5.現代の知の風景と霊学

現代の知の風景と霊学

掲載日:2006年7月19日

様々な学問があり、様々な意見がある。これを逆遠眼鏡で眺めてみようというのが、このエッセイの主旨である。望遠鏡を逆さまにすると、まるではるか高みから全体を眺めるような風景が見える。そんな鳥瞰的・超越的な視点は人間には許されないとする考えもあるだろうが、無謀な試み(遊びと言ってもいいが)から、ひょっとするとはっきり浮かび上がってくるものがあるかもしれない。

◆存在論的一元論・言説的多元論

「存在論的一元論」と「言説的多元論」というのが、そこで見えてくる風景だ。「言説論」というのは、哲学的により正確に言えば「言語論」なのかもしれないが、言語論というと一般には他のイメージが出てきてしまうので、ここでは「言説」という言葉にした。「解釈」とか「概念」としてもいい。要するに、認識や分析や命名や法則づけなどの営みによって作られた、ある一連の知のまとまりのことを指す。もっとわかりやすく具体例を挙げれば、自然科学や哲学や政治学や経済学や文学や、といったものである。要するに「言説的多元論」というのは、世の中にはいっぱい学問や思想がありますよ、ということに過ぎない。当然のこと。ただしあえてこう言っているのはそれなりの理由があるわけだが、それはまた後で。
「存在」というのは、現実というか世界というか、ともかく「何か」が存在するということで、「実在」という方が一般にはわかりやすいかもしれない。ただ実在というと、実在論うんぬんという哲学的迷路に入るから、よりニュートラルな「存在」にしておく。ともかく、何かが「ある」、それをどう押さえるかということであって、それを「一」にしているということ。何かが「ある」なんていうことはないという思想(たとえば仏教の「無」)や、そんなことはわからないという哲学(懐疑論や不可知論)もあるが、それはまたそれとして別立てしなければならない。

一元論というのは、「元は一つである」ということ。AもありBもありCもあるが、実はそれは元であるXの表われであるという考えである。ある意味では自然であり、ある意味では特殊である。
知の営みというものは、抽象化を志向する。多様な現われの向こうに、共通の法則や基盤を求めようとする。「これこれのことは、実はこういう基盤(ないし原因)から生じている」というのを、どんどん繰り返していけば、最終的には究極の基盤(ないし原因)が当然求められるようになる。
しかし一方、世界は多様である。単純な現象もあれば複雑な現象もある。あれが重要だと言う人もいればこれが問題だという人もいる。こんなものを一で説明できるわけがない。水の蒸発とインフレーション、地震と人格解離、彗星と憑霊、などなどを一つの原理で説明できるわけがない。これはある意味、まっとうな見方だし、大人の成熟した意見である。
ところが、どうも現代の知の基底は、一元論なのである。

◆一神教文明という背景

少し回り道になるが、一元論を見ていくときには、どうしても一神教というものを考えに入れなければならない。かつて知の営みは宗教という形式を取ることが多かったわけだし、現代の知を牛耳っているのが、西洋という一神教の伝統を持つ文明であることが、ここに大きく関与していると思われるからだ。
一神教というのは、ユダヤ教・キリスト教・イスラームである。この三つは同じ「唯一の神」を戴く兄弟宗教である。他にも一神教がないわけではないが、とにかくこの「セム系一神教」は世界の中できわめて特殊なものだった。
世界を創造し、支配し、すべてのものに意味を与える神。それが一神教の神である。もっとも、ユダヤ教においては、これはあくまで民族レベルのことであって、他にも神はいる(邪神であるが)と思っていたようだ。ごくおおざっぱに言えば、ユダヤ教にとっては、“われわれユダヤ人の神ヤハウェは、天地を創造した根源的な神であり、われわれはその神と契約する。そうすると、ヤハウェはメシアを送ってくれて、他の民族から支配/圧迫されている現在の窮状を一気に解決してくれる。そしてユダヤ民族は世界に冠たる民族になる”というのが基本的な信仰であって、全世界がヤハウェに帰属しているとは思っていなかった。
しかし、キリスト教になると、「一神」の信仰は、より傲岸になる。「全世界に出て行って、全創造物に福音を宣教しなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は罪に定められるだろう」(マルコ16:15-16。ただしマルコ本来の文ではなく後世の付加。そもそもイエスがこんなことを言うわけがない)。この押しつけがましい「拡張主義」が、様々な災厄をもたらしたことは言うまでもない。(この傾向はイスラームにも部分的に引き継がれた。)
ところが、一神教というのは、そもそも人間にとって無理があるのだ。思想的に一番問題になるのは、悪の問題である。どう見てもこの世には悪がある、ないしは悪魔的存在がいる。これもまた神の創造なのか。これは神学を悩ます大問題で、いろいろな神学者があれこれ考えたが、結局明確な解答は出せなかった。また、他の信仰はどうするか。多神教は「劣った信仰」と見なしてつぶしても、違う考え方をしながら、向こうも同じ一神教を掲げている連中――つまり一神教同士のユダヤ教やイスラーム――、さらには同じ聖典に基づきながらも違う考え方をする連中――プロテスタントなどの異端――をどうするか。
今さら言うまでもないが、一神教が虐殺と他文化破壊を繰り返してきたこと――十字軍から南米侵略、そして帝国主義まで――は、歴史が雄弁に語っているところだ。しかし、それでも「一」なる超越者を想定することの魅力(ひょっとすると禁断の果実かもしれない)は、西洋の人間の精神にしっかりと刻印されたらしい。
つまり、西洋文明は、近代以前も「一元論」だったわけである。そしてこの「一元」を表現するのが「至高の言説」としての神学だった。他の言説はこれに仕えるものか、そうでなければ戯言だった。つまり、乱暴に言えば、一神教文明は、「存在論的一元論」と「言説的一元論」を理想として持っていたことになる。

