【エッセイ】霊の復権と新しい意識の探究(4)

霊の復権と新しい意識の探究 (4)

掲載日:2006年5月20日

◆ニューエイジと意識探究

さて、再び本論に戻るとして、昨今、ニューエイジというようないい方が盛んになされ、仕切りにアメリカ発の精神改革運動がもてはやされている(既に退潮しかけているという見方もあるが)。この運動は本来ヴェトナム戦争から帰還した若い兵士などを中心とした、東洋への親近感プラス豊かで強いアメリカの敗退と挫折からくる反省などが混交しているといわれる。動機はいずれにしても、それがアメリカ人に意識のもう一つの事実を求めさせたという点を評価したい。ニューエイジサイエンスや、トランスパーソナル心理学なども結局はこの運動に線上に胚胎した。
奇妙な幾つかの符号がある。一つは、この運動の走りであったヒッピー世代の教師の一人であるティモシィ・リアリィが、薬物の使用によるもう一つの意識のリアリティの存在を垣間見せたこと。同じくハーヴァード大学のラム・ダスが、瞑想による意識の変化を現実の意識に等しく価値ある一つの意識として提示したことである。また他方では、ユング心理学の発見した集合的無意識の存在の問題もある。これらは後に超心理学畑のチャールス・タートによって意識の変容状態として総括されるようになり、結局様々な超常能力をもつ人々がその能力を発揮するときには、一様に特異な意識の変容状態にあることが分かり、脳波的にもそのことが次第にあとづけられるようになった。こうして、従来なかなか学問研究の舞台に乗りにくかった領域が、一つの科学的言語によって共通に語られる素地ができたといってよい。ニューエイジはその意味で新しい意識の探求の意味合いをもつ。
こうした共通言語のなかに、すべての異常と超常をぶち込んでオカルトや宗教の復興現象も見られた。セオドア・ローザクは結局これを宗教改革運動だと呼んだほどであるが(セオドア・ローザク著、志村正雄訳『意識の進化と神秘主義』紀伊国屋書店、参照)、しかしもっと広い、人間意識全般に及ぶ変革であるように思われる。
ニューエイジ・ムーブメントとは、一九六〇年代の後半からアメリカの西部カリフォルニアを中心に興った精神改革運動だとされている。単なる神秘主義運動よりは、もう少し広範な意識の変革運動といった方があたっていよう。前にも述べたように、一九世紀後半に始まった近代スピリチュアリズムの運動が、アメリカの東海岸であるニューヨーク近郊から始まって全世界へ波及したのに対し、このニューエイジ運動は西海岸から興って世界的な広がりを見せつつある運動であることは興味深い。
前者の発端がアメリカ東海岸から始まって西海岸までをその領土とした年であり、後者の興りが、全盛期のアメリカがヴェトナム戦争で挫折を経験し、退潮の兆しを見せた頃からであることも興味ある対比の材料である。
アメリカの退潮が予感されたとき、先端的アメリカの若者たちは「一つの地球」の意識へと脱出口を求めたのかもしれない。いずれにしても、この運動に、新しい意識の獲得運動的な面があることは見逃せない。
ニューエイジ・サイエンスという科学思想の一派もこの運動から生まれた。よくニューサイエンスは何も生み出さないとか、ニューエイジ・サイエンスは失敗したという言い方を耳にするが、筆者にはどうもそのようには思えないのである。ニューエイジ・サイエンスの人々のやったことは、東洋思想と現代科学のやや安直な対比という面もあるが、大事な点は、一つの観察事実に対してこれまでの科学者たちとは別の解釈を提示したことである。科学もあるところまでいくと、世界解釈の問題まで踏み込んでくる。それはある程度やむをえないことであり、人間の想像力の本性上も許されることであると思うが、とはいえそれが本来の権利面を越えて、科学的真実の仮面を装いながら人間に抑圧的な世界像を押しつけてくることがある。ニューエイジ・サイエンスの一派が、これまでの大部分の科学者がとかく採用しがちであった還元論的解釈による平板で、機械論的な世界像をもたず、重層的でホリスティックな宇宙像や世界観をもつようになったことは一つの成功である。かれらは、瞑想や霊的修行の体験からも受け取るものがあることを示唆しており、そこに科学する姿勢へのニューエイジ的対応をみることもできよう。
オルタナティヴ(もう一つの)という言い方がよくなされ、ライフスタイルや治療法、健康法のオルタナティヴが話題になるが、近年の状況では無理もない、そもそもオルタナティヴ・コンシャスネス(もう一つの意識)が探索されているのであるから。
マリリン・ファーガソンは、目に見えない革命が目にもとまらぬ早さで進行しているといい、この革命を「アクエリアン革命」と名づけた。また、歴史家のセオドア・ローザクは、この時代は占星術でいう水瓶座の境界領域にあたるとし、(1)驚異的なものへの興味、(2)人間性の変容、の二つがこの時代を特徴づけていると述べている。

