【エッセイ】ハリー・エドワーズ『霊的治療の解明』解説

霊的治療について

掲載日:2012年10月1日
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本稿は、ハリー・エドワーズ著/梅原雅隆(梅原伸太郎)訳『霊的治療の解明』(国書刊行会、1984年)に収載された「解説」です。

ハリー・エドワーズについて

霊的治療といえばハリー・エドワーズ、ハリー・エドワーズといえば霊的治療といわれる。この領域に知識と関心を持っている人々は、皆一様に、ハリー・エ ドワーズを霊的治療における世界最高峰とみなしている。率直に言って、こと霊的治療ということに限って言えば、彼の実績はかつてのキリストの仕事を上ま わったと言っても過言ではないであろう。どうもそのような役目を与えられて出現した人物のようであるし、われわれは「なぜ霊的治療は可能か」という問い を、キリストに対して問いかける代わりに、同時代のハリー・エドワーズに問いかけてもよいように思う。近代的知性を備え、条理を尽くした証明とデータを充 分に提示し、しかも実際活動において前人未踏の業績を達成し、かつその実践についての方法を普遍化したハリー・エドワーズは、まさにこの問いに答えるのに ふわわしい人であったろう。
ハリー・エドワーズは一八九三年ロンドンに生まれ、一九七六年、その恩恵を蒙った世界中の何百万人にものぼる人々に惜しまれながら没した。その自記する ところによると、前半生は霊的治療とは全くかかわりのない生活を送っており、霊的治療に従事したのは四〇の坂を越えてからのことである。ある友人の奨めで スピリチュアリストの集会に出て、霊能力者から彼自身治療能力のあることを指摘され、半信半疑でその治療能力者開発グループに参加したのがきっかけであっ た。それまでは印刷業と兼業の文具商を営みながら、政治活動に興味を抱いていた。第一次世界大戦に従軍して大尉となり、また第二次世界大戦後は退役軍人を 組織する国連の分科会の役員などもしていた。何度か英国議会に立候補したこともあるが、その方はうまく行かなかったらしい。キャンバーウェル平和会議の議 長をつとめたり、極刑廃止協会の書記官をしたりしたことがある。
このような公共の仕事への関心は早くから持ち続けていたらしい。一五歳の時には、当時ロバート・バッデンポーウェル卿(のちになってエドワーズは奇しく もこのバッデンポーウェル卿の夫人と姪の治療をひきうけることになる――本文参照)の唱えていたボーイ・スカウト運動の呼びかけに呼応し、積極的な活動を 行なってボーイ・スカウト運動のパイオニアの一人となった。一八歳の頃にはロンドン自由党協会の書記となっている。
一九一四年に第一次世界大戦で従軍し、陸軍の厚生事業活動や労務管理の面で大いに力を揮った。傍ら、インド、ペルシャ、イラクなど滞在する東洋各地の宗 教に興味を抱き、その調査研究を行なうと共に、思いがけない秘教の儀式や秘儀にも触れたようである。このときの様々な経験や見聞が、後のスピリチュアリス トとしてのハリー・エドワーズの成長を充分に富ませたであろうことは想像に難くない。
霊的治療およびスピリチュアリズムとの接触があったのは一九三五年である。この前後のエピソードは本書にも述べられているが、スピリチュアリストのグ ループの交流と共に、まるで待ちかねたように生来の治療能力が開花したのである。その治療実績と影響力は日を追って増加し、年と共に霊的治療の至宝と仰が れるようになり、その名は英国全土ばかりか、世界中に知られるようになった。
最初は自分の住居を治療所としたが、訪れる人の数は引きも切らず、一九四七年には、イングランド南東部、サリー州ギルドフォードのシェアの素晴しい景観 の地に治療院(The Harry Edwards Spiritual Healing Sanctuary Trust)を創設し、十数人の同僚治療者並びに協力者を擁し、直接治療および遠隔治療によって世界的規模の治療活動を行なうに至った。一九五〇年頃に は、世界各地からの治療依頼者からの手紙が、年間七〇万通を超えたという。数々の奇跡的治癒の実績は、英王室をはじめとする英国各階層の人々や、識者や多 くの医師からも認められた。高潔無欲な人格と熱烈な使命感に溢れる奉仕の精神は、彼と接するすべての人々の心を打ったと言われる。また付け加えれば、ハ リー・エドワーズが治療費を請求したことはただの一度もなかった。
一九五四年九月、彼は、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールにおいて公開治療実験会を催した。この日に集まった人の数は六〇〇〇人を超え、この種の ものとしては未曽有の規模のものであった。大司教の委員会から一七人以上の委員、教会治療委および英国医師会の代表らが列席した。これらの人々の前で彼は 次々と、不治を宣告された病人たちに治療の実際的効果があらわれるのを実証してみせた。この年、彼は新たに組織された英国霊的治療家連盟の会長に選出され ている。
霊的治療に専心してからのハリー・エドワーズは、治療に明け暮れる毎日で、その仕事は神の軍勢の進軍のように、ひたすら切れ目なく淀みなく続いている。 患者の数は日を追って増加し、世界中の人々が治療を求め、世界中の霊的治療家が彼を師表と仰いだ。シェアの治療院は世界中に知られ、医師ですらも彼の実績 の前には脱帽し、彼の意見を尊重した。
こうした中で、彼が霊的治療の経過や成果を記録し、資料保存に心掛け、また医師の立ち会いを歓迎し、本書の註にも見られる通り、何ぴとたりとも真摯な研 究者に対してはこれを公開するという公正で実証的な態度をとりつづけたことは特筆されてよかろう。彼は初期に既に一万人の治癒例の報告書を作成している。 また大司教が委嘱した英国医師会の調査委員会が、霊的に治癒した六例の報告を求めたときは、七〇以上もの実際に調査しうる最近例を提出している。
彼の治療には何らの宗教的な身ぶりも、衣裳も、思わせぶりなことばもなく、むろん厳めしさや尊大な態度もなかった。彼にはいつも微笑みと溢れんばかりの光と、そして治癒があった。
弟子のブランチは師のエドワーズに対し「四、五百年に一人の人」「キリスト以来の最も偉大な霊的治療家」「キリスト以来最も人々に愛された人」などの最 大級の讃辞を捧げている。また師の人物の巨大さを表現しようとして、「もし彼が映画製作者であったとしたら、あのセシル・B・デミルの叙事詩的映画を幻燈 写真のように思わせてしまったろう」などと述べている。むろん、これらを弟子の欲目から見た過褒と受け取ることもできよう。しかし、ブランチは彼の眼に映 じたエドワーズの姿を次のようにも叙している。朝、エドワーズが戸を開けて現われ、ひと言「お早よう!」と言うと、どんなに悪天候の日でもあたり一面に太 陽の光が満ちわたるようであった、と。ブランチの心の中に焼きついた師のイメージはひたすら人々への奉仕に身を捧げる姿であった。エドワーズは患者に向 かって微笑をたたえ、身を前かがみにのり出し、手を差しのべて言う。
「さあ、ここへ来てすわりなさい。あなたを治療し、魂を洗い直して差し上げましょう」

四〇年にわたって彼の前には人の行列があり、手紙の山があった。彼は決して倦まず、いつも快活で、自分の使命を愛していた。多くの人々が彼を聖者とみな していた。公開治療サーヴィスの日があると人々が彼を取りまいて少しでも彼の衣服や身体に触れようとした。それはさながら聖書の一場面を思わせる光景で あった。
そんなとき彼には全く聖師めいたふるまいも表情もない。彼の身体には与えても与えきれない「愛」が詰まっていたかのようである。死の数時間前まで患者の ために手紙を書いていた彼は、安楽椅子に腰をかけて休息をとる間にこの世とあの世の境を越えていたのである。八三歳であった。しかし彼は、死の前に、普通 の人には必要な死後の安息は自分には必要ないから、帰幽後直ちに自分の治療の仕事を続ける、とブランチに書き残した。とすれば、椅子から立ち上がったと き、彼は再び治療の仕事を始めていたはずである――。

