3-(05)宗教学とスピリチュアリズム―津城寛文『〈霊〉の探究――近代スピリチュアリズムと宗教学』の紹介

日本アカデミズム初のスピリチュアリズム論

スピリチュアリズムは、主題領域としてはやはり宗教ということになる(もちろんスピリチュアリストは「宗教であり、哲学であり、科学である」と主張していますが)わけですが、同時多発的(あるいは異時多発的)で大衆的な運動であったこと、固定した教義や指導者・組織というものがないこと、そしてとりわけ、近代の実証主義基調の学問にとって霊魂説自体がタブーであったことなどから、真正面から宗教学の対象にはなってきませんでした。これまで刊行されたスピリチュアリズム概説書は、スピリチュアリストの手になるもの(ジョン・レナード『スピリチュアリズムの真髄』など)や、歴史畑の学者による逸話史的研究(オッペンハイム『英国心霊主義の台頭――ヴィクトリア・エドワード朝時代の社会精神史』)などがあるだけで、宗教学が、思想・歴史の両面を踏まえて、その意義を問うという作業は、ひょっとすると皆無だったのではないでしょうか。
欧米でもそういう状態ですから、日本では状況はお寒いものです。様々な分野の論者が断片的に論究することはあったにしても、まとまった論著は、日本心霊科学協会関係者のものがいくつかあるだけです。少なくとも、大学の正規のアカデミシャン――人文系の学部で宗教学という看板を掲げて講義を開いている教授・助教授――が、書物という形で公にスピリチュアリズムを取り上げたのは、この『〈霊〉の探究』が最初(世界初?)ということになると思われます。(ちなみに著者は東京大学大学院で宗教学を専攻し、現在は筑波大学教授です。)
このようなことを述べると、何か肩書・権威にこだわっているように聞こえますが、そういうことではなく、高等教育を支配しているアカデミーの「知の体制」が、スピリチュアリズムを無視してきたということを言いたいに過ぎません。その「無視」の堅い壁に、本書によって一点の穴が開いたということは、きわめて意義深いものではないでしょうか。

同書の内容

『〈霊〉の探究』の目次は、以下のようになっています。

序章 「近代スピリチュアリズム」という事件――主題のスケッチ
1章 比較宗教学と近代スピリチュアリズム――ミュラーとモーゼスのニアミス
2章 〈霊〉という主語――『霊訓』の対話から
3章 臨死体験が問いかけるもの――「マイヤーズ問題」の回帰
4章 現代の輪廻神話――不可視の知性が語る倫理
終章 近代スピリチュアリズムの帯域――神智学その他と対照して