◆スピリチュアリズムからニューエイジへ

さて、私は、今世紀後半に始まったニューエイジ運動を一九世紀に端を発するスピリチュアリズム運動との関連で見るという立場をとっている。
両者には類似の面と際立って対照的な面とがある。類似の点は、人類的な規模での、人間認識の変革を迫る大衆運動(かなりの専門集団を巻き込むものの、その本質において大衆の)である点であり、その中心にスピリチュアルなものへの新評価が含まれている点である。
一九世紀後半のスピリチュアリズム運動は、多くの霊媒が運動の結節点となったもので、その性質上、受動的性格が強く作用している。霊媒という受動的媒体を通じてもたらされた認識の変革であるから、そのような性格をもたざるをえなかった。これに対し今世紀のニューエイジ運動においては、個人の主体的な能動的体験にその比重が移っている。その体験は受動的というより能動的で、個人が瞑想などの意識変容状態において霊的覚醒を経験したり、意識の拡大や潜在能力の発現の体験をするという方向であり、霊媒に依存するというような代理体験的な面は薄れている。
ニューエイジ運動をある世代(一九六〇年代後半に青年期を迎えた)に限定し、それ以前の世代からの関与を除外しようとする考え方もあるが、それは表層的な見方で、また、実際面からも無理である。
アメリカに興ったニューエイジ運動の影響を受けて、そうした潮流に賛同し、参画する諸団体をフェスティバル(展示会+祭り)という形で組織し、国際的反響を得てアメリカに輸出したグラハム・ウィルソンについては先にもふれたが、彼の組織した「マインド・ボディ・スピリット・フェスティバル」を見ると、ニューエイジの奇抜な団体も多いなかに、伝統あるスピリチュアリズムの団体であるSAGBを含め大小いくつかのスピリチュアリズムの団体が参加している。そればかりではなく、神智学や人智学やその他のオカルト集団も合い集ってニューエイジを謳歌しているのである。かれらを旧エイジであるとして締め出すというような気配は全くない。東洋の鍼、灸、武道、場合によっては醤油のごときものまでこのニューエイジには含まれているのである。つまり、彼ら現代のヨーロッパ人にとって意識の転換を促すものはニューエイジなのである。
元来アメリカに興ったスピリチュアリズムの運動をいち早く受容し、数々の組織体をつくり上げ、またそれらを最もよく保存したのは英国である。今では国際的なスピリチュアリズムの中心拠点になっているのはアメリカではなく英国なのである。前章で述べたように、それぞれ百年以上も続いたスピリチュアリズムの団体が三つあり、今日に至るまで立派な活躍をしている。英国人はボランティアによる団体の組織化と保存に関して独特の才覚をもつ国民である。
約一世紀の間隔をおいて同じ大陸(かつて新世界といわれた)の両端に現れた二つの運動は、互いに連関し、呼応し合っているように思われる。この両者を分離してしまっても、それは腐肉を分けるようなものであろう。今日では、スピリチュアリズムのなかに現れた心霊現象や超心理学の基礎部分はほとんど日常の知識のなかに入り込んでしまっていて、超常現象やオカルトを語る人のなかからそれを抜き去ることはできない。
それは幕末時代に現れて今でも新宗教と呼ばれている日本の宗教運動と、七〇年代以降、宗教社会学者によって新々宗教と呼ばれるようになった一群の宗教団体との関連を思わせる。この二つの流れはまず時代区分的に相応する。スピリチュアリズムの時代が霊媒のもたらす心霊現象によって霊界を知るという、いわば霊媒による代理体験の時代であるのに対し、ニューエイジの世代が自分自身の修行や瞑想によって、自らの身体を通して霊的世界をリアルに実感することを目指す直接体験の傾向があることは既に指摘した通りだが、これに似た対応として、わが国の新宗教の世代が超能力をもつ教祖への帰依や依存が強かったのに対し、新々宗教に集まる若者たちは自ら術を体得して超能力の所有者になりたいという願望が強いという。「新々宗教」という呼称の命名者である宗教社会学者の西山茂教授は、新々宗教にスピリチュアリズムの影響が色濃く見られること、またこれに身を寄せる若者のあいだには、霊的な「術」を求める傾向の強いことを指摘している(西山茂「戦後新宗教の変容と新々宗教の台頭」『宗教時報』第七三号)。また、スピリチュアリズムの時代に大衆をひきつけたのが、物理的心霊現象であったのに対し、新々宗教に走る若者の目をそば立たせるものが超能力ブームであり、スプーン曲げであったことも注目される。どちらの場合もそうした物理的次元の超常現象が時の牽引車としての役割を果たし、流行をみているのである。
