【第二部 人間個性を超えた世界】

人間個性を超えて 第二部 人間個性を超えた世界
(F・W・H・マイヤーズによる霊界通信)

G・カミンズ筆記/梅原伸太郎訳
(C) 2000 by Shintaro UMEHARA

掲載日:2010年12月14日

【内容】
第二部 人間個性を超えた世界

第九章 存在各界の図
第十章 人間個性を超えて
火星の神秘
金星
蓮華の園(幻想界)
惑星に人は住むのか?
第十一章 太陽人
恒星での生活
太陽人の誕生
恒星上の光
自然霊
ことばと宗教
いわゆる生命力
火の消えた世界
第五界
究極の実在
終局
第二部 人間個性を超えた世界

第九章 存在各界の図[原注1]

次に掲げるのは魂の旅の指標、というよりもむしろ旅程表である。

①物質界(人間個性の始まりと発展)
②冥府ないしは中間界
③幻想界(蓮の華の天国)
④色彩界(形相界)
⑤火焔界(宇宙人格の始まりと発展)
⑥光明界
⑦彼岸または無窮

各界における新しい経験の出発点には、冥府、または中間界と呼ばれる境界があり、そこで魂は過去の経験を顧み、それによって意識の階段を上昇するか下降するかを選び、決断をする。
「類魂」 心霊的意識の集団ないし魂の共同体。類魂の中で霊的同類の者が出会う。それは一にして多である。統括者としての本霊は統一をもたらす。またそれは総合の原理である。
「第一仮装体」(First Disguise)(肉体)
「第二仮装体」(意識の第三、第四レヴェルで帰幽者のもつ体)
「第三仮装体」(星人体〔The stellar body〕、太陽意識の象徴)

[原注]
(1) 第二部の冒頭に置いたこの存在各界層の図は、前著『不滅への道』において示されたものである。通信者とされる霊の要求によってここに付記されることになったのは、『不滅への道』を読んでいない人にとってはどうしても必要なものだからである。――E・B・ギブズ
〔訳注〕 訳者による「魂の旅の旅程表」も参照されたい。

第十章 人間個性を超えて

以下の論述は、魂が死後の世界において第三の意識界を超えて先に進むとき、すなわちサイキック・ユニット〔訳注1〕の孤立から次第に脱して、類魂の中で他の魂たちと一体となり、進化の飛躍をなし、真に人間個性を超えた世界へと旅立つための準備として必要なことである。
「各身体はそれ自身ではない他の何かによって動かされている。その本性上からいって、身体は自己運動をしない。魂からの交信によってのみそれは内から動かされ、魂であるからこそそれは生命をもつ」。この原理は、感覚器官には映じないが、血液や、肉や、血からなる身体を動かしている。精神がなければ身体は動かない。ゆえに精神は身体を超えたものである。
急死の現象を見たことがあれば、あなた方は直感的に私の言ったことを理解できよう。心臓病の人が今まで遊び、笑い、お喋りし、文字通り生を十二分に生きていたかと思うと、突然死んでしまう。二、三分もしないあいだに、持ち前の陽気さも、動きも、生命さえも止まってしまうのだ。地上には無力になった遺骸が自己を表現する能力を失い、考えを言い、手足を動かし、笑い、抗議し、その肉体には生命がありその肉体が本人であると主張する力も失って横たわっているのである。しかし見よ! 本人はもうそこにはいず、旅立ったように見える。つまり人間を成り立たせているもののすべて、あの愛すべき人間個性は飛び立ってしまったのである。しかしそこにはまだ、生命のない身体、崩壊しつつやがて片づけられ、大地に埋められなければならない肉体が残っている。
急死を目撃した人は、そこにある魂の脱けた機械の存在を信じ難く思うであろうし、人間は肉体のみからなるとか、ここに横たわっているのは脆くも壊れた機械にすぎないとかもにわかには信じ難かろう。

*      *      *

私はこれまでに魂とは「表面的気づき(the surface-awareness)」、つまりは、生命の階梯の各段階における総和であると述べてきた。
唯物論者でない人は正しく、人間の実体は肉体と魂と霊からなると信じている。しかし死後に発達を遂げた魂――私のいう魂の巡礼者――はそれ以降も順次第四界、第五界への上昇を目差すものだということはほとんど知らない。後になって、彼を包み込む網目を破って類魂に溶け込んでゆくとき、彼は個体として存在し続けはするが、人間個性を超えて、最終的には第六界へと進化するのである。
魂は第三界でエーテル体の中に居る限りは、多かれ少なかれ、個性をもち続ける。
しかし第四界の形相界に進み純粋形相の世界に自覚的に生きるようになると、彼は次第に目に見えるような形や個性的表現をとらなくなる。この第四界は地上の美の原型ともいうべき純粋美の傑作である。それに比べれば地上の美など問題にならないくらいのもので、ちょうど未熟な素人の描いたモナリザの模写みたいなものであろう。
サイキック・ユニットは類魂の一員で、意識の各レヴェルにおいては個性と一致する。初段階では人間個性と一致し、後には宇宙個性と一致するという訳である。幻想界で生きるあいだは個としての存在は大自我に属していない。彼はまだ物質に顕現する自我の単なる一部分である。大自我は類魂内で結びつき独特の類型をつくっている魂たちの歴史同様、自魂の前生の歴史についても知っている。それは直接に類魂の本霊を呼び出し、人と叡智の泉を結ぶ水路となるのである。
形相界において魂は次第にこの大自我に近づく。そして第四界を離れて第五界にゆくまでには大自我そのものになっている。
人間の意識は睡眠中死者と交流するとき、ある意識から他の意識に移行するのであるが、これは私か類魂と呼んでいる宇宙意識の区域で行なわれる。ひとつの類魂のメンバーは互いに愛憎で感情的に牽きあっている。愛は牽引の宇宙的原理といってよかろう。たとえ相手の人が高級霊界にいようと、また死が一時的に沈黙の壁を築き、ある人々が誤って二度と会えぬとの恐怖の想いに駆られようと、愛は愛する人をあなたの元へ引き寄せるのである。
多くの場合、偉人、予言者、大芸術家などは既に、人間との個別な連絡がある段階のものとしては、完全か完全に近い類魂の中に入っているのである。従ってこの類魂ないし霊魂団を成す大部分の魂は第五界ないし第六界を目差して進み、遂には人間個性を超越するのである。
そこで、この二流の惑星は、その住民にとってこそ途方もなく大きく、すべてを包含するように見えるが、この卓越した人々の感覚をもって見ると、過去の旅の一地点にすぎず、興味も愛憎も持ち得ない場所なのである。彼らは実際この世に復活した人々なのである。彼らは今や、ますます神域つまり高次の霊的生命界に近づきつつある世界に属している。
偉大な人々はしばしば全く無名の生涯をおくる。ほんの一握りの親しい人に知られるだけで世間からはほとんど見過ごされ、彼らの周囲の人が死んでしまうと、その記憶は何処にも残らない。人間の英雄性を例証するとも言える無私で高貴な努力を証言できる者は誰もいない。このような霊感に満ちた魂は工場労働者や店員や農夫の身体に宿るかもしれないのである。格別目立つこともなかったが――広い意味でだが――立派に生きた生涯は、おそらく、類魂に直接啓発された愛と偉大さを最大限に表わすものである。そこで、目に見えぬ世界では最初のものが後になり、後のものが先になるというわけである。
かくして、地上における最後の旅で人知れずひっそりと通り過ぎてゆくのが、私が「魂的な人」と呼ぶうちのある人たちの運命なのである。無名で控え目で意のままにならない生活をおくりながら、彼らはより大きな個性へと飛躍するときのために準備するのである。
永遠の旅路の途中には、魂の巡礼者たちが、休息したり過去の棚卸しをした後で、私か「宇宙の海」と呼ぶ未知の海に未経験な泳ぎ手として飛び込んでゆく時点があるが、そこまで辿る道筋は無限であり多様である。

*      *      *

第五界での大事業は、心霊族(サイキック・トライブ)〔訳注2〕の中での自己の発展であろう。心霊族ということばで私は類魂の延長を指し示したい。そこには、高次の存在レヴェルでわれわれと結び、関わりをもち、融合調和しようとする他の系統の存在者をすべて含むものである。そこでは実際、古い人間の限界はなく、われわれは宇宙的に考え、宇宙的に存在しはじめる。われわれは進化の新しい章を開き、自分たちが広大な宇宙とは異質のものではなく、また、たまたま物質界に生きかつ肉体の内部にも存在するという珍しい経験をもった変わり種なのではないということを学び始める。「一個」であることの恐怖、沈黙の敵意をもっているかに見える宇宙への恐れが、肉体生活や第三界の生活をおくるあいだは潜在意識の中に存在する。しかし第五界では恐怖がなくなり、われわれにとっては兄弟以上の仲間というべき心霊族を意識するようになる。われわれは宇宙を朋友とみなし、われわれを宇宙に親しく見事に結びつげている多くのより糸(the strands)を発見する。われわれは惑星、太陽、月、その他すべての巨大な星間機構に対するわれわれの関係を感じとり、認識する。
これらすべての微妙なより糸とは、永遠の時を遡る記憶――不幸な闘争、痛々しい古傷の痕、変幻極まりなき光輝を放つ歓喜の思い出、輝かしい記憶の中の恍惚――のことである。こうして蓄積された経験はすべて心霊族に所属する。このようにして集められた経験は、このグループにとり霊的な意味で掛け替えのないものである。というのは、それが地上の記憶や形相界の記憶ばかりでなく、様々な恒星内の惑星に転生し、回転する星の中に焔の存在として生きた同族のものたちの献ずる体験の全体を含んでいるからである。魂たちが知識を蓄え、それを神のように見事に分かちあい、自己のうちに宇宙を引き込むことによって、不一致や孤独や恐怖や孤立を取り除くとき、彼らが揃って提供するものの何と多様なことであることか。彼らは宇宙と自己とのあいだにある完全な血縁関係を発見し、しかるのちに最後の冒険に乗りだしてゆく。すなわち、自己の外に広がる宇宙を発見し、神と自己との調和を発見し、創造的な宇宙想像力の神秘に参入するのである。

