【補遺】

人間個性を超えて 補遺
(F・W・H・マイヤーズによる霊界通信)

G・カミンズ筆記/梅原伸太郎訳
(C) 2000 by Shintaro UMEHARA

掲載日:2010年12月14日

【内容】
補 遺
一 肉体と魂と霊(E・B・ギブズ)
二 『人間個性を超えて』(E・B・ギブズ)
三 ヴェルサイユ宮殿の冒険(E・B・ギブズ)

補 遺

一、 肉体と魂と霊               E・B・ギブズ

(E・B・ギブズによる以下の記事は、一九三七年三月十八日発刊の『ライト』誌に掲載されたものです。)

『人間個性を超えて』の初版出版後すぐに、スタンリー・ド・ブラス氏〔訳注1〕が手紙で、私に『不滅への道』や上記の本においてフレデリック・マイヤーズがしばしば触れている種々の「身体」について、詳しく説明してもらって欲しいと書き送って来られました。この答えはこれまで発表されていません。これらは問題をはっきりさせてくれるので(通信霊の見解ですが)これを記録することは興味深いことと思います。ド・ブラス氏の御厚意で質問を引用することができました。それが以下の小論です。

「統一力としての複体と、エーテル体との関係はどうなっているかを説明していただけますか? 両者は私には同じもののように思えるのです。あなたが『魂は複体を仲介者として働く』というとき、あなたは魂を私のいう『霊』の意味で用いているのでしょうか? 私は自分の説を正当化しようとしているのではなく、誤りがあれば正して頂きたいのです。」

機会を見て私は通信者に右の質問を読み上げました。以下がその答えです。

「ド・ブラス氏のご親切で誠に啓発されるお手紙に対する私の感謝の気持ちをお伝えしていただきたい。
私は意識的な心と、意識的な活動すべてを表現したいときは、故意に「魂」ということばを用いた。
しかしながらこうした意識も、本霊すなわち超越的な意識からの啓示と、物質的身体の持つ五感や欲望や本能といったものからくる反応や、通常人が覚醒中保持したり使用したりできる記憶からの反応の混ざりあったものであるといえよう。
「霊」とは、肉体の反応によって印象されたり影響されたりすることのない大自我の一部であると定義できるであろう。それは高次の界に存在し、人間の魂――つまり意識的精神――が親しく「霊」に包まれると、予見の能力が驚くほど拡大する。こうした際、人は時空を超え高次の神秘的生活を知る。しかし地上生活にいるあいだは人は長く無我の高みにとどまることができない。魂はどうしても肉体に戻らねばならないのである。そして精神は再び複合した状態となり、物質世界の条件と生活に反応する。一方、時折、魂はその発達次第で啓示的光に照射される。その光はたちまち闇を追い払い、正しい思考や、賢明な決断や、賢明で非利己的な愛を促すのである。
私は複体を精神と脳のあいだにある媒体であるとみなしている。これはエーテル質のもので高次ないし低次の霊と繋がりをもち、コントロールする魂が様々な機能を調和的に操作することを可能にする乗り物なのである。それは脳と知性を結び、そのメッセージを伝達する機構でもある。複体は半物質的な性質をもつが、それは物質の先祖といってしかるべきものだからである。」

ド・ブラス氏からの再度の手紙には次のようにありました。
「『複体』と『アストラル体』は正確に定義されていないようです。私には、肉体、魂、霊の方がここでは理解しやすいように思われます。肉体は物質に、魂はエネルギーにそれぞれ属し、霊は指令を発する力というように。思考の力は全物質宇宙の様々な段階に共通で、それのどの一部分の意味でも用いられるべきではないのです。それは生き物の一機能であり、実態ではありません。そこでこの世にあるあいだのエーテル体には『複体』を、あの世での魂の外観に対しては『エーテル体』という語を用いるべきなのでしょうか? あの世とこの世とのあいだでは常に表現の混乱があります。それで私たちのことばを正確にするのは難しいことです――私の望みはこちらで可能な限りの正確さを期するということです。『アストラル体』は『エーテル体』と同一だと思うのですが。」