さてここで、ハリー・エドワーズの霊媒能力について述べておきたい。これについてはこれまであまり知られていなかったのであるが、近年出版された後継者 レイ・ブランチの『ハリー・エドワーズ伝』(Raymus Branch, Harry Edwards, 1982)は、かなり詳しくこの点に触れている。
血縁上でみると、エドワーズの母親が霊能者である上に二人の伯母にも霊能があった。熟練した印刷工であった父親は死後の世界など信じない合理主義者で あったが、自分の妻の霊能だけは信じていたという。エドワーズもどちらかといえば父親の合理主義的な気質を受けついでおり、いわゆるスピリチュアリズムと いうものを信用していなかった。
このエドワーズがスピリチュアリストのグループと接触を持ったのは、妹の息子が交通事故にあったとき、家族の友人がある霊媒から聞いてきたことが、事実 と符合したからであった。このことがきっかけになって(本書には友人の奨めによってとある)スピリチュアリストの教会(欧米ではスピリチュアリストのグ ループが「教会」(チャーチ)という形で各地に集会場を持っている。英国にはとくに多く、たとえばロンドンだけでも六〇以上のスピリチュアリスト・チャー チがある)に出掛けていったエドワーズは、そこの霊媒から生まれついての治療能力を持っていると指摘される。このことから興味を覚えて、他の二、三の教会 に行ってみると、どこでも同様なことを言われた。そしてとうとう彼は、霊能者の指導する「治療能力開発サークル」に参加することになった。
何度目かの会への出席のとき、エドワーズはふいに自分の身体がリズミカルに震えるのを感じた。呼吸が速くなり、それと共に心が一つの想念にはりついたよ うになり、それを外に吐き出したい想いにかられた。しかし咽喉の動きがそれについていけず、発言することはできなかった。
ある日、新しい力が彼に加わったのを感ずると同時に、彼は立ち上がり、もはや抑えることができなくなり、大声で「すべての人に平和を!」と叫んだ。
これはいわばエドワーズの潜在意識のもやもやを吐き出したようなものであったが、このことがあってから発言はスムーズになり、彼の考えてもいないことば や思想が口をついて流れ出るようになった。こうした状態でエドワーズは、様々なヴィジョンが彼の眼前に展開するのを見るのであった。
こうしたことがあって、ハリー・エドワーズは、ある時期、所々のスピリチュアリスト・チャーチでいわゆる入神演説(トランス・スピーチ)をしていたことがある。
彼の霊的体験にとって決定的な役割を演じたのは、ジャック・ウェバーとの出会いであった。ロンドンの交霊会で知り合って以来、二人の親交は運命的なものとなり、眼に見えぬものの計らいによって、ジャック・ウェバーはエドワーズの隣家に移り住むことになった。
以来ハリー・エドワーズは二年にわたってジャック・ウェバーの交霊実験会の後援者となり、二〇〇回以上の交霊会を主宰した。その大部分は、エドワーズの自宅内で行なわれた。
ジャック・ウェバーは鉱夫出身の天恵的物理霊媒で、直接談話(ダイレクト・ヴォイス)、テーブル浮揚、物質化現象、物品引寄せ(アポーツ)、縄抜け等の 様々な心霊現象を現出せしめ、多くの著名人や研究者がこれを目撃している。これらの交霊会の模様は、後にエドワーズの著わした『ジャック・ウェバーの霊現 象』という著書に、貴重な写真と共に詳しく記録されている〔「世界心霊宝典」第四巻、近藤千雄訳、国書刊行会、一九八五年〕。
ジャック・ウェバーの指導霊ルービン(Reuben)は生前南アメリカで教師をしていたが、四〇歳を過ぎてから英国に渡り、そこで夭折したといわれる。 たいへん教養のある立派な指導霊で、医学的知識もあった。このルービンが、ウェバーを通してしばしばエドワーズの「重要な使命」を仄めかしていた。ジャッ ク・ウェバーの死後(本文参照)、このルービンの霊がエドワーズに憑(か)かるようになった。ウェバーの死後一週間ほどして、ウェバーの妻と話をしている エドワーズに、突然ルービンの霊がのり移って、ウェバーの妻の悲嘆を慰めたという。
ジャック・ウェバーの死後、エドワーズはウェバーを上まわる能力者であったといわれるアーノルド・クラルと出会い、数々の交霊実験を行なうが、後にこの 霊媒の交霊記録も『アーノルド・クラルの霊媒現象』という本にまとめて上梓している。あるとき、このアーノルド・クラルの交霊会で、多数の人の目撃する中 で、亡くなった友人ジャック・ウェバーの完全物質化した幽姿が出現し、エドワーズはこれをまぢかで子細に観察することができた。
こうした二度までの得がたい経験は、ハリー・エドワーズを確信的スピリチュアリストにしたてるのに極めて重要な役割を果たしたものと思われる。というよ りも、これらの経験は、彼がこの先四〇年余にわたる偉大な治療の使命を、何ものをも恐れず、断固として遂行するためには不可欠な予備体験であり、彼に霊的 世界についての確固たる認識を得させるべく与えられた、天与のものであったのではあるまいか。少なくとも彼は、こうした天恵霊媒との親密な交友と実験観察 を通して、霊界の優れた働き手たちと同調交流する技術と呼吸を体得すべく充分な時と機会を与えられたのである。
ハリー・エドワーズは治療の傍ら、一週間に一度、月曜日の夕方から一時間ほど、弟子のバートン夫妻と定期的交霊会を持っていた。これには後にレイ・ブラ ンチ夫妻も加わることになった。ルービンをはじめとする様々な指導霊たちが、完全な入神状態にあるエドワーズの口を通じて、治療中の患者たちについての問 題点や治療理論について語り、質問に答え、ユーモアを交えた討議にさえ応じた。ある時は、入神中のエドワーズの身体に椎間板変位の状態を故意につくり出し (これは正常な意識の状態では耐えがたい)、それを診断させ、またそれが治療によって元に復してゆく様を出席のものに実体験させたという。こうした交霊会 の記録はテープにとられ、ハリー・エドワーズの治療理論の土台となった。むろん交霊中のエドワーズには意識は全くなく、入神から覚めたエドワーズは、まず 「今夜はどんなことがテープにとれたかね?」と聞くのが常であったという。
ハリー・エドワーズの指導霊としてはルービンの他に防毒殺菌外科手術の完成者であるリスター卿、パスツール、ロシアの外科医メチニコフなどの治療霊や、 ローマ・カトリックの高位の聖職者であった霊などが知られている。これらの指導霊の存在は数人の霊媒によって交差的に確認され、有名な心霊画家(霊視した 霊の肖像画を描く画家)フランク・リー(Frank Leah)は霊眼に映るままにリスター卿とパスツールの像をエンピツ画で素描している。
なお、エドワーズの主要著作には以下のようなものがある。
Spirit Healing
The Healing Intelligence
The Power of Spiritual Healing
Thirty Years a Spiritual Healer
A Guide to the Understandings and Practice of Spiritual Healing
Life in Spirit
The Mediumship of Jack Webber〔「世界心霊宝典」第四巻、近藤千雄訳、国書刊行会、一九八五年〕
霊的治療とスピリチュアリズム

