3.「私」という謎

「私」という謎

掲載日:2006年6月1日

「私」とは何か、というのは、人類最大の謎、と言えるかもしれない。
古来、実にいろいろな考えが繰り広げられてきた。気の利いた人は気の利いたことを言い、こまこまと考え詰める人は考え詰めてわけがわからなくなった。
この問題に一つの画期となったのは、「無意識」の発見であろう。19世紀の後半、フロイトを始め何人かの研究者によって、人間には、はっきりと意識されるほかに、「自分も知らない自分」があるということが明らかにされたわけである。
「私でない私」というのは、考えてみればとんでもない話で、語義矛盾である。確かに、私というものがあるとすれば、それは私という意識を持ち、私という自己同一性(の感覚)を持つということでなければならない。少なくとも今その考える作業をしている私という意識から見れば、そうでなければ困ってしまう。
しかし、どう見てもそうなのだから仕方がない。
そこを何とか取り繕おうとしたのか、「無意識」は別の私ではなく、ひとつの機械的システムのように考えるべきだ、となったようである。私というよりは、私の自己保存や生存に有利なように装備された、意識から隠れたシステムだ、というわけだ。
ところが、どうもそうではないらしい。

一部の心理学(精神分析学・深層心理学)や超常的心力研究(つまりサイキカル・リサーチや超心理学のことだが)は、機械論的システムなどではない、「知られざる私」があることを明らかにしてきた。その私は、私が認知していないものを認知し、私の知らない知識を持ち、私の身体を病気にしたり治したりする力をも持っている。時には、物理的な法則すら超えた、超常的能力すら発揮する。どうやら、私の行動や人生を操縦しているのは、むしろそちらの方の私で、意識としての私は、それを注意散漫に観察するだけのものでしかないようなのである。
つまり、「私は私ではない」のだ。これは同一律の破棄であり、由々しき命題である。埴谷雄高の名作『死霊』に「AはAである、というのは不快だ」という有名な台詞が出てくるが、「私は私でない」というのは愉快かどうか、かなり怪しい。「意識される私」は、実は「意識されない私」の部分的なモニターに過ぎず、「意識されない私」が、しっかりと自己同一性を持って行動し生きているのを、途切れ途切れにモニターして、自らが自己同一性を持った確固とした自己だと錯覚しているということなのか。しかし、苦しんだり悲しんだり喜んだりしている私は「意識される私」だろうから、それは勝手にモニターが空騒ぎをしているだけなのか。「意識されない私」はまた別個に苦しんだり悲しんだり喜んだりしているのか。ボードレールが「私は打つ槌にして、打たれる鋼である」と謳い、ランボーが「ワタシは他者である(Je est l’autre ―― est は三人称単数形)」とつぶやいたのは、このあたりの分裂と相克を感づいていたのか。はたまたブッダの「非我説」は、「意識される私」は本来的自己ではないということを仄めかしていたのか。【注】

それだけで事態は済まない。さらに厄介な情報がもたらされた。それは、スピリチュアリズムの霊信によっておぼろげに示唆され、その後、生まれ変わり及び「中間世」記憶の研究からより詳細に報告されたものである。

それによると、まず、(1)「生まれ変わりがあり、おそらく大方の人は前世を生きていたことがある」という。
これはまた謎を投げかける。私は、今ここで生きているが、かつてある時代にある場所で生きていた、その時の記憶は通常は隠されている、ということである。前世と私は「自己同一性」があるわけだが、それは幼少時や催眠など特殊な場合でしか成立しない自己同一性なのである。そんな自己同一性があるものだろうか。記憶のない前世の私は、果たして私なのだろうか。

さらに厄介なのは、「魂の分割」という問題である。マイヤーズ通信は、(2)「ある程度の成長をした魂は、再生する際に『部分再生』をする。これは、複数の人格の部分を一つの人格に融合し、再生してくるということである」と言う。こうなると、「単純再生」(つまり一つの霊魂がそのままもう一度生まれ変わるということ)ではかろうじて成立していた「私の自己同一性」というものも怪しくなってくる。複数の人格部分からなる私は、一体どれと「同一の私」なのか。

