【第二部 人間の諸能力その他についての教え】

不滅への道 第二部 人間の諸能力その他についての教え
(F・W・H・マイヤーズによる霊界通信)

G・カミンズ筆記/梅原伸太郎訳
(C) 2000 by Shintaro UMEHARA

掲載日:2010年11月18日

【内容】
第二部 人間の諸能力その他についての教え
第十四章 自由意志
第十五章 記憶
第十六章 大記憶
第十七章 注意
第十八章 閾下自我
第十九章 睡眠
第二十章 テレパシー
第二十一章 二つの世界の想念交流
第二十二章 幸福とは
第二十三章 神は愛よりも偉大

第二部 人間の諸能力その他についての教え
第十四章 自由意志

「自由意志」ということばは、人によって様々な意味をもっている。ある人々にとってはそれは、すべての面にできる限り自分の空想と欲望を追求することを意味する。また他の人々にとっては、単純に選択の権利、すなわち、十字路に立った時に自分が最善と思える方向へ行く権利、ということのようだ。
仮に今、ある人が、四方に見晴らしのよい道ではなく、海沿いの日陰の道を行くことになったとすると、いったい誰がこの選択をしたのであろうか。私はそれを、ことばと身体と魂と霊、この四者の総合したものの結果だと考える。これらの各々は様々な要素から成り立っているが、全体として一つの創造なのである。それらは何年も年月をかけてゆっくりと形成される。すべての遺伝的影響力がそこに含まれ、すべての魂的また霊的影響力がそこにある。われわれの有限な心にはとてもそれらのすべてを数えあげることはできない。環境、友人、敵、親戚等のすべてが、海沿いの日陰道をたどることに決めた内的決定の形成に役立っている。それゆえ、「自由意志が支配すべきだ」と主張する者があったとしても、それはそもそも人間というものの成り立ちからして不可能な要求なのだと知ったら、あなたがたは驚かないだろうか。われわれは明らかに、多くの生者と死者たちの創造物にすぎないのだ。それゆえ、われわれはだいたいにおいて、様々なものの影響下にあり、自分に植えつけられた諸傾向に従うように運命づけられているのである。
言い換えれば、全人類は一にして多なのである。世界開闢以来の人類の歴史と性格は、無限に成長し続ける蜘蛛《くも》の網の如きものであり、その源泉のすべては創造主たる巨大な蜘蛛――すなわちその見事な製作物のすべてに責任を有する神――の中にあると想像できなくもない。
今やあなたがたは、神が創造主であり大建築家であること、また、個々の人間の運命をその誕生以前から知る存在であることを認識せねばならぬ。神はいまだ生まれざる赤子の性格をことごとく知っており、母親の子宮を離れてからどう成長するか、生まれつきの諸性質は運命をどう導くのか、環境はどう影響するのかなどを知っている。なぜなら、創造の大絵巻は、すでに赤子がわれわれが「空」と呼ぶものの中から成長をはじめる以前に、神の想像の中に描かれているのである。たとえば、地球の未来も神の想像の中ではすでに描かれている。それは神が考えたという意味ではすでに起こったことなのである。しかしまだ起こっていないのは、個々の魂における現実的な変化であり、人生の苦楽に対するそれぞれの魂の反応の仕方である。地上生活に関するあらゆる事柄が魂の反応の結果なのだ。たとえば、悲しみはあなたがたを傷つけ、損なってしまうのであろうか。それとも破産というような悲劇さえもあなたがたを新たな努力に駆りたてるのか。後者であればそれは、あなたがたのうちに一つの創造が行なわれたことになり、その創造の中で勇気と意志力を増大させることになるのである。しかし、希望を捨てて貧窮の中に逼塞《ひっそく》してしまえば、性格の弱さが増大してしまうのだ。つまりあなたがたは、創造するという意味においてのみ、また自己の魂を形成するという点においてのみ、自由意志をもつと言えるのである。
これこそが地上生活で最も肝要な点である。なぜなら、あなたがたが自分の所属する類魂の許へ戻る時、それまであなたがたの鋳《い》あげた魂の鋳型こそが、やがて生まれる魂の未来の生活の鋳型となるものであるからだ。もっともこうしたことをことばにするのは極めて難しい。
神は類魂の宇宙生活を見守っている。神は人類の未来生活を計画し、その未来図を描く。すべてはその初めに想像されているのであるから、神の想像力の中にある巨大な宇宙図の上で、変更を被《こうむ》るものはほとんどない。

第十五章 記憶――肉体の内と外に[原注1]

