【第一部 死後の生活】

不滅への道 第一部 死後の生活
(F・W・H・マイヤーズによる霊界通信)

G・カミンズ筆記/梅原伸太郎訳
(C) 2000 by Shintaro UMEHARA

掲載日:2010年11月18日

【内容】
第一部 死後の生活
マイヤーズのはしがき
第一章 生存の目的
第二章 魂の旅程表
第三章 幻想界
第四章 意識
第五章 色彩界
第六章 類魂
第七章 火焔界
第八章 白光の世界
第九章 彼岸ないし無窮
第十章 宇宙
第十一章 形相の世界から
第十二章 死とは何か
第十三章 心霊の進化

第一部 死後の生活
マイヤーズのはしがき

神秘家たちが「他界」(The Other World)と言い、「死後の生活」と言い、またあるいは「われらが父の多くの住処《すみか》」〔ヨハネ福音書14:2〕とも呼ぶ世界について書き記すにあたり、私の知識と経験に限界のあることをどうかご理解いただきたい。私はただ、私の感知しえた真実を書こうと努めるのみである。それがもし誤って神を冒涜する結果になったり、また単に先人のすでに踏み固めた道をたどるにすぎないものである時は、どうかお赦しを願いたいのである。
われわれは同じ一つの目的を目ざして励んでいるのだと私は思う。われわれは、もしわれわれが人間の霊的な本性に関する人類の知識の総体に何かを加えうるならば、そのために味わう苦痛や骨折りは報われたと感ずることであろう。われわれは世間の耳目をそばだたせるようなことを行う力は到底持ちえないが、それでもわれわれの知覚を超えたところに無限に広がる広大な探求の領野があるのだということを知らしめるのに何かの役割は果たしうるであろうと思う。
ここに私が示す観察は、私の「他界」知識を表現したものである。私はただ、私の知るところの真実をあなたがたに伝える。魂(soul)がこの世界に生まれ来る時、あるいは、われわれが死後に到達すべき諸状態の一つに生まれ来る時、その条件は実に多種多様なのである。私はこの「生まれ来る」(come alive)ということばを、魂との関わりを考えて、熟慮の上で用いたつもりである。というのも、地上の普通の不可知論者の考えているような土くれの肉体の中に住むことなどは、われわれからみればまさに死せる状態としか思われないからである。実際の話、われわれ影の世界の住人たちの多くの者は、今この瞬間に、地上に住む低次の動物的な種類の男女の肉体には果たして魂が宿るや否やを、ほとんど疑問視しているのである。

第一章 生存の目的――永遠の謎

人間はいったどこからやってきて、どこへ去っていくのか、という主題に思いを馳せ、素晴らしい着想を展開した書物はこれまでにも数多くあった。がしかし、そのものずばり、人間は何ゆえ創造されたのか、物質宇宙は空間を疾走し続けながら、その要素をいささかも減ぜず、不滅で、変わりゆくものはただその表相のみであるようにみえるのはなぜかを論じえたものは少ない。
この宇宙は「巨大な無目的の機械」だというのが前世紀の科学者たちの形容であり、そう表現することによって彼らはその時代の知的人間に共通の信念、すなわち、「理由などはない」という考え方を表明したものである。それゆえ、この宇宙の目的は完遂されるということもなく、物質世界だけが唯一の現実だということになる。このぞっとする、無目的の、生命と運動の機械的な劇が、まるで死者たちの演ずる劇のように、単調に、果てしもなく上演されつづけるというのである。
今や真理は私たちの手の届かないものとなってしまっているが、こうした憂鬱きわまりない結論をもちきたらす人々の陥る誤謬もひどいものである。しかしながら、精神とは元来、物質とは別に存在するものであるということが理解されさえすれば、存在のこの奇妙な劇の続く理由が誰の目にもはっきり分かるようになるのである。
そこでまず第一に、この宇宙を簡潔に、できれば一言で定義する必要がある。そのためには以下のことを作業仮説として採用するなら、永遠の謎に答を見出すこともあながち不可能ではないであろう。

・影の世界と実体の世界がある。
・物質と魂(soul)と霊(spirit)とがある。
・顕現するものとその源泉とがある。
・神はすべての統一原理である。
・物質は無限に微細な実体に分割できる。
・部分は霊の世界で再統一される。

右にいう霊とは、個我の奥底に潜む精神(mind)のことであり、そこから分岐して進む数々の魂をその光の下に養っているのである。それは神の一思想である。しかしこの思想は人間的な意味での個別性というものを持たない。それは創造者、すなわち生命の本源である一者からは分離したもの、という意味での個別化なのである。
神秘家たちは内在の神について語るが、これは誤った考え方である。〈神〉ということばは、〈至高精神〉、全生命の背後にある〈一大観念〉、純粋思念という観点からみた〈全体〉、つまり、存在の一部始終が一つの心的概念として生み育てられているところの〈本源〉を意味するのである。宇宙におけるあらゆる行為、あらゆる思考、あらゆる事実、あらゆる部分がこの〈全体〉の中に含まれている。その中にこそあらゆるものの最初の概念が存在する。神秘家たちがこれを称して彼自身の内なる神なぞと呼ぶことは、途方もない戯言《たわごと》なのである。
〈大精神〉(Mighty Idea)が生み出したこれらの無慮無数の想念、ないし諸霊たちは、互いに個別な存在である。これらのほとんどすべては、物質の中に顕現し活動する以前においては、粗雑で、無知で、不完全な胎児のごときものであった。彼らが自らを完成し、完全な智恵と真の実在に到達するまでには、数知れない経験を積み、また無数の形態の中に自己を現わし表現し続けなければならないのである。しかしひとたびこれが達せられるや、彼らは神の属性を身につけ、〈彼岸〉に辿りつき〈至高精神〉の下に同化して、〈全体者〉の一部となるのである。
それゆえ、これらの諸霊が宇宙に出現し、様々な外観を持ち、また人間としての地上生活の悲喜こもごもを経験する理由は、皆ことごとく、「霊の進化」ということばの中に見出されるのである。霊の進化は幾多の制約を忍びつつ、また形態的表現を繰り返すことによって達成される。この表現を通してのみ霊は胎児状態から成長し進歩する。またこうした形態的顕現を通してのみ完成に至るのである。
この目的のためにこそわれわれは生を受け、またこの目的のためにこそ無慮無数の世界と状態を経験するのである。かくして物質宇宙は常に成長し、拡張し、精神(mind)にさらに一層十全な表現を得させようとするのである。
それゆえ、地上にあることの目的は次の一句に集約される。すなわち、「精神は物質の段階的で多様な変化の中で進化する」ということである。精神は物質への顕現を通して進歩し、拡大する宇宙の中で無限にその力を増大し、それによって実在についての真の観念を獲得する。神の無慮無数の想念、すなわちあらゆる形態に生命を賦与する諸霊たちは、皆、神の最も低位の顕現である。それゆえにこそそれらのものは、神の似姿に近づいて、全体の有効な部分となることを学ばなければならないのである。

第二章 魂の旅程表

以下に掲げるのは、遍歴する魂の旅程表ともいうべきものである。

(1)物質界(the Plane of Matter)
(2)冥界、ないし中間境(Hades or the Intermediate State)
(3)幻想界(the Plane of Illusion)
(4)色彩界(the Plane of Colour)
(5)火焔界(the Plane of Flame)
(6)光明界(the Plane of Light)
(7)彼岸、または無窮(Out Yonder, Timelessness)

各界での経験の新しい始まりごとに、冥界ないし中間境にあたるものがあると考えていただきたい。そこで魂は自己の過去の経験を振り返り、新しい選択に直面し、意識の階梯を上に登るか下に降りるかを自分で決定する。
(1)〈物質界〉は、肉体といういわゆる物質の形態上で経験するすべてを含んでいる。この経験はなにも地上での生活に限定されるものではない。無数の星界には似たような性質の経験世界が存在する。時としてはこの身体は他の星界上での身体よりも速くあるいは遅く振動する。しかし、いずれにしても、「身体的」ということばが表わす性格と性質のある状態がある。
(3)〈幻想界〉は、各自が物質界で過ごした生活と関連のある夢の期間である。
(4)〈色彩界〉。この世界での存在は感覚に縛られず、直接に精神の統制を受ける。依然として形のある存在であるから、物質界と言ってもよいが、この場合の物質とはとても精妙なもので、むしろ物質の精気と呼ぶべきものかもしれない。色彩界はまだ地上圏内ないしそれと相応する他の星界の物質圏内にある。
(5)〈純粋火焔界〉。この状態では魂は、永遠の絨毯の中に自己の本霊(spirit)が織りなしつつある図柄に気づき、同じ霊の中に養われている同類の魂たちの感情生活を知悉する。
(6)〈純粋光明界〉。ここでは魂が同じ類魂(group-soul)内の前世にあたるすべての魂たちについて知的に把握する。さらには、世界魂ないし地球魂(the world or earth soul)がその身体のうちで経験するすべての感情生活に通暁する。
(7)最後に〈第七界〉。一つの本霊とその様々の現われである魂は、今や揃って至高精神たる神の想像力の中に入り込む。全世界、諸宇宙の宇宙、存在のあらゆる状態、過去・現在・未来等々のすべての発端はそもそもここにあるのである。ここにこそ生成持続する完全なる意識、つまり真の実在があると言える。

〔訳注〕 訳者による「魂の旅の旅程表」も参照されたい。
第三章 幻想界――第三界

簡潔は理解の要諦であるが、同時に誤謬の元でもある。もし私が永遠の生活というこの興味ある題目について手短に論述しようとするなら、あらかじめ小辞典を作っておく必要があるだろう。
私はまず最初に、あの騒々しい生の波が砕け散って、日ごと夜ごと岸辺を洗う潮のようにわれわれの世界に流し寄せられる新帰幽者の群れのことを明確にしておこう。誕生と死は同じ意味を含む二つのことばである。今の私にとってこの言葉はなんと奇妙に響くことか。というのも、私はもう長らく、この二つのことばが無用になってしまった世界に住まっているからである。

大雑把に言って、この新来の死者たちは次の三種類に分類できる。
(1)霊的な人(Spirit-man)
(2)魂的な人(Soul-man)
(3)動物的な人(Animal-man)
これらの三者は、それぞれをさらにいくつかの段階に分けて高低を付けることができる。しかしまずこの三者を心に銘記せよ。なんとなれば、これらのうちのどれに属するかによって、あなたの未来の状態も決まってくるわけであるから。
以下に、各界の状態ないし環境を分類してみよう。
第一に、地上生活がある。
第二に、冥府として知られる端境期《はざかいき》がある。
第三に、地上時代の思い出と反省に過ごす生活で、「常夏の国」として知られている状態があるが、私としてはこれを「幻想界」と呼びたい。
第四に、地上生活に似てあくまでも形態をまとう生活であるが、この世界の者は物質宇宙に繋がれた肉体よりずっと精妙な身体の中で生きる。
第五に、類魂内での精神的知的経験をする時期であり、それと共に類魂内において同じ本霊に養われる様々な魂たちのこれまでのあらゆる段階の経験を知り尽くす――ただし、これは感情的な思考作用の上で知るのみである。私は他の所で類魂についてあなたがたに説明しておいた〔第六章、第七章参照。実際の自動書記に出た時期は、この本の順序通りではないらしい。〕
第六に、「時」の内と外における意識存在としての生活がある。この場合、形態のうちで過ごした生涯はすべて時を計る尺度となっている。それは最も微妙な形態における生活であると同時に、その色合いと程度にいまだ幾分か物質的なところを残している。
最後に第七番目の状態、すなわち、遍歴する魂がその本霊のもとに融合する時がやってくる。あなたがたが彼岸に入ってこの至福の状態に到達するとき、初めてそこで不滅ということばの真の意味が理解されるのである。物質は超越され、投げ捨てられる。無時間の中に入って行き、あらゆる生命の背後にあるイデア、つまり神と一体になる。もっと具体的に言えば、あなたがたがあらゆる階層の世界でいつも結びついていた神の霊のある部分と一体になるのである。

記憶の世界

あなたがたの言うこの地球は鏡に映る映像のようなものである。それは、鏡面に投写される映像を通してのみの真実性しかない。それゆえ、地球とは何かと言えば、それは個人の持つ知覚や心に描く像の性質をどのように認識するかにかかっている。土で捏ねられた人間は、あるやり方で真実のものとは異なる奇妙な幻想、つまりは迅速に回転する球体を見るだけなのである。
人がその重い肉体を脱ぎ捨てて、もっと精妙な体の中に飛び込んで行く時は、地上生活の持つ基本的な非現実性に気づいていないことが多い。そうした人々は自分の慣れ親しんだ夢を必死で追い求める。そうした時、魂が戸を叩くとその戸は開かれ、彼はその主たる特質が地上生活にそっくりな夢の中に入っていく。
といってもその時の夢は記憶から来るもので、彼はその記憶の中にしばらく住まう。そこではもし望むならば地上生活を作り上げていた諸活動がすべて引っ張り出されてくる。しかし決心さえすれば、私が死後の世界の「産着《うぶぎ》」と名づけているこの地上の記憶の渦巻きから逃れることもできるのである。なぜならここでの魂たちは、赤子のようなもので、自分たちの住まう真の世界に気づいておらず、彼らを取り巻く巨大な生命の渦巻きや驚嘆すべき知的活動、およびその成果についても幼稚で何も知らない状態なのである。
このような幼児期の魂は、しばしば地上における睡眠と似た状態で地上の人々と交信する。その時彼らは自分の記憶の世界について説明しようとする。それはその時点におけるあなたがたの世界とほとんど正確に一致する。ある者はこの状態を「常夏《とこなつ》の国」と呼んでいるが、まさに適切な呼び名である。というのも、肉体の制約から自由になった魂は今までよりも大きな精神力を持つようになり、自分の好みにあった記憶世界を選べるからである。そこで無意識的にも本能的にも自分の好みの世界に住み、古傷には触れないようにするものである。そのためしばらくの間は、この美しい幼い夢の世界に浸っている。
彼は赤子のように夢見、自分が今や移し植えられた偉大な世界の生活については何も知らず、ほとんど何も感知しない。むろん時と共に霊的知覚が目覚め、この記憶の夢幻境から逃れようとする時、すなわち、自分の知的能力の高まりや、なかんずくより精妙な世界に居住する適応力を自覚する時がやってくる。その時彼は、この幻想状態を離れ、これまで通信してくる霊たちがほとんど触れることのなかった世界に入るのである。
記憶の世界を越えて旅をしてきたわれわれからみれば、こうした帰幽後間もない者たちの言う天国だとかその他の世界だとかは虚構のものである。なんとなればそれらは現実のものではなく、反映の世界であり、霊的な知識の前には消えゆく一場の夢だからである。死の関門を越えた時、多くの人はこの状態のお陰で幸福な気分でいれられる。しかしそれは植物的な幸福であり、自分の住んでいる世界についてほとんど何も知らない幼児の無知の満足に等しいものなのである。