◆火星の神秘

ある天文学者たちは、自分かちが遂には宇宙空間を征服し、火星の神秘を解くときがあるだろうと信じている。ダイモスとフォボスの二個の衛星を従えたこの惑星は、広大な砂漠と際立った地形をもっており、その結果その住人たちは、人間たち――望遠鏡で火星の地理をどうやら実際に近く描きはしたが――に知られたのとはいささか違った種類の生命を与えられている。ある学者に言わせると、地上の時計で時を計ると、現在の火星には肉体をもった存在はいないということである。しかしながら、数百年前には、そこは知性ある個性的な生命の住処であった。遙か遠い昔には火星人の外観や振動数は人間に近かったのである。そして当時天文学が現在ほど高く発達した状態であったなら、火星人は地球の兄弟たちに挨拶をおくることができたであろう。なぜなら彼らは芸術や生活の優雅さでこそ大分人間に劣っていたが、数字や科学においては現在の人間よりよほど進んでおり、比較にならぬほど優れていたからである。
火星は古来より軍神の星として知られる惑星であるが、そこの住民たちは出生過多に伴う諸悪を克服して、好戦気質を抑え込むことに成功した。火星の人口は少なく、深刻な食糧危機があったために産児の数を厳重に制限し、量よりは質を求め、宇宙に望ましい人間の模範を示した。戦争よりも自然の災害による死亡の方が、火星人類の生活を脅かす影であった。生活手段を見つけるための闘争が間断なく続いていた。厳しい自然に対する恐怖が余りにも強かったために、人々は破壊的な戦争を考える余裕などなく、それよりもむしろこの問題にかかりきりであった。
以上、私は火星にかつて姿を現わした知的な生命の過去について述べた。というのも私は自然の計画図を眺めることを許され、永遠の現在の各部分、つまり潜在的未未や過去の部分を垣間見せられたからである。しかしながら、現時点で地上区域圏と呼んでもよい星、つまりこの火星に匹敵し、私がこれまで述べた状態をそっくり真似たような遊星〔地球のこと〕が現在宇宙空間を回っているのである。
話を先に進めるために、「生命」とか「再生」とかいうことばの意味を検討し、かつその意味を拡張する必要があろう。これらの語は、人間には「肉体」として知られる身体をもった知的で個的な存在を意味すると仮定しよう。しかしそのことは人間の五感が他の星の生命個体の外観や性状を識知できるということにはならないのである。説明の便として火星人の歴史を例にとり、それが現在どうなっているかを述べるとしよう。夜間彼らは零下何度という温度に耐えねばならぬ。氷結は信じ難い厳しさで大地を覆い、鋼鉄よりも強く大地を締めつける。昼の日照時は疑いもなく暖かいのだが、夜との温度差がひどいのである。第二に空気の密度が地球の高い山の頂ほどしかない。従って当然、火星人の身体の造りは地球の人間とは違っており、また、地球人もこの星に住むことはできない。
そこで身体の組み立てがもっと緻密にできている。すなわち、火星人の体の振動は地球上のいかなる生物よりも強く精妙なのである。仮に火星上の目に見えるどんな小さな生物でも観測できるという望遠鏡が発明されたとしても、天文学者は、自分に似た生物を見つけることはできないであろう。彼は自分の見た世界には知的な生命は全くいなかったと信ずるであろう。しかし彼のこの確信は誤っている。彼の視力や、望遠鏡の倍率がいかに優れていても、地球上に住む人間と同じものは見つけることはできない。しかし、もしある科学者が電波の原理をもっと工夫した機械を思いついて発明できたとしたら、彼は地球から離れたこの星の上に、神秘的で知的な個体が存在することを示す信号を捕らえることができよう。

◆金星

ローマ人にとっては庭園の女神であるヴィーナス、またギリシャ人にとっては愛の神であるアフロディーテは、古代の詩人の想像力を掻き立てたものであった。彼らは金星を明けの明星、宵の明星と名づけた。彼らは彼女を詩に書き表わしたが、それはただ空想や韻律や、物語の世界でイメージを創り上げただけで、想像力以外では、いかなる手段においても彼女の姿を現実に見出すことはできなかった。
三十五年ほど以前に私か死後の世界に足を踏み入れて以来、私はときたま惑星のことを調べていた。私はまだ第五界に進んでいないので、私の心霊族の記憶庫に積まれた星の生活の記憶の中に意識的に入っていくことはできない。しかし私は私よりももっと先に進んだ仲間の者から、かつて金星に転生したことがあるとか、これから転生するとかいう話、そしてその生活は大分人間生活とは違っていることを教えられた。金星の人々は水の子供とか霧の子供とか呼ばれて然るべきであろう。その身体の構造は人間と似通っているが、振動の強さが違い、質的にも惑星中で最も密度の濃い星〔地球のこと〕に生きている住人(野蛮人であると文明人であるとに関わらず)とは違った存在系統に属するのである。冒険的な人たちは、金星には果たして人が住むかどうかを知る目的で、もっと精妙な機械を使って空間を飛び、金星を探査しようとするかもしれない。しかしその企ては無駄におわるであろう。なぜなら彼らの機械は未来永劫、この見知らぬ世界を歩きまわっている軽妙で触知し難い個体の外郭を感知することができないからである。
この二十世紀には、地球以外には太陽系のどの惑星や小惑星にも人間――唯物論者が理解している意味での――は存在しない。だから人類はこの太陽系で生き、動き、呼吸しているのは自分だけだといって、ちっぽけな地球を胸を張って闊歩してもよいのである。しかし太陽系には神々しい身体に知性と生命を宿したものがいないというのなら大きな間違いなのである。
人間は自己の計測器に反応するか、直接に五感にぶつかってくる物質しか知らないのである。無知で歴史の浅い人間にどうして人間に知られている原理と同じ原理に支配されている他系統の物質――太陽系のうちでは一番濃密な身体を纏っているので見ることはできないが――がないなどと言えるのであろうか?
人間が孤独で、他に仲間の人類がいない、つまり、晴れた夜の暗く恐ろしい闇の底に輝いて見えるあの驚異の星々には、目に見、耳に聞くことのできる知的な生物はいないと考えるのは淋しいという人もいよう。しかし、われわれの小宇宙の中にさえ少なくとも一億個の恒星系があって、それがまばらに大空に散らばっていることや、地球に似た惑星があってそこにはわれわれと性質の似た人間が振動しているということを知れば、安堵することであろう。人間の五感でも彼らの外観を感知できるし、地球上の肥沃な地域同様の豊穣な植物の繁茂を見ることができるのである。
神をもたず、人類の究極的な絶滅しか頭にない人間の傲慢な叫び声が想念の翼に乗ってわれわれのところまでやってくる。「あまたある天の星の中にも人間ほど鋭敏で賢い生物はいない」という考えは、その人間の想像力の限界を自ら宣言し、自分自身を、推理の暗く幻想的な霊のうちに閉じ込めるようなものである。しかしわれわれは永遠に宇宙を外側から眺めているわけではないのだ。われわれは、肉体を持つ持たぬに関わりなく、人間の永遠の謎として働く偉大な力を、いつまでも外から見ているのでは収まらないであろう。
愛と力と叡智のこの三つは〈神聖ハイアラキー〉〔訳注3〕から放射される推進力であり、宇宙霊流であり、それらは神の使いとして地球星を導いている。
このハイアラキーは多くの類魂団からなり、意識の第五界から生命を支配し組織し計画の細部に至るまで責任をもつ。原子や電子のひとつひとつに至るまで偉大なこの原動力の仕組みのうちに位置を占めているのである。秩序、方法、調和などがこの物質界の構造を支配している。というのもすべてのものの背後には、それが存在し、人間の目には快かろうと悪かろうと、本霊の導きは各界で組織され、うまずたゆまずに働いているのである。そして人間は選択力をもっているが(類魂的個性の限界内では自分が自分の運命の主人である)大地や海やまたその運動の強力な枠組みは、火焔界まで行った類魂たちによってすべて支配され、極微の点まで計算し尽くされている。しかしそれでもまだその知識はわれわれの宇宙の外にある宇宙の広大深奥な知識にまでは達しない。われわれがこの宇宙的想像智の輝かしい顕現の中に踏み入ってゆくためには光明界の想像生活に参加した経験が必要なのである。
神の指導の下に地球をコントロールする魂の指導者群が大数学者であると言ったのは、やや性急に過ぎたかもしれない。彼らはむしろ芸術家であるといった方がよいかもしれない。その仕事は均衡と調和に満ちているが、人間の数学者に要求されるような厳密な正確さを表現してはいない。既に述べたようにこの計画は最後まで計算されている。しかしそれが表現されるときには多様性を含んでいるのである。例えば電子であるが、それは正確な機械とも一致する仕方で活動しながら独立性をもっている。なんとなれば、不可視の宇宙を想像し維持するのは数学者というよりも芸術家の想像力であり、被造物そのものが次第に創造的になってゆくからである。ここに生命と運命の秘密の一つがあるのである。