さらに加えて(と加えてばかりいるが)、マイケル・ニュートンの中間世研究からもたらされた情報がある。それは、(3)「私は、この世に再び生まれ変わる時、私の一部を向こう側(つまりは霊界)に残してくる」というのである。
このことは、以前からスピリチュアリズムでも問題になっていたことである。つまり、霊媒を通して死者の霊と交信できる、あるいは、人は死後、最愛の人と霊界で再会できる、ということと、生まれ変わりは矛盾するのではないか、生まれ変わったら、もうその霊は霊界におらず、霊媒を通して交信することも、後からやってきた人と再会することも、できないのではないか、という問題である。これに対して、ニュートンによる証言は、「私は一部霊界に残っているから、交信することも再会することも可能」というものなのである。確かにこういうことがあるのなら、件の問題は解決する。そして、スピリチュアリズムの霊信が度々述べていた「あなたは、今この瞬間、実は霊界にも存在している」という謎の言明も、解き明かされることになる。

申し訳ないがもう一つさらに加えて、ニュートンは(4)「一つの魂が同時に二つの地上生を生きることも稀にだがある」と報告している。地上での学びが、倍に体験できるからだという(ただしなかなかうまく行かないものだとされているが)。こうなると、その時の二人は、二人の私でありながら、霊魂としては一つの私となる。ありゃりゃである。

だめ押しを出せば、スピリチュアリズムの霊学では、(5)「私は、本霊の一つの部分的顕われに過ぎない」という説もある。要するに、過去に生きた私や、今生に生きている「私も知らない私」も含めた私や、今も霊界にいる私や、今後誰かの魂の一部分となって転生する私や、今同時にこの世に生きているもう一人の私など、すべてが私であり、それは本霊の一部分の顕在化である。
さらに本霊の顕在化というものは拡がりを持っているので、私のソウル・メイト(「運命の恋人」や「不倶戴天の宿敵」)なども、私が属する本霊の顕在化であるわけで、拡張的に捉えれば、(6)「私は本霊及び複数の霊魂を含み込んだ霊の集合体である」となる。ニュートンら「中間世探究者」の言う、「一緒に生まれ変わり死に変わりして成長していく複数の魂」は、みな私、ということになる。「うちのかみさん」も「虫酸の走る上司」もみな私、ということさえありうるわけだ。

このような「拡大した私」観は、スピリチュアリズムを始め良き宗教の説く、「同胞を愛せ」とか「自己中心性を排せ」といった倫理観には整合的ではあるが、一つ気になることがある。それは、「人間個性の死後存続」というスピリチュアリズムの大命題が、曖昧化されるのではないかという不安である。この大命題は、「私という確固とした個性と主体性を持った人格が、死後も存続する」という意味に受け取られており、それゆえにこそ、救いをもたらす命題であった(個性にこだわる近代人にとっての救いということで、個性に執着しない人々には救いの逆かもしれないが)のだが、「拡大した私」観は、その「確固とした個性と主体性」を融解させてしまうところになりはしないか、ということである。例えば、「あなたの霊魂は、次の生ではある人たちの霊魂の一部となってこの世に生まれ変わる」と言われたら、それを「死後存続」「生まれ変わり」だと感じられるだろうか。その人たちは私なのだろうか、私はその人たちなのだろうか。

「私という謎」は深まるばかりである。
スピリチュアリズムから少なくとも言えることは、「今意識している私が私のすべてではない」ということと、「私は生死を超えて存続し、成長の道を歩む」ということである。この二つの命題を、連結させ、しかも心から感得できるような表現(ないし視座)を、われわれはいかにしたら獲得できるだろうか。

【注 いささか気になるのだが、「意識としての私」というものは「意識されない私」も含めた「本来の私」にとっては、氷山の一角だという見方がある。これはある程度真実性を持つもののように思われるが、とすると、その厖大な「意識されない私」は、死後どのようになるのだろうか。霊界での私は、その「意識されない私」も統合された、より大きな私となっているのだろうが、スピリチュアリズムの霊信による「あの世」の描写には、むしろ「この世の私=意識としての私」に似た私がいるような感じがないでもない。「より大きな私」だったら、かなり地上時代の私とは異なった人格になるような気がしないでもないのだが、そうでもないのだろうか。】
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