢者――を表現し、かつまた、できる限り賢者がすべてを支配するのに任せるこの世の叡智の探求者を表現しようとすべきである、という宣告〔再生をするということ〕である。このような生涯〔高い霊界から再び地上に再生した生涯〕にあっては、彼は大衆のうえに立ってある高い使命を遂行することになろう。というのも彼はとにかくその本性の一部を完成にまで導いたのであり、今や鎖をほどき、ほとんど間違いなく、善なるものへの奉仕に参加して大きな影響力を与える人となるであろうから。

◆ナザリーンとキリストの弟子たち

以上私は、仏教徒がその師の教えを文字通り順守した場合に、死後の彼らの行く手をはばむ危険について述べた。しかしキリストの弟子たちが師を模範としてその足跡を辿る際に待ち構える危険についても述べておくのが公平というものであろう。
クリスチャンという言葉は汚され貶められてしまった。あらゆる時代の何百万といういわゆるクリスチャンが敵を罵り、隣人を憎み、その仲間に対して想像を絶する迫害を加えた。だから、キリストの信徒という意味でならクリスチャンという語は廃棄してしまった方がいい。「ナザレのイエス」という言い方は高貴な霊感に満ちた生涯を送ったひとりの完全な人を想わせる。そこで私は主の御跡に従おうとする現代人を表現する時には「クリスチャン」よりもむしろ「ナザリーン」〔ナザレ派〕という語を用いた方がよいと思う。
ナザレのイエスはその信徒たちに人生に恐怖を持たずに立ち向かうようにと言う。彼らがその本性全体、すまり先に私の述べた六つの自我の様態を表現すべきだと要求する。賢明にも彼は普通の人には実行不可能なほど高い行動基準を求めるのである。というのも、高き理念こそ超人間的努力を喚起しうるからである。イエスの戒めを文字通りに実行できる人はいないであろう。しかし彼の弟子は、他のどんな師に従うよりも立派な生涯を送ることができよう。というのも、キリストによって説かれた教義にその本質を示された「偉大な霊の実在性」〔高度な霊性を人間のうちに表現すること〕は、これまで人間に説かれたもののうちで最も高貴な理想だからである。他のどんな道もこれほどには辿ることが困難ではない。ナザリーンが自己の信条に忠実であろうとすれば、二十世紀においては殊に、あらゆる困難に出会わざるをえない。彼は貧者に持ち物のすべてを与えることはできず、自分のパンを稼ぎかつ人を養わなければならない身であれば、明日のことを思い煩わないわけにはいかない。しかしそのような時も人類の兄弟たちを心に留め、とりとめもない悩み事に身を任せるようなことがなければ、彼は主の教えに従っていると言えるのである。
イエスはわれわれを呪う者を祝福し、われわれの敵を愛せよと命じた。同様に、われわれを攻撃し傷つけようとする者に対し、極力、こうした人間味のある態度をとれるなら、その人はキリストの道を歩んでいるのである。
ナザリーンは日ごとに「私たちはひとりひとりお互いの肢体である」との考えを胸に刻むべきである。この言葉は日々の行為に祝福をもたらす。この考えはそれを復唱する人に、他人ばかりか自分をも助ける寛大さを示唆するであろう。「私たちはひとりひとりお互いの肢体である」と「汝の敵を愛せよ」の言葉はそれ自身の秘められた叡智を含んでいる。つまり他人を傷つける者は己れを傷つけ、他人を益する者は己れを益するの意である。キリストは家族の絆に関しては厳しく語った。彼の弟子は家族愛に自己を限定してはならない。すべての人が兄弟と見なされるべきである。われわれは皆、天の父の子であるから。この教えがきちんと胸に収まるなら、国家間の危険な相違点はなくなり、キリスト教のヨーロッパは、戦争の脅威や経済的利益追求の絶え間ない操作によって破廉恥にもキリストを否定するようなことはなくなるであろう。それは国家間の障壁を取り払い、これらの暴力的に引き裂かれた諸国民は、実践的なナザリーンとして一つの家族のような統一と一致のうちに生き続けるであろう。
聖パウロの考えは幾つかの点でキリストより仏陀の考えと一致していた。聖パウロは死と罪、すなわち現代的に言えば生と情熱的愛を恐れていた。パウロはゴータマが自己の本性の欲望を恐れたようにそれらを恐れたのである。そして福音書の物語に不滅化された見事な生き方からは尻込みしたのである。
キリストは自己の本性を支配していたので恐れることはなかった。彼の弟子の目標は恐怖心なしの無邪気な状態に達することでなければならない。そうなればその弟子は仏陀や聖パウロの弟子よりも高次の意識の世界に住むことになろう。
聖パウロは、人はみな本性上悪であり、「オールド・アダム」と呼ばれる存在を内に持つと考えた。この遠祖アダムは仏陀が否定した欲望の別名である。実際、この二人の偉大な禁欲家たちは、罪を恐れる点においては一つであった。キリストには断じてこの「オールド・アダム」の嫌な面影はない。彼はパウロが絶えず悩んだ罪の暴虐という問題にはかかずらわなかった。それゆえ、ナザレのイエスはおよそ罪とは無縁な存在で、彼が寓話で語ったようなあらゆる「才能」〔「タレント」=神から預かった元手、マタイ25-14以下参照〕を役立てたのであった。彼はその生涯を十全に生き、人類への愛を通じて彼の本性のすべてを表現した。キリストは憎まなかったけれど怒ることはあった。彼の見事な義憤はパリサイ人を非難した時や、両替人を神殿から追い払った時に一度ならず表わされた。
キリストの弟子たちは純潔を求めるあまり正義の義憤に駆られやすかったかもしれない。この怒りは人間の本性からほとばしり出るもので、偽善、貪欲、暴虐などを破壊することができる。仏教哲学のキーワードは自制と自己統御である。これとて自然人をあまり厳しく抑えると善への良き力を抑え、善導すれば全人類を益するはずの力を枯らすことにもなるであろう。
聖パウロと仏陀は多くの才能を持っていた。しかし彼らはその天分を圧し殺し、信徒たちにも同じようにするよう勧めた。しかしながらキリストはその教えと生涯の足跡によって、神の与えた才能はすべて用いられるべきこと、人間本性のいかなる部分もおしつぶしたり焼却したりすべきではないことを示した。
われわれは肉体、魂、そしてその二者を鼓舞する霊を持って現世に生まれた。これらの三者は自己を益し、他を益するために用いられるべきである。われわれは現世を豊かに生きるべきであり、ナザレのイエスの御跡を追う者としてパウロの説いたごとき罪や死とは関わりを持たない。仏陀が霊の道を求めた時その心を占めていた個人の救済へのいかなる懸念とも無縁なのである。