◆蓮華の園(幻想界)

永遠を通しての魂の旅路のあいだに、われわれは三つの仮装体をとる。その間われわれは肉体であったり、帰幽体であったり、火焔体であったりのときを過ごすが、そのいずれの場合においても、その界のものかそれ以上のもの以外には認知できない形態ないし身体をもつのである。これらの基本構造はさらに細かく区分される。それらとは別の光明体がある。しかしこの「光明体」は仮装体と名づけることはできない。というのはそれが人間の理解を超えた個別的宇宙的想像力や完全なる真理、完璧な美を表わしているからである。
しかしながら、私は最後の神秘については今は書かずに、もっと下位の段階について述べることとしよう。魂の住まう宮〔肉体のこと〕の性質はこれらの下位の三段階においては根本的な差異がある。原則として肉体をもつ人間は想念によっても長い瞑想によっても身体を変えることはできない。もちろん例外はある。東洋の聖者たちや稀には西洋人のある者が年ふりて、秘密の知識を獲得し、大自我霊〔訳注4〕を呼び出したり、大根元霊(ルート・スピリット)を招霊してその力で形を変える秘密の知識を獲得した場合は別である。どの時代のどこの国といわず、純朴な人が信仰の極致において想像的叡智の神聖な御使いを招霊する場合も別である。こうした際には人は奇跡的に病気を治したり足萎えを立たせたりめしい者の目を開けたりもする。私が人は思念によってはその身体の形を変えることはできないというときは、こうした霊能をもたない普通の人の場合をいっているのである。もっとも帰幽者にとって、精神とその力は人間の夢想だにしえないほどの意味をもっているのだが。東洋で「蓮華の園」と美しくいわれる「幻想界」においてさえ精神的努力によってある程度はエーテル体を変えることができる。実際、肉体は固定した恒星に、帰幽者の霊は変化する惑星になぞらえることができよう。形相世界を旅する知恵ある魂は純粋な想像過程によって創造することを学んだ多くの変化体を大いに楽しむ。そんなときある魂の創った身体は、画筆をもたせると滅法下手な画学生みたいに、自分の目にはハンサムだが、もっと高尚な趣味をもった霊的価値や苦行の価値の分かる人から見ると、醜く、下品で、粗雑に見えることがある。
しかし幻想界の高いところに至って初めて巡礼は精神のあらゆる可能性を発見し、あるやり方によって思念し、自分の性格特性をかえることによって、色彩、容貌、外形などを全くその見かけが変わってしまうほど変化させる法を修得する。
蓮華の園の低級ゾーンでは自分の過去の記憶の殼の中に留まる。一つの点すなわち自己の外観を除いては自分に満足しきってしまい、大自我を呼び出して意のままに自己の外郭を変えることさえできる精神力を賦与されているのに、それを用いて性格を変えようとはしないのである。そしていわば時計を逆転させて、地上生活の成熟期にさしかかった、二十代半ばの盛りの頃を思い描き、若い姿をとろうとする。
今や、未熟な想像力がはっきりと彼の性格特性を強調したお陰で、彼は地上において過ごした若者としての像とさして変わらない姿となっている。彼は地上経験によってもたらされた記憶に完全に支配されており、自分の個性が造った鋳型から逃れることができない。その結果、彼は自己の計画に独創性や、豊かさや、多様性を与える美を思念するに必要な心の創造的努力を発揮することができない。それゆえ彼は依然として彼の過ごした特殊な地上生活の産物であり続ける。
疲れ切った旅人が共通にもつ望みは、満ち足りた平穏の時である。たとえ一刻であってもなんの努力もいらない想像だけの生活を、もし許されるならば親友や親戚の者と一緒におくりたいということである。それゆえ彼らは、いにしえの神学者たちが考えたごとき「祝福された者の住処《すみか》」に見られる条件の下で生活する。しかしこの天国は喜びはあっても進歩をもたらさない。彼らは第三界に到達したとき、旅は終わり有徳者の到達すべきゴールヘ着いたと思う。東洋の宗派の僧侶はこのゴールとそれに伴う状態を「蓮の華の天国」と巧みに表現している。エジプト人の水百合に当たるこの花の名は静かな努力のない充足の、物憂い夢の一場面を想わせる。そこに在る物は姿を変ぜず、ただ生命の蓮の華がさざ波に打たれ、美しく水面に安らっている場面である。その情景は浅はかな思想家には永遠の進歩を表わしているように見えよう。
だがこの考えは間違っている。魂は物質界への受肉を果たしはしたが、同様な性質の経験をもう一度しなげればならないかもしれず、またそれとも遂にこの幻想界の生活に満足できなくなって、形相界のような高尚な生活に憧れるかもしれないのである。
「蓮の華の天国」という語は、努力いらずで無制限に続く悦楽状態や、意欲をもって将来を考えることもなく、欲望だけが単調に満たされる生活を表わしているが、こうした短いことばで「永遠」の問題が片付けられてしまうわけではないのはご承知のことと思う。地上生活からこちらへ移ってくると、われわれのもつ個性には限界がありすぎて、暫くすると破棄せねばならなくなる。そのときには霊的進歩に対する欲求が目覚めて、良いも悪いもなくただ一層先へ進むことを渇望する。しかし人間個性の限界内に留まる限り、努力なし、紛争なしで、苦悩も感情的ストレスもなしで真の進歩が達せられるわけのものではないのである。
しかし肉体と帰幽体という二つの仮装体の相違は、魂を取り巻く物や外観といった外的条件に及ぼす想念の影響の違いであるといえよう。第三の仮装体である火焔体は、旅する魂が第五界の下層に達したときに通常とる身体である。

◆惑星に人は住むのか?

天王星は地球の六十四倍の大きさがあると天文学者は言っている。水星は大気のない死んだ冷たい星だと考えられている。日光が星の光もまばらな闇を貫いて絶え間なく照りつけるので、この天体に夜の恵みは訪れない。土星は水よりも軽く、全惑星のうちで一番密度が少ない。天文学者は海王星の周りに未知のガス状の雲が取り巻いているのに気づいており、また、見たところ一番違い所にある惑星の向こうにもう一つの惑星があるのではないかと感じているが、これは正しい直観である〔訳注5〕。それから八個の衛星をもった木星は彼らの想像力を驚かせる。この天体は質量と体積が太陽系の他の惑星の質量と体積の総計を越えるからである。
われわれは既に金星と火星については論じたしその神秘の周辺にも触れた。が、木星の存在を前にしては、ジュピターの雷鳴を聞き夏の空を走る稲妻を見た古代人のような恐れを感ずる。
無用の感覚に付きまとわれながらなお、この世に無駄なものはなく、宇宙のいかなる断片にも目的があるのだと思いたい有限な人間精神にとっては、木星はその巨大さのゆえに問題を提供する。それと比較すれば他の小さな惑星はどんな衛星群を従えていようと問題にならないぐらいである。
「何処より、何処へ、そして何故」という三つの問題は、天文学者がたゆまず観察と計算を続けながらも絶えず付きまとわれる問題である。こうした問いの背後には、いつも彼の個人的な疑問が潜んでいるのである。これらの天体はいったい人間的見地からして無人の死せる世界なのだろうか? 個的な精神は宿らず、物質化した生命も働きかけない単なる粒子の集合体なのか?
宇宙史のある時期には、太陽系の諸惑星には、肉体をもった人間が棲み、進化を遂げるのだということを私はある確信のもとに答えることができる。
その知性の性格や、それを表現しようとする方法がどうであるかをはっきりということは難しい。だが、この型の知的生命体は第一の仮装体と関連をもち、地上に生きる期間は自己を強く束縛し制約するもののあることを知っているということだけは心に留めておいてもよい。英雄的行為、長い労苦、やっと得た喜び、官能的快楽、人間存在と不離の善悪等々は、いつか火星、金星、水星、天王星、海王星、土星、木星、それに天文学者の望遠鏡の彼方にある未知の遊星などにそれらの知性体が出現し進化の道を辿るときには、彼らのもつ肉体にやはり付いてまわるものである。
合理的な人ならこの広大な世界全体にわたって果てしもなく広がる不毛の荒野を嘆く必要はない。いずれも昔、魂ある存在の住処《すみか》であったか、あるいはいずれそうなる場所なのである。彼らはそこに生存する短いあいだは想像力の中枢に支配され、想像的性格をもち、意識の他の段階に入ってゆくときは第二の仮装体つまり帰幽者の身体をとるのである。
さて永遠の旅路のある時点で、魂は地球以外の天体に転生することがある。そして冥府で魂たちは皆、過去か未来のある時に彼らが類魂を通して宇宙を運行する一、二の星の住民たちと交渉があった、ないしはこれからあるということに気づく。むろん私はこれが絶対法則ではないと再度強調しておきたい。人間に属する大部分の魂は地球以外の惑星に転生したことはない。しかしそうした魂は、自分の心霊族のメンバーが第一の仮装体をまとって他の天体で過ごすあいだに集めた知識と叡智を類魂の記憶の中に見出すのである。
二つ以上の星での生活を経験しないうちは形相界へ上っていかない魂(ないしサイキック・ユニット)がいることは事実である。また純粋形相の世界と関わる創造的喜びを充分に知った魂は、もう一度惑星地上圏の生活をしなければならないと恐れる必要はない、というのも確かである。しかし魂が好奇心や、肉体をまとって地上へ帰りたいという半ば自覚的な憧れに衝き動かされたときには、それが許されることがある。しかし原則としては、霊性と視野拡大の自覚が魂を高次の世界へと導いてゆく。その意識のレヴェルでは、知覚、直観、想像力等がそれらのうちに星間空間の知識や第三仮装体についての知識、すなわちその仮装体の輝く外衣のこと、その外衣の炎は日が沈むと天を明るくするほど燃えることなどの知識を集めて力強くゆっくりと、そして確実に進んでゆくのである。
それゆえ、形相の世界から上の生活ないし状態を、そこからはもう旅人が制約ある人間個性をとりに帰ってはこない領域とみなしてもらいたい。この意識レヴェルは、不滅への入口であり宇宙個性の出発点だと考えてもらいたい。この高次な努力の精神を分かちあう者は誰でも、この境界線を越えた「無限」の縁《ふち》のところに休息し、後ろを振り返って第一仮装体の粗野な限界や、第二、第三の仮装体のもつ完成度を見る。その完成された形態はギリシャの彫刻家たちが夢に見、偉大な詩人や魔術師や画家や預言者たちが霊感を吹き込まれた「美」を具現している。
ここにたたずむ魂は孤独と、寂寥と、尻ごみを感ずるであろうが、しかし彼は「無限」に直面しなければならない。本霊がそれを強《し》い、類魂が彼を引っ張る。これから先の王国のどこかには宇宙の秘密を解く鍵と存在の神秘の解決が彼を待ち構えていることに気づくと、彼はもはやためらわずに進む。そこで彼は無数の星、遠い星雲、広大な空間についての「何処から、何処へ、何故?」に対する答えも見つけるであろう。こうした謎を前にするとき、人間の想像力はめまいを覚え、魂は恐怖心で後ずさりする。
彼は今や、自分は内側から宇宙を観るであろう、知識の門は広く開けられ、知覚と霊視には限界がないであろうという想いに恍惚として先に歩む。しかしそうなっても彼はまだ、賢者と共に自己と環境の支配権を握り、宇宙個性の王冠を戴くまでには、どれほどの闘争と努力が必要であり、また、どれほどの苦痛を忍ばなければならないかに気づいていないかもしれないのである。

