【エッセイ】霊の復権と新しい意識の探究(5)

霊の復権と新しい意識の探究 (5)

掲載日:2006年5月20日

◆永き霊の不在

世界の三大宗教を振り返ってみると、霊的でないことに改めて驚かされる。およそ霊的なことは宗教次元のことのように一般に考えられているが、ここ二、三千年、人類に大きく影響をもった三大宗教のこの霊的落剥ぶりはどうだ。よくこれで永いこと宗教としての体裁を保てたものとただただ感心するばかりである。皆うまく王権以外の世俗の権威として機能していたことが偲ばれる。そしてどれもこの二、三千年というあいだに人間が採用した特殊な社会体制とうまく結びつき妥協している。教祖たちの霊的誠実さは疑わぬこととして、その教えを世俗の装置につくり変え、しまいにはその霊的源泉まで忘れ果て、単なる人類のお説教屋集団になるどころか、かえって人間の霊的な側面を抑圧する信念体系にまでなりおおせてしまった。人間の意識が成長した以上、こうした世俗の装置を見破って破棄するのは当然のことながら、勢いあまって神や霊や、根源的な人間の信仰心まで放逐しようとしたのはいきすぎである。人工の「偽神」たちを追放すればそれでよかったのである。
これに対し、これらの三大宗教より起源の古い道教、ヒンズー教、神道、そしてすべての宗教の起源にあるシャーマニズムは霊的である。
三大宗教のなかで最も霊的なのはキリスト教であろう。そして事実ヨーロッパやアメリカでは、霊的であるということの意味はキリスト教的であるというのと等しい場合がある。聖書などを読むとその霊的高貴さに打たれるし、イエスその人も霊性を湛えた人であったろうと推測される。いやイエスという人は霊的世界のルールをそのままこの世のルールとして教えたかった人ではなかったかと思われるほどだ。
しかし、キリスト教は肉と霊のあいだに極端な距離を設けたために、その霊概念は一種の抽象になり、やがて観念になってしまった。観念となり、西欧思想のなかでは一般観念と同じく相対化された。教会のなかでは相対化はされなかったが、操作可能な観念となり、教会の利益のために特殊な色づけがなされた。それはまるで教会のステンドグラスを透かしてのみ見られる特殊な光のごときものとなった。事実上教会は霊的な雰囲気を失ったのである。スピリチュアリズムによって西欧の霊性が復活しようとしたとき、それに猛烈に反対したのは、科学者よりもむしろ教会であったことを考えてみれば、そのことがよくわかる。
キリスト教教会のスピリチュアリズムに対する非難は相も変わらず、教会をのみ霊の高みにおいての軽侮的態度である。スピリチュアリストは霊的存在の低次な部分に目を向けず、高次な部分(つまり教会の教え)に目を向けよという類のことをいい続ける。霊媒に対して現在でも魔女狩り的気分が尾を引いている。自ら人間の霊的部分を希薄化する誤りを犯しながら、あくまでも自己を高いとする思い上がりがある。

◆霊的治療とスピリット

イギリスのギルフォード・シェアに治療センターを設けて百万の単位の人々を治癒に導いたとされる世界的霊的治療家ハリー・エドワーズ(一八九三-一九七六)は、なぜ教会の治療の祈りは効果をもたないのだろうか、という疑問を投げかけている。イエスや初期の使徒たちがあれほどの治病能力を発揮したのに対し、現在の教会の祈りの無力さの原因は何かと。
もし、ローマ法王が一生に三人の人を超常能力で癒したとしたら、その法王は死後に列聖の資格をもつとされている。ルルドには毎年病気に悩む数千人の人が信仰の一念に満たされて赴き、枢機卿をはじめとする沢山の聖職者からお祈りやサーヴィスを受ける。信仰による治癒が起こるにはまたとない環境である。事実治癒は起こっており、その治癒例はすべて教会と医師の合同からなる委員会によって綿密に調査され実証されている。しかし、とハリー・エドワーズはいう。