私はここで、私の心に映ずる記憶というものの様相について簡単な説明をしておきたく思う。最初にまず生きている人間の記憶を取り上げてみよう。記憶の機構はいったいどうなっているのであろうか。
今仮に、意志がトム・ジョーンズの名前を思い出したいと決めたとする。すると意志はトムのイメージに精神を集中しようと努力する。といってもその時の正確な経緯はどうなのか。はじめ意志は自分のもとへ人間には見えないある微妙な精妙体《エッセンス》を引き寄せるのである。科学者ならば、この精妙体《エッセンス》を、電子やその仲間の粒子よりもなお微細なものであると言うことであろう。ここで意志を強く働かせると、この精妙体《エッセンス》は何やら流動する液体状のもの――もしあなたがたに見えるとすればの話であるが――の上に必要な刻印をする。この幽的流動体(fluid)は物質を透過する。そして例の精妙体(エッセンス)の助けを借りてある形態をとることにより、脳細胞と接触することができる。この接触によって脳細胞は敏速に反応する。意志はこの二つの要素の協力によって、あたかも糸で縫い合わせるように、トム・ジョーンズのイメージを細胞にくくりつけることができるのである。あなたがたは物質界にいる限り誤った空間観念を持っているので、このようにして作られた数百万のイメージが同じく数百万の脳細胞に糸でつながれている様をすぐには想像することができない。
あなたがたのまわりに巨大な蜘蛛の巣があると想像せよ。この蜘蛛の巣の糸が、記憶ないし想念を、あたかも電線が電信を伝えるように脳髄に運ぶ。というよりもむしろ、精妙体の援助で幽的流動体《フルイド》の上に刻印されたイメージの信号を脳に送ると言ったほうがよい。
あなたがたのことばはここでは役に立たない。というよりも、たとえばこの印象を受け取る幽泥(clay)を表現することばがないのである。私は仮に「幽泥」と呼んでみたが、これは物質の性質を持つわけではない。この幽泥――適切なことばがないのでそう呼んでおくことにするが――から思想はつくり上げられているのである。といってもこれはもちろん、あなたがたの理解する物質とは違っている。よろしい、そこで、この幽泥こそが諸君の視覚、聴覚、触覚などが伝えるすべての印象を受け取るということになる。がしかし、もし意志が記憶や思想の構成に必要な意識的努力をしなければ、幽泥は連結糸を脳に結びつけないのである。
そこで意志とは何かという疑問が出ることであろう。意志とは、あなたがたの外部にある大意識(the larger mind)から流れ入るエネルギーのことである。意志はもちろん、私がすでに示したように物理的脳に付着するイメージの収集という仕事もしている。意志はまた物理的身体からの影響も受ける。
大意識は、身体という粗雑な機械が死んでも破壊されないところの無限に微細な原子《アトム》から成っている。私は原子と言ったが、あなたがたにそれが見えれば、それは流動体のように見えるかもしれない。あなたがたの本質は、地上にある限り、複合体であることを承知しておいていただきたい。それは物質的なものと非物質的なものとの合体である。肉体ないし物質の側は、その成り立ちの性質に由来する一種の欲望を宿している。これらの欲望はあなたがた自身ではないが、あなたがたを支配している。なぜなら、通常これらは非物質的な部分の多くを動かしており、脳細胞に進行中の指令過程に入りこむことができるからである。
脳細胞は極めて敏感なので、意志という、実体であるというよりはむしろ運動である存在の刺激に反応する。意志を運動するものとして考えよ。意志の持つ能動エネルギーはイメージとイメージを合体させ、整理する。そして、意志は、意識の中にその必要が持ち上がった時には、脳に対し、イメージと結び付いた糸を引き寄せるようにと働きかける。脳は意志という純粋運動に動かされやすい唯一の物体なので、これに反応する。――こう説明してみても、あなたがたが物質の中にいる限り、おそらく想像の外のことであろうが。
肉体を離れた記憶となると全く別の事柄である。肉体を脱した存在になると、イメージはもはや、脳細胞を仲介とした物質によってわれわれと結び付けられていないから、われわれは地上時代のイメージからずっと隔たってしまう。例の幽的糸は死によって断ち切られてしまうのである。といっても、間断なく作られていたあらゆる印象の像がすべて破壊されてしまうのではなくて、それらは依然としてある。霊的条件が整って、そうしようと決心すれば、イメージの中に自分を置こうと意志することによって、好きなイメージを自分の許へ引き寄せることができる。その際、われわれは、生きている時のように苦労してそれを引き寄せるのではなく、ただある状態に身を置こうと思うだけで、望みのイメージを見ることができる。
しかしこうやってあなたがたと交流しているあいだは、そうした状態にない。それが困った点なのである。交霊中のわれわれはイメージから遠ざかってしまっており、地上の霊媒がわれわれの記憶庫から、要求されただけの事実を引き出す――その場合、もちろんわれわれの協力が必要だが――霊能力を持っていない限り、あなたがたの望むような証拠を提供することはできないのである。普通の人はこの特殊能力を持っていない。それは眼に見えないがあなたがたの周囲にあって、ちょうどあなたがたの身体と同じような形を持った幽的流動体の一種の過剰がもたらす力なのである。
これらのイメージは脳の外部にある。肉体の外にあって、あなたがたとは幽糸で結びついているが、これは物質を透過する性質があり、また物質ではないのであなたがたには見えない。それらのイメージは確かに接触可能なのだが、適切な努力をもって幽糸とイメージを引き寄せなければ、思い出すことはできないのである。しかも正常な意識の中では引き寄せることのできないイメージがたくさんある。これらのことを明確に表現することばを残念ながら私は、英語の中には見出すことができないのである。
さて、記憶は海に似ていると言えるかもしれない。それはあなたがたの周囲にあって、大洋の水のように捉えどころがない。地上に生きていた時のわれわれは、バケツをもった子供たちのようにこの海に行き、海水でそのバケツを一杯にした。砂浜まで運んでこられた水はごくわずかだ。しかも何ともあっけなくその水を地面に空けてしまう。われわれの背後には相も変らぬ広大な海面が広がり、波の音は果てしもなく海岸に鳴り響いている。記憶のつくりなす響きは、今の私にはこの海潮音のように聞こえるのだ。往時あの夏の夕べに聞き入った時の――。
どうか記憶をこの大海のごときものと考えてもらいたい。それは四六時中地球に自分自身を投げ出している。それゆえ記憶はあなたがたのまわりを取り巻く湿気のようなものだとも言える。地上にある時もあなたがたはほとんど無意識の中に、この見えない記憶の貯蔵庫から記憶を引き出しているのである。そしてある国が他国よりも湿気に富み多雨であるように、ある種の心性を持った人は他人よりも多量の集合記憶を引き寄せる。その記憶は人間の頭脳を通過する時には濾過されるので、その人特有の性格や色合いに染められる。そしてついにはあたかも独創的な思想となったかのようにして意識に上ってくる。しかし度々おそろしくだらけた、独創性のかけらもないようなものになっていることがある。というのも平均的な人々はもっぱら多数の生者の頭脳から放射される手近な記憶のみを自分に取り込むからである。思想家は人間の本性の深みに潜むような記憶、つまり瞬間瞬間の人間の頭脳からこぼれ落ちるような表面記憶とは異なった、強力な記憶を自分に取り込むだけの巨大な記憶容量を持っている。素早く投げ出されるような記憶は永い生命を保ちえない。感動的な記憶、熱情をもって創造された記憶のみが永遠に生きながらえるのである。
人間は発電所のようなもので、たえず新しい記憶の電流を発電したり、受け取ったり、送電したりしている。人間は自分の個性というものに執着するが、そうすることが人間にはふさわしいことなのであろう。しかし絶えざる崩壊に耐えて残るものはその人間の最も基本的な核心部分のみなのである。というのも人生においてわれわれは精神的には間断なく死につつあるのである。言い換えれば、秋ごとに樹木が木の葉を落とすように、年月の経過とともに、われわれは絶えず記憶を捨ててゆく。そうすることによって大きく変化してゆくのだ。十歳のトム・ジョーンズは六十歳の声を聞いたトム・ジョーンズにとって赤の他人に等しい。もし二人が出会ったとしたら、お互いにどんなに気恥ずかしく思うことであろうか! 二人は多くの点で全く似ていないのである。しかし心の底から捉えがたい感動がこみ上げてくるのを感ずることであろう。奇妙な戦慄にも似た何か、心の奥底から奥底へ呼びかけあうものがある。そこでこの十歳の少年と六十歳の老人は、表面上の相違にもかかわらず、互いに磁力と鉄が引きあうように引かれあう。彼らは二人とも、表面意識上の不一致にもかかわらず、なぜこのように引かれあうのかを知らない。しかし彼らは互いに避けがたく心に応答しあい、引き付けあうものがある。というのも個人の記憶よりも深い何かがこの一致を強いるからである。彼らはほとんど共通の記憶というものを意識できず、見知らぬもの同士である。しかし互いの核心部分が二人の間を知己にしてしまうのである。
死後の世界へ旅立って長いこと生活をした者が、数十年の地上生活を経てこちらへやって来た妻や夫や息子や娘と再会する時には、おそらく同様のことが起こるであろう。もしすべてがうまくいって死後の世界で彼らが再会したとしても、事実の記憶にだけ頼ったのでは、お互いを認知することができないであろう。彼らは記憶よりも深いところにある何かを通してお互いを認めあうのである。愛と憎しみ、慎重さと性急さ、などといった人間の深部に潜むあらゆる性質がお互いを見分ける「よすが」となるので、わざわざ「生命の書」を繙いて参照したり調べたりする必要はないのである。基本的な知識は残っており、お互いの過去の結びつきは、それが互いに欠くべからざるものであるならば更新もされる。
しかし、どうか私が死後の一瞬たりとも停滞などしなかったことを信じてもらいたい。私は変化し進歩し、樹木のように新たな葉っぱも身につけた。しかし内なる自分は全く変わってはいない。それゆえ、私の地上記憶の一部が、冬が来て枯葉が地下に埋まってしまうように埋もれてしまったとしても、私の妻や子供たちは、ちゃんと私のことを見分けてくれることであろう。

*      *      *

私は自分の地上時代の記憶が幾分か失われてしまったと述べたが、それは永遠に私の触れることのできないものになったという意味ではない。それは現在の私には無用のものとなったのである。というのも現在の私は第四界において、形態における新しい経験の新鮮な印象を掻き集めるに大わらわなところであるからだ。必ずや近く、第四界と五界の中間境において、地上記憶のすべてを思い出すことがあるに相違ない。

[原注1] 記憶についてのこの二つのエッセイ〔第十五、十六章〕に書かれている帰幽者に関する記述は、第四界において意識的に生きている魂に関してあてはまることである。――F・W・H・マイヤーズ

