【第一部 死直後の世界】

人間個性を超えて 第一部 死直後の生活
(F・W・H・マイヤーズによる霊界通信)

G・カミンズ筆記/梅原伸太郎訳
(C) 2000 by Shintaro UMEHARA

掲載日:2010年12月14日

【内容】
第一部 死直後の生活

第一章 ケチで、ちっぽけな時代
第二章 意識の発展史
第三章 死後間もない時期の生活
超エーテル世界または霊的世界
第三界における光
第三界における時間
四次元界
愛と結婚
暴君の運命
死後の世界の構造
家族の類魂
夢の子
人間個性と死後存続
生体と連動する複体
病気と複体
自殺
第四章 再生
第五章 同魂同士
第六章 二つの性
第七章 休戦記念日
第八章 一九三四年十一月十一日
第一部 死直後の生活

第一章 ケチで、ちっぽけな時代

精神と肉体の健康というギリシャの理想、美と力に対するギリシャ人の崇拝が今やもう一度考慮されるべきだ。私は今山頂から地球を俯瞰している。その私に未来に何ら真剣な考慮を払おうとしない多くの人々の群れが見える。ヴィクトリア朝の風潮と比べれば状況は完璧だなどという人がいるかもしれない。夜の暗さにも程度があるというのは本当である。世界は夜明けに近づいており、東の空にはほの白い明かりがさしている。多分それは素晴らしい朝日の上る前兆であろう。バラ色の雲がたなびき、偉大な黄金の球体が現われる。そしてその生命源たる光線は人の目を眩惑し歓喜に耽らせるのであろう。しかし或いはもしかすると、その幽鬼のような青白さは霧に包まれ閉ざされた囚われの太陽の汚れた下降の姿なのかもしれない。いや、もっと恐ろしい嵐の一日の予兆なのかもしれぬ。西から東へ空を横切る灰色の雲のひとはけと共に、唸る風は丘陵や渓谷や大地の途方もなく広大な面積を引き裂くのであるかもしれぬ。
人間には来るべき未来の秘密をくまなく知ることは許されていない。しかし死後の世界で光輝く身体に住み、高速で振動し、第一の天上界たる形相の世界で燃える歓喜の生活を送っているわれわれ魂たちには、人間の思想の傾向がかすかに見えるので、未来の努力の方向も予言することができる。
未来が想像されるのは子供たちの思考と空想の中においてなのである。それは炉の中に投げ込まれ時代の鋳型に固められる前に創造され、それが歴史の不壊《ふえ》の彫刻に仕上がってゆく。そしてさらに「現在」と呼ばれる時代が過ぎ去ると、永遠という神の時間のうちに記録されるのである。
私は今も幼年時代にあり、明日の未来を刻みつつある男女にお願いする。どうかギリシャの昔の夢を胸に描きなさいと。その理想である精神と肉体の健康を思い出し、美と力への献身を想起しなさいと。
決してアラ探しやブチ壊しの気持ちからではなく、私は現在を生きる人々にお願いしたい。人間を機械と考えてはいけない、人生を金銭のみと思ってはいけないと。奇怪な歯車や車輪の休みない騒音の中では、知識を生みだす暇もなく静けさもなく、哲学的な瞑想もない。人々が鋼鉄の時代の「機械」の名で呼ばれる魂のない生物の手に捕まるなら、どんな暗い運命が明日の子供たちを待ち受けているかもわからない。この機械こそまさに唯物論の神の最終最後の化身にほかならないのである。
神の子イエスは地上に降り立ち、肉の身を纏い、そうすることによって本来地上のものではない「美」を人の手に渡した。二十世紀になって黄金の牛の子、唯物論の子たる「機械」神が地上に降りて肉と物質を身に纏った。最近では地上の到るところでこの信仰が普及している。人は熱烈に熱狂的にその祭壇を拝んでいる。
これらの「反-擬似―人間」は幾つかの部分に分かれ、「国家」と呼ばれている。各国家は機械の別名にほかならぬもう一つの名、手短にいえば「孤立国家」という名で洗礼を受けている。
高度に文明化した国では国家は今日、ランカシャ地方の織機を動かすエンジンの自動的円滑さで運営されているのである。すなわち、国家は工場や地上の大衆の生活需要に応ずる巨大企業に力を与えている。国家は必然的に魂の抜けた機械のやり方で大衆を操作する。そうでもしないと、その人口は減少し人々は熱狂と欲望の犠牲となるかもしれないというので。
国家は今や微妙な機械の性質をもっているので、人間と共に走りだす重大な危険がある。国家は坂をころび落ちるように戦争に飛び込む。さもなければ人口の増加によってゆっくりと貧困を生み出し撒き散らす。障害者や弱者や堕落者や精神病者を増加させる。常にこの物質の神――「機械国家」――の盲目の目的は量であって質ではないらしい。常にその狙いは数の自動増加であり、従って不幸の増加なのである。
思慮深く誠実な少数者を除いて、人はキリストのことばに含まれた意味を理解することも掴むこともできない。だが彼らは、ギリシャの夢ならばかすかに理解するかもしれない。そして歴史の頁を遡り、ヘレニックな冒険心の幼稚な要素は除いて古代ギリシャ世界に学び、子供たちの心に精神と肉体の健康を学ばせ、美と力を敬うことを教えるなら、人々はやがて賢明にうまく行動してくれるようになるかもしれない。
ギリシャの教えは少なくとも人間の価値を表現している。それらは人間に「理想形」の概念を示唆する。すなわち、それらは、国家の歯車と車輪を支配し、もしくは支配される権力的人間の熱狂的な思想からは悲しくも姿を消してしまった、「生活の美を重んずること」を宣言する。さらにギリシャ的ヴィジョンは、私が形相の世界と呼んでいる死後の世界の生活をかすかに反映している。それはぼんやりとながら光輝ある世界の精神を伝えており、そこでは次第に完成に向かう霊妙体が最大最高度の形を表現し、そこでの日常の行為にさえ地上の最も偉大な芸術家が味わう高尚な恍惚感が伴うのである。
もし人々が機械から目を転じ、この機械国家やその支配下にある他のすべての下位機械は、原始時代において野獣がそうであったのと同じように危険存在なのだという観念を子供たちに染み込ませるなら、人類の未来には希望が生じ、明日の平和像の「型」造り、鋳型造りが進められるであろう。また、もし機械が機械と争い、経済戦争が貧困を招き、侵略戦争が国土を荒らすときは判断力が損なわれることを思い出すなら、また国家が国家を破壊し、機械が機械を破壊するときは美も健康も生き長らえず花を咲かせないということを思い起こすなら、この奇怪な自動機械に反逆する精神が人々の心を目覚めさせるであろう。いやそれ以上にそれは人間の運命を監督し支配するものだ。魂を退け知的平均的人間の穏やかな理解力を剥ぎとってしまうものなのだ。
人々の心にひとたび蔑みや不敬の気持ちが兆《きざ》すと、今まで拝まれていた神も危うくなる。その神はもはや招《よ》び出されずその託宣はもはや聞かれない。ドドナの樫の木[原注1]は切り倒され、火にくべられる。
この“神である国家”、もしくは“超機械”はかくして人間の夢や心から取り除かれる。そしてその場所に享楽主義的ではあるが、健全な正常さをもち、肉体の営みに対する尊敬をもちあわせるギリシャ的世界観を据えなければならない。それはまた遂には人間が本質的には霊であることを思い出させるであろう。そしてこの観点から、遂には不滅の世界を理解し山上の垂訓の意味をも掴むことができよう。
おのが居所に立て籠もりばらばらになってしまった個人は、今日、世界は量ではなく質の理想を求めるべきだという知識に到達しなければならない。現在の、この王制時代の精華たる文明の発展と創造は、もはや醜さの胚胎することを許してはならず、苦悩や肉体の破壊が生みだされること、弱った人や不健全な人がこの世に存在することを許してはならない。そしてその世界は、もし人が現在の神を克服するなら、預言者や詩人や啓示を受けた哲学者が夢みたような天国になりうるのだ。
私は機械の破壊を唱えるものではない。私はただその真の性格が理解されるべきだと要求しているのである。魂なき機械は人の奉仕者たるべきで、思考する人間の主人であってはならない。人は現在その生活や心に深刻な影響を与えている機械の力をコントロールし、チェックすることを学ばなければならない。もし人がいわゆる文明が豊富に供給するところの機械群から引き出しつつある快楽や教訓を、精神の冒険や、肉体と感覚の健康的な陶冶の中に求めるようにするなら、それは霊的進歩のために大変有益であろう。

[原注]
(1) エピルスのドドナはギリシャ時代の最も古くまた尊崇を受けた聖地……その宮はゼウスを祭る。初期の頃からのものらしい託宣はこのゼウスに関係している。神の答えを得る方法として樫の木のたてる音を聞いたとされる。おそらくは古い木の崇拝の残滓であろう。(ブリタニカ百科事典より)――E・B・ギブズ

第二章 意識の発展史

意識の進歩の歴史は、それぞれの特徴を具えた期間ごとに分類するとすれば、次の六段階に分かつことが適当であろう。

① 意識が物質生活の制約を受ける時期。
② 意識が超エーテル的世界での生活を通して発展していく時期(すなわち、死直後の魂の状態)。
③ 更なる拡張と発展期。意識は第四界すなわち形相の世界に住む。この状態において、意識は形態の完成と昇華を達成する。
④ 意識が宇宙的な制約を受ける時期。魂は、今一度、可視の宇宙に存在する身体の住人となる。永遠の旅人たる魂は自らの類魂から離れて焔の肉体を纏い恒星の世界の生活を経験する。
⑤ 宇宙意識の発展期。魂[原注1]は他の天体での生活を経験し、類魂の許へ戻ってくる。そこで類魂との霊交により全可視世界を自己の内面に感ずることができるようになる。彼はそこにとどまりながら、しかも旅を続けることができる。一帰幽者でありながら同時に宇宙的存在でもある。言い換えれば類魂のあらゆる経験を知り、類魂を通して宇宙のあらゆる側面に触れるのである。
⑥ 意識の無限発展期。永遠の旅人は彼の創造者と一体になる。今や彼の意識の内に宇宙がある。彼は神であるとともに一者の中にある多の一つである。

[原注]
(1) 「プシケ」(psyche)という語がギリシャ語の女性名詞であるのに対し、通信が一貫して魂に非人称代名詞を用いている理由は明らかである。F・W・H・マイヤーズがどこかで魂は男性でも女性でもないと言っていることが注目される。――E・B・ギブズ〔本訳では便宜上「彼」を用いている――訳者〕

第三章 死後間もない時期の生活

「われわれは想像力と同じ糸で織られている」というシェイクスピアのことば〔訳注1〕通り、確かにわれわれは想像力によって織られた織物である。しかしながら、「想像力」ということばに普通の辞書が与えているような意味を考えてはならない。たとえば「五感によって伝えられる画像を理想化する心的能力」といった定義では、高度に進歩した人間の地上生活を光輝あらしめるばかりか、いわば永遠の世界までも見させてくれるこの能力のほんの一部しか表現しえていないのである。
物質界での生活中人間の想像力は、五感によって養われるとともに大自我たる類魂に啓発されている。個人はこの類魂の枝であり芽なのである。彼はときおり本霊〔訳注2〕、つまり私が以前〈上方からの光〉〔訳注3〕と定義したものによって照らされ導かれるのである。
この世の物語に記されるわれわれの生涯は、短篇小説ではなく、各章が死によって閉じる続き物の長篇小説であることを忘れてはならない。新しい章は前の章を受けて発展していくものであり、われわれは話の筋を辿って新たな、結構意図を秘めた物語を読み進む。しかしその物語の意図は、人間は一時に全物語の一時期一生涯しか学ぶことを許されていないという理由によって、大抵の場合は秘められているのである。
先行する各章次第で、現在経験する人生の章に明るい彩りや暖かさの添えられることもあれば、不吉で暗い色調の影が射して思いもかけぬ不運に巻き込まれ、悲惨な境遇に陥ったりもする。また彼の肉体機関はといえば、遺伝的影響とは別の、今は大自我〔訳注4〕の中に埋んでしまって触知しえない過去の記憶が創り上げたものなのである。
人間存在の支配者であり立法者である想像力はその内に神から与えられた自由を持つので、そのゆえにまた、人間の内に潜む限定的性格を因として、善と同じく悪をも生み出し、美を殺して醜を求め、遂には他人の不幸や悲しみさえもつくり出してしまうものなのである。
造物主であり、大宇宙力である神は、人間の想像力の過剰が生み出す残酷さを、それが魂の成長と発達に役立ち、地上レヴェルの厳しい経験を通してやがて偉大な認識に至る道を開くものである限りにおいては、許容するのである。
死後の生活において彼は中間状態に入り、そこで傍観者のように過去の人生の出来事を見る。彼の見る夢は時には悪夢のようであったり、また善美なものであったりする。悪をなした思い出の甚だしいときは、冥府の幻想は苦悩に満ちたものとなる。なぜなら、想像力は、この受動的知覚の時期においてはまどろみの状熊にあって、結果を反芻するのみであるからである。
私は既に、魂の旅のこの時期においては、魂の外殻が脱ぎ捨てられ、魂もその身体も共に新たな発展を遂げることを述べた。人は新しい形態を身に纏って死後の次の生活に進み入る。すなわち冥府から幻想世界として知られる意識状態へと移行するのである。幻想世界は、未だ地上レヴェルの意識の影響を大いに受ける世界なので、「限定された想像力の世界」と言った方が適切であるかもしれない。
魂は、地上の記憶を材料として彼の環境を創り上げ、想像力によって、この幻想状態の間の彼の好みや、欲望の主要な対象となる特定の夢を築くのである。
幻想界に住む者の考える楽園の概念が、想像力の影響を強く受けるということはお分かりのことであろう。もしそれが彼が人間として地上にあったときの行為や思想によって歪んだものとなっていれば、そのことが彼の環境を不吉なものに創り上げたり、おそらくはまた、過去の憎しみの火を燃え立たせたりもする。そしてその火は、彼が自己の愚かしさを明瞭に悟り、その特殊な経験の繰り返しや単調さにうんざりするときまで燃え続けるのである。一方、愛は魂の周りにそれの実現に必要な条件を引き寄せる。そのために死を超えた世界において、心から愛し合う者たちの手で素晴らしい環境が創り出される。しかしこうした例は思ったほど多くはないものである。もし彼らの愛に汚れや、しみや、弱さがあれば、彼らがその生活の背景として出す画像にはなんらかの欠点があり、それは一時的な満足は与えても天国を求める者にとっての理想とは程遠いものなのである。