《ルルドにおける治癒例はすべて教会と医師の合同からなる然るべき委員会によって綿密に調査されています。一九五八年には、巡礼始まって以来百年の祝賀祭が行われました。しかし百年間に五四の治癒例がこの委員会によって確証されただけなのです。数十万、いや数百万にのぼるルルドへの病者の巡礼を考えてみるとき、この結果は情けないほどみじめなものです。経験あるスピリチュアリストの治療者なら誰でも、それ以上の数の病人を治癒させているのです。私の著書『霊的治療の証拠』では、四年間に起こった超常的治癒の一万以上もの例をあげています。実際のところ、これらの例は公平な調査機関の検討に委ねられたものではありません。しかし私は喜んでそれを受け入れるつもりがあります。しかし後にも述べるように、医師たちはこれを行いたがらないのです。次のような質問が試みられるべきでしょう。いったいなぜ、スピリチュアリストの治療家たちが、キリスト教会の最大派閥たるローマ・カトリックのような熱列に組織された力によって行われる治療よりも遥かに成功を収めるのでしょうか。》
(ハリー・エドワーズ著、梅原伸太郎訳『霊的治療の解明』国書刊行会刊)

教会で治癒の起こらない理由は、「かれらがやり方を間違えており、スピリチュアリストやクリスチャン・サイエンスの人はもっと効果的にそれを行っている」からであるとハリー・エドワーズはいっている。教会は無用な礼儀や機械的礼拝に縛られ、なおかつ治療の祈りは「教会の聖なる生命」のなかで行われなくてはならないなどの前提のもとに、あらゆる条件をつけていると彼はいう。たとえばある聖職者は信徒の肩の関節炎の治療をするのに、規則通りの礼拝を行い、手を患者の頭の上において機械的な祈りを行った。ハリー・エドワーズが「あなたの患者の肩の関節炎の治療をするのになぜ肩のところに手を置いて祈らないのか」と尋ねると、その聖職者は、「そうすることは許されていないのです。でも礼拝の終わったあと、教会付属の部屋に連れて行って、そこで本当の霊的治療をしているのです」と答えたという。
ハリー・エドワーズから霊的治療の指導を受けた組合教会派のアレックス・ホルムズ師の教会は、二千人以上も収容できる規模をもちながら信徒数が五十ほどの状態に落ち込んでいた。しかし、ホルムズ師はこれを、習得した霊的治療能力を用いて、数千の信者が訪れる教会に再興した。
エドワーズは、治療を行うのは神ではなく、神の計画のもとに働く個別な霊達である、その霊達は特定の信仰信条の人のみを治療するのではないといっている。

《霊的治療は、神が人種や信仰信条に関係なくその民に与えた贈りものなのです。神は治療の法則として、スピリチュアリストにはこれこれ、イングランド・チャーチにはこれこれ、ローマ・カトリックにはこれこれというふうに、別々に与えているわけではありません。霊的治療は決してある宗教、ある特定の人の特権ではないのです。》(同前書)

