【エッセイ】霊の復権と新しい意識の探究(2)

霊の復権と新しい意識の探究 (2)

掲載日:2006年5月20日

◆スピリチュアリズムの核心部分

スピリチュアリズムにおいては、端的にいえば、霊媒を通して現界以外の霊的次元の世界を知り、そのことによって、顕幽を貫く宇宙の理法を知り、さらにそこに生きていくわれわれの魂の道を知ろうとする傾向が一貫して見られるのである。すなわちこれは、われわれはどこから来て、どこに去るのか、われわれは何のために生きるのか、という永遠の問題に対する答えを求めることにほかならない。
しかし、このような傾向だけならば、たとえば神智学や人智学にもある(むろん、この場合、ブラヴァツキーやシュタイナーを学識ある霊媒と考えてのことであるが)。
神智学のブラヴァツキー夫人がスピリチュアリズムの初期の運動から出た霊媒の一人であることはあまり知られていない。彼女は、アメリカの初期スピリチュアリズム運動に加わっていたが、一般には逆に、彼女が後にスピリチュアリズムや心霊研究を大いに論難したことの方が大きく取り上げられている。しかし、これは主としてブラヴァツキー夫人が、心霊研究やスピリチュアリズムが心霊現象の物質的方面や好奇心をそそるところにのみ眼を向けると非難したのに対し、SPRのホジソン博士が反対に神智学会インド本部における詐術を指摘したことに起因している。これは不幸な確執であったが、とはいえブラヴァツキー夫人の指摘も当たっていないことはなく、似たようなことは、初期のスピリチュアリズムの鼓吹者で、独特の調和哲学を説いたジャクソン・デイヴィスとスピリチュアリストで稀有の霊媒でもあったステイントン・モーゼス【注3】とSPRのあいだにもあったのである。いずれの場合も、心霊研究の過度な物質性やスピリチュアリズムの俗っぽさが問題になっている。しかし、私はここでは、スピリチュアリストのなかで最も信頼を得ているモーゼスがインペーレーターという高級霊から受け取った「霊訓」【注4】のなかから次の引用をすることでこの問題の解としたい。

【注3 ステイントン・モーゼス(一八三九-九二)、オックスフォード大学卒業後英国国教会の牧師となったが、病身のため一時医師スピア家の家庭教師をしていた。スピア夫人の以来でスピリチュアリズムの調査を始めたところ、疑念をもっていたにもかかわらず、突然彼自身に物理的心霊現象を伴う数々の霊能力が発現しはじめた。霊たちのことばによれば、モーゼスを霊媒とするにあたって周到な準備をしたという。モーゼスに発現した霊現象の真実性、また人柄の誠実さや情愛の細やかさについては、スピア夫人の証言がある。また友人でSPRの会長を務めたフレデリック・マイヤーズは、その大著『人間個性とその肉体死後の存続』において、モーゼスの事例を取り上げ、その霊媒能力を真正のものと認めている。モーゼスの知性面についていえば、その卓越性はその著作や残した記録から知ることができる。これだけ知性をもった霊媒に真性の、かつ夥しい物理的心霊現象が伴ったことは史上稀有なことであろう。】

【注4 ステイントン・モーゼスが自己に接触をもってきた霊(インペレーター)を初めとする四八の霊たちとの交渉経過や問答を、子細に記録したノートの一部を出版したもの。残部は英国の心霊研究学院に保存されている。その重要性はバイブルに等しく、史上おそらく最もスリリングな内容が記録されているといってもよいが、ほとんど世には知られていない。】