◆超エーテル世界または霊的世界

「神についての確かな知識を持つ者はこれまで一人もいなかったし、これからもいないであろう。何となれば、たとえすべての真理を語るという者がいたとしても、その者がそれを知る筈もないからである。しかし誰でも勝手な空想をすることはできる」――クセノフォンのこの手厳しいことばには「彼岸に渡って神の想像力と一体となった者はこの限りにあらず」との但し書きを付け加えて修正しておきたい。
神の王国についての完全確実な知識を待った者は、生者の中にも死者の中にもこれまでにいなかったしこれからもいないであろう。なぜなら、たとえ或る人がすべての真理を表現する能力を持っていたとしても、有限な精神の生み出すことばでは、神や宇宙生命の全概念を明確に言い表わすことができないからである。
帰幽者も生者も断片的にはすべての真理の或る部分を表わしているが、神や創造の神秘劇を説明する段になると、その持ち前や本能によって自己流の色付けをしてしまう。そこで元来一つのヴィジョンであったものが、細部においてはお互いに相違する多くのヴィジョンとなってしまうのである。ある帰幽者が、生きた人間の肉体機関を通して霊的世界に関する自分の考えや見聞の結論を伝えようとするとそれは種々な困難によって妨げられる。このような通信の可能性すらまだ広く認められてはいない上に、通信時における霊媒の肉体的疲労、精神状態、時間上の限界なども考慮しなければならないからである。
私は以前、霊的世界は七界、すなわち、魂の旅の七つの段階から成ると述べた。多分、「意識の七つのレヴェル」というべきであったのであろうが、「界(プレーン)」という方が一般的だったので永遠についての私の理解するところを伝えるためにこのことばを選んだのである。
永遠の内にはこれといった場所のようなものはないと言えるであろうが、旅する魂にとっては、意識はある領域ないし場所に在るように思えるであろう。確かに、未発達な魂の状態においてはこうした考え方が支配的なのである。
こうした状態の魂にとっては、環境の影響こそが最も彼の置かれた条件を左右するように見える。彼は直観的に自分が巨大な力の玩具だと感じ、場所の感覚に執着するが、周囲の環境がすべて幻影であり自分自身の魂や潜在的自我の生み出したものであること、また、彼の意識レヴェルや、憧れや、欲望の表現物であることにはほとんど気づかないのである。
しかしながら、もしあなた方が超エーテル的世界を支配する実際の原理や法則を学ぼうと思うなら、こうした位置や場所に関する先入見はすっかり心から拭い去っておいた方がよかろう。その代わりに、運動や種々のスピードの観念についてよく考えた方が空間の神秘についてもっとよく理解がゆく筈である。
私が地上にいたとき、無教養な人々はよく、空間は無数の死者の群れを収容しきれないという理由で、死後の人間の生存は不可能だと主張したものである。こうした粗っぽい議論はさすがに天文学に幾らかでも造詣があって、空間の広さというものについて少しでも知っているような知的な人たちからは聞かれなかった。しかし、宇宙についての人間の天文学的な知識は別として、永遠についての概念はそれが物質的知覚に基づいている限りすべては間違いなのである。それは前にも私が言ったように、運動の観念に基づくべきである。帰幽者は、そのエーテル体とか表現体が物質よりも速く振動しているので人間の目には見えないのである。魂が意識の高次な段階に移行すると、その形態の外的表現物は次第に精妙になっていく。つまりそれはより遠くまたより激しく振動するのである。
無数の帰幽者たちがあなた方の周りやあなた方の中で振動しているが、彼らはあなた方の世界には属さず、いかなる意味でも、あなた方の心や肉体と接触しているとはいえないのである。われわれが人間に通信しようとするときは、別の意識のレヴェルに下りてきて、思考の速度を落とすことによってのみそれが可能になるのである。そうすることは私にとっては別段苦痛なことではない。なぜなら、これを地上の経験と比較していえば、活動的な生活から静かで眠気を誘う生活への移行のようなものだからである。その状態は体の麻痺を誘う感覚において、あたかもあの、日は照っているが空気は今にも降り出しそうな雨に重たく湿っている英国の夏――の真昼時を思わせるのである。
そういう訳で、人間は魂《たま》の緒が切れて肉体を脱ぎ捨てるとき、現実のロンドンよりもアパートの建てこんだ大都会の或る地域に入っていくのかと心配する必要はないのである。その者の意識が正常である限りは、広大な自由の中に入っていき、そこでその空間観念は変化し拡大される。彼らはやがて運動ないし振動率および意識の水準こそが、彼らの存在知覚をその部分と全体に渡って支配していることを認識するようになる。
死とは単に一つの速さから他の速さへの変化であり、魂がより激しい振動、つまりはより活発で速やかな顕現状態に適応するための調整をすることにすぎないのである。
超地上地帯に漂っている魂たちのことを私が言うとき、私は「超地上」ということばで位置の観念を伝えようとしているのではない。「超地上」ということばで私は、意識の遙かに高い水準と比べれば低い振動の状態を表現したいと思っているのである。
「人を見て法を説け」という日本のことわざには深い真理が秘められている。永遠の生命の神秘について論ずるときは、よく相手の魂の成り立ちを検討してからにする必要がある。
私は既に、意識には七つの段階があることを示し、それを以下のように命名した。

(1) 地上界
(2) 中間界
(3) 幻想界(死直後の世界)
(4) 色彩界(形相の世界)
(5) 火焔界(ヘリオス Helios 界)
(6) 光明界
(7) 彼岸、または無窮

大抵の場合、われわれが自己の存在する界ないし世界を造り上げている外観に執着する間はその状態に住み続けるが、より高い境界では外観の世界から逃れ出るということを、私は強調しておきたい。われわれは多くの魂が集まって造りあげる、形態とは違った一つの輪郭の中に生き、色彩や光――人間の弱い感覚には知覚されない――の内に自己を表現する。しかし各界の滞在期間について固定した定めはなにもないのである。
人は二重の存在である。彼は自分の本性に主観的な面と客観的な面とがあることを認める。そして、中には稀な人が、主観状態と呼ばれる状態に移行して本霊の導きによって他界に入っていく。
たとえば聖パウロなどは、第三天国への訪問を記録しているが、そこでの高次な経験については誰にも話すことがなかった。他にも肉体に住まう間にギリシャ人が「死者の国」と呼ぶ世界を訪れ、高次の世界に足を踏み入れ、ほんの瞬間ではあるが形相の世界に住んだとか、私が「火焔」ということばで表わしている太陽界の世界に入ったりするということもある。
しかしながら、人間は余り長いこと肉体から離れていることができない。なぜなら、彼は地上生活を遂行しなければならず、物質界において彼に割り当てられた経験の分量は是非とも獲得しなければならないからである。

◆第三界における光

第三界ないし幻想界に住む死者たちを照らし出す光は太陽の光ではない。人間と交信する霊魂が、彼らの世界もまた太陽の周りを回っているとか、その光を受けているとかいうことのあるのは事実である。しかし彼らは誤った信念に陥っているのである。たとえばわれわれのエーテル的生活は宇宙光線によって養われているのであり、この光線がわれわれ自身が創造した王国、つまり、われわれの想像力と霊力から送り出た蓮華の園を壮麗に照らし出しているのである。
この宇宙光線はわれわれの「時」が刻むリズムに従ってその性質を変える。しかしその変化はわれわれにとっての変化であり、われわれの心がその変化を決めるのである。ここでは心が日常生活の動力源であることを地上におけるよりもはっきりと証拠立ててくれる。地上生活から持ち込んだ幻想そのものが、暫くの間、宇宙光線を地上の太陽と誤認させるのである。心の習慣は拭い難いものであるから、この時期においては、彼らが見たいと欲する太陽や月や星やその他の見慣れた環境などを見るのである。彼らは想像上の行為をもって飲食を続けていると思い込んでいるのだが、それはあらゆる意味において、肉体の維持のために食物をとるのとは違っている。そして結局のところ、この習慣のために彼らが後にしてきた地球よりももっと壮麗広大な別の地球での外観的生活を続けなければならないのである。しかし、こうした幻想界の諸条件を正確な地上のことばに置き換えて言うならば、われわれはエーテルの内に生活し、宇宙光線に養われていると言わなければならないのである。
これら宇宙からの放射物たる光の流れは二重の働きをしている。それらは新しい死者たちに物や環境を感知させると同時に、私にも分からぬ或るやり方で、この遍満するエーテルの生命を養い、またそのことによって地上からやって来た霊魂あるすべての生き物のエーテルの生命を維持し増進するのである。
われわれのエーテル体はこの宇宙光に養われており、時々生命力の補充をする。この期間はあたかも地上における睡眠に似ている。第三界の帰幽者たちがその本性を新たな力で充填し、より大きな感知力と清新な魂の力をえて働こうと望むときは、暫くの間その心の扉を閉ざし、他の意識存在と接触しないようにするのである。
こうして引き龍もった受動的状態の間に、魂は本霊の許に至り、必要不可欠な刺激を受け取ってその心を賦活するのである。
それゆえ、死直後の生活においては、魂はこの内と外の光を必須のものとしているのである。それはちょうど人間が太陽光線に依存し、また、地上生活のあいだ彼を啓発し支えてくれる本霊の根源的光を不可欠のものとしているのと同じである。
幻影世界の下部においては、見かけ上の飲食が夢の構成部分として維持されているかもしれない。しかしこの場合、望みの食事は欲求作用によって出現する。美食家は望み通りの快楽を手に入れるであろうし、禁欲主義者はその行法に則り、パンと水の生活を続けるときにこそ無一物の喜びを味わうであろう。しかし美食家は、余りにも容易に手にすることのできる珍味の連続に飽きてしまうと、新しい経験を渇望するようになる。そこでようやく想像力が目を覚まして、エーテル体が欲するときには自動的に必要な光を摂取できることに気づくのである。
私が食物と光について言ったことは、死直後の生活に存在する他の諸条件にも適用される。そしてこの条件は地上の時間に直せばかなりの長い期間、永遠の旅人の生活を律することであろう。
それゆえ、この意識状態は、平均的な人にとっては、他のもっとも高尚な世界のことよりも重大な関心をひく筈のものである。この理由をもって私は、われわれの過去の地上生活における潜在意識下の記憶と創造力が、霊的世界での新生活(暫くの間は当然のことながら元となる過去に類似したものである)を築き、新たな物語を創り出す上での重要な役割を果たすことを再度強調しておきたい。
例えば、われわれは自分の生存中の衣装を着慣れており、そのイメージは無意識下の記憶に強く焼きついている。そこでわれわれはまず本能的にわれわれが地上にいたときの姿で愛する人の前に現われるのである。想像作用については驚くほど柔軟なエーテルテルから、地上生活中に着ていたのと寸分違わない衣装を気づかぬままに創り出すのである。当然のことながら、暫くすると、われわれは自分のうちにおける変化に気づき、想像力の創造的な力を知り、エーテル体のための素晴らしい外衣を考案する。しかしこの着想の大部分は意識下の記憶から引き出されるので、種類、性質ともに限界があるのである。
人間性の様々な性質に応じて、われわれは生きている間に惹かれていた人々を探し出す。それは、死がその間を隔てても、われわれが片時も忘れることのなかった人々である。かくして、環境、衣装、住居、職業等を創造するにあたっては、われわれは或る程度この仲間の力を借りる。われわれは小さな共同体を造って一緒に働き、その中でわれわれの必要にぴたりとあったやり方で、地上では満たされなかった多くの人間的欲望を実現する小世界を築きあげるのである。
ここで私の述べているのは、無論、死の関門を通ったばかりの普通の人たちの運命なのである。

◆第三界における時間

類魂の中の各共同体はそれ自身の時空に住まう。旅する魂が自分自身の小世界に飽きて進歩を求めるとき、彼の感知力は増大し、本霊の導きによって類魂内の他の共同体を訪れ、それと交流することができるようになる。彼は十八世紀、十七世紀、時としては十六世紀の世界にさえ入っていく。それはもっぱら、彼の仲間たちがこの潜在記憶の幻影世界にどれだけ長く留まっているかによるのである。
これらの魂が留まる期間には別段の制限があるわけではない。しかし大抵は二、三百年よりは遡らないものである。それゆえ、十七世紀以前の社会生活の場面を見ることはない筈である。しかし類魂は一国家の内に限定されないことがやがて分かる。彼は中国人、インド人、ギリシャ人、イタリア人の居住地を訪れるであろう――しばしば様々な人種の者たちが一つの本霊の光の下に集まっているのである。
しかし時たま、魂の巡礼者が過去への不思議な旅を重ねる間に一つの人種だけにしか遭遇しないことがあるのも事実である。おそらく彼は十八世紀のロンドンに実在したヴィクトリア朝時代の生活とか、ナポレオン戦争期のデボンシャア地方の普通の生活とか、十七世紀のスコットランド高地の小作人の生活を見出すであろう。しかしそのどれをとっても共通の性格を持っている。つまりすべてが昇華されているのである。苦悩、労苦、悲哀といったものがそこには見られないのである。男も女も子供も、想像過程によって充分に満たされる地上的幻想に快く浸っている。闘争や努力の欠けていることがこれらの生活に夢幻的な性格を与えている。
多くの場合、こうした状態は、その平和な様相において、静かな夏の日を思わせる。このことは特に夢が色褪せていく際に言えることかもしれない。遂には進歩への集団的欲求がこの共同生活に終止符を打つ。共同体を支える単体は地上へ戻るか、第四界の形相世界への困難な道を選ぶのである。

◆四次元界

時間の分析によって、あなた方の地上の科学者たちは魂の不滅の証拠を見つけ始めたようである。それゆえ私は読者にいわゆる四次元界についての私の説明をしておきたい。現在四次元として思想家たちに考えられている存在条件に最も類似した状態が幻想界の最上層部に見出される。
誰にでも影があるように地上で起こる事件や情景には影があり、イメージが記録される。永遠の旅人は第四の意識界に上っていく前に、こうした地上生活の記憶を点検する。そのとき彼の眼前に繰り広げられる展望は広大である。今や彼の知覚は研ぎ澄まされ、イタリアのルネッサンス期のあらゆる甘美、中世ヨーロッパを荒らした戦争のあらゆる残虐非道を目にすることになる。彼はまたギリシャの世界に入っていき、もし哲学的な精神の持ち主ならば、ソクラテス、プラトン、プラティノスなどこの記憶の内に映像化された人々がこの時代の熱心な若者を教え導いている姿を目にすることであろう。しかし彼はすぐにも彼の目に映るものの様子が違っていることに気がつく。それらは自動的で、次々にたち現われる情景にはそれらを支配する魂が入っていないため、生気というものが感じられないのである。にもかかわらず、〈大記憶〉〔訳注5〕に刻みこまれたこれらのイメージを見ていると、心躍らせる光景に引きこまれ、展開するドラマの不思議さや意外さについ夢中になってしまうのである。こうしているうちに彼の本性の狭い枠が取り払われることにより、心と感情が豊かになり強度と力を増すのである。石器時代や氷河期にまで遡った旅人はふいに方向を変えて未来の萌芽や未だ起こらざる事柄を目に留める。というのも神の想像力の中には既にこの地球という惑星の全未来が細部に至るまで考えられ、想念としてしまいこまれているからである。こうして旅人は、永遠の永い旅程を辿る前にこの浩瀚《こうかん》な生命の書を垣間見ることを許される。
キリストが山上に導かれて地上のすべての王国を眺めたように、巡礼者は類魂の中でその頂上に導かれ、見たところ限りもなく続く地球の歴史を見せられるかもしれない。知覚力が増すに従って一時代全体を一思考作用として一時に見る能力も増大し、かくして、一世紀全体の重大事件がいわば一望の下に捉えられるようになるのである。
旅人はまさに、地球の暗い胎内から現われ出てきたのであり、今や地球の全体と細部を知っている。こうした経験を経て、彼は復活した体を上昇させ形態の完成を目差す形相の世界に上っていく。そこで彼は偉大な変化を遂げ、本性上の様々な要素をつくりかえ、狭い個性の枠組みを超えた力強く偉大な存在へと脱皮する。
私がこれまで述べたような経験は第三界に戻らなかった人だけが知っていることである。彼らは地上の不活発な生活からすっぱりと足を洗ってしまった人たちである。多くの旅人が形相の世界を訪れるが、それは渡り鳥にも等しい瞬間の訪問でしかなく、彼らは私がこれまで述べてきたような事柄をほんの僅かな程度にしか経験していないのである。