交霊能力のあったハリー・エドワーズは、高級霊界が霊的治療をもって人類を覚醒に導く計画であることを知っていた。従ってこの治療現象は、地球的な規模で広まってゆくであろうと信じていた。ラテン系のスピリチュアリズムにしばしば見られる心霊手術現象と合わせて観察すると、世界の流れは事実そのような傾向にある。西欧スピリチュアリズム勃興の同じ頃、日本に現れた神道系(というよりもシャーマニズム系)の新宗教は、一様に治療成績を上げていたことが注目される。また、世界のスピリチュアリズムの流れが霊治療を主流とする動きとなったのと符合するにように、わが国においても、旧大本教の解体以降治療系の新興宗教が多く現れてきたのは注目に値する(たとえば、生長の家、世界救世教、真光など)。地球の霊的流れはエドワーズのいうように、神の計画の下に同じ方向に向かっているのかもしれない。いずれにしても霊的治癒は制度的信仰によって起こるのではなく、治療を行おうとする人が自らを霊的源泉にスイッチすることによってのみ起こるのであろう。
霊的治療を通して、霊の存在を人に知らしめ、人類を霊的覚醒に導こうとする大きな流れがあるようだ。優れた霊的治療家は皆このことを自覚している。しかしながら、相もかわらず巷の知的説明屋が出てきて、プラシーボ効果であるとか、体内麻薬であるとか、信念の心身相関における効果であるとかの説明をする。確かに、一部はそのような説明の成り立つ部分もあるかもしれないが、そうでない部分が重要であるにもかかわらず、人間をその霊的源泉の気づきから遠ざける説明をして得意然としている。それでいて本人は、人類や学界に大いに貢献しているつもりだから厄介なのだ。そんなつまらぬ説明をしない方がもっと貢献だろう。せいぜい一世代ももたないような疑似科学的説明は魔術的説明より始末が悪い。科学的であるところに希望をもたせ、人を欺き、それだけの説明で満足したような気分にしてしまうからだ。
人を霊に近づけまいとするセオリーというのがある。なかには集団無意識説であるとか、潜在能力説とか、最近はやりの「気」の説とか微妙なものもある。これらは真実に近づく過程で現れてきたものであり、皆部分的真実があると思われる。問題はこれをもって霊に代わりうる説であると強弁し始めるときである。かつては催眠術とか、エクトプラズムとかがこのような代理説明を請け負ったときもあったのである。

◆キリスト教神学における霊の不在

キリスト教は霊の世界の幸福を説いたが、その世界には何故か霊(諸霊)が存在しない。キリスト教は本質的に神と人間の二極構造になっている。霊的世界のほとんどがスッポリと抜け落ちている。キリスト教でいう「霊」とはほとんど神と同じ概念である。霊とはすなわち神の霊である。神の霊、聖霊、キリストの霊は三位一体で一つのものである。つまりキリスト教においては、本質的に、神と人間しかいない構造になっているのである。神と人間の二極からはみ出した精霊部分は不安定な位置しか与えられていない。神のもとには幾つもの「マンション」があるというが、そこでは死者どもが最後の審判まで眠りつづけるという。これはあるとはいえない中間的な状態である。また神を信じないものにはこの中間状態もないのである。これは不条理といえないだろうか。
キリスト教神学もまたそのような構造になっている。アリストテレスの形而上学の影響を受けたトマスの神学によれば、存在者のレヴェルは(1)鉱物、(2)植物、(3)動物、(4)人間、(5)天使、(6)神というように、六層に分類され、上位の存在になればなるほど形相性を増し、質量性が気迫になるとされている。つまり、精神性が増し、物質性が減るのである。人間以上の存在者を自然の類比的説明によって語るのを形而上学というが、人間の次にはいきなり天使存在がくる説明となっている。天使は純粋形相であり、純粋知性である。スピリチュアリズムの説明によれば、人間は死後もなかなか純粋知性のような存在者にはなりきれず、そこに至るまでには多くの浄化過程、進化過程を経なければならないとされる。高級霊といっても、まだまだ進化過程のものである。こうした諸霊の世界をスピリチュアリズムの啓示(通信)は生き生きと描きだしているのだが、キリスト教神学にはこの点がスッポリ抜け落ちているのである。
このような、途中を欠いた形而上学の説明が何となくリアリティを欠いてみえるのはやむをえない。神智学も人智学もこのような途中の間隙を埋めようとしている点において、やはり現代の形而上学たるに相応しい。スピリチュアリズムはその最初の段階部分にあたるのであり、さらにその下部の心霊研究となれば、それはもはや形而下の学であろう。形而下から形而上への架橋が最も難しいのはやむをえまい。説明は連続的であってもやはり多少の飛躍は必要である。
形而下の学から形而上学への架橋部分および存在者としての諸霊の説明部分を「霊学」と称するとすると、この霊学の整備によって、初めてアリストテレス以来の形而上学の欠損部分が補足されたことになる。