《汝は俗うけするスピリチュアリズムは無用であると言う。その説くところが低俗で聞くに耐えぬと言う。断言するが、汝の意見は見当違いである。適格さと上品さには欠けるが、確信に満ちたその言葉は、上品で洗練された他の何ものよりも大衆に訴える力がある。野蛮なる投石器によって勢いよく放たれた荒けずりの石のほうが、打算から慣習に迎合し体裁を繕いたる教養人の言説よりもよほど説得力がある。荒けずりであるからこそ役にたつのである。現実味のある物的現象を扱うからこそ、形而上学的判断力に欠ける者の心に強く訴えるのである。
霊界より指導に当たる大軍の中にはありとあらゆる必要性に応じた霊が用意されている。“物”にしか反応を示さぬ唯物主義者には物的法則を超越せる目には見えぬ力の存在の証拠を提供する。堅苦しき哲理よりも、肉親の身の上のみを案じ再会を求める者には、確信を与えるために要する証拠を用意してその霊の声を聞かせ、死後の再会と睦み合い生活への信念を培う。筋の通れる論証の過程を経なければ得心できぬ者には、霊媒を通じて働きかける声の主の客観的実在を立証し、秩序と連続性の要素をもつ証明を提供し、動かぬ証拠の上に不動の確信を徐々に確立していく。さらに、そうした霊的真理の初歩的段階を卒業し、物的感覚を超越せる、より深き神秘への突入を欲する者には、神の深き真理に通暁せる高級霊を派遣し、神性の秘奥と人間の宿命についての啓示を垂れさせる。かくの如く人間にはその程度に応じた霊と相応しき情報とが提供される。これまでも神はその目的に応じて手段を用意されてきたのである。今一度繰り返しておく。スピリチュアリズムは曾ての福音の如き単なる見せかけのみの啓示とは異なる。地上人類へ向けての高級界からの本格的な働きかけであり、啓示であると同時に宗教でもあり、救済でもある。それを総合するものがスピリチュアリズムに他ならぬ。が、実はそれだけと見なすのも片手落ちである。汝にとって、そしてまた汝と同じ観点より眺めたるものにとってはそれで良いかも知れぬ。が、他方には意識の程度の低き者、苦しみに喘ぐ者、悲しみに打ちひしがれし者、無知なる者がいる。彼らにとってはスピリチュアリズムはまた別個の意味をもつ。それは死後における肉親との再会の保証であり、言うなれば個人的慰安である。実質的には五感の世界と霊の世界とを結ぶことを目的とする掛け橋である。肉体を捨てた者も肉体に宿れる者と同様に、その発達程度はさまざまである。そこで、地上の未熟なる人間には霊界のほぼ同程度の霊が当てがわれる。故にひと口にスピリチュアリズムの現象と言うも、程度と質とを異にする種々さまざまなものが演出されることになる。底辺の沈殿物が表面に浮き上がることもあり、それのみを見る者には奥で密かに進行しているものが見えぬということにもなる。
今こそ汝にも得心がいくであろうが、世界の歴史を通じて同種の運動に付随して発生する“しるし”を見れば、それが決してわれらの運動のみに限られたものとの誤解に陥ることもあるまい。それは人間の魂をゆさぶる全てのものに共通する。人間本来の性分が要求するのである。イスラエルの民を導いたモーセの使命にもそれがあり、言うまでもなくイエスの使命にも欠かせぬ要素であった。人類の歴史において新しき時代が画される時には必ず付随して発生し、そして今まさに霊的知識の発達にもそれが付随しているのである。が、それをもって神の働きかけの全てであると受け取ってはならぬ。政治的暴動がその時代の政治的理念の全てではないのと同様に、奇跡的異常現象をもってわれらの仕事の見本と考えてはならぬ。
常に分別を働かせねばならぬ。その渦中に置かれた者にとっては冷静なる分別を働かせることは容易ではあるまい。が、その後において、今汝を取り囲む厳しき事情を振り返った時には容易に得心がいくことであろう。》
(近藤千雄訳『霊訓』「世界心霊宝典」第一巻、国書刊行会)