西洋における「神の死」については、贅言を要すまい。ただ、それは「地動説」で一挙に崩れたというようなものではなく、長い時間をかけての崩壊だった。とどめの一撃は、ダーウィニズム、つまり生命の物質起源説であろう。それは聖書の創世記を否定したなどというちゃちなものではない。生命が、そしてひいては精神を含む生命活動全般が、「鍋の中に材料を入れて長い間(数十億年?)揺らしていたために生じた」ものだというわけである。
存在論的一元論としての一神教は崩れた。で、どうなったか。存在論的多元論へと移行したか。一時、デカルトの心身二元論といったものが出てきたわけだから(別に心身二元論は珍しいものではない。キリスト教の中でも神の一元支配のもとでという限定付きだが霊肉二元論はあったし、地球上の様々なところで霊肉二元論はあった)、存在論的一元論の桎梏は解除されたかに見えたが、さにあらず。結局は、唯物論という新たな存在論的一元論へ移行したのである。
ただしこのあたりは微妙のようで、この途中に、「理性と哲学の支配」とでも呼べるような移行形態があった。哲学は、人間理性の精華として、「学の中の学」「諸学の王」をめざした。いわば「言説論的一元主義」への志向であり、むしろそこから存在論的一元論が逆模索されたと見るべきであろう。この場合の存在論的一元とは、理性、ないしは世界の根源としての法則のようなものだった。デカルト、カント、ヘーゲル、マルクスといった「哲学の巨人」が目指したのはそのような一元的説明原理であった。

◆言説的一元論としての科学

存在論的一元を求める際、最も強力なものは、この物質世界であることは言うまでもない。物質世界はもともとあった(少なくともごく普通に考えればその中で人間は生きてきた)わけで、それを一神教は下僕として押さえ込んでいたわけだが、主人がいなくなれば、まったく自由の身。物質世界のいいところは、かなり厳密な法則性が保証されている(再現性が高い)ということと、まあ誰にでも平等に開かれている(金持ちや秀才が特別な物質を見ているわけではないし、司祭や神秘家のみがアクセスできる特権的なものでもない)ということである。そして最も強力な魅力は、うまく扱えば、とてつもない快楽や福利をもたらしてくれるということである。

物質世界を一元として定立すると、当然、言説の方も一元化の志向にさらされる。言うまでもなく、自然科学の隆盛である。ガリレオやニュートンやダーウィンやアインシュタインを今のわれわれが「偉人」として見なすのは、彼らが諸学の王としての自然科学のヒーローであるからである。
もちろん、これに対抗した勢力がある。ひとつは宗教だが、息絶え絶えのキリスト教はもとより、他の勢力もどうもぱっとしなかった。諸宗教は非物質的存在を教学や儀礼・組織のもとに封じ込めてしまったので、本来の生命を失ってしまったのである。もうひとつが、理性の権化としての哲学である。実際、哲学は、われわれの認識や思考そのものを研究するものとして、「根源的な学」であると主張してきたし、今でも(全員ではないが)主張している(らしい)。
もちろん、哲学ばかりが学ではなくて、政治学・経済学・歴史学といったいわゆる「社会科学」や、美(芸術)学・文学といった「人文科学」もあるわけだが、哲学がそれらと違うのは、存在論を問題にしていたからである。他の学問はそれほど存在論を必要としない。解釈の面白さや効用といったものでしのげる(という言い方は失礼かもしれないが)のである。存在論がどうしても問題になるのは、自然科学以外では、哲学、一部の社会科学、そして(厳密な学問からははみ出た)宗教である。
しかし、存在論の局面では、哲学は分が悪い。哲学が「物質」以外の一元を定立できたらよかったのだが、どういうわけかそれは不可能だった。ヘーゲルの立てた「絶対精神」やマルクスらの「歴史」は、一時隆盛を見たが、ほどなく張り子の虎であることが暴露された。多元論へ逃げるわけにも行かない。多元論だとそれに対応した複数の言説が求められるから、哲学の「一元支配」はそもそも不可能になる。存在論的一元としての物質にふさわしい言説的一元は、やはり自然科学、分けても物理科学であることは否めない。
哲学がそこで頼ったのは、認識プロセスの研究や、理性の徹底化としての厳密論理の探究だったと言えるだろう。だが、認識プロセスは複雑すぎて、人によって見方もまちまちで、どうも美しい体系化ができない。もう一方の厳密論理は、数学や論理学が台頭してきて、そっちにお株を奪われた。おまけに数学や論理学も、それ自体のうちに解決できない難問をたくさん抱えていて、望んでいた究極の論理体系が作れるわけではないらしいのだ。
かくして、哲学は「諸学の王」ないしは「知の基礎」という夢を放棄せざるを得なくなった。それは政治学や歴史学や文学といった、他の学問と同じ身分になったわけである。
(ただし、一部の哲学は、科学を“一般的知”にするための役割に徹して生き延びようとしているようである。彼らは科学者が出してくる様々な知見を必死にフォローし、そこからより包括的な原理を導こうと目論んでいる。よく言えば科学の整理人なのかもしれないが、悪く言えば科学の寄生虫になりかねない。)