◆霊の封じ込め

しかし、既に見たように、存在者としての諸霊に言及しないのは何もキリスト教ばかりではなかった。三大宗教のすべてが少なくとも公式にはその立場を取ってきた。神道でさえ儀式神道、宮廷神道の段階になると諸霊は圧殺されて、神ばかりの世界になってしまっていた。従ってこれは何か、この二、三千年の時代期間における人類共通の欠損であり、示し合わせたような抜け落ちなのである。
この申し合わせたような欠落は何によるのか。この時代期間特有の霊界戦略なのか。押し込められ封じられた諸霊は民衆のあいだでは、祟り神や邪霊、悪魔や外道としてのみ存在しえた。奇妙なことに霊の邪悪な暗黒面だけが強調されてきたのである。人間よりごく僅かに先を歩んでいる霊、人間を助け指導する霊、その他天使と人間のあいだにある諸々の霊の存在などは省みられることもなかったのである。
大宗教がこの世の権威と結びつき、民衆をその支配下に収めるようになると、それまでの自然信仰の神や霊たちは封じ込められ、圧殺され、もとの名のままに存在することは許されない。もしそれを許せば被支配者の霊こそ真先に飛び出して支配者の誤りや専横を糾弾するからだ。従って、元の民衆の神を表に出せないばかりか、霊そのものを抑え込まなくてはならない。
霊が解放されるとき、アメリカならばインディアンの霊が、イギリスならばアイルランドやスコットランドの霊が、フランスならばドルイドの霊が、ヨーロッパ全体ならば復活祭の奇妙なペイガンの霊が、そしてわが国ならば押し込められ封じ込められた国津神の、つまり被支配者たちの霊がまず語るだろうと思われる。
霊の解禁は被支配者の神の解放につながる。霊の奔出は支配の終わりであり権威の失墜である。これはだいたい永く続いた国ではどこの国でもそのような構造になっている。宗教の権威も同じである。元の神や恨む霊はなるべく落ちぶれた神として民衆の足蹴にさせておいた方がよい。善き霊などはそもそも存在しないことにしておかなければならないのである。善き霊が善きことをいえば、この世の権威は崩れるかもしれないではないか。封じ込められ、存在しないことになっていた諸霊の怒濤のごとき奔出が見られたのが、東西共に一九世紀半ばであった。
霊の存在することが客観的に認められないというだけではなく、「霊が語る」ということに恐怖をもつ人がある。またオープンマインドにその存否を論ずることができずに妙なこだわりをもち続ける人も多い。
霊が語り始めたとき、確かに、フォックス家に以前起きた行商人の殺害という事実が暴かれたのであった。しかし、その後の霊たちの「語り」は恨みつらみの奔出であったかというとそうではなかった。霊は静かに、現界人たちの認識の誤りを諭し導いたのである。たとえばそれは次のようなものである。

Dear friends, you must proclaim this truth to the world. This is the dawning of a new era; you must not try to conceal it any longer. When you do your duty God will protect you and good spirits will watch you.

(友よ、あなたがたはこの真理を世に広めねばならぬ。これは新しい時代の夜明けなのだ。あなたがたがその義務を行う時、神はあなたがたを守り、善き霊たちがあなたがたを見守るだろう)。
(Nandor Fodor: An Encyclopaedia of Psychic Science. Fox sisters の項参照)

この真理の普及と共に新時代が始まるというのは、人からではなく、霊界からの宣言であった。また、次のことも自ら宣せられている。すなわち、神や邪霊のほかに good spirits というものが存在するのだということが。