ご存知のとおり、ブラヴァツキー婦人の神智学はいろいろに仮託されているが、その中身はチベット密教とスピリチュアリズムの結合部分が大きい。また、ブラヴァツキー夫人の影響下に出たシュタイナーの人智学も、大きな流れの上ではスピリチュアリズムの起こした霊的潮流の上に乗っかっているといえる。従ってこの三者は、それぞれの特色を有するという以上に、大きな特徴を共有しているものだ。すなわち、この三者は、霊的世界の問題を深く個的な信仰や秘匿すべき部分と見ず、万人に共通する事実認識の問題として捉えており、理性の所有者は科学的知性の所有者と何ら遜色なくその知性を働かせながら、かつ誠実に、霊的世界についての知識をもちうると考えている点である。そのため霊的世界の構造を成層的に捉えること、魂を無限に成長発展するものと考えること、地上への出生は魂の無限の成長過程にとって必要であると考える点等で一致している。
結局、スピリチュアリズムの特色として浮かび上がってくる点は、人間が霊的存在であるということをリアルにしようとしている点であると思われる。言い換えれば、身体を超越した霊魂の存在、霊界の存在を、解像度のよいレンズを通して見るように見せてくれるのがスピリチュアリズムである。他の宗教や神秘主義は、いくらこの点について同様に言及し、またそれを当然のこととして前提していたとしても、結局は曖昧である。役目柄この点に重点を置いて、誰の目にも分明にして、あらゆる人間の問題をこの点を起点にして考え直そうとするのが結局はスピリチュアリストの主張であると思われる。
しかし彼らが実際に何をもって分明にするかといえば、霊媒という一つの媒体を通してである。スピリチュアリズムにおいては、つまるところ問題は霊媒の問題に帰着する。心霊現象は霊媒もしくは霊媒の周辺に起こるという厳然たる事実があり、この問題を避けて通ることはできないのである。ということは心霊現象が生ずるためには霊媒という媒体が必要なのである。これは宿命のようなものである。人間存在の特殊性を明らかにするためには、結局、この古来からの様々の名称で存在した霊媒という特殊存在をきっちりと問題追求の俎上に据えるしかない。人間の本性を解明するためには、性に関する神話やタブーを除去し、興味本位でない客観的な研究が必要であったように、ここでの霊媒の問題にも同様の観点が必要である。
ところで、このことは、想像以上にやっかいな問題である。生理機能、運動機能、思考作用や感情まで備えた一人の人間を実験器具、または霊界の通信機として扱う問題であるから、種々の困難や失敗もここから起こった。しかし、その厄介さを厄介として、その上になおかつ追求していく姿勢がなければ所詮この問題は永遠に解決しない。そしてこの問題を放置すれば、ことはすぐさま宗教や神秘の次元に回帰してしまう。ようするに、人類は、この霊媒のような研究対象として至難な、複雑極まる問題に適切に対処しうるところまで成熟しなければならないのである。もちろんその前に、問題のこうした所在にはっきりと気づかなければならないのだが、全体としてまだそこまでもいっていないようである(研究者の研究破綻に対する不安も大きいのではないかと思われるが)。
私がスピリチュアリズムは結局霊媒の問題だといったのは、いい難いこともはっきりいうためである。どういうわけか、こういう問題提起も好まぬ人が多いことは百も承知している。ご承知のごとく、この古く人類の本性に根ざしたと思われる職業は疑惑をもって見られている。永く性の問題がタブーであったように、霊媒や交霊の問題は未だタブーでありつづけているが、これは奇妙な間違ったことである。我々は羞恥のあまり、これらについて何か気の利いた既知のことに言い直してみるという知者ぶりもやめなくてはならない。客観的に注意深く、人類の英知を結集して長期的に調査されるべき問題なのである。
スピリチュアリズムの知りえたとことろによれば、人間は皆霊媒である。こうした、一見転倒したように見える真理から再出発してみるのもよい。というのも、スピリチュアリズムの教えるところによれば(これは神智学、人智学ともに大同小異であるが)、霊媒的機能を果たしている複体の部分が常の人体にかさなっていると見られるのである。そしてこの複体がいわばあの世との連絡係の役をしている。従ってすべての人間は、この複体機能を通じて他界の浸透を受けているということになる。
次のように考えればどうか。二つの世界があり、一方は五感の対象となり、一方はならない。しかし両者は重なっており、人間は本来この二つの世界の連続体である。それゆえ人間にはこの二つの世界を繋ぐ能力が本来的に備わっているが、その能力が顕在化している人の数は少ない。が、顕在化しうる機能を多量に備えた人間存在がいわゆる霊媒であると。
また、次のように考えることもできよう。人体は二つの世界を繋ぐ奇妙な装置である。可視の荒い波動の世界と不可視の精妙な波動の世界が交渉をもちうる最高の装置である。人体は二つの世界の存在が互いに往来し、現出するための穴であり、通路であり、今までのところ唯一の通信手段である。人体は自然の幾つもの微妙な波動を係留し、連続させトランスする機械である――。
このような視点を受け入れると、こうした二つの波動世界の連続性や相互作用を前提とする人間のESP(超感覚的知覚)やPK(念力)や、さらに進んで交霊能力のようなものも、多少にかかわらず誰にでも備わっていてむしろ当然ということになる。
しかしながら、そのもてる能力の顕在化という点から見ると、ある人には多く、ある人には少ないというバラツキがある。教育や社会常識がこれらの能力の発現を抑圧しているということもある。また通常人の一生という時間内で見ると、時期によってこうした能力が顕在化したりしなかったり、また昂進したり減衰したりすることもあるようだ。