第十六章 大記憶

ここで「大記憶」(the Great Memory)と私が言うのは、全人類の持つ潜在意識のことである。われわれの死後の生命にもあなたがたと同じように意識がある。それはすなわち他の帰幽者たちからこれと感知されるような個我のことであるが、これらは似た者同士が一緒に集まって同じ状態で生活しているのである。しかしまた、それよりもずっと深いところに、不滅の――と私の信ずる――深層自我(deeper self)ないし世界自我(the self of the world)と呼ぶべきものがあり、ここには過去、現在、未来のすべてが記憶され包み込まれているのである。なぜなら、人類の歴史は、その初めから現在に至るまで、これまで時々「記憶の木」として語られてきたものの内にすべてあるからである。「だが、未来のことはまだ起こってはいないではないか、それなのにいったいどうやって未来の出来事がエーテル界に形成されるというのか?」とあなたがたは言うかもしれない。しかしそれに対して私は、「それらは神の想像力の中に生まれたという意味ではすでに起こったことである」と答える。しかし未来を読むことは難しい。といっても、それはあくまでも人間にとってはということである。未来に関する記憶は、この〈宇宙の製作者〉によってたった一度考えられたのみなので、不可視で無限の実体の上にはまだそう深く刻印されていない。そのために、その記憶はひどく微弱で、霊聴力を持った者のみがわずかにその「こだま」を聞きうるのみである。しかるに過去の記憶の方は、人間の粗雑無器用な思考がエネルギーを与えて、それを主観的にくっきりと形づくってあるので、霊能ある者から見るとよく見えるのである。
あなたがたが「死者の魂」と呼ぶ永遠の生者、その生命の中にある巨大記憶がどういうものかをぜひ知ってもらいたいものである。この不滅の生者たちは、現在の生活を追求することに一所懸命で、過去の一切の記憶からは遠ざかっているが、記憶の糸を引っ張ることによって、砂糖黍から砂糖を吸い取るように、〈大記憶〉の中から過去の人格の中の養分を吸収するのである。死者が交信してくる時、その人格体は必ずしも完全な形をなしていない。時としては、生前の個人の衣装だけが大倉庫から取り出され、わずかのあいだ展示されるといった趣《おもむき》である。
この点に関して、ここで一つ大事な点に注意を促しておきたい。それはあなたがたも私もともに〈大記憶〉のそれぞれの頁に記録されているということだ。われわれが霊媒を通して地上の友人たちと話す時には、前もって芝居の役者よろしく、昔演じた役柄をおさらいしておかなければならいないのである。原則としてわれわれは、この仕事をいい加減にすますか、かつての役どころを記録した記憶に一瞥を与えうるのみである。われわれの過去は消滅してしまったとも言えるし、消滅していないとも言える。この二重性を説明することは難しい。基本的には、われわれは、地上にあって愛する妻や母や妹が「さよなら」を告げた時の自分と変わっていない。われわれは地上で嫌いであった人や物に対して嫌悪感を持ち続けるし、大切に思っていた人や物に再会すれば古い愛の炎が燃え上がるという点では以前と同じである。しかし、人格というものが地上時代の記憶の総体を意味する、つまり、ギリシャ語・ラテン語の知識や、具体的諸事実についての知識に至るまでのすべてを記憶しているという意味なら、その意味ではわれわれは変化してしまっている。われわれは〈大記憶〉の中にある自分の記憶と接触を持つことによってのみ、それらを思い出すことができるのである。われわれはかつての自分の気質や個性については、そこから離れつつも、まだ大部分を保持している。地上と決別した当時のはかない肉体意識の方は、もはや自分の一部ではなくなってしまっている。地上生活の細々としたこと、頭に詰めこんでいた具体的知識などは忘れてしまうのである。これに対して感情的記憶の方は、元来創造的〈生命〉の方から来たものなので、魂の全体の一部として残っている。

第十七章 注意

生きている人の場合

「注意」を定義することにしよう。ご承知のように、生理学的用語で言えば、注意とは、意志がある神経エネルギーを特定の脳細胞に向けることである。すなわち、今仮に私がヴェネチアのサン・マルコ広場の光景を想起しようとしたとすると、そのとき私は神経エネルギーをヴェネチアの記憶と関連のある特別な細胞に向けることになる。すると、ヴェネチアでの経験によって作られたある実体〔ヴェネチア期の自我〕が命を吹き返し、一時的に「人格性」を帯びる。それによって、意志がその背後に控えてコントロールしているとはいえ、この期間、私のヴェネチア期の自我であったものがその人格性を表現し続けるのだ。私は単なる一例としてヴェネチアの場合を取り上げたのにすぎない。これらの人格性のいくつかの中枢は、思うに、きわめて複雑な観念連合と既得のネットワークによって作られてきたものだ。これらの諸中枢は、そのおのおのが、魂の柔らかな素材に深く刻み込まれた一連の基本的経験から引き出されてきたものである。

帰幽者の場合

帰幽者の心を一つの蜘蛛の巣のごときものと想像してみてほしい。その中には思想と記憶を放射する無数の中枢がある。この中枢のどれもが注意を地上へ向けることができる。われわれは基本的には一であるが、ある特殊な思考作用に精神を傾注すると、その間全体から分離してしまう。再び全体と一つになろうとするとあなたがたから遠く離れなければならない。そうすることによって一つの霊の中に融合するのである。ただし、「遠く」といっても、空間的距離のことではなく、構造上の微妙さのために、本霊と一体になっている時はあなたがたから離れているということなのである。
あなたがたは星がそれぞれの人格を持っていると私が言ったらおそらく信じられないであろう。しかし星もまた一にして多の人格的存在なのである。あなたがたもその点では同じで、肉体の中に在る時からすでに物質的にも一にして多の存在である。あなたがたの中には無数の小さな中心的実体があるのだが、心はただ一つあるだけで、心と肉体をつなぐ通路も一つである。こちらでの私の興味ある特徴は、私が一つの大きな意識の中に組み込まれているという点である。この大意識は単なる集合体ではなく、多くの小意識が一つにまとまったものだ。私に似た多くの意識存在がその中にいて、私の地上時代のあらゆる局面は、これらの小中枢が持つ成果を反映するものであったのである。
私はすでに生理学的意味における「注意」について話した。その注意はイメージと結びつくある細胞に向けられた神経エネルギーの流れであると述べておいた。われわれは物質的脳は持たないが、ある心霊的意識網を持っている。この網は正確には脳の方式と違ったものである。それは無数のニューロンとか神経区画とかを持つわけではないが、その代わりにいくつもの意識中枢を持ち、それが〈大統一原理〉〔本霊〕から流れ込む心霊エネルギーを吸収しているのである。
われわれはもし大いに努力さえすれば、同時に他方向へ注意を向けることができるが、それは常時というわけにはいかない。われわれが地上と交信する時は、一時に一つの意識中枢にのみ積極的な起動力を注ぎ込むことができるのである。もう一つの意識中枢を支配しようとすれば、多大な精神集中が必要なことを考えてみれば、これも無理からぬことと理解されよう。時としてわれわれは同時に二人の人と交信できるがこれは極めて難しい。この意識中枢について興味ある点は、われわれが通信しようとする記憶はある特定の意識中枢とのみ結びついていて、〈大統一原理〉〔本霊〕の翼下にある他の意識中枢とはかかわりを持たないという点である。その場合、記憶はこの意識中枢によって保持されているというよりも、特定の記憶が特定の意識中枢と接触を保っているといったほうがよかろう。