冥府

冥府は、人によってはこれを幽界(astral plane)と呼ぶこともある一時期のことである。肉体の崩壊が始まるとすぐに、短い間だが、人間を一つにまとめ上げていた諸部分の外見上の解体と一時的な混乱の時期がある。この冥府の時期と結びついた不愉快なことどもをどうか思い出さないようにしたいものである。
私の場合は、わが愛する国イタリアで生を終えた。死去の際、私は非常に疲れていた。それゆえ私にとって冥府は休息の時であり、薄明のまどろみの時でもあった。長く深い夢から覚めた後では力が湧き上がってくるものだが、ちょうどそんなふうにして、私は冥府にいる間に必要な霊力と知力を掻き集めた。地上からやって来た人々はそれぞれの性質と成り立ちに従って、様々に違った影響をこの二つの人生の最前線、二つの世界の境界にあるこの場所から受け取るのである。

幻想

幽界を通り抜ける間に魂は幽体(astral shape)を脱ぎ捨て、エーテル体(etheric body)の中に入り込む。その中にあって彼は好きなだけ反映の反映たる幻想世界、つまり地上的性質を帯びた夢の世界に住んでいる。平和と満足がこの境界の内に満ちわたっている。しかしこうした平和の中にいることも、やがて退屈になってくる。なぜなら夢の陶酔境においては、何らの現実的進歩も変化もないからである。ちょっとこの界のことを想い描いてみてほしい。環境はあなた方が地上生活で知っているのとほとんど変わりがない。実際のところ、そこでは、金銭の煩いは何もなく、日々の糧を得るために稼ぐ必要もない。エーテル体は太陽の光とは別の光によって養われていて、エネルギーと生命力を賦与されている。苦痛に悩むことも闘争に巻き込まれることもない。まるで池の中に住んでいるようなもので、波立たない静かな水面にかえって退屈してしまう。そこで闘争や努力や陶酔が欲しくなる。広い天地が恋しくなる。先に進みたいという欲求が再び湧いてくる。つまるところ、上へなり下へなり進みたいと思うようになるのである。

動物的な人

もしここに私の言う動物的な人、つまり原始的なタイプに属する人がいたとすると、その人は死後においてもそれにふさわしい選択をするものである。下方へ降りたいという望みを抱き、冥府に入る時に脱ぎ捨ててきた肉体と同じくらい濃密な物質界の住人となることを選ぶことになる。一般的に言えば、地上に戻るということである。しかし、動物的な人はしばしば、地上よりももっと濃密な物質から成る他の天体に生まれたがるものだと私は聞いている。
人類は地球以外の天体にも存在している。しかしその物質的な体は地上の時間とは異なった時間に支配されており、それゆえその天体固有の時のリズムのもとに生命の旅を続けているのである。そのために彼らの物理的身体は、あなたがたのそれより速く、あるいは緩やかに振動しているので、あなたがた人間の感覚を通してはその体の諸部分を見ることができないかもしれない。しかし私は、彼らの生命の条件や身体の構造が人間のそれと似ていることをもって彼らを人類と呼ぶことにしている。

旅の休憩所

私はすでに幻想の国においてはいかなる進歩もないことを述べた。これはある意味では間違いである。目に見えるような進歩はないという意味である。幻想の国は地上的性質を持った人の見る夢である。というのも、ここへ入ってしばらくすると、魂は平和となり、闘争心は鎮まる。しかしその闘争心は夢が壊れ始めると再び目ざめる。実際、激情が掻き立てられると、彼らは自分で夢を打ち砕く。なぜなら、幻想界においては、動物的な人は困難も闘争もなしに享楽に対する欲を充足することができ、無価値な貪欲が完全に満たされる時期がくると、すぐに渇きがやってくるからである。不満が頭をもたげ、新生活を求めるようになる。路上での休息にすっかり飽きてしまうのである。地上夢の限界に気づいたところから進歩が始まる。
動物的な人は魂の喜びを感ずることがほとんどない。そこで通常、新生活を心から希求するようになる時、彼の望みは、肉体の中に入り、鈍重な身体という形態の中で過ごしたかつての経験をもう一度したいということである。そこで彼は下降する。といっても上昇するための下降ではあるが、地上的性質の夢における経験の結果、彼の自我の高い部分が頭をもたげ始めている。次の再生の期間を通して、彼はおそらく魂の人間の次元まで上昇するであろう。少なくとも動物性を減じて、彼が前世の肉体の中で味わったよりは高い生活をしたいと思うことであろう。
「常夏の国」は地上的人格の見る夢であるから、それがすなわち天国だとか冥府だとか地獄だとかと考えられてはならないのである。「常夏の国」は旅中の単なる休憩所にあたるもので、魂はそこで地上生活を夢の中で追懐し、その情的な無意識生活を総括する。しかしあくまでも彼らは、その旅程を先に進めるために夢を見るのである。

感覚の囚人

あなたがたの現在の環境はある意味で自分の想像したものである。あなたがたの心はその中に閉じ込められていて、神経と感覚が伝えるものをもって生の事実であると認識している。もしあなたがたが精神の奥所にある自我や意識に焦点をあて、訓練の結果、感覚が伝える形の世界から離れた思念の中に参入できるようになれば、物質界は消え失せてしまうであろう。そしてもはやそれを知覚することもないであろう。人が霊的に充分発達した段階では、全く形の世界から離れることになるが、それまでにはむろん数知れぬ経験を積まなければならないのである。
しかしながら、より高次な段階では知力が増大するので形態を制御することができ、またそれに生命を吹き込むことができる。彫刻家が形のない土くれを取ってきてそれに形態を与えるように、あなた方の心が形態に生命と光を引き寄せ、想像のままに環境を形造る。最初、想像は地上の経験と記憶に制約されるので、見たもののうちから翻案して造りだす。だが、幻想界の段階ではまだ、思考作用によって意識的に環境を創造することはない。感情的欲望や深層の心が、あなたがたの自ら意識せざる間にこれを造り出すのである。なぜなら、ここでのあなたがたは、いまだ地上的自我に縛られ、精妙にはなったが依然として物質臭の濃いエーテル体のうちに閉じ込められた個別な魂だからである。