霊的治療などというと、こういった方面にこれまであまり関心のなかった人や、その可能性を考えてみたこともない人にとっては、極めて神秘的に見えるか、荒唐無稽なことのように思えるであろう。
しかし「治療」ということに関心を持たない人はいないであろうし、現代医学の行なう治療以外のやり方で、実際に多くの奇跡的な治癒が起こりうるならば、 いったいその理由が何であるかを知りたくない人はいないであろう。実のところ、どんな人でも自分が治療家でありたい願望を秘めているのである。
どの道でも、基礎知識や学習は必要である。まして、これまで未知であった領域の事柄であれば、それにふさわしい知識の習得に要する時間と労力を惜しん で、その領域の存在全体を否定したり、軽侮したりするべきではない。それは少なくとも人間的な態度ではないし、そのような態度によって人間や宇宙に対する 真に重要な観点が失われてしまうように思われる。
ルルドの聖癒や、最近騒がれた心霊手術やその他の神秘的治療家の話やそれにまつわる奇跡的治癒については、耳を塞いでいても飛びこんでくる情報が多い し、一方で、幼児期以来期待に胸を膨らませて、成長と共に失望を味わわされ、否定することを学習させられた魔法使いの物語が心の中にあり、両者の間で混交 が起こっている。期待と失望の繰り返しのうちで、多くの人々がそれらに対する否定と拒否の態度を選択したのであり、これは一応もっともなことであると思わ れる。しかしよく調べてみれば、幼児期に語られる物語や神話には、人間のアーキタイプについての、省略され、断片化された一面が表現されている。物語的光 彩を与えられた情報ではあるが、事実との少なからざる対応のある場合も多い。現代スピリチュアリズムと心霊研究についての基本的理解を持つならば、これら の世界についての新しい理性的な照明が与えられるはずである。
さて、不可能と思われる霊的治療も次のことを基礎知識として知り、前提として受け入れるならば、よほどその奇妙さの度合いを減ずるようである。
(1)霊魂および霊的世界が存在し、死後にも人間の個性は存続する。
(2)この世(現世)とあの世(霊界)は交渉可能で、両者は相互作用を営んでいる。
(3)霊魂はそれぞれ永遠に進歩向上する。
この三つは世界的に受け入れられているスピリチュアリズムの基本テーゼでもある。しかし、霊的治療について理解するためには、更に幾つかの事項を加えることが便宜であろう。
まず人間を単なる物質的肉体と見る考え方を改める必要がある。霊的な観点から見れば、入間の肉体には更に精妙な波動を持った霊的生命体が複合しており、 また肉体の心とは別に、霊的生命体を統合する心も存在する。この霊的な身体と心は、先に述べた霊的な世界およびそこの居住者たちと相互交渉を持っていると されるのである。
現代医学は、物質の観点から見た肉体を扱っているので、その限りにおいての有効性を持ってはいるが、当然のことながら、霊的な原因に対しては処置しえないのである。従って肉体の側から見た種々の処置困難な事例や不治の病が存在することになる。
しかしこれを霊的な世界から見れば、その処置がさほど困難でないものの範囲はずっと広がる。霊的な次元の処置と変化はやがて物質的次元にも現われるので、病者は肉体的にも治癒することになるのである。
スピリチュアリズムの基本認識の第三項で、魂の永遠の進化向上が信ぜられていると述べたが、ある段階以上の霊界居住者たちは、この世に在るわれわれより もはるかに高度の知性と活動力を備えていることが確認されている。これらの中でも、人間の身体の不調についての特別な知識と治療行為についての情熱を備え た霊人(それはしばしば生前において医師であった霊医であるとされる)が指導霊として実際に働くことによって難病が癒されるとするのである。
スピリュアリズムにおいては、霊的治療の概念ははっきりしている。治療を行なうのは人間でも神でもなく、また何かわからぬ宇宙の法則のようなものでもな い。治療を行なうのは、われわれの身・心・霊について、われわれ以上にはっきりとした知識と処方を備えた霊人(スピリット)が行なうとされているのであ る。神や仏が治療を行なうという立場に立てば信仰治療(フェイス・ヒーリング)になるので霊的治療とは一線を画すことになる。
ハリー・エドワーズの霊的治療が評判になりはじめた頃、英国国教会の枢要な人物がエドワーズに面会を求めて、彼の行なう治療が神によって行なわれる治療 であることを認めれば、英国国教会はあげてエドワーズを援助すると申し出たことがあった。当時はまだ英国においても霊的治療について抵抗や妨害の多い時期 であった。しかし、ハリー・エドワーズは、彼の治療のために多くの霊界人(例えばパスツールやリスター卿などの)が献身的に働いていることを如実に知って おり、ルルドなどの信仰によって行なわれる治癒が希な奇跡であるのに対して、霊人たちによって行なわれる治療は日常のことであり、その治療例の数量と効果 において、それをもはや奇跡と呼ぶことはできないと言って、この申し出を断ったのである。
ハリー・エドワーズもこの霊人たちの治療の淵源が神にあることを認めるのに吝かではないと言っている。しかし直接的には霊界における霊界人たちのたゆま ぬ努力の結果であることを、事実の認識としてハッキリさせなければならないと考えたのである。このことは、スピリチュアリズムの根幹にかかわる問題であっ て、ハリー・エドワーズの断固たる立場は彼の信念からすれば当然の帰結であろう。何故なら、ハリー・エドワーズこそ今世紀におけるスピリチュアリズム伝道 普及の最も重要な使徒の一人であったと考えられるからである。スピリチュアリズムの最大の目的は、人類のために霊魂の存在を証拠立て、人間それ自身がそも そも霊的な存在であることに気づかせることにあるとされる。また交霊を求めてくる高級霊たちは繰り返しその点を強調しているという。それ故、霊人の働きを ハッキリと宣揚しなければ、スピリチュアリズムの最も大事な点が失われるのであって、スピリチュアリズムの使徒であり旗手である彼が、地位や名誉を保証す る英国国教会の甘い誘いに乗るわけはなかったのである。
現代アメリカの最も有名な治療家であるオルガ・ウォーラルの場合を考えてみると、彼女はキリスト教メソジスト派の熱心な信者であるので、その治療は神に よって行なわれると建て前上は言っているが、彼女の言動を記録したものをみると、その実は明らかに霊的治療である。彼女もまた霊人の関与を明言しているか らである。従って信仰治療の立場に立つ人もその実態は霊的治療である場合が多いと知るべきであろう。
繰り返すが、肝心な点は、霊界や霊人がこの世の我々と同じく、いやそれ以上により本質的に、いきいきと実存する存在であることを示す点にある。近代スピ リチュアリズム勃興の初期においては、霊人たちはこれを専ら物理的心霊現象の惹起によって示そうとしたのであった。それは当時、あまりに唯物的傾向の深ま る人々の間では、物的証拠をもって霊界の存在を実証する必要があったためである。しかしこの証明法には、物理的心霊現象の生起する交霊会の条件が難しいこ とや、現象惹起のために低級精霊界を使役するという点の弊害も難点とされたようである。しかし、現代においてはそうではない、と世界的に有名な指導霊シル バー・バーチは言っている。現在この世に再生しつつある魂は、前の時代よりも、霊的な真理を受け入れ易い素地を持って生まれて来ているという(宝瓶宮時代 [アクエリアン・エイジ]の始まり)。従って証明の仕方も、より主観的な現象で充分な時代であるという。その中でも霊的治療が最も有効な働きをするであろ うと考えられており、さればこそ霊界はこぞってこの霊的治療の成就のために力を尽そうとしているというのである。これがスピリチュアリズムにおける霊的治 療の意味である。
霊的治療においては、病気の治療は第一の目的ではない。真の目的は霊的真実に眼を閉じた人々の眼を覚ませることにあるのであって、その点においてはスピ リチュアリズムの目的と同じである。というよりも霊的治療は、人類の霊的覚醒を目ざすスピリチュアリズム運動の強力な手段として、霊界において強く意識さ れているということである。
およそすべての病気には原因があるのであって、霊界次元からみれば、より高い次元への魂の進歩のためならば、人が病に苦しむこともあながち悪いことでは ない。翻って魂次元の向上が伴うならば、霊界からみて、いかなる病の消滅も可能であり、また自然でさえある。諸宗教の信仰に治病の伴うのはこのためであ り、そのためにこそ霊人たちは嬉々としてその治癒のために力を貸すのであると言われる。これに対し、たとえ肉体上の病気が表面上治ったとしても、患者の霊 的覚醒や魂の向上を伴わないのであるならば、その治療は失敗であったとされる。治療に手を貸した霊人たちに何の喜びもない。霊的治療による霊癒を受けた 人々が自らの霊性を自覚して、魂の成長を考える方向に世界観を修正できるきっかけを与えうるならば、治療霊はその目的を達したとされるのである。