第十八章 閾下自我

私はあなたがたに心の内面機構についてお話しすることを約束していた。そのためにはおそらく、生きた有機体としての人間というところから手始めにお話しした方がよかろうと思う。もっとも生きた有機体としての人間などという観念は、現在の私には奇妙に思える。だが、理解していただくためには、あなたがたのことばを用いるしかないのである。まず第一に言っておきたいことは、科学者は、意識――ないしは魂――と身体とはどんなに違うものかをほとんどご存じないということである。身体というのは過去の多くの世代からの遺伝物である。身体はそれ自身で一つの帝国であり、多体動物であり、多心霊体ですらある。それは実際たとえようもなく複雑な機構で、高次、中次、低次三段階の神経組織から成っている。これらの神経組織は霊的世界に住むわれわれの意識が働きかける際の要所である。われわれが、エーテル体を通して、ある程度、肉体組織とも交流できるのだということを知っておいていただきたい。
あなたがたはかつて次のような神秘的なことばに想いをめぐらしたことがおありであろうか。「その初め、イメージが肉となった」[原注1]。引用が間違っているかもしれないが、当たらずとも遠からずであろう。聖書にあるこの語句は大変な真理を含んでいる。生きた有機体はある程度、〈見えざる実在〉の反映である。すでに述べたように一つの〈統一原理〉があるとすると、その中に、私が意識中枢とか焦点とか表現した小意識(minor consciousness)群があるのである。私が地上と交信する時は、この小意識ないし心霊体(psychic entity)というべきものの一つが霊媒に憑依し、霊媒の持つ心霊体の一つを占有する。そのとき私は彼女の中の〈統一原理〉を占有することは決してしない。もしそうすれば、霊媒は狂ってしまう。それは大変危険な仕事で、こちら側の悪意ある霊のみが企てることである。
今こうした帰幽者の意識を説明するために一つの例を提示しよう。たとえばここに英国のような一つの国を想い描いてもらいたい。その中には独立したいくつかの町があり、それらはロンドンのような巨大都市に指令を仰ぎ、またそこからある種の不可欠の刺激を受け取っている。帰幽者の状態もこれに似ている。彼は一個の王国であり、その境界はヴェールのようなもので包まれている。それは奇妙な柔軟さを備えている。つまり前にも少し述べておいたように、われわれの身体は、微妙な材質の流動体でできており、われわれはその形を思うままに変えることができるのである。そういう点では現実の王国とは違っている。その他にも異なるところは多々ある。われわれ霊の住む環境は超エーテル的な性質のものである。それをもっとよく説明してくれと言われると大変難しい。しかし、エーテルが最極微の原子を含んでいるとまでは言ってもよかろう。その原子はあなたがたの世界の粗い物質を透過してしまう。両者は互いに別次元のものなのである。
あなたがたはこう尋ねるかもしれない。「いったい、あなたがた霊のいる世界は地上とどのように違うのですか」と。両者の差異ははなはだ大きいのである。そしてその理由の多くは、死後の身体として用いる幽的流動体の形が不定形だというところに起因しているようである。死後、魂の発達が充分な時は、自己の閾下《いきか》自我(the subliminal self)の中に入っていくものである。生前の私は、意識には二つの形態、すなわち内在意識(inner mind)と顕在意識とがあると思っていた。前者は識閾《しきいき》の彼方にあって感知しえないが、後者は通常の仕事を統御し、一般的な仕事を遂行するのだと考えていた。また、閾下自我とは、識閾の奥にある意識のことで、これはもっぱらわれわれの本性の霊感に満ちた想像の源泉として働くのだと想像していた。ところが、帰幽後、私は、純粋な意味では顕在意識などというものがどこにも存在しないということに気がついた。その代わりに、長年にわたって洗練の度を加え、今や、閾下意識ないしあなたがたのいわゆる潜在意識の生み出すほんのわずかな波動にも反応するまでになった、たとえようもなく複雑な機械〔肉体〕があるのみなのである。
では顕在意識とか通常意識とかはいったい何から成っているのであろうか? それは実のところ、あの精巧きわまる「神経記憶」と、ほとんどその神経記憶の支配下にある「肉体的欲望」と、そして最後にこれこそ最も大事なものである「内在意識からの反射」とから成っているのである。
普通、内在意識が反射を送り出すと、その強弱にかかわらず、私が神経記憶と呼んでいる幽的流動体(fluid)がそれを受け取るのである。神経記憶はそれを振動によって、脳に伝える。それゆえ、正常意識は「反射」「神経記憶」「脳」の三種構造を成している。その中でも主な働きをしているものは、神経記憶によって翻訳されたイメージと潜在意識から送られてくるイメージに反応する物質としての脳である。しかし決してこの二つがすべてなのではない。
脳と身体は、原則としては、イメージが送り出されたり受け取られたりする以前に、イメージに対する欲求を発動してこれを受動的に受け入れる体制を整えなければならない。つまり、脳と神経は、受け入れ、記録することが持ち前なのである。しかしながら、この二者は、どうかすると人間本性の高次な部分からやってくる貴重な賜り物〔潜在識からの反射〕に変更を加え、複雑化したり単純化したりし、とかく色づけをしてしまうものである。しかしそれと逆の過程もある。つまり、脳が物質界からの諸印象を吸収することによって、それを高次の意識中枢に送りこみ、それがまた元へ戻ってくるという経路である。こうして、覚醒中、人間存在の各部分で活発な往来が行われているのである。
さらに解明されるべき多くの点がある。あの積極的で、しばしば好ましからざるものとも見なされる「自我」なるものはどこに見出されるかという問題である。自我とは、実は、数学者の注意を引くに足るほどの多くの要素が寄せ集まった総計なのである。それはまず第一に肉体的欲求の総和であり、第二に数世代にわたる遺伝的記憶の累計であり、そして第三に内在意識と交渉を持ってイメージを受け取る先天的能力の全体、つまりこれらの総計が自我なのである。
さて、人間意識は、時たま、学者が親切にも内在意識の働きだと認めてくれている創造活動を行うことがある。がしかし、偉大な作品の生み出される創造の神秘は依然として謎に包まれている。実を言えば、それらの傑作は、神経記憶を誘導している内在意識からの通信に反応する、ある特殊な脳の性向によって生み出されるのである。この場合は、幽的流動体《フルイド》が媒体として働かないために、ぼやけた翻訳がなされずにすむ。むろんこれに、不可視の糸によって脳細胞に結びついていたかなりの量のイメージや知識が加わる。そこで創造行為とは協同作業なのだと知るべきである。
内在意識から流れるエネルギーが、連想や記憶のみならず、浮遊の思想をも取り入れて芸術作品を作り上げるのである。この時は幽的流動体が中間物として働いていないので、それらの材料を直接に用いることが可能となる。これに対し通常意識の場合は、幽的流動体が重要な役割を演じているのだが、大雑把に言えば、これこそがいわゆる「自我」なのである。
自我はしばしば心霊体すなわち小意識から情報を引き出している。がしかし、これらのものは通常は〈統一原理〉とのつながりが断たれることに起因しており、それは幽的流動体ないし神経記憶が行動ミスによって心霊体に過大な要求をしすぎるということから起こるのである。しかしながら中心意識は通常、もし直接注意を促されれば、再び統制力を取り戻すことができる。
どうか、私の述べるところに照らし合わせて人間の進化というものを考究していただきたい。自我の本体たる大意識(the larger mind)は、しばしば不定形で、その始まりから――始まりがあったとすればの話で、私はそれを疑っているが――魂の無明時代を経て、いつもそこに在りつづけたのである。この意識は最初、原始人に対して、時たまかすかな反射を送りうるだけだったが、それから次第に、あたかも彫刻家が作品を造るようにしてそれを進化させてきたのである。やがて時とともに、人間の肉体の形態が進化するにしたがって、大意識からのイメージを受け取ることが容易になっていった。こうして、ことばは次第に肉となったのである。
あなたがたは心との関連において、なぜそれが自己表現しようとするのかを尋ねるであろう。心は個性を望み、形態を望む。そしてこの個性と形態は、ある程度、心と物質の相互作用を通して達成されるようになっている。しかし銘記せよ。物質の清華であるところの神経と神経記憶こそが人間の行動を支配し、統制し続けるのである。そこであなたがたが地上に生きている間は、神経魂(nerve-soul)や、脳と肉体の構造や、〈統一原理〉から送られてくるイメージなどの総和の中に正常な自我を見いだすようにしなさい。ことばは肉となったのである。このことばのうちに人間本性の全秘密、すなわち、人間存在の総計が表現されているのである。

*      *      *

あなたがたは「日常意識」というものが何であるかを知りたいであろう。それをつくり上げている力の基は、本質的には神経魂にある。しかし日常意識は現実には多くのものの総計である。肉体的要素、すなわち肉体機構そのものの持つ熾烈な欲求は、すべて神経魂の決定に影響力を持っている。あがたがたが潜在意識と呼んでいるものは「反射」、つまり上方からの光である。時としてそれは喚起力が弱いためにかすかなこともあるが、行動決定の際には一役を演ずる。「時」の関与の問題は、むろん、こうしたことの関連であなたがたを悩ませる一要因である。しかし全有機生物は永い年月の進化を経て精妙化したおかげで、今や迅速に決定が下せるようになったのだ。原始時代には、「私」という構成力――「自我」――とは主として肉体のことであった。神経――幽的流動体さえも――は、肉体の従属物にすぎなかったのである。
稀な場合を除いては、二つの意志が同時に決定を下すということはないということを理解していただきたい。なぜなら、伝達路が一つである以上、決定も一つであるからだ。しかし、場外設置の大意識という言うべき――そう言いたければだが――閾下自我の活動は〔第二の意志のごとく〕極めて活発で、日中、〔脳からの〕メッセージが伝達路たる神経魂を通してここに送られてくると、この意識が睡眠中にこれらのメッセージに働きかけ、面目を一新させて神経魂に送り返す。それが容易なのは、睡眠時には神経魂が身体から遊離して静かなためと、加えてこの魂が、覚醒時に〔脳からの要求で〕懇請していた望みのイメージを閾下自我から得て、それを投射できるためである。目覚めとともにこれが脳細胞に伝えられるので、あなたがたが眠りから覚めると、まるで魔術師の手にでもかかったように、問題が解決しているのに気づくのである。
こうして、日中の主導権は、閾下自我からイメージや反射を供与された神経魂が握るのであるが、それはたえず、身体やその欲望から影響されているのである。