平凡な人

肉体をもって人生の梯子を登りつつある人々は、いわば天と地の間に吊るされているようなものだ。彼らは二つの神秘、すなわち誕生と死とを経験する。上を見ても恐ろしく、下を見ても恐ろしいから、バランスをとるために梯子の一段ごとに全注意を集中する。そこで、いかに登るのに巧みな者でも、梯子の上にいながら、一生という短い年月の前後にいったい何があるのかをゆっくり考える余裕はない。
同じことが死の関門を越えてきた無数の魂についても言える。たしかに、彼らにとり、生命の意味することは深まり、その大きさも増してはいるが、依然として神秘のままであることに変わりはない。彼らはいわば神と、彼らの見る現われの世界のちょうど中間におかれている。死者たちの多くは自分たちのいる環境や生活状態についての通信を生者に送ってこようと努力するが、それらはたいてい彼らの目に映る身のまわりのことどもか、地上から持ってきた狭い個性に縛られた範囲のものである。
ここにトム・ジョーンズなる一人物がいる。彼は生前、ロンドンに住み、法律事務所の一事務員として生涯を終えた。彼の心と霊は法律の仕事とちっぽけな個性の範囲に縛られていた。今私がこのトム・ジョーンズの目から見た死後の世界を描こうとすると、陳腐で物質的なあの世の様を書き送ることとなるだろう。彼は精神的にも霊的にもきわめて粗雑な状態にある期間のことしか地上の人に通信できないのである。彼は生まれたばかりの目の見えない赤子のようなものであるから、自分の目に見えないものについて書き送っているのと同じである。魂の目に光が与えられ、目が見えるようになると、私の知る限りでは、もはや地上を顧みないようになる。彼は次第に自分の精神の貧しさを痛感するようになる。死後の世界の驚くべき性格を地上の霊媒たちのことばを借りて表現する力は彼にはない。彼が黙り込むと、生と死とを隔てる暗幕の彼方からは、かすかな他界の音楽ももはや聞こえてはこない。宇宙の内なる宇宙、生命の内なる生命、そして神の無限の想像力の中で港に憩う船のように安らうすべてのものの奇《くし》びな響きも、絶えて伝わってはこないのである。
トム・ジョーンズは多くの人を代表する例である。彼は自分の仕事に関してはあらゆる事柄に精通したよき働き手であるが、彼の生活はそれのみに限定されていて、楽しみも少なく余暇もないところから、人生の究極の目的などということを考える暇《いとま》はない。馬具をつけ遮眼帯をかけられた馬が駆り立てられるように、揺り籠から墓場まで引っ張りまわされる。その一生は波乱に富んだものではないが、多少の喜びと悲しみがある。
それではこの大衆のシンボルのような人トム・ジョーンズやジョーンズ夫人、さらにはまたジョーンズ嬢の死後の運命はいったいどうなるのであろうか。死後の「多くの住処《すみか》」を調べるためには、まず、世間一般の平凡な男女の例を見たほうがよいだろう。彼らは死後瞬時に変えられて、霊的にも精神的にも高く進歩した賢者になるのであろうか。それともあくまでいわゆる進歩の法則に従うのであろうか。
右の二つの質問にまず答えなくてはならない。トム・ジョーンズが死によって急に賢者や霊的天才に変わるものならば、それはもはやトム・ジョーンズであるとは言えないことになる。それゆえ死後に生き続けているとも言えないのである。しかしながら私は、彼が進化の緩やかな道程を歩むであろうことを保証する。彼は生前の醜さ、狭隘《きょうあい》な人生観、好悪の感情等を持ったまま次の世界に誕生するのである。つまり全くもとの人間のままで。このような人間が高尚で霊的な生活を営むなどとは土台むりな話である。彼は精神的にはまだ産着を付けたままの男である。それゆえ地上で赤子が取り扱われるように扱われなければならないのである。世話を焼かれ保護されなくてはならず、急な変化や乱暴な取り扱いは禁物である。それに耐えられる霊的精神的成熟が充分ではないからである。
平凡な大衆の一人である彼が、地上時代の夢の中へと戻って行くのは、あとにも述べるように、やがて彼が未来に向かって前進し、究極のゴール、つまり霊的な想像の世界へと進んでいく時のためである。そこで彼は無時間の世界に入り、偉大な宇宙絵巻から出て、創造者の精神の中に入っていく時、その至福の状態は訪れる。しかしそこへ到達する前にしなければならないことが山ほどもある。今は彼はまだ玩具を欲しがる子供の段階にあり、外観の世界を必要としているのである。
もっと進歩した魂たち――それを教会では天使と呼ぶようだが、私は「賢者の霊魂」(the Wise)としておく――が広大無辺の宇宙の中に、希薄微妙な形態で存在し、想像もできないほど生き生きとした生命活動を営んでいるのである。トム・ジョーンズがこのような尋常ならざる猛烈な生命の状態を目にすることなどは全く不可能なことである。
われわれのように、ほんの少しばかり先に進んだ者は死の門のすぐ傍らに控えていて、彼のような新米の人々を、ある準備期間をおいた上で、地上生活そのまま、彼らの信ずるそのままに展開する夢の世界へと案内する。彼らは自己のうちに地上時代の全生活を思い出すだけの力を秘めている。慣れ親しんだ環境こそが何にもまして彼らには必要なのだ。彼らの求めるものは、宝玉の街でもなく、また無限についての奇怪な夢でもない。彼はただ自分のよく知った故郷の景色を切望する。彼らはそれを現実に見るのではなく、自己の欲するものを幻想として見るのである。
「賢者の霊魂」と私が呼ぶ方々は、自分たちの記憶や地球の持つ大超越意識記憶(the great super-conscious memory)の中から、地上からやってきたばかりの人のために、彼らにはおなじみの家や、街路や、田園の風景などを引き出して与えることができる。賢者の霊魂が思念を送ると、トム・ジョーンズの目には一つの映像が生み出される。そのおかげで彼は、死後の最初の時期に空白や虚無の感じを味わわなくてもすむのである。彼が薄明の中で眠り、さなぎの中で憩う間にエーテル体が形造られる。やがてそれは蝶となって偉大な霊智の魂たちが思念集中によって生み出す世界のうちに出現する。このような想念力を持った方々を私は賢者の霊魂と呼び、創り出されたものを「創造的生命」と呼ぶのであるが、それ以外に適当な表現が見当たらないのである。
一つの情景が、未発達な魂の記憶から引き出される。それはトム・ジョ-ンズやその仲間たちの知っていた田園風景と似ていなくもないが、それよりずっと美しい。この田園風景は現実のものではなく、夢である。しかしトム・ジョーンズにとってそれは彼の事務所の机や、毎朝彼を起こしてくれためざまし時計と同じように、現実的に見える。それは疑いもなく彼の知っているあのロンドンという灰色の小さな世界よりも魅惑的ではあるが、しかし本質において英国を形づくるあの懐かしい要素から成り立っているのである。
夢の中では、ずっと以前に亡くなった友人や、何人かの自国の人々の姿を見る。それらの人々は生前彼が本当に愛した人たちである。
トム・ジョーンズが死後の環境にいる様を思い描いてみよう。彼はそれを生前と同じ物質界だと思っているから、彼の生来の内気さを刺激しないように配慮しなくてはならぬ。彼は素朴な魂で、清い尊敬すべき一生を送り、欲望は適度に自制した。彼は七十年の生涯を地上のある環境の中で過ごしたのであるが、肉体を去った後も、生前に慣れ親しんだ環境の中におかれるのはなぜなのだろうか。なぜ地上生活に酷似した生活の中に入っていかなくてはならないのであろうか。
実際をいえば、両者は同じものではない。それはトム・ジョーンズにとっての緩やかな変化期なのである。彼の地上で過ごした一八五〇年から一九二〇年までの生活は、地に蒔かれた一粒の種の発芽期にあたるものなのである。その新しい緑の新芽が、光を求めて上に伸び、やがて時が満ちると、次の生活へと移行する。彼を含めたいくつかの小さな植物の栽培を任された庭師は、それを適切な促成栽培の温室へと移し植えるのである。前にも述べたように、これまで慣れ親しんだのとよく似た世界に案内するわけである。
この旅人たちはやがて、同じ性質を持った者同士が一つの環境に親しく集まっていることに気づく。しかしひとりひとりの実際的な要求はほとんどの場合同じでないことも知る。彼らのエーテル体は食物を必要としないので、その生活の大部分を機械的な仕事に費やさなければならないということもない。彼らはあまねく充満する目には見えない実体から自分の幸福に必要なものを引き出す。地上生活においては人間は物理的肉体の奴隷であり、それゆえにまた暗黒の勢力の奴隷でもある。死後の生活においては、ある条件さえ満たされれば、人々は光明の奉仕者となるといってもよかろう。食物ないしそれに見合う金銭はもはや彼らの主要な目的とはならず、ついに彼らは光明に奉仕する時間を手にするわけである。すなわち、彼は余暇のうちに反省し、霊妙至福の精神生活を送れる地位を得るのである。
今や身体の崩壊とともに、かまびすしくも激越なあの肉体の欲求は消え去る。かつては不可欠のものであった日に三度四度の食事をとる必要はもはやない。飢えという地上生活最大の要件は消滅したのである。しかしまだ多大の考慮を払うべき他の要因がある。飢えの後にはセックスの問題がある。この要求は身体の崩壊と共になくなるのであろうか。
私の答えは、大部分の場合には「否」である。それは消えずに変化する。ここにおいてわれわらはこの推移期間における大問題に直面するのである。
まず性欲というものを定義する必要があるだろう。そのうちのいくつかは歪んだものになっている。ここではそのうちの歪んだ部分を取り上げることにするが、そうすることによって人が罪と呼んでいるものにも触れなくてはならぬ。残酷さは他の性的歪み以上に人間の性格に食い入った感情である。それは人の魂に刻印し、他のどのような悪徳よりも深く傷つける。愛情への渇仰を他人を傷つけるという激しい望みに変えてしまった残酷な人間は、当然のことながら現世ではその欲望を充分に果たすことができない。彼は地上生活のすべてをそこに傾注する結果、それが彼の魂の一部となってしまったのである。
しかし新しい生活の中では、ある期間、生きているものに苦痛を与える力のない時期がある。このことは次第に精神力を増大しつつある彼にとっては大変な悲嘆の種である。彼は自己の欲望を貪る相手を求め続けるが、誰も見つからない。この求めて満たされざる欠乏状態はほとんど精神的な性格のものであると言ってもよかろう。このばかげた地上の欲求が満たされないでいる魂にとって、光や美の世界などというものが何の役に立つであろうか。彼にとってはこの精神的地獄から逃れるすべはただ一つだけである。そこから逃れる道を自ら発見し、その冷酷な魂に現実の変化が訪れるまでは、彼は自らを取り巻く暗黒の中に留まり続けなくてはならないであろう。
キリストはすべての罪びとたちのいる暗黒の世界について言及した。キリストの言ったのは、われわれが知っている感覚的な暗闇のことではない。彼が言ったのは魂の暗闇、精神の苦悩、満たされることのない歪んだ欲望のことである。
ついにこの罪びとが自分のみじめさや悪徳と立ち向かう時がやってくる。その時偉大な変化が起こるのである。聖ヨハネが「生命の書」と呼んだ〔黙示録20:12〕大記憶の一部に触れることになる。それによって彼は、これまで彼の行為がその犠牲者たちに与えてきたありとあらゆる苦痛の感情に気づかされる。彼は地球のまわりに付き従っている大超越意識記憶のうちの一部分である彼の時代の記憶の中に入ってゆく。彼が他人に与えたいかなる苦痛も、懊悩も消え去ってはいない。そのすべては記録されていて、かつての自分や交渉のあった人たちに関する記憶の網に触れると、すぐにそれと分かるようになっているのである。
残酷者の死後における物語は一冊の本にもなりえようが、今の私にそれを語ることは許されていない。私はただ、彼の魂と心は、その犠牲者たちの苦悩との一体化を通して浄められてゆくものであると付け加えうるのみである。
私は、キリストが罪びとは外なる暗闇の中に投げ込まれて泣き叫び、歯を食いしばって耐えるほどの苦しみを受けると言ったことの意味を説明しようとして、トム・ジョーンズの問題から離れてしまった。罪人が飛び込むのは心の闇の中のことである。その歪んだ性格が苦悩を自分自身に引き寄せるのである。彼は自由意志と選択する力とを持っていたのであり、かりそめのものといいながら、死後の心の闇を選びとったのである。
さてもう少し説明を付け加えるために、地上生活において淫奔な生活を送った女の例をあげよう。ヨハネに現れた天使のことばに「汚れた者はさらに汚れたままにしておけ」というのがある〔黙示録22:11〕。よからぬ性生活を送ってこちらの世界へ来たものは、〈心の王国〉に入ると同時に、心の知覚力が研ぎすまされ、精神の力も増すので、地上時代に支配的であった欲望が強められる。彼は意志の力で、増大した性情を満足させてくれる人間を自分に呼び寄せる。つまり同類の者たちを引き寄せるのである。しばしのあいだ彼らは揃って性の悦楽境に住まう。
しかしこれらはあくまでも、自己の精神の創出になるものであり、記憶と想像力の産物であることを銘記せよ。彼らは、こまやかな感情で友愛を築きあげるという高尚な生活――それこそすべての性愛の精華であるが――を求めず、粗野な感覚の満足を追い続ける。
彼らは容易にそれを手にして、やがて恐るべき渇きにおそわれる。過度にまたたやすく得られたものを嫌悪する時がくる。そのときになって、彼らが快楽を共にした人から逃れることがいかに困難かを痛感するのである。
殺人者もまさしくこの種のともがらである。突然の邪悪な欲望や残酷へと駆りたてる欲情が彼に多くの殺人を犯させたのである。
幻想の国の最終状態は、浄化の状態と名づけられる。いうまでもなく、渇きのみじめに気づき、欲望の満足に終止符を打つことはこの上ない苦痛である。欲望の達せられないことよりもさらにはなはだしい不幸とは、欲望の達成されてしまうことである。人はいつも偽りの夢、惑わしの鬼火を求め続けるものであるから、一時の望みが満たされても、究極の満足は得られないのである。
むろん何ごとにも例外はある。冥府や幻想の国においても個々人は互いに異なった経験を持つものである。ある場合には欲望を満足させる力を与えられないこともある。実のところそうすることはできるのだが自分自身の自我がそうした満足を遂げることを許さないのである。たとえば、幻想の国では、冷たく利己的な人は自我を外へ投げ出して欲望遂行のうちに自己表現する力もないために、暗黒の世界に住まうことになろう。
彼は死の衝撃によって今まで以上に内側に閉じ込められる。自分はすべてを失ったと思う。そして自分自身の思考する対象を実体として感ずる以外はすべてのものとの接触を失う。鈍い喪失の感覚と他人に対する一切の顧慮なしに自己満足を求める欲望のうちに住まう限り、暗黒の夢魔は続き広がる。極度に利己的な人にとって幻想の国は夜だけの世界であろう。
ほとんどすべての魂はしばらくのあいだ幻想の国に住む。人間の大部分は死ぬ時は物こそが現実のすべてであるという観念に支配されており、また物に関する個々の経験のみが唯一の現実であると思いこんでいる。彼らはまだ世界観をすっかりと変えてしまう準備ができていない。そのため、自分の慣れ親しんだ環境を理想化した状態を求め続け、幻想の国と私が名づける夢の中へと入っていく。それゆえ、彼らの生きようとする意志は過去に生きんとする意志なのである。
たとえば平凡な市民の代表例としてのトム・ジョーンズは、ブライトンにある光まばゆいレンガ造りの別荘を持ちたいと願う。そこで彼はこの二十世紀極めつけの罪物を手に入れて得々とする。当然の結果として彼の知人たちで似たような性質の心を持った人々のもとへと引き寄せられることになる。彼は地上生活では極上の葉巻に憧れたものであった。そこで反吐が出るほどこれをくゆらすことになる。ゴルフをしたいと思えばゴルフをする。こうしていつも夢見て過ごす。というよりも、地上での最大の欲望によって生み出された幻想のうちに生きるのである。
しばらくすると、こうした快楽の生活は彼を楽しませもしなければ満足も与えなくなる。そこで彼は考えることを始め、未知の新生活に憧れを持つ。ついに進歩に向けて準備が整い、重くたれこめた夢の世界は消えてゆく。

第四章 意識

地上生活においては、意識は毎朝めざめとともに点すランプのようなものである。不健康であればその火は弱いが、健康であればその炎は燃えあがり、出会うものすべてを明るく照らし出し、くっきりと豊かな光芒を投げかけよう。
この日常的な意識は年齢と経験に応じて変化していく。意識は毎年けっして同じものではないが、あなたがたはその目に見えない変化に気づかないであろう。意識の源泉たる自我こそが、見、聞き、触れるなどにより物質世界をそれと知るものなのである。すでに述べたように、この霊妙な存在は算数で言う総計なのである[後出第十八章参照]。死んである期間たつと、重大な変化を被ったこの自我は再び支配力を取り戻す。到達した階層がどこであろうと自我は一個の旅人である。しかし彼はすでに、肉体も血も脳細胞も、また一つの王国をなす神経の錯綜した網も捨ててしまっている。そこには肉体などよりはるかに洗練された形態がある。この形態は相互に通信手段を持っており、霊界の原子からなる新しい構造物全体に生命を与えている。前にも述べた通り、これは霊妙至精の構造物であり、地上の人間の目には見えず、科学者のいかなる精密機械によっても測定できない。
ここに出現した新しい人間は苦痛というものを感ずることがない。というのも今や精神の力が増大しているからである。第四界までくると、心が外的形態を完全に支配しているので、心には霊的知的な意味における苦痛はあっても、地上的意味で形態から患わされることはなく、またいかなる点でも形態が心に優越することはないのである。かくしてあなたがたは重大な進歩がなされたことに気づくのである。とはいっても、人はまだまだ多くの状態を通過し、無数の障害を経験して、しかる後にゴールに近づき、完成に至るのである。
私は人間の魂の旅の重要な部分を占める意識を大雑把に次のように定義したい。すなわち、霊または高次の魂、自我ないし低次の魂、そしてそれらの顕現である形態的存在、というふうに。
同様に、意識の階梯と呼ぶべきものがある。階梯の一段一段は、出発点から究極の到達点に至るさまざまの形態を表わしている。究極点といってもなんらかの終わりがあるという意味ではない。私が「究極」ということばを用いるときは、私の想像しうるものの限界のことを言っているのである。さて、魂とか自我とかいうのは、階梯の各段階におけるその時々の現実的な自己ないし表面的な気づき(awareness)のことであり、霊とは上からの光である。霊は階梯の各段のすべてを照らし、全体を含むものである。それに対し、魂とは部分であり、経験の集合であり、また全生命の背後にある神秘の表出したものである。
自我が意識の階梯を登っていくに従って、他の種類の魂たちの心に近づいていく。私はすでに、千とか百とか、あるいは単に二十ほどの魂が一つの霊に養われていると述べたことがある[第六章参照]。類魂の意識は存在のレベルが上昇するにつれて増大する。いつしか彼らは類魂の中の他魂の記憶の中に入りこみ、その経験を知覚し、あたかもそれが自分自身のものであるように感ずることができるようになる。精神は最終段階においては共通のものとなる。霊にとっての統一原理とは、たえず大きな調和、言い換えれば、より大きな統一体を生み出そうという傾向なのである。様々な個体はだんだんと混じり合い、経験と心において一つになり、やがて夢にも思わざるほどの巨大な知力の次元を達成するのである。
意識の階梯の低い段階には、人間的な思考習慣や、地上的人格や、個人レベルの思考にしがみついた魂たちがいる。地上生活においてそれらの人々のあるものは際立った学者であった。しかし知識は智者をつくらない。偉大なインドのヨギ、中国の賢者、徳のある神聖なキリスト教の教父といった面々が、彼らのいるところを至高の天上界と思いつめて、いつまでも第三、第四の階層に留まっている。彼らは典型的な魂の人であり、彼らなりの欠点を持っているのである。彼らは地上で持っていた考えに執着し、あまりにも個性化してしまっている。彼らは夢に捕えられ、その誤りにすっかりはまりこんでいる、たとえばインドのヨギや中国の賢者はその特殊な宗教や哲学の理想、つまり物質からの魂の解放とか宇宙の忘我的観照とかのみを追い求め続けているようなのである。
彼らは自己の理想とするものを捕まえたようである。しかしその結果として低次の階梯の一つに留まるのである。彼らは涅槃《ねはん》を達成し、〈彼岸〉に辿りつき、〈神の神秘〉に参入しえたと信じている。しかし彼らはとてもそんな状態にはいない。というのも彼らは依然として個人的存在であり、地上にいる時に生み出した至福の小さな夢にしがみついているからである。彼らは淀んだ池に住んでいる。そして進歩もしなければ退歩もしない。彼らは宇宙の物質的側面とはなんの接触も持たず、彼らのいわゆる忘我的観照は経験の範囲を狭く限定し、彼らを自己の持つ自我の檻の中に閉じこめてしまうのである。
私は前に魂が高次の段階に到達すると、全体を統一する本霊の中に融合し、ついには〈彼岸〉にたどりついて〈神の神秘〉に参入するのだと言った。そうすることによって形態を脱ぎ捨てた魂は、もはや外的な現われの中に自己表現することはなくなる。しかし〈彼岸〉に渡った霊たちは賢者やヨギたちのような観照の世界には住まないのである。彼らは形態はなくとも物質宇宙全体と接触を保つ。そのことによって霊的知的次元における信じ難い活動を行なうのである。なぜなら彼らは今や無限の〈神秘劇〉に参画しているのである。つまり真の涅槃、最高のキリスト教天国にいるのであり、また物質宇宙のアルファとオメガを知り、かつ経験する。あらゆる天体の記録と地球の歴史は一部始終彼らの手中にある。彼らは単なる後継者ではなく、正真正銘、不滅な生命の相続人となったのである。意識の長い階梯を登る時、あなたがたは算数で言うところの小計額であるが、〈彼岸〉に渡ることによってまさに総計額となるのである。
意識の階段を上から照らし出す本霊とは神の一思想の個別な具現者であると言える。その思想は通常その本霊自身の生命のうちに留まり続けるが、時としては、人間の自我と直接交渉を持ち、かつ神との接触の直接性や激しさを失わないでいることもある。こうした神の思想の具現者である「霊的な人」は地球開闢以来おそらくはほんの数十人ほどしかこの世に出現しなかった。神の思想が時のうちに流れ入り、肉体を持った人と交渉を持つ時、この種の霊的な人が他の人々と区別されるのは、神からの霊感の直接的な激しさをその霊のうちに留めているという点においてである。それゆえ、霊的な人だけが、その言動のうちに永遠の真理を表現しうる。彼は、その肉体が滅びた時、冥府に安らいはするが、幻想の国にたゆたうことはなく、一挙に階段を駆け上がり、容易に父なる神と一体化する。地上生活にある間でさえ、彼は父なる神を知り、その霊感を神の想像力から引き出していたのである。