存在論的一元論(唯物論)を忠実に表現する言説としての自然科学は、言説としての王者の位置を占め、他の学問知は、それより低い位置に満足する。一部、自然科学にすり寄った社会科学や人文科学もできた――数理経済学や唯物史観やリビドー心理学や記号論文芸批評や――が、どうもうまく行かない(時にはひどい間違いを犯す)。自然科学の一人勝ちである。このことが面白くない諸学問の徒は、違う戦略を考え始めた。それは「存在」を捨象する、少なくともできるだけ影を薄くさせるということだった。存在(物質)に基礎を求めることは、社会現象や文化現象においては不可能である。意味がない。疑うことのできない根拠(存在的一元=物質)から直接導き出せない判断はすべて無意味だという考え方(「基礎付け主義」「検証主義」)が絶対正しいわけではない。それぞれの知には、しかるべき論理性や意味や効用がある。
ここにおいて人文科学や社会科学は自然科学に別れを告げ、独自の存在理由を必死に探索していくことになるのだが、そこで「無意識の選択」が行なわれた。それは、一応「存在論」はできるだけ捨象するが、「存在論的一元論」はこれを暗黙の前提とするという「不文律」である。

◆科学は限定的な知

諸学の王としての自然科学は、存在論的一元に対して正確な対応関係を持った特権的なものであるばかりでなく、その汎用性・実用性によって、文明の中心となった。物質を操作する知は飛躍的に拡大し、それによって人間生活には飛躍的な「利」がもたらされたのだから、誰もが科学に熱狂し、科学を崇拝する。科学者集団は、現代の「エリート神官」となった。この熱狂とエリートの傲慢が、「科学主義」というものを生み出した。
科学が物質の探究というところに自己限定していれば、それはそれで問題はないし、もちろん非常に有益である。冷蔵庫の発明は、われわれの生活を腐敗という物質的桎梏からかなり解放してくれた。そういった発明は数限りなくある。まことにありがたいことである。ところが、いいものから悪いものを生み出すのが人間の性なのだろう、そこから非常に傲慢な思想が生まれた。

そもそも、科学は、盤石な理論体系ではないし、万能(全域網羅)の知でもない。
科学主義批判に首をつっこむと実にややこしい議論が出てくるので、ここでは簡単にいくつかの要点を述べる。
まず、科学の知は、絶対ではない。有限であり、暫定的なものである。科学の探究を支えている帰納・演繹は、絶対知を保証しない。科学は、多数の実験・観察(現象)から法則性を抽出する(帰納)が、ヒュームの指摘の通り、「有限回の経験から法則を導き出しても、それが無限にわたって正しいとは言えない」。人間の有限な探究はあくまで有限なのだ。また、すでに見つけられた法則を現象に適用すること(演繹)は、法則の正しさを証明する手続きではあるが、これも有限なので無限拡張はできない。ましてや、「すでに発見された法則では説明できない」現象を「あり得ない」と否定すること(超常現象はもっぱらこういう理由で否定されてきた)は、科学の自殺である。「すでに発見された法則では説明できない」現象を説明しようとして、科学は発展してきたからだ。
人間の知は、これまでの歴史を見ても明らかなように、つねに進歩していくもので、その意味で暫定的なものである。コペルニクスが出るまでは地動説は最有力な法則であったし、ニュートンの古典力学も、量子力学によって修正されることになった。ある時点での「知」を絶対化することは、信仰としては成立するかもしれないが、未知の領域を追究しようとする科学の態度ではないし、「知」自体を殺す態度である。

科学の強みは、相互に矛盾のない法則体系による解釈可能性(こういう仕組みで起こると言える)と、再現性の高さ(同じ手順を踏めば同じ現象が起こる)である。しかし、実は、すべての場面でこれが貫徹されているわけではない。例えば、多くの触媒現象(自分は変化せず、他の要素の変化を促進させる現象。たとえば角砂糖は普通は火にかざしても燃えないが、灰を付着させると容易に発火する)は、なぜそういうことが起こるのか、説明できていない。わからないのである。ただ、誰がいつやっても同じ結果が出る(再現性がある)ので、「科学的」だと見られている。また、相対性理論の検証実験に際して、理論を立証するデータ以外のデータも得られた(再現性がない)のにもかかわらず、それらは無視されたという事例もある。
科学ですべてがわかっているわけではない。むしろわからないことはたくさんある。ビッグバン理論も、宇宙の年代も、ダーウィンの進化論も、まだ仮説に過ぎない。科学が説明できるのは、ごく限定的な領域なのだ。まじめな科学者ほどそれを理解しているはずだ。
ところが、科学主義は、「限定的な知」であるものを、法外に拡大化しようとする。これは科学者自身によってなされる場合もあるし、非科学者によるものもある。
科学主義の弊害については、還元主義とか、理論外事象の無化とか、いろいろと言われてきているので、ここで改めて繰り返すまでもあるまい。要するに、何でも(複雑な現象や精神の営みなども)単純な物質法則で説明しようとし、それからはみ出るものを切り捨てるということである。
ただ、科学主義の弊害で、ひとつ忘れてはならない例を挙げなければならない。それは「科学主義による社会構築」の惨劇、つまり共産主義の悪夢である。
共産主義は、搾取や貧困のない理想的な社会をめざした、まったく善意の政治活動であった。ところがそれは、「経済は科学的に把握できるし、よって理想的な経済を科学的に作りあげることもできる」という、科学主義に基づいたものであった。しかし、経済活動は、単にいくつかの財の生産と消費という機械的要素に還元できるものではない。経済は、無限個の財と、無限個の生産方法と、無限個の流通と、無限個の購買・消費が、さらには多数の人間の心理すらが、複雑にからみあった営みである。それらを人間の知が把握することはできない。変数が多すぎるのである。したがって、適正な生産や適正な価格などを、政府が決定することはできない。それでもなんとか政府が全体を掌握しようとすれば、変数をごく限られたものにするしかない。かくして余計な変数=新たな財の創出や不満を言う人民などは削除される。(実際はこんな単純な言い方では説明できないけれども)。
要するに、科学が説明できるのは、物質という比較的単純な領域のみであるということだ。経済など変数となる要素が多いものは、お手上げなのである。生命現象や人間の心の動きなども、まず同様であろう。科学の脳天気な「拡張主義者」は、DNAや脳還元論を振り回し、病気の治療にとどまらず、人工知能や人工生命種、さらには不死まで目論んでいるようだが、それはあるところで行き詰まるか、とんでもない怪物を生み出すかであろう。