筆者は現在のニューエイジの運動が、前世紀のスピリチュアリズムの運動を補完するようなかたちで表れていることに注目している。霊界というものを如実に知るためには、できるだけ受動的器械になりおおせた霊媒というものが便利であり、そこに引き起こされる現象も顕著なものがある。そこで霊媒というものの役割は重要であるが、その結果生ずるマイナスの面もある。詐術の入り込む可能性や霊媒依存の人をつくり出すことがそれである。またその体験はあくまで代理体験であり、たまたま優秀誠実な霊媒に出会うという僥倖もその結果を左右する。できれば自分自身の体験によって霊的世界や自己の霊性の源泉を体験体得するにこしたことはない。ニューエイジのバイブルといわれる『コース・イン・ミラクル』や黒住の教えにあるような、内在の神に出会うという方向は個人の内的体験を通してしか得られる筈もない。また、すべての人がそういう方向をとる以上、少数の霊媒の活躍では駄目だし目的を達しないであろう。
しかし、個人の瞑想による体験も結局、人によっては希薄な不完全体験の重畳でしかない場合も多い。このような場合にははっきりとした体験を得させてくれる霊媒というものはやはり必要である。また優秀な霊媒によって獲得された情報が人類全体の代理体験にあたるものとして珍重され、記録されることも大事である。今日、優秀な霊媒は世界的に減る傾向にある。それはなかんずく物理的霊媒において甚だしい。とすれば前世紀半ばから今世紀へかけてのいわば華やかなといってもよい霊媒たちの出現は、霊界からの恩寵的なデモンストレーション時代のことであって、これからしばらくは、その昔、聖書がイエスとその使徒たちのことを記したように、人類の遺産として語り伝えなくてはならない種類のことかもしれないのである。
ところで前にも述べたように、わが国の独自の展開をみせる霊的運動の流れは、大本教以降のスピリチュアリズムの影響が顕著になり、戦後大きな展開を見せた宗教団体(生長の家、世界救世教、白光真宏会等)では一層その影響が強くなっている。
「生長の家」の谷口雅治は同じ大本の浅野の影響とともに、スピリチュアリズムの一分派ともいえるクリスチャン・サイエンスの影響を受けた。世界救世教の岡田茂吉は浅野の薫陶をうけた霊媒の亀井三郎から霊的治療の手解きを受けている。白光の五井昌久が以前日本心霊科学協会に出入りしていたことは、自伝にも書かれているとおりである。また新々宗教の御三家といわれる真光、GRA、阿含宗といった宗教団体は、教祖も信者もほとんどスピリチュアリズム文献読書世代ではないかと思われるほどである。最近教勢を伸ばしている真如苑の伊藤真乗は、若い頃、日本心霊科学協会理事の宮沢虎雄(海軍機関学校の教授で浅野の友人であった)や霊能者の吉田綾の影響を受け、現在彼の所で行われている「接神」とは戦前から浅野の後継者によって行われていた心霊相談が形を変えたものにすぎないのである。
スピリチュアリズムの影響は、まずその独特のタームの使用(守護霊、背後霊、指導霊、地縛霊、オーラ)に表れるが、それはなりではなく、死後の世界への移行状況の説明、霊界の階層的構造や霊界における人霊の存在をリアルに述べること、憑依や除霊のメカニズムの説明箇所などに顕著に表れる。言い換えれば、この世と他界(現界と霊界)の関係をはっきり説明する傾向はすべてスピリチュアリズム的関心といってよく、信仰から認識への移行過程がそこには見られる。また、わが国固有の民間信仰的なものと混交して説かれるなかに、その合理化部分としてはスピリチュアリズムからの借用が見え隠れすることも多い。