*      *      *

パウロはキリストの血が人を贖い、またそれによって人の罪の許しを得ることもできると明言した。しかし人間はキリストの血によってというような魔術的なやり方で救われることはありえないのだ。長い年月の勇気ある努力によってのみ自らを救うことができるのである。人間は責任ある存在であり、彼や彼の属する意識世界、また「神」に対しても責任を持つ。そこで彼は芸術家のように本性にともなう涙と悲惨と喜びと愛の中で営々と勤めなければならない。それはついに本性が形と美しさを身につけ、真に絶対美のイメージや、それの似姿となるまでは続くのである。
女性の劣等や、女性への恐怖、そしてまた神がふいの悔恨によって買収されるというようなパウロの考えは、歪んだ彼の本性によって吹き込まれたのである。その考えは彼のような高貴な自己否定の生涯を送る人にふさわしくない。
私のパウロへの批判はあまりにも厳しすぎるかもしれない。またはるか昔、私がこのタルソスの徒に対する敬意と憧れを表わそうとした時とは、この偉大な聖者に対する私の評価が変わったと見られるかもしれない。しかし私は、以上述べたところでは、パウロをキリストと比較したのだということをはっきり理解してもらわなければならない。キリストの光の前ではすべてのものが色褪せるのである。神人キリストと比較してみると、霊的ではあるが人間的な人間であるパウロは(彼でさえも)、ひどく見劣りして見えるのである。詩の中で私は聖パウロの本性と生涯の高次な側面を言葉に表わしてみようとした。そのことは必ずしも私が、彼の本性の感情的側面の表現であり初期における修行や青春時代の彼を取り巻く環境によって生み出された部分に関する彼の判断の誤りに気づいていなかった、ということにはならないのである。人間誰しも理想の人間たりえない。多かれ少なかれ思考の過ちを犯すものだ。パウロがある思想過程にいかにも人間らしい側面を持っており、教育や家の伝統、あの騒乱の時代における彼の同国人や種族に広く行き渡っていた心の態度に影響されているように見えたとしても、それはパウロの闘いの偉大さや、その生涯の高貴な性格、その目的の気高さをいささかも減ずるものではない。ここでは私は詩人としてではなく批評家として書いているのである。従って両者のアプローチの方法にはかなりの違いがあるのである。