〔訳注〕
(1) psychic unit。類魂の中における魂の一単位体。男女一対で一体になることがある。他では「心霊単子」と訳した。『不滅への道』参照。
(2) psychic tribe)。第四界における類魂の概念がさらに広がり、「心霊族」の概念は他星界にまで及ぶ。
(3) Divine Hierarchy。神智学に同じような概念がある。チベットの山中や、地底王国シャンバラにいて地球全体の経綸にあたっていると言われている。
(4) the lager self。類魂中の第五界級の神霊であろう。
(5) 冥王星のことであろう。冥王星はアメリカの天文学者C・W・トンボーによって一九三〇年に発見された。この霊信のあったのは、冥王星発見以前の推測期のことであろう。

第十一章 太陽人〔訳注1〕

私は第四界の形相界、すなわち「理想化された形態」の世界まで旅をしてきた。だが第五界までは主観的状態で行ったことがあるだけである。そこで私の知識は、人間個性が徐々に捨て去られていくこの世界の条件に限局されざるをえない。
巡礼が再びハデスの経験をけみした後、彼は類魂内に惑星経験によって集められた記憶の生活に導かれる。彼はまたそこで自分の人間個性としてのあらゆる段階を自覚し、彼と一緒に歩む他の魂についても同様に知る。彼は自己の類魂の直観、性向、基本的性格などを精妙な感覚で取り入れた。しかし彼はなお、私が「心霊族」と呼んでいる類魂を延長した霊魂集団に通暁しなければならない。その第一歩は恒星での個的経験をすることである。そこで彼は第三の仮装体をとり、太陽意識のシンボルである焔の体を身につける。かくして銀河系内における恒星に転生することを選ぶのである。

◆恒星での生活

恒星の原子は地上のそれとは違い、目にも留まらぬ速さで消滅する。しかし魂が第五界で第三の仮装体をとるときは、地上と異なった時間やリズムに生き、一種の流動状態で存在するようになるのだ。
彼が住処《すみか》として選んだ星の原子構造は地上の物理学者を驚かすような奇態な性質をもっている。その原子は二種に分けられる。一つは「放射原子」と私が名づけるもので、第二のものとは見かけ上の寿命が違っている。それが速やかに消滅するのに対し、地上の原子は年月の侵食とともにゆっくりと変化する。しかしながら物理学者は星の中心に、水に似たものを発見するであろう。この中心の安定層――というのは、外郭の放射部分と比べると、流動的ながら安定していると見えるから――は私が「放射」といったものより重い原子でできている。しかしこれを詳しく論ずるのは私の任ではない。もしこの状態を人間の目が捉えることができるなら、この星の核の部分は煮えたぎる広大な海、それも想像を絶したほどに荒れ狂う海と見えるであろう。
しかしわれわれは今、旅人の個人的生活を問題にしているのである。彼は火焔の身体をとる。それはむろん人間の身体に似てはいない。形相界で彼は、自分の外観を自在に変化させる仕方を学んだ。それは人の心に想像しうる限りの形態の理想化であり身体美の極致だ。そこで今や彼は恒星生活において想像力や知的能力を人間の想像を越える程度まで発達させた。信じ難い速さで彼の外観は変化し、意匠から意匠への驚異の変身は絶えずリズミカルに流れてゆく。迅速な閃光の中で彼は振動し、途方もなく輝く世界のうちで打ち震えながら身体を変化させる。太陽嵐に感覚を極限まで吹きさらされ、ますます敏感になった彼は恒星生活の最上界に到達したといえよう。
魂は恒星に住むあいだは、このように変容した姿をとる。そして知識も経験もこの恒星生活に限定される。むろん、恒星への転生中は、本自我の方は恒星意識以外のところになければならず、彼の過去の経験の詳細は、この火の領域における活発な生活の期間は本人に知らされていない。
通常の人間が火に対してもつ恐れはこの際心から消し去って、その代わりにもっと崇高精妙なもののイメージをもってもらいたい。火をあなた方の意識よりもっと洗練され敏感に調整された意識の外的表出であると考えてもらいたいのだ。暫く銀河を埋める無数の星に想いをはせ、然る後に銀河系の外にある数知れぬ赤や白や青の星について考え、これらの星が知的存在の顕現する中心区域だと考えるのは空想的かどうかを自問自答してもらいたいのである。
人間からみれば、これらの恒星の数は無限で、その広がりも広大なものがある。実際、高次の発達段階に達したすべての知性は幾百万とない光球のひとつの上で転生の経験を積む。その恒星は整然と空間を進行し、その運動は規則的で、その位置は最後の一インチまで計算され尽くしている。
神の想像力は物質宇宙を創造し、惑星同様恒星にも、いやそれのみならず、ケフェイド変光星〔訳注2〕や爆発星や銀河系星雲の星屑のひとつにさえ無数の生命を創り出し存在せしめたのである。惑星上に住む人間や人間類似の魂にとって、個的な精神が、肉体を構成するのとは違った物質に顕現することなど信じ難いことであろう。しかし実際には惑星上より遥かに多くの魂が恒星に住んでいるのである。そしてもし誰かが第六界から宇宙を眺めることができたなら、いわゆる人間型の生命は比較的稀で、宇宙時空の領域内では太陽型の生命の方が一般的なのに気づくことであろう。しかし恒星上での時空の概念は地球上のそれと大変違っていることを考慮しなければならない。有限の心では恒星上の生命の振動のスピード、移動の驚異的速度や形態の変化の意味を理解したり、またほんの少しでも評価することはできないであろう。その形態変化はとても速いので人間の目には見えず、例えば天狼星(シリウス)の住民の場合などは身体とはいえないほどに軽いのである。
この天の燈火〔シリウスのこと〕は太陽の何倍という激しさで燃えている。そこでは魂が想像を絶した速さで思考し、人間にとっては一見、永遠といってもよいような環境で生きることができる。太陽人が一つの形から他の形へ変化する様は――もし見ることができれば――稲妻のように素早い。人間が地球に住むのと同様に自ら光を放つ光球に住む魂の巡礼は、その環境や自分自身や外観を永続的なものと感じている。主観的にも客観的にも彼は視覚と感情を極端に発達させている。彼は、緩慢濃密な原子構造に制限される限り理解できない実在の高みと深みに接触しているのである。
例えばシリウスその他の恒星に住む生物の性質について明らかにしてみよう。原子を分類してみると、太陽人の概念をもっと容易に考え、受け入れることができる。

① 地球原子 the terrestrial atom
② 放射太陽原子 the radiant solar atom =太陽の熱と光の根源。太陽人の身体はこの物質からできている。
③ 重太陽原子 the heavy solar atom=液状態。太陽や恒星の中心部を構成する。