後日、私は右の手紙をマイヤーズに読んで聞かせました。彼は魂と霊と、複体の語の定義をはっきりさせることに賛成して次のように書きました。

「魂の殼(ハスク)はエーテル体を含んでいる。私は生きているあいだのこの二つを、複体ないし統一体と呼んでいる。はっきりさせるためにはド・ブラス氏の素晴らしい表現すなわち肉体、魂、霊を用いることがよいと思う。
『複体』は現世にいるあいだの『エーテル体』のこととして用いられてよいであろう。但しそのためには、これが二つに分けられること、すなわち、殻(ハスク)ないしは死において肉体を離れる活力部分と、深い睡眠中に物質から離れるエーテル部分の二つがあるということを知っていなければならない。
帰幽者について書くときはエーテル体という語が用いられるべきである。しかしこの『エーテル体』なる語は死後の世界における魂の属性のすべてを伝えていないかもしれない。というのは魂は、われわれが『エーテル体』と言っているこの極端に可塑的な形体物以上の何かである。魂は、私の考えでは、帰幽者の活発な意識生活にとって重要な推進力でありエネルギーである。
『精神 mind』という語は、ド・ブラス氏の言うように、宇宙の一部を言うときには用いるべきではない。しかし私は、魂という語に帰幽者の魂という意味では、精神を活用し精神に頼る推進力の意味を籠めたい。『エーテル体』という語はこの力ないしエネルギーを言うときは適切ではないと思う。私はエーテル体を単なる形ないし、われわれがこの世で所有する外形のことだとみなしているからである。それは、人間の意識存在の全体を記述するときには肉体ないし物質体という語が不適切なのと同じである。『魂』という語は、エーテル状態での魂的存在を言うときに必要であるのと同じようにこの世にあるときの状態を言うためにも必要である。
肉体
複体――殻(ハスク)とエーテル部分から成る。
魂――推進力、地上で活発な生活を送るあいだの意識的部分。
霊――上方からの啓示と光である。それはちょうど画家が絵や構図を見守っているように、全体を隈なく見ているのであるが、その働きは間をおいて認識される程度である。

以上の四つの語は地上にいるあいだの人間を記述するものである。

エーテル体――死後の人間の外観、外形。
魂――推進力ないしエネルギー。
霊――上方からの光と啓示。

オカルティストは『アストラル体』ということばで帰幽者のエーテル体を意味していると思われる。しかし『アストラル』という語は捨てられるべきである。その語は記述しようとしていることと何の関わりももたない。
『霊妙体、イメージ体、光明体』などは、われわれが死の直後の状態との関係では論じない方がよい用語である。原則としてその段階はそれらの出番ではないからである。

〔訳注〕
(1) Stanley De Brath(1854-1937)。イギリスの心霊研究者。

二、 『人間個性を超えて』          E・B・ギブズ

(ギブズによる次の記事が一九三六年十月二十九日の『ライト』誌に載せられました。日本についての偶発的な言及が示すように、一九三九年における戦争の可能性が一九三三年になされているという点でも興味深いものです。参会者たちは、見られる通り、この言及をアビシニア戦争〔訳注1〕やスペイン内戦と結びつけて考えたものです。)