◆愛と結婚

第三段階の意識レヴェルを去るにあたって、われわれはもはや肉体と比ぶべくもない美と形態を具えた精妙体を纏うのである。実際、魂が形相の世界に旅立つにあたっては、物質世界と断然訣別する。従って、ここを過ぎると、地上との交信をしようとするものはほとんどいなくなる。
しかし、私が「地上的想像の世界」と呼ぶ死後の世界では、人々はなお肉体というべきものを持っており、それは、形や外観においては地上時代の肉体を再現したものであるが、実質はより強度の振動を待ったエーテル物質で出来ているのである。
この世界には、人を創造的な想像――すなわち想像的努力――へと導くに必要な人生の葛藤が欠如している。魂が必要としさえすれば、性欲の幻影が満たされることはあっても、女性が子を生むということはなくなっている。エーテルの身体が形づくられ、地上における肉体同様さまざまの目的や欲求を満たすために用いられる。
「かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない」〔ルカ20:35〕というあの有名なことばを発したとき、イエスは意識のこの高次な世界のことを言ったのである。地上的想像の世界にあるあいだは、人は地上の記憶に捕らわれている。それゆえ、復活せず、地上夢の幻想のうちに住み続けるが、望みとあらばその幻想には結婚に関する部分が混入する。
生前に二人の夫または二人の妻を待った人の場合はどうなるかというと、それは通常、死後において牽きつけ合う力、愛情の多寡によって決まるのである。各々の魂は、最も似ているか共感の持てる魂のもとに引き寄せられ、何であれその性情を満たしてくれる情熱に同化する。
多くの正常な男女によって経験される純粋で情熱的な愛は、創造的な性格を持っているものである。それは死もその火を消すことのできない想像力の炎を掻き立て燃え立たせるのである。それどころか逆に幻想や形相の世界では、こうした男女は純粋で情熱的な愛を取り戻すことになる。かくして二人は全存在を賭けた創造行為を行なうが、その感受性の高まりのために、二人の自己創造の経験は高次のものとなり、強度を増し、魂の力を増大させる結果となる。
地上的想像力や形相の世界には、重たい肉の体を持っていたときは、相思相愛の恋人同士でも手にすることの出来なかった調和と自由がある。第四界ではこうした愛も性格を変える。生命と意識の条件が地上でのそれとは全く違っているからである。
偉大な科学者であった人はすぐにも科学的研究を続けることのできる環境を見つけることであろう。もっとも、当然のことながら、その科学的研究の性格は変わっている。生前においては人ではなく物が彼の想像力を刺激していた。そのため彼は自分独りゆく道を選び、彼の基本的な性情や欲求を満足させたのである。同様に、人の魂や人々のグループに対するよりも、或る特殊な仕事や快楽に関心を持つ人は、その渇きが癒されるまではそれにのめりこみ続ける。彼らは通常の親密な仲間同士の社交などは求めないが、条件さえゆるせば、同じ界に住んでいる同好の人々と会ったり交際を結んだりすることはできる。あるいはまた、彼らは互いの興味が掻き立てられたり、一方が他方にとってより広い知的意味合いから必要になったときなどに、互いに引き寄せ合うのかもしれない。

◆暴君の運命

想像力というものは無限に多様である。それゆえ死後の世界における経験の種類も多様で尽きることがない。実際のところ、魂の世界へ導く怪奇な入口などというものがあるわけではない。われわれはいわば、過去の人生の様々な情景の絵を飾りたてた長い画廊をさまよっていく。一人一人が他の画廊には掛かっていない肖像画や思い出の幻想画を見つつ進む。各人がその性情に応じて、自分の生み出した作品に反応しなければならない。最後に、エーテルの世界に入ったときには、死のすぐ向こうに横たわっているこの大広間の中に彼の経験の大部分が吐き出されている。
最初は他の人々の助けも借りて、彼は本能的に地上時代の様々な場面を絵に描き、また親しかった人々と一緒になって、かつてと同じ情景や舞台を自分の周囲に築き上げる。もちろんそれらは空想によって理想化されていたり逆に暗黒化されたりしている。そしてここにこそ、植物的満足があるかと思えば幸福や歓喜があり、また奇妙で不吉で時としては戦慄すべきドラマの演ぜられる原因があるのである。
例えば、犠牲者に残酷な拷問を加えていた暴君は、魂のうちに同じ苦しみを味わうことになろう。彼の想像力は苦痛の醜さにスリルを覚えたり喜びを見出していたのであるから、その結果、彼の創造物たる闇の世界には醜悪さがあたり一面を覆いつくすようになる。
もちろんこうした熱病的な幻想にひたるのも一時のことである。良心の呵責に責められ続けた自己が進歩への飛躍を熱望する時がやってくる。そこで彼は幻想的世界に深く入り込んで全存在を暗黒と孤独のうちに叩き直すか、さもなければ地上に戻ることを選択するようになる。普通の人は暗黒と孤独になど一瞬たりとも耐えうるものではないので、後者を選ぶことになる。
もし彼が地上に帰るならば、多くの場合挫折と失望と無力の一生を送ることとなろう。しかし、かくしてこそ彼は徐々に進歩し、おそらくはこの新しい一生での悲惨な自己の運命の教訓から、憐れみということの必要を学ぶであろう。
歴史に登場する悪役たちはこのような段階を経てそれぞれに異なった反応をする。或る者は速やかに想像力の用いかたの誤りを正すことを学び取り、一生の間にすっかり変わってしまう。或る者はほとんど進歩せずにいるが、たまたま同じ類魂の他の魂に助けられて、自性の燃やす悪の炎の災いの及ばぬ所まで導かれることもある。
或る場合には魂の想像力から、現実に悪しき想像力の原因となる部分、つまりサディスティックな面を新たに掻き立てて人間の性情を暗くするような邪悪な場面を破壊してしまうことによって初めて救済されることもある。
以上で各人間のうちに働く想像作用がいかに重要であり、自我の本質をなすものであるかが分かったであろう。それは、死を超えた世界かこの世かのどちらかにこれから生まれてくる赤子のために、生のかなたの生を準備し、彼らの環境や運命を築き上げてくれるものなのである。

◆死後の世界の構造

超エーテル世界にはこの世のあらゆる分子やあらゆる細胞に対応するものがある。しかし死後の世界における空間と時間は、私が「賢者」とよぶ霊魂たちに言わせれば「状態」、すなわち心の状態を表わすのであるという。彼らは魂の神性な指導者(divine hierarchy of souls)ともいうべき人たちである。大宇宙の想像力に仕え、生と死の潮流を支配し導くのである。いわゆる死者の面倒を見るのは彼らの役目である。
この賢者たちは秩序と統一の維持のために働くが、地上から来た者の運命を変える資格はないのである。各人は皆過去によって未来を創造する。各人は自由意志を持ち、また或る意味で類魂に属する魂たちの運命に対しても責任があるのである。
地上において母であり妻であった一つの魂の場合を例にとってみよう。彼女をマージャリー・フィッツジェラルドと呼ぶことにする。死の神秘はひとまずおいて、次の世界での彼女を見てみることにしよう。彼女は献身的な母であり、また妻としても心から夫に仕えた。しかし、家族の中で最も早く死の関門を越えたのは彼女であった。彼女が前にも述べた中間地帯の冥府で、夢と休息の一時期を過ごしたことはいうまでもない。
暫くするとマージャリーはさなぎの状態から抜け出て、周囲の存在に気づき、自分自身の中に愛と生命のみなぎる力を感ずるようになる。旅路の途中、彼女は自分が「物質的な空気」ともいうべきものの中に浮かんでいるのに気づく。彼女の周りには広大な空間が広がり、それらは青白くほとんど透き通って見える。しかしマージャリーは恐れない。彼女は異常に気分の高揚するのを覚え、かつ精神力の増大するのを感じる。自分を生まれて初めて、風の中に幸福な気持ちで浮かび、未知の世界をのどかに漂う小鳥のように感ずる。暫くすると、既に亡くなった彼女の愛する、また親しかった人たちへの想いが彼女の心を一杯にする。彼女はそれらの人々に会いたいと思い、その切迫した想いが明らかに無音の世界に響き渡る。
すると忽ちその人たちが姿を現わす。というのも彼らは彼女を愛し続けていたので、いつも彼女の心に波長を合わせており、彼女の想いが自分たちに向けられることがあればそれが聞こえるからである。マージャリーは亡くなったときは六十歳であったが、彼女の魂は今でも若々しい。人々は彼女を光輝に満ち、美と詩情に富んだ、まるでティツィアーノの絵に見るような世界へと案内する。なぜなら、マージャリーの友達は進歩を遂げた魂なので物質的制約からは自由になっており、その素晴らしく感受性に富んだ想像力で、一見物質と変わらなく見えるがまぎれもなく彼らの心の産物である環境を上級霊の指導の下で生み出すことが出来るからである。
彼らはマージャリーに対して、死を超えた世界は初め空虚な空間に見えるが、実はエレクトロンから成り立っており、そのエレクトロンは地上の科学者に知られているよりもさらに精妙で振動数が高いところが違っていると説明してくれる。その微細な単位は極めて可塑的であるために心と意志によって形づくられる。言い換えれば地上においては物質はそれに働きかける想念の力では変えられないが、死後の世界においては、自由になった――即ち精妙さを増した――想像力を用いて質料をコントロールすることが出来るのである。
今やマージャリーの非利己的な生涯、勇気、忠実といった要素が彼女の創造する道具である想像力を完成させている。従って死後の世界の彼女の未来には、摘み集められた夜明けの花のような芳香が甘く漂っていることであろう。彼女は環境をいかに形づくり整えるかを仲間たちから学び、その創造の素材を地上の記憶から自然に引き出す。例えば最初彼女が庭のことを考えてみると、すぐさま、想像過程によってそれが出現する。彼女は貧乏のために手に入れることの出来なかった素敵な家を持ちたいと願う。楽しい労働と創造的空想のお陰で、次第に彼女の想像力は夢の家を形造り、彫刻家がノミで大理石を刻むようにしてそれを造り上げていく。彼女は辺りの景色さえ記憶の絵の具で描き出すのだが、しかしこの場合は彼女独りで働く必要はない。というのも愛が彼女を青春時代の親しいグループや他の仲間たちの許へと引き寄せているからである。こうして彼女はかなりの期間輝かしい生活を続けることができる。そしてそのうちおそらく、彼女が地上に残してきた夫や息子や娘たちすべてが彼女の死後の生活に加わるようになることであろう。

◆家族の類魂[原注1]