有人星の歴史は知的個体に関していえば、かなりの程度地球と一致点をもつ。太陽人はゆっくりと進化発展を遂げる。彼らは必ずしも同じ進化レヴェルにはいない。彼らが恒星上で進化しうる可能性はかなりのものである。永い太陽歴史のうえで、次第に発達し表現を求め、最後にはその火焔体の構造が複雑化し、高度に鋭敏なものとなる。再生に関する宇宙原理はここでも地球と同様のものが適用される。
創造の初めに、星雲が星を生んで放出し、回転させながら送り出したというのは本当である。遥か宇宙の初めのとき――銀河系のことを言っているのだが――ありとあらゆる原子が星を構成していた。放射原子は力一杯暴れ回っており、狂い踊っては爆発し放射線となって飛び散った。放射原子の群れが燃える火の母集団から別れて飛び散るときの轟音と光の嵐は、凄まじくも恐ろしいものであった。知的な生命は創造の初期、永いこと星の上には存在しなかった。これらの短命の原子では個的な精神も、非個性的な精神に支配される生き物も存在することが不可能であった。後になって、最初の燃焼の衝撃が去ってそれが宇宙記憶となり、灼熱のエネルギーが燃焼物質の飛散によって弱められ始めて、星が生命を宿すようになり、安定して宇宙を運行するようになった。それは長命の原子が表面に出てきて、太陽人の顕現の媒体として役立つようになり、心霊族に転生経験の機会を与えたからである。今は何十億もの光輝く生命を宿す銀河の星もいつか生命の住まぬものとなる時が来よう。時がたてば、生命の誕生はやむ。実りの多かった年月は永遠に過ぎ去ったのである。縮まった星は、身体を形成し心にいわば魂の宮を作る煉瓦を与えるのに必要な放射原子を供給できない。
かくして、多くの不毛の星が空間を漂い、僅かの放射物を出し、萎縮したその表面は永遠の霊の断片を宿すための養分を供給しないのである。

◆太陽人の誕生

太陽人ということばから人間の精神作用や外貌を連想してもらっては困る。
一つの星に魂が生まれるのに関しては、火焔界の類魂が関与するといってもよい。この界での愛はすべて宇宙的、共同体的性格をとるのである。性格の相似て互いに通ずるところのある数人の太陽人が青春期特有の愛と創造の衝動を覚える。すると彼らは共に集い、互いの持てるものを分かち合って新しい一つのいのちの炎を生み出すのであるが、それは彼らの一体化した想像力からの突然の見事な創造である。芸術家の経験する努力、闘争、そして永い忍耐がこの世界の誕生には欠かせない条件なのである。それゆえ生命の誕生はいのちの「型造り」と呼ばれてしかるべきである。なんとなれば、身体ではなく想像力が胎児を生み出し、また愛が想像の鋳型の中に参入しようと待ち構える魂を招喚するのであるから。かくして魂は宇宙の現実的懐胎衝動力を加えられその力を増大する。
創造の目的を考える際には、二人の愛人という観念を除去しなければならぬ。それは六人、八人、十人、ときとしては十二人であったりするものである。この一団の中には陰陽両極にあたる二元性が存在するが、想像力の領域での感情的、審美的内容からなることが確実な誕生の仕事は一団の全員で平等に受けもつことになる。しかし身体が新しい個体を支えるのではない。一団の感情的嵐と陶酔のうちには、審美的、創造的性質の中にのみ含まれる愛が発生源となりそこから完璧な星界人が生まれ、太陽的時空において進歩と成長を重ねつつ成熟に至るのである。精妙な光の糸を織りつほどきつまた織りつ、魂は人間の知性には考えも及ばない夢幻的な方法で自らを具現する。
太陽人が猛烈な速度で振動しつつ生きるのは、太陽物質の性質に合わせているからである。天文学者にはガス状としか言いようのない恒星の状態は、人間の想像を越えた速度で振動する生命、知性、および想像的努力を含んでいる。想念の速さと外観の変容がほとんど同時なので、外側と内側、見える部分と見えない部分がいわば歩調を揃えて進むのである。輝く知性、敏感な知覚の背後に重たい肉体を引きずるようなこともなく、魂にとっては遂に紛れもない宇宙人〔訳注3〕として生活(cosmic existence)が可能になったのである。

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ある意味で同一の原則が現界人と帰幽者の外観を支配している。火焔体は物質原子で出来ているので、個体は原則としては想念によって自己の外観を創り直すことができない。知性原理がこの火焔体と関わる仕方は人間知性が肉体と関わるのとほとんど同じである。それゆえ魂は原子構造がもつ性質によって制限を受ける。とはいってもそれは人間のこうむる制限とは大分違ったものである。というのは、既に述べたように、これらの形態は次々に現われては消え、放射線として発散してゆく性質のものだからである。私は意識の流れということをよく言ったものだが、太陽人の生活に関しては形態の流れということを言ってもよいように思う。とは言っても太陽人の活発化した想像力と増大した感知力のために太陽人の時間の観念は全く違ったものとなっている。この高速多様な振動は、人間が地上の環境に認めると同じような一種の固体性と不変性を恒星上の環境に賦与するのである。
人の肉体は七年間の地上生活で完全に変わる。太陽人の体は地上時間にして一秒ほどのあいだにすっかり変わり、原子の一つさえ元のままではない。しかし人間の精神は驚くべき緩慢さで振動している。これは実際のところ物質のリズムに同調しているためであるが、これに対して太陽人の精神は遥かに速い生命活動に同調しているのである。喩えて言えば人間の知性がなめくじの速さだとすれば太陽人の知性はつばめの速さを持つといえる。こういってもまだ、恒星世界の想念とそれにともなう行為の速さを十分に表現したことにはならないほどである。
これらの輝く球体の表面では、物質生活に似ていなくもない奇怪な場面が演ぜられている。あらゆる感情と情念が人間のそれとは違った種類のものなので、人間を確実に吹き飛ばしてしまう足下の爆裂弾のような強度の感情エネルギーを含んでいるのである。
二つの世界はほとんど比較ができない。燃える恒星のどれをとってもその星の日常生活、快楽、努力、休息といったものの細ごまとした事実を正確に伝えうるようなことばは存在しない。たとえば、恒星の生活においては恒星人は夜を知らない。それはあたかもアダムとイブが禁断の本の実を味わう前には善悪を知らなかったのと同じようである。人間の理解するような意味での病気は知られていないが、魂が急激に変化してゆく身体と調和して振動できないとき、無意識状態にも似た弱さと分裂に陥ってしまうことがある。その結果遂にこの病める恒星人が自己の外観を構成する火の原子との関係を全く持たなくなってしまうことがあるのである。
このとき彼は天上生活に上ってゆく。言い換えれば意識が物質の制約から離れて無限の拡大に入っていくのである。この過程はいかなる意味でも人間の死とは似ていないので、「死」ということばを用いるのは適当ではなかろう。知的、霊的な原理がもはや身体を保持し、コントロールすることが出来ないようになったのである。しかし魂はこの移転のときに、無上の歓喜を味わうので、昔ばなしの鎌をもった「死に神」がやってくるのではない。それ故、このような経験を「宇宙人格への拡大」と呼ぶこととしよう。

◆恒星上の光

夜がやってくるというわけではないが、ある時期に光はその性質を変え、太陽人は眠って力の回復を図る。睡眠中もその身体は覚醒時同様に変化し、原子構造は自動的に入れ替わっている。といっても無論、このリズムが破れ、この星の医師が、患者の想像生活ないし宇宙的自由に対する憧憬の念に問題があると認めるような或る状態にあるときは別である。
恒星人間に環境を見させる光はいかなる地上の機械装置もそれを捉えることはできないであろうし、まして人間機械にはなおさらのことである。私はこうした光を、昇華し精妙化した電気か粗雑な放射物の中の希薄微妙な放射物だと考えている。太陽人にとって、この放射物は物質の様相をもっている。しかしながら、この宇宙における太陽光線とでもいうべき放射物は、太陽人には複合光線として知覚される。宇宙空間に満ちわたるこれらの光は余りに微妙な光なので、集まれば美しい光を投げかけるが、視力にそれを感ずることはほとんどない。いかなる既知の気体も電気もこの光とは無縁であることを覚えておいてもらいたい。恒星上の同朋たちには知られたこの光線について研究するためには、科学者が第五界に入って宇宙生活をする必要があるであろう。
この世界の色彩のオクターブは多様で、人間の芸術家なら誰でも狂喜することであろう。音の範囲もずっと拡大されている。音声と色彩は恒星生活に欠かせないものである。両者はよく分からない仕組みで太陽人間の健康で力強い生活には必須の条件を供給しているらしいのである。

◆自然霊〔訳注4〕

これまで私は自然霊や、人間以外の霊については述べなかった。私はいかなる惑星上にも肉体を持って生まれたことのない生物のことを言っているのである。われわれとは違った自然の系列のうえで進化することを望むある存在が火焔界の一つに生まれようとすることがある。それらは太陽人としての形態はとらず、どちらかといえば地球の動物界の存在に近い存在系列に属し、その形はかつて火中に住むといわれた伝説の火龍に似ていないこともない。
恒星の世界では自然霊は他の形態をとることもあり、しばしばその外観に非常な相違が見られる。ときにはそれらは蛇や人類史の開ける以前には存在したかもしれない龍の姿を模倣する。それらは恒星上の仮装体を纏うことによって、熱風と光輝に包まれて空間中を旋転する燃える世界の常連となるのである。
かくして、自然霊の種類は多様であり、地上の動物たちと数の上では比較にならない。それらはこの輝く世界での重要な役割を演じており、それぞれが自分の類魂との連携を保つことによって、その働きのすべてを〈全体者〉に捧げている。