◆霊媒とチャネラー

霊能というものについて、ニューエイジ系の説明では、インドから渡ったヨーガの教師たちの影響を強く受けているので、チャクラ(またはシャクラ)を発生源と見るものが多い。人体の脊髄に沿って、目には見えない七つの霊的センターがあるとし、これをチャクラと呼んでいるのである。このチャクラは生理的には人体のホルモン分泌器官、心臓、松果腺等におおよそ相応し、下部から上部へ移行するにつれて高次の霊界との交差点になっていると説く。通常霊媒となるものは、太陽叢に位置するマニプーラチャクラが活発になった段階であり、低次の霊界(アストラル界)の影響が多く、甚だ危険だと説くのである。これはブラヴァツキー夫人以来の神智学も同じであり、聖典とされる「バガヴァッドギータ」には同様の見解が述べられている。
高次の霊能者は、上部のチャクラまたは全部のチャクラが開いた人である。このような人は安全であり、いわゆる霊媒のようなトランス状態に陥ることがない。常に意識明澄なまま他界のヴィジョンや通信を受け取ることができる。こうした人をチャネラーと呼ぶ、というのである。
これに対し、スピリチュアリズム系はほとんどチャクラ説を用いず、霊的作用に関与するのは、人体に重なって存在する不可視の波動体である複体の作用かまたは脱魂(ないし半脱魂)の状態によるものだと説明する。ただし、霊視の生ずる根拠として松果腺の作用をいうことはある。
複体(極めて肉体に近い波動体だが、目には見えない)は人体に霊界の作用を伝える役目である。また人体と重なる複体以上に精妙な波動体(幽体、霊体、本体など)からの作用の肉体に対する仲介者でもある。それはまた、人体の生理作用や統一作用とも関係していると説明されている。
複体は半物質を生産して、身体の各部に供給し、生理作用を促して人体を活性化させると同時に、高次の身体である霊体からの影響や精神作用の影響を肉体部分に伝える。この半物質生産が豊富過剰なものは霊媒の素質をもち、また霊界から見るとそれが輝いて明るく見えるので作用しやすいという。霊はこの部分に作用または憑依し、影響をもった霊に霊能があるといわゆる霊能が生ずる。この半物質が意図せずに身体から漏れだすようなことがあると、霊界の低次な生物ないし自然霊のようなものがこれを悪用して、その結果いわゆるポルターガイストのような現象を生ずる。思春期の男女はこれが体外に漏れやすいことがある。ただし、高級霊界のものが下級の霊に命じて上手にこれを用いるといわゆる物理的心霊現象が現出し、霊界存在を証拠立てるための様々な証拠を提供することができる。これは霊媒にとっては多少の危険を伴うが、高級霊が監督する限り心配はない。
また、自動書記現象その他の主観的心霊現象(霊視、霊言)等も、高級霊がまず霊媒の霊体や本体に関与し、しかるのちに複体を経由して通信してくることによって安全な交信が可能となる。霊媒が純粋で、高貴な奉仕の精神をもち続ける限り、高級霊はこれを保護し、低次のものを寄せつけないので、その役柄に精進するものは何の心配もない。ただし霊媒の心境が低下した場合は別である、と。
また、脱魂作用(または幽体が少しずれるだけの半脱魂)によって生ずる霊視状態もある。これは通常の人も事故や薬物の使用によって、霊魂が一時的に体外に飛び出すことによって経験することがある、ともいう(吉田正一論文集『霊視の機構と本質』日本心霊科学協会編、参照)。
だいたいにおいて、前者の説明は能動的、自力開発的であるのに対し、後者スピリチュアリズム系は受動的、他力的説明である。霊媒作用について前者は危険、後者は高級霊と関係をもつことによって安全と説く。
筆者の見解は、両者の説明のいずれが真とも偽ともいい難い、重なる部分があるのではないか、将来、両者の説共に補充される必要があろうというとことである。いずれにしても、霊視というものが生ずる理由一つを取り上げてもまだ充分には解明されていない。然々(しかじか)の経過があって突然それは生ずるのである。問題は意識やヴィジョンが生ずる根本のところにあるのだという気はするのだが……。
しかしながら、付け加えておかなければならない幾つかの点がある。ニューエイジ系は霊媒のトランス状態(脱魂ないし脱魂による完全人格転換状態)を蔑(さげす)んで低級状態とし、これを霊媒の特質のようにいっているが、英国のスピリチュアリズム系の霊媒を観察すると、通常はほとんど目を開け、自己意識を分明に保持した状態で霊からの通信を受け取っている。霊信は精確で、雰囲気は明るく、金銭を要求しないといった霊媒がかなりいる。それでいてかれらは、自分をチャネラーなどとはいわないのである。かれらは低次のものも高次のものもミーディアムシップ(霊媒行為)でいいではないかと思っている。霊媒という呼称で充分だと思っており、自分たちの仕事に誇りを感じている。今時の霊媒は、本場のイギリスにおいても完全トランスの状態を表すのは少ない。あればむしろ貴重なほどなのである。