[原注1] ヨハネ福音書1:1および1:14を見よ。〔訳注:1:1は「初めに言《ことば》があった」。1:14は「言《ことば》は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。この「言」は「ロゴス」であるが、多様な解釈がある。〕

第十九章 睡眠

前章の小論において、閾下自我の可能性を説き尽くしたのではないことを承知しておいていただきたい。あれは単なる序章程度のものと見なしてもらいたいのである。あのテーマを扱うに当たっては、私自身困惑していたのであるから。
私が死者であった時、というのはつまり地上に生きていた時ということだが、私は睡眠についてこう考えていた。それはすなわち脳の部屋部屋を空にして、他界に休息を求めることであると。いや、というよりもむしろ、そこでは霊的エネルギーの再充填、つまり一種の灌漑作用のようなことが行なわれ、そのおかげで、翌朝目覚めた時に誰もが経験するあの新鮮さや生命の蘇生する感じがあるのだろうと考えていた。私は二つの世界にまたがる生命の存在を信じていたが、この点は全く正しかった。しかし睡眠中に得られるものについては、正確には分かっていなかったのである。が今では当時よりはだいぶ分かるようになった。
あなたがたが睡眠と呼んでいる状態においては、神経魂は、実際に、肉体から遊離するのである。このことは本霊と脳の間に直接の仲介者(媒体)がいなくなることを意味する。この点は重要である。身体は前にも述べたように、神経魂によって支配されているので、神経魂が遊離して超エーテル的状態の中に引きこもってしまうと、身体は全く静かになってしまう。神経魂はこの状態に耽り、あなたがたがエーテルと呼ぶものから必要な刺激と栄養補給を受ける。しかし「エーテル」ということばはどうも意味の広いことばで誤解を生じやすい。実際、睡眠中に神経魂を養うのはエーテルの一部であるには違いないのだが、私はここで新しい用語を造って、それを「エーテルの精《エッセンス》」と呼ぶことにしたい。私が科学者だけが持つ権利を侵して、こうした微妙な実体に命名することなぞ、まことに大胆な仕儀だとは思うのであるが――。
さて、神経魂が身体を離れると本霊が身体に近づく。本霊は脳に直接イメージを伝えることはできないし、また一般にそうしようともしないものである。しかし場合によっては高次の神経センターが、特別、本霊に感じやすくなっていることもある。そのような時、本霊は身体に、あるイメージを投げかけようとするかもしれない。というよりむしろ、神経魂の使い残したエネルギーを用いて身体を支配しようとするのである。そんな時、睡眠中の人はおそらく、未来のことを夢見るとか、どこかで突然起こった事故死の状態を見るとかしている。本霊は睡眠中の人と誰か情緒的類似性のある者の反射を自分の中に引き寄せる。かくして霊は、ごく稀にではあるが、未来の一場面とか、現在起こりつつある偶発事件とかを、静まりかえった脳の中に投射することができるのである。
さて、あなたがたは、睡眠者を夜ごと訪れるあのばかげた、見たところも混沌とした夢のもとは何か、と説明を求めることであろう。しかしあなたがたが解釈の鍵を持ってさえいれば、それはばかげたものでも混沌でもないのである。しばしば日中の神経の苛立ちが感情の強い抑圧を引き起こし、これが苛立ちの原因となるものを映像化するのである。この画像は、日中盛んに働いていたニューロンに縛りつけられている。この画像はまた例の幽糸の網にも捕えられる。この画像を統制する神経魂が遊離してしまっている中で、ある種の神経がこれらに反応して、混乱したばかげた夢の形態を造るのである。「神経像」と呼ぶことばがすべてを尽くしているごとく、これらは高次の源泉から放射されたものとみなすことはできないのである。
私は前に、「注意」を定義して、神経エネルギーを脳のある特殊な細胞に向けることだとした。このエネルギーの流れが、覚醒時中に激しく持続したとすると、その振動の余波は後まで残ることであろう。精神集中の残響が響いて他の残響や印象と混ざり合い、それがある連鎖を生み、しばしばきわめて古いいくつかの連想に加わる。たとえば、日中、ある人が亡くなった祖母を想い出させるボンネット帽を見かけたとすると、実際の記憶はかすかかもしれないが、その人の脳に古い連想を結びつけている糸を刺激するには充分である。昼の緊張が解けて睡眠がやってくると、祖母の像が夢に現われる。彼女の姿は数時間前に、ボンネット帽の映像を契機として心のキャンバスに描かれていたのである。記憶が古い昔のものである時は、作用する場所が遠いので、出現までに時間がかかる。
どうもダラダラ書き連ねているようであるが、私の言いたいのは、記憶、記憶像、神経といった類のものが睡眠中、脳の中で鬼ごっこを演じているということである。霊は統制のためのイメージを送り出すことができないし、幽的流動体のほうも経験の集積作業によって脳中の膨大な内容物を管理するという日中の仕事を停止している。このような状態で、もし神経が弱かったり、緊張が高すぎたりすると、小意識の一つが記憶やイメージを操る場合があることも私は承知している。この小意識体は、運動刺激を与えはするが、支配的な神経の命令には服従している。小意識は心を悩ます潜在記憶をけしかけて睡眠者を起き上がらせ歩きまわらせる。これが一般的な夢遊病の説明である。こうした場合は神経の方がむしろ小意識を支配している。しかし通常この心霊体は睡眠者が危険に陥るのを防ぐだけの働きはしている。それは神経魂に警告の合図を送り、身体に至急戻って支配権を取り戻すよう指示するのである。
私は睡眠についてのはなはだ粗雑な説明を試みたが、仲介者たる神経魂は栄養補給のために身を引く必要があり、そのことから身体を離れることを言おうとしたのである。そのあいだ本霊は依然として身体に活力を送り続けることができる。しかし媒体がないので、それが脳の指令中枢に影響を与えうることはごく稀にしかない。睡眠中、明らかに、閾下自我のある層が脳に侵出していると見られることがある。実際に起きていることは次のことである。古い連想や感情が日中の出来事によって掻き立てられたが、神経魂はこれを活発にすることを抑えていた。他にやるべきことがあり、それに追われていたからである。しかし連想や感情は、川が塞《せ》き止められるようにそこに残り続けた。夜、ダムが開かれると神経魂の不在に乗じて、特に神経の緊張が高まっている時などはそうだが、これらの記憶が脳の中にどっと溢れ出す。そして古い観念の構造の中に入り込み、かつて自分たちのいた内部をもう一度覗きこんで、暫時、顕在化した想念の飾りやらイメージやらに眺め入る。
催眠について少しばかり述べておこう。大部分の場合、被術者は、完全な催眠には陥っていないものである。しかしここでは真性の催眠とは異なっているのである。催眠状態においては、被術者の神経魂は機能を止められてはいるが、極端な場合を除いては、身体の外に出ていることはない。それは作用することを許されていず、また自己自身に対してそれを禁じているのだ。ここが大事な点である。催眠術をかける者は、被術者の神経が病的でもない限り、その意志を放棄せしめることはできない。つまり神経魂の働きを停止させるだけである。こうした時、本霊や閾下自我は、神経魂の機能停止中、身体のそばに引き寄せられているのである。しかしその創造的生命は、媒体の機能が止まってしまっているので、身体に流れ込んでこない。
しかし閾下自我の他の層が活動していることがしばしばある。それは主として埋没記憶に関するものである。施術者の命令は幽的流動体――すなわち、神経魂が作動する時支配しているある幽質《エッセンス》――を動かす。そしてこの幽質も神経魂も不可視の流動的身体の一部である。その幽質の一部分は、埋もれていた記憶を表面に引き出すために用いられるだけである。これらの記憶は、神経魂が閾下自我の送り出してくるイメージとの関連で積極的に働いている時は出てこない。実際、催眠は潜在意識の緩み漂っている部分に道を開き顕在化させるのである。通常意識が働いている時指令を送っている自我の中心体である〈統一原理〉は、媒体の神経魂が離れている時はやはり肉体と接触を持たない。それゆえ、催眠によって引き寄せられるのは被術者の閾下自我の一部だけなのだということがお分かりであろう。