人間存在の複合的構造

ハリー・エドワーズは複合した二つの身体、すなわち肉体と霊体と二つの心、すなわち〈肉体的な心〉と〈霊的な心〉を合わせて、全体で「総体としての自己」と表現している。第二章での彼の説明は理解し難いと思われるので少し敷術しておこう。
人間は肉体と霊体の複合から成っているが、ハリー・エドワーズによれば、その各々が〈肉体的な心〉〈霊的な心〉というように、それぞれの身体を統合する 「心」を持っている。この点はハリー・エドワーズ独自の説明であり、用語であると思われる。われわれが通常言う心とか現意識とかはこの両者の出合い、交錯 する場所のことで、その一部が意識化されているにすぎない。〈肉体的な心〉は物理的な感覚の受容と感知、快適さ、性的表現、有機体の方向、世俗的な知識の 収集と支配などにかかわっており、一方、〈霊的な心〉は生命の持つ高低の動機、理想主義や野心、感情、愛、憎しみ、寛大さ、卑しさなどにかかわっていると されている。こうした分析がどこまで正確なものかわからないが、ハリー・エドワーズ独自の分類法から見て、前者は専ら肉体に直接連動して動く心の働き、後 者は主として感情および情操として普通に表現される心の働きを指すものと思われる。とは言ってもここで表現されたのは、それらの心にかかわっているものと して抽出されたのであって、それによって〈肉体的な心〉と〈霊的な心〉のすべてが表現されたものと考えるべきではないであろう。つまり、〈霊的な心〉につ いては、われわれは通常あまりよく知っていないと言えるのである。
読者はここで、われわれの「思考」が二つの心のうちのいずれにも属していないことを奇異に思われるかもしれない。ハリー・エドワーズはこのことについて 述べていないので推測になるが、彼の分類に従えば、「思考」は両者の中間的なもの、ということになるであろう。現意識は二つの心の交錯する場所であるから である。またいわゆる「理性」は、この中間物である「思考」と〈霊的な心〉の中に認められる良き情操が結びついたものと理解することができよう。それはと もかくとして、〈霊的な心〉は〈肉体的な心〉の経験をその進歩のための糧としており、また、〈肉体的な心〉は〈霊的な心〉からの刺戟によって活動するとい うように、両者の相互作用が認められている。〈肉体的な心〉の刺戟を受けて〈霊的な心〉の発達を図るというところに、霊魂としてわれわれが、この世に生を 受けて現世での活動と経験を重ねなければならない理由があることを、ハリー・エドワーズは示唆しているようである。
もう一つハリー・エドワーズの独自な観点を示すものに〈身体知性〉の概念がある。〈身体知性〉はほとんど意諏化されることはない。〈肉体的な心〉よりも 更に肉体それ自身に結びついた、いわば半自動制禦機構のようなものであるらしい。しかしまた独自の判断と全体的作用を行なっているので、それを一つの「知 性」と呼ぶことができるというのがハリー・エドワーズの考え方である。この〈身体知性〉はたとえば肉体に外傷が生じた場合に、その場所に血小板をどのくら い供給し、また病原菌の侵入に対してどのように対応すべきかを迅速に決定する。この著書においては述べられてはいないが、腺組織などもこの〈身体知性〉と 結びついた下位の知的組織として考えられている(Harry Edwards, The Healing Intelligence, 1965)。
ハリー・エドワーズによれば、身体ばかりかわれわれの細胞も一つの知性を備えているとされる(細胞知性)。心が〈肉体的な心〉も〈霊的な心〉もそれぞれ 知性であるのは当然のこととして、完全に肉体から分離して存在する霊もまた一つの知性である。そうした場合の霊的知性(スピリット・インテリジェンス)と は、単に「霊」または「霊人」と言うのとはほとんど変わらない意味である。
〈身体知性〉は物質としての肉体に直接結びついた機構なので、これの不調や弱体化が病気の原因となるであろうことは容易に想像される。しかしこの〈身体 知性〉は半自動化しているのでひとたび不調を起こした場合には回復の手続きが厄介である。大部分の場合はこれも自動化されている回復機構の範囲内なので問 題ないのであろうが、その範囲を超えてしまった場合には困ったことになる。
われわれは通常、この〈身体知性〉を意識的に操作することはできないようになっている。表面意識はこの〈身体知性〉と連結していないからである。また逆 にそれが可能であれば、身体の機能が思考と連結しすぎるという不都合が生ずるであろう。この機構は表面意識からは独立していた方がよいのである。生命維持 の恒常的機能に対し表面意識がいちいち影響を与えているようでは具合がわるい。しかしこのことには、不調が生じた場合に意図的な修正ができないという欠点 も存する。
何かの理由によってこの〈身体知性〉の働きに重大な狂いが生じてしまったときに、これをもとの正常な状態に戻す方法はないであろうか。このような際に は、確実な方法ではないが、間接的な手段で目的を遂げることができる場合もある。これには表面意識を用いることができないので、潜在意識に働きかける方法 がとられる。催眠療法はこの手法を用いていると考えられる。また一部の民間療法や「まじない」もこの〈身体知性〉に間接的に働きかける方法として効果を持 つようである。これらは治癒を目的とするという意図のみを明確にして、その治癒にいたる手段としては、故意に、表面意識や合理的思量の働きようのない手段 を提示するのである。
しかしもっと確実な方法がある。それは、直接に〈身体知性〉に働きかけることができるとされる〈霊的な心〉を用いるか、または治療霊の「想念指令」に委ねる方法である。

〈霊的な心〉の活用

ハリー・エドワーズによれば、霊的治療の実施という面から考えると、〈霊的な心〉の活用ということが最も大事であり、また出発点にもなるとの考え方のよ うである。われわれが霊的治療というものを可能だと考えなかったのも無理はない。結局、われわれはこれまで霊体や〈霊的な心〉の用い方については何も知ら なかったわけである。というよりも、第一にそれらの存在すらも疑っていたというのが実情である。あると仮定すらしないものの活用を考えることは問題外だっ たのである。霊的治療の成功不成功は、われわれがこの〈霊的な心〉の用い方に成功するかどうかにかかっていると言ってもよいであろう。
霊的治療を行なうためには、まずこの〈霊的な心〉の使用法を習得しなければならないのは当然である。ハリー・エドワーズによれば、霊的治療を霊人(治療 指導霊)に依頼する際の情報の送受信に使われるのはこの〈霊的な心〉なのである。〈霊的な心〉が治療霊との同調状態を達成することによってはじめて、治療 内容が明確に伝えられ、また治療霊の想念指令を受信することができる。治療家は自分自身を受信の通路とすることによって、これを患者の〈霊的な心〉に伝 え、結果として治療霊の影響力を患者の肉体にまで及ぼす。治療家は想念指令のみではなく、必要なエネルギーの転送経路ともなるようである。このために治療 家は患者とも同調状態にならなければならない。必要なのは同調の技術であるが、どうすればこの同調状態を獲得できるかについては、本文の中から充分に汲み 取っていただきたい。と同時にかなりの実修的努力が必要であると考えられる。
一つ大事な点は、出発点となるわれわれの通常意識は、〈肉体的な心〉と〈霊的な心〉の交錯点であるが、どちらかと言えばこれは、肉体を用いることの方に 相当量の関心とエネルギーを割いていることである。そこで日常においては、当然のことながら、〈霊的な心〉の働く余地は少ない。古来、霊的な修行には肉体 的欲望の滅却を必要とすると言われており、このことが通俗的な倫理観と結びついて語られて来たようである。しかしその説明が本質を衝いていないために、妙 な力みに心がいってしまって、結局は〈肉体的な心〉の放却にならず、逆の効果になっている。本書をお読みになった人は、この点に対する理解をすすめられ、 〈霊的な心〉の活動する所以を深く知って、もっと自然に同調状態を達成するように工夫を重ねていただきたい。要は、〈肉体的な心〉を鎮めて、〈霊的な心〉 を浮かび上らせるまでのプロセスをどうするかという問題である。このことには他の霊的な修行への示唆も含まれているように思われる。
すべての宗教的儀礼や、民間信仰における呪的行為はこの〈霊的な心〉を浮上させ、活性化させるという目的に沿う場合においてのみ有効なのだと考えるべき であろう。感情作用は、西洋の合理主義的伝統の中では、しばしば無用の長物であるか悪しき影響力の源として語られているが、実のところそれは人間の心の全 体の中における一つの自然であり、重要な働きを担っている。霊的な情操も一つの感情状態であるが、心頭を滅却するからといって、この霊的情操状態までを放 擲してしまう必要は全くない。感情や情操は、霊的なものが互いに作用し同調する際の同調の帯域の質的決定に役立っており、また同調のための目印ともなって いる。霊的治療において基本的な「愛」の心の状態が必要とされるのは、こうした同調のための実際的必要からも要請されるのだと理解すべきである。憎悪や恐 怖などの悪しき感情状態もまた霊的な世界への一つの同調の役目を果たしており、それなりの霊を引きつける結果になっているのである。とすれば、治療に必要 な霊的情操がいかなるもので、それがいかなる役割を果たすかも自ら明らかであろう。宗教意識の研究の中で言われるヌミノーゼや回心(コンバージョン)の意 識状態はこれらの霊的な同調にプラスの働きをするようである。