古代社会を見ると、こうした通常人の能力低下を補うために、必ず一部族に一人以上の強い他界感知者を擁して社会機能を果たさしめていたらしい。いな、それがわが国の場合のように、王権の元であったことさえもある。また一族という単位で考えると、つい昨日まで、一族中にはこうした能力の強いものが存在して他界との連絡役を自然に果たしていたことに気づかされる。親-子-孫の三代の親族をすべて合わせると、幽霊を見たとか、先祖の気配に敏感な人が一人くらいはいるものだ。こうした人は現代においてあまり積極的な意味合いはもたなくても、一族中でいつのまにか先祖とのあいだに立って墓守的な役割を負っていたりする。
沖縄の王家のノロ、天皇家の斎宮など、皆ゆえなくして存在したのではない。こうした役柄の人がいるといないでは、場合によって一族の安危にかかわることだったのである。死地に赴く倭武命に対して、叔母であり伊勢の斎宮であった倭姫命の占める意味合いを考えてみるとよい。懐かしいとか、惜別とかの物語的意味ではない。他界を覗き、特別の力を付与する司霊者としての役割をである。
現代人は強烈に個性を意識しているが、われわれは生命としてはむしろ、類のなかに生きている。冷静に見れば、個人は、一つの生命のなかに男女の分担があるように、生命の連続性のなかで一部の時間と役割を受け持たされているにすぎない面がある。従って、個としての自分には衰えてしまった能力から推して人間全般を定義するのは無理な話なのであるが、知性ある現代人はとかくこれをやりがちである。自分には顕在化しない他界感知能力が孫には備わるかもしれない。あるいは三代前のだれそれにはあったかもしれない能力なのである。「人間の経験」という以上、最低その程度の時間の幅が必要である。三代は最低の一セットである。人間の歴史を見てみると、ここ一世紀半ばかりの時間のなかにスピリチュアリズムの強烈鮮明な歴史が刻まれている。人はそれを自分の歴史を見るように振り返ってみて、そのことの与えられた意味をよく味わってみるべきだ。そうすればもっと深いところが分かるだろう。
さて、生命としての分業のゆえか、個人には薄れてしまった他界感知能力を補うために、そうした能力を濃厚に保持している能力者の助力を仰ぐということも、ときとしては悪いことではない。そうした人に会わなければ、われわれは他界との連続性の観念すら亡失してしまうものだ。
従って霊能力者や霊媒は確固とした社会的機能をもつと筆者は考えている。しかし、筆者が重視しているのは、通常人に知りえないような秘密の情報をかれらから得るとか、人生上の問題の解決を依頼するとかの意味ではない。そうした期待をもってかれらに近づくことが一般的に有効であるかどうかは、かれらのもてる能力の判定基準がはっきしりない状態では確言することが難しい。出会いの僥倖の問題があり、様々なまやかしの入る恐れが確かにある。
そこで筆者は、できればこれらの人々の能力を、普通の人には薄れてしまっている二つの世界(顕と幽の)連続性を確認し証拠立てるために役立てることができればよいのではないかと考えている。正統的なスピリチュアリストのしてきたことは実はそのことなのである。ある個人が、ある利害のためにかれらの能力をあてにするというようなことがあれば、それに伴う危険性が多いからだ。
ニューエイジ系の人々の考え方のなかには、こうした魂の連続性や永遠性を確認するために霊媒の能力をあてにせず、自らのもてる力を開発すべきだという主張がある。それはそれでいいであろうし、若い人々のあいだの瞑想ブームや「誰でも超能力者になれる」というキャッチフレーズが、そうした方向を示すものなら好ましいことである。
スピリチュアリズムは、こうして交霊の行なわれるメカニズムや、生から死への移行過程、死後直後の魂の状態、その後に遡る魂の足取り、霊界各層の構造といった問題について、他のどのような宗教や神秘主義説より詳しく具体的なのが特色である。
スピリチュアリズムの関心は他の神秘主義説と同じ宇宙的広がりを見せることもあるが、中心点はあくまでも人間死後の周辺と霊魂はあるかないかの辺りに帰着するようである。むろん、問題がその点にだけしかないというのではなく、むしろそこからが大事なのであるが、それはそれと分かった上で、そこからすべての始まりだという意味でそこに特別の強調点を置くものである。
また、スピリチュアリズムの霊媒の特色は、一般には、交霊を通じてクライアントに、死者の死後個性の存続を証拠立てようとし、それらの成功を名誉としていることである。そうした証拠をどれだけ提供できたかがかれらの誇りなのである。通常かれらはそのことのためにはほとんど報酬を受け取らないか(まともなスピリチュアリストの霊媒ならであるが)、交通費程度のものを受け取る程度である。つまりこのことによっても、彼らの活動の力点がどこに置かれているかが分かるであろう。
むろんスピリチュアリストの霊媒はこうした霊魂に備わった連続機能(元来「類」として存在する霊魂同志に備わった融合のための能力、すなわち、超感覚的知覚、念力、霊媒能力など)を用いて他のことをすることもできるし、予言者や超人のように振る舞うこともときとしては可能である。しかし、かれらは、一般に厳しくそうした行為を抑制している(それをかれらは自己の指導霊によって厳しく禁じられているか、仲間うちの教育によってそうすべきではないということを知っているのである)。しかしことわが国においては、霊媒の行う加持祈祷や交霊が職業として永く認められていた経緯があり、またクライアントは霊媒を万能の問題解決者として見る傾向があるので、なかなか純粋なスピリチュアリストの霊媒を得難いという事情にある。