現在と未来の繋がりを明らかにするために、結びつきの強い家族の例を取り上げて見てみることにしよう。こうした結びつきの強固な家族は珍しいのではあるが稀には存在しないこともない。ヘンウィック教授はB大学で物理学の講座を担当している。彼は妻アン・ヘンウィックをこよなく愛していた。彼女もまた学究の夫を愛し、日常のすべてを夫と子供たちのために捧げていた。
長男のマーチンは哲学専攻の学生でB大学の特別研究員を目差している。だが、娘のメアリーは十歳で亡くなってしまった。このことはこの堅固に績ばれた家族を見舞った身内での最初の不幸であったために、両親は暫くの間、無残にも最愛の子を奪い去った運命の過酷さに打ちひしがれ、悲しみに浸っていたのである。
年月の経過とともに記憶も薄れ、子供の面影が褪せてゆくに従って、悲しみも消えていった。しかし生涯を全うすることなく逝った娘への想いは教授の心にしこりを残しており、彼は時たま幼い娘のことを思い出しては生きていたならば経験したであろう様々な事柄を想い巡らしてみるのであった。
しかし実際のところは、メアリーが地上への再生を選んだとき、彼女は既に心霊進化のある状態に達しており、この物質の世界に長く留まる必要はなかったというのが真相である。彼女の魂は前の生涯において充分長生きをしていたので、もう一度完全な生涯を終えることは彼女の魂の発展にとっては不要であったのである。それゆえ彼女は成人の経験を省いて幻想世界に生きる類魂の許へ帰ったのであった。彼女はゆっくりと前生の記憶を吸収し、その最盛期の状態に入りこみ、最も美しかったときの成人の肉体を想像によって文字通り創造することができたのである。そして睡眠中に彼女が両親と会うときはこのかつての肉体の姿をとった。心の中にその形姿を想い描くことによっていつも同じ姿で現われることができたのである。
彼女とヘンウィック夫妻の間には固い永遠の絆があった。彼らは前生においても親密な関係にあったのであり、死のごとき一時のぼんやりした記憶の途絶などでとてもこの絆を断ち切れるものではなかったのである。であるから、両親は睡眠中「想像力の奥の間」ともいうべき意識の或るレヴェルにおいて娘と会っていたのである。このレヴェルのこの場所では、意識的記憶は働かない。この両親のようなケースでは、複体(ないし睡眠体)がこの経験の記録と関係を持っている。一方、娘の方はそれを深層記憶に記録する。彼女もまた、原則として、三者の出会いの記憶を自分の世界で思い出すことはない。しかしこんな風にして両親たちは娘と接触を保ち続け、やがて彼ら自身が大多数の死者たちの仲間入りをするときには、睡眠時の経験を含めた主観的記憶を取り戻すのである。
ヘンウィック夫妻はメアリーの死後三十年ないし三十五年たってこちらの世界にやってきた。半世紀以上にも亙る時の隔たりにもかかわらず、娘との出会いに彼らは何の違和感も感じなかったのである。同じ魂の仲間としてまた同じ類魂として彼らは睡眠中も接触を保つことができたのであった。睡眠とは――あなた方がそれについて知れば――それ自体独自の、活発で生産的な生活なのである。睡眠中に眠るのは、単に、肉体と表面意識と低次の意識のみなのである[原注2]。
青年期にも達しないうちに亡くなる子供の中には、その後両親と再会しない者もある。彼らはほんの一時の肉体だけの関わりを待ったにすぎないのである。彼らは魂としては互いに縁なき者同士であった。つまり類魂によって結びついていない同士なのである。こうしたわけで、愛着は速やかに失せ、死後においてもこの両親は早く自分たちの許を去っていった子供たちと関わりを持たないのである。
類魂の中には「心霊原子集団」(psychic atoms)というべき――もっとよい言葉があればいいのだが――ものが存在する。これらはおそらく四ないし五の魂から成っているが、その数は必ずしも一定しない。とにかくこれらは類魂中の小集団なのであり、ヘンウィック家の人々に見られるように、進化の初期の段階において、他の魂とは結ばない特別に親密な生活を共にするのである。
一九一四年に世界大戦が宣せられたとき、マーチンはそのニュースを聞いて深く心を掻き乱された。彼はまだマーガレット・エラートンと婚約したばかりであったし、前途には洋々たる未来を望み見ていたところなのである。まもなく、彼の年齢と気質の者なら誰も進んで従わぬわけにはいかない召集令状がやってきた。彼は軍隊生活を嫌悪していたがやむなく一兵士として出征した。歩兵連隊に入隊して二年を経ぬうちにフランスに送られ、他の若者たちとともに、激戦中、ふいの無残な戦死を遂げたのであった。
死後の冥府に滞在中は、妹のメアリーが彼の許を訪れた。別れた後もなお残っていたふたりの大きな愛の絆が彼女を兄の許へ引き寄せたのである。彼らはふたりして幻想の国、すなわち地上的想像の世界を旅することになった。精妙なエーテルの体を纏うようになった彼らの生活では、想像力が大きな働きをする。彼らは以前と同じ大学町に住み、同じような人生観を持って学問研究をしていた仲間たちとともに古い大学の環境を創造したのである。
マーチンは再び哲学の研究を始め、父親ゆずりの研究熱心でそれに打ちこんだ。彼は自分の欲求を満たすことができて幸せであったし、もし彼の人生があんなにも突然に断ち切られていなければ結婚したであろうマーガレットとの別離は、妹の世話によってある程度埋め合わされていた。
年月の経過とともに弟のウォルターとマイケルは社会に出て職につき、それぞれに両親の生活からは離れていったが、それでも彼らの愛情の結びつきは相変わらず強かった。マーガレットはといえば、彼女はヘンウィック家とは完全に縁が切れてしまった。彼女は結婚し、中年になったとき、夫と連れだっての外国旅行中、交通事故で亡くなってしまったのである。
そのため死後の世界で、彼女は面倒な問題に直面することになると思われる。夫のリチャード・ハーベイも彼女と同じ時に冥府への旅に旅立っていたからである。冥府での期間、彼女の魂はまどろみの状態で自分の思い出に去来する過去の生涯の場面に見入っていた。
こうした過去の点検を行なううちに、この未成熟な魂の将来に関する見掛け上の難題は解決していたのである。マーガレットは、彼女の最初の恋人であるマーチンこそが霊的な似た者同士であり、大事な人なのだと分かったからである。一方の夫の方には肉体的な繋がりで惹かれているに過ぎず、それも死とともに消え去ったのであった。霊的牽引の法則によって、彼女は二十年前の大戦の間に戦死した兵士の所へ引き寄せられるのである。
「地上的想像力」の世界で、彼女は自分の心に巣食っていた満たされざる夢、すなわち、もし地上時代の或る日、無情にも彼女から引き離されてしまうことがなければ味わえたであろう楽しいマーチン・ヘンウィックとの愛情生活を経験したのである。しかしマーガレットを愛していた夫のリチャード・ハーベイは、彼女を失うという悲しみに直面することとなった。いったいこの幻想界は、空想的で努力のない世界に相応しいどの様な代償物を彼に与えてくれるのであろうか。
彼は母親に大変惹かれていた。冥府で過去を振り返ってみるあいだに昔の愛情が蘇ってきたのである。彼の母親は、この種の愛情に特有な保護的性格を持った賢明な母性愛を発揮した。彼の気持ちは母親に向けられた。そして彼女と生活を共にすることにした彼は、狩猟や大地主としての仕事に没頭し、また想像の材料から容易に作り出すことのできる昔懐かしい娯楽を母親と一緒になって楽しむのであった[原注3]。
ヘンウィック教授夫妻の例は大学生活者の典型といえる。彼らは、余りにも常識的過ぎるところがあって、有限現実の世界――言い換えれば幻想状態のことであるが――を超えた生活を経験するには想像力に欠けたところがある。しかしふたりは少なくとも互いに愛し合っているし、他人の生活に対してはちょっと利己的な無関心さはあるにしても、おおむね暖かい目で見ているのである。
そこで彼らが死後の長い回廊を通って行くとき、特別激しい反応をすることもなく、また創造的空想の暗部に導かれることもなかった。彼らの生涯は残酷さやこれといった悪徳に汚されてはいなかった。彼らは個人主義であって人類的な共感には欠けていたが、上品で愛想のいい人たちであったのである。
有限現実の幻想界において彼らは息子のマーチンや娘のメアリーに逢うという喜びを経験し、暫くの間懐かしいB大学の環境で幸せな生活を送ったのである。しかしながらメアリーとマーチンとその妻のマーガレットは、より深く豊かな性情を持っていたために、間もなく一段高次な世界へ登っていくこととなった。彼らは幻想界において霊的で創造的な感覚を発達させたために、地上記憶を基にした単調な生活に飽きてしまったのである。
そこで彼らは高次の冒険に乗り出していった。両親に別れを告げ、一時の彼らの欲求のすべてを満たしていたあの古びた灰色の大学や、ゴシック風の教会の建物や、物静かで引きこもった環境を後にした。こうした変化を促すもととなったのは、彼らの内面を新たに掻き立てた創造的衝動であった。この衝動はもっと高く偉大な認識や新しい計画を探し求めていた。それらはもはや地上的記憶から作ることはできず、その概念、構造、実質も共に肉体を持っていたときの現実からは想像もできないものである。
実際のところ彼ら三人は「魂的な人」のレヴェルにあるのである。そうしたわけで、友人や家族や大学町――想像によって創られた――と別れることは悲しいのだが、次の存在階層である形相の世界に呼ばれているので出発をためらうことはない。彼らの熱烈で霊的に活発な性質が彼らを上の界へと進ませ、飛躍的な進歩を遂げさせる。感覚がだんだん精妙になっているので高貴な世界へ入ることが可能になったのである。そこは広大典雅にして不思議な美と形に満ちた場所である。が或る点ではそこには地上界を思わせるものがなくはない。しかしその美と形の多様さは無限であり、人に知られていない色と光からなっている。この世界には、物の外形や外観における完全さが見られるが、それらは地上の最も偉大な芸術家たちの創作の中でも滅多に実現しないほどの完成度を持つのである。
結びつきの堅固な家族の一員であることには或る種の不利益が伴う。こうした結びつきは利己心を生み、他人の存在に対する思いやりや配慮に欠ける点が出るからである。ヘンウィック夫人は母として妻として余りにも独占欲が強く、家族の結束を計るのはもっぱら彼女の役割であった。こうした彼女の持ち前から夫や二人の息子のウォルターとマイケルとは互いに固く結ばれていたので、地上生活では家族以外の人々と確かな人間関係を持つことができなかった。ウォルターは結婚したが、彼には母親の愛情が混じったおしめのようにいつまでも纏いついていたために、夫としては失格であった。不和が持ち上がり、ふたりはしばしば喧嘩をしたあげく、遂に別れてしまった。そのときからウォルターは金儲けに夢中になり、母とその家庭にしか興味を持たなくなった。
マイケルは結婚しなかった。彼の母の愛と父の自尊心は彼の自己愛を異常なまでに高めてしまったために、彼は自分以外の者を愛することができなくなっていた。しかし彼も父親のことは尊敬していたし、母親に対する利己的な愛情はずっと持ち続けた。彼は町の道楽者となり、晩年にはほとんど自分のクラブに入り浸っていた。
ウォルターは兄の後をすぐ追って霊界に赴き、今やすべての望みが満たされているようである。両親と二人の息子は記憶の世界に生きてそこに喜びを見出すであろう。地上では彼らは結びつきの強い家族であったが、死や別離によって一旦緩められた結び目は前以上に固く結ばれ、家族同士の結びつきは今や再び緊密になっている。
明らかに、四人全部が天国に到達したといえる。つまり、彼らは昔の楽しみを見つけ、かつてのようにお互いに愛しあっている。しかしながら、実際には、彼らは、霊的に見て極めて未発達であり、自分自身では天国も地獄も想像する力を持っていないのである。彼らの魂は自分たち以外の他者を全く無視し続けることによってしなびてしまったのである。
地上におけるウォルターの主たる関心事は金儲けであった。そのために彼は家族の者から一目おかれていたし、そのことはまた彼の母親への愛情の妨げにはならなかった。こうしてまともにではあるがかなりがめつく貯めこんだ財産によって大きな快楽を得ていたために、彼はケチで人には何も施さなかった。
こちらへ来ても最初まだ金の法則が働いている間は、彼は商品取引や株式売買に楽しみを見出していた。彼は相手となる仲間を見つけてそれらをやってはきたが、金儲けはまもなく魅力を失ってしまった。地上的想像の支配する世界では金銭はもはや価値の基準とならないことを発見したのである。心と本霊の働きのおかげで何でも望みがかなえられるので、誰も金を得たいとは思わなくなるのである。それに対して、美しく生き生きした生活や誠実な愛情の記憶を持つ人は、その記憶が豊かな財産となっている。
しかしウォルターは金儲けばかりに熱中し、生活の上で人や物への愛情が欠落していたために心が貧困化していた。富める人なのに、彼の記憶といえば次々と金を生み出すことだけであったのである。ただ母親に対して或る種の愛情を抱いていたことは事実で、株式に失敗したときなどにはその憂さから逃れるために気持ちを母親に向けて、母と子の昔ながらの関係に幸福を見出そうとしていた。
仲間の株式仲買人との金儲けが偽りのものであり、集めた金がどんなに巨額なものでも実は無意味なゲームにすぎないと知るに従って、母親の愛も思慮のない馬鹿げたものであることに気づいた。彼への愛情は所有欲を満たすためのもので、自分の子だから愛していたのである。と同時に父親がウォルターを誇りに思う気持ちも、経済的成功が評価されない世界に住んでいることをだんだん理解するに従って弱まっていった。ここでは金儲け以外の何もできないようなものは乞食とみなされる。こうした魂は、たった一つの情熱しか持てず、想像力に欠陥のある心に支配されていて、魂の生活に必要な永遠の宝を蓄えることができないのである。
ウォルターはまもなくひどい悩みに陥った。この意識の階層からは何の喜びも得られないからである。第一、価値観が地上で彼を取りまいていたものとは全く別種のものなのであった。暇なときの彼の母親の要求は彼をうんざりさせ、遂には怒らせた。父親は幻想界での彼の失敗を批判して彼を辱しめた。そのため、彼は心からあの地上生活、取引所での売った買ったの刺激的な生活、金持ちだったためにちやほやされたりかしずかれたりする生活を恋しく思ったのである。
こうして彼は再び夢を見始めているのであるが、そうすると地上の牽引力と再生を促す力が働く。彼は中間地帯に入り、暫くさなぎ状態で休む。この状態で彼は自分自身の姿と過去の生き様を鏡の中に見る。彼という存在をつくりあげているものすべてが次々と鏡の表面に浮かびだしたときに、本霊の審判官がこのヴィジョンを総括し、彼に選択をせまるのである。
この選択がどのようなものであるかについてはいうまでもなかろう。未発達な人間は地上を振り返り、再び「時の世界」に入り肉体を持ちたいと熱望する。そしてそれこそがウォルターにとって唯一存在可能な条件なのである。死のかなたの世界では彼はまるで陸上に上がった魚のようで、呼吸することさえも困難であった。そこで彼は自発的に再生の道を選んだのである[原注4]。しかし今回は自分の魂の貧しさを或る程度知って戻ったので、学びかつ進歩することのできる環境に生まれ、自分を外部世界へ投げ出すことに努め、間違っても自分一個人とか一家族のために利己的に生きることのない様に気をつけている。
再生前の準備期間に本霊すなわち「上方からの光」はウォルターのために、彼に芽ばえた向上心を発展させるのに最も良い地上環境を探し求めた。その環境は彼の世界観を広げ本性を豊かにするものでなくてはならない。そのために彼は今や女性としで生まれ、貧窮の中でその人生の歩みごとに克服し難い困難と遭遇しなければならないのである。もっと大事なことは、かつて彼は愛を蔑み拒絶したために、今度は人から愛を拒絶され孤独のうちに逆境のみが教えてくれる学習をしなければならないということである。
こうして魂は地上に戻ることによって前進する。新しい肉体に生まれ変わることによって意識のもっと高次なレヴェルの生活を営むに必要な潜在能力を身につけることができたのである。困難を通してこそ彼は自分を鍛え直すし、死を超えた精妙な世界で生きるための能力を増大させることができるのである。
ウォルターが家族のもとを離れ、地上に戻っていくと、彼の母親は幾分身を入れて夫の面倒を見るようになった。しかし教授の反応は相変わらずであった。彼はこの幻想世界の構造と性質の研究以外に彼の関心を向けようとはしなかった。学者らしくはあっても想像力を欠いた精神は、思想の古い軌道を巡っているだけで、地上で大学の講座を担当していたときとまるで変わらなかった。進歩のない合理主義的な唯物論者であり、相変わらずの温情的な学者タイプであり続けた。ただ現在では、もし彼が自分の研究テーマをやり尽くしたときは、自分の自我は幻想がなくなると共に倦怠一色に色褪せ、解体していくのではないかとはっきり感じていた。この考えに満足し、彼は他の学者仲間と会い、不毛の部屋で同じことを反芻したり、がらくたを捜し回ることに底の浅い幸福を見出していた。一方、ヘンウィック夫人は彼の気をひくことも、彼を決まった轍《わだち》から引っ張り出すこともできなかった。そこで彼女の関心は独身の息子マイケルに向かい、彼に自分の幸せの拠り所を求めようとした。
ヘンウィック家の六人のうちではマイケルが最も霊魂の発達が遅れていた。地上を後にしたときは、あたら持てる才能を萎縮させ、興味の範囲が情けないほど狭くなるのにまかせて、甚だつまらぬ男になりおおせていた。彼は真の意味で生きたことなどなかった。というよりも生きることが副次的なことであった。確かにこれといった悪徳はなかったかもしれないが、自己中心的で怠惰で、想像的エネルギーを全く用いず、兄のウォルターがそうであったような金銭への偏愛さえもなかった。こうしたわけで、幻想界の夢からそろそろ目ざめかけていた母親は、彼との交わりに何の幸福も生きた暖かみも見出すことができなかった。彼は母親に対し、地上の時と同じありきたりの尊敬と顧慮を与えたのみであった。
自分自身にたち帰ってみると、彼女の情熱的で独占欲の強い性格が彼女を息子のウォルターヘのやみがたい愛情へと駆り立てた。そこで彼女は冥府の画廊に立ち戻り進路を選び直すことにした。彼女を導く霊が鏡の前に立ち、彼女に過去の一生でやった以上のことを見せる。すなわち、息子が物質世界での様々な不幸な出来事に会っている様を映し出してみせる。ウォルターは今まさに物質界にあって困難な上昇の坂道を登りつつあるのであった。
ウォルターの苦悩は彼女の母性の中に埋もれていた利他的な愛情を呼び覚まし燃え立たせた。彼女は地上に帰っていきたくはなかった。そのままいけば何世紀でも満足に過ごせる幻想の生活があったからである。しかし、ウォルターへの心配が勝ちを占めた。彼女は、たとえそれが苦難を意味するものであっても、新しい地上生活の中で何らかの方法で彼を助けることが許されることだけを願って再生することに決めたのである。
彼女の願いは適えられた。そして同時に彼女自身も癒された。すなわち、母親としての欠点が修正され、前生における家族への悪影響も償われたのである。
ヘンウィック教授とその妻は、同じ類魂に属していた。そこで妻を失った彼はまもなく淋しさを感じ始め、知的な喜び以上の何か、同僚との議論に勝つこと以上の何かを求め始めた。もともと彼の心は多くの点で優れたところがあった。厳しく抑圧されていた感情が目を覚まし、人間らしい愛情や親しみのある特別な仲間を求める強い欲求を感じ始めていた。努力のいらない生活はもはや彼を喜ばせず、うんざりしきっていたが、さりとて今の生活を捨てることも適わず、それが都合よく解体してしまいそうな見込みもないのであった。
ひき続き浄化の時が流れた。教授は娘やマーチンや妻を求めたが無駄であった。家族を結んでいた絆は解け、彼は地上生活で彼を仲間から孤立させていた狭い排他性の代償を払わされるのであった。
マーチンは父親の孤独の叫びが色彩界〔形相界〕までかすかに響いてくるのを聴き取った。そこで彼は幻想界まで戻り、父親にその姿を現わすことはできなかったが、お互いを結びつける愛情のおかげで、指導霊として父親を導くことができた。マーチンの助けで、ヘンウィックは地上にいたときの過ちを修正することができた。彼は家族の立場を離れて周囲の魂たちを見渡してみた。その結果、奇怪でねじ曲がった魂が住む死後の暗黒世界を訪ねることになったのである。そこで憐欄や同情の気持ちがかなり干からびた学者の心に湧き上がってきた。パウロがエフェソスの野獣どもと闘ったように教授もまた、地上を去ってからわれとわが創造の地獄に堕ちた人の生み出す妄想の怪物たちと闘ったのである。
他者への手助けをすることにより、次第に寛大な性情の発露をはばんでいた堅い殼が破け、教授の魂は進化した。彼の発展を妨げていたものから解放されたので、彼は自己の内面の王国のもつ可能性にようやく気づいた。愛情というものを知り、大自我のもつ創造的側面に気づき始めた。そこで彼の魂は花開き、形相の世界(色彩界)への旅を許された。彼は息子と娘に再会し、「不滅」についての知識――すなわち、もし心と意識、想像力と愛と知恵によって導かれるならば登り究めることのできる荘厳雄大な魂の頂についての知識――を手中にしたのである。
一方マイケルは何世紀ものあいだ第三界に無気力なまま留まり、ますます消極的となり、植物的、利己的な生活を送ることによってどんどん劣悪な意識の段階に沈んでいった。
しかし彼にも遂に目覚める時が訪れ、兄と同じく地上に戻らねばならぬことになった。地上での身体障害者としての生涯が教育的効果をもったために、彼は次第に変わってゆき、良き性情が目覚めていった。再度の地上の旅路を終えた後で例の画廊を通り過ぎるときには、画面に映る自分の生涯の意味を理解できるまでに成長していたのである。
ヘンウィック家の者たちは個人としてつまずいたのではなく一団としてつまずいたのであった。そこで全体が壊れ、その部分は飛び散ったのである。いつの日か彼らは再会することであろうが、彼らが進歩を遂げて必須で貴重な感覚、すなわち共同体的特性たる経験、叡智、生命、愛などの神聖な分かち合いの感覚をそれぞれに具えるときまで、様々に異なった道に沿って時空を旅する――一例だけ例外があるが――ことであろう。