◆ことばと宗教

この世界では想念は音声と色彩で伝達される。文字ではなく色彩が観念伝達の媒体として主要な役割をする。画像が地上の印刷物の代わりをするのである。これらは筆舌につくし難いものなので私はここで詳しくは論じないでおく。これらは地上的な意味での画像を意味しない。それは次々と消えてゆくイメージではあるが、なかなか巧妙な仕方で不変性を保ち、恒星上の幾世代かのあいだ持続することがある。しかしその原子崩壊の速さによって放散してしまうことを防ぐために、保存図書係ないし美術家とでもいった格のものが任命されている。迅速な計算と、類は友を呼ぶ磁力によって同種の色を引き寄せる方法で、これらの図書館員たちはオリジナルに忠実な色彩で画像の正確な再生を図る法を修得している。こうした模写は高遠の時間の中で多少変化するのは事実である。しかし全体としては、歴史、詩歌、記録はそれぞれ著者が刻印した特徴を保ち続ける。この保存係の美術家は古代において神聖な場所の聖なる火を消えないように見守った司祭の忠実な熱心さをもっている必要がある。
恒星生活はその住民にとって外観上の安定性と不変性を維持している。人々は知的にも物質的にも驚くべきスピードで時間の中を旅する。実際、人間の想像世界と同じように彼らの想像の中においても時間の観念が必要である――つまり時間とは意識の変化率のことなのだ。環境の中では牽引の法則によって似たような原子構造が絶えず前のものにとって替わり、それによって物質は変化して非生命的要素は交替しているのだが、太陽人から見れば一生のあいだ同じような外観を示しているものである。むろん、当人自身がこうした環境を変えようとすれば別の話であるが。
ある基本原則においては、太陽人の生活は人間の生活と類似点をもっている。彼らの転生中、魂はそれを取り巻く身体的事象を通して自己表出をするのであって、身体なしに現われることはない。言い換えれば、地上時代におけるのと同様に、恒星時代にも魂はその身体的条件に閉じ込められているのであり、ただ、構造的変化が間断なく恒常的に起こっているという点で肉体とは違っているのである。しかし、この変化は人間の肉体原子の緩慢な変化が人間の目に映らないのと同じく恒星人間にとってもほとんど知覚できないといってよい。
私は恒星人類の社会構造や仕事については何の知識もないので言うことができない。しかし彼らが人間と同じく客観的に、かつ主観的に生きていることは知っている。善悪は対立し、闘争を巻き起こし、あらゆる種類の感情が交錯する。宗教はこの意識レヴェルにあっても主要で不可欠な機能である。恒星人間は神の子の観念を知りかつ受け入れている。がしかし、彼らは宇宙的「悟り」の入口のところに達しているので、人間がもつより遙かに豊かな想像力をもち、彼らの精神の視野も広大である。それゆえ彼らが神を拝むときは、彼らは宇宙に遍満する神の実在により近づいている。彼らにとり、宇宙や想像の観念は信じがたいほどに広がり、神秘の奥の神秘が広がり、深まり、喜びをもたらす。しかしそれでいながらその本質は依然として謎のままに残る。
人間の神に対する崇拝や神についての観念と太陽人のそれとの違い、また人間に啓示された宗教と太陽人の宗教のあいだにどんな違いがあるかと問う人がいるかもしれない。多分基本的な相違点は「宇宙的知識と宇宙的信仰」ということばに要約できるであろう。恒星の住人たちはこの点で最初の難関を打ち破ったのである。彼らは宇宙についての広く拡大した意識をもっている。彼らは地上の人類よりももっと精妙に創られており、創造者の仕事の偉大さを知りかつ感謝している。彼らは秘められた実在に近づいているので、低次な要素の少ない信仰力をもち、叡智の受容能力を増大させているのである。
と同時に、悪すなわち不完全無秩序な思考方法は罪と苦悩を導きだす。しかしこれらは人間の邪悪や苦痛の観念とは正確には一致しない。確かなことは、それらはより高い意識のレヴェルに向かっての進歩への反対を表わすのである。つまり生命に対する犯罪を表わすということである。宇宙間には「永遠の法則」なるものがあり、それが美と真理の追求者を駆りたてて全身全霊をもってより高い境地――もっと進めば神にも至る――に到達させようとするものなのである。
魂の想像力が完全に働かないと、個人は過ちを犯し意識の低い部分に引き戻されがちである。失楽園のあの過ちは全宇宙のあらゆる場面に絶えずあり、今も繰り返されていることなのである。魂には常に選択の力があり、個体が想像力と信仰に欠陥をもっているときは前進の意欲を失い、低次な存在にありがちな制限や分裂に堕してしまうのである。
こうして多くの太陽人が恒星生活の後で下方の世界に堕ちるのである。何となれば彼らは最後の転生において宇宙的罪を犯したので、少しばかりもと来た道を逆戻りして深層自我の内にバランスを取り戻さなくてはならないからである。ある者は地上近くの見張り役となり、ある者は宇宙人格をとって恒星生活に入ろうとしたときに不足していた力を充足させるために形相世界に下る。しかしながら、大部分の人は向上への道を歩むのであり、人間が死と呼ぶ過程を経て、類魂の中に入り、純粋光明の世界たる第六界で授けられるであろう宇宙の内的ヴィジョンヘの備えをする。
この準備期間を一つの文章で書き表わすことはできない。というのは、彼らが意識の第五レヴェルにいるあいだに多くの予測もできない経験をしなければならないからである。しかしこのことはまた後で書くこととして、まず、自発光の星に転生したことのある多くの魂が普通のコースを選んで、他の魂への愛情からか、自分の本性にある弱さを発見したからかの理由によって、他の違ったタイプの星での経験を望むことがあるといっておこう。彼らは過去の恒星生活の栄光に浸る余り、高次の形態での再生を望む。そして魂の深いところから出る望みはいつも聞き届けられる。
通常宇宙に新しい住処《すみか》を見つけるに際して、これらの魂の旅人は元の星へと帰還し、そこに前とは違った条件や環境を見出す。その星界人たちの纏う形態を一種の制約として身に付けるが、その形態は構造的にも異なった時代のものであり、その魂がかつて住んだ前生のときとはかなり違ったものとなっているのである。ある場合には彼は燃える星を避けて火の消えた世界を探索するかもしれない。魂の宇宙遍歴においては夜と昼が雁行して進む形となっており、その昔人間個性によって制約を受けていたかと思うと、今は不滅の内的直観から喜びを受け取るといった具合である。

◆いわゆる生命力

これまでの章で「生命」とか「生存」とかいう語を用いてきたが、これを「活性原理」のようなものと混同しないでいただきたい。生命を動かす力については意見が対立していることは私も承知している。ある者は電気に似た物質エネルギーが専ら働くと主張し、これを「生命」と呼んでいるが、またある者は非物質的な力「エンテレキー」ないし生命原理なるものがあって物理的、科学的過程を支配するという。私はこの論争に加わって地球やそこに生息する無数の生物の関わる「生命力」のことをあげつらうつもりはない。ただ恒星生活中に太陽人に役立つエネルギーは遙かに精妙化され洗練されたもので、人間が科学的知識で分析できるような粗雑なエネルギーとは比較にならないとは言っておきたいのである。さらにまた、私は地球と他の星の住人に関わる生命の創造基盤について一言いっておきたいのである。それはつまり、どの場合でも“想像力の中枢こそが生の起動原理”だということである。地上人の肉体や、太陽人の身体の背後にある魂と霊の協力は次のことばに要約できよう。それは魂や霊が「想像の場と連関して働く想像力の限定的な焦点」であるということである。ここにわれわれは宇宙に満ちわたる生命原理を見る。この原理こそ生命が、たとえ粗雑なものであろうと進歩した知的な個性体であろうと、自分自身を顕現できる直接の力なのである。

