4.スピリチュアリズムの自己限定

スピリチュアリズムの自己限定

掲載日:2006年7月6日

スピリチュアリズムは「宗教」か。
確かに、スピリチュアリズムは、目に見えない存在を信じ、神を信じ、ある一定の価値を信じている。その意味では宗教に分類されることはやむを得ない(「残念ながら」と付け加えるべきかもしれない)。
スピリチュアリストは、スピリチュアリズムを「高級霊からもたらされた真理」であり、「人間がつくった」諸宗教とは異なると考えている。しかし、それを諸宗教に対して言い立てると、宗教戦争になる。各宗教も、「われわれの教義は真理である」と主張し、他の宗教とは異なる(あるいは他の宗教は劣っている)と考えているのだから。
いくらスピリチュアリズムは、霊が教示してくれた事実だと主張しても、それをこの世に形として伝えるのは人間である。人間は他の人間に対して対等の立場に立たなければならない。人間であることの相対性・限界性を受け入れなければならない。スピリチュアリストにとっては、「霊魂不滅」や「永遠の成長」は、単なる「事実」となるが、現在のところ(その「証拠」を受け入れようとしない人が多い以上)、それを人間が主張する場合には、どうしても「宗教的信念」に分類されてしまうことになる。
従ってスピリチュアリズムも、「宗教」という分類を甘受しなければならない。そして、そうである以上、諸宗教の並存という現代の状況に甘んじなければならない。自己絶対化や他宗教の排撃は、御法度である(もちろん諸宗教の間違いを論駁することは許されるだろうが)。
いくつかの宗教は、自らを絶対化し、教義という形で特定の価値と行動規範を人々に強要してきた。しかもしばしば脅迫や力の行使によって。「望ましきことはこのようなことである。そのように行動せよ」と説教し、受け入れない者にはそれ相応の対応をしてきたわけである。それがどれだけ悲惨な事態を引き起こしたか、われわれは歴史から十分学んでいるし、それを決して忘れてはならない。
また、人類社会が途方もない血を流して獲得した、「政教分離」の理念も尊重しなければならない。力ずくで他者に考え方や価値を押しつけないということはもちろんのこと、自らの理念に基づいた社会を作ろうとする野望も断念しなければならない。
スピリチュアリズムの霊信も、「このような社会をつくりなさい」とは言っていない。戦争や死刑には断固反対しているが、具体的な現実対応や社会制度の構築は、人間がそれぞれ考えなさい、という態度を貫いている。やがて霊的な知識が広まり、人々の霊性が高まれば、もっとよい社会ができるだろうとは言っているが、それには一人一人の進化・成長が必要なのであって、システムや法律で社会を霊化しようということは不可能であるし、害があると捉えている。この意味で、スピリチュアリズムも、基本的には「政教分離主義」である。

もちろんこうしたことを踏まえた上での話だが、スピリチュアリズムは宗教ではない、という見方もありうる。
それは、スピリチュアリズムは「情報」「知識」だという捉え方である。
スピリチュアリズムは、基本的に「説教」はしない。スピリチュアリズムの霊信も、基本的には、単に「事実とはこのようなものである」と伝えているだけである。具体的な人間の行動に対して、例えば妊娠中絶は認められるかとか、安楽死は許容されるべきかとかに関して、1人の霊として意見を表明することは稀にあったとしても、規範的・命令的に述べることはない。個人の道徳に関しては、おおむね、古来言われ続けてきた善を賞揚しているだけだという印象さえ持たれる。もちろん、それに基づいたある種の勧告はしているが、決してそれを押しつけようとはしない。
シルバー・バーチの言葉を引こう。

《私たちはこの口が裂けても決して言わない、「理性を使うな、ただこれを信じよ」とは。私たちはこう言う、「神が貴方に授け給うた理性を使いなさい。私たちを試み、私たちの言葉を調べなさい。もし私たちの言葉が卑しく、道にはずれ、ひどいものに思えたら、いつでも私たちを否定しなさい」と。》(『シルバーバーチ霊言集』一五頁)

もう一つ、S・モーゼスを通じた「インペレーター」のメッセージ。

《すべての啓示は人間を通路としてもたらされる。ゆえに多かれ少なかれ、人間的誤謬によって脚色されることを免れないのである。いかなる啓示も絶対ということは有り得ぬ。信頼性の証は合理的根拠の有無以外には求められぬ。……正しき理性的判断よりほかに勝手な判断の基準を設けてはならぬ。啓示をよく検討し、もし理性的に得心が行けば受け入れ、得心が行かぬ時は神の名においてそれを捨て去るがよい。そしてあくまで汝の心が得心し、進歩をもたらしてくれると信ずるものに縋るがよい。……》

これは、スピリチュアリズムを、これまでの宗教と截然と分けるものとなろう。スピリチュアリズムは、「規範的言説」ではなく、あくまで「情報・知識」であろうとするのである。そしてその情報・知識の根拠や信憑性を、可能な限り明示しようとする。霊現象や霊的治療などは、極論すれば、その手段でしかない。そしてそれ以後の行動をどうするかは、個人の自由意志と自己責任に委ねるのである。(ただし、スピリチュアリズムが倫理的でないということではもちろんない。安易な規範性を回避しているのである。)
スピリチュアリストは、この点に十分留意すべきであろう。
スピリチュアリストは、「一般市民の道徳上の監督官」でも、「霊的指導者」でもない。スピリチュアリストの使命とは、「魂は死後も存続する」ことを、情報として伝えることである。そして「霊的世界」のできるだけ客観的で信憑性の高い知識を伝えることである。「だからこのように生きなさい」とか「こういうことをしてはいけません(地獄に堕ちる)」とか言うことは、スピリチュアリストの本分に反する。
(従って、ある霊能者がクライエントに、霊的情報・知識を告げることは、スピリチュアリズムの範囲内である。しかし、「こういうことをしなさい」とか「これはいけません」というようなことを命令し出した時、それはもうスピリチュアリズムではなくなる。)

こうした姿勢は、きわめて自己限定的な態度である。自己拡大欲の強い人――独創性や指導性、そして地位や名声などを求める人(宗教家や思想家にも結構多くいる)――には、つまらない使命だと映るだろう。しかし、人間を導きうるのは、高い霊のみである。そのことを知り、身を低めて、その働きに「道具」として奉仕することが、スピリチュアリストの本分と言えるのではなかろうか。
もちろん、スピリチュアリズムを宗教と捉え、規範的言説を説諭し続けるべきだと主張するスピリチュアリストもいる。それを否定するものではないが、その際も、宗教であるがゆえの自己限定は存在する。その感覚を失うべきではないだろう。

Copyright (c) 2006 TAKAMORI Koki

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