科学もあるところ、行き詰まりやほころびを見せていないわけではない。
近年の科学は、「やれる範囲はあらかたやりつくした」という感じになっている。量子論などの新たな科学的発見を実現するためには、厖大な経費のかかる観察器具(たとえば巨大な加速器や計測器)を作らなければならない。そしてそれだけお金をかけて得られる知見は、あまり汎用性のない知識、時にはごくわずかの科学者にしか役立たない知識でしかない。現在、科学が雪崩を打つように遺伝子科学や脳科学・認知科学に向かっているのは、そこが比較的手近で、最も汎用性・実用性を見込めると思われているからである。
量子論は唯物論科学の範疇にあるように見えながら、一元論を突き崩すもののようにも見える。古典力学と量子力学とは「異なる」と言っているのだ。もっとも、一元論を放棄するつもりはないらしく、存在論的には同じだが、秩序が違う、と言う。どうも奇妙と言えば言える。ひょっとしたら存在論的に違うのではないかという疑問が湧かないでもない。オカルティストたちが量子論にラブコールを送る(量子論科学者にはひどく迷惑だろうが)のは、量子論が一元論的存在論を破壊してくれるのではないかという期待を寄せるからだろう。
ちなみに言えば、熱力学の第二法則、つまりエントロピーの法則は、宇宙は究極的にはすべての偏り(恒星や惑星の存在も偏りである)が均された、死滅的均衡へ向かうというようなビジョンを描くが、これも、ごく限定的な、というよりは「仮想の」系にしかあてはまらない。実際、この宇宙に「閉鎖系」が存在するわけではない(どんな実験キャビネットも外側からの影響を完全に遮断することはできない。閉鎖系に見えるのは、影響が微細で当面排除して考えられるというだけである)し、そもそもこの宇宙が閉鎖系だという保証はない(おそらく違うだろう)。閉鎖系は現実には存在しない理論的仮想に過ぎない。そして開放系であれば、プリゴジンが述べたように、何らかの動態的な秩序構造が生み出され続けるのである。つまり、第二法則は、支配的・超越的法則というよりは、宇宙の部分的傾向性――物質は閉鎖系的になっていけばいくほど静態的均衡へ向かうという傾向性――に過ぎないのではないか。宇宙も地球も生命も、第二法則に従うわけではない。
一方、科学は変数が少数である単純な現象しか扱えないということをちゃんと認識し、もっと複雑な現象をどうやったら捉えられるかという試みもなされている。いわゆる「複雑系」の問題である。変数が数個、数十個になったら、方程式による解は導けない。せいぜい「シミュレーション」が関の山である。しかし、シミュレーションには「正答」は存在しない。予想だにしないことがしばしば起こる。結局、複雑系の研究は、人間の知の限界(無益ということではない)を、明らかにしてしまうのである。

◆心理学の混沌

存在論的一元論に、最も対立的な位置を取るのが、心(実在としての心)や神といった主題を含む知である。近代においては、哲学がそういった主題をほとんど放棄してしまったので、心理学や宗教学がもっぱらこれに当たる。これらはどういうものになっているか。