霊的治療家の素質

霊的な世界と物質的な世界は一つの大きな全体的法則のもとにあるが、しかしまた他面、両者は異なった特性を備えた世界で、相互交渉を持つためには中間者 として媒体を必要としている。われわれ人間はすべてある度合いにおいてこの媒体であるが、その中に、霊的エネルギーを物質的エネルギーに変換するための極 めて有利な条件を具備した人々がいる。こうした一群の人を霊媒(Medium)と呼ぶが、治療に関して言うときは、「治療霊媒」(Healing Medium)と呼ぶ。このような先天的な素質を持った人々が存在し、これらの人々は、訓練と能力開発によって優秀な治療家となりうるということが理解さ れなくてはならない。
〈霊的な心〉が治療霊と同調する技術を開発できた人を治療家と呼ぶ、とハリー・エドワーズは定義している。大雑把に言ってそれでよいと思われるが、もう一歩踏み込んで、霊的治療を可能にする霊的素質者の問題に触れておきたい。
心霊現象の全般的な観察事例から、心霊現象が生起する場合に、その現象生起の媒体となり、エネルギー通過の通路ともなる霊的素質者(霊媒)の存在が必要 であることがわかっている。言い換えればそうしたチャンネルが存在しないと現象は生起しないのである。また物理的心霊現象においては、生理学者のシャル ル・リシェが名づけたエクトプラズムなる半物質が霊媒者からとり出され、これの持つ可塑的自在性が、現象の背後で大きな役割を果たしていることが繰り返し 確かめられてきたのである。
このことから、物理霊媒は、このエクトプラズムの基となる生命原質を多量に蓄えており、またこれを肉体から分離して体外にとり出し易い性質を持っている ものと推理される。通常人もこの生命原質を体内に持ってはいるが、量的に少ないか、体外に出し難い状態にあると考えられる。そして、これを一定量以上体外 に放出すると死に至るとも言われている。
霊界の存在者は、霊媒の持つこのエクトプラズム原質に眼をつけてこれを体外に引き出し、意のままに使用する。(この時、この生命原質に他の未知の霊的物 質を加えると言われている。元工業技術院長で心霊研究者の後藤以紀博士はこれを霊界における「酵素」のようなものではないかと想像されている。つまり体内 にある状態のままでエクトプラズムとよぶのは適当ではないようである。)従って物理的心霊現象を生起させるためにはこのエクトプラズムの存在が欠かせない ことになる。
が、一方で、この生命原質の多量な保持者である霊媒者は危険にも晒される。なぜなら、この生命原質を使用してこの世と接触を持とうと希望する霊界居住者 は、必ずしも高い知性を持った霊や善き霊ばかりではないからである。むしろその逆であることが多い。通常管理された交霊会で接触を持ってくる霊は善き意図 のもとに管理されているが、そうでない場合には、幽霊屋敷やその他の芳しからざる現象や不祥事の発生と結びつき易い。異常物理現象の生起は、異常な病変の 起こり易い原因でもありうる。インドの聖典バガバッド・ギーターに、一般の人がこの生命原質を漏らさないように、またみだりに霊媒者とならないように警告 しているのはこのためであろう。
しかし一方、こうした霊的素質者が高い霊界からの段階的な統制を受けて、霊魂実在の実証のための大きな仕事をなしうるのも事実である。また霊的治療も心 霊手術の領域になるとこのような種類の素質者を必要とすることは確かであろう。なぜなら心霊手術は物理的な心霊現象の意味合いが強いからである。厳密に言 えば、霊的治療と心霊手術は異なったものである。
エクトプラズムの供給者は霊界からの完全コントロールを受け易く、その分入神状態にも入り易いと思われるが、ハリー・エドワーズは、霊的治療においては入神状態は必要ではないと言っている。
同じ霊的治療でも、ハリー・エドワーズやM・H・テスターのように白日夢的半意識の中で行なうものと、ジョージ・チャップマンのように完全な入神状態で 人格転換を起こして行なうものとがある。チャップマンの場合は、施療中は霊界人たるラングが彼の身体を支配している。チャップマン自身は何の意識も持た ず、治療を終えても何をしたか覚えていない。ブラジルのアリゴの場合もそうであった。
このような特例ではなくても、霊的エネルギーを肉体を構成する物質エネルギーの次元にまで変換して伝えるのに適切な媒体、つまり霊的物質的な中間系路を 持った素質者が必要であると思われる。こうした素質者は「生まれつきの治療家」(Born Healer)と呼ばれるのである。しかしながらこのような素質を持っていても肝心の治療霊が関与していなければ何もならない。また治療霊がその人格と霊 性を認めて接触を求めてくるような素質者でなくてはだめなのである。こうした両者からの幸福な出会いが優れた治療家を生むのであろう。

霊的治療における治療者の役割

言い古されたことではあるが、治療者は霊人の媒体となりパイプ役となるにすぎないとされる。しかし問題はそれだけに終わらないはずである。なぜ媒体やパ イプ役がいなければ治療が行なわれないか、という疑問が残る。霊人は直接患者を治療することができないかという問題である。
一つは、治療者が単なるパイプ役となるばかりではなく、霊的エネルギーの変換媒体ともなることである。霊界次元のエネルギーが、直接この世の力とならず に、幾つかの中継点(霊)を媒介としてこの世のエネルギーに転換されることは、これまでの物理的心霊現象の研究でわかっている。霊人は霊界のエネルギーを 集めて患者に注ぎこむが、このエネルギーは、治療者を通してこの世のエネルギーに変換させる必要がある。治療者は一方において霊界次元の高いエネルギーを 把握し、一方において患者の身体へ低い波動として変換転送する。従って治療者は高低の両端に接触点を持った存在なのである。この場合、患者の生命力は、治 療者によってエネルギーを送り込まれただけでも賦活する。
しかし、霊的治療の真骨頂は、単なるエネルギーの送流入だけではなく、霊人が患者のどこのどの部分にどのような処置を加えればよいか、よく知って、それ にふさわしい治療を行なうことにある(治療家自身はそれについて知らない)。つまりそれは盲目の接触ではなく、具体的、知的行為であるとされるのである。 ということはとりも直さず、高度の知性を備えた霊界人が関与することを意味する。これらの霊人は人智を遙かに上まわる知識と手段を駆使して治療に当ってい るという。オルガ・ウォーラルは、霊人たちは物質を構成する極微粒子の配列をも変えると言っているし、ハリー・エドワーズもまた、治療霊は癌や腫瘍の除去 に当っては、物質の原子構造を破壊する様々の放射エネルギーを使用すると述べている。
治療者のもう一つの役目は、明らかに“霊的治療の方向づけと焦点作用”である。治療霊といえども無制限に誰でも治すわけではなく、またその権能も与えら れていないようだ。この点にしばしば現界人の一方的な思いこみと誤解が存在する。治療霊ならば勝手に病人を見つけて治療するだろうとか察しがつくだろうと 思いこむのである。しかしながら、治療霊は原則として現界人の要請(ないし祈願)によって活動を開始する。そこでは治療者の要請と選択が方向性として働く らしい。もっと言えば治療者の〈霊的な心〉が方向づけの媒体として用いられるのである。治療者からの患者についての情報も大切である。それ故に治療依頼は 霊界に対して明確に印象づけられなくてはならないのである。