◆啓示としてのスピリチュアリズム

前述のモーゼスの引用の後半でも分かるように、スピリチュアリズムは一種の啓示による運動である。しかし、啓示としてこれを捉えた場合、従来の啓示信仰に比して重大な相違点と特色を有することに気づかざるをえない。
啓示とは、神が人に自己を開き示す意味だといわれる。啓示に基づく宗教としては、キリスト教やイスラームが有名である。宗教が神や神の世界を説くとすれば、神や神界が人間に交渉をもつ経路の存在が予想される。そしてもしそれがなければ、神的世界は人間にかかわりのない世界のものとして、存在したとしても実質的意味をもちえない。
キリスト教における啓示は、一般に、
神-聖霊-キリスト(単数)-人
の経路で伝えられている。そしてこの超自然的といわれる経路は驚くべきことに、たった一度で閉じられてしまう。従って一回性の歴史的事件とされる。これは奇妙なことである。もし神が人を神の意志どおりに能率的に導きたいと思うならば、一回ではなく、少なくとも、時々であるべきだとは思わないだろうか。ここにキリスト教独自の人為的な作為があると多くの人が気づくだろう。しかし、こうした閉じた経路をつくって権威を高めようとすることは、宗教であれば何教にもある加工的部分である。教祖に伝えられた啓示や瞑想によって得られる悟りは、絶対のものでなければならぬからだ。
これに対して、同じキリスト教圏に伝えられた啓示であるスピリチュアリズムにおいては、この経路が、
神-聖霊(複数)-霊(複数)-霊媒(複数)-人
の経路になっている。つまり多数経路になっている。しかもこの経路において啓示は、一方通行的ではなく、往復的であり、人や霊媒による質問や問答が許され、よほど近代の通信概念に近いものとなっていた。
しかし、これをもってスピリチュアリズムの啓示を、すべて特色づけたとはいえない。なぜなら聖書の予言者の時代における予言を啓示と見れば、その時代には啓示は同じく多数経路によって、つまり多くの予言者によって伝えられたからである。しかし、ここでもスピリチュアリズムの特色とすべきは、一八四八年という年を起点として、同時代多発的に啓示が現れた点である。つまり、フォックス家の事件を契機としてアメリカ中に家庭交霊会の種が蒔かれ、そこを揺籃として多くの霊媒が生まれ、霊と人の世界の関係についておおかた似たような啓示が伝えられた。
当時の大衆へのスピリチュアリズムの浸透波及ぶりは目を見張るものがある。まずフォックスの怪異事件はマスコミ等によって喧伝され、識者による調査委員会が組織され、論争の波も広がった。そのなかで大衆のスピリチュアリズムへの傾倒は凄まじく、ある統計によれば、フォックス事件の数年後における当時のスピリチュアリズム人口は二百万だとされている。むろん英国、フランス、イタリア、ドイツ、ロシア各地に広まり、いわゆるテーブルターニング現象は日常の生活のなかで、「今日のお宅のテーブルのご機嫌はいかが」という挨拶まで生まれるほどであったという(前掲、田中千代松『新霊交思想の研究』共栄書房参照)。
こうしたなかで、識者の眉を顰めさせる逸脱ぶりや、霊媒のトリックがあったことはスピリチュアリスト自身も認めているが、それもよく調べてみると、ここ彼処に驚くべき無私の偽りなき霊媒のグループが発生していることが分かる。これらの霊媒を中心としたサークルには、当時いわゆる物理的心霊現象も多々発生し、数々の主観的超常現象とともに記録されている。いわゆる専門の心霊研究者のほかにも懐疑的な態度で客観的に記録に心掛けた人はかなりの数に上っているのである。英国のスピリチュアリスト団体へ行くと、どの団体も万に上るこの種の記録を留めた蔵書をもっている。人間というものをすべて非誠実な狂人集団と断定しない限り、このような記録が全く意味を失うことはなかろうと思われる。
さて、こうした同時代多発の啓示群の登場によって、人々は始めて啓示の内容を相互比較し、理性的な検討の材料とすることができたのである。これは人類未曾有のことであり、おそらくこのとき以来、初めて信仰が認識となる端緒が開かれたのであろう。