第二十章 テレパシー

生者同士のテレパシーについて説明しておきたいと思う。これは死者からのテレパシーといくつかの点で違っている。死者と生者のテレパシーは、生者間のそれに比べると、はるかに入り組んだ手続きがいる。しかしながらわれわれは、自分の内在意識を熟知しているので、全体としては難なくそれをやってのける。あなたがたも自分の深層意識についてもっとよく知るようになれば、テレパシーの受け手になることも送り手になることも今よりはるかに容易になるであろう。
ここのところをもっとよく説明することとしよう。私は前に潜在意識と物質的身体を結ぶ幽的流動体のことを説明した。私が正確には「幽的流動形態」(fluid shape)と呼ぶところのこの流動体は、絶えず形を変えており、肉体とは全く違う柔軟さを持っているのである。それは極めて印象づけられやすく、驚くほどの過敏さを備えている。困ったことには、それが脳とあまりうちとけた結びつき方をしていないことである。というよりも、むしろ人間の方でその連結の付け方をあまりよく知らないといったほうがよかろう。心をある事柄から離すと、現実方面の機構がフル回転しなくなるので、部分的にはこの状態が達成できる。他にもこの結合を操作する方法はある。さて、記憶はこの幽的流動体と結びついているのである。したがって記憶はこの流動体を通して引き出されることになる。これはまたあなたがたがテレパシーと呼んでいるものを受け取る役目もする。
実際この幽的流動形体は数多くの通信を受け取っているが、これが脳まで伝えられるのは極めて稀な人の場合のみである。流動体は通信を空中に発信するということも明言しておきたい。それがある魂によって運搬されるということは普通はないことである。一般的には、心の糸のようなものがいくつも空中を漂っていて、それが通信を流動体の中にとり込むとそこに印象が形成され、ついでその幾分かが脳に伝達されるのである。
科学者は、生理学や物理学によっては生者間のテレパシーを説明できないと思っているらしい。魂の生理学にはそれが可能だと言いたい。一見これはことばの矛盾であるかのように思われるかもしれない。がしかし、現実にはそうではない。人間にはまだ発見されていない極微の粒子が存在するのである。それらはあまり微小なのであなたがたはそれを物質として認めることができない。しかしはるかに繊細な智恵を持った帰幽者にとっては、これらの微粒子は、その性質が物質に似ているとは言えないとしても、少なくとも物質を思わせるものではある。いずれにしてもこの微小原子は感情の影響を受けるものである。感情と意志はこの微粒子に推進力を与え、脳はそれにある形態を賦与することによって受容する。
神経魂ないし神経記憶は、当然意識の影響を大きく受ける。それが刺激に対し迅速に反応するものであることは前にも述べた。意識はある努力をしようとすると緊張する。今仮にテレパシー実験をしようとしたとすると、意識は発信者の想念を受け取ろうと望むが、この望みは多くの人の場合、神経魂を緊張させ、一種の活動停止を招来するだけに終わってしまう。こうした状態では神経魂は働きもせず、受容もしない。脳が「受け取るな」という本能的警報を出したのである。本能が意識の希望を制圧したと言える。本能は、元来、外的想念の進入から個人を保護するものなので、これは正しい措置なのである。もし人が他者の想念を無限に受け入れ続けたならば、その人の脳は異常をきたしてしまうのであろう。それゆえ自然は人間に対し、想念の矢が意識の鎧を突き抜けて、生体の機構を傷つけないように保護しているのだ。ある人がこの本能を充分に調節できれば、彼は敏感な受信者となるであろう。神経記憶(ないし神経魂)が、テレパシーの受信に役立つ内在意識と直接結びついていることはむろんである。

*      *      *

「流動体」ということばを字義どおりに解してはならない。地上にいた時ならば、私はこのことばを用いなかったであろう。ここでは、神経魂や流動体は確かにある種の流動性を持つのでこの語を用いているが、想像を得やすくするためのもので、決して専門的見地からのものではない。
私が各界との関係で用いた用語も、文字どおりに解釈されてはならない。それらは各々、ある特殊状態を象徴的に表わしているのみである。