◆火の消えた世界

宇宙空間をおびただしい数の暗黒星〔訳注5〕が経巡っている。それはもう何年も前に燃え尽きてしまった太陽の残骸が広大な宇宙空間を運行し続けている姿である。天文学者が見るとすればそれは、分解はしないまでも孤独で荒涼とした旅を続ける死の世界と見えることであろう。これらの星はいかに鋭い視覚にも見えず望遠鏡でも捉えることができない。亡霊のようにあると人間の精神が推測しているだけである。しかしながら、この暗黒星は死せる星とも仮説的幻想とも考えられてはならない。なぜならこれらの存在には幻想とはいえない確実な特性があるからである。簡単に言えば、それらは創造の目的に役立っているのである。人間には知られていない感知力を賦与された多くの知性が夜の星に形ある生命への顕現を求めているのである。
暗黒星に住む人たちは、彼らを取り巻く情況によって発達を遂げた別種の意識をもつのである。この意識こそが彼らを動かし、生涯を全うさせ、そして再び類魂の記憶の中心に帰還できるようにする。皮肉なことに、これらの死せる世界に生命は存在し、脈打ち、動き、動かしている。この世界はその住民にとっては決して終わっても死んでもいず、人間に知られたものとは性質の違った多様な経験の形を彼らに与えている。
神の想像力ないし永遠の霊の概念が基本的原理として永遠の哲学体系のうちに正しい位置を占めるようになれば、物質的、外的宇宙がどんなに広大なものであろうとも、それらがその大きさの感覚でわれわれを圧倒するようなことはないということがやがて理解されるであろう。すべてのことが神の手の内で起こり、すべてが「神」ないし「超越的な宇宙の叡智」という語で表現される創造の聖なる宇宙的歓喜に支配され導かれ管理されている限りにおいてではあるが。これらの語は曖昧模糊としたことばではなく、すべての形姿、形態、エネルギー、そして想像の喜びに応じて絶えず更新し拡大し、変化している宇宙的リズムに潜む広大な想像力のすべての背景にある現実を宣言しているのである。
晴れた夜、空は一面に白い斑状の花に覆われ、その一点一点が露に濡れたような微光を放っている。われわれはこの青白い光の広がりを天の川とか、銀河系と呼んでいる。この銀河は地球を完全に取り巻き、大空を二分して広がっている光の輪の一部なのである。
オリオン座、スバル、髪の毛座、大熊座などのすべてが星の集団を含み、その各々の一群が類魂ないし類魂の一部を象徴している。強力な望遠鏡で空を探せば何億という星が見えるに違いない。しかしわれわれが永遠というものに想いを馳せるならば、宇宙のかなたに宇宙があり、銀河の二倍三倍もの銀河、超大な銀河、信じ難いほどに大きな星雲があることを考えなければならない。この広大な宇宙の展望を前にして人間の心は震え潰《つい》える。そして唯物論者の魂は神なき孤独に狼狽し、天を恐れ、無価値に等しいもの、無常の生命といったものへと心を向けるのももっともである。
天文学者は今日、彼らの数える星は全体の中のほんの一部――もし全体というものがあればであるが――であることを知っている。彼らは太陽の大きさをもつ星のひとつひとつは巨大な有機体の中の一電子にも等しいことに気づくのである。
人間の有限なる理性は、これらの無数の白熱の球体の或るものには焔の体をもった生き物、ある姿をもって個体化した知性がいるという仮定を拒絶するかもしれない。しかし有限の想像力は、これまで不十分にではあるが書き記したことが、誇張した推測でも信じ難い馬鹿ばなしでもないことを直観的に認めるかもしれない。少なくともそれらは、宇宙においては人間が個体的に顕現した唯一の意識存在ではないこと、人間は単なる偶然茫漠とした魂のないエネルギーの玩具でもないという示唆を含んでいる。なぜなら、人は彼に相似た人間存在ばかりではなく、帰幽した不可視の仲間、そして太陽世界の住人を含めた身体をもった多くの魂たちと一団となって旅を続けているからである。霊的に言って彼らは皆家族であり、光球に住むすべてのものたちも同様にして永遠の同じ永い旅をしているのである。
魂ある星との類縁を想像的に知り、本能的に感ずるとき、人は地上には付きものの一時的な悲哀、困惑、些細な誤解や喧嘩や幻滅にもっと容易に対処できるようになる。なぜなら自分の前、彼方、上方にはやがて彼が偉大な意識に目覚めて大空のような広やかで偉大な自由に生きるときの素晴らしいヴィジョンが横たわっているからである。彼は暗闇を出て精妙な恒星意識の世界に生まれ、けちでちっぽけな煩いや有限な地上生活の謎と永遠におさらばする。燃える軌道を待った恒星生活の深みでは、不完全で閉ざされ、孤独で物事につかれたような苦悩の七十年は彼を待っていない。なぜなら、彼が帰幽した仲間や宇宙の調和から切り離されているのは、地上の重荷を背負っているあいだだけである。宇宙は感覚をもった存在によってコントロールされているのである。彼らは神ないしは宇宙意識に本源をもち、神聖な創造の愛によって養われ、力づけられ、また絶えず更新を図る各大本元霊の想像の白い花ともいうべき星々に住まうのである。

◆第五界

白熱の光球への転生とそこでの何度かの生涯は第五界でさらにその先に進むための準備の期間であるといってよかろう。形相世界――第四の意識レヴェル――から先へ移るにあたって、帰幽者たちは完全な形態や外観や幽姿のコントロールが出来るようになっている。しかし彼は第三の(最後の)仮装体をとり、恒星時代の経験を己れのものとし、地上の科学者は間違いなくガス状と観察記述するのであろう身体――すなわち、火の粒子でできた身体――で生きることの意味を知って初めて宇宙個性の中に入っていけるのである。
古代、ことにエジプトにおいては、太陽神の死と再生は性的シンボルが重要な役割を演ずる洗練された儀式で祝われた。こうした原始的儀礼の中には、おぼろ気であったり間違って解釈されたりはしているが、宇宙原理の反映であるものが潜んでいるのが見つかるかもしれない。
ある意味では太陽人の客観的な存在は、第五意識レヴェルの普通の状態であるということはできない。なぜなら、全自我のほんの一部の精髄部分が恒星への転生をするだけであるからである。魂におけるこの時代は太陽神の死と再生についての古代信仰を思わせる。形態の完全操作に伴う喜びを知り、物質の振動率とは違う精妙な質料の聖化を達成して形相界からやってきた旅人にとって、物質次元への再帰入は、たとえそれが火の粒子に捕らえられることであっても、どちらかといえば死にも似た非活性状態への回帰のように感じられる。それは地上に冬の季節が到来し、草木の茂る野や果実や花の満ち溢れる大地を裸にするのを思わせる。この季節、太陽の力は弱まる。輝かしい生命と美しい花々の夏、色づく果実や豊かに穂先を垂れる穀物の取り入れの秋に引き続き、生命力が衰え、歓喜と力強い生命の満ちた栄光の全く欠如した状態がやってくるのである。にもかかわらず冬は創造過程のうちで重要な部分を占めている。魂にとって恒星生活に伴うスローダウンは地上のこの季節を象徴している。実際人間にとって、太陽人の生活は驚異と恍惚と恐怖に満ちているように思えるであろう。しかし太陽物質に受肉する大なる自我の一断片にとっては、それはあたかも大きな湖から流れの遅い小川に流れ込むようなものなのである。
物質界での第二の経験が必要である。しかしここでの生活と太陽神の死と復活に関わる信仰の類似点に話を戻そう。そこにおいてあれほど重要な役割を果たす性のシンボルは自我に内在する想像能力の表出と考えることができよう。同じようにして、燃える恒星に物質化して存在する時期は発生的形成的過程が進行しているのである。冬季、植物の根が繁茂する状態のときは創造活動が間断なく進行している。太陽人の生涯は形成途中であり、宇宙個性の創造期だといえる。第四界から第五界へふいに飛躍するとか、拡大しエーテル化した人間個性から宇宙自我の偉大崇高な概念に突然飛躍がなされるということはない。その前にこの物質界での第二の経験が必要である。それは物質世界の最後の束縛から脱出するための苦闘、自由な魂が自己の霊的家族である心霊族に属する他のすべての魂を仲間として見出す崇高な領域へ上天する最後の復活である。遂に彼は必要不可欠なものとしての形態や、生命の確かさや条件としての感情に別れを告げる。そして宇宙空間に真の住処《すみか》を求めるのである。
客観的な恒星生活での仕事は私が形象の破壊と言ったあの過程に似ている。彼は暫くのあいだキリストが「天国は汝のうちにあり」と言ったあの宇宙的調和の状態に入っている。彼は聖霊を求めてそれを見出し、その澄みきった静謐の中に包まれている。しかし道は依然として旅人の前にある。谷から丘へ、低い峰から高い峰へと。彼は自己の倫理的また苦行的憧れに引きずられて旅を続けなければならないのである。勝利を求めて圧迫と闘争に立ち向かい、その報酬として創造者との調和的関係を勝ち得る。かくして、この段階の彼にとっては経験が多重化し、増殖し、外観上の単一性を失うに至る。そこで次第に「一即多」の意味を知るようになる。つまり人間ならば一時に一つのことしか記録しないところを、一時に無数の想念と感情と情景を知覚し記録する。多数のことを順次にではなくこの宇宙的方法で一挙に、想像的思考の一作用として記録するのだが、これはいったいどんなことなのかをどう説明したらよいのであろうか。魂が現実的にこの存在の拡大体験を持つまでは、この経験の異常に高揚した性質、そこからの広大な地平の展望、次第に見えてくる無限といったことを理解し、内的宇宙の神秘との関連において外的宇宙を理解するとは何を意味するのか、また私か類魂ないし心霊族の記録と名付ける大記憶王国に入るとは何を意味するのか等々について何らかの観念を形成することは無理である。
第五界の全意識に初めて参入しようとするものは、彼の多くの仲間たちの運命であった過去の体験を詳しく調べる必要がある。それらは彼への贈り物である。そしてその贈り物の一部には〈類魂〉によって命を吹き込まれた地上世界の諸経験がある。この類魂とは植物、樹木、花、鳥、昆虫、魚、野獣、人間の男女、また死後の世界で様々な意識レヴェルに生きている帰幽者たち、そして大空の奥、宇宙の核心で自分たちの劇を演じている太陽人たちである。彼はこうしたあらゆる類魂の顕現という顕現、客観的また主観的経歴を歩みつつあるもの、孤独や孤立に陥ったもの、あるいはまた〈一なる至高観念〉との完全な調和にあるものたちのすべてを目撃し経験することを学ばなければならない。
この多重的作業を通じて遂に彼は自己を発見する。彼は霊的存在となり、跡切れることのない意識となる。私はこの語をよくよく注意して用いているつもりだ。それは地上の賢者がある超越的な想像力の飛翔の際にその語に込めようとしたよりももっと深く大きな意味をもつのである。
しかしながら、巡礼が物質世界から全く関係を断つのはまだ先である。彼はいま暫く物質世界に奉仕し、外からそれを見守っていなければならないのである。彼を含め意識の第五レヴェルに到達した類魂のものたちは帰還を指示されるかもしれない。彼と仲間の魂たちは地球やその他の恒星系の惑星と関連した生命過程の部分統治者や支配者に任ぜられることが多い。例えば彼は地球を構成する原子の運動のすべてを支配し、物理法則を維持し、科学者や哲学者がかなり以前から認めてきた調和、つまり運動の壮麗な調和をあらしめている〈神聖霊魂組織〉(Divine Society of Souls)の一員となるのである。
サイキック・ユニットが運動の宇宙法則の維持のためにこのような完全な働きを果たすためには、それ自身が大自我の主人公とならなければならない。そしてさらに彼の類魂内の同じ部門に属する魂との必要な連携をとらなければならない。類魂は彼らを宇宙意識の一顕現として共同して働けるように融合させている。彼らは戦士が自分の戦車を操る手綱を握るように自分の手のうちに時間のリズムを握る。彼らは地上に関する計画についての神の大理想を変更したりそれに付け加えたりすることはできない。しかし彼は大数学者の権能を授けられ、地上世界の物質と運動を特徴づける規則への服従を命ずることはできるのである。
誕生と死、そして幻想界――新規の死者の世界――はすべて次第に彼らの管轄下に入り、統治下のものとなる。彼らにとって実在とは、仕事から仕事へ、喜びの仕事からさらに偉大なさらに厳しい労務に移るに従い、可視的外在的自然へと進展していく主観的生活のことだと言われている。我らが太陽系で、彼らは、オリオン座やスバルや髪の毛座などのようなもっと霊妙な世界に相応しい状態になるまで支配者として留まるのである。私が以前「星の種蒔き場」と呼んだこれらの星座は将来あなた方の属する宇宙人格によって支配されるかもしれない。そこであなた方の限定された個性は想像もできないほど変容し、高次の意識なるが故に有限のいかなる精神にも理解できない想像世界に表現を見出し住まうことになる。