◆夢の子[原注5]

ある母親が娘をひどく欲しがっていた。ところが息子は生まれたが、あれほど望んだ娘の方は肉体を持っては生まれてこなかった。だがこの娘となるべき魂は霊界で彼女を待っていたのである。というのはこの魂は二度三度この世に生まれ出ようと試みたが果たさなかったからである。娘の魂は母親が死ぬまではっきりと意識のある状態では母親と会ったことはなかった。が二人は私が以前に述べた主観状態では出会っていたのである。私はこのようなケースを「夢の子」と呼ぶことにしたい。彼女は全く素晴らしい魂で、もし生まれていたなら、母親のこの世の生活は天国になっていたことであろう。
心からの願いが適わなかったことで、この母親の魂はかえって多くを学び、霊的にも成長した。もし生まれていればこの娘は母親をすっかり夢中にし、その結果、母親は利己的な母性の満足をうることにのみ終始していたことであろう。なんとなればこの子は母親の毎日を輝かしいものにしていたであろうから。このような幸福は本来第一の天国――すなわち形相の世界――に属するものなのである。そしてそこにおいて彼女はそのような歓喜を味わう定めである。幻想の世界でも彼女は娘に会い、無上の喜びを感じることであろう。娘と一緒になれたことで、死によって生じた息子との別離は、そうでなければかなりのものとなっていたはずの苦悩をひき起こさずにすむことであろう。
地上生活でこの子が授けられなかったことにはある神の摂理があった。その代わりに死後に彼女は望みのものを与えられる――それは静かで美しい田園の土地で、そこを人が出たり入ったりしている。この彼女の夢を満たす保育場は彼女の想像力が描き出す夢なのである。彼女が誇らしげにあやし、兄弟姉妹に見せびらかすみどり子、一緒に遊んで彼女の本性を満足させる可愛い小鳥のような子、愛を注ぎこむ対象、着せたり飾ったりの遊び友だち、上品で優雅で彼女の保護と愛のすべてが必要な少女、そうした彼女にとって宝以上の宝であるものを彼女は手にするのである。
それゆえ、この母親の真の幸福は死後の世界にある。しかし意識の深部では彼女は既にこの小さな娘を知っている。二人は同じ類魂に属し、母親は深く眠っているときは子供と一緒にいたからである。しかし容赦なき天界の法則により、彼女は記憶を現界意識に持ち帰ることを禁じられており、彼女はただ子供との別れの辛さだけを覚えている。この辛さはある漠とした不満足――一種の倦怠感や失望感として現われるが、彼女はそれらを理解しえないままに当をえない様々な理由に帰している。死後の世界ではこうした出会いの記憶が復活し、彼らは熱愛する母と子として出会うことになるであろう。
しかし、地上の時間がこの子に影響を与えると考えてはならない。死後の世界では、類魂のうちで様々なパターンを織りなす魂のそれぞれの性質に従い主観的な時間が流れている。そこでは外観と欲望が一致するのである。母親が新しい生活に入ったときは娘は可愛い年頃で、片言をしゃべったり、なかば這いなかば歩みの状態で、保育室の広間を横断する冒険を試みたりするようになっていよう。こちら側の世界にやってきた母親は、ゆっくりと知性が開花してゆくにつれ、その広大な世界の魅力に目を奪われていく。彼女は死のかなたにある蓮の華の天国で、かつて地上時代に望んでいたすべてのものを見出すであろう。
あなた方は私の描いて見せた母親の幸せと天国の生活についてうまく出来すぎていると思うかもしれない。しかし運命はきちんと赤字黒字の帳尻を合わせるものだと知っておいていただきたい。この母親は地上において大いなる不幸、人生を真っ暗にしてしまうほどの苦悩と失望を味わった。そこでさらに不滅への道を先へ進む決心をつける前に、心の望みを適えられ、地上で苦労して、時には泣きの涙で蒔いた種の収穫をすっかり刈り入れることになるのである。
私はこの女性の魂に興味をもち、それを根源まで遡ることによって夢の子供と知りあうことができた。そして彼女が母親の霊的生活の中で最も大事な存在であるのが分かった。こうした訳で、母親は夢の子の住む他界からの影響を深く受けるであろう。宝のあるところに心もあるからである。
これまで私が繰り返し、想像力はときとしてはとてつもない創造力を発揮する、といってきたことを思い出してもらいたい。また、絵を描いたり、詩を書いたり、音楽を創ったりすることだけが、芸術家であることの必須条件だと考えてはならない。この母親は本質的に芸術家なのであり、こうした芸術家は人生から一つの詩を作りあげる。もし彼女が母親ならば、小さな娘のために幼年時代を一つの詩に作りたいと思うことであろう。あなたのおかれる境遇がどうであれ、あなたは人生を生きた芸術につくりあげ、あなたの属するグループの人たちの生活を富ませることができる。そのことをどうか忘れないように。

◆人間個性と死後存続

友達同士が接触によって、互いに基本的な性格を形成し創造し合うというのは本当である。つまり、彼らはそのことによって性格の幅を広げ、むきだしで表現に乏しい基本性質に彩りを添え、仲間次第で変化する自我の画像を創作するのである。
従って私は、死後存続との関連においては「個性」という語の使用をためらう気持ちがある。それはちょっと見たところ、水の上の映像のように捉えどころなくはかない感じである。そこで、どうか、辞書にあるこの語の意味を見ていただきたい[原注6]。
辞書の定義に従えば、「思考する知的な存在として在る状態」というのが個性という語の意味である。不幸なことに多くの唯物論者はこの語の意味を変えて、個性を思考や知性の意味のみではなく、顔、外貌、形姿、動作などの物質的属性にまで拡大している。彼らは個性を肉体機関の表現であるというであろう。彼らにとっては肉体だけが現実なのである。それゆえ、心霊研究者が唯物論者と人間個性の死後存続について議論するときは、いつも噛みあわないものとなる。つまり、唯物論者は、生命が肉体を動かさなくなったとき個性はもはや存続しないと主張するからである。
この議論は不充分な基盤から出発している。実際、このような重要な語については再定義がなされるべきである。なぜなら、そのことは生命は一時的なものか、それとも永遠なものなのかを論ずる人々のあいだで、議論の核心をなす部分だからである。
人間個性ということばは「思考する知的存在として在る状態」と定義されており、そうすると白痴や狂人は個性を所有する権利をもたないことになり、議論を正気の人間のみに限ることになるが、それ自体いささか残念なことである。そしてさらに、思考する知的な存在とは必ずしも物質的性質をもたないということに注意しなければならない。しかし「人間個性」は物質との連関を想定させる。というのは、人間の思考の中ではそれは、他の存在や外形を待った存在と相互作用しうるものの存在を想定しているからである。それゆえ、人間個性の存続を論ずる場合は、身体のない創造物を考えるのはやめるべきだ。身体を待ったものとしての考えうるあらゆる可能性を想像してみるべきである。
そうすると、誕生から死に至るまで人間に付帯して存在するやや高い強度で振動する身体があると考えてみることができる。その身体は目には見えないが、睡眠中に魂や意識的知性を受け入れ、いつも知性および想像力の本体と物質的な身体との間で仲介者として働くものである。
このエーテル体〔訳注6〕を仮説として受け入れるなら、それを「複体」〔訳注7〕とか「統一機構」と名づけるのがよいであろう。というのは、この機構はその成り立ちからして反応が肉体と同じく自動的だからである。そのうえ、この複体は人間の可視的身体とよく似ている。外観が相似的であるという点においては、さしずめ双子といってもよいであろう。複体は、肉体の印象を映し出し、感覚に記録された記憶を受け取り、その印象を脳物質に刻みつける。脳物質はといえば、それを記憶の材料である心的表象と結びつけている。
それゆえ、よく考えてみると、「複体」ということばは、それが意識に仕え、意識の高次のセンターと物質的脳を交流させる役目を果たす機関であるとの意味を部分的にしか表現していない。実際のところ、その意味を充分に表わすためには「統一」ということばがぴったりである。というのは、その語は、エーテル的機構――すなわち人間活動の諸機能を統一し、関係づけ、調和させ、一つのものとする――の目的を伝えているからである。
唯物論者と議論するときは、この複体の基本構造についての理論をしっかりと築き上げておくとよい。例えば、老人たちの記憶の衰えは、魂が崩壊してゆく物質脳に印象をうまく刻むことができなくなるということで説明できる。機械があまり使用されたので反応しなくなったという訳である。一方、個人の記憶は統一体の中には完全に記録されている。魂の体の方は肉体のように年の経過で衰えていくということはない。前の本で私は、この統一体が死後の世界における魂の体となる発達中の形成物を包み保護するので、それを「殼」と呼んでおいた。
一生を通じて、この個性の潜在的表現体は、エーテルの子宮の中で形成されてゆき、二十年、五十年、七十年という期間に、あるいは何年であろうとその地上滞在期間の間に成長してゆくのである。ちょうど卵の殼が投げ捨てられるように、死後の冥府で新たな誕生の準備がなされた後、この魂の殼は捨てられる。
死後の世界への誕生は多くの点で物質世界への誕生とは異なる。原則として二、三の帰幽霊が死にゆく人を助け、彼が地球上で住んでいた意識のレヴェルから解放する。出生に携わる母親役の霊人たちは、誕生の機構が別なので、この世の母親と違い陣痛の苦しみを味わうことはない。この点が二つの世界、つまり二つの意識レヴェル間にある第一番の相違点である。
肉体の解体に携わる者たちの仕事は大変な熟練を要する。彼らは複体を崩れゆく肉体に結びつけている網状の紐を静かに切らなければならない。病気などの場合にはその紐をひとつひとつゆっくりと切り、急激なショックを与えて次の生活の進歩に一時でも支障をきたすことがないようにしなければならないのである。
死産の嬰児でさえ、もし無事生まれたら物質界で成長を始めたであろう複体に匹敵する複体をもっている。この嬰児の魂は死のかなたの世界でゆっくりと成長していく。前世からひき継いだエーテル体はやがてそれに一つの形態を与え、これが次第に成熟していくのである。
実際のところ、水子になる魂というのは選択を誤った魂の例であり、前世での経験ないし運命が織りなすカルマのパターンからいっても、暫く地上的想像の世界での生活を続けるべきであったにもかかわらず、地上に帰ろうとした魂なのである。
最後になったが、動物の未発達な魂が進化して、多くの魂が一つの類魂を形成し、遂には一個の人間にまでなる可能性について言っておきたい。これは善悪の問題ではなく、意識は、最終的に人間のレヴェルに達するまでには、より複雑な生体における体験を段階的に積んでいかなければならないという根本原則に基づいたことなのである。
しかしわれわれの関心は今のところ複体にある。この体は、あらゆる点で肉体に似ており、睡眠中は魂を受け入れ、神経エネルギーを経由して肉体に生命素を供給している。複体中のすべての機関は、肉体のそれと鏡に映る像のように似かよっている。しかしそれはより高い密度で振動している。人の命が終わりに近づくと、閾下自我が複体の中でエーテル体を発達させる仕事を始める。この身体もまた当人そっくりであるが、当人といってもその盛りの時か、特に七十以前に他界した場合には、青春時代の似姿をとるのである。
しかし、その人の魂が暫く冥府に滞在した後でなければ、類魂の精神はその人の身体をイメージし直し発達させる仕事をやりおおせない。類魂の生命を司る芸術家たる本霊は魂に協力してその形姿を再創造する。その外形はその人が地上で過ごした内容をありのまま表現するのである。