霊的治療と心霊外科

こうした霊人の関与は、治療者に対する波動的影響にとどまるものと、治療者の肉体そのものへの人格的融合にまで至るものと二通りある。後者の場合は、心 霊手術とか心霊外科と呼ばれる領域に見られるもので、治療する者が治療家それ自身ではないことが如実に現われている。治療霊は治療者の身体を借りて、治療 者と一体となり、直接に患者の肉体を処置する。
霊的治療においては、霊人が治療家の〈霊的な心〉に同調することによって、その影響力を患者の身・心・霊に及ぼすのに対して、心霊外科においては、霊人が完全に治療家の身体を支配し、物質的な次元で患者の肉体そのものを処置している。
人間の身体は霊的な世界から物質的な世界に至るまでの幾つかの次元とエネルギー体を重ねた存在であり、霊的な世界の存在者がこの世と接触を持とうとする 場合の通路となっていると考えられる。この場合、人体そのものが霊界からこの世への通路であり、一方の出口でもある。つまりこの広大な宇宙の中にあって、 人間存在は不可視の霊的世界と感覚の対象である物質的世界を結びつける情報とエネルギーの交換経路であると考えられている。
霊人は波動を落として人間の霊体に接触し、更に波動をおし下げて肉体次元にまで下降する。その間人体に複合する様々な波動が下降のための中継点となるのである。人間存在の複雑な成り立ちが、霊的世界と物質世界の交渉を成立させる場となることを可能にしている。
更に言えば、右のことは人間以外の動物であれ、植物であれ、この世の「生命」を含む存在がすべて、何らかの意味において、こうしたエネルギー変換の媒体となっている可能性を示唆するものである。
肉体の次元まで下向すると、霊人はそのエネルギー体に自分自身を融合させて、それをあたかも自分自身の身体であるかのように使用することができる。一方 この身体を使用させる側の人は、この間、自己の意識の焦点ないし霊体を、一時的に自分の肉体から分離しておける特能を備えている。こうした自然的傾向を持 つ人を「入神霊媒」(トランス・ミーディアム)と呼ぶのである。こうして霊媒の身体を占有した霊人の言動が、霊媒者とは異なる知能と人格を備えたものであ ることは心霊研究史上あまりにも度々観察されている。治療霊はこうした状態で半ば霊的、半ば物質的な治療処置を施すものらしい。
このような完全な人格転換を伴って行なわれる心霊手術の典型例がブラジルのアリゴの場合であった(アリゴは一九七一年に自動車事故で亡くなった)。心霊 手術のとき、アリゴは彼の生まれる三年前にこの世を去ったドイツ人医師アドルフ・フリッツ博士として振る舞った。アリゴ自身は小学校に三年間通っただけの 無教育な男であったが、人格転換を起こすと、見学中の医師らとドイツ語なまりの医学用語で話し合うことができた。アリゴを調査したプハーリッチ博士による と、アリゴの診断した患者数百例について調べたところ、その九五パーセントの診断が正確であったという。アリゴの用いた手術用具といえば、何本かのキッチ ン・ナイフと錆びた爪切り挾みである(Guy Playfair, The Flying Cow, 1975)。
ブラジルの著名な外科医レックス博士がアリゴの調査を行なったとき、アリゴは博士の見ている前で患者の眼窩に一本のナイフを突き立て、暫くそのナイフか ら手を離してブラブラしたままにしておいた。それから眼球を抉り出して、よそ見をしながらその眼球をつっつきまわしていたが、アリゴ自身は自分のやってい ることに何の興味も持てないというような様子に見えたという。しかしながらアリゴの手術のスピードは最も熟練した外科医の何倍も早く、レックス博士の見て いる一時間の間におよそ八件の手術をこなした。
こうしたアリゴの手術の目撃談は、実際の施術者がアリゴではないということで説明がつく。また、アリゴとは別のブラジルの心霊外科医マリアの場合には、手術中しっかりと眼を閉じていたことが医師によって観察されている。
アリゴの身体を占有したこのフリッツ博士の言うところによると、人体には生命磁場(バイオ・マグネティック・フィールド=BMF)ともいうべき不可視の 流動体があって全身を充たしており、心霊手術のときに霊的手段によってこれを除去してしまうと、その部分に人体の他の部分との有機的な関連がなくなり、非 定形で無機的な物質だけが残るので、それを処置することはいとも容易であるという(それはあたかも冷凍食品や粘土細工を扱うようなものであろう)。術後に もう一度この生命磁場を流しこんでやると人体組織は元の有機体となる。ブラジルの心霊研究所として有名なIBPPの所長のH・G・アンドラーデは、アリゴ その他の心霊手術を観察調査した結果、「生命有機化モデル(BOM)仮説」なるものをたてた。この人体を有機化する範型が働く限り、損傷したり、病変を起 こしたり、破壊されたりした組織体は元通りに復元しうるとされるのである。問題はいかにしてこのBOMと交渉を持ち、これを活動化せしめるかという点にあ るであろう。
これまで心霊研究に多少の時間を当てた人は、前述のBMFやBOMの概念が、エクトプラズムの原料となる生命原質やエーテル体の概念と対比されうること に気づかれたことであろう。心霊手術に関して提示されるこのような概念や仮説が現代科学によってどのように受け取られまた検証されるのかは将来の問題とし てひとまず置き、ここでは神秘不可思議とのみ思われる心霊手術の領域においても、不充分ながら右のような理論化が行なわれつつあることを示しうれば当面の 目的を達するのである。
英国にも入神状態で人格転換を起こした状態で治療する治療家がおり、ジョージ・チャップマンはその代表例である。チャップマンは消防夫であったが、ラン グという亡くなった眼科医がチャップマンの身体を借りて治療を行なうようになったとされ、その治療は実際に非常な効果をあげている(George Chapman and Roy Stemman, Surgeon from Another World, 1978)。ウィリアム・ラングを名乗るチャップマンの指導霊にインタビューを試みたバーナード・ハットンの記するところによれば、彼は生前、英国の王立 医学会の眼科分科会長を務めたこともある医師であったということであるが、その語る経歴は実際の諸記録とも一致し、また生前にラング医師を知る患者や同僚 医師によって同一人であることが確かめられもした(J. Bernard Hutton, Healing Hands, 1966)。
治療中のチャップマンはラング医師そのものとして振る舞うが、ブラジルやフィリピンの心霊手術の場合のように、現実の手術用具を用いたり、実際に人体を 傷つけたりすることはなく、治療は完全に霊的次元で行なわれる。しかし施療中のチャップマンの治療動作は、見えない世界で行なわれている医師の動きをその まま現わしているように見える。
こうした入神による治療形態は、ハリー・エドワーズなどの行なう一般的な霊的治療とアリゴなどの心霊外科の場合との中間状態にあるもののようである。し かし、治癒するという観点から見れば外観的形態はどうでもよいことなのではなかろうか。現実の肉体を切り開くという方が、それを目撃する人に与える衝撃や 物質的観点にこだわる人々への説得力は大きいと言えるが、霊的手段によって治るという見地からの効果は等価である。患者に一指も触れることなく(遠隔治療 の場合)、あらゆる種類の病気に対し治療効果をあげうるハリー・エドワーズのような例が存在するからである。そうした霊的治療が主観的な印象を与えるとし ても、知的推論によって、霊魂の存在や霊的現実を納得できる段階にまで達した魂にとってはそれで充分である。ハリー・エドワーズが霊的治療の目的について 述べたことを繰り返し味読していただきたい。その目的とするところは心霊外科の揚合も同じである(R. V. Tajon, Exponent of Spiritual Therapy, 1975: Manila, Philippines)。
霊的治療は同じスピリチュアリズムの中でもアングロ・アメリカン系のスピリチュアリズムの流れの中で発展し、心霊外科の方はラテン系のスピリティズム (フランスのアラン・カルデックの創始になるスピリチュアリズムの一派でキリスト教的宗教色が強く、また再生を重視する)の流れの中に強く発現してきたこ とに注意が払われるべきである。アリゴその他のブラジルの心霊外科医の多くがスピリティストの団体とかかわりを持っているのと同様にフィリピンの心霊外科 医たちも同国のスピリティストの団体と運動の中から生まれてきた。フィリピンにおいては一九〇三年にグロリア・アルヴィアールがはじめてスピリティストの 団体を同地に設け、その後継者にエレウテリオ・テルテという優れた心霊外科医を輩出した。有名なトニー・アグパオアはその訓育を受けたものであると言われ ている(前掲書)。
右の事実によって現代の驚異と言われる霊的治療や心霊外科が共にスピリチュアリズムの運動の発展と不可分の関係にあることを読者は了解されたであろう。 その目的とするところが同じであり、その出発点が一九世紀中葉(有名なハイズヴィルの事件は一八四八年)を源とする人類霊化の一大運動にあり、その主導権 がおそらくは霊界の側にあるであろうことも……。
なお付け加えて考察することがあるとすれば、心霊外科の領域はスピリティズムの普及圏に見られるということとおなじく、それらの国々が今なおシャーマニ ズムの気配を色濃く残している国々でもあるという事実についてである。これらの国々で心霊手術という外観的なものが強調される理由が何か見出されるであろ うか。そのことの説明としては、これらの国の人々の心性が、かつて欧米においても物理的な心霊現象が主流となった時期と同じく、霊的ではあっても、未だよ り強く物質的なものに基盤を置いているということのほかに、歴史的、風土的な事情から、これらの国の人々の持つ生命原質や生命磁場が、霊界から見て操作し 易い段階にあるということが考えられるのである。
右のような事情を別とすれば、霊的手段による治療が、時としていかにも衝撃的な外観を伴って行なわれる理由としては、それを見る人々に与える効果が意図 されていると考えられるのである。これは超常的な事柄が霊界によって意図的に引き起こされる場合一般と共通なのであって、その目的は、われわれ人間に物質 以外の世界の存在を知らせ、これに眼を開かせることにあるとされる。従って超常的物理現象の生起は、あまりにも物質そのものに基盤を置きすぎる人々の意識 の変革のためには福音であろう。そのような人々はこうした現象を徹底的に究明するか、それを目撃する機会を掴むべきである。しかしそれと同時に、こうした 手段による啓発は、それを目撃しない多くの人々を相変らずの不信の伏態にとどまらせるだろうし、かと言って、超常現象の頻出という事態そのものがそもそも 言語矛盾的ですらあって、それを恒常化することは自然の全体法則のバランスを崩すことになるという点についても、何がしか哲学的推考に耽る時間を持たれる ことが望ましい。一〇〇余年に亘る近代心霊研究の歴史は、まさにこうした企図と反芻の歩みの中にあった。