オズボーン・レナード夫人の支配霊フェダ〔訳注2〕は、通信霊たちはしばしば、何かしきりに言いたいこと、あの世で心に留めたことがあるといったふうで交霊会にやってくると言っておりました。
同じことが『人間個性を超えて』を書いたときのマイヤーズにも言えます。何度か、最初の決まった前置きなしに文を書こうとあせっているように見えたことがあります。特に最初の「ケチで、ちっぽけな時代」を書いたときがそうでした。これはオリバー・ロッジ卿のための交霊会がもたれた後で書かれたものですから、われわれは――少なくとも私は――何か卿への言及があるものと思っていました。しかし次のような短い前置きがそのときあっただけでした。「アスター〔訳注3〕、詩人〔訳注4〕の方を向きなさい」「フレデリック・マイヤーズです。今晩は」
三ヵ月後に書き加えられた最後の節を別として、この小論全体は一時間十七分のあいだに筆記されました。マイヤーズは書いているあいだとても落ち着かず興奮しているようでした。小論を書き終えた後で彼はこう書きました。「マダム、お許し頂きたい。私は黒い影が地球に射すのを見たのです。その影は落ちないかもしれません。人は選択の力を持っているからです。しかしこう警告せざるをえませんでした。お許し頂きたい。この稿を『ケチで、ちっぽけな時代』と題して下さい。人間を犬と罵れば、怒りとまではいかなくとも、少なくとも関心を引き起こせましょう。今夜私は人間を犬呼ばわりいたしました。」
私は、このエッセイはどのような経緯で書こうと思ったのか、そして、黒い影とは何か、と尋ねました。すると、
「昔ながらの戦争の危険が、すぐにではなくとも数年のうちにある。人類最大の希望は『国家』と呼ばれる物質神を実際に放擲《ほうてき》するところにある。何となれば、国家というようなものは元来なく、様々な程度と段階における意識、人間の大集団、すなわち白色、黄色、黒色そして褐色というような人種があるのみなのである。そしてあらゆる民族は量ではなく質を理想とすることを学ばなければならない。すなわち、美と力は数の制限とコントロール、および宇宙的同朋感覚によって獲得されるのである。」
「戦争というのはロシアやドイツとの戦争のことですか?」と私は尋ねました。
「そうです。そして日本もです」と彼は答えました。「それはやってこないかもしれない。過去のものとは違った新しい宗教、新しい信仰がどうしても必要だ。」

上記は一九三三年十二月に書かれました。御覧のように、ロシア、ドイツが戦争の中心となることは私が言い出したことです。多分、そのとき国の名前を持ち出したのはいけなかったのです。霊媒に暗示を与えないような仕方で質問のことばを選ぶべきでした。しかし、その後明らかになったとはいえ、その時には「影」はアビシニヤ戦争やスペイン内戦を象徴したものに見えました。確かにロシアやドイツのお互いに対する態度は来るべき将来、ヨーロッパの平和を脅かすようには見えましたが。
一九三四年三月に、マイヤーズは突然、当時それまで書いてきたものとは全く何の関わりもないと思われた一節を書きました。その節の最後になって彼はそれをこの「ケチで、ちっぽけな時代」に付け加えるように指示したのです。
『クレオパの書』の通信者もそうですが、フレデリック・マイヤーズが自分の書いたことを、いつ、どこで書いたかまで大変よく覚えているのは毎度のことのようです。これはもちろん、通信者が霊媒――マイヤーズがオートマティスト(霊媒)を呼ぶときの好みのことばで言えば「通訳者」――と交渉を持っているときだけのことかもしれません。しかし、それは事実なのです。
右の小論を書いた翌日、マイヤーズはこう書きました。「皆さん、私は前回に感情的になって書いていたのではないかと思う。著述家というものは書いているときはあらゆる感情を超えていなければならない。私は自分のエッセイが救世軍の熱弁のようになっていないかと懸念する。しかし私は実際信仰復興論者ではないことを確言します。私はしばしば彼らに我慢できなくなり、低俗でありきたりの考え方を攻撃し、撃破したくなります。」