◆生体と連動する複体

複体は肉体を手中に収め統一する根源力である。人間が眠り、複体が既に肉体を占有していないときでも、肉体は複体の精妙な網目――肉体を複体に結び付けている沢山の糸と二本の紐からなる――によって支配されている。
意識は脳機構のみを通して指令を出しているわけではない。それは内分泌腺、太陽叢、仙骨叢などのような他の肉体中枢と間接的につながっている。しかし魂は複体を仲介として働かなければならず、直接物質に命令を下すことはない。自我と物質世界の外的表現体の間にはこの統一体がある。
エクトプラズム〔訳注8〕は半物質的性格をもった中間物質であるといってもよかろう。それは生命の元ともいえるものであるが、消化系統を通って吸収されたものではない。それは複体によって分泌され、肉体にあまねく供給される。その究極的目的は神経に栄養を与え、細胞を強化することである。
ごく稀にだがこの物質を過剰に持っている人があり、このような人は通常物質的霊媒能力を持っている。あるトランスの条件が満たされると、そうした人々はこのエクトプラズムを外在化することができる。霊媒によってはその統一体が帰幽霊の支配を受け、その結果、霊が肉体の一部を、そのリズムを変えて複体のもつ高い振動率に転換することにより、一時的に消滅させることができるようになっているものもある。
心霊研究者たちはこの奇妙な現象を覚えているであろう。そしてその説明を霊界側から働く支配霊たちと、何百万人に一人の霊媒の複体がもつある意味での伸縮自在性に見出すことであろう。
さて、通常人がすっかり目覚めているときは、その統一体は肉体内に収まっている。二つの身体はお互いにぴたりと重なり合い、相互に浸透しあっている。しかし眠たくなると複体はズレて外側に傾く。霊視能力をもった人が見ると青白い形のものが肉体から半分ほどはみ出しているのを見ることであろう。ショックや騒音がこの人を目覚めさせると、たちまち複体はその人の内的表現の中に引っこんでしまう。

*      *      *

誤解があるといけないので、『人間個性を超えて』で述べたことにつき、付け加えておきたい[原注7]。私は人間が眠くなると複体が外に傾くと言った。こう言うと、睡眠中複体が肉体から離れると思う人もいるかもしれないがそうではない。眠くなると複体の「精髄(エッセンス)」ともいうべきものが外側に傾くのである。これは最初外に飛び出したときはほとんど形のない青白い雲のように見えることであろう。だが、私が「殼(husk)」と呼んでいるものは、肉体の中に残るのである。この精髄部分がエーテル体であって、生存中ゆっくりと発達し、経験を積みつつ次第に形と性質を整えてゆくのである。しかしそれは死後の世界で殼が捨てられるとき、最終的には魂の体となるのである。
地上生活中この精髄部分は極端に可塑的である。稀には、有名なインドのヨガ行者などのうちに、複体ないし幽体で旅行し、世界中の遠隔の地を訪れ、幽体旅行中に経験したことの記憶を現意識に持ち帰ることのできるという人がいる。実際に彼らの意識はこんな風に飛び出していくのだが、その表現媒体は統一体の一部分であって、それは人間の意識を超意識存在に結びつけているのである。
こういっても複体の二元性を考えてはならない。これまでの説明では「殻」と精髄部分の完全な分離が可能なように思わせるが、それはありえないのである。複体は睡眠中肉体を離れるが、前述の魂の緒と、もう一つのコードで殼に結びついている。それは肉体から離れるときは形がないが、可塑的なので自動的に肉体の形をとり睡眠中さまよい歩く。現在のところ、写真フィルムは肉体を脱け出た睡眠体を写し出さない。この精髄部分は殼よりも一段階精妙な振動体だからであろう。死の瞬間に肉体から立ち上る複体を写す写真フィルムは、統一体全体が肉体から出る最初の好機をのがさず捕らえることになる。この分離は必ず脳細胞の崩壊を招く。なぜなら脳細胞は活力復帰の媒体、バランス維持の媒体として「殼」に依存しており、これなしでは脳は働きを継続することができず死滅してしまわなければならないからである。
そこでわれわれはいつかは死亡時の複体を撮影できると結論できる。がそれにはもっと感度のよいカメラが開発されなければならず、そうでない限り、人の睡眠中に複体の精髄部分――いわゆる幽体――が現われるのを写すことはできないであろう。

◆病気と複体

感情は人間から放射される電気的タイプのエネルギーだといえよう。内分泌腺は主としてこの感情とつながった、情緒的脳ともいえよう。複体を通して働く魂はこれらの腺に影響を与え、腺は血液の科学成分を変更せしめる。意識(mind)がそれを腺と結んでいる複体を通して充分に働かないと、人の性格は異常をきたすことになる。その原因は複体の弱点にある場合と、意識を支配する魂の欠陥による場合とがある。通常は魂が、腺の異常や内分泌の過不足に責任をもっている。
医師ならば、性格や個性はかなりの程度、いやおそらくはほとんどがこれらの腺に依存しているというであろう。医師の診る異常な症例に徴してみれば、このような独断を構えるのも、一応もっともな理由がなくもない。しかし実際のところ、生理学上の異常機能の原因を探すにはもっと深く見ることが必要である。その原因はこれらの中枢の統制に失敗した魂に求められるべきである。この失敗は闘下自我によって犯されたある過ちに由来しているのである。
多少問題があるが敢えて大胆な言い方をすれば、ある人によって無意識下の意志に強く繰り返される暗示は、ある生活方式と規則的な運動が併せてなされると、活動不足だったり過剰だったりする腺と結びついた内分泌の流れを改善する。さらに言えば、ある種の病気は統一体の弱さに起因するものである。ある種の癌なども原因を探れば目に見えない身体の欠陥によることが分かるであろう。それゆえ、無線通信が目に見えぬごとく目に見えぬ有機体が働いていることに気づくまでは、医師たちはある種の癌の治療法を発見できないであろう。
人間が不治の病にかかり、精神的にも肉体的にも苦痛の甚だしい場合には、医師は慈悲の心をもって患者にある薬を与え、ゆっくりと静かに肉体を離れられるようにしてやるべきである。魂はこうした死に方で傷ついたり悪影響を受けたりすることはないからである。医師が魂を病める体から余り急速に引き離したりせず、また三、四日かけてゆっくりと体から脱け出すようにする限り、国法が未だに罪としていることを犯したとしても、彼の行為は正当化される。
しかしながら、取り敢えずのところ、人間個性の問題を論じているわれわれにとって、病気と人間の問題は余り関心がない。今までのところ目に見えない統一体が存在しないと証明されていないということは認められてもよかろう。しかしまた存在することも証明されていないと懐疑論者はいうことであろう。けれどもこうした証明はいつか人に与えられよう。それはともかく、この微妙な機構の存在が受け入れられ、それが魂と脳の間にあると承認されるなら、個性という語の意味は拡張されねばならない。なぜなら、当然のこととして、この精妙な構造体はその性質からして、外観、形態その他個性を表現するあらゆるものに影響を与えているからである。従って、精神の敏不敏は意識が働きかけるこの複体という経路の性質次第できまる。つまり複体は覆いをかけられたフィルターともなれば、また魂の高次な中枢からの完全なメッセージを滞りなく伝えるものともなりうるのである。

◆自殺

われわれが現界と交信するときに、われわれ霊界のものが、いかなる人も自らの命を絶つようなことをしてはならないと強調するのは、自殺者がもはや自分の肉体をコントロールすることができないと思った瞬間から、自殺に伴う絶望、恐怖、すねもの的幻滅感などの精神状態が甚だしく強められるという事実があるからなのである。自殺者は通常自分が死んだことに気がつかず、そこへ彼を追いこんだムードだけが雲のように彼を包みこんで、われわれの側が彼を救済しようと思っても長いことうまくいかない。感情的な思考や精神的態度全体が防壁を造ってしまい、それを壊すには当人自身の忍耐強い努力やきっぱりした克己心、なかんずく救済者たる高級霊への彼の魂のあらん限りの力を振り絞ってする嘆願懇願による外にはない。
不幸なことに通常、自殺者の心はねじ曲がり、全意識が内側を向いてしまっている。真っ暗闇の中に本人の主観だけがほしいままに働く状態であるから、彼は自ら自己の罪を罰するのであるが、ほとんどの場合はこの罰を自分の行為の結果だと思わずに、彼を取り巻く悪意ある力のせいだと思っている。また事実多くの場合、自殺に先立つ暗鬱で、くよくよした想いは、ある種の自然霊を呼び寄せ、こうした地妖の類が彼を悩ませ掻き乱し、こわがらせたり苦しめたりすることがある。これら自然霊は、地縛圏に近づいて彼の熱病的な空想の中にまざまざと姿を現わすのである。
こういっても、私は自殺者が死後に辿る生活をすべて表現したわけではない。ある高貴な目的に満たされて自殺した人のような例外的な場合がある。例えば、誰か貧しい人を救うためとか、不治の病によって愛する人が死に衰えてゆく悲痛な姿を見ないですむようにと自己犠性的に命を絶つ場合とかがそうである。こうしたとき、その人がこの恐ろしい行為を冒す気持ちの中には、ある良き熱情や自信があり、それがその人の意識を外側に向ける。つまり、利己的な自意識がないために、そのことが、死後の暗黒世界の中で彼を救うのである。彼の複体はそれを肉体に縛りつけている精妙な網目からゆっくりと切り離されるけれども、それには激しい苦痛が伴わない。彼の魂が満足しているので、ねじくれた絶望や自己憐欄の苦痛に付きまとわれないからである。そこで邪悪な存在は彼に近づくことができず、悪夢となって現われることもない。
正当ならざる動機によって自殺する者は、暫く冥府の暗闇に住まい、しかるのちに幻想界の最下部で過ごす。しかし死後に自殺者の辿る道筋はその性格や地上での過ごし方次第で様々である。さらに、憑依霊がしつこく唆した結果命を絶つに至る例がある。この場合、当人は暫く暗闇で過ごすとしても、こうした行為の結果を全面的に償わなければならないのは憑依霊の方である。
こうして、自殺にともなう処罰について論ずるとき忘れてならないのはその魂の性格、気持ち、行為の背景となった動機などである。これらがはっきりと分かるまでは自殺の結果を判断することはできない。
突然の死にみまわれたケースにおいても、死の経過は一様ではないと付け加えておかなければならない。というのも、死に際して幸福な魂は比較的スムースな経過を辿るからである。肉体からの離脱の模様についてあらゆる場合に当てはまる説明というのはありえない。私は共通部分をとり、大多数の例を述べうるだけである。急死からの救いを祈願する古い祈祷は科学的な人間には忘れられてしまった古代の智慧であり、隠秘学(オカルト)的な知識に由来する。
人生の盛りのときにふいの死にみまわれた人は中間状態の冥府に長いこと留まっていなければならず、ゆっくりとした経過で空間の奥に振動する明光浄気の世界へと向かって進歩を遂げてゆく。こうした境涯の生命体は地上の人々の周囲でも振動しているのだが、振動数が異なる。すなわちそれは人の密集する街なかを流れ漂い、山を越え、固い大地の内外を透過し、物質世界とは全く別個に存在しているのである。それらの魂はまるでかつて地上に存在していなかったかのようであり、人々も街も幽霊であったかのようである。そして、彼らはごく稀には新しい死者の出た家をうろつき回ることがある。
無論私は、私のような探究者ではない普通の帰幽者が、何かの理由で、この昔住んだことのある地上に未練をもつ場合のことを言っているのだ。私たちのような探究者ならば、冷静に想像力の或る過程をこなして人間の集合的意識に入りこみ、自分たちの考えを通訳してくれる霊能者と交流する。
私は、愛の絆によって人間の男女に結びつけられている魂や、親しい人たちとは住む境を隔てながらもその主観的意識の中に入りこんで経験を共有することのできる霊について言っているわけではない。物質世界の内外に生活しながらそのことを全く意識していない大部分の新参の死者について言っているのである。近親者たちは彼らに戸を閉ざし、交信しようとせず、恐れや、先入観や、誤った同情心から、出会いや交流の再開を拒絶し、彼らに短い挨拶や別れのことばをいう機会さえ与えようとはしない。
無論、愛する人の冷淡さや無知にもかかわらず、夢の状態で、地上に残した愛する大事な人をあたかも同じ世界に場所を占めて同じ次元に存在するかのごとく認知できる魂も多数いる。しかし、全般的にいえば、目下のところ、世界が世界のうちに振動し、無数の魂が無数の魂の中にいるが、彼らはその生涯のあいだ、意識的にはお互いに見ることがない。異なったリズムに住んでいるので互いに孤絶し、知りあうことがないのである。もし心理学者が二つの状態をみれば、二つの存在系が相互浸透して、互いに同じ空間を占めていることを認めるであろう。
しかしながら、以上のことは人間が深い眠りにあるときは別である。そのとき人は複体で、体から出ていき、愛情の絆でつながっている二、三の帰幽者の主観意識の中に入っていく。