◆霊の復権とシャーマニズム

わが国に霊たちの蠢動が始まったとき、語りだしたのが神道系(というよりもシャーマン系)の神や霊たちであったことがまず注目される。シャーマンの神という以上、ここ一千や二千年の神よりも古いことは確かである。そして一様に新時代の到来を告げ、世の建て替えや建て直しがあり、元の神が世に出るといっている。大本教が「黒住、妙霊、天理、金光先走り」といったのは有名で、これらは教えは違っても一つの流れにあることを仄めかしているようである。事実、明治という時代によって新時代は到来したが、大正、昭和になってもまだまだ大きな建て替えがあると大本ではいわれ続けた。太平洋戦争で日本は文字どおりの大建て替えをやったが、大本以降の神示として一部で注目をあびている岡本天明の『日月神示』は、まだまだ本格的な建て直しはこれからであるといい、覚悟せよ、とさえいっている。
まさに、新時代に続く新時代、ニューエイジに次ぐニューエイジで、連続的激変の二世紀ではある。
わが国の霊の語る神国物語、霊界物語は、欧米のスピリチュアリズムの霊界通信に比べ互いに脈絡もなく、混沌としており、神話的すぎる嫌いがある。肝川の竜神物語などは神の世界の物語とはいっても、まるで古浄瑠璃の世界である。このようななかで何か統一性や意味が認められるかと考えると、甚だ悲観的にならざるをえないが、ただ一つ一貫していることがある。それは今までの神の権威が失墜して、これまで封じられ、押し込められ、落ちぶれていた神が世に出て新しい時代を造るということである。霊界の政権交代があることは間違いないらしい。折から例のローマ教会自身も気にしているというファチマの予言は、ローマ教会そのものの終わりを容赦なく予言しているというではないか。

◆黒住教の出現と宗教革命の予感

もし、近代のわが国において、最も根本的な宗教革命の予感があったとすれば、それは黒住宗忠の黒住教の説かれたときである。黒住は天照大御神が腹中に入るという単純な教えを説いただけであるが、治病能力は抜群であり、その日常もまことに神人というに相応しい人で、人々の尊崇を受けという。教えは単純であるが、よく考えてみると、これは実に驚倒すべき革命力を秘めて、神道を根本から覆す力のある教えである。
それは、天照大御神が一個人の腹中に入ったということをよくよく考えてみれば分かることである。天皇家を中心としたわが国の神道において、もしか書かれざる神道神学があるとすれば、そのどこかに必ず次のように記されていなければならなかった筈である。「天照大御神が人のなかに入るとすれば、その人とは、天皇御一人をおいてほかにはありえない」と。それが連綿たる皇室第一の祭事たる大嘗祭の意味なのであるから。
神(天照大御神)の命(ミコト)は、カミ(神)-キミ(君)-オミ(臣)-タミ(民)の経路で一般民衆に伝えられるのが本来である。ひとたびミコトが伝えられればひたすらこれをウケ(承)、己を空しくして神意に沿うことがカンナガラ道とされたのであり、これを全うすることを神の命(ミコト)とに対しカエリゴト(返事)マウスというのである。
それが、黒住であろうと、その教えを受けた個人であろうと天照大御神が、腹のなかに入ってしまうとすればどうなるであろうか。この経路は神-民(人)の経路になってしまい、天皇を神の代理人とする構造は崩れてしまう(面白いことに、明治の先帝孝明天皇は黒住を尊んだというが)。現にその後まもなく明治維新があり、万機公論に決すべしの時代となり、今では完全に崩れてしまった。黒住は他の国津神の霊系とは異なり、天照大御神を奉ずるなかから出て二千年の支配の経路を放擲する方向を打ち出し、予感させたという点で一層特異な存在である。孝明天皇がこの黒住を深く信じたということは、いわばこの方向に勅許が下ったようなものであり、これによって神と人が直接向かい合う型となり、これは行き着くところ「一人一宗」の世界に到らざるをないのである。
神と人が直接向かい合う型は、実は神道の最も古い、元の型ではなかったか? あるいは、そう言って悪ければそれが理想だったと言い直してもよい。神と天皇の関係には、最もよくその型が現れているように思われる。黒住宗忠はこの神道の最も古い型、ないしは未来の神道の型を表現し、予告したのかもしれない。世界の人がすべて天皇になる、そういう神道の型が示されたのであるとすれば、これはもう途方もないことである。
黒住以来といわれるこの世の建て替え建て直し運動は、このまま激変また激変の数世代を経つつ、ついには「国祖の御交替」ということになり、元の神が「御出現」になり、一大宗教改革の実現ということになるのであろうか。
しかし、それは必ずしも大教祖や大教会が現れて、もう一度人々から元の神や霊を奪うという形にはなるまい。むしろ教祖や教会や寺院や、いや、霊媒さえもいない、神と人が直接交渉し、絶えず神が人の腹のなかにいるような、そういう時代についての予告だと取ることもできるであろう。
しかし、明治になり日本の津々浦々に神社ができて以来、また家々の神棚に天照大御神が祭られるようになって以来(伊勢や宮中以外にそれが祭られるようになったということ自体が大変なことであるが)、型の上では準備が整っていたともいえる。ただ人々の心や神道の神学の方が、それについていかなかっただけだ。神棚からさらに人の腹に入ってしまえば、人々の心が磨かれてそれも可能な時代がやってくれば、神人黒住の理想は実現しよう。そしてそれは実は、スピリチュアリズムやニューエイジを標榜する人たちの理想とあまり変わらないということになるのである【注6】。そう考えれば、黒住の宗教改革は今も進行中である。