「蓮華の園」のときも同じようなことがありました。これは一時間二十分ほどで書かれたのです。フレデリック・マイヤーズは交霊会が始まると同時に、「今晩は皆さん、永遠の仮装会についての話を続けましょうか?」といい、そのとき突然彼はあのエッセイを書き始め、終わるときにこう付け加えて書きました。「お許しください。御婦人の皆さん。私は突然このエッセイの着想に心を満たされてしまったのです。すぐにも書かねばならなかったのです。」
他のときには、彼は到着するやいなや忘れるのを恐れでもするかのように書き始めます。それから原稿を書いているあいだに彼は中断し、私が書き上がった原稿を置いている方向に霊媒の手をふって、彼のために読み上げてくれるように指示します。私が声を上げて読むと、なにがしかを原稿の中断した部分に挿入してそれを書きとめます。別のときにはあるエッセイの途中で余白に、「私の最初の節をここに挿入してください」と書きました。それから書記を続けたのです。
以下はこうしたやり方の一例です。「フレデリック・マイヤーズです。今晩は、ご婦入の皆さん、私は次のエッセイの主題を是非とも皆様に御披露したい。それは、『叡智に包まれた愛は、ものの総体から宇宙をつくる総合化のエネルギーである』ということであります。この主題こそ死後において多くの人間の魂に訪れる状態を総括するものである……」。私はマイヤーズがこのことばを急いで書こうとしたのももっともなことであると思います。
また一方、一九三四年九月の『ライト』に一挙に掲載された「休戦記念日 Armistice Day」と題するエッセイは、私の知る限りでは全くあの世での計画なしに書かれたものです。編集者は私にこのテーマに関するメッセージを貰うことはできないかと尋ねました。カミンズ嬢はそのときアイルランドにいて、このことを知りませんでした。四日後、彼女が帰ってきて、われわれは交霊会を持ちました。最初の雑談の後、私は突然、マイヤーズに「アーミスティス・デイ」について何か知っているかと質問しました。すると彼は、それがヨーロッパ諸国間の戦争〔第一次大戦〕が終わったことを意味するのは承知していると答えました。これ以上の準備は何もなく彼は最初の六つの節を書きました。それから休んでこう言いました。「準備なしにやってきたので適切なことが言えたかどうか心配だ」と。彼は最後のところを読んで聞かせてくれるようにと要求しました。そしてその後彼は最後の節を除いた残りの部分を書きました。最後のところは後で書き加えられたのです。文体の美に関しては、準備されて書いたものとその場で書かれたものとのあいだの差はないと思います。
私からの質問に答えて、マイヤーズは、「最初の発想はこの世を離れて考える」と言いました。もしオートマティストの心が交霊前に鎮まっていれば――カミンズ嬢はいつでもそう努力するのですが――彼はときどき交霊前に「彼女の心の中を気ままに探ってみる」とも言いました。この書の第二部に関してはマイヤーズはしばしば、彼の観念を表わす適当なことばがないと洩らしていました。「私はことばにならない観念と苦闘している」と彼は書いています。「通訳者は私を待っている。しかし恒星生活を記述できるようなことばが思い浮かばない」。そして再びこう言いました。「――はっきり言って私がこの恒星上の運命に関する複雑な問題を書くことは、私に何の幸福も与えない。というのも、それは、あたかも燃料なしで火をたくようなものだからである。思考はそこにある、しかしそれを正確に表現するためのことばは創られていない」と。ある日、この本の難しい章を通信しているとき、彼は軽い調子で何かを書いてから、仕事に戻らなくてはと感じ、ふいにこう言った。
「さて、もう一度、星の観測に戻ろう」――そう言って第二部を再開したのです。
通信者の身元証明に関する大事なことが一年ほど前に明るみに出ました。『人間個性を超えて』とは別のある原稿の最初のところで、マイヤーズは「死すべき人の心は死すべき物によって動かされる」ということばを用いました。ローレンス・ジョーンズ卿は、それをフレデリック・マイヤーズが翻訳したウェルギリウスの詩からの引用であると発見したのです。「sunt lacrimae rerum et mentem mortalia tangunt(涙は涙を誘い、名誉は名誉をもたらす。そして死すべき人の心は死すべき物によって動かされる)」(『Classical Essays』一二〇頁)。(この本を私たちのどちらも読んでいません)

〔訳注〕
(1) 第二次エチオピア戦争。1935年、ムッソリーニのイタリア軍がエチオピアの皇帝軍を撃破し、エチオピアは1941年までイタリアに支配された。
(2) フェダ(Feda)はオズボーン・レナード夫人の支配霊で、彼女が霊信を受け取るときの仲介役。霊能者には必ずこうした支配霊がつく。『不滅への道』参照。
(3) アスター(Astor)はジェラルディーン・カミンズの支配霊。
(4) フレデリック・マイヤーズのこと。