第五章 色彩界――第四界

魂的な人――形象(イメージ)の破壊

幻想の国ではエーテル体を身につける。それは物質形態よりももっと希薄で洗練されたものである。あなたがたが第二番目の魂的な人にあたるなら、――言い換えると知的にも道徳的にも進歩した魂ということだが――意識の段階を登っていこうという意欲がある。そして、物質的実体に対する熱情は、ほんのわずかな例外を除いては燃えつきて灰となってしまっている。
魂的な人のうちのある者は地上に戻りたいと願う。そうでないとしても、どこか他の星に生まれて、なんらかの知的成果を達成したいと思うか、その星の生存競争の中で赫々たる役割を演じたいと望むのである。それゆえ、こうした人は肉体的に再生する。しかし大部分の魂的な人々はエーテル体を脱ぎ捨てて、さらに精妙な形態を身にまとう。彼らは幻想の国、すなわち地上生活の古い幻のうちに生きるだけの保育室的な生き方から解放される。
さてこれらの人々は、精妙な身体を身に付けて、私が「超地上的」と名づける世界に入っていく。しかし依然としてエーテルのうちに住まうことにかわりはない。エーテルとは本当はよくない表現だ。が、しかし、他にこの精妙な気体を表現することばが見当たらない。あるいはむしろ物質宇宙からの流体とか放射物とかいうべきかもしれない。どうかエーテルとはあなたがたの知る物質の先祖にあたるものだと思っていただきたい。しかしどうも本題から離れてしまったようだ。
魂的な人は主として形態の中に住むかぎり、超地上的一存在であることに満足しているはずである。この状態にも多くの段階があり、自らを表現する形態も多様である。彼らは振動率の差によって互いに異なるのである。つまり精妙な振動を持つほど霊的知覚も優れたものとなり、理解の範囲が広がるにつれて、われわれが神と呼んでいる〈神秘〉――すなわち霊的な探求の到達点――についての経験が深まるのである。
さて、幻想の国を超えて自覚的に生活し、自己の精妙な身体を自覚する時、そこは地上世界の源となる世界であることに気づくであろう。簡単にいえば、地上とは、精妙な身体に精妙な魂の宿るこの世界の、醜く汚れた模写図である。いうまでもなく、模写図を描く人は、傑作をそのまま写しとろうとするのだが、たいていは問題の作品の魂を伝えることができない。寸法があっていて、線や色が美しくても、その中に生命がないのである。そのため愛する巨匠の作品の模写を見せられても感動はなく、軽い苛立ちを覚えるのみである。結局のところ模写は模写にすぎないのだ。それは時としては歪んだ醜いものとなり、また時としては輪郭がぼやけて、生彩がなく、いわゆる生命が宿っていないのである。
私の言う精妙世界においても、地上生活では知られていない様々な形態があって、とてもことばでは表現しきれないのである。しかしそれでも、地上の自然界の姿とこの光明に満ち満ちた世界の間にはある相似性がある。そこには例えば花もあるのだが、その形は異なり、その色彩は目も覚めるような光輝を放っている。その色も輝きも地上の色域や波長の中にはないもので、筆にも言葉にも尽くせぬものである。前にも述べたように、言葉はもはやわれわれの役には立たないのである。
しかしながら、この意識界の魂も、争いもすれば仕事もする。地上のものとは違うが、悲しみもあれば喜びの陶酔もある。ここでの悲しみや陶酔は霊的な性質のものである。この両者は地上の想像を越えた種類のものであるが、それらがついには魂を超地上的な領域の上の境界まで導くのである。

上層世界への入口――形態の神聖化(apotheosis)

魂が意識の階段を下へではなく上へ登ろうと決心するようになると、精妙な知覚と共に新しい感知力を備えるようになる。かくして彼は第四界に入るのである。地上生活では、平均的な人間の正常な自我のほとんどは、身体の欲望に支配されている。そうした中でも霊は生命を鼓舞し、時々は頭脳の暗がりを閃光で照らし出しているのだが力がない。私が深奥の心と呼んでいるこの霊は、今のところまだ自我の中にかすかに自己を印象づけているのみなのである。
さて第四界になると、この霊の影響力が、私が魂とか通常意識とか呼んでいる部分にまで強く浸透してきて、時間の世界に身を任せるようになる。するとこの魂は、自己のはなはだ増大した知力を通して周囲の変化を感受するようになる。増大する感知力とともに強い集中力も備わってくる。細々とした地上の記憶は当分のあいだ失われる。形態の中にあるかぎり、魂は宇宙のリズムに服し、それゆえにまた、時間の或る形式に従うのである。「時」と現われの世界を一つのものとして理解せよ。
とは言っても、魂は地上的な記憶の主なものは持ち続けている。というよりも、第四界の初めにおいては、まだそれとの接触が残っているといったほうがよい。この色彩界というのは、もっと適切なことばで言えば、「形象《イメージ》の破壊」の世界というべきなのである。意識のこのレベルに達すると、魂は形態《フォーム》の統御法を学び、それとともにあらゆる物的存在の虚構であることを無数の経験から学習するのである。進歩の初期においては、彼はまだ物の影響を強く受けている。しかし徐々に重たい形象が壊され、自我がゆっくりと高次の魂ないし霊から力を引き出すことを学ぶことにより、自らの意志で自己の形態を壊し、また自分の周囲のあらゆる形態や外観的なものから離脱することが可能になる。
むろん個々の魂たちの経験には大きな差異がある。私はここでは、上方へとまっしぐらに進んでいく「魂的な人」の俊敏な例を挙げているのである。多くの魂たちはそれと異なり、海の波の上下運動にもてあそばれるように、浮きつ沈みつ沈みつ浮きつ、それでも以前よりは少しは前進している、というような進み方をする。
今やこの俊英なる魂は、何よりもまず、限りない色彩と音の世界に入ったことを知る。そして自分が人間のそれとは全く異なった身体を持っていることに気づく。外観に関して言えば、それはただ光と色の想像を超えた複合と言えるのみである。この身体の形態は、彼の意識の深部に刻印された全自我の過去の行為によって影響される。それゆえ、この色彩の混合物は、その形態においては実は奇妙珍妙であったり、言語に絶して愛らしかったりする。また、妙ちきりんな輪郭を所有しているかと思えば、それこそ地上の美の高雅絶上の夢を超えていることもある。
この多くの色彩の入り乱れる領域では、精神が直接に形態の中に自己表現しようとするので、形態が猛烈に振動している。そうした振動によって他の魂の想念を聴き取るのである。最初は一時に一つだけを聴き取りうるだけだが、しばらくするうちに数個の魂の想念をそれぞれ分明に聴き分けることができるようになる。そこはいくつかの点において地上と似たところのある世界である。ただこの広大な世界の外観は途方もなく巨大で、魂的な人の受け取り方次第で恐ろしくもなれば優美にもなるところが違っている。それは地上の環境に比べてはるかに流動的で、明らかに個体性が少ない。
この色彩多様の世界は、純粋なる光と生命に養われて想像を超えた速さで振動している。色彩の最下層に住む魂たちは、意識の高まりとともにこれまでよりもはるかに高い感受性を獲得する。そのため、悪意のある魂的な人の心の状態は、想念力の強力な放射で、相手の光と色でできた身体を吹き荒らし衰弱させる。そこで防御光線を放射する術を学ぶ必要があるのである。
ある人々が地上生活で仇同士であり、互いに憎みあっていたとすると、それらの人々はこの世界で再びめぐり会うこととなるであろう。古い感情的記憶がここで蘇る。永遠の布地の中に絶えず形を変えて織り込まれているその人独特の意匠というものがあり、あなたがたはその同じ模様の中にいる魂たちと、愛憎の念によって避け難く結びつけられているのである。
それゆえ、かつて味わった苦痛と快楽、歓喜と絶望を再び経験することになるのである。再びとはいっても、それらは地上における時のものとはすっかり違ったものとなっている。つまりはるかに上質で知的なものである。霊的感受力が強ければ強いほど思い出が呼び覚ます絶望も深く、また逆に、あなたがたの存在の深所に掻き立てられる至福の感情も無上のものがある。
この光に満ちた世界における闘争は激しさも更であり、そこで費やされる努力も地上の計量を越えている。つづめて言えば、すべての経験は洗練され、高められ、強められ、生存への生々しい熱情が限りもなく増大しているのである。

第四界における感知力の増大

これまで述べてきたことはこの超地上的世界の極めて精妙な生活をざっと描写したもので、実際には様々に変化した状態があると考えてもらいたい。たとえば霊化した状態といっても、その表現には多くの形式がある。進歩するにつれて魂はいくつもの身体を身につけてはそれを脱ぎ捨てていく。これらの体は次第に精妙なものとなるので、その材質の希薄さは卓越した科学者によっても想像することが難しいであろう。
しかしながら一つの法則が行き渡っている。それは魂は自分と同じ強度で振動しているものの存在にしか気づかないということである。ただし、催眠として知られる奇妙な睡眠のうちにある時は別で、この状態にある時は魂は後へ引き返して、一時的に意識の階段を下り、物質性の濃い世界にいる魂と精神的な接触(mental contact)をする。また冥府にさえ降りていってその霧の中に入り、人間たちと接触もする。そこではしばしば地上の人の夢に捕えられるが、そんな時はあたかも、高次の世界における生活の記憶が一時的に消えてしまったようになる。そのため彼は――ごく稀な例外はあるが――有益で興味ある情報を地上に伝えることができないのである。その結果、地上の、しかもしばしば自分のものでもない記憶の繭に包み込まれて、とるに足らないことしか報告できない。それはまるで、蜜蜂が、巣の中の蜜に堪能して、酩酊してしまったのと似ている。
この光に満ちた世界において、魂の感知力ははなはだしく増大するが、通常、愛する人を求めて地獄へ降りていったオルフェウスのように、求める相手に意味のあることを伝えられないのである。帰幽者からの自発的通信が少ないのもこうしたわけなのである。実際、われわれから見ると、人間たちは幽霊のような影の薄い存在であるから、彼らがよほどの信念と愛情をもってわれわれを求めてくれなければ、現在や地上時代のわれわれの性格についてはっきりとしたことを伝えるのは難しい。しかしこうした調査ならば合法的であって、そのために招霊された人を傷つけたり悩ませたりする恐れはない。
さて、およそ人間には未知の音や、感情といったものを想像してみることができない。それゆえわれわれが「形象の破壊期」と呼ぶ第四界で経験する新たな音響、色彩、感情の無限の組み合わせといったものを想い描いてみることは不可能である。
地上生活のおよそ半分は睡眠、つまり無意識状態で過ごすのである。正常で健康的な自我としての意識には、目ざめている時でも、一秒間に四十回から五十回の無意識の間隙《かんげき》がある[原注1]。この点で人は暗夜の岸辺に立つ灯台にも似ている。咫尺《しせき》を分かたぬ真の闇が海を覆い、ときおり一条の光が横切って海面を照らし出すが、その光は弱く瞬間的である。人間の意識はそれと変わらないように私には思える。階段を上へ登るにしたがって光は輝きと持続性を増すので、次第に人影が浮き出てくる。第四界に到達した人の感知力は、通常人のそれと比べてよほど明るさを増している。身体の希薄化と精妙化が進み、かつ知的活動が盛んになったおかげで霊と魂の接触が確度と持続性を加えたために、無意識の間隙が以前と比べてはるかに少なくなっているのである。盲目だった子犬の目がついに開き始めたのだ。
夜の海の光景をもう一度心に描いてみていただきたい。今やそれは灯台の光に間断なく照らし出されている。かなりの間をおいて闇が訪れる。ことばという原始的かつ粗雑な音波を用いて、この偉大な感知力の増大から生ずる様々な意味を人々に伝えることはまことに困難である。たとえばここでの感情生活における思考過程の激しさは、人間の頭脳の怠惰な動きや地上生活に掻き立てられる情熱に比べると桁違いに見える。あなたがた人間の知的活動をナメクジやカタツムリのそれと比較してみると第四界における魂の精神活動と人間のそれとの差異が分かるであろう。
われわれの持つ空間概念はあなたがたのそれとは全く異なる。しかし無線による情報伝達を例とすれば、おぼろげながらその概念を伝えることができよう。たとえば私はほんの一瞬思念を凝らすことによって、自分の似姿を造りあげ、広大な空間を迅速に横切ってそれを私に思念を合わせている友人のもとへ送ることができる。たちまちにして私の姿は友人のもとに現われ、彼と会話を交わす――ことばによってではなく、想念によってである――のである。話の間、私ははるか遠距離からその似姿を操作する。そして会見が終わるやいなや、私がその像から想念のもつ生命を引き抜くと、その似姿は消える。むろん私はこうした接触を、私と同じ界に住む私と波長の合う親しい人との間でしかできないのである。
私が念力に現実性を付与するための細かな説明を試みたのは、われわれが創造原理にどのくらい近づいているかをあなたがたに示したいためであった。われわれはこの界で形態の内と外に住むすべを習い、最も希薄な実体の玄妙さを学びとる。そのことによってわれわれは、精神というものの流動的な性質に気づき、そしてそれがわれわれの現われや外観の世界を構成する要素としてのエネルギーや生命力をいかに支配するかを理解するのである。