[原注]
(1) 家族の類魂(The Family Group)。理解を助けるために記すと、この家族はヘンウィック教授夫妻、三人の息子マーチン、ウォルター、マイケル、それに一人娘のメアリーから成る。マーチンはマーガレットと婚約するが、彼の死後、マーガレットはリチャード・ハーベイと結婚する。この家族は全くのフィクションである。――E・B・ギブズ
(2) 本書第十三章「地獄」「われわれは自分で地獄を創るか?」を見よ。
(3) 本書第十六章「自然霊」「動物の死後存続」を見よ。
(4) 受胎時において、生まれる前の赤子の魂は母親との繋がりをもつ。肉体的に言えば、受精と同時に魂と細胞のあいだに関係ができる。魂が再生したいと思うと、そのエーテル体は再生の期間中魂に随伴することになる複体の内に吸収される。これを一夏の花と果実に残された種の場合を例として考えてみよう。この種は来る夏の花と果実を可能性として含んでいる。同様に、エーテルはちっぽけな一粒の種子に比せられるもので、その諸性質は眠っている。ことに再生した新生涯の前半部においてはそうである。しかし死後においてその花と実が取り入れられる時がくることを確信せよ。――F・W・H・マイヤーズ
(5) 幻想界で過ごす生活についてこれまで述べられた例は全く架空のものである。しかし以下の例は、通信霊が実際に詳しく知りえた実例を語っている。――W・B・ギブズ
(6) この要求によってギブズは辞書を持ってきて、指示通り読み上げた。通信霊が一つの文を選び以下のように再録したものである。
(7) 以下の数節は後日マイヤーズによって書かれた。

〔訳注〕
(1) シェイクスピア『テムペスト』第四幕第一場。
(2) 本霊(spirit)。通常の霊という意味とは違い、類魂を束ね統括する霊の意味に用いられている。日本的に表現すれば親神とか守護神に相当するであろう。浅野和三郎はこれに「本霊」という訳語をあてているので本訳でもそれを踏襲した。もっとも本書を通読すると、魂のうち第五界以上の意識レヴェルにある上級の魂も「霊」spirit と呼ばれているようである。
(3) The Light from Above。原則的には第五界以上の霊を指すようであるが、そうした高級霊がわれわれに接触をもつためには具体的には次々と仲介霊を介して下りてくることになる。従ってここでは漠然と「上方からの光」といっているが具体的には類魂の中の個別的な守護霊や指導霊を含むと考えてもよかろう。
(4) the larger self。個々の魂の自我に対して、同じ類魂の中の第五界以上に上った魂(それ以下の魂の自我を含んでいると考える)を自我の延長と考えて「大自我」と呼んでいる。ある超越的な意識状態では一時的ではあるが大自我と一体になると考えられている。また魂は成長の過程で絶えず大自我の導きを受ける。「大我」と訳してもよいかもしれないが、仏教における「大我」と必ずしも同じ定義にならないと思うので「大自我」とした。
(5) the Great Memory。やはり第五意識レヴェル以上の類魂の中に蓄えられる記憶。神秘学におけるアカシック・レコードに相応するものであろう。マイヤーズの説明では、魂は死後、当面の魂の成長に必要ではない記憶はこの大記憶の中に預けてしまい、必要に応じて(例えば地上と通信しようとするときなどに)、特殊な主観意識状態(一種の催眠状態に似た)でこの記憶を取り出す。また各界における冥府通過期においてはこの記憶が再現される。
(6) etheric shape。補遺のI「肉体と魂と霊」参照。
(7) double。同上。
(8) ectoplasm。エクトプラズムの外在化したものは欧米でも日本でも心霊実験によって観察され、化学分析も試みられている。物理的心霊現象の背後にエクトプラズムの働きがあることはいわば定説となっている。しかしここでのように、エクトプラズムが体内で細胞に栄養を供給しているとか、複体がこれを分泌するとかの知見はマイヤーズの通信独自のものである。「世界心霊宝典」第四巻『ジャック・ウェバーの霊現象』参照。

第四章 再生

地上で全く物質的生涯をおくった人々が、知的で高次な形の情緒生活を体験するために再生しなければならないのは明らかである。言い換えれば「動物的な人」の段階にある人はほとんど例外なく再生する。
私が「魂的な人」といっている人の中にも、もう一度地上に生まれることを選ぶ者がいる。しかし、転生といっても機械のように規則的な再生が繰り返すというわけのものではない。私はこれまで特定の魂が死と再生による進歩過程を永続的に続けているという例証には出会っていない。或る個人が百回ないしそれ以上も地上に再生するなどとは一瞬も考えたことはないのである。実際、これは誤った仮定だ。むろん、未開人の中には物質的性情を超えて上昇しようという気持ちや向上心もなさそうな人が結構いるから、例外もあるであろう。しかし大部分の人は二、三回ないし四回の再生ですます。もっとも或る人間的な目的や計画がある場合は八回も九回も地上に帰ることがあるかもしれない。これについて勝手な数字を挙げることはできない。とにかく、人間の形態で五十回とか百回以上の人生をさまよう運命はないと結論しても間違いはなかろう。
彼らに割り当てられた僅かな地上生活からだけでは十分な経験を集めることはできないという人がいるかもしれない。しかしこれらの数回の再生のすべてを費やしても、類魂の経験の代表的一断片を体得できるにすぎないから、これによって生ずる経験不足については、それを補う備えがなされている。
乞食、道化、王、詩人、母親、兵士。私はここに条件や種類の全く異なる生涯を繰り広げるであろう六つの役柄のみを挙げてみた。これらの人々は皆五感を用い――運命が彼らからそのうちの一つ二つを奪うことがなければであるが――幾つかの同じ基本的感情を経験するのである。つまりこれらの感情は肉体機関の性質とリズムに応じて変えられているだけである。
しかしながら、たとえわれわれが六回地上の生活をおくったとしても人間経験のほんの表相に触れただけなのだと承知してもらいたい。それだけではまだ或る訓練を受けたというだけで、人間存在の高みも深さも探りえたとはいえない。つまり人間の意識や感情のすべてを経験できたことにはならないのである。だが、地上での収穫を何度も取り入れなければ――例外を除いて――死の彼方の高次の世界で生きることはできないのだということも間違いないところである。
しかしわれわれがいちいち地上に戻って多様な人生経験と知識を自分の貯蔵庫に集める必要はないのである。われわれはそれを類魂の生活と合一することによって取り入れ、束ね、わが家に持ち帰ることができる。類魂には多数の魂が属していて、過去、現在、未来にわたる魂の旅を繰り広げている。実際、類魂の中でわれわれはそれを「旅」と呼んでいるのである。私はかつて黄色人種に属したことはないが、わが類魂には東洋での生活を経験した者もおり、私は彼らの過去世の行為、感情の中に入っていくことができるのである。
この共同生活を通して私は仏教徒や、アメリカ商人や、イタリア画家の地上遍歴のドラマをわが身に感じとり、もしそれに同化することができれば肉体を持って生きることを省略できるのである。
あなた方は大自我の中に入ることによりいかに意志力と知覚力が増すかを知ることであろう。そこにおいてあなた方は自分自身であり続けると共に、基本的な個体性を保ち続ける。が、性格と霊力は驚くほど進展する。
あなた方は年と共に知恵を重ねるが、それは何も粗雑な肉体という拘束物の中で何百年も疾風怒濤のごとき時代を過ごさなければならないということにはならず、あなたの魂に似た人――地上にあったときの肉体はいかに無縁のものであったとしても――の記憶の中で愛の牽引力が引き寄せるものの中からそれを集めることができるのである。
他者の経験の中における生活というのは、人間にはこれまでほとんど理解されていない。その場合、魂は現実生活とは掛け離れたドラマの虜になった観客に似ている。それゆえ魂は劇中で、肉体そのものが現実の時代的背景の中でじかに味わった歓喜と苦痛を体験するわけではないのだが、同類の魂の生活における行為、思想、気分といったものの結果を子細に感得するのである。そうすることによって、魂は――今や感情も情緒も全然違った種類のものとなっているが――この共同的集団状態で、あらゆる典型的地上生活、霊が肉に縛られ、五官や何百万の脳細胞に縛られているときのあらゆる基本的様相についての知識を獲得することであろう。
私は自分の書くことに特別の権威があるなどと主張しようとは思わない。私は自分自身のささやかな経験と知識に照らして、魂が旅する際の地上との関わりについて述べたつもりである。私は決して私の説をこの問題についての最終結論とするつもりはない。いつか私よりも広い経験と知識を待った魂に出会い、初期の神智学徒が主張していたごとき超越的唯物論が間違いのない理論で、一つの魂が数世紀に亙って、もしくは永遠に誕生と死を繰り返し続けるということが疑いなく証明されるならば、いつでも自分の誤りを認めるつもりでいる。
魂が障害を待った身体に生まれるということは、その魂が前生において失敗を犯し、その結果、或る特定の経験を積まなければその失敗を償うことができないためである。
例えば白痴のように、見たところこの世の活動を抑止された魂の場合でも、物質界での機能は果たしており、漠然とながら地上生活での学習を続けている。実際のところ、暴君とか宗教裁判の審問官であった人などがしばしば白痴や低能者に生まれ変わっている。彼らは死後の世界で自分たちの犠牲者の苦しみを理解し同情することを学んだ。しかし時として、この反省過程が凄まじいほどのものである余り、これらの罪人の想像力の中枢が狂ってしまって、次の再生の期間を通して精神異常の一生をおくらなければならないことがある。つまり、その者は過去の罪の意識に付き纏われ、自己の行為が生んだ夢魔的幻想や恐怖に襲われるのだが、こうした錯乱の状態は彼の不幸な犠牲者たちが復讐したがっていることを知るとますます強化されるのである。
再生に関しては定まった法則というものはない。進歩の或る段階で魂は、過去の地上生活との関連性の中で自己の本性を熟慮し、反省し、自己評価する。原始的心性の人はこれを自己の存在の深部を突き上げる本能――すなわち一種の感情的思考――によって行なう。このとき本霊がどういう方向に進むかについて助言する。魂は完全なる自由意志で選択するが、本霊が進むべき方向を指し示すと大抵その指針に従うものである。
人間存在の背後に潜む力とはつまるところ想像力であることをよく心に留めておいてほしい。それが過去を記憶の形で保存する。もし一瞬たりとも自己の作った鋳型に固定されることがなければ、絶えず現在という時点において想像し、自己に必要なものを加え、不必要なものを除去する。
従って、意識の各中枢に固有の新鮮な想像力を絶えず再認識せよ。この力にこそ、たとえその霊的生活のレヴェルがいかに低くとも、人類の未来への希望がある。
魂の旅を研究する者は、死後の世界で、物質とエーテルの世界を出入りしている類魂の仲間たちの旅路の模様を調べてみるだけでも、魂の旅がいかに多様なものであるかに気づく。
なぜなら、各魂には互いに差異があり、同じ本性、性格のものは二つとない。彼らの想像的な空想が、めいめいの間に差異と多様性を生み出すのである。そういう訳で、再生理論に関しては意識生活の全領域に共通する法則というものはありえないのである。教条主義者は、この問題に関しては、神聖な神秘劇に頭を垂れて沈黙を守った方がよい。この神秘劇が創作されるとき、霊中枢としての各魂は、神への各々異なった帰還の道を見つけ、宇宙的想像のうちに、幸福に満ちた不断の創造的生命活動を営むよう決定づけられたのである。
初めて肉体を待った魂は、通常その類魂の或るメンバーと霊的に極めて近い関係にある。そして、その関係が近いほど古参の魂のカルマを引き受けることになる。そうした古参の魂は既に四、五回の地上生活を経験している。がしかし未だ充分には純化していず、霊的進化に必要なだけの地上経験をしていない。しかしながらこうした場合、二つの方法で必要な経験を獲得することができる。①類魂の記憶の中に入ることによって。②その魂のカルマ――何度かの地上生活によってつくり上げたパターン――を引き受けた若い魂と霊的な関係を保つことによって〔訳注1〕。
こうして自らの創造の分身である類縁の魂に霊的に結びつき、この魂の地上の旅を見守ることによって自らの霊的生命を豊かにするのだということが分かるであろう。
魂は想像力の中枢であるが、中には創造者の心の中に入りこめないものもある。そうしたときは、本霊がこれらの魂が無価値で不滅を達成できないと判断すると、魂の分解消滅を宣告する。これが私が私の最初の本を『不滅への道』として『不滅の道』とはしなかった理由である。というのも、或るものは中途で挫折するからである。しかし何ものも無駄にはならず何もなくなりはしない。魂は分解されるけれども、その記憶と経験は類魂の中に維持され、共同体のメンバーのために役立つのである。
私が「霊的な人」と名づけたうちの或る者は物質世界にたった一度だけ肉身をもって生まれるのだと私は確信している。私の考えではキリストはエリシャとかほかの誰かの生まれ変わりでもない。キリストは全体者すなわち神の限定表現であり、ことばが神になった例である。彼は一度だけ地上にやって来て、そして神のもとに帰った。霊魂進化の長い道のりは彼にとって必要なものではなかった。そこに彼の神性の秘密がある。
ナザレ人イエスは神の子であった。なぜなら、彼は地上に降りてきたが、再び天に登るや、意識の七つの段階のすべてを遅滞なく通過し、何の妨げもなく神に合一したからである。旅する魂たちによって創られた様々な界層、様々な世界に住むことは彼には用なきことであった。というのも、彼は既に神そのものであったのであり、彼の意識、即ちすべてを抱えこむ愛の心の中に全宇宙を包含することのできる霊的な力を持っていたからである。

〔訳注〕
(1) これはいわゆる「守護霊」と現界人の関係を暗示している。浅野和三郎によって命名された「守護霊」とは、日本独特の概念で、分霊のもとたる親、つまり前生霊を示す。守護霊は各自に一体で生涯変わらず、現界のわれわれを守護善導するとされる。浅野の日本霊界研究による守護霊の概念が、はしなくもマイヤーズのこの通信で傍証された感じである。
しかし欧米でもこの概念は一般化していない。通常は「指導霊」(Guide)、「支配霊」(Control)などが用いられる。
欧米の「守護の霊」(Guardians)は必ずしも浅野流守護霊ではなく、高級指導霊の意味で一般に複数である。分霊を出すのは全部再生をしなくなる第四界からであると思われるが、本書第十一章において、第五界で数柱の霊人が集まって新しい魂を創造すると述べられているのが注意されなくてはならない。第五界というと、日本では産土神クラスではないかと思われる。わが国では従来産土神が出生に関与するといわれている。前生霊である守護神と第五界産土神クラスとの出生に関する協力関係はよく分からない。第五界霊を守護神クラスと考えてもよいかもしれない。――詳しくは、『不滅への道』巻末解説参照のこと。

