1.救いとは何か?

救いとは何か?

掲載日:2006年5月12日

◆外形的な救い

もちろんここで言う救いとは、霊的な意味での救いである。現実的な意味での救いは、救いとして論じることはできない。一片のパンが救いとなることもあるし、親の死が救いになる場合さえある。そういった救いは、倒れそうになる人間を支えることがあるが、一時的で、部分的で、その先「渇きがなくなる」わけではない。現世における肉体的欲求や生理的不快、心理的懊悩の消滅は、死以外にあり得ない。

古来、宗教は救いを説いてきた。ここでそれらの言説を仔細に検討する余裕はない。しかし、宗教の説く外形的な救いは、宣伝的で、粗雑で、しばしば内容空疎であって、欺瞞のそしりを免れない。
死後(ないし将来の「審判」の後)、楽土に赴くと説く宗教は多い。しかし、楽土での存在とはいったい何か。神への祈りと賛美歌三昧にふけることか、七十七人の処女に侍られて悪酔いしない美酒を飲み続けることか、金銀で荘厳された殿舎の美に唖然とすることか。それらはあくまで前近代の無学な民衆に向けた神話的・象徴的表現だというのなら、では改めて楽土での存在とはどういうものなのか。そしてそれはどういう情報に基づいているのか。
信仰告白や聖文の反復、そして献金や組織への帰依による、「罪の赦免」や「地獄行きの回避」を救いとするにいたっては、マッチポンプ的・脅迫的詐欺行為と言われてもやむを得ないだろう。

涅槃は救いか。涅槃がまったくの消滅であるなら、それは唯物論者にとっての死と変わらない。欲望は終わり、個の苦は終わる。それを救いと取る者もいることは了解できないではない。神の創造への反逆であるが、その誤りを現世的な地平において説得することは困難である。押しつけを嫌うスピリチュアリストとしては「死んでみればわかるよ」としか言いようがない。
ところで、唯物論者はどうか。救いなどと言っても彼らは屁とも思わないだろう。ただ彼らにしても苦は嫌だろうから、救いとはできるだけ苦を減らすことであり、そのために経済力をつけて可能な限りのアメニティを確保することだということになるだろう。お金がより大きな救いをもたらすわけだ。そのお金を求めて、さらなる苦が生まれるのだが。意地悪な質問だが、苦を減らすことが目的なら、もし脳のどこかをいじくって、多幸症――苦や不快を感じなくなる病気――を作り出すことができるなら、彼らはそれを選ぶだろうか。

スピリチュアリズムは説く。そうした外形的な救いなどない。なぜならすべての人間はそういう意味においては救われているから。
人間は死後(終末も最後の審判もない)、霊界に赴く。そこは地上的な生活苦・肉体苦は存在しない世界である。好きなことに没頭でき、時間・空間の制限もない。しかしそこでの「生の営み」は祈りへの没頭でも感覚の永続的悦楽でもない。地上世界より少しだけ高等ではあるが、人間は精神活動を続け、それなりの懊悩も存在する。
罪も地獄も、固定的なものとしては存在しない。悪行を好んで犯した者、自己中心的な意図から自殺した者などは、その間違いを悟るべき境域に入るが、それは自らが作りあげた煉獄である。罪(霊的価値と霊的成長への反逆)は自らが定めるものであり、それを罰するのも他者ではなく、自らである。
そして神の愛はすべての者に分け隔てなく注がれている。霊的援助は求めれば、本霊・守護霊を通して、誰にでも与えられる。特定の教義や組織に帰依する必要もないし、特定の祭祀や行をする必要もない。
皮肉に言えば、長く宗教の無根拠・不合理な桎梏に苦しんできた人々には、スピリチュアリズムのもたらす知識は、霊的な救いとも言えるのではなかろうか。

◆内的な救い

良質の宗教者は、救いを内面的に捉えてきた。「信仰の喜悦」「絶対の安心(あんじん)」――それらが、宗教によってもたらされる救いだと述べた。
そんなものは主観的な気分だとか、幻想だとか、さらには現実逃避の麻薬的欺瞞だという見方をする者もいよう。だが、そうではない。
このことを正確に考えるためには、人間の心の仕組みを押さえなければならない。
人間は常に外界と接触している。外界からの刺激は人間の心に様々な波紋を与える。ある生理学者の見解によると、人間が感じ取る生理的刺激の8割は、不快なものだという。まして、日々の暮らしの些細だが努力を要する営み、人間関係の懊悩、尽きせぬ内的な欲求、それらは、ブッダが喝破したように、ほぼすべてが「苦」である。楽や快は束の間であり、すぐに新たな欲や悩みが生じる。
信仰によって、あるいは「さとり」というような超越体験によって、それらが消滅するというのは嘘である。それらは決してなくならない。この世に生きている以上、なくならないし、それがこの世に生きている意味ですらあるからだ。
だが、人間にはもう一つの心の働きがある。それは決まった名前は付けられていない。なぜならそれは、いまだはっきりと万人が有しているものではないからだ。大方の人間はそれを知らない。そして知っている人間の大多数も、確乎としてそれを有しているわけではない。
それは無意識でもないし超自我でもないし、隠れた真我でもない。人間が有する霊魂それ自体でもない。超常能力を持った神秘な主体でもない。それははっきりと意識されるものであるが、単なる自意識でもない。自意識よりもはるかに自覚的なもの、主体的なものである。
それを仮に「覚我」と名付けておく。
この覚我は、自我が様々な苦楽に揺れるのを知っている。その苦楽を感じている。しかし、それに巻き込まれることはない。ひとつひとつの不快・苦・渇望を感じつつ、それをより高い地平から眺めることができる。覚我は、生の荒波を超える地平を見ている。様々な事象の織りなす必然の意味を感じ、自らが向かっていく光を見ている。
無感動・無為なのではない。悲しむべきときには悲しみ、怒るべきときには怒る。はしゃぐこともある。しかし、それは主体的な選択であり、「そうしないこともできるが、そうすること選ぶ」ことによってそうするのである。