[原注1] このいささか驚くにたる計算の興味深い確証が、E・D・フォーセットの『個人と現実』という本の三二八頁にある。「このことは睡眠についてのみ当てはまることではない。誰の計算であるかは思い出せないが、意識は一秒間に五十回ほどの間隙で中断されると計算された。」――E・B・ギブズ

第六章 類魂――心霊意識の集団/原子意識の集団としての肉体

類魂は一にして多である。一つの霊が全体に生命を吹き込んで多数の魂を一つにまとめている。前にも述べたと思うが、脳髄に中枢があるように、心霊的生命にあっては多くの魂が一つの霊によって結びつけられ、その霊によって養われているのである。
地上生活にあった時も私は類魂の一分枝に属していた。その場合本霊は目に見えない根のようなものである。霊的進化というものが分かるようになると、類魂についても学ぶ必要が出てくる。たとえば類魂の説が分かると、多くの難問が再生の原理によって解決する。ばかばかしいと思うかもしれないが、われわれが前世で犯した罪の償いのために地上に再生するというのは、ある意味では本当なのである。前世は自分の一生であってまた自分の一生ではない。言い換えれば、私と同じ類魂に属するある魂が私がこの世に生を受ける以前に前世生活を送り、私の地上生活のための枠組みを造ったのである。
この不可視の世界には無限に多様な生活状態がある。私が絶対に誤謬を犯さないというつもりはないが、以下に述べることは一つの公理であると考えていただきたい。
魂的な次元の人の多くは再び地上に再生しようとは思わないものである。しかし彼の本霊は何度も地上に姿を現す。本霊は、霊的進化の途上にあって、互いに作用しあう類魂を束ねているのである。私が霊的先祖と言う時は、単なる肉体上の先祖のことを言うのではなく、一つの霊に束ねられている多くの魂の先祖のことを言っているのである。その本霊の中には二十とか百とか、千とかの魂が含まれている。その数はいろいろであり、また人それぞれによって違いがある。しかし、仏教徒の言う前世からのカルマというのは、実は私のものではなく、私のはるか以前に地上に出て私の人生の型をつくって残したある魂のものである。私もまたその生涯を通して同じ類魂の他の魂のためにある型の模様を織りなすのである。われわれは種々異なる界にいる仲間の魂たちの影響を受けはするが、しかし互いに独立した存在なのである。
仏教徒が輪廻転生について語る時、それは半分の真実を語っているのである。そして半分の真実とはしはしば、全面的誤謬よりも不正確であることが多いものだ。私という存在は二度とこの世には再生しないのである。がしかし、わが類魂の中に加わろうとする新しい魂が、私が織り込んでおいた模様ないしカルマの中にしばしの間入り込む。私はここで「カルマ」という語をはなはだ漠然と用いている。というのも新しい魂が受けつぐのはカルマ以上のものであり、また以下のものである。つまり、私とは一個の王国のようなもので、さらに言えば王国の一構成員のようなものなのである。
魂的次元の人にとってはただ一回の地上生活では不足だという人がいるかもしれない。しかし魂がこちらで進歩すると、自分に先立つ類魂の魂が地上で過ごした生活の記憶や経験の中に入っていくのである。
私はここで述べた理論が普遍法則として通用するものかどうかを確言することはしない。しかし疑いもなく、これは私の学び経験しえた範囲内での真実である。
こうした思弁――とあなたがたは言うであろう――を天才の問題にあてはめてみると興味深い。地上でわれわれに先立つ一生を過ごした魂は当然のことながら精神的、道徳的影響をわれわれに刻印する。今ここに或る霊魂の特性が一つの類魂団の中で開発され続けているとして、その特性が仮に音楽であるとすると、あなたがたは地上におけるその類魂の代表者として音楽の天才を見出すことになるのである。その魂は過去の類魂のあらゆる生涯の傾向をみごとに収穫し、天才の特質たる驚嘆すべき無意識的知識を所有することになるであろう。
死後のこちらの世界で、われわれは進歩の度合いに応じて類魂というものに気づかされていく。結局われわれはその中に入っていき、わが仲間たちの経験を自分のものとする。それゆえ魂としてのわれわれの生活は――自分の個人的自我は別として――二重生活なのだということを理解する必要がある。私は同時に二つの生を生きる。つまり、一つは形態の中での生活、また他の一つはわが属する共同体〔類魂〕の意識の中での心的な生活である。
地上の皆さんは、ここに私の述べたことをなかなか理解しようとしないかもしれない。あなたがたはえてして、死後の世界における不壊《ふえ》の個体性とか、神の生命の中への霊的融合とかに憧れを持っているものである。あなたがたは私の類魂分析によって、われわれは個人であるとともに全体の一員であることを理解してくださることであろう。そして第四界、とりわけ第五界まで上ってくるようになると、仲間たちが一つのものの中で結ばれていることの素晴らしさを知り、それがいかに全体の生活を深め、高め、かつ地上にあっては不可避のものたる冷淡な利己心を破壊していくかということに気がつくことであろう。というのも、地上においては、ご承知のように、一つの生物はその物質的生命の維持のために他の生命を絶えず破壊し続けなければならないのである。
第四界においては、魂は類魂の生活に気づくようになり、それによって偉大な進歩を遂げる。彼は経験というものの性格、つまり心の可能性を一気に知るようになるのだが、第四界においては魂的次元の人であれば、まだまだ過ちに陥りやすい。というのも、類魂について知り、他の類魂の仲間たちの感情的、知的経験を共有してゆく途中で、ある鋳型にはまった類魂の一局面に捕らえられてしまうと、その魂は永くその鋳型から抜け出られなくなるからである。
そうした例としてある特殊な世界にはまりこむ場合をあげたい。たとえば狂信的な仏教徒やキリスト教徒たちはこうした地上時代の信念の溝の中に落ち込んでいる。それというのも、そのグループの他の類魂たちも同じような観念の鎖に縛られてしまっているからである。そのためにその魂たちは進歩せず、キリスト教徒や仏教徒をつくりあげている一思想ないし一記憶の世界に留まり続ける。まるでタコの足にしっかり捕えられてしまったようである。タコとはすなわち、死後の世界について彼らの持つ地上的観念、つまり地上でつくりあげた世界観にほかならないのである。
こうした状態が進歩を妨げることはお分かりであろう。それは他の比喩をもって言えば、知的な「さなぎ」の中に住んで過去の地上的観念に生きることになるからである。旅する魂がそれらの観念を自分の意志で検討できるようになることは必要なことであるが、それに捕われたり閉じこめられたりしないことが大切である。

霊的な人

霊的な人はこうした幻とか亡霊とか地上的信念の遺物のごときものに捕われることはない。したがって、偉大な人類の師たちがこのような罠《わな》にかかってしまうことはないのである。神の子たるイエスはいったん冥府に入りはしたが、その後いかなる階層にも留まらなかった。キリストは直接神によって命を吹き込まれていたので、類魂とはかかわりを持たなかった。彼は冥府から一直線に彼岸へと向かった。というのも、地上にいた間の彼の物質的身体は、神の想像力である本質が物質の中へ直接に具現したものであったからである。まことにキリストこそは全体者の一部がそのまま姿を現わしたものであり、彼はこの世にある時も絶えず全体者と結びついていたのである。しかるに、地上にキリスト教徒として生まれる人々は皆、ある個別的霊から生命を与えられている。個別的というのは、神の一思想のことである。それゆえそれは全体者そのものではなくまた全生命の源泉でもない。
こうしたわけで、多くのキリスト教徒たちは、地上において正直な生活を送りはするけれども、ある種の知的罪障を犯していることになる。これを一言でいえば「硬直した思想」であり、「幻想によって限界づけられた世界」である。つまり、偏狭な観念に耽っているということである。第四界の生活では、さらに進歩しようとするなら、こうした観念の檻の中から抜け出すすべを学ばなくてはいけない。これらのことは仏教、イスラム教その他様々な宗教の狂信的な信奉者にも言えることである。近代社会においては科学的な諸観念もこのうちに入る。なぜなら、科学は次第に人類における多数者の宗教となり、特殊な世界観となる傾向が見られるからである。
さて魂がいよいよ第四界から第五界へと進んでいくためには、あらゆるドグマを投げ捨て、その心の状態を形づくり限定する地上的世界観を振り捨てる必要がある。なぜならその描く世界が偏狭なために、その魂の持つ意識に現実性がともなわぬためである。

第七章 火焔界――第五界

第五界への誕生

第四界へ進む魂が死の準備をする時がくる。この死は地上の人の死とは似ていない。進化のこの時点まできた魂は、形態、外観、幽姿(eidolon)、想念体(living ghost)、などを完全に支配できるようになっている。この死は彼と形態なしの存在を隔てる最期の帳《とばり》にあたる。彼はもう一つの階段を上る前に自己を解放し自由にしなければならないが、それは「形象の破壊」と呼ばれる過程を経てのみ達成されるのである。そうなると、もはや外観や形態は必要ではなくなり、色彩や感情も不確かなものとなり、生活の条件ではなくなる。
再び彼は無意識の中に入っていく。そして第五界に生まれた時は、形象の世界にいた時の属性のいくつかを投げ捨てている。というのも、それまでの彼の魂は一部光明体ともいうべき形をもっていたのであるが、今やそれもいらなくなったというわけである。
各界の中間には、明白な忘却、あらゆる活動の停止、完全なる静寂の時期がある。古代から冥府と呼ばれているのがそれである。ここで魂はしばしば安らうようである。しかしやがて、魂の旅人はゆっくりと目を覚ます。すると眼前にかすかに光を放つ久遠の海があり、そこに彼のこれまでのすべての界での経験が映し出されているのを見る。彼のこれまでの閲歴を物語るあらゆる過去の映像がそこに展開していくのである。彼はそれを自己の統一原理たる本霊の光の下で学習する。そうすることによって彼の本性次第で、様々の知的感情的欲求が目を覚ましてくる。ここで彼は前に進むか後に戻るかを決めなければならないことを悟る。実際のところは本霊がその選択を促すのである。そのことは過去の生活の経験が十分なものであったかどうかによって決めなければならないのである。彼は全く自由意志によってそれを決めるのだが、しかし彼にとって最も必要なことを選択せざるをえないようになっている。
幻想の国を終えたところでは、動物的な人は物質生活へ戻ることを自ら選択した。色彩界を終えたところでまだ魂的次元にいる人は、この界の第一の段階まで下りていってやりなおすことになる。この界の最後の段階が形態の神聖化と言われる段階なのである。
しかしながらこれまでの生涯を振り返ってみて満足するものであれば第五界へと進むことを決心する。するとこれまでの静寂は打ち破られ、霊的嵐が舞い起こる。その中で彼は決然として色彩界でのエーテル的生活への未練を捨て去る。その時自分の一部分を捨てるのだが、それを永遠に失うというわけではなく、第六界での類魂全体との素晴らしい一体感の中でそれを取り戻すことになるのである。