◆証拠と懐疑

スピリチュアリズムを通して明らかになった霊魂存在の事実が、はたして科学的にも実証されるであろうか、という問題を考えると、その見通しはあまりよいものではない。が、しかし、この問題をつきつめていくと、結局、「科学的証拠とは何か」という問題に突き当たってしまう。なぜなら、通常の意味での証拠や、個人的経験の範囲での証拠ならば、それこそ一世紀半ほどのあいだに山積していて、それらの点検をしてみると理性的には(微妙な言い方だが)霊魂は存在すると結論してもよいと思われるのである。それくらいの証拠は充分あるし、現在もその証拠は積み上げられていっている。
しかしながら、科学的証拠はということになると、科学が一体どのような証拠を要求するのだ、という問題に帰着してしまう。初期の心霊研究者たちの科学的な研究は霊魂の存在を証拠立てる上に十分だと信じられた時代があった【注5】。また研究者自身がそう表明し、世間にそれを訴えた例も多い。しかしながら、それらの研究は同じ研究者仲間から科学的な証拠としては十分ではないと反論されるようになった。たとえば、霊からの通信を受ける霊媒がクライアントや実験に立ち会う人々についての通常では知りえない事実を通信することがあった。するとこれは、人間には超感覚的知覚(ESP)があるのだと仮定すれば、説明できるのではないとうことになった。しかし、クライアントや立会人自身が知らない事実が通信されると、それは霊媒がクライアントや立会人自身も覚えていない無意識下の情報を読み取るのだということになった。それではクライアントや立会人がどうしても知りえた筈のない事実が通信されると、そのような事実が人間の経験であるならば、それが宇宙空間のどこかに記憶されていて、霊媒はそれを読み取る能力があるのかもしれないということになり、そうした読み取りの能力だけでは霊魂の存在が証明されたことにはならないということになった。これを「超ESP仮説」という。これではまるでいたちごっこのようであり、それではいったいどういう条件が充たされれば、霊魂の存在が証明されたことになるのか、ということになる。

【注5 具体例を挙げると、ウィリアム・クルックス、アルフレッド・ウォーレス、フレデリック・マイヤーズ、オリヴァー・ロッジ、リチャード・ホジソン、ウィリアム・バレット、ヘンリー・シジウィック、チェーザレ・ロンブローゾ、シャルル・リシェ、ヒアワード・キャリントンなどの研究事例。彼らは総じて懐疑的な立場から出発して最後に霊魂の実在を認めるようになった。】