第二十一章 二つの世界の想念交流

可視と不可視の世界の間には絶えざる想念の交流がある。そしてこのことがまた、あなたがたとわれわれの交信を一層難しくしている理由なのである。もしわれわれが、生者や帰幽者の漂う想念の堆積を分類し区分することができれば、帰幽者の想念の流れは、もっと明確に、あなたがたのもとに届くであろう。帰幽者が探検を試みようとする時などは特にそうだが、人間の空想の大森林の中に迷い込んでしまうということが起こりうる。そんな時は必ず誤った道筋をたどってしまい、あげくの果ては嫌気がさして、問題の解決を投げ出してしまうことが必定だ。私は単に数個の心から出される想念のことのみを言っているのではなく、全能の母たる宇宙全域の、無限の腹中に憩う霊魂たちから発せられる絶えざる想念の流れについて、想いを致しているのである。
私などは誤りに陥りやすい影のような存在だということをどうか忘れないようにしていただきたい。しかしながら、この困難な問題を扱うにあたっては、議論の根底にある前提を設けて話を進めたほうがよいであろう。まず、平均的な教育のある者の例をとることにしよう。彼が物質的身体の中に生きてその精神力が旺盛な時期にある時は、次の互いに異なる意識状態を経験できるはずである。一、睡眠状態、二、主観状態、三、通常意識の状態、の三つである。
このうちの主観状態についてはかなりの幅があると思ってもらいたい。それはかなり多様である。人的な手段、たとえば催眠によってこの状態に誘導されることもある。施術者の意志に反応するように訓練された被術者は驚くべきことをやってのける。幼少期の記憶を思い出し、苦痛にも全く感ぜず、また時としては超常的としか思えない知識を獲得することもありうる。インドの神秘修行者などは容易にこの主観状態に入り、しばしば何マイルも離れた所で赤の他人がすることを探知しうる。つまり心的な旅ができるのである。
現界人のそれと全く同じというわけにはいかないが、われわれ――死者と呼ばれる者――の世界にもやはり三種の意識状態がある。
あなたがたは眠っていても、ある意味では主観状態にある時よりは意識があるのである。というのは、痛みや騒音がある時には目を覚ますけれども、深い催眠状態に入った者は痛みも感ぜず、また雷が鳴っても起きることがないからである。われわれ帰幽者が、霊感を持つ人を通じて交霊しようとする時は、われわれはこの主観状態の夢の中に入るのである。われわれの場合において大事なのは、この状態にも二つの段階があるということである。軽いトランスに入っている時は、生前の具体的な記憶を想い出すことはできない。さらにまた、霊媒に直接憑《かか》っている時のことを考えてみると、人格や話し方に生前の面影は留めえても、自動書記や霊言などを通して地上時代の経歴などの正確な事実を通信することはたいてい無理なのである。時としては名前さえ通信できないことがあるのである。
もっとも、われわれは霊媒の心の中にもっと深く入っていって、そこにある記憶を読むことができる。その記憶は脳細胞や神経細胞の外にあって、目に見えない糸でそれらに結ばれている。
ここで観念連合の奇妙さに出会うことになる。たとえばあなたが十年前のティー・パーティでトム・ジョーンズ氏に会っていたとする。しかしそれ以来、すっかり彼の名前も忘れてしまっていた。しかし誰かがそのことを言うと、最初の一、二秒は何のことだか分からないが、やがて十年前のティー・パーティで会ったあのトム・ジョーンズ氏のことかと想い出すのである。同じようにして帰幽者も霊媒の潜在意識の中に、自分の地上生活に関連した諸事実を想い出させる記憶を見つけだす。かくして、その記憶がすぐさま通信されるのである。
さて次に、帰幽者が達成するかもしれない第二のトランスのことについて述べよう。それは楽しく、時としてはとても気分の良い状態である。これは第一の状態よりももっと睡眠や夢の状態に近い。意識のこの状態になるとわれわれは人間の主観的な心の中に潜入することができる。しかしこの点では人間の方でわれわれに手助けをしてくれる必要がある。つまり彼がわれわれと愛情の絆で結ばれているか、または彼が「霊能者《サイキック》」と呼ばれる存在であることが必要である。人情や愛やわれわれへの深い関心などにより、主観的想念をもってわれわれとの再会を祈念する者は夢中のわれわれに扉を開いてくれることになる。われわれはその中に入って再び地上の夢を見る。
われわれは地上世界に現実に起こることを知覚して、われわれに道を開き、愛と強い関心とで二つの世界に橋を架けてくれた人の潜在意識にそれらを印象づける。しばしばわれわれは彼の潜在意識に反映するつまらぬ出来事を知覚することもある。また時としては、われわれがこの夢の気分に没入している時に、一つの潜在意識と接触するだけではなく、幾千という潜在意識と接触することがある。それはあたかもわれわれの前に広がる大海のようである。その大部分は了解不能である。われわれはただその一部を味わってみるにすぎない。しかし指導霊(guide)の援助があれば、われわれはこの心の海から生前の出来事や、名前や、場所などに一致する特殊な観念の連想物を引っ張り出すことができる。そこでわれわれは、自分が交信していることの証拠としてこの手段を用いる。
第三の主観状態に入るとわれわれはあの〈大記憶〉(the Great Memory)に到達することができる。しかし、ああ! 残念なことに、それは地上の人々に近づくときの状態とは違うのである。われわれはこの大潜在意識――むしろ超意識というべきか――たる人類意識に到達すると、数多くの記憶を集めることができる。私は、この状態については、永年こちらにいて大いなる進歩を遂げた帰幽者たち、すなわち、特別叡智の優れた高級霊が、ごく稀に、この第三の状態に入って、地上の霊能者《センシティブ》を通じてこの大記憶に記録された歴史を伝えることができるのだという以上に詳しく述べるつもりはない。
しかしこのような叡智ある霊魂は、そもそも自己の知るところを通信してこようとはしないものなのである。それは人のことばに表わしえないものであって、たまたまその残響を捉えて霊感を受けた天才がその作品の上に表現しうることがあるのみである。帰幽後わずか数年を経たばかりの霊がその想念を伝えようとして生者の肉体に憑《かか》るような時には、まずもって、この第三の状態に入ることはできないのである。
われわれは交信する時、霊能者の深層意識が理解しやすいように絵や、イメージや、記号を用い、また時としては、記号やシンボルを用いて、霊能者の知らない名前やことばを伝えるというのは本当のことである。あなたがたが正常な意識と呼んでいるものは、あなたがたの心と他者の心に防壁を立てることにほかならない、ということをよく銘記しておいてもらいたい。しかしこうしたことすべての奥には、人間全体に共通の深層自我すなわち主観的心性ともいうべきものがあり、これがほとんど防壁に遮られることなく他者の潜在意識の中に浸透していくのである。しかしこのことはまた別に論ずることにする。
私は前に、こちらの帰幽者が活動的かつ意欲的な生活を営みつつある時、彼らの地上時代の記憶の大部分は一時的に中絶してしまっていると言ったが、そのことについてどうか心を悩ませないでいただきたい。
こういう環境の中で、彼らはごく正常な心霊的意識の内にいると言えるのである。帰幽した息子、父、その他互いに懐かしい想い出を持った者たちは誰でも、望みさえすれば、一緒にこの第三の主観状態に入って、地上生活の古い記憶をすべて取り戻すことができるのである。そして再会した二人の帰幽者は、彼らの地上での経験のドラマを一頁一頁取り出して読むことができる。かくして地上時代に積み上げたどのような些細な知識でも思い出すことができる。ホメロスの『オデュッセイア』、学生時代に苦労して覚えたラテン語、ギリシャ語、はたまた青春時代のスポーツ競技であろうが山を成す学識であろうが、すべてをはっきりと思い出すことができる。だらけた晩餐会やお茶の間の会話もそのままに想い出され、あなたがたは再び退屈を味わいながらそれを耐え忍ぶ。
あなたがたは独りで、古臭い抒情詩、つまらぬ喧嘩や悩み、そしてお望みならあなたがたご自慢の教養のすべてを掻き集めてみることも自由である。しかしむろん、もしあなたがたが過去の役柄を再演したいと思うなら――地上生活時代の環境や出来事の細かく貴重な詳細に目を輝かせて、再びそれらに手を触れたり、引き出しから昔のラブレターや髪飾りや小さな金縁の微細画《ミニアチュア》を取り出し、去りにし懐かしの日々を想い出す年老いた男女よろしく振る舞うことをお望みなら――、友人や、家族の者たちと一緒に、この第三の主観状態に入ることが必要なのである。
帰幽者の多くは進取の精神に富んでいるものだ。死後に初めて昔の恋人と再会した当座はしばらく、〈生命の書〉から、肉体の苦痛を伴わずに味わえる過去の快楽の思い出を引き出して、それに耽っている。がしばらくするうちに、〈大記録庫〉(the Great Granary)の中に記録された過去の経歴の堆積や、その他諸々の記録に飽きてしまう。そこでわれわれは「時」の敷居を跨ぎ、果敢にも神の想像の中に入っていく。第三の主観状態で〈生命の書〉の本来の頁を読むのである。そこにはかつて予言者や占者たちによって漠然と予言された、いまだ地上には生起していない人間のドラマが展開されている。わが子孫の者たちの放浪、われとわが血を受け継ぎ、その印を額に刻んだ者たちの運命を見る。こうして実際、未知の世界から姿を垣間見せた人類の未来――すべては神の想像から生まれるものだと私は言ったが――につくづくと眺め入った時、われわれは悲嘆に暮れてこの〈生命の書〉の巻を閉じるのである。
最後になったが、こうして第三の主観状態で過去と同じく未来の頁までも読む力を与えられるのは、陳腐な言い方ではあるが、「霊的に進化した」、「進んだ」魂のみに限られるのである。〈死の門〉をくぐった魂たちの大半は心霊的に未発達な境涯に留まるのである。私がここで「心霊的《サイキック》」と述べたのは、一般的な意味で言ったので、例の死後生存の研究とは関係がない〔訳注1〕。こうした多くの魂たちはある運命の道をたどりつつあるのであるが、しばらくは、地球の超意識とは無縁である。これらのいわゆる死者たちは、嬉しかったり、悲しかったりのあの幻想の中に留まるのである。私はここでは、母なる大地のもとから目に見えぬ世界に移行するすべての魂について書き記す暇《いとま》はない。