第五界の象徴

「生命の書」の各章をなんらかのシンボルで表す必要があるとすると、「火焔」ということばが第五界を表すのには適当である。なぜなら、魂はここでは他の魂と感情的に結ばれた全体となっており、孤立せず、グループの中の他の魂を実感できる存在となっているからである。自己は自己であり続けながら、同時に他者のすべてでもある。もはや人間的な意味では形態の中に住むことはないが、なお漠然と輪郭と表現されるもののなかにはいるのである。彼の仲間たちの過去の感情、情熱、知的表現形式などがこの感情的思考の輪郭をつくりあげているのであるが、この輪郭こそこの巨大な力ある存在を燃え立たせ、突き動かしている火なのである。
第五界にいる間の経験は多様であり、増殖されていくので、ある意味では外観上の統一性が失われるようにみえる。そうした中で彼は、実際火焔が燃えるような一生を送る。それは厳しい修練の時であるが、また知的な感情がすこぶる増大する時でもある。大いなる制限と限りない自由、そしてまた果てしない地平がちらりと見える時でもある。「観想への没入、夢見ることの苦悩」という表現は、まさに、彼の思考の明晰さが休止してしまい、仲間の魂たちの激しく情熱的な活動がすべて彼の存在のうちで燃えているこの時の状態を表現したものである。こうして彼は絶え間なく〈大統括霊〉(the Unifying Spirit)の中に融合していくのである。
この上なく激しい感情、歓喜、陶酔、悲哀、絶望などが彼に栄誉を与え、彼の生命を養う。そうした間もある点では、彼は仲間から離れて独りでおり、感情の渦巻く嵐の中に巻き込まれてはいない。嵐を感じてはいるのだがそのはるか上方に浮かんでいるという感じである。とはいっても、彼の態度は、地中海諸国に壮大な古代絵巻が繰り広げられるのを柱の上から超然として眺めていたという大柱頭行者・聖シメオン〔三九〇頃―四五九〕のそれとは違っている。
意識の第五界にいる魂は切れ目なく意識を働かせている。そこには、意識の間隙とか空白の時とかいうものはない。彼は一つの本霊の光に浴しながら、そこにたどりつくまでの様々な段階にいる仲間の魂たちの知的、情的生活を楽しんでいるのである。
火焔界の生活の絶頂にいるこの魂は、あたかも自己の傑作のうちに住む芸術家のようである。その作品のあらゆる特徴や、展開し変化する創造の新鮮さのうちに、天才芸術家でさえ地上にある時はごく稀にまたかすかにしか味わえなかったような無常の歓喜を見出しているのである。
この第五界の状態たるや人間の心では想像はできても完全に理解できるものではない。この界を旅する魂にはようやく生存の目的が明らかになってくるように思える。彼は天国を実感しつつあるが、最後の謎はまだ解き明かされず彼自身一役を担っている宇宙計画の完成を待ち続けている状態なのである。
それはまだある種の難点を持つとはいえ、素晴らしい世界である。魂的な人は、類魂が完成し、永遠の織物に織り込まれる模様に必要な他の魂たちがこの同じ意識のレベルまで到達するまでは、第六界に向けて出発しないでいる。ある者はまだはるかに後ろにいる。この状態で魂的な人は、濃密な物質世界にいる彼の仲間の幼稚な感情生活に気づくのである。つまり、彼の本霊である統一原理が光を照射している類魂団のあらゆる部分に通暁する。彼は彼の本霊――彼の支配者であり天上からの光である――に繋がる花や昆虫や鳥や動物たち、その他あらゆる形態のものたちの無意識の生活をことごとく知るのである。

類魂の構造

ここで、類魂の構造をはっきりと心に描いておいてもらいたい。類魂の本霊は、それに所属する植物、樹木、花、昆虫、魚、獣、人間など、進化の様々な状態にある生物を、生命と心の光によって養っている。そしてまた死後の世界の様々な意識の段階にある魂にも命を注ぎこんでいる。同時にまた、他の天体の生物さえ養っているのである。というのも本霊はあらゆる形態における経験を収穫物として集める必要があるからである。個々の魂の知性は徐々に発達し混じりあう。本霊にとっての経験は、類魂独自の模様の完成に必要な魂がすべてこの五界にたどりついた時に完全なものとなる。彼らがいよいよその一者と個の関係に気づいた時、初めて第六界へと進むことができるのである。その時にあたって、くくった紐が切り離され、情的経験の不要なカスは捨てられ、所属の類魂内での役割の移動と交換が行われる。その時、彼らは再び冥府入りして、これまでのすべての総点検を行うのである。

第八章 白光の世界――第六界

純粋理性

光は多くの色から成るが無色である。本霊は多くの魂から成っているが苦楽を越えた存在である。それゆえ、白光に象徴されるところの第六界に属する。
意識のこのレベルにおいては純粋理性が君臨している。御存じの感情とか情熱とかはここにはない。白光は純粋理性の完全な静けさを表わしている。経験の最後の王国に入った魂はこうした静けさを自分のものとする。彼らは形態の持つ叡智、計り知れない秘密の叡智を身に付けている。それらは無際限の年月にわたる不自由な生活を通して集められ、獲得されたもので、無数の形態のもとにすごしたこれまでの人生の総決算である。善悪の知識と同時に善悪を超えて存在する知識も今や彼らのものとなった。それらを征服した今、彼らは人生の王者である。彼らはもはや形態なしで生き、白光として存在し、〈創造者〉の純粋思想として生きることができる。彼らは不滅の中に参入したのである。
第六界の存在目的は「多者が一者に同化すること」と言い表わしうるかもしれない。すなわち、私が魂と呼んでいる精神の単位全体が本霊の下に統一されることである。この目的が完遂されると本霊は個的な生命をその中に抱えこんで彼岸に渡り、宇宙神秘の中に融けこむ。そしてそこで最後の目的たる〈至高精神〉(the Supreme Mind)としての進化をなし遂げる。

第九章 彼岸ないし無窮――第七界

神性原理との一体化

再び選択がなされなければならない。魂は有限の時間から無限の時間へ、形態を持った存在から形態を持たない存在へと大飛躍をする準備が整ったであろうか。これは答えることが至難な問題である。初めてこの問いに直面した時、確信をもって答えられる魂ははなはだ少ない。
第七界の状態は「有形から無形への移行」であると表現できるかもしれない。しかしどうか「無形」ということばを誤解しないでもらいたい。それによって私は単に、いかに希薄精妙にであろうと、形態をもって自己を表現する必要のない存在を指したつもりである。第七界に踏み入った魂は彼岸に渡り神と一体になる。
〈神的観念〉、すなわち〈霊なるものの大源泉〉に融合することは消滅を意味しない。あなたがたは依然魂として生き続ける。あなたがたは大海の一波として存在するのである。つまり最後に真の〈実在〉の中に踏み入ってすべての幻想と外貌を捨てるのである。しかし永らく物質と慣れ親しんだことによって、あなたがたになんらかの触知できるものが加わっていることは間違いない。それは物質の先祖としてのエーテルや科学者が真空と呼んでいるものを含んでいるのだが、この真空とは実は限りなく精妙多様な形態的存在で詰まっているのである。
実際のところ、第六界から第七界への移行は物質宇宙ないしその一部分たる空間領域からの脱却を意味する。この最後の界においてはあなたがたは時間のみならず空間的宇宙の外に住まうようになる。しかしある意味では依然として宇宙の中にいるとも言える。全体の一部となったあなたがたは――「全体」ということで私は神を宿しているつもりだ――太陽にも似た存在である。あなたがたの霊は物質宇宙から離れてはいるが、その光は広く行き渡り、永遠のしじまを支配している。宇宙の一部であってしかもそこから離れていること、これがおそらく最後の仕事であり、あらゆる努力の終着点である。
ごく手短に、私は永遠の相の下にある実在の姿を紹介し、無時間の神秘をあなたがたに垣間見せようとした。あなたがたが彼岸に渡り住み、〈神性原理〉とその本質において一致し、その部分になる時、神の想像力のいかなるものかを充分に理解する。そうすることによってあなたがたは時の刻みの一瞬一瞬を知り、かつ地球の歴史の起源から終末に至る全史を知る。同様にあらゆる天体の歴史をも知るのだ。創造されたものはすべて想像の中にあるゆえに、あなたがたは今や獲得した不滅の力によってそれを知り、かつ保持するのである。あたかも大地が種子、生命、過去、未来、その他現在あるすべてのもの、また未来永劫にわたりあるであろうすべてを宿しているように。
かの霊的な人、神の一人子が「多くの者が呼び出されるが、選ばれる者は少ない」と言った時〔マタイ福音書22:14〕、それは偉大な真理を表現したのである。地球生命のあるあいだに、彼岸に渡れる人はほんの一握りの人たちである。いくらかの魂は第六界まではたどりつくがそこに留まり続ける。稀には崇高な目的でそこから物質世界まで下りていくこともある。だがなんといっても、無時間のなかに大飛躍を試みるほどにはまだ力がなく、完全でもない。

第十章 宇宙

仏教徒は宇宙は現実のものではないと主張している。がしかし、宇宙はあなたがたがその網目の中に捕えられ、法則の支配を受け、物質の放射する「気」ともいうべき不可視のものにコントロールされているという限りにおいて、非現実であるというにすぎない。
「非現実」ということばは虚偽、いつわり、ごまかし等を意味する。魂は形態として自己を現わす間は形態に左右される。形態に閉じ込められているために真実を知りえない。つまり、最初の五段階の世界に生きる間は狭い世界観しか持ちえないのである。遮眼帯をつけられた馬のように、自己の周囲についての哀れな願望を持っているだけである。宇宙の根本を非現実であるとする考え方は、彼の前方にある魂の道筋が一部だけしか見えていない時に浮かぶ考えである。さらに言えば、形態とはこの道中にあって、魂に道路絵図を示すものである。それゆえ、宇宙が非現実的なものだとする仏教徒の説はある意味では正しいのである。
仏陀がわれわれの最終目標は涅槃の中での寂滅であると言う時――寂滅は消滅とは違うが――危ういことば使いをしていると言える。彼は寂滅の後に至楽の状態、つまりは〈絶対の世界〉があると言っているのである。そのことで彼はわれわれが、物質宇宙から完全に離脱し根源的な非現実から解放されて、無条件世界に生きつづけるのだと言いたかったのである。実際のところ、われわれは第七界において、<最高観念>(Supreme Idea)と一体化する時にのみ宇宙の真の現実を知るのである。宇宙が魂と霊を閉じ込めている限り、それは非現実である。魂と霊とが宇宙と融合し、解き放たれ、<純粋知性>の無限の自由の中に住むようになれば、その時宇宙は現実のものとなる。
こうした状態が達せられると、われわれはこの古き傑作たる宇宙を一つの全体として見るようになる。極微の細かさにおいて知り、極大の大いさにおいて知る。われわれは宇宙を〈最高観念〉のうちにある一個の知的概念として把握し、またそれを演じられつつある劇の一部として観るのである。かくしてわれわれは、あたかも預言者のごとく、また恋する人のごとく、全生命を一瞬のうちに洞察してしまう。こうして経験というものの頂点に到達するのだ。
われわれは二つの現実態、すなわち、物質的宇宙のそれと、〈観念〉のそれ――宇宙の全歴史の写しをその中に一つの想念として内蔵している――とを知る。そうなったからといってわれわれが消滅してしまったというわけではない。われわれは、大精神の偉大なる調和の下では一つとなっており、また創造者の創造物への恵みの下では個人として存在する。創造物は創造者の中にあり、かつ創造者の部分的現われなのである。
第七界に入ったわれわれは、物質宇宙の各部分を統御する何百万という数の本霊から、細大漏らさぬ完全な印象を受け取る。それゆえわれわれは、これまでとは違った生き方でいき続けるのだが、かといって涅槃の中に自己意識を忘失してしまうのではない。現宇宙の終わりを含め、他宇宙の創造と生成と終息、そしてそれらの無限に続く連鎖を静かに観想する。われわれはそれらすべての知的脈略を理解し、永遠の舞台の上で演じられるドラマの一幕を見物するのである。
あなたがたが「宇宙」ということばで意味している存在の二重の意味に気がつけば生命の本質を理解することが容易になろう。
物的原子があるように心霊単子(psychic unit)というものが存在する。心霊単子は、様々な界にあって、物的原子の内と外に存在しつつ成長している。この心霊単子はいかなる極微な実体のうちにも存在し絶えず物質原子を支配している。心霊単子はいつか物的存在から逃れ出てその母体たる〈観念〉のもとへと帰還する。しかしそれは消滅を意味しない。それは一にして多である。ちょうど人間の身体を構成する細胞群が一にして多であるように。
それゆえ、宇宙はあなたがたがその限定的な時空の織物、すなわち形態の中に住んでいるあいだは非現実的なものなのである。そこから離脱し、彼岸からそれを一個の全体として眺め、かつそれを純粋想念の一作用として知るに至る時、宇宙は初めて現実のものとなる。

第十一章 形相の世界〔色彩界〕から

この通信の送り手である私は、今世紀の初頭に帰幽して以来、地上との接触を保ち続けてきた。一歩一歩科学の発達のあとをたどり、今次大戦〔第一次大戦〕とそれに引き続く経済戦をも見守ってきたのである。私は、今もなお肉体を持ち続ける友人たちの内在意識を通して、人類の霊的世界に変化が生じ、霊的世界に確信を持ちたいという要求が切になってきたことを感じた。人は死んでもそれで地上との接触を失ってしまうわけではないのである。彼はこの〈窮乏《ペニア》〉の世界を後にして幻想界と呼ばれる歓喜の世界に上っていき、そこからさらに、形相《エイドス》――つまり純粋なる形態――の世界へと向かうのである。そここそ人間の魂にとっては究極の目的地である天国といってもよい所である。というのも、地上にあるあいだの魂がこの世について知ることは極めて稀であり、最も高度な神秘的トランスの状態においてさえも、そこを超えることはなかったからである。
われわれ形相の世界まで旅した霊は、自ら望む時は、惨めな地上まで舞い戻り、彼を愛する人や、精神的に近しい人と霊的交流を果たす。
われわれから見ると、人間世界は何とも言いようのない無秩序に支配されている。しかしまたその無秩序の原因や目的も分かる。われわれはこの無秩序にも相応の理由があることを知り、また同時に、〈偉大なる実相〉の一端を地上の人々に知らせてやりたいと思うようになるのである。
この理由をもって、私、フレデリック・マイヤーズは、死後の不滅を求めようとする人のたどるべき道の概略を解き明かそうと試みたのである。

