2.霊的進化論のためのメモ

霊的進化論のためのメモ

掲載日:2006年5月17日

現在の進化論は、要するに、進化とは偶然の産物だと捉えている。漸次的であるか突発的であるか、環境適応が最優先されるかそうでないか、「より高度な」という概念が成立するかどうか、など、様々な議論があるが、その根底には「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」あるいは「鍋を揺すっていれば何でもできる」的な、偶然崇拝がある。よく考えるとこんな無茶苦茶な考え方があるものかと思うが、なぜかほとんどの人はそれをすんなり受け入れている。
それじゃああまりに何だろうということで、環境と生物体との間に、特有の何かを生み出す指向性が相互補完的に形成されるとする修正派(たとえば形態形成場理論)も出ている。この辺の話は『キリンの首』というとても面白い本が出ているのでぜひお読みいただきたい。ともあれダーウィニズムはひどすぎる。
しかし、霊魂の存在を措定すると、話はまったく変わってくる。
生命は、何らかの思いを持つ。原始的な生物に思いというものを措定するのが奇異なら、志向を持つと言い替えてもいい。アメーバは、まわりにある栄養をもっとうまく取り込みたいという志向を持つ。この際、個々のアメーバがそういう志向を持つと考える必要はない。原始的な生物ほど集合的な霊魂になるという法則があるようなので、アメーバの集合霊が、そう思う。その思いが、アメーバの身体を変化させる。そうするとアメーバはより効率的な胃袋を持つようになる。
つまり「思い」のようなものが進化の主役だ、と考えるわけである。
ある種の昆虫は、人間が驚くような擬態を見せる。葉っぱの格好をしてみたり、大きな目のような模様をつけてみたり。これは、偶然できたのか。実は四角い箱のような格好ができたり、ピンクに紫の縞模様になったりしたのがたくさん生まれていたのだが、たまたま天敵に襲われないようなタイプだけが生き残った、というのだろうか。まさかね。
ナナフシは、正確にはナナフシの集合的霊は、枝のような格好をしていれば、鳥に見つかることも少ないと、ある時どういうわけか思いついた。そして、枝のような格好の身体を、たぶん、かなり急激な速度で、作り上げた。もちろんこの改造は、限定されている。ナナフシがいきなりニシキヘビになることはできない。それはナナフシの沽券にかかわる。
思いが物質に働きかける際には、「目的志向性」が発揮される。これは超心理学の用語で、超常現象においては、ある種の結果を得たいと思うと、途中のプロセスを丹念にいじることなく(というか少なくとも仕組みがよくわからないまま)、結果が出る、というものである。パンを隣家の食卓から盗もうと思うと、パンはなぜか浮き上がり、空中を水平移動し、途中にある塀を巧みに浮き上がってよけながら、自分の食卓に軟着陸する(これはある超心理学が目撃している実話である)。当人は、隣家のパンを食いたいという目的だけを念じているのであって、途中、どうやってパンを浮揚させ、塀をよけさせるかは、まったく関知せずなのである。
これと同じことは、「目の形成」という進化論の大問題にも言える。目というものは、きわめて精緻で複雑な構造を持っているものである。網膜があって、レンズがあって、それを調整する筋肉があって、それらが全体としてきっちり設計されていないと、使い物にならない。実際、すべての生物の目は、驚くほどの精度を持って作られているのである。これが、偶然に形成されることは、まずあり得ない。進化途中で、網膜だけとか、微調整不能だったり歪んでいたりする水晶体だけとかだったら、全然役に立たず、「無用なものは退化する」というダーウィニズムのお好みの法則によって、建設断念されてしまうだろう。つまり、目は、初めから完璧なものとして出現しているのである。
これは「目的志向性」そのものである。光をうまく制御して、外界の像を認識したいという目的のために、途中のプロセスを吹っ飛ばして、突然、完璧な目ができたのである。つまり、進化とは超常現象であり、何らかの思いとか意志とかが物質に働きかけ、驚くべき奇跡を作りあげるということなのだ。