心を扱う知というのは、拡大解釈すれば文学や美学までいろいろとあるだろうが、心そのものを探究するのは、やはり心理学である。
とはいっても、心理学は、ごく最近生まれた学問で、そもそもは、心の病気――身体的には健常らしく見えるのに異常な行動をする人々――をいかにして治療するかということから出発した。精神病・神経症の治療は、むしろ医学の方が先取りしていたようだが、どうもそれだけでは説明できないということになって、様々な「経験的探究」がなされていったわけである。
心理学は、二つの極を持っている。一つは、あくまで生物学・生理学の基盤から人間の認知や判断・行動を科学的に分析しようとする唯物論的心理学。もう一つは、様々な臨床ケースの経験から、物質的基盤とは当面無関係な「仮説」を立て、それによって心のありようを考えようとする「仮説的心理学」(こんな言い方はないが)。認知心理学や実験心理学や行動主義は前者で、フロイト以降の臨床心理学は後者である。前者は要するに科学の出店だから、存在論的一元論に回収されていくわけだが、後者はいったいどういう主張をしたか。
彼らは、心の現象を物質科学に還元して説明しようとはしない。とはいえ、心を物質とは独立の実在であるとも言わない。よく言えば、そういった問いを絶妙に回避しているのだが、悪く言えば折衷的なのである。そこで定立されたのは、「普遍的な人間」という理念であった。それは物質的基盤から直接説明できるものではない。しかし、われわれ人間が普遍に具えている人間性という基盤があるから、それを普遍的存在と見なして探究する、というわけである。こうすることで存在論は影が薄くなっていく。
臨床心理学は、おおかた「無意識」というものを想定している。われわれの意識には昇らないが、心は様々な営みをしている、というわけだ。ところが、この「無意識」というもの、いったいどういうものなのかはわからない。独自の秩序を持っていて実体があるようでもあり、ないようでもあり。
ユング心理学では、さらに「集合的意識」「集合的無意識」「元型」といった仮説概念を立てる。これらは、「人間(個人心理)内」のものではない、独立的な存在のようでもあるが、さりとて物質的基盤を持つものでもない。通常的な情報伝達手段では、このようなものが形成されるとは考えにくい。では、それらが、物質とは別の存在論的範疇に属する(つまり実体的に「ある」)、あるいはそういったものから形成されるのかというと、そこはよくわからない。ユングはスピリチュアリズムとも深く接していて、心霊現象――霊姿や憑霊やUFOや“奇跡的・啓示的同時現象”など――についても論究していて、それらをこういった仮説概念に「変換」して説明するのだが、仮説概念自体は、単なる説明概念のようにも受け取られるし、またかなり実体に近いもののようにも受け取られる。(宗教学者の津城寛文氏はこれを「ユングの一次変換」と言っている。まあ有り体に言えば言い換えただけだというわけだ)。
かくして、ユングは、非物質的な「心」とそれにまつわる現象に興味を持つ読者を惹き付けるのだが、そうした人々が存在論的二元論に行く回路は巧妙に避けられる。彼らは存在論的一元論、つまり物質対応主義によって心を説明しようとは思わないが、さりとて存在論的二元論を主張するわけでもない。
これは、先に述べた「存在論を捨象しつつも、無意識的に存在論的一元論を選択する」という、現代の知に特有の態度である。彼らは言うだろう。「そんな、集合的無意識や元型が“実在”するのかしないのか、なんて野暮な論議はやめときなさいな」。

『夜と霧』で知られる「意味の心理学」の主唱者V・E・フランクルも、「反・物質還元主義者」である。彼は「精神」を、遺伝(器質・気質)や環境(外傷)に還元することを拒絶する。精神は、そういった外的なもの、宿命的なものに対して「抵抗力」を持った、準「超越的」な主体であると捉える。それは「意味」を見出し、それを実現しようとし、仮に現実的にそれに失敗しても、なおかつそこに「意味」を見出し、それを受け入れる、きわめて高貴な存在である。それは、見方によれば、物質的地平を超脱した聖なる存在である。しかし、彼はそれが唯物論的一元としての物質とは独立に「存在」するとは言わない。彼は「意味」という主観的なものをせり出させることによって存在論を捨象するのである。

かくして臨床心理学は、存在論をできるだけ捨象し、物質還元主義を排した仮説概念を出したわけだが、そこで問題になるのは、その仮説概念の正当性である。フロイトは「抑圧の解除ないし昇華」を、ユングは「個性化過程」を、フランクルは「意味体験」を、マズローは「至高体験と自己実現」を、それぞれ中心概念としたが、これだけ百花繚乱だと、いったいどれがどの程度正しいのか、わからなくなる。どれか一つが正しくなければならないわけではないだろうが、実際に患者を前にした時、われわれはいったいどれで対応すべきなのか。理論がそれについて対立していたらどうすればいいのか。また、どれかですべてを解釈していいのか、様々な現象を「性欲の抑圧」や「意味の欠損」で説明するのは、新たな還元主義ではないのか。
おまけに、最近ではブリーフ・セラピーなどという新手のやり方も出てきた。その中には、目玉をくりくりと動かすだけでトラウマが解消されるとか、どこだかを指でぺたぺた叩くだけでどうにかなるとかいった、まったく「仕組み不明」のものまで出ている。
どれでもいい、どれかを選択すればいい、という見方もある。実際、心理療法での治癒率は、どの理論を採用しようとほとんど同じ(75%前後)だという研究もある。これは由々しき指摘だ。治癒と仮説の正しさは関係ない? 極端に言えばどんな仮説でもいい? いや、そもそも治癒とは何か? 心理療法理論は言語ゲームに過ぎず、患者や症状はそのゲームのセオリー内で解釈され、その言語ゲームなりの「治癒」に至るだけなのではないか?
ゲーム・ルール内の正当性以外の正当性を断念すると――つまり、普遍的人間論や普遍的「心」論をはなから断念すると――、待っているのは相対主義的泥沼となる。「とにかく社会適応」「意識と無意識の齟齬を減少させる」といった瞬時的便宜主義が、さらには「患者がいいと思えばいい」「一定の説明(いわば「物語」)で患者が納得すればいい」といった、かなり危うい考え方まで出てくる。ユングやフランクルやマズローは、「個性化過程」「意味」「自己実現」といった、ある種普遍的な「価値」を掲げていたのだが、そういったものは「空念仏」となり、まして「心の仕組み」についての普遍的知見も成り立たない。そうなると心理療法とはいったい何なのか。お客様を満足させるその場その場の職人芸?
臨床心理学の未来は、まったく不透明である。「心の時代」とかいう意味不明のキャッチフレーズのもと、臨床心理士の国家資格化(職業規制化と権威付け)が進み、「心のケア」「トラウマのケア」とかで学校にもカウンセラーがつくようになったが、その基盤にある「知」がかくも脆弱であることは、ちょっと信じられないような事態ではなかろうか。