第十二章 死とは何か

われわれのようにこの「不可視の境涯」にたどりついた者にとって、死はある懐かしさをもって苦痛もなく思い出せる一つの事件とも挿話ともみなされる。この世界からも姿を変えた旅人がしばしば地上に戻って行く。しかしあなたがたはひとまず死を故郷へ帰る道中の一夜の宿りと思うがよい。
それは熱に浮かされた不眠の一夜であり、あるいは恐怖に満ちた重苦しい一夜であるかもしれない。もしくはまた、奇妙な夢の打ち続く時、はたまた妨げるもののない平安の時であろうか。いずれにしても静寂の時、えも言われぬ休息に沈潜しうる時がやってくる。しかしながら魂はついに新しい朝に目覚めなければならない。夜明けかそれともいまだあけぬほの暗さの中で、彼はすでに亡くなってしまったはずの身内の者、つまりは彼の在りし日の運命の糸に同じく織り込まれていた人々に囲まれていることに気がつくのである。
死について詳しく論ずる前に、混乱の生ずる原因となることばを訂《ただ》しておかなくてはならない。「肉体を脱ぎ捨てた者」(discarnate being)というのは、いかなる身体も持たなくなったという意味ではなく、単に物質的身体を持たなくなった者の謂《いい》である。というのは、第六界に入るまでは通常の形態、ある表現媒体、つまりは彼の外的象徴となるものを用いるからである。
これらの形態にはいくつかの種類がある。が、当面の必要としては次の四種類をあげれば足りるであろう。
(1)複体、ないし統一体(the double or unifying body)――アストラル体と名づけられるのは誤りであると思う。
(2)エーテル体(the etheric body)
(3)霊妙体(the subtle body)
(4)神体、ないし光明体(the celestial body or shape of light)
最後の二者は上層界の魂に用いられるもので、その外観は心と意志の働かせ方で変えられる。
他界の霊の教えるところでは、死の秘密は、魂の外殻にあたる部分の振動率が変わることにあるというのはあなたがたも聞き及んでいよう。例えば人間がその周囲の可視世界を感知するのは、その身体がある特殊な速度で振動するためなのである。あなた方の肉体の振動数を変えれば、地球も、人も、物体も皆、あなたの眼前から消えてしまうのである。と同時に、あなたがた自身もまたそれらのものから見れば消えてなくなることになる。それゆえ、死は単なる振動数の変化である。この変化のためには、一時的な混乱が不可避である。というのも魂は、ある振動で進行する身体から、別の振動で動く身体に移らなければならないからである。
新生活への移行は、急激に、いわば新境地への飛躍といった具合に一気に行なわれるようなことはない。当然のことながら中間状態というものがある。前にも述べたが、かのキリストでさえも冥府で一時を過ごしたのである。
かくしてわれわれは最初の疑問に出会う。医師が「御臨終です」と告げた直後においては、人はいったいいかなる形態をとるのであろうか、と。この時われわれは死者の遺体の側にたたずんで、ことばにもならぬ悲哀に胸を詰まらせ、「わが愛する人はどこに行ったのか」と問う。その遺体は数分前まで輝かしい生きた人格を包んでいたのだ。あんなにまで光に満ち、愛おしく、知覚も敏感で、知識欲も旺盛であったのに! あれほどまでに親しくしていた一個の魂があの世へ去ってしまったと言われても、その消滅を信じることはとてもできない。そこでわれわれは、すべてが終わってしまって、魂は終焉の時を迎えたことなどと考えることを拒否するものだが、こうしたわれわれの直観は、実のところ正しいものなのである。
地上生活を営む全期間中、人は誰でももう一つの身体としての複体ないし統一体を従えている。それは深層意識と頭脳を結びつけるなどの多くの重要な働きをしている。あなたがたが眠りに陥る時、意識はもはや身体を支配してはいない。これは意識が一時的に身体を離れるとともに、忘却状態に陥っているのである。脈絡のない夢がしばしば訪れはするが、それは日常の活動によって掻き立てられた神経の戯れである。実際には睡眠中の魂は複体の中に入っており、その間に身体は神経エネルギーや生命原子などの補給を受けるのである。それゆえ、睡眠が食物や飲料よりも大事なものとみなされてきたのは当然のことである。
人間の生命のこうした側面についてこれ以上説明している余裕はない。あなたがたは、複体が、もしそれを見ることができるなら外観上正確に肉体と対応する形をしていることを知ってもらいたい。二者は多くの細い糸と、二本の太い魂の緒で結ばれている。後者のうちの一本は太陽神経叢と結ばれ、他の一本は脳と結ばれている。これらはかなり伸縮性に富んでおり、睡眠中や半睡状態では長く延びることができる。人がゆっくりと死んでいく時はこれらの糸と紐は徐々に切れていく。脳と太陽神経叢をつなぐ二つの主要な連絡線が切断される時、死が訪れる。
魂が肉体から脱け出た後もしばらく身体の細胞のある部分が生き続けていることがあるのはよく知られた事実である。この現象はいつも医者を困らせるのだが、その説明は簡単である。複体にまだ糸の切れない部分があって、それが遺体に付着しているためである。こうした遅滞の生じているあいだに魂に肉体的意味での苦痛はない。魂はむしろ肉体の周囲をはっきりと知覚する力を与えられたために苦悩することがある。その力のおかげで彼は自分の使用済みの遺体のそばに友人や親戚の者たちが来ているのを見ることができる。しかしながら、原則としては、死後一時間――ないし数時間――すれば、彼は自分を地上に拘束している力から脱け出すことができるものである。
あなたがたが遺体のそばにいて死せる友を見守る時、まさに肉体から魂が出ようとする際のことをいろいろと心配したりするな。なぜかといえば、魂はそんな時いつも半睡状態にあるからだ。苦悩や、夢や、心を苦しめる情熱も、魂が複体に移る時にはなくなっている。死の瞬間は――それが急激なものでない限り安らかな気分が意識を覆っているものである。それはほんの暗い光の中での休息であり、そうした中で、時としてはすでにあの世に赴いた親しい友や身内の者たちの姿を見ることができるのである。
しかしむろんこうした際の情況にも様々ある。他人を心から愛したことも、世話したこともない男女は、死に際してこの土くれの肉体から出たあと孤独の境涯へと赴く。それは地上の夜とはまた別の一筋の光さえも射さない真の闇夜である。
このように極端な境涯はほんのわずかな人間が味わうだけである。利己主義者や残酷者は責められるかもしれないが、こうした運命をたどるのはその人の利己心や残酷さが並はずれたものであった場合のことである。
普通の人の場合、死に際しての苦しみはないものである。彼らの魂はすでに肉体を離れているので、肉体は苦痛にあえいでいるように見えても、魂はまどろみつつ風に身を任せて飛ぶ鳥のように、彼方こなたへと揺らめく感覚を覚えるだけである。
この感覚は死の原因となった病気の苦しみの後では、何ともいえぬ心休まる喜びなのである。それゆえ、あの断末魔の外見的な苦しみを気に掛ける必要はない。むしろ彼らは生の拷問から解放されているので生死のこの二つの経験の間には歓喜が満ち満ちて、言いようのない満足感が行き渡っているのである。この満足感は心とその気づきに訪れた静けさからくるものである。
ゆっくりと魂は複体へ移行し、しばらくのあいだ肉体の上に漂っている。いつの日かこれを写真に写すことができ、身体を脱け出たものが白い雲か煙のように乾板上に記録される時が来るであろう。しかしいかに精巧な機械ができても人間の中心核たる魂が写せるのはせいぜいここまでである。しかし帰幽者は別で、エーテル体の知覚ははるかに微妙な物に波長を合わせられるので、彼らには魂の飛翔する様が見えるのである。通常死の床には身内の者や友人たちがエーテル界から出向いて来て見守ってくれているものである。

影の場所(冥府)

膨大な数にのぼる新たな死者たちが冥府でどのような状態を過ごすか述べるのは、たとえそのごく一部に限るとしても難しい。そこで私は地上でまともな一生を送った平均的な人の場合をとり上げてみたい。この影の世界に滞留する期間はその人の性情によって様々である。血縁や霊縁の人々の幻を見てそれとの交歓を果たした後、魂はヴェールに包まれた半意識ともいうべき静けさのうちに憩い、断片的に現われる過ぎ来し生涯の出来事に眺め入る。この思い出にはもはや恐怖の色あいも感情の染みこんだ跡もない。移り変わる光景を、ちょうどまどろんだ人が、夏の陽ざかりのキラキラ光る明るい景色を眺めるように見入るのである。そして上方から現れる本霊の光の助けを借りて、まるで第三者のように、そこに登場する人や自分について判定するのである。
「殻の中で」とか、「影絵芝居」ということばはこの期間のことをうまく言い表わしている。そこでの過ごし方は魂によって様々である。ある者はこの時期のことをほとんど覚えていない。またある者は超然として、心のどけき静けさに陶然とするあまり、快苦の感覚が鈍くなってしまっている。がしかし、進歩は間断なくなされており、エーテル体は古い複体の殻の中から徐々に身を引き抜いて脱け出す。そしてついに最後の判定がなされるのである。魂は飛び立ち、古いマントを放り出すようにして殻を投げ捨てる。天上から射す本霊の光が全体の要約を説示すると、最後の決定をどうするかは魂の旅人たる本人の判断に任せられるのである。
魂の旅人はこうしたいわば自分の外皮に当たる物を脱ぎ捨て、身体にまといつく使用済みのガラクタを投げ出すと幻想の国に入っていき、そこではっきりとした意識をとり戻す。ヴェールの中で面目一新した新しい複体が次の界での体となる。ただ外皮ないしは遺像のみが投げ捨てられたのである。
自我をエーテル体にあわせて調整するための影絵芝居の経験は地上の時間にして三日か四日あれば充分であろう。しかしながらある種の異常な男女が永いこと冥府に留まって薄気味悪くさまよい歩き、ちょうど物質界との境界近くに出没する妖怪変化の類と遭遇するというのも事実である。こうした妖怪どもは人の心の奥にしまいおかれた悲しみや苦悩を掻き立てたり、またある人の理性の弱みにつけこんで、生前から憑依し、人間の生得の権利を奪い取って狂気に陥らせようとする。
しかしこのような妖怪どもは死後の世界では用なしである。というのも、現世からこちらへ来る旅人が薄命の冥府を通り過ぎる時は、無感覚の状態で夢見つつやってくるので、こうした変化《へんげ》の者たちに旅程を妨げられたり危害を加えられたりすることはないからである。ただわずかな例外者だけが道に迷ったり恐怖と苦悩の世界を垣間見たりするのである。

記憶と死後の自己認識

生理学者は記憶を単に脳の一状態を示すものだという。確かに、今仮にこの微妙な器官を傷つけたとすると、心に空白が訪れ、自分に関することのすべて、過去の経験の一切を忘れてしまうであろう。
しかし実際には、過去を忘れるわけでも心の空白が訪れるわけでもない。脳機能のある部分が働かなくなる結果、可視世界に対しては記憶に依存した知的な表現ができなくなるだけのことである。しかし彼は依然として知的であり続け、肉体と関係のない記憶に対しては支配権を持っている。なぜかといえば、複体あるいは統一体は肉体に相当するもので、脳が記憶すると同じように、その主人の魂の一生に起こった事柄と経験を記録するものであるからである。
複体は生まれてから死ぬまで人とともにあり、魂に宿所と避難所を提供し、あなたがたが身近にいつも見る肉体以上にまめまめしく魂に仕える従者であることを覚えておいてほしいものだ。
人間的な見方からすれば、記憶は自分が自分であるという自己同一性の認識や、個性の感覚、それに魂とか意識とかいうことばの示すところと切っても切れない関係にある。しかし、本人であるという感覚は死後においてもなくなることはない。なぜなら魂の基本的記憶は複体の中にあり、再三いうように、複体こそは死後における魂の住居であるから。
複体が外殻を脱ぎ捨てると、その本質的部分であるエーテル体――それは地上生活中その人ともにあって働き続けていた――のみが幻想界に進み入って魂に仕え、記憶の同一性を保つことによって個性の維持に努めるのである[原注1]。
影絵芝居の演ぜられる間に、エーテル体は新しい力を蓄え、形を変え、魂とのあいだを再調整する。最終段階では蝶が「さなぎ」の殻を破って出る時のような、素晴らしい生命の更新が行なわれる。そのとき殻の中にいた魂は生命に息づく新しい身体に移って新たな欲望に身を任せる。
幻想界ではこの欲望が満たされることになる。