三、 ヴェルサイユ宮殿の冒険       E・B・ギブズ

ダンヌ氏のよく知られた『ある冒険』という本〔訳注1〕は、モバリー嬢とジョーダン嬢の二人の女性がヴェルサイユ宮殿で体験したことを分析したもので、そのとき二人は十八世紀の中に真っ直ぐ入ってゆき、フランス革命以前の人々や事件を見たのです〔訳注2〕。後になって、十二年以上にもわたる膨大な歴史研究の結果、二人の見たものが確証されました。
(以下は一九三六年七月十六日の『ライト』に載ったE・B・ギブズによる記事です。)

『ある冒険』を論評してプレヴォスト・バタズビー氏はこう言っています。「そこでそのときそれは正しく起きたことなのである。真実性から言っても、完全性から言っても、資料的な面から言っても独自な一つの心霊現象としてそれは存在する。ではそれは何を意味するか? J・W・ダンヌ氏はシリアリズム〔訳注3〕という理論がこの事件をいかに説明するかということを述べた覚え書きをこの号に寄せている。読者の中にはそれで納得いくと思う人もいるかもしれないが、私はそうは思わない」(私はバタズビー氏のこの点に関する率直さには打たれます)。氏はさらにこう続けています。
「過去の世紀に入り込むだけなら、われわれの用いることばの曖昧さからいって、これをある種の透視であるということも出来よう。しかし、この御婦人方は起こったことを見ただけではないのである。十八世紀の中に入っていっただけではなく、十八世紀の方が二人のところへやってきたのである……二人は一場面を見ただけではなく、その場面をつくるメカニズムを体験しつつあったのである。二人は小径を通り、森を抜け、橋を渡ったのである。そのどれも現実にはそこになかった。シリアリズムは実際にこのような現象を解明しうるのであろうか?」
こうした論及からみますと、以下の見解が興味深く思われます。それはF・W・H・マイヤーズが『人間個性を超えて』を通信してきたときに偶発的に書かれたものです。彼はこの本の第十一章末尾に載せられた詩というよりもむしろ散文詩とでも呼ぶべきものを、気晴らし的に書いていました。
マイヤーズはその詩を説明してから、こう書きました。
「この少女は意識の主観状態で過去の時間に入ることによって、実際に過去の時間を生きたのである。これはある名前を明らかにしたくない御婦人がヴェルサイユ宮殿の庭を散策していたときにマリー・アントワネット時代に生きたというのと同じことである。彼らは皆、適切な主観状態にあったために大記憶の一局面に入り込んだだけなのである。この説明は単純そのものである。しかし疑いもなく――もしあの体験がなおも議論されているなら――深遠で理解できないといった性質の多くの終わりのない議論の方が、その起源を神秘のヴェールに包み、その昔デルフォイの神託に仕えていた人々に与えられていたような特別の尊敬を学者たちに保証するものなのである。私はこの御婦人方がその『時』のうちに生きたのだと信ずべき理由がある。つまり彼女らはその時代と結びついていたので、その光景は彼女らの大自我の記憶の中に含まれていたのである。そのために、彼女らが昔の懐かしい環境にやってくると、ごく自然に、二人にとっては現在である過去に自動的に転がりこんだのである。というのも過去の記憶のすべてはわれわれの現在なのであるから。心霊研究の徒はこの説明を受け入れないであろう〔訳注4〕。それは余りにもやさしく、その意味を説明するのに長いことばはいらないのである。」

右の記事を書いた後、私はそれをたまたまロンドンに来ていたカミンズ嬢に渡しました。彼女はバタズビー氏の見解を読み、マイヤーズの説明は、モバリー嬢とジョーダン嬢が実際に声を聞いたという事実を説明できないと指摘しました。暫く考えた後、彼女はこの問題に対する解答はないと認めました。われわれ二人はこの不思議の説明を求めて『人間個性を超えて』を調べましたが、この事例をうまく説明するような箇所を見つけられませんでした。そこで私はいつかマイヤーズに尋ねて問題を解決して貰うことを提案しました。以下のことがその結果です。