病気と憑霊

一般に、西洋のスピリチュアリストたちの中に、憑霊を病気の原因であるとする者はほとんどいない。ただし病気の中でも唯一の例外は「精神病」ないし「ノイローゼ」で、これの原因を憑霊とする例はあり、また除霊も有効であるとされている(G・カミンズ『人間個性を超えて』〔梅原伸太郎訳、TSLホームページ所収〕、及びカール・A・ウィックランド『迷える霊との対話――精神病を除霊で治した医師の30年』〔近藤千雄訳、ハート出版〕を 参照)。これに対して目本の霊能者には憑霊を病気の原因とみる者が多く、よく調べてみないと分からないが、シャーマニズムとの関係で、この傾向は東洋の広 い領域に流布しているのではないかとも思われる。今彼我の見解のいずれが、どの程度に正しいと俄かに結論を出すことはできない。
日本にはもともと「祟る」という考え方が古くからあり、また、加持祈祷師たちは、多く病の原因を先祖の因縁や憑依であるとして説いて来た伝統がある。 従って霊能者が、自分自身の客観的な調査能力をもって病気の原因を調べる以前に、「病気の原因は霊」という観念が先にあることは確かである。このような観 念が事実以上に病気の原因を憑霊とする傾向を生むことは否定しえない。霊視の不充分な場合には病者の傍らに見えた霊姿をすべて原因と結びつけて解釈してし まうかもしれない。しかしその霊姿の出現の理由が、病者に対する霊の側の「心配」やその他の理由によるものであったかもしれないのである。
また一方、憑霊は病気の原因でないと言い切ってしまうことにも無理がある。何故ならば、西洋のスピリチュアリズムにおいても、我々現世の側の人間が、よ き霊たちの影響や導きを受けるということや、地縛霊のような低級霊の悪しき影響を受けることを積極的に認めているからである。それならば、病の観念を持つ 霊の障りを受けないということは言いえないであろうから。しかるに西洋のスピリチュアリストたちがこれを言わないのはどうしたことであろうか。
これは一つに、元来そういう観点がないのでそこに原因を追求しないという死角が生じたのだとも考えられる。同じことは「カルマ」という観念に対しても起 きたことである。最初西洋のスピリチュアリストたちは、ほとんどこの「カルマ」という東洋の観念を受け入れることができなかったが、今ではかなり受け入れ られている。しかしそれとても段階があるようである。
実は、オーストラリアの霊能者ビル・ローワン氏が日本心霊科学協会を訪れたとき、協会の側のメンバーとの間で論争になりかけたのもこの点であった。ロー ワン氏は前世のカルマが影響を及ぼすということは認めたのであるが、「先祖のカルマ」という観念になると認めることができなかった。しかるに善き先祖が指 導霊として子孫の者に善き影響を与えるという可能性は認めたのである。しからば悪しき先祖の霊は悪しき影響を子孫に及ぼすのではないかという論理的反問に は詰まってしまったのである。この点を追求しようとしかけて、その時私の脳裡にキラリと閃くものがあった。私は追求をやめたのである。
見るからに醇朴篤実そうなローワン氏は、善き霊の指導に従って、善き霊の影響のみを語って世界にスピリチュアリズム普及の旅をしているのである。そこで 日本の心霊科学協会という所に辿りついたとき、悪しき先祖霊の悪しき影響について、今まで思いもよらなかった鋭い追求を受けることになった。この協会の 人々の関心はいったいどこにあるのだろうか、とビル・ローワン氏は思わないであろうか。少なくともそうした霊界の暗黒面を説く教説は光明と希望を語る彼等 の仲間うちではかつてなかったことなのだ。そこで私は、西洋のスピリチュアリズムが白魔術の系統の中にあるのだということを強く感じ取らざるをえなかっ た。悪しき祖霊の影響を強調することは、黒魔術の観点を呼び醒ますことになろう。白魔術は霊的影響の光明面を強調することにその特色があるのである。
日本でも心霊主義を先祖の因縁や祟りを説く、おどろおどろしい陰気な信仰だと考えて嫌悪する人が多い。シルバー・バーチは、病気の原因を肉体・心・霊の 不調和に起因すると言っている(この考え方は西洋の霊的治療家たちに大概共通)のであり、その不調和の原因を更に遡って、憑霊が関与しないとまでは言って いないのである。それは言わぬが花としているのかもしれない。何故ならこれらの不調和な霊を引きつけるのも、畢竟は現世における我々の行と心であるからで ある。我々はまず己の行と心を改むべきである。霊的治療家は病者の不調和を癒すと共に、名指さずとも黙って、高級霊の加護によって、そこに依り来る霊の不 調和を癒しているとも考えられるのである。
スピリチュアリズムにおいては、霊的世界の理論と体系をあますところなく説き明かす(それらは神智学の領域)のではなく、また法や術の実際を説く(それ らはオカルティズムの領域)のでもなく、人類一般に不可欠な知識として、人間が本来霊的な存在であること、霊性を開発して魂の進化向上に努めるべきことを 自得せしめればそれで目的を達するのである。従って霊的実存の光明面に焦点をあてて人類を督励すればそれで足りるともいえる。
しかしあくまでも霊学的争論(あげつらい)をするというのであれば、それはいずれ世界のスピリチュアリストの集まるISF会議などの場で、彼我の霊能者による客観的徹底的追求によって結論を求めるべき問題であるといえよう。