霊媒の身体の触れていないところで起こる物理現象についても同様な説明がなされる。これを念動現象ないし念力(PK)と呼ぶ。こうすると超常能力はすべて霊媒の未知の潜在能力の範囲のなかにあることになり、霊魂仮説はあくまでも排除される。しかしそれはあくまでも、排除しようという意図によって排除されているのであり、「超ESP仮説」や「超PK仮説」の方が霊魂仮説よりも合理的であることにはならないのである。同様に、霊媒に通信するという霊が自分たちの存在証拠としてそれらの現象を見せるのだと予め明言して、そうした現象を導出した後においてもなおかつそれを霊魂発のものでないと誰かが強弁するとしたら、それはできるかもしれないが、同時にそれはその男の石頭を証明することにもなりはしないか。そうした現象の導出に骨を折った霊の側の苦労を無にするものである。では、いったい、どのような現象を見せれば証拠となるのか。そもそも現象というものは証拠となるのか、という問題が提起されよう。
とにかく、心霊研究の歴史を振り返ってみると、「私は昨日友人の誰某にあったから、友人の誰某は存在する、または存在した」というような単純な言明は真とされないのである。これがもし霊以外のものであれば、たぶん大抵の人はそれでよしとするだろう。霊魂の場合にのみなぜ人間がこうも懐疑的になるのか不思議である。哲学に親しんだものなら、よく分かっている筈のことがある。それはすなわち、極端な懐疑の前には何事も証明されることはないということだ。通常、われわれはだいたいのところで証明されたと思っている。たとえば、駅の遺失物係の所へ行き、何々を紛失したと申告し、該当のものがそこに届けられていれば、われわれはそれを受け取ることができる。
しかしちょっと考えてみても分かることだが、極端な懐疑をもたれれば遺失物が紛失者の手元に戻ることなどありえないのである。科学者と称したい人々は結局、今さらながらこの問題に悩んでいるのである。相手の疑問は霊魂などはありえないという極端な懐疑から出発しているので、どこまでも科学的には解決できないような気がするだけである。ためしに、「人間は存在するか」という問題に科学者が取り組んだとすると、恐らくこれから数世紀をかけたところで存在証明はできないであろう。人間とか存在とかいうことばも解体してしまって、科学者は現象学や記号学や構造論やポスト構造論をやるようになり、結局暗黙知によっておぼろげながらその存在にたどり着くこととなろう。が、しかしながら、それでもまだ証明とはいえはしない。
科学が「非物質」という概念を認めるか認めないかは分からないが、少なくともスピリチュアリストは、霊魂が物質であるとはいっていない。こうした物質以外のものの存在を証明するのに、物質的証明法を用いようとするのはそもそも矛盾ではないかという疑問が浮かんでくる。測定は物質への影響ということになるが、心霊研究の歴史においては、単純な目視というようなものはもはや信じられていない。見たといっても、その見たということを第三者は信じられないし、また何を見たかが延々と問題になる領域である。幽霊を見たといっても信じないだろうし、また幽霊といわれているものを見たからといって霊魂存在の証拠になりはしない。考えてみれば霊魂の定義もまだないし、いったい何を証明したらよいのかもよく分かっていなかったのである。