フレデリック・マイヤーズが署名し、多少のコメントをした後、私は先に記した彼の見解を読みました。そして、これらの見解では、ある男が現われて、「Mesdames, Mesdames, il ne faut pas passer par la(ご婦人方、ご婦人方、そこを通ってはいけません)」云々と言ったのが聞こえたことの説明にはならないと指摘しました。答えはこうです。
「このことばは、過去の世紀にこの男が発したものである。彼はそのころ宮廷に属していた婦人たちに向かってそれを言ったのである。二人の婦人の現在意識の前で、前世紀におけるこのちょっとした場面が演ぜられたのであった。つまりそれらは大記憶の中にあって、二十世紀の意識中枢に連なっているのである。ここにこの経験の独特な性格がある。私は『現在意識の前で演ぜられた』という言い方を用いた。しかしこのエピソードは絶えず進行中である。この『il ne faut pas passer par la』ということばは一生のあいだいつもこの御婦人方の耳には聞こえていたはずである。しかし実際に聞こえてきたのは、条件が塾って、二人が初めにこのことばの発せられた場所を通ったときであった。われわれは条件さえよければ見もし聞きもする。すべてはエーテル界に記録されているのであるから。」

マイヤーズは『人間個性を超えて』第三章の「四次元界」の節を見るように指示し、そこには、それらの記憶の中には魂は住まないと書かれてあるはずだと言いました。驚いてその本を取りあげ、自動書記をとるカミンズ嬢の前に置き、あちこちを読んで聞かせました。ふいに彼は次の章句のところで呼び止めました。そこには、「それらは自動的で、次々にたち現われる情景にはそれらを支配する魂が入っていないため、生気というものが感じられないのである」と書かれていたのです。

さらに彼は説明を続けます。

「暫時この二人の御婦人は見物人となり、その心は『人形劇』といわれるべきものの中に入っていったのである。婦人たちだけが生きていて、記憶や知性を用いていたのである。しかし彼らに話し掛けたのは単なる操り人形である。――かつて『Il ne faut pas passer par la』ということばを発した魂によって生命を与えられてはいない只の人形なのである。しかしこのことばは一九三六年の今も振動し続けている。『聞く耳のあるもの』には最初に随伴した行為との関連で聞こえることがある。
音もまた場面と同じく振動し続けている。音だけが中断して情景は継続するということがありえようか? 一つを受け入れて他を排するのは論理的ではない。ある大師たち〔訳注5〕は大記憶の中に過去の場面を見ることができる。しかし彼らも情景に伴う音声を聞くことは難しいのである。というのはこうした記録はもっと大きなもっと目覚めた意識を必要とするからである。この御婦人方の場合には、前世の経験によって見聞きするのに必要な力を与えられたのであった。」

〔訳注〕
(1) 著者が異なるが、同じ書名で同じ事件を扱った本が邦訳されている。モリソン&ラモント『ベルサイユ・幽霊の謎(An Adventure)』今村光一訳、中央アート出版、1987年。
(2) 過去に起こったことを現実として感覚するこの現象は、超心理学では「後知 retrocognition」と命名されている。
(3) serialism。連続的透視。一情景だけではなく連続的に場面の展開する霊視のことであろう。
(4) こうした説明は、科学的な説明を好む心霊研究者たちには受け入れられそうもないものである。心霊研究とスピリチュアリズムの違いについては『不滅への道』初訳本解説〔本サイト梅原伸太郎文庫「世界心霊宝典解説集」所収〕参照のこと。
(5) アデプト(adept)は、通常「大師」と訳され、厳しい自己否定と自己開発の修行によって、人類を指導しうる状態にまで自己を高めた超人のこと。神智学では、彼らはチべットの山中に住まい、数百年生きることがあるという。マイヤーズの通信を参借すれば、第五界に入って、恒星界で火の試練を受け、地球に戻って来た霊がこれに匹敵すると言えるかもしれない。
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