思いが生物の身体構造(かなり生得的な部分)に影響を与えるというのは、実は間近に見ることができる。最近の日本人は、足が長くなり、女性の乳房は大きくなった。個人が意識的に努力したりしたということではない。椅子にすわるようになったとか、栄養がよくなったとかという話でもおそらくないだろう。日本人の「集合的無意識」が、胴長短足は美しくない、大きな胸が魅力的だ(昔の和服では返って忌避された)と、思った。そこで生まれてくる日本人は、もちろん全員その恩恵に浴したわけではないが(残念)、足が長くなり、胸が大きくなった。これは超ミクロな「進化」ではないか?
ちょっと趣は異なるが、何十種という新種の草花を作り出したことで知られているある天才園芸家は、相手の植物と話ができて(話というより思いのやりとりというべきか)、そのおかげで新種が生まれたと言われている。人間という異種の思いが、植物の進化(と言えるかどうかは微妙だが)を促進したことになるわけだ。こんなことが可能だとすると、たとえば、猿がある種の樹木に、もっと美味い実をならせろと交渉したり、蜂が花にもっと蜜を多くしろと要請したり、牛が腸内の菌に、もっと効率的に食物繊維を分解しろと命令したり、といったことも可能なのかもしれない。などと思うと、なかなか生命進化も楽しい相関図になったりはしないだろうか(少なくとも鍋を揺らしていれば変なものができるという説よりはロマンティック?だ)。

個々の思いが自らの生体構造を変えることはかなり困難らしい。足を長くしたいとか胸を大きくしたいと思っても、なかなかそうはならない。ある種の「念」によって、病気が治ったりすることが時にあることは最近の「心身相関医学」で報告されているが、生体の形質自体を変えたという話はまず聞いたことがない。「生まれてくる子供の足が長くなりますように、胸が大きくなりますように」と親が念じれば、そうなるかどうかはよくわからない。逆の事例――妊婦に義母が呪いの言葉を掛けたため、あるいは妊婦が障害者を見て恐怖を感じたため、生まれてきた子供が奇形を持っていたという事例(スティーヴンソン『生まれ変わりの刻印』参照)――があるのだから、ないとは言えないが、こういうものの特質として、「ネガティブなものは発現しやすいがポジティブなものは出にくい」という傾向があるから、ありえるとしても相当珍しいものとなるだろう。
しかし、集合的な思いだったら、かなりの力を持つかもしれない。いくつかの霊信は、人間はもうこれ以上生物学的な進化はしないと述べている。確かに、ある意味で人間の身体は、かなり見事につくられている。今さら水の中で息がしたいとか、空を飛びたいとか、100メートルを8秒で走りたいとか思ったところで、人間の生自体にあまり意味はなかろう。変えるべきところがあるとすれば、むしろ心とそれに付随する能力、意識とそれに付随する活動に関する能力かもしれない。思うに一番重要なのは、自らの愚かさや偏り(劣等コンプレックスとか不合理な恐怖とか悪しき性癖とか愚鈍とか)を、きちんと自覚できる意識力だろう。だいたい世の中のほとんどの問題はこのあたりのところが無意識に放置されて起こるものである。それらが意識化され、統御できるようになれば、少しは人間社会もよくなろうというものだ(つまりはもちっと人間が利口になればということになってしまうが)。
超常能力に関しては、この世における霊魂の成長にはあまり役立たない(他人に霊の実在の示唆を与える意義はあるが)ようだから、人類が種としてそれを獲得するような方向へ行くとは思えない。むしろ現在の人間の精神レベルからすれば、悪用の弊害の方が大きいのだろう。
ただ、スピリチュアリズムから言わせてもらえば、人間が、もう少し自分の指導霊(ないし守護霊)から示唆を得られるようになれば、霊的成長にはプラスになるだろう。そんなこと抜きに悪戦苦闘するのが霊的成長なのだという説もあるが、前世療法の本などで、千年以上にわたって何回も生まれ変わりしていながら、驚くほどわずかしか成長しない霊魂の話を読むと、ちょっとどうにかならないかと思わざるを得ない。正直、身につまされる。
とはいえ、そんなことを、人間の集合意識が望むようになるとは思えないから、まあ、当面人間には進化は起こらないのだろうけれども。
人間の心の進化については、また別の話になるから改めて。

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