もうひとつ、心理学に関して付け加えておかねばならないことは、その中に、「存在論」を捨象せず、「存在論的一元論としての唯物論」も否定しようとした一派があったということである。それが「サイキカル・リサーチ」であり、その後身である「超心理学」である。これらは、「実在としての心」と「物質を超えた心の力」の探究を旨としていた。だが、これらが「存在論的一元論としての唯物論」が支配する近代の知の権力から、圧倒的な弾圧と排除に遭ったことは今さら言うまでもない。資金は流れ込まず、情報(研究成果の発表)は制限され、かくして知的人材の流入も減少した。彼らの努力は「実証問題」という不毛の泥沼に終始し、そこから発展的な「心の独自の理論」が作られることはなかった。それはほとんど消滅しかかっていた。かろうじてそれが現代に復活したのは、「臨死体験」研究と「前世記憶」研究によってである(これについては、本ホームページでも「死後存続研究の新たな展開」という項目で扱われているのでそちらを参照されたい)。しかし、そうした知見が現行の心理学に受け止められるような気配は、今のところないようである。

◆宗教学という鵺

宗教を専門に扱う近代学問として、宗教学というものがある。宗教学は、人文科学(文化学)なのだろうけれども、宗教社会学などというものもあって社会科学のような振りをしたりもする、やっかいなものだ。
宗教学は、定義上、各宗教の教学とは異なる。キリスト教学や仏教学とは違う。もっとも「宗教的主題を扱うものはすべて宗教学だ」という定義なら、各宗教教学も宗教学に包含されることになる。これまたやっかいな定義だ。
そもそも宗教学は、キリスト教文化に属していた連中が、帝国主義の波に乗って全世界に出て行き(なんとも迷惑な話だが)、離れた土地の文明に出会ってできたものである。「奴らは俺たちの持っている“唯一の神の教え”とは違う宗教を持っている。それはいったい何だ?」というわけである。(唯一の神の教えなら、全然違う土地にいる「奴ら」も教わっていていいはずだろうに、連中はなぜか「唯一の教えは俺たちだけが持っている」と思いたがるのである。)まあ、インカ文明などを破壊した連中は「こりゃ悪魔だ」としか思わなかったのが、それを反省して、「どうも奴らの持っている宗教にも何らかの知恵があるらしい」と思い始めて、で、宗教学ができた。文化人類学なども同じ伝だ。
だから、宗教学は、文化人類学と同様、基本的には「異文化研究」であり、もう少し広く見れば、歴史研究などと同様、「文化研究」である。異文化理解や歴史理解は果たして可能なのかという、方法論的であり根源的であるテーマが最近はやっていて、文化人類学や歴史学などでは一時さかんに議論されたようだが、そのことはここではちょっと脇へ置いておく。
「文化研究」は、一元論を離脱する傾向を孕む。まあ当然のことであって、江戸時代には江戸時代なりの文化的秩序やメンタリティというものがあるわけで、それを現代社会の秩序やメンタリティに還元しようとする馬鹿はいない。また江戸時代の文化的秩序やメンタリティを「劣ったもの」「未開のもの」とする見方も、どうも成立しないことがわかってくる。「どうも連中は連中なりにすばらしい文化を持っていたらしい」ということで、それは「俺たちの文化が唯一だというわけではないらしい」という、一種相対的な叡智(まあ成熟した叡智だが)に導く。
宗教研究も同様で、最初は、「唯一の神の教え」を持った奴らが、「連中はいかに劣った考え方をしているか」を明らかにしようとしたのかもしれないが、どうも研究していくと、「異なった宗教もすばらしい叡智を持っている」「特定の領域ではむしろわれわれをしのぐ点もあるかもしれない」と思い出す。つまり「宗教学」は、自己の宗教の相対化を必然的に抱え込むものであるし、そうでなくてはならない。インドやインカや日本の宗教を聖書的に審判しようとする者は宗教学者ではない。宗教学と各宗教教学とを截然と分けるのはこの場面である。
また一方、文化研究は、存在論を問題にしなくてすむ。研究の対象は、あくまで文化という「言説」であるからである。“われわれは存在論、つまりこの世界がどうなっているかを問題にしているわけではありません、宗教という言説を、もどいたり、整理したり、比較したりするだけです”というわけだ。だが一方で、宗教学も他の学問と同様、「存在論的一元論」という図式を無意識に選択する。“霊とか浄土とか輪廻とか、まあ、それはあくまで言説内の問題です。それを存在論的に受け止める必要はありません”。
これは宗教学という「近代的学問」が本質的に孕む矛盾である。
宗教は、必ずしも「存在論的一元論」を説いているわけではない。いや、むしろ存在論的二元論ないし多元論を説くものこそ多い。さらに言えば、物質一元論などを説く宗教はまずない。
この時、宗教学はその言説を括弧に入れる。そして各宗教が掲げた「存在論」を「言説論」に還元して、その矛盾を解決するのである。
任意の宗教が掲げた存在論を全面的に肯定するのは、宗教学ではなく宗教なのだ、と宗教学者は言うだろう。それはその通りである。だが、存在論をことごとく言説論に回収するのは、そもそも果たして正当なことか。異なった地域・時代の多くの宗教が共通した存在論を掲げている時、それを存在論的に検討してみることを一切せず、「人類共通の原型的イメージ」といった曖昧な逃げを打つことは正当なのか。
現実を超えた秩序への志向を持っているのが宗教である。それを現実の中に収めようとして、いったい何が生まれてくるのか。もっとはっきり言えば、多くの(おそらく「ほとんどすべて」に近い)宗教は「霊魂」や「他界」への言説である。乱暴に言えば宗教は霊魂学・他界学なのだ。そういった本質から目を背けて、思想史・文化史・文化記述や唯物論内哲学に終始することは、扱っている対象への裏切りなのではなかろうか。そもそも存在論的一元論としての唯物論を選択するのなら、宗教を研究する意味はどこにあるのか。
宗教学はスピリチュアリズムをこれまで正面から扱おうとしなかった。それは、後に述べるように、スピリチュアリズムがあくまで「言説論的」ではなく「存在論的」に二元論ないし多元論を主張しているからである。それは「現象学」や「思想研究」として扱うには“露骨”すぎる。スピリチュアリズムが「霊魂思想」なら、それは言説論として扱うことができる。しかし、「存在論的反一元論」を主張していると、それは宗教学が無意識に選択した「存在論的一元論」に抵触することになるのだ。