〔訳注1〕 心霊研究(サイキカル・リサーチ)では「サイキック」は人間の隠れた精神的能力を意味する。

第二十二章 幸福とは

平均的男女の場合

幸福について論ずるには、均衡の感覚を失わず、人間それぞれの個性を分類してみることが必要である。ある人には永遠に変わらぬ真実の歓喜と見えることが、ある人にとっては不満であり、苦痛そのものでしかない場合もあるのである。
学識ある人々は、幸福についての普遍の原則を宣言しようと努力してきたであろうが、それはそもそも誤った前提に立っていたのである。なぜなら、人間の本性は元来、変化にとんだものであって、階級、国家、人種の相違等を無視して、「私の言う原則に従えば、必ず幸福になれる」というのは土台無理なのである。言われた当人も、国家も、そうした原則を日常のものとすべく充分には、物理的にも、精神的にも、また霊的にも発達していないかもしれない。よし適用できたにせよ、その原則が型にはまったものである時は、人々に退屈や幻滅を味わわせる結果になるかもしれないのである。
例えば、キリスト教や、仏教の苦行者は、どちらも幸福への道程については一致しうる。彼らの真の幸福は感覚に由来せず、金銭や、権力や、他人に対する権威の中には得られないということを確信している。両者とも完全な自己放棄を勧め、富や、力や、美については、それが他のいかなることばで表現されようとも軽蔑せよと言う。彼らは真の幸福とは、瞑想や神との霊交のうちにのみ得られるのであるから、そうした清い観想に耽ったり、感覚や本能を喜ばせる類(たぐい)の神の創造物はことごとく軽蔑せよと説くのである。
こうした考え方は、多くの真面目な反論に出会うことであろう。神秘家にとっては、内面の生活のみが真の幸福の源泉である。しかし、百人のうち九十九人までは神秘家ではなくて普通の人で、そうした教えを実行に移すことが元来不可能なのである。もし仮に彼らがそうしようとすれば、自らの性情を制限し、歪め、苦しめる結果になるだけである。
普通の人間にとっての幸福とは、例えば「節度」、「自制」、そして「自由」というようなことばの中に見出せるのである。なんとしても彼はまず、自己を支配することを学ばなければならないのである。その能力が獲得できたなら、次に他人や種々の状況を賢明にコントロールすることを学ぶべきだ。そうすることによって初めて彼は自由を勝ち取るのである。第二に、彼は、自分がこの宇宙に繰り広げられつつある神の経論の中では、極微な存在であることを知らなければならない。第三には、彼は、自分自身の持つ創造力を開発すべきである。
自己に対する支配力を獲得することによって、ある種の心の平安が得られ、そのことによって今や、日常の煩いや不幸は、彼の魂の奥まで浸透しなくなり、心の静謐《せいひつ》を乱さなくなる。他人をコントロールする力を得れば、貧窮や欠乏に襲われなくなる。様々な悪意あるやり方で彼の運命を狂わそうとする者にも打ち勝つことができる。自分が矮小な存在にすぎないという認識は、むしろ彼を他人との自然な交わりに導くことによって幸福をもたらすし、そのことによって一瞬でも「自己」を忘れ、本当に必要な時に他人との生き生きした共感を持つことができるようになる。
創造の本能は人間本性の最も本質的な部分である。それに賢明な表現を与えることこそ、まず第一になすべきことである。それは部分的には性の衝動から生ずるものであるが、結果的には、それはしばしば、性とは全く掛け離れた活動領域で最大の幸福を得さしめるのである。構想力や想像力に欠けている場合には何らかの形式の美の観賞にそれを求めればよいのである。とはいっても、感覚の放蕩に陥ってはならない。しかし何といっても、真の創造力と自制心を二つながら備えた人は幸福であり、その際の表現手段の高下などは問題ではなかろう。
一般的に金銭への侮蔑を勧める禁欲家たちは、家計に何の心配もない人たちである。友人や崇拝者たちが彼の必要を満たしてくれるか、彼自身にかなりの収入の道があるからである。
それゆえ私は、幸福の追求者に対し、金銭への適度の理解を持つよう忠告する。それなしには人は、飢えや物質的不自由や不健康に見まわれる結果、静謐な霊魂の宮居《みやい》にこそ住まう理知や魂の光を保つことができない。そうなれば刻々と責めたてる肉体の要求のために自由ではいられなくなる。そしてわずかな賃金で長時間雇われるようなことにでもなれば、それこそ、自己を陶冶し、その成果を他人に分かち与えることの楽しみをも持つことができなくなる。
こうしたわけで、金銭に対する適度な欲求を持つことは美徳である。というのも、それはたままた十全な人間であろうとする一つの欲求であって、金銭的に満ち足りていることと、そこからくる満足感を通して、結果において他人をも益したいという望みの現われだからである。
幸福は努力を通してのみやってくる。すなわち、感覚的な快楽への惑溺を叡智をもって抑制すること、肉体を健全に発達させるための運動をすること、精神の進歩のための勉学、そして他人への寛大さや慈悲ある見方をすること、などを通して幸福はやってくる。これらの進歩が霊の発達を促すのである。
真の幸福とは、平均的な人間の場合、肉体、感覚、心、霊的知覚等を不断に、また賢明に使用することによって得られるのである。
人類は、究極的には、人生と内的平安の秘鍵を「叡智」の中に見出すことであろう。信仰、希望、そして慈愛――これらの徳目はみな聖パウロによって奨励されたものだが――などはこの高貴なことばのうちに含まれ、叡智の輝きによってこそそれらは見事に形造られる。なぜなら、これらの徳目は叡智なしには日の目を見ず、また闇の中に隠されたままでは、健全な発達を遂げえないからである。
(カミンズの病気によって本章は未完)

第二十三章 神は愛よりも偉大

神が愛や善であるとして語られるのは、私には神が妬《ねた》みや、復讐心を持つものとして語られるのと同じように、奇妙に思われる。神はそのようなものではない。神はあらゆる生命にとって不可避の「究極点《オメガ》」である。それは善でもなければ悪でもなく、残酷であったり親切であったりするような存在でもない。神とはあらゆる目的の彼方の目的であり、愛も憎しみも持たない。したがって神を表現する思想もありえないのである。なぜなら、私には、神は創造のすべてでありながら、創造物の一切から離れたものと見えるからである。神は無慮無数の世界と宇宙の背後に控える観念《イデア》なのである。
愛や憎しみについて語る時、われわれは人間のことばの限界内で考えているのである。そのような時想い描くのはおそらく、息子に対する母親の愛、妻に対する夫の献身、恋のための英雄的な行為といったものか、あるいはそれが憎しみの場合には、裏切り、だまし、果てには凶悪な犯罪さえも犯す者への怒りといったものである。
人間の愛憎は、それがいかに高貴なものであったとしても、なおかつそれが神のものであると言うことはできない。なぜなら、愛というものにはすべて欲望の影がさしているからである。それゆえ、愛には神に結びつくべき純粋さが欠けているのである。たとえ最も高尚なるべき悪への憎悪といえども汚れに染まっていないものはなく、それを神の御名の下に言うことが冒涜であることに変わりはない。
つまり、こうした感情と神を結びつけて語ることはできないのである。われわれは「無限の同情、無限の優しさ」などというが、神は祈祷書に言われているような「愛深き父」のようなものではないのである。神とはもっと高貴で偉大なものだ。「愛深き父」――世間で一般的に言う意味での――とは、自分の子供だけを可愛がる人のことである。例えば、戦争においては、英国は神の愛は自分たちのものだと主張し、ドイツもまた同じことを主張するであろう。人はある特定の人とか物に対して、身も心も捧げていることを示したい時に、この「愛」ということばを用いる。そして何の気もなしに、神は創造物のすべてを愛するなどと言うが、それを神などと呼ぶことによって創造者の観念を安っぽくしてほしくないものである。なぜかといえば、そう呼べば神の観念を限定してしまうことになるからで、神を人間のことばの中に閉じ込めつまりは神を人間にしてしまうからである。
否、神は愛などではない。愛は人間の美徳であって、時として炎のように燃え上がったり衰えたりし、一生のある時には燃え盛るが、その火勢を維持することはできないのであるから。愛はまたどのように善良な男女の仲にあっても、苛立ちや、ある種の不平や、利己的な憂鬱に彩られている。
神は変化するようなものではない。宇宙の御親《(みおや》としての働きは、躓《つまず》いたり失敗したりするようなものではありえないのである。もし神が愛であるならば、生命のあの驚倒すべき創造は決してあのように完璧に維持されるはずはなく、あなたがたが愛と呼ぶその変わりやすい性格に従わなければならないことになる。そして天地間の生命の成長はしばらく休止させられたことであろう。すなわち、もし神の心が変化するものであったとしたら、雨は大地を潤さず、豊穣たるべき秋は収穫をもたらさず、大地は不毛に横たわる。海の潮はみはるかす地平の大方を浸し、山々はその頂から崩れ落ちて、何百万という生命が瞬時に損なわれるであろう。もし神が、人がそのことばで理解しているようなうつろいやすい「愛」を持っていたとすれば、世界の歴史は善よりも悪の方に変わっていたであろう。「神は愛よりも偉大である」。これこそまさに愛よりも神にふさわしいことばなのだ。
私は、われらが師たるキリストが「神は愛なり」と説いたことを承知している。キリストにとっては神はまさに愛であったのだ。なぜなら、キリストはそのことばの中にこれまでこの地上に出現した人々が考えたような人間的な意味はこめなかったからである。イエスが神の子であるという主張は、彼が神の神秘を知り、「神は愛なり」ということばによって、全人類中ただ独り、この言葉の意味するところを真に理解したという事実に基づくのである。
アダムの子らであるすべての人々は、「神は愛である」という時、皆、人間的な意味でそれを理解している。それ以上に理解しようがないからである。そこで私は、有限の心を持ったあなたがたに、神を、「神は愛よりも偉大である」ということばで想い描くようにしなさいと勧めるものである。

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