【注6 “The Higher Spiritualism”(近藤千雄訳『スピリチュアリズムの神髄』「世界心霊宝典」第三巻)を著したジョン・レナードは、スピリチュアリズムの教義的特質七ヵ条のうちの一つとして、「スピリチュアリズムはすべての人間はその神の分霊を受けて生まれ、したがってその根源において神性を具えていると信じる。その意味で“人間は皆平等”なのである」というのを挙げている。こうした内在の神性ないし神を説く考え方は、ニューエイジのバイブルといわれる『コース・イン・ミラクル』のなかにも随所にみられる。個人的瞑想的体験によって媒介者をおかずに直接に神に到達しうる、というのが新時代の宗教意識としてのおおまかな方向である。】
◆三大宗教共通の欠陥

キリスト教はそのままでは欠陥宗教であった。それを埋めるものがスピリチュアリズムによる啓示であったが、西欧社会はまだその接合をうまく果たしていない。キリスト教各派に見られるリゴリズムからすれば表面上の接合を果たすのは難しいと思わざるをえない。とすればキリスト教内部からの霊化の道が残され、現に聖霊カリスマ運動などが盛んになる兆しがあるものの、これもあまりいきすぎれば異端ということになろう【注7】。しかし現在はかなりの人々が、キリスト教の秘義的部分の空白を心霊研究やスピリチュアリズムの断片的知識で埋め始めているのではないかと思われる。

【注7 霊的現象や能力発見の問題は他宗教内部におけると同様、キリスト教内部でも起こることはいうまでもない。キリスト教のなかでもカトリックは列聖や奇跡の認定などで、比較的よく、この問題をとりこんできたといえる。しかし霊的源泉を神と悪魔に二大別する神学では、やはり限界がある。ルルドやファティマの奇跡また聖霊カリスマ運動などは、民衆の信仰を喚起してキリスト教を活性化する力があるが、どこまでを公認し異端とするかの問題とたえずぶつからなくてならないだろう。中南米やアジアの各地で起こりつつある、地元のシャーマニズムと混交したかたちでのキリスト教の問題でも同じことがいえよう。そうしたなかにおいては霊的現象が顕著であり、キリスト教というよりもむしろスピリチュアリズムの界域の問題であるから。】