もうひとつ、いささか卑近な話題になるが、宗教学者の中には、自らはある宗教に属していて(まあ、ある宗教信者の家に生まれてという方が多いのかもしれないが)、その信仰を一定程度(様々だろうが)受け入れていながら、宗教学という近代学問に携わっている人々もいる。彼らは自分が属する宗教の存在論と、宗教学が無意識的に選択した存在論との間のギャップをどう捉えているのか。個人的信仰と学問は別、というのは、近代的に正しい「中立・客観的」態度として称揚されるもののようだが、学問の方が無意識的にある立場選択をしているのだから、それは本当に「中立・客観的」と言えるのだろうか。(まあ、ちょっと笑い話っぽくなるが、たとえば、浄土真宗の寺に生まれた男性が、近代仏教学を学んで、近代学問の無意識的存在論的一元論と原始仏教の「無」の哲学を身につけ、結果として自分のお寺に帰って檀家の葬式をする際に、「お浄土」を説けなくなるというのは、どこに問題があるのだろうか。)
また逆に、中立的立場から出発して、諸宗教を勉強していくうちに、ある宗教的存在論を存在論として受け入れたくなったら、その人は宗教学を逸脱することになるのだろうか。学問という近代知が、本当に存在論的に中立なのだろうか。そもそも存在論的中立というのが、本当に成り立つのだろうか。

◆言説論的多元論のネガティブ面

言説論的多元論は、一つの言説の絶対性を認めないという点では、自由で、民主主義的で、よろしいようである。神学の支配なんて、誰もがいやだろう。左翼運動が強烈だった時に、あらゆる言説は政治に回収されるというような見方もあったが(「われわれはすべての活動をプロレタリア独裁という観点から見なければならない」とか)、それは悲惨なものだった。
しかし、現代の知の「存在論的一元論+言説的多元論」というのは、そもそもねじれているし、落ち着きのよいものではない。言説的一元論としての科学の優位性を何となく認めながら、何とかその影を薄くし、「エホバの顔を避けて」ちょろちょろ活動するのは、すっきりしない。
そこから生じる、存在の影を薄くしてしまう(存在論を回避する)という戦略は、各言説がそれぞれの正当性を主張する戦略としては有効だろうが、へたをすると、言説が閉じてしまうという危険性を孕む。「言説の正当性や妥当性は、外部の基盤的存在によって保証される必要がない」――これが、言語ゲーム論などを経た現代哲学の「言説的多元論擁護」論であるが、そうすると、各言説はばらばらとなり、対話は不可能になり、さらにはその言説の普遍性も疑われてきはしないか。普遍性というのは、近年の「多元主義」や「多文化主義」(両者は全然違うが)などの隆盛で、あまり好まれなくなった言葉で、いったい普遍性とは何かを論じると難しい問題になってしまうが、「存在に基礎づけられた真理」や「超越的言説」というものとはいささか異なるものだろう。我のみが正しいという仕方でなくても、普遍性を志向することは可能ではないかと思われるし、そもそもまったく普遍性を志向しない理論や思想などというものがあるのだろうか。
ジャーゴン(業界用語)だらけの哲学や、「任意の物語でクライエントが納得すればいい」といった臨床心理学や、小才の利いた面白さばかりのテキスト批評は、そうした「外部性」を喪失し、自らの中に閉じこもり、普遍性への志向を捨てた知の病的側面のように思われる。
存在論的一元論に由来する「科学」へのコンプレックスから、心理学が普遍的人間学を放棄したり、宗教や宗教学が超越の探究を断念したりするとしたら、それは自らの首を絞めることになるのではなかろうか。存在論的一元論は、人間の営みをせばめる桎梏になっているとも言える。