◆究極の実在

ある東洋思想の紹介者たち――例えばブラバッキー夫人のような――は、究極の実在を「物質とその生命である運動」に帰着させた。
第五界まで旅した魂は――進歩を遂げると――究極の実在は人間個性の束縛の内にいるあいだは知ることのできない生活条件に属するということを学ぶようになる。先の東洋的観念は意識の第三界ないし第四界に属する魂が持っている考えなのである。第六界では魂の意識は次第に悟りを深め広める。そして完全な宇宙個性を達成したとき究極の実在は「物質とその生命としての運動」に還元できないことを学ばなければならないのである。この誤った仮定は有限な観念とのみ関わるもので、人間的視野に関係した幻想の一つなのである。
ことばのいかなる意味でも物質と運動に還元できない「世界の内なる世界」を宇宙叡智の顕現として想像せよ。この至高の啓示は人間に知られる物質的リズムの中には見出されない。つまりそれらは、我が太陽系や銀河や星雲や可視宇宙のどことも関係をもたない。私はただそれを内的宇宙と呼びうるだけである。がしかし、このことばは超越世界の性質や特徴を正確には伝えていない。いかなる地上のことばも人間存在と全くかけ離れたこの状態を言い表わすことはできないのである。
この崇高無比な王国に物質的表現やすべてが可視的世界のルールに従う外観的なものを求めても無駄である。が、ここで第六界にすっかり集められた類魂たちは実在を物質や運動以外の状態に見出しうる。彼らは最後の有限な想像作用から脱出して神性なるものの入口に到達したのであり、もし完全に解放されるなら彼岸に渡ることであろう。
こうして実際彼らはいろいろな意味で二元性ということを知る。彼らは内外両宇宙を理解し、創造者と一体になることによって両者を結びつけ一つの全体とする。彼らは創造的霊的生活を通して真理を獲得し究極の実在を知る。
大宇宙(マクロコスモス)と小宇宙(ミクロコスモス)
原子と太陽系
電子と陽子
これらはあらゆる大きさと形を持って現われる
だがいつもおなじ法則がすべてを貫き
単調な規則性をもった同じ原理が
物質世界を掴み縛る
物質と運動
これらの語があらゆる姿で生命を造るというのか?
超越的唯物論者にとって
五感に囚われた想像力にとって

無限への五つの扉があるというが
六番目の扉は? いや、七番目の扉もあるのか?
創造者に憧れる魂はあるのか?
人と神の媒体たる
本霊は存在するのか?
われわれは単なる物質と運動なのか?
燃えきらめく恒星群の旋転する巨大な軍勢だけがあり
これらは燃えつつ暗黒化する光球にすぎないというのか?

はたまた究極の実在は超然として君臨するか
星の行列からも
死と誕生からも
光と闇の
白熱して限りなく回転し続ける世界からも

夜と昼
大宇宙と小宇宙
電子と宇宙
惑星と太陽
いつも二元性の影がさす
この現《うつ》し世は一面の姿ではないのか?
肉体は外なる印で
奇妙な姿をとり、ときたま巧みな姿をとりつつ
内なる印や創造の本性を表わしているのでは?
そしてこの創造の本性こそ独り生き独り知る
究極の実在を

◆終局

宇宙には初めがある。ということはつまり終わりもあるであろう。永遠の霊――すべてのわれわれの中枢ないし霊魂を含む――の光が全く退き、宇宙に生命を吹き込むことをやめ、夜が帳《とばり》を下ろし光を包むとき、終わりが訪れる。かくして宇宙は沈滞し無力になるのをいかんともし難い。なぜなら活性原理たる大意識はもはや宇宙内部のものを導かず、監督せず、生命を注ぎ込むこともなく、またすべての作業に運動を与えないからである。
最後の審判というのは宇宙から「永遠の霊」を引き上げることだとつづめて言うことができよう。「天と地は滅びるであろう。しかし私のことばは滅びることがない」〔マタイ24:25〕このようにキリストは言ったが、この真理は未だ優れた思想家にも秘められたままである。ことばすなわちロゴスは永遠に続くが、天地は過ぎさる。しかしすべてが神の胎内にあるとはいえ、かくかくの偉大な世界が未来に生まれるなどと誰が言いえようか。偉大な諸宇宙が今進化し成長しつつあり、そこでの条件と法則は何であり、またそこでの恐怖と美と栄光は何であるかなど誰が言えるであろうか。われわれはただ、全き確信をもって古代預言者の次のことばに声を合わせ、信頼するほかはない。かくして心の平安を獲得するのみである。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ」〔詩篇46:10〕

〔訳注〕
(1) solar man。太陽といっても実際は恒星クラスの星を意味する。マイヤーズ霊によると、地球の諸地域を分掌する神霊は太陽界での試練を経てきた第五界級の神霊であるとされているが、エジプトやわが国古米の太陽信仰と考え合わせてみると興味深い。
(2) 変光星は定期的に光を変える恒星で、ケフェイド型はその一種。ケフェウス座のδ星が最初に発見された。(この注は新しく追加されたものである)
(3) いわゆる「宇宙人」とは違うかもしれないが。
(4) non-human spirit。nature spirit ともいう。ここでの自然霊はいわゆる龍神のことを言っていると思われる。西洋では一般に龍神のことを言わないにもかかわらず、マイヤーズの通信がこれを認めているのは面白い。仏教でも龍は天界の生物とされている。龍神は第五界の生物であるから、一般人間より上位にあるといえるが、第五界以上に上った人霊から見れば下位になる。なお、自然霊は龍神のみではなく、肉体を待ったことのない霊全体をいう。動物の形態をとることが多い。地球上でも「肉体」を持つ生物だけが存在するのではないことに注意されたい。
(5) 恒星滅亡後の「暗黒星」に関しては、1915年、ドイツの天文学者シュヴァルツシルトがアインシュタインの一般相対性理論の解をもとにブラックホールの存在を示唆した。また、ウィキペディアによると、「1930年代末、ロバート・オッペンハイマーは、当時の物理学界を賑わせていた中性子星存在の議論の中で、恒星が崩壊してできる中性子星の質量には上限があり、超新星爆発の後に形成される中性子の核の質量がその上限よりも重い場合、中性子星の段階にとどまることなくさらに崩壊するであろう、と、重力崩壊現象を予言した」。しかし、ブラックホールの存在が一般に論議されるようになったのは1960年代のことである。またブラックホールという名称は、アメリカの物理学者ホイーラーが1967年に命名したもので、それ以前は「コラプサー」(崩壊した星)などと呼ばれていた。(この注は新しく追加されたものである)

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