仏教の霊的世界についての考え方は、例の釈迦の毒矢のたとえで知られている。マールンクヤという尼さんが釈迦に対して「世界は常であるか、無常であるか。限りがあるか、限りがないか。霊魂は身体と同じであるか、別であるか。人は死後も存在するか、しないか」と、形而上学的質問をぶつけたところ、釈迦は「毒矢で射られた人が、自分を射た人が誰であるかとか、射た弓がどんな弓で、矢尻はどんな形かとかわからないうちはその矢をぬいてはならない、と言ったとすれば、それらのことが分かる前に彼は死んでしまうだろう。それを知ることは道理の把握にも正道の実践にも役に立たず、その他一切の悟りの境地に到達するのにも役に立たないから、そういうことは私は説かない」という意味のことを答えたというのである。
そもそも人生を毒矢で射られた苦の状態とたとえること自体が筆者にいわせれば仏教臭いのであるが、道理の把握といい、正道の実践といい、また種々の悟りの境地といい、そこまで達するには長い道のりがかかるであろう。筆者ならばマールンクヤの質問に素直に答えてもらった方がよほどすっきりして後の悟りの状態に早く達せられそうだ。それに、どうせ死ぬとしても「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」というではないか。
いずれにしても、釈迦はこの悪しきたとえで、仏教徒の死後や霊界についての関心を永遠に封じてしまった。釈迦の真の悟りがどのようなものであったか誰にも分からないが、仏教学者や悟ったと称する禅宗関係者には無霊魂説が多い。釈迦は「無記」としたといわれるが、実際にも仏教界で無霊魂、無我説が幅をきかせている以上、霊魂や霊界が厳然と存在するということが明らかになれば、「仏教」もまた欠陥宗教ということになるであろう。
儒教においてはどうかというと、孔子は天を祭り、鬼神を祀っていたという。鬼神とは先祖の霊であるから、孔子は死後の生を信じていたことになる。しかし、実際には「怪力乱神を語らず」で、やはり弟子たちの死後や霊に関する関心を封じてしまった。それ以来、これが君子のあるべき姿であるということが定着している。ことに日本のインテリは、教育制度との関連でそれと目には見えずとも未だに儒教精神の伝統のなかにあるし、この儒教精神は特に明治以降、唯物論やマルクス主義と結びつく傾向があったのではないか。怪力乱神を語らずの伝統が科学者のなかにも生きており、霊の問題を殊更にタブー化する傾向が強い。
とはいえ儒教はまだ、封建制度という歴史の一時代の特殊な社会制度と殊更に結びついていたために、その欠陥は見やすい。一方、仏教やキリスト教の場合は言い直しや考え直しが可能で、それがかえって真相を見にくくするのではないか。

◆霊的認識と世界認識

現在通用している仏教やキリスト教を普遍宗教だと思い、これが今後とも何万年も人類の指導原理としてそのまま通用すると思っている人でも、次のことは認めざるをえまい。まずキリスト教以後、仏教以後のこの二千年のあいだに、少なくとも、人間の外界に対する認識は一変した、と。二千年以前には、人間は、自分の住む星についての認識すらほとんどなかったのだ。三大宗教は、そういう時代に信じられた宗教である。もちろん私はそれらにおける科学的認識の多寡の問題をいうのではない、そもそも当時は外界についてはっきり認識することが不可能だった。従って、疑問や質問は常に神話的解釈によって封じられたのである。そしてほとんどの人にとって、それでよかったのである。
天体像、世界像がすべてぼやけていた時代の宗教である。霊的世界についての認識だけがはっきりしているということはありえなかった。この時代の宗教を見ると、霊的世界についての描像が天界と地獄というように上下(または善悪)二層になっているのを特徴とする。これは霊的世界に対する構造認識が単純だったことを示している。仏教の密部においてややこれを越えるものもあるが、それが霊界であるのか比喩であるのか、それを語る視座がはっきりと定まっていない。むしろ異端や例外の方にはかえって真実に近いものがあった。
近代以降の人間のもつ世界像は飛躍的に拡大した。マクロコスモスやミクロコスモスについての認識も深まり、宇宙像が拡大精緻になったほか、原子や素粒子の構造まで明らかにするようになった。が、それでいながら相もかわらず、霊的世界についての描像だけがボケていて、しかもそれは真実だというのではいささか片手落ちである。真実の世界からこの欠損を補う形の啓示が必要だったであろう。その点、スピリチュアリズムによれば、人体の霊的構造、霊界の霊的構造、霊と人の交渉といった面が詳細綿密に述べられているのを特徴とする。これは、前述のとおり、これまでの三大宗教のいずれにも欠けていた点である。というよりもこの二、三千年期の宗教のいずれもが排除しようとした一般傾向といってよいのである。このなかでひとりシャーマニスチックな民族宗教のもつ他界像だけがやや生き生きとした描像をもっていたが、いずれも、支配宗教からの抑圧でグロテスクな歪みをもたらされるのが常であった。
欧米のスピリチュアリズムが勃興するに先駆けて、わが国の平田篤胤が、仙童寅吉よりの聞き書きとして、神仙界とはいえともかくも、他界像を綿密に描き出したのは画期的な出来事であったと思われる。