アメリカのチャネラーと称する人々が、高次のチャクラを開発したといい、宇宙意識(これもインド系思想の特徴)として宇宙人とチャネリングするというならそれもよい。しかし意識を入眠時催眠程度の軽い変容状態において、その際活発になる半無意識的創作能力を駆使して、自己の希望や幻想からの通信をチャネリングしているとしたらどうであろうか。前世のテーマほど創作に恰好のものはないのである。
英国のSAGBを訪問したとき、主幹のヨハンソン氏にアメリカの霊媒についての印象を聞いた。ヨハンソン氏は一年半ほどアメリカの霊媒について調べたが、概してアメリカの霊媒は証拠性が少なく、英国の霊媒に比べて劣るという印象をもったという。英国には数百のスピリチュアリスト・チャーチがあり、そこから選りすぐりの霊媒候補がSAGBに推薦されてくる。その候補者をいきなりプラットホーム(壇)に立たせて初めての人をどんどん霊査させる。そのときその人々の様子をじっと観察し、霊査を受けた人々の答えにイエスが多ければその霊媒を採用し、さらに訓練を与えた上で専属の霊媒にするという。
筆者が日本はアメリカと同じで証拠性のある霊媒は少ない、おまけに伝統的な宗教意識が混交していて、さらに純粋な霊媒は得難い、また自ら高しとするものが多くて質問もままならないと述べると、それに対しヨハンソン氏は答えていった。英国にはスピリチュアリズムの伝統があり、この体制は一朝一夕にはできない。英国の一流の霊媒は、一目で会衆のなかから優秀な霊媒素質者を見抜く力がある。英国の霊媒は死後個性の存続の証拠を提供することに誇りを感じている。まずは日本へ英国の霊媒を連れて行き、かれらに真の霊媒を選抜させるところから始めてはいかが、というのだった。
スピリチュアリズムの霊媒の長所を上げると、彼らは証拠の提出を義務と感じている。霊媒は証拠をあげえなければ霊媒ではない。彼らは試されることにいささかも侮辱を感ずることがなく、むしろ当然のことと思っている。スピリチュアリズムの伝統では、霊媒は教祖でもグルでも神秘家でもない。まして神でもその代理人でもない。従って、霊媒の人間的部分が秘匿されたり曖昧にされ、権威化されることもない。かれらは人間としての矜持を維持できるほどの扱いを受けるとき(しばしばこの限界を越えることがあったが)、研究者の真摯な実験には応じてきたという歴史がある。
ニューエイジ系の宣伝を通じてチャネラーと称し始める人にはとかく実証性がない。証拠ということを極端に嫌う傾向がある。軽いトランス状態で心に浮かんだことをチャネリングとして語ってもいいように訓練されている。しばしば、本当に有能な霊媒としての訓練や淘汰を受けているのかどうか疑問である。
しかし、たとえば最近評判になったシャーリィ・マックレーンの『アウト・オン・ア・リム』(山川鉱矢・亜希子訳、地湧社)以下の一連の自伝的作品に登場する霊能者を見ると、これはまさしく昔ながらの霊媒である。また、アメリカの有名な霊媒セスなども、ほとんどスピリチュアリズムの霊媒と変わらない。再生問題についての甘さは気になるところだが。
最近のアメリカのチャネラーと称する人たちは、例の教科書『コース・イン・ミラクル』を頭に叩きこんで適当回数のトレーニングを積んでおけば、当たり障りのないニューエイジのメッセージをチャネリングできるのではないかと邪推したくなる。ニューエイジのメッセージそのものは概ね妥当なもので、過去の(スピリチュアリズム以来の)伝統が生かされているような気がする。しかし、やはり証拠というものの提示が必要である。
高次な霊信に証拠性がないのは当然であるとして、かれらはまず身近なところで自分が能力者であることの証明ができなければならない。高次な霊信を伝えるのはそれからのことである。かれらの日常において高次な人格者であることを証明することができればそれにこしたことはない。
わが国民に舶来好みのある伝統は霊能力者の分野でも変わらず、最近ではかれらにニュービジネスの温床を提供する結果になっている点も考え合わせる必要があろうか。

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