◆証明という問題の再検討

結局、霊魂の問題は何かの存在証明についての方法の問題をますます先鋭化してしまうようだ。目下はこの種の問題には、何がどの程度に証明されればよいかを冷静に検討してみて、合意ができるまで待つしかないであろう。
私の先祖の五代前に何の某というものがいた、と私が申し述べたとすると、特別な事情もない限り他人はそれを疑ってかかりはしないだろう。疑われれば寺の過去帳とか、記憶の確かな親戚の者の証言を持ち出す以外に方法はないのだが、それでも疑い深い科学者を説得できる保証は何もない。しかし奇異なことにそのなかで、私がその五代前の先祖の存在を疑っていないとういことも格別非理性的なことであるようにも思われないのだ。信ずるとか証拠があるとかいうことをもっと生活に密着して考える必要があるのではないか。個人的経験の範囲で「霊魂が存在する」との充分な証拠は、スピリチュアリズム百五十年の歴史のなかで充分すぎるほど挙げられたと私は考えている。懐疑的な人にはそれを人類の共同経験として一旦は振り返ってみるだけの知的寛容さがなければならないと思う。そうでなければ、それはその人自身にとっても不幸なことであるし、霊的世界の好意的努力を無にするものだともいえよう。
霊媒というものが虚偽をするものであるとか、過ちうるものであるとか、或いは周囲の人の念や霊からの作用によって意図せざるトリックを行う場合があるとか、今さらそのような次元で論議が成される時点では現在はないように思われる。それはいずれも現にありうることであり、あったことである。しかしながら一点その誠実さを疑いえない有能な無私の霊媒もいたことは事実なのである。スピリチュアリズムの歴史を知ることによって人々はそのことを知るだろう。個人的確信のレベルでならば充分な証拠があることも知るだろう。しかし、やはり人間というものは、最後は自分自身の直接体験というものが必要である。そしてその場合、有能な霊媒という存在にオープンマインドで接触をもつしかあるまい。或いは、自分の生涯のなかに決定的な証拠が現れてそれを体験するのを待つしかあるまい。もちろんそうした体験を偶然によらず、瞑想や修行に求めようとする方向もある。ニューエイジの傾向がどちらかといえば後者であることは先にも述べた。
自分が霊媒になるという体験をもつようになる者もあるが、そうではなくて、瞑想によって自己が肉体を離れた存在であると強く自覚するような境地に進むものも多い。そしてこのような体験は科学者が何をいおうとそれを無視して強く信じさせるだけの、自己明証性をもつものが多い。
この場合、わが国の霊媒には証拠を挙げようとする霊媒が少ないということが注意されなくてはならない。これに比して英国の霊媒は証拠を提示できることを名誉と考えている。たとえそれがうまくいかないときがあっても、なおかつかれらの基本的心的態度がそうであることにかわりはない。それは何といってもかれらのスピリチュアリズムの伝統が培ったものである。それが、心霊研究という、科学研究と境を接するところにあるスピリチュアリズムの特徴なのである。
煩瑣な問題に立ち入ることになるが、疑い深い個人を納得させる証明法はあるが、疑い深い人間全部を納得させる方法はない。なるほど、すべての人に強烈な心霊現象を見せたとしたら或いはそれが可能かもしれない。しかし、優秀な霊媒がそれほどの数になるということは考えられない。では、信頼すべき科学者や学者にだけ見せるのはどうかというと、それも駄目である。見たという瞬間からその学者は世間から信じられなくなるからだ。
伝聞証拠はすべて取り上げられない。結局、自分の目にしか信じられないと科学者は最後にいうだろう。しかも見た瞬間からその人は常識の世界では科学者であると認められなくなる。これではいたちごっこである。
そのうち「霊魂が存在する」という命題は、あのユングの民族の記憶遺伝のように、高度の文化的構成概念である、というような説が出てくるかもしれない。そうすれば実在の問題はますます混沌としよう。ついに霊魂は、カントの「ものそれ自体」のように、永遠に人の認識するべからざる態のものになってしまうだろう。
欧米の研究者たちのあいだでいわれている「挫折の法則」というのがある。アメリカ心霊研究の会長だったウィリアム・バットンとオリヴァー・ロッジが、マージャリーという霊媒と行った実験で、ウォルターという支配霊に対し異なった木材(松とチーク)でつくった何組かのリングを互いに無傷のままで交叉させつなぎ合わせることを依頼した。これは何回か行われてすべて成功し、心霊研究史上最大の証拠物件といわれたことがあった。しかし不思議なことに、これらのリングは、厳重に保管されたにもかかわらず、後日すべて破壊されてしまった。人為的な理由は全く考えられなかったという。このようなことが心霊研究にはしばしば起こり、「挫折の法則」と呼ばれているのである。
このリングの例がはたして霊魂証明の完全な証拠物件となったかどうかは分からないが、少なくとも超常現象の物的証拠にはなったであろう。残念ながらこのような例は、なぜもっと確実な証拠が手に入らないかと悩む研究者には、ひょっとすると霊界の側が、完全な証拠の提供を拒んでいるのではないとさえ思わせた。
いわゆる科学的に確定された証明は、個人の判断の範囲を越えてしまうから、一種の強制になってしまう。個人はそれを信じないという選択はできない。なぜならそれは科学的に証明済みであるからだ。一方、霊的な認識は常に個人の魂の成長の度合いに応じて進むから他から強制されるということはない。進んだ段階の知識は、各人にそうした霊的認識への希求が生じたときに、効果的に与えられるのが最もよいだろう。が、そうすると、これも最後は「信仰への飛躍」と、同じような意味合いになってしまいそうである。すべての証拠が揃った後でも、やはり最後の飛躍は必要かもしれない(ただし、そのときはもはや小さな飛躍であるが)。
問題は、科学と世間の常識が個人の判断を越えて逆の強制をし合っているときだ。
一九世紀中葉から一世紀ほどがちょうどそれにあたる時期であった。それは、知的な人々に対し科学の名においてある強制が行われた時期であった。
人類がこの世とあの世の並立的存在という認識に耐え、その上で倫理や社会制度を含めて適切に処理できるという段階(たとえば、あの世があれば早く死んでみるという子供や、霊やカルマが原因ならば裁判官は判断できないという類の問題に対処できる段階)がくれば、これも或いは完全なる証明が与えられるのかもしれない。しかし、それまでは個人的証明法(霊媒や瞑想的体験による)の方がよいのかもしれない。人類同時的、全体的認識のときは近づいているようにも見えるのだが。
結局、これまでのところ、「昨日友人に会ったから、その友人は存在する、ないしは存在した」という程度の非科学的証明法には満足できないという人のためには霊魂は存在しない。存在するとすればそれは直観的認識においてである。そしてもし、霊魂問題を知的、推論的に理解するとすれば、スピリチュアリズムからニューエイジに至る人間の歴史を綿密に検討し、これを人類の経験として評価し、しかる後に数々の状況証拠から最後の判断をしなければならない。実はこれは想像以上に知的で構成的な認識である。

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