◆現代のタブー

現代においては、「霊」がタブーになっている。ほとんどのタブーはなくなってしまった世の中だが、「霊」を語ることが最大のタブーになっているのである。そのために知の世界における無用な言い換え運動が起こっている。「霊」ということばには様々な誤解が伴うが、とはいえ私見では今までのところ、言い換えで失う損失の方が大である。しかも、この言い換え運動は「霊」に一歩一歩近づきながら、そのなかでできるだけシニックな立場をとった者が成功するという定めになっているようだ。男女の恋愛関係において、愛しているといわず、憎んでいるといいつつ近づく役柄が成功を収めるようなものである。
繰り返すが、こうした奇妙な現代人の心情のなかで、スピリチュアリズムだけが唯一、あからさまに霊魂はあるといっているのである。また問題のまさしくその点に焦点を当てているのである。また、事実いま霊の世界について多少とも明らかなイメージをもとうとすればスピリチュアリズムの力に頼らざるをえまい。あるものをあるとして認めることからすべては再出発する。従って最も赤裸々、最もラディカルなのがスピリチュアリズムである。
またそれが現代におけるスピリチュアリズムの役割でもあろうか。ドグマめいた言い方を許されるならば、筆者は知的な言い換え運動はいかにそれが知的であり、現在の知的な土俵の上で成功を収めようと、やがて掃討される運命にあると見る。その生命は短く役割は道化である。
二千年のあいだ、霊は支配者によって排除されていたが、民衆によって信じられていた。もし支配者が善霊の存在を認めれば民衆は喜んでそれを信じたであろう。ただ、支配者があえて、そうしなかったのは、己れ以外の善なる存在を承認して支配の構造を崩されたくなかったからだ。そこで支配者は俗信として、邪霊の存在のみを民衆の手に委ねたのである。
この世の支配者たちはたった一度しか口をきかなかった神を己の頭上に据えて、言い換え作業のみを巧みにし、神の観念を操作しつつ権威を守った。そしてかれらの神学は、人々の(つまりわれわれの)霊の居場所を霊界から抜去してしまった。そして近代以降は、これらの清掃作業を科学が手伝ってきたのである。科学者は、教会の権威に逆らって、神がないとまではなかなかいい出せなかったが、霊の問題となると突然居丈高に、いないと叫び出すのが常であった。
そうしたなか、江戸末期から興ったわが国の新宗教の歴史を一つの観点から見直すこともいま可能である。それは古き神々、シャーマンの神の復興であった。また、そればかりではない、霊の復活でもあった。古い神ならば、霊の存在も正当に認めることだろう。シャーマニズムの時代には神も霊もそれぞれの場所を与えられていた。そればかりか、わが国においては、神といっても実は霊と変わらない命名の構造がある。新宗教をそれぞれの神や仏の保証を受けた霊たちの「語り」、霊たちの復権運動と受け取ることも可能である。そう考えれば筆者には、それは欧米における近代スピリチュアリズムから、ニューエイジ運動に至る霊的潮流と符節を合わせた動きと観じられるのである。
タブーとは霊の存在を抑えつつあることへの自らの恐怖である。もはや、人々の目から霊の存在を押し隠す必要はない。また、神を知る上に教会や寺院などの構築物は必要ではない。人々は古代人のように、自由にそれらと直接語らいをもつだろう。霊的価値の中間搾取はもはや必要ではないのである。

(霊の復権と新しい意識の探究・完)
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