序章でスピリチュアリズムの概略が紹介された後、論は、マックス・ミュラーとステイントン・モーゼスの比較対照という、意外な主題から始まります。ミュラーは、仏教経典を始め、インドの歴史的著作をヨーロッパに紹介した偉大な学者で、日本の仏教研究者にもよく知られている人物ですが、同時にミュラーは、それらの研究を通して、「比較宗教学」という、宗教学の基礎になる方法を確立した先駆者でもあります。この「宗教学の祖」とも言える人物と、インペレーターという高級霊の教えを『霊訓』として筆記した(というより、インペレーターと宗教をめぐって大論争をした)モーゼスが、「伝統的諸宗教を超えた普遍的な信仰」への模索において、共通する指向性を持っていたことを、精緻な分析から明らかにしていきます。一般人にはなかなかわかりにくい主題かもしれませんが、「宗教学」を掲げて思索をする人々(単に個々の宗教の「神学」を祖述・分析するのではない人々)には、かなり核心的な問題提起になっているように思われます。
第2章では、『霊訓』に見られる様々な主題を紹介しつつ、「霊の実在」vs「隠された(心の)力」という、「スピリチュアリズム」vs「サイキカル・リサーチ」以来の対立構造が提示されます。興味深いのは、『アウトサイダー』『オカルト』などで知られるコリン・ウィルソンが、「隠された力」説から「霊の実在」説へと転向した経緯が丹念にたどられていることです。
第3章と第4章は、臨死体験と前世療法(生まれ変わり)(及びカルマ問題)という、現代の霊的探究の二大主題の分析で、ここでも第2章で提示された対立構造をめぐっての両陣営の主張が検証されています。両章とも、主題の歴史的概説としても、きわめてわかりやすいもので、最近の動向を一定のパースペクティブで捉え直すには格好の論稿です。前世問題に関しては、ワイスとホイットンの前世観の比較、カルデック、シルバー・バーチ、マイヤーズ通信などの再生説の分析のほか、エドガー・ケイシーのカルマ説なども参照されていて、広い視点からの主題考察となっています。
圧巻は、終章の「近代スピリチュアリズムの帯域――神智学その他と対照して」でしょう。ここでは、スピリチュアリズムと「オカルティズム」(主に神智学)との違いは何かという、大方のスピリチュアリストも明確に考察してこなかった問題が、精緻に分析されています。
一般に、スピリチュアリズムも神智学も、その他の「隠秘学」(クリスチャン・サイエンス、秘術、魔法、占星術、密教……)などと一緒に「オカルト」と受け取られています。しかし、いみじくも本書で著者が述べているように、「神智学はオカルティズムを自称するが、近代スピリチュアリズムがオカルティズムを自称したことは、管見のかぎりみられない」のです。というより、スピリチュアリストは「オカルティスト」と呼ばれることを嫌う傾向があります。この違いは何か、そしてそもそも、スピリチュアリズムと神智学は、ともに「死後存続」や「霊魂の実在」を前提にしていながら、どこがどう違うのか――これは、なかなか誰もが明快な答えを見つけられなかったものです。これに対して著者は、両者のはっきりとした「姿勢の違い」を浮き彫りにしています。
その内容は、本を読んでいただくことにしたいと思います。簡単に説明できるものではありませんし、杜撰に種明かしをすることは、失礼なことですから。

「普遍」への可能性

本書を契機にしてスピリチュアリズムの側から改めて述べたいのは、次のことです。
宗教学が(キリスト教学でも仏教学でもない、「一般宗教学」というようなものがもし可能であればそれが)成立し意義を持つ可能性があるとすれば、それは、人間の宗教性(今はやりの言葉で霊性と言っても差し支えありませんが)の普遍的地平(普遍という言葉は文化相対主義の中で非常に評判が悪くなっているようですので、「敷衍可能性」でも「土地や文化からの離床可能性」でも何でも結構ですが)の探究というものになりはしないだろうか、ということ、そして、それこそまさにスピリチュアリズムが訴えようとしていたところ(「個性存続」や「霊界情報」は普遍性がないと主張する人々ももちろんいるでしょうが)だということです。つまり、宗教学にとって、スピリチュアリズムは、きわめて近い位置にいるということです。もっとも、だからこそ宗教学はスピリチュアリズム(や心霊研究)に対して近親憎悪か心理的抵抗が働くのかもしれませんし、さらに手前味噌で言えば、スピリチュアリズムは、スピリチュアリズムこそが、伝統的諸宗教の「掃き捨てるべきゴミの山」を一掃し、人類のための新たな宗教性を供給しうるものだと――宗教学徒をやや横目に見ながら――自負しているところなのかもしれませんが。

いずれにせよ、本書は、スピリチュアリズム入門書としても(ただし、ある程度の読書力を持った人でないと、若干むずかしく感じるかもしれません)、ある程度スピリチュアリズムを勉強した人がスピリチュアリズムの思想・宗教界における位置を捉え直すためにも、また「宗教」とは何かを改めて考察するにも、きわめて有益な本だと言えます。私たち日本のスピリチュアリストは、アカデミーからのこの援軍に、大いなる感謝を捧げるべきではないかと思います。
*『〈霊〉の探究――近代スピリチュアリズムと宗教学』=2005年10月、春秋社刊、2625円