【雑稿】随想

随想
掲載日:2006年4月8日

二つの手――霊魂論への助走として
現代人が霊魂について真面目に論じたり、学んだりすることは、おかしなことでしょうか、いいえ決してそんなことはありません。一つの身体に二つの手があるように、科学的知識が増えていくのに応じて、霊的知識が増大し、深められていくのが正しい姿です。そのようにして自然はバランスをとっているのです。
科学の手が大きく伸びていくとき、霊的な手が、その長さに追いつかなければ、人類はやがて大きな試練にあい、坂道をただ転げ落ちていくばかりでしょう。
事実、産業革命以後科学の知識が膨大なものになったこの二世紀ばかりの間に、人類の霊的知識は歴史上かってないほど大きなものとなり、また、詳細なものとなりました。
スピリチュアリズムに親しむ人々はこのことを認めるでしょう。ただ、多くの人たちがまだその事実に気づかないでいるために宝の持ち腐れになっています。

人々に告げたきことば
小生が、およそ40数年の他界研究において、知りえた事実、そしてその底にあるスピリチュアリズムの核心と、宝ともいうべきものは、次のとおりです。

人はその生まれ出ずる以前より霊である。
生まれた後も霊であり、死後もまた霊である。
それゆえ、いかほどに死を求め、渇仰し、
よしや恋うるほどのひとがあるとしても、
死はない、全くない、ありえない。

既に、人は誰もその生れ落ちる以前より霊であり、生まれた後も霊であり、死後においても霊であると述べましたが、当然その霊である自己について知ることが、何事にも増して肝要なことです。この世の第一等の知識とは、いったい何でしようか。それは、人が霊的存在であることを明確に、自覚的に知ることです。この自覚の上に立たない知識の集積はすべて空しい。この正しい知識の上に立てば、人が地獄に落ちるなどということなく、また救われることもなく、救われる以前に救われていることを知ります。霊の知り方においても、あまり宗教的になり過ぎたり神秘主義的になるよりも、霊や他界について知ること、隣の町を知る如く、ごく当たり前に平明に、それらを自己の生の延長として捉えるのが最もよい。

この世の知者たちに告ぐ
生きてこの世の理を知り尽くした魂なら、死してあの世の謎もとけたのであろうか
今この体のうちにいて何も知らないお前に、あした身をはなれて何がわかろうか

『ルバイヤート』より  ※ルバイヤート:ペルシャの4行詩詩集。一般にウマル・ハイヤームのものとされるが定かではない。

読み返すたび私の心にしみて、いつも痛切な余韻が耳の底に残るような気がしました。
おう、知者よ、おう、知者!

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