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キリストと彼の生涯について書き、福音書に書かれたままを述べるに際して私は批評家たちの批判や論争を無視した。これらは帰幽者にとってはどうでもよいことだ。というのも私は福音書の中に完全な生涯を見る。新約聖書の中に後世の書き加えがあろうとなかろうと、マタイ、マルコ、ヨハネ、ルカの各福音書に書かれたあらゆる時代に通じる理想的生活の仕方のみを私は見ているのである。この四つの福音書の意味や意義を理解することは容易ではない。しかし、キリストの本性や思想行動の中に含まれる叡智を心にとどめ、人生にうまく適用さえすれば、それらは、人間個性を超えて神聖な超越的世界へといつかはわれわれを導いてくれる長い旅路に備えることができよう。
キリストの神性に対する永遠の論争にも私は関心がない。すべての男女が本霊によって霊感を受け取っているのである。本霊とは神の一思想である。それゆえ、すべての男女が「天にましますわれらが父」の子である。が、キリストは最も尊い神の子である。なぜなら彼は人間形式に現われた神聖な叡智の本質の顕現といってもよいものだからである。
偉大な導師たちの中にあって、彼のみが愛の永遠法則の重要さを強調したのである。こちらの死後の世界において、われわれは愛が宇宙的意義を持つことを、地上の人々が決して知りえないところまで知っている。人々が、もし宇宙の実体は心であって、物質は心の一つの表現形式であり、知的、指導的な原理によって織られた衣装であることを認めるなら、その意義をある程度までは理解できるかもしれないが。
叡智に包まれた愛は、単なる物の総計から一つの宇宙を創り出すエネルギーなのである。
人間は日常に思っているほど個性的でも孤立した存在でもない。彼は類魂の糸に編まれた一本の糸であるとも言える。それゆえ、もし叡智に包まれた愛が彼の一生の目標や目的、つまりは人生において獲得しようとする褒賞――すなわちキリストの言った天に積まれる宝――となるなら、彼個人の救済、進歩の速さなどが促進されるであろう。
というのは、もしこの愛の力が彼において強大であるなら、彼は類魂内の意識レベルを持ち上げることができ、彼がその一員である巨大な存在が統合するための強い力となるからである。プラトンはこうした存在をそれがその本来の調和状態にある時、それを神と呼んだ。なぜなら、ひとたび、この類魂的存在の角がとれ、全体として渾然とした一つの型をなすと、それは神の叡智を表現するものとなるからである。
そこで巡礼の目的は単に自分自身の霊力の発達ばかりではなく、類魂全体の霊力の発達なのである。そしてキリストは山上の垂訓や「汝の隣人を愛せ」の戒めによってこうした創造の要石を据えたのである。
プラトンもまたその言葉で巡礼の発達進化に重要な貢献をしている。プラトン的愛は永遠の愛と美への崇敬と献身の態度を表わしているからである。
この態度は主として宗教的性格を持つように見えるかもしれない。しかしそれは普遍的宇宙的に適用されるもので、現代に行なわれている宗教に限定されるものでもない。それは人間個性を超えたものである。それはまた現代の男女の心からは消えてしまった神の神秘への尊崇というほどの意味である。
わが世代の指導的思想家のある者は、物質の分解や崩壊の具体的過程の研究に関わりを持った。その結果彼らは、至上精神や創造全体を導く知性の可能性を認める能力を失ったのである。
現代文明世界の崩壊ではなく総合が存在するためには、プラトン的愛がもう一度再認識されなくてはならない。しかし、それにはキリストの生涯と言葉の意義やそれが永遠の真理であるという感覚が伴わなければならない。
地上生活は一つのエピソードであると言えるかもしれない。人は死後の世界でまだまだ多くのエピソードと向かい合わなければならない。彼がプラトンやキリストの教えに従うなら、彼は類魂の仲間の先頭に立つばかりではなく、総合化のエネルギーと叡智に包まれた偉大な宇宙法則を通じて上へと引き上げられるのである。
というわけは、人が永遠の生命のうちに含まれる偉大な実在に勇んで入る時には、彼は自分自身の救済に関わるばかりではなく、彼の本性の完成に必要な彼の愛する人、他人、仲間の魂に関わるからである。
主として個人の霊的悟りや救済にかかずらわっているパウロや仏陀の弟子の夢よりも、キリストやプラトンの信徒の理想の方が素晴らしく、また美しい。
死後の生活においては二つの道が看取される。われわれはその本性に従って仏陀の道に従うかナザレのイエスの道に従うかを選ぶのである。