第五章 同魂同士〔訳注1〕

各人がおのおの一人ずつ魂の片割れをもつのかどうか、また二人が揃って一つとなる魂の片割れ同士というものがあるのかどうかを尋ねられた。
二人の人間が霊的に甚だしく似かよっているために、両者が互いに他を補い合っているといわれるケースが稀にある。つまり、お互いに他方の必要とする基本特質や共感を分かち合っているのである。このような例外的なケースにおいては、ふたつの魂が一つの全体の両半であると言ってもよかろう。二人は愛する片割れが傍らにいず、地上生活で会えないときには絶えず一種の喪失感や漠として満たされざる感情をもち続けるものだ。
同魂の片割れ同士は高次の霊界で合一し、一つの心霊的合一体となる。しばしばこうした合一体は素晴らしい霊的開花を遂げ、一体となって類魂に非常な貢献をする。しかし、他方ではこの心霊的合一体はある環境の下では、二人が余り熱烈に愛し合って他を顧みないために、類魂から孤立してしまうことがある。この孤立化は、暫くのあいだ彼らの進歩を遅らせることになる。そしてこの同魂の片割れ同士もいつかは類魂の中に入って多くの魂と経験を分かちあい同化過程を通して宇宙生活に入ってゆく準備をしなくてはならない。
誘感や困難が大きければ大きいほどその霊的成り立ちからして「同魂同士」といわれるものの味わう喜びは深い。この魂たちはしばしば孤独に旅しなければならない定めである。なぜなら、この愛する同士がひき離されていて、どうしても交歓交流できない期間――すなわち、彼らが永遠の旅路の様々な場面で別々に自己の本性の実現を図るあいだは――生の歓喜も光明も彼らを見捨てているからである。

〔訳注〕
(1) affinities。普通は男女一対。二人で類魂の中の一単位をなす。soul-mate ともいわれる。

第六章 二つの性

知的な人ならば誰も二元性の原理があまねく宇宙にゆきわたっていることを認めるであろう。太陽と月、電子と陽子、男性と女性、といった一対ずつの存在が観察される。しかしこれらは常に一つのものの両面であること、一つのものとは「霊」にほかならないことを心得ておかなければならない。
私の生きていた当時、男女同権の問題が熱心に論ぜられたことがあり、大方の知的な人士は、女性が男性に劣るもので、女性は市民権などというものを理解もできなければ、それに対し責任を負うこともできないと考えていた。この考え方は、唯物論的見地から反射的に飛び出してくる信念なのである。もしこの世や肉体の制限を超えた視点をもち、霊的宇宙を信ずる人なら、明確に考えるかぎり、すべてのものに生命を吹きこんで生かしている根源は男でも女でもなく霊であることを認めざるをえないからだ。すなわち、女性も男性と同じく魂をもち、父や男の兄弟と平等に、われわれの存在の根源であるものから生命を吹きこまれていることは明瞭なのである。
神ないし永遠の霊が男性の呼称を与えられてきたのは残念なことだ。というのも、神的存在は卓越した男性であるとの考えは、女性が劣等であるとの意味を含意し、それが数世紀にわたって女性の性格に有害な影響を与えてきたからである。彼女らの才能はしばしば萎縮させられ、社会的進出の望みは奪われてきた。女性は絶えず従属的で男性依存的な地位に押しこめられることによって矮小劣等な悪徳を発展させてきた。
しかしながら、「性」の問題については、帰幽霊たちは経験とともに考えを広げていかざるをえなくなる。というのは、誕生と死の法則によって、ある一生で男性だった魂の大部分は次の一生で女性となることを知るからである。もし肉体的に際立った男性特質を発達させている場合には、次の一生で性格上から女性の身体に生まれざるをえなくなっていると、これまで積み重ねられた男性性が意識面にもちこされることがある。こんなときはいわゆる「おとこおんな」と呼ばれる不幸な型の人間となり、女らしくない性質を示す一方で、男と一緒にいることよりも女とすごす方に喜びを感ずるようになる。
他方、前生で余りにも女性的な一生を送った人は、その印象が深く刻みこまれているので、男性との交わりを求めるようになり、バランスのとれた男性としての正常な生活を営むことを拒絶する結果、他からの批判や軽侮を招くことさえある。
こうした人々が男性であれ女性であれ、彼らに寛大であれ。私はここで何も不道徳の勧めをする訳ではないが、前生での失敗によって極端に女性ぽかった女は女々しい男となり、余りに男性的であった男は男性的な女になることを覚えておくとよい。ふたつのタイプとも彼らの本性の基本的性質を表現しない「性」という制約を押し付けられて大変苦悩する。彼らにとって人生はふたつの性の側面のあいだ――女性の肉体をもって自己を表現する男性タイプもしくは男性の肉体で自己を表現する女性タイプ――での永く苛烈な闘いとなることであろう。絶えざる調整が必要になる。すなわち、辛さがこうじて魂を破壊してしまわないように自分をコントロールしたり、監視したりする自己陶冶の道程が。
上記のことは、これまで述べてきたように、今生の性格は反対の性に属していた前生で形成されたということであるから、絶対不変の法則であるという訳ではない。普通、次の生にまでもち越すような同じ性の牽引を感ずるのは、男性にしても女性にしても極端な場合である。そうなったときには、われわれは自分の直面する問題が、今生において突然新しく創造されたものではなく、われわれ自身過去世の来歴をもつことが分かれば完全に納得できるのだと気づかなくてはならない。この過去は一時的に隠されてはいるが、もし科学的な実験が行なわれるなら、霊魂を支配する法則の恐ろしい侵犯がなされたのではなく、進歩がなされるための不可避な道筋であったことが明らかにされることであろう。
ヴィクトリア時代のいわゆる「オールドミス」は、心霊的に見ると、一般には、前世でつくりあげた性格の重荷でこころを歪ませてしまった連中なのである。このケチでどん欲で人と物を分かちあうことのできない、不愉快不機嫌な独身者たちは、大抵の場合、霊的に見ると前生の抑圧された女性性格をすっかり取りこんで現世にもち越してきた者たちなのである。
理想主義者や、高尚な生活に憧れる人は、われわれ人間に共通の弱さについての感覚、つまりは人類同胞を憐れむ気持ちを心の奥にもっていなければならない。「神の恩寵がなければ、私も同じ道を歩んだ」が彼が人生を旅する際の合いことばでなければならないのだ。
もし真面目で敬虔な伝統の保持者の多くが唯物論者でなかったならば、魂は女性でも男性でもなく、心に性の区別はないという繰り返し言われた事実を認識していたことであろう。無論、こうした真理はおそらく帰幽後に初めて充分に理解できることなのである。死後の経験によってようやく私は、パウロの次のことばの意味を理解するようになった。「私たちは皆一つの御霊によって、ユダヤ人たるとギリシャ人たるとを問わず、奴隷たると自由人たるとを問わずバプテスマを受け、一つの体となった。また皆一つの御霊から飲んで、一つの霊となった」〔「コリント人への第一の手紙」第十二章〕。同様にして、心と魂に関わることにおいては男も女もなく、皆神において一つなのである。
聖パウロは地上生活ではこのような考え方をしなかった、という人がいるかもしわない。しかし、彼の場合はオリエントの伝統の影響があったことを心得ておかなくてはならない。主たるキリストは伝えられる言行のいずれにおいても、女性が男性に劣るとは言わなかった。実際、彼の女性に対する態度は生涯を通じて、魂には男も女もなくわれわれは等しく神の子であるとの考え方を示しているように思える。
人間が、永遠の中における彼の位置――つまり、自分が偉大な宇宙の冒険を前にしていること――をもっとはっきりと知れば、彼はもはや肉体だけが重要だとは信じなくなるであろうし、同じ理由で女性の体の所有者が劣等であると宣告されているとも思わなくなるであろう。
女であれ男であれ、優越していると主張できるただ一つの資格は高貴な心をもっていること、魂についての高尚な視点があること、神聖なるがゆえに不朽であるところの叡智をもちあわせることによるのである。

第七章 休戦記念日

十一月十一目は「万霊節」と呼ばれてしかるべきであろう〔通常の万霊節は十一月二日〕。何百万の人々の想いが、この祭の朝、死者たち――青春の真っ盛りにこの世を去った――に向けられるからである。後に残された者にとっては、彼らは人生の充足や、美や、愛や、経験を奪われた者たちである。つまり彼らは、人の盛りにこそ味わえるあらゆる歓喜と、老齢とともに味わうべき静謐《せいひつ》をふたつながら奪われたのである。
一世代が相続権や生得の権利を奪われて、満たされぬままに沈黙の中に消えていったという想いは人の心にさまよい続ける。しかし、実のところは、大戦で亡くなった若者たちは混乱と労苦の世界を後に、苦悩や幻滅の修練場たるこの世から解放され、地上のことばには言い表わせない、人間の想像を絶した充足や、調和や、美の味わえる本質的に平和そのものの王国へと赴いたのである。
私は無論、自国に対する犠牲心から命を捧げた、民族の精華ともいうべき素晴らしい若者たちのことを言っているのであって、それとは別の無能者たち、同じときに亡くなりはしたが、粗野で未熟な徒輩について言っているのではない。これらの者は何年ものあいだ地縛の霊となって同じ戦争のパターンを繰り返す運命である。しかし、一挙に惨たらしく地上からひき離された無垢の若者たちの魂は何も失うものはなく、むしろ限りなく与えられるのである。
彼らは休戦記念日が再びやって来て、彼らを愛する人の想いが昔の親しさを新たにし、教会が「聖者との交わり」と名づけた行事に参加できることを喜ぶ。
古代において聖者ということばは光背を背負った伝説上の人物ではなく、また単に神聖清浄な人物を指すのでもなかった。それは大衆の中にいて出来る限り霊的な光に従って気高く、また人間らしく生きた高潔な人に対して言われたことばである。
十一月十一日、「生者の偉大な日」に人間の魂は家族に会いにでかけ、大戦で亡くなった夫や、兄弟や、息子との愛の絆を新たに結び直す。私はその日を「生者の日」と呼ぶ。その理由は、この日は、わが英国がいわゆる死者の思い出のために、教会とは別に、特に祝う日と決めた唯一の祝日であり、またこの日、人間の想いは集まり集合をなして、死を超えた世界の高みと深みに届くが、その想いが届くと霊界の永遠の生者たちは、自分たちが地上に残してきたものにとっては一瞬たりとも死んではいなかったことを喜びあう、そういう日だからでもある。
忘却と愛の消滅にこそ生の否定があるのである。人々が一年に一日、死者の記憶を蘇らせる限り、その日は死者にとっての掛け替えのない日であり続けよう。その日われわれは愛の更新に蘇り、愛は死よりも強しとの誓いのことばを新たに生きる。
十一月十一日の生者の祭日はあらゆる町やあらゆる土地で毎年祝われるべきだ。なぜならそれは物事を深刻に考えない大衆に自分が地上に出掛けてきた旅人であり、闇から光の部屋へ移りゆく身であり、またすぐにも未知の世界に帰らねばならぬ定めであることを思い出させるからである。
一年に二分間街ゆく人がこの事実と向かいあうことができれば、それで充分である。一年に二分間ヨーロッパや英語国の何百万という人々がいわゆる死者たちのことを想うなら、そのとき、死者のまわりに愛情の防壁ができて、その内で身内の者との心の結びがなされ、愛の不滅がまざまざと感ぜられる。
最後になったが、この沈黙の二分間は平和への誓いであり、また、若い人たちにとっては大戦の下劣で野蛮な恐怖を思い出すよすがとなるべきである。時が過ぎ、あなた方の無常な世界に速やかな世の移り変わりが訪れようとも、十一月十一日の祝賀こそは残さなければならぬ。なぜなら、それによってこそいつの世になってもこの英雄的な死者に対する信義が守られるというものだから。
しかしこの死者への信義が真に役立てられるなら、この黙祷を見守った人はすべて、それが終わったとき、来年こそは力の限りを尽くして世界の平和のために働くとの心からなる宣言をすべきなのである。もし誓いのことばに平和の思想が伴い、その日からそれを宣言した人についてまわるなら、あなた方の時代において二度と世界大戦が繰り返されないことが幾分確実になろう。
人々は悲観的になってきている。大戦記念日の二分間の黙祷では何の役にも立たないとさえ感じている。私の言ったことばは想像力に燈火を点し、この祝日が、戦争から受け取った遺産として人間は不滅であるとの信念を表明し、また、なかんずく断固として地上の平和を維持すべきことを表現するにうってつけの日であることを示すのが目的である。

第八章 一九三四年十一月十一日

祝賀の式典は終わり、連盟軍に命を捧げて亡くなった死者たちは二分間の黙祷に参加した。しかしドイツ人やドイツの将兵たちはどうだったであろうか? 彼らは私が「遍く」といったこの日の二分間の黙祷に参加したであろうか?
いや、十一月十一目はチュートン人にとっては恥の日であり、希望の消滅を意味し、いやましに高まる野心が遂げられず挫かれたことを意味するものにすぎないのであるから、黙祷など不可能であったろう。それはドイツ帝国やオーストリア帝国の崩壊を告げ、その日からはドイツ人が貧窮のうちに苦いパンを食べなければならない苦難の日が始まったことを意味するのだ。
貧窮に悩むものはなにもドイツ人だけではない。しかし、十一月の十一日を「生者の祝日」として祝っても、ドイツ人やオーストリア人はこれを祝わず、本来人種や信条や肌の色を問わずに行なわれる世界的な交流でなければならない祝典に参加できないというのでは、祭典の意義がバラバラになってしまう。ドイツ人が十一月二十一日を祝日とし、彼らの軍事行動すなわち大戦における戦勝を祝うことを私は承知している。
私は休戦記念日が十一月――この月は昔から人間の想いが死者に対して向けられる特別の期間である――の他の日に祝われるよう提案されてもよいときがきたと言っているわけではない。ただ、わが民族以外の何百万という人々にとっては、この日が恐怖と恥と苦痛の日以外の何ものでもないことを、思慮ある人々は心に留めておいていただきたいのである。
しかしながら、十一月十一日の二分間の黙祷の後に宣言された平和の誓いの主旨が一層推進されるようあらゆる努力が払われるなら、それに越したことはない。「私は来年、全力をあげて平和の維持のために尽くすことを誓う」とのことばはいかなる特別委員会の関与事項でもない。全人類は兄弟であり、どの国家も民族も神の下では一つであるからである。
もしこの誓いが来る年も来る年も二分間の黙祷の後、世界中の何百万という人によって声高く叫ばれるならば、そのうち、これらの人々の心には、未だ祝賀にも参加せず十一月の「生者の祝日」の誓いにも加わらず、われわれを兄弟とは見なさない何百万の人々も、われわれの兄弟だという感情が目覚めてくるであろう。
そしてわれわれは遂に、全ヨーロッパの指導者が休戦記念日をつらい記憶を伴わず、傷ついた誇りや失意の思い出のない日にしようという提案を考慮する日を迎えるかもしれない。しかしそれはいずれにしても、十一月の月に行なわれるべきであろう。というのは、この月は年の終わりにあたり、誤って死者と呼ばれているが、その実は永遠に続く魂の旅路を辿りつつある帰幽者たちを思い出すのによいときだからである。

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