◆存在論的二元論としてのスピリチュアリズム

さて、こうして見てきた最後に、肝心のスピリチュアリズムのことに移る。
スピリチュアリズムは、存在論的二元論を、暫定的に採る。
暫定的といったのは、実はスピリチュアリズムはある面では多元論であり、ある面では一元論でもあるからである。霊的存在や霊的世界は多様で多層的であり、相互に還元できない。つまり多元論として捉えるしかない。しかし、すべての宇宙を貫いて存在し、究極の原因をなすものは「神の法」一元であるとも主張する。それはともかく、この世での知の問題としては、物質世界と霊魂は別だという二元論をまず主張するのである。(もちろん実は霊の「元」が優位だとする跛行的二元論なのだが、そこも当面は表立てない。)
で、スピリチュアリズムは、自らを言説論として見ない。その第一目的は、「存在論的二元論」を言い立てることであり、言説論としての展開は、自粛しているのである。
しばしば、スピリチュアリズムの言説を「物質的すぎる」と難じる人がある。もっと美しく高邁な教説に邁進すればいいのに、なんでそんなに生々しく、下世話な話題を出すのか、と。それはスピリチュアリズムが霊的諸存在(非物質的存在)を存在論的に言い立てているからである。それは華麗な思想なのではない。あくまで存在論的定立なのである。
存在的二元論、あるいは多元論は、それほど異様なことではない。もともと一神教世界でも、霊肉二元論は普通だった。ただ、霊・肉それぞれの「元」を独自に展開させようとするような指向が、神の一元の下に押さえこまれていただけである。神なんぞはわかるわけがないから、霊と肉それぞれを考えればいいという、健全な二元論は、世界中のいたるところにあった(ただし、霊を優位にした跛行的二元論の方が多いかもしれない)。別の言い方をすれば、二元論は、かなり“普遍性”を持っているのだ。
一神教の病理に染まらなかった東洋人は、多元的ありようはごく当たり前と言えるかもしれない。日本人は病気になったとき、漢方医に行ったり、整体師のところへ行ったり、心理療法家のところへ行ったり、霊能者のところへ行ったり、そして(当然)近代西洋医のところへ行ったりする。その症状によって、どうもこの原理が効きそうだなというのを選ぶ。その原理はそれぞれ独自の体系を持っていて、お互いに対立するが、どれかひとつが絶対だということはない。気という原理も正しいし、心理という原理も正しいし、霊という原理も正しいし、物理的説明も正しい。喧嘩や戦争をしたりする必要はない。
だから、スピリチュアリズムの存在論は、一神教文明とその影響下にある近代的知の世界にとって以外は、別段「異常な」主張ではないとも言える。霊というと身を引く日本人は、近代に毒された特殊な日本人と言えるかも。

あまりこういうことを考えた人はいないかもしれないが、スピリチュアリズムは言説論的には暫定的に多元論を採る。それは、諸「言説」を否定しない。科学や政治学や経済学や法学や心理学を、すべて霊学に置き換えようとはしない。
これは存在論的二元論から来る。この世は霊一元で成り立っていない。物質世界という現実は厳然として存在する。したがって、物質の知や、物質に基盤を持たざるを得ないものへの知は、霊に関する知とは別個に存在する。そこには物質科学を中心とした、正しい知があるはずだ。スピリチュアリストが、お湯を念力で沸かしたり、天気を予知したりするわけではない。冷蔵庫も自動車もインターネットも、霊の存在に抵触するわけではない。政治や経済といったものも、霊的な要素をもっと勘案しろとは言うにしても、それ自体はもっぱら物質的な基盤に依拠する以上、それらを霊学に還元しようとはしない。
ただし、そういった物質とは別に、霊という「元」があるわけだから、そこにはそれなりのしかるべき姿があると主張する。スピリチュアリズムが、諸宗教の神学や教学をしばしば激しく否定するのは、それが霊の元に関係していながら、「霊的基盤」を正しく伝えていないからである(ただし自らを絶対化して他をぶっつぶそうとはしないが)。霊の元が関係している知はほかにもあろう。医学(病理学)、心理学、宗教学、倫理学、哲学……。そこは徐々に霊的な知となっていくだろう。そしてやがては、物質的科学とは異なった霊的科学も生まれるだろう。もちろんかなり未来のことであるが。

そもそも、存在が一元的であるという保証はどこにもない。むしろ、世界・宇宙は多元的ではないのか。人間を見たって、人間社会を見たって、とても一元主義は成立しない。いや、われわれの心でさえ、実は多元的――一応統合はされているけれども、場面場面によって微妙に人格が異なる多重人格状態――ではないか。
二元論は、二つの別個に独立した原理がどう関わるのかという難題をつきつける。哲学が二元論に難癖をつけるのは、「その二つの間の説明ができないじゃないか」ということのようだが、それはあるところ当たり前で、どちらか一方で、あるいは両方を統一的に説明できたら、それはもう二元論ではない。二元の間の関係を完全に説明できないというのは、少なくともわれわれの知では不可能だということで、だから一元でなくては困るというのは、世界をわれわれに合わせようとする傲慢、ないしは、なんとか説明しなくては気が済まないという傲慢、でしかないのではないか。一元は知りうる、自分たちこそそれを知っていると主張するのは、「われわれの知っている神こそが唯一の神だ」という傲慢の引きずりなのではないか。

もう一元論の愚はやめましょう。人間には霊肉二元論が健全で自然ですよ。そして世界は複雑だから、いろんな言説があっていいですよ。どれかひとつが超越的・絶対的であるというのはやめましょう。わたしたちも霊学の絶対性を主張しません。ただ、物質一元論はやめて、霊のことを考えましょう。――それがスピリチュアリストの言い分なのである。

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