「私たちは皆が眠りにつくのではない」

啓示的部分は別として、死後の世界に対する聖書の教えはどのようなものであったであろうか。それにはこう記されている。「私たちは皆が皆、眠りにつくのではありません。しかし私たちは皆、今とは異なる状態に変えられます。」〔コリントⅠ:15:51〕
聖パウロのこのことばはわれわれがこれまで記してきた死後の世界についての記述と一致する。「私たちは皆が皆、眠りにつくのではない」ということばは、多くの者たちは「最後のラッパが鳴り響く」この世の終わりの時まで眠り続けることを意味している。では死者たちが眠る場所というのはいったいどこなのか? いずこの楽園、いずこの世界に眠るというのか?
鳥たちが空気中にすむように、魂は地球の周りのエーテル層に住まうのである。彼らは幻想の国の居住者である。この界では最終段階を除けば努力も闘争もほとんど見られず、したがって真の創造もないのである。しかし多くの人はこうした在り方を最も望ましいと思っている。地上で求める天国とは、闘争と努力のない生活の謂《いい》である。そういう生活に満足してしまった人は、死後の幻想の国にそれを見つけ「最後のラッパが鳴り響く」時までそこをうろついているのだ。であるから、聖パウロのこのことばは象徴的に読まれる必要がある。かつてはこのことばは特別の意味を持っていたのだが、今では忘れられているのである。こうした呼び出しがあるまで第三界に休んでいる人は「眠る人」と呼ばれるのもむべなるかな。いったいこの「睡眠」とは意識的な闘争や努力がなされないという以外のどんな意味でありえようか?
幻想の国に住む人にとって、その生活が多くの点で現実のものであるということは、地上に住む政治家、医師、その他の勤め人や労働者の場合となんら異なるところはない。しかし一つだけ重要な相違点がある。ここでの魂には闘争と努力の必要がないことだ。希望するだけで望みが達せられる。それゆえ、地上的意味では生きているとは言えないし、また第四界の形相の世界に生きるような輝きもない。つまりこの界の居住者たちはまさしく新約聖書でいうところの「眠る人」なのである。
「私たちは皆が皆、眠りにつくのではなく、私たちは皆、今とは異なる状態に変えられる」という原文の意味するところは、死者のうちにある者は眠らないということである。言い換えれば、死んだ者のうちにも幻想の国や楽園にどっぷり漬かった放漫な生活を軽蔑する者は多いということである。彼らは奮闘、努力、創造を望み、その結果再生するか、それとも賢明にも上方の形相世界に入ってその見事な世界でのより豊かな生活を見出そうとする。こうした至福の状態で魂の旅人は、外観的世界の最上最美なもの、つまりは形態的な生命の勝利といった段階に至るのである。

遺像または魂の殻

「遺像」とは旅人の古いマントのようなものかもしれない。それが捨てられると道端に残り、それを誰かが拾ってまた着る。幽霊は何年もの間、ある時期になると決まって古い屋敷の内などを歩き回ったり、あるいは何のわけも脈絡もなく突然現われたりするものだと言われている。こうした休憩のない影法師は出会ったなら、あなたがたは自分の胸にこう言いたまえ。「これはこれは古外套、骨董衣装のお出ましだ。さだめし円頂党〔十七世紀の英国清教徒集団〕か騎士党のご仁のものか、それともマント頭巾の修道士か清らかな尼さんのものか、はたまた近頃の殺人狂か、それとも殺されたご当人のものなのか、――いずれにしても凶器こそは新しいが、つきまとう怨念憎悪はあいも変わらずご仁の脱け殻なのだろう」と。
この消え失せずに繰り返される情熱こそが、束の間遺像を掻き立てるエネルギーを供給するのである。もしその遺像の背後に記憶連合とか、それを活気づける想念ないし観念のようなものがないなら遺像が同じ場所をうろつき回ることはないであろう。あの世のどこかに急死した乱暴者と血腥い宗教的情熱に挺身した尼さんや修道士の類がいるのである。彼らはこの世の活動から身を引いてあの世にしばし休んでいるが、過去の運命の糸に引かれてほんの一瞬、生前の一場面、ことに現世に別れを告げた時の光景に再会することになる。彼らとしては今は悔恨、哀惜、その他の感情で胸一杯な想いをついそこに投げかけてしまう。しかし彼らの想念の単なる軽い余波が例の古外套を掻き立ててしまい、生前慣れ親しんだ屋敷内や土地の周りを仮装行列よろしく歩き回らせるのである。
しかし自我の本質部分は地上に戻ったり、古い役を演じたりすることはなく、かえって地上の舞台で自分が、霧のように朦朧として、掴みどころもなく、空気中に消えて無くなったりするのを見て笑っている。このように無意味に歩き回る幽霊などというものは、たまたま霊視の利く者がいて、まやかしの仮装行列を見ている時だけ視覚化される古い衣装にすぎないのである。
何にでも例外はあるものなので、すべての幽霊現象を一つの説明で引っくくってしまうわけにはいかないかもしれない。しかし通常の幽霊は過去の情熱的な記憶の糸に引かれて、一点に集められた想念エネルギーが、遺像を媒介として現世に現われ、それが持続することと解するべきである。

急死

時として死者が自分の死んだことを知らないということがある。信じがたいと思われるかもしれないがごく稀にはあることである。もしある人が物質への執着を強く持ちつづけたまま死の門を通りぬけたとすると、亡くなった親族などの姿をちらりと見かけた後でもなお、自分は血肉を備えた生者であるとかたくなに思いつづけ、現世のことで想いを充たして、霧のかかった丘の上などをさまようのである。死の彼方の暗闇の中を、あるいは帰るべきわが家を訪ね、あるいは金銭か特別の財宝を探して歩きまわる。時としてそれらの宝物は彼の行く手におぼろ気に姿を現わし、ほんの一瞬まざまざと見えるのだが、いつの間にかまた霧が降りてきて、すべてを消し去ってしまう。利己的な者たちは、こうしてしばらくは二つの世界の境界線上をうろうろしているが、やがて物質への執着心が弱まり消えてゆくにしたがって自由になるのである。
このようにして冥府にとどまる人々がほかにもいるが、一般には、それ相応の身から出た錆と言ってよい理由がある。例えば、軽率で動物じみた、時としては不道徳でもある生活を送っていた若者が急死を遂げたという場合などがそれである。こうした連中は青春のまっ盛りに突然肉体から引き裂かれてしまう。彼らはしばらくの間は地上生活と死後の生活の差異を理解できないのである。彼らはエーテル体があまりにも急激に肉体から切り離されたショックから立ち直るまでは一種の昏睡状態に陥っている。
しかしながら、大部分の男女は死後、冥府にはほんのしばらく休息しただけで、渡り鳥のようにそこを通り過ぎてゆく。物故した友人や親族と会い、束の間、影絵芝居に我を忘れることもあるが、すぐに新たな生活の待ち受ける安楽の国へと解き放たれる。そこで以前の意匠が再び編まれるのだが、その世界での糸も模様も、また線も色合いも、前と全く変わらないのである。

老衰による死

すっかり年老いた人は死の直前になると記憶が薄れ、事実認識がはっきりせず、理解力も失われるのである。こうした悲しむべき肉体の崩壊は、これを見る人にしばしば死後の生活への信念を失わしめる結果になる。こんな状態では魂とは単なる頭脳の謂《いい》ではないかと思われるからである。しかしこれは誤った結論である。活動する自我である魂は、脳とそれに対応するエーテル体を結ぶ紐がぼろぼろになったり切れたりしてしまうので、やむをえず幽体の方に引っこんでしまっているのである。物理的肉体の方の生活は第二の紐や二つの身体を結びつける他のいくつかの糸がまだつながっているので維持されてはいる。年老いて心神喪失したかに見える男女も実は決しそうではないのである。彼らは単にあなたがたの世界から離れた所に移り住んでいるというだけであるから、それを見てあなたがたが憐れんだりすることはない。彼等の感知力はほとんどエーテル体――すなわち新生活に用いられる身体の方に移ってしまっている、というにすぎないのであるから。

類魂模様

野心の彼方、人間のあらゆる型の利己心の彼方、闘争心や抑えがたい欲望の彼方に、相似た魂の牽《ひ》かれ合う目に見えない力、すなわち、愛や人情の世界がある。それは死よりも強く、絶望を超え、この世の有限の束縛を超えて働くであろう。それは宇宙原理とも言えるもので、「類魂模様(pattern)の背後にある力」として知られている。その模様は時の存在する限り織られ続けるのだ。
死はその見掛け上の孤独のゆえに普通の人からは恐れられている。しかしよく知るならばその恐れは無駄なことだと分かる。自己の属する模様から引き離されるという心配――すなわち愛する人たちとの別離――は、何の根拠も実態もないことなのである。死を超えて赴く旅先のどこでも、彼は再び彼の所属する意匠の内に取り込まれている自分を見出すであろう。一時的忘我の状態がいかに深く、その経験がいかに変化に富むものであったとしてもそれは同じである。彼は結局地上生活において強く結びつきのあった人々、つまり、過ぐる日々、時としては盲目的に、また忌まわしいほどにも深く愛しあった類魂の魂たちのもとへと帰っていくのである。
原始的なタイプの人間というのは、全身全霊で人を愛するということができないものである。この種の人間にはそうした愛が、魂の進歩のための第一の原理だということが分からないのである。というのも愛はその中に不滅の種子を宿しているからである。この種の原始的な魂は類魂が模様を織り始める最初の段階にいて、憎悪や終わりのない敵愾《がい》心を持つところから出発する。第三界においてこうした感情に再び出会うと、その感情は彼らを地上に追い返す力として働き、そのために彼らは現世に再生する。そして地上での進歩がなされると、最初の霊的法則である〈愛の法則〉を学ぶことになる。
愛の法則を修得しえた男女はもはや死を恐れる必要はない。なぜなら、たとえどちらかが先にあの世へ旅立ったとしても、その者の類魂模様の内にいる誰かが速やかに彼らにつきそい、死を超えたところにある〈大冒険〉の中にあって導くからである。
死を友人とも解放者とも呼ぶがよい。なぜなら、地上的愛にはつきまとう暗闇も汚点も、死ととともに消えゆくからである。

[原注1] 私の記憶に間違いがなければ、ある東洋人たちは、人間の構造はタマネギに似ていて、少なくとも六重の身体が同時に存在すると信じている。私は、そんなに多くの身体があるのかどうか確かめていない。しかしむろんあるのであろう。私としては自分の知るところを記すのみである。――W・H・マイヤーズ

第十三章 心霊の進化

これまでの章では、各界の概略のみを示してきた。したがって、これら奇妙な世界を早くまた巧みに通過しようとする人のために必要な資格について詳述することは適当ではないと思われたのである。
現世にある時私は、「愛」の力を固く信じていたものである。新約聖書の中で聖パウロは「慈愛《チャリティ》」と訳されることばを用いているが、それは「愛」に与えられるのと同じ意味を持つものである。
死後のこちらの世界に来てみて、私はこれらのことばのいずれもが、神の持つ「至善」の意味を充分に伝えていないということが分かった。というのは、それが永いこと人間の有限の心によって翻訳されてきたので、限りなく多様な性質を持つ多くの人間の性情に触れた結果、使い古され、傷つけられ、汚され、曇らされてしまっているからである。
ある人々にとっては、「愛」という語は男女間に点《とも》される情熱のことであり、他の人々にとっては友人同士や相似た魂の間で交わされる知的な愛のことである。そして残る人々にとっては他者への同情のことであり、その中には社会性を持った同胞愛、つまり、過去においては疑いもなく努力目標であった普遍的な意味における愛を含んでいる。
しかしいずれの解釈も常に理想とはほど遠いのである。不可知論者もキリスト教徒も心の内に山の頂を描いてはいるが、成功せず、彼らの理解は「不滅」という偉大なことばの前に雲散霧消してしまう。
いかなる人も今までキリストの見た崇高なる愛の全体像を真に掴んではいない。そこで今、私は地上を見渡し、かつ歴史を回顧してみて、いまだ人間に汚されていないことばで、しかも魂の最初の要求を表現しうるようなことばを見出す必要を感じている。そのことばは、魂が意識の階段をある段から次の段に上る時に、絶対に欠かせない内的衝動を明確にするものでなくてはならないのである。
進歩についての永遠不変の現実とは、叡智の増加ということにある。なぜなら、叡智とは「真理に対する正しい判断」と定義できるからである。
いずれの界においても、真理の概念に広狭の差異が生ずるのはやむをえない。それはその界の生活条件やそこで魂のとる形態によるし、また意識の進展の度合い――最後には秋に木々が葉を落とすように形態を振るい落とすことになるのであるが――にもよるのである。
「地上」として知られている物質の濃密な世界では、「真理」ということばは今でも神聖なものであって、多くの人にとり汚れのないことばである。それゆえ、「愛」ということばが福音としてキリストの口に上った時、キリストが真に伝えたかった意味を表わすのは、この「真理」ということばではなかったかと私は思う。しかし「正しい判断」がそこに加わらなければ、そのことばは完全とは言えない。
そこで「叡智」という語の意味をよく検討してみる必要がある。というのは明らかに、この高貴なことばには男女間のもっとも崇高な愛、知的な愛、共感、信念、そして最後に、といってもその要素は必ずしも最少ではないが、「透察力」(the power of vision)といった意味も含まれるのである。真理を正しく判断する者は誰もこれらのすべてを備えているものである。いかなる界においても魂は絶えず進歩し続ける。叡智こそは魂を下方へではなく上方へと進ましめ、物質的世界の鈍重な形態ではなく、より精妙な生命と、霊的世界の偉大な現実とを魂に選択せしむる最初の衝動であることを確信せよ。
「汝の敵を愛せよ。汝を迫害する者を祝福せよ」――これらの美しくも謎に満ちたことばは、それを自己の生活に適用しようと努めてきた多くの真面目なクリスチャンを悩ましてきた。叡智を通してのみ彼は、いくらかでもその教えを守り、また文字通りこれらを行為と思想の両面に実現できるのである。なぜなら、その理想が実生活に実現できるかどうかは、真理に対する正しい判断にかかっているからである。
素朴な農夫や、世間には無知とみえる賎しい男女も、もし霊的な判断力を持っているなら賢者と言ってよいであろう。その霊的判断力とはすなわち、キリストが「愛」と言った時心に描いたものなのである。
それは不可視のどの世界に対しても当てはまることである。叡智はあらゆる場合に、愛に形と生命とを与える光であり、その隠された秘密の根源であり、人を上方へ進歩させる――つまりは心霊に進化をもたらす力のことである。

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