この覚我が確乎と確立されたとき、内面に救いがある。信仰の喜悦が、絶対の安心が、湧出する。繰り返すが、それは苦楽のない状態ではない。無為の静謐に安住することでもない。現実との悪戦苦闘や自らの使命を実現するための格闘がなくなったわけでもない。ましてや、既成のシステムに乗っかって、同胞への奉仕もせず、不労所得を貪っている宗教者が、「日々是好日」などとうそぶいているのとは、まったく異なる。
いかなる看板を掲げていようと、その中の最もよき信仰者はこの救いを知っていた。ただし、宗教に関係なくこの救いを知った者も多くいた。だからこの覚我の確立は宗教の手柄だとは言い切れない。
しかし、この覚我の確立のためには、叡智が、現世を超えた知が、必要である。あらゆる宗教的言説は、この超越知を求めての格闘だった。宗教的言説が断片的に(というよりははなはだ不完全に)開示する超越知によって、人は生の荒波を超える地平を知る。それを知ることで、苦楽に揺れる自我以上のものの存在を知り、それを求めるようになる。宗教が覚我の確立のための一つの確かな道であったことは否めない。
もちろん、知るだけでは意味がない。いくら頭で超越知を理解しても、覚我は生まれない。世の宗教者が、人格の歪みを抱えたままであったり、欲望に引きずられたりするのは、このためである。これはスピリチュアリズムでも事情は同じである。いくら霊信を読んでいても、頭で理解しているだけでは、叡智は開かれない。
覚我の確立のためには、超越知を知り、かつしかるべき体験過程(内省・瞑想・利他行など)によって、超越的な叡智と感性と力を獲得しなければならない。その時、覚我の統御力によって、自我の懊悩は静まり、人格の歪みも正されていく。そうあることではないが、時に無名の市井人がそれを実現していることもある。
宗教は、この知と体験過程の両者を兼ね備えようとした道であった。しかし、その知は歪み多く、体験過程はすぐに形式主義に堕落するものだった。改めてわれわれは、スピリチュアリズムの霊信がもたらしてくれた超越知に学び、それにふさわしい体験過程を整備して、この覚我の確立をめざすべきではなかろうか。

◆もう一つの救い

スピリチュアリズムには、もう一つの救いがある。それは、単純で、しかも人間的感情にあふれた救いである。
それは、守護霊の臨在を知ることである。
「貴方の傍にはいつも、貴方より優れた者がいる、その人は貴方に寄り添い助言を与え、進歩の坂道を登るのを支え助けてくれている。此の世のどんなつながりよりも深い縁で結ばれ、その情愛は真実、貴方のために尽くしてくれる、その人が貴方の傍に居る。こう考える時、これ以上の心の慰めがありますか。」(アラン・カルデック『霊の書』邦訳書上巻214頁)。
知るだけでよい。いつも思うだけでよい。それだけで、寄る辺なき弱い人間には、何という救いとなるだろうか。
否定し、拒否することは自由である。しかし、スピリチュアリズムは言う。「それでも守護霊は、あなたを見守り、支えてくれている」と。「守護霊がいるのなら、なぜこんなに人間は迷い、罪や不正を行なうのか」と問う人もいるだろう。それでもスピリチュアリズムは言う。「それでも守護霊はあなたの霊的成長を見守っている」と。
「それなら私たちも救いを持っています」とキリスト教徒は言うかもしれない。「イエス様がいつも私を支え導いてくれます」と。それは「幸いなるかな」。ただし、全宇宙の創造主の一人子が、あなたをいつも見て支えているというのは、スピリチュアリストから見れば、傲慢に映るということである。スピリチュアリズムの言う守護霊は無名である。それは他に対する優越も主張しないし、真理の独占も主張しない。あくまでパーソナルな支援・教導だが、それはそれゆえにこの上なく尊い、とスピリチュアリストは思っている。

◆人は救いうるか

人間は他者を救うことができるのか。
ある人の生き方や、言葉や行為が、人に光を与えることはある。誰かの親切や好意が、人を勇気づけ、支えることはもちろんある。しかも、必ずしもそれが一時的なものだとも言えない。たとえば、ナザレのイエスの生きた姿は、最良の人間の生き方として(神の子の特権的な現前ではなく)、多くの人々に光を与えてきたことは否めない(キリスト教はイエスを神の一人子とすることでその光を台無しにしてきたのだが)。スピリチュアリズムの霊のメッセージは、少なからぬ人に光を与えてきたし、これからも与えていくだろう。
しかし、それは支え、勇気づけであって、救いではない。
あくまで救いは、自らが自らに対してなすものである。他者からの光に支えられて、自らが「覚我」の視点を獲得することでしか、あるいは守護霊の臨在を確信とともに知ることでしか、救いは生まれない。
したがって、「他者を救う」とは不適切な表現である。しばしばそれは傲慢へと導く。時に恐ろしい「折伏」、強制と脅迫にさえ行き着く。
人を救うことはできない。ただ奉仕するのみである。それは高級霊でさえ述べていることである。彼らは光を投げかけ、勇気づけてくれる。しかし、その超常能力をもって強引に人を救ったりはしない。高級霊ですらそうなのだから、人間がなしうることはさらに微々たるものである。

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