スピリチュアリズムにおける西欧と東洋

スピリチュアリズムは、科学、哲学、宗教の三側面を持つといわれるが、右に述べた観点からすれば、やはり思想的認識的側面が強いといえる。もし霊の憑霊 的側面を強調して、除霊や日本でいう供養を専らにするようになれば、それは西洋的概念から言えば、実践的オカルティズムの領域に踏み込んでしまう。善良な 一般市民の常識としてのスピリチュアリズムは、そこまで踏み込まずに解決できる哲学と手段を示さなくてはならないであろう。
身・心・霊の不調和が病気の直接原因であることは、目本の霊能者といえども認めざるをえないところであろう。しかし、原因の原因を考えるとき、現世の側 の原因と霊界(幽界)の側の原因が考えられ、その場合、西洋のスピリチュアリストたちは、霊界の側の原因を強調しない(神経症や精神病以外は)という言い 方が正確なのであろう。
日本における「心霊」が西洋の考え方からすれば、多分にオカルティズムの領域に入っていることを指摘しなければなるまい。西洋のスピリチュアリストとし ての霊能者たちは、専ら死後生存の証明を示すという点に活動の最大の焦点を置いている。しかも治療の面は専門家を持っている。死者の魂の救済はもともとキ リスト教の領分であり、それには彼らも別段反対ではない。ところが日本における霊能者は、加持祈祷者の伝統のためか、このすべて(霊査、治療、除霊、死者 供養)を要求され、これに応えるのが霊能者とされているのである。
同じスピリチュアリズムでも、私の見るところでは、フランスのアラン・カルデックによって始められたスピリティズムの方は、宗教的、実践霊学的観点が強く、やや日本の「心霊」理解に近い。その活動の中心が南米に移ってから、土地柄かますますその趣を強くしているようだ。
日本人である我々が、先祖供養を強調する問題なども、西洋のスピリチュアリストの常識と違ってくるのはやむをえまい。西洋では横型の類魂同朋主義が強調 せられ、我々は縦型である。時として同朋の苦しみを我が苦しみとして代受苦することが西洋の愛であるならば、先祖や子孫の苦しみを己が苦しみとして代受苦 を率先して行なうのが東洋の愛である。そうした霊的連結の観念が顕幽に渡って定着している。われわれが今、東洋に生まれるというカルマを、自ら選択したと いうことが霊的真実ならば、暫く祖先の祭りを行なって東洋のまねびをすることも、今生においては大いに善いことではあるまいか。

日本における霊的治療と今後の展開

日本における伝統的霊治療の代表格である加持祈祷においては、行者霊などが自然霊の持つエネルギーを借用して(ときには使役して)行なう場合が多いので はなかろうか。かれらが人体の組織について詳しい知識などを持つわけがないから、大方はエネルギーを流用するだけの。パワー治療であって、そのためにその 治療形態は、霊治療でありながら、念力的力みを伴うのである。わが国において明治の末年ごろから盛んになった様々な霊術家たちの霊治療も概ねこの類いで あって、宇宙力や宇宙生命の直接利用という観点をセオライズしているから、ハリー・エドワーズの言う「磁気治療」(ないし「宇宙力治療」)に当たると考え られる。
スピリチュアリズムにおける霊的治療の特色は、神霊ないし宇宙力と治療家の間に仲介者としての霊人の積極関与を認める点にあることは前にも述べた。その 仲介者自身が個性ある知的主体である。神界次元の高級神霊の直接関与のある場合が絶無であるとは言えないかもしれない。しかし、あまりにも高級な神霊は、 元来一個人の病気の治癒などということに関心を持たないとされるので、人間はそれぞれのカルマの法則に従って自己学習を重ねればよいことになっている。高 級神霊が関与するとすれば、それは何らかの特別な意図がある場合でなければならない。ハリー・エドワーズの言う人類の危機の時代は、こうした特別の意図を 喚起する状況なのであるかもしれない。しかしスピリチュアリズムの常識に従えば、そうした場合でも高級神霊の人間への関与は間接的であって、かつては天使 や菩薩などと表現されていた高級人霊の仲介的系列が存在するとみなされるのである。
さて、ブラジルの驚異的心霊手術者であったアリゴや、フィリピンのトニーほかの治療家たちが、スピリチュアリズムの一形態であるスピリティズムの諸団体 に所属する人々であったことは、これまであまり知られていなかった。ハリー・エドワーズを初めとする欧米の著名な治療家たちのほとんどすべてが――例外は あるとしても――スピリチュアリズムの実践的な奉仕活動の中から生まれてきているのはまぎれもない事実である。霊的治療や心霊外科がまさに世界的規模で浸 透普及しつつあることを、たんなる偶然として看過すべきではない。今世紀に入って、従来の信仰治療の枠組を超えて、夥しい霊的治療の成功例が報告されるよ うになったこと、それらがスピリチュアリズムの世界史的流れの中で生起していることを銘記すべきである。この傾向はこれからますます強まるものと思われ る。何故ならば、それが現代の物質文明の危機と行き詰まりを打開するための霊界の意図であり基本戦略であることを、信頼すべき指導霊たちがそれぞれに伝え ているからである、とスピリチュアリストはしている。
霊的治療は、スピリチュアリズム普及のための先導役とも動輪ともなるものとされているようである。その霊的治療がわが国では未だ充分な展開を見せないで いるのは時が至らぬためであろうか。わが国では欧米におけるようなキリスト教の支配的な締めつけがないために、霊的治療は信仰治療の仮面のもとに既に充分 に羽根を伸ばしてその成果を満喫しているのであろうか。
霊的治療は治療霊と治療家の交互作用によって進歩する。ハリー・エドワーズも言っているように、ここ数十年欧米においては、霊的治療が目ざましい進歩を 遂げたのである。それはこの世の側の治療家が霊界の意図をはっきりと受け取ってそれに協力すべく態勢を整えたからであった。治療霊の治療技術や治療可能な 領域が。治療家の積極的な対応によって拡大されるという観点が導入されてもいいようだ。
これまで行なわれてきたわが国の霊的治療といわれるもののほとんどは、従来の信仰治療の概念か呪術の範喘に含まれるべきものである。人間の病を霊魂の観 点から治療する方法は自然のものであって、あらゆる民族と時代に普遍的に存在する。まさしくそのような手段によって人間の病は癒されうると考えられる。実 際には人霊の関与があっても、われわれの先祖たちは、眼に見えぬ優れた働き手たちを、それぞれに神とか仏菩薩とか呼んでいたのである。この事情はどこの国 のどの時代においても大同小異であったであろう。
こうした傾向は、人間を自分以外のより大きな存在に対する信頼へと誘導するという観点から見れば、格別の誤りがあったとも思われない。しかしながらそれ がある特定の集団の利益や偏見を導く信仰内容と結びつけられがちなことを考えると、決して利益ばかりがあったわけではない。現代に生きる新興宗教がおしな べて神仏による治療を売りものにしていることは、実際には霊的治療と異ならぬプロセスが働いて治癒が起こる場合が多いのであろうし、一人でも多くの人が苦 患から救われるという見地から見れば結構なことであろう。しかしながら同時にそれは、ともすれば信者を普遍性を欠く狭い信仰の範囲に閉じ込めてしまい、あ まりにも非合理的な前時代的思考の中に退行させてしまう危険がありはしないだろうか。自分自身だけの特殊な呪術を売る行者が、他を罵倒しつつ己への信従を 要求するように、特定の集団への帰依を強制しすぎないだろうか。また明らかに迷信にすぎないと思われる知識や二流の能力者たちが考え出した思いつきのセオ リーのようなものが、絶対的なものとして信じられてはいないだろうか。スピリチュアリズムの持つ理性的な側面の洗礼に浴していない霊能力者の中には、個人 的な狭い体験を基として妄想的な理論を展開したり、また何らの合理的基準もなしに因縁の恐怖や人の怨念のみを強調している人も見受けられるようである。こ うした人々は、人類のための普遍的な霊的知識の一部を切り取って、自分自身と特定の集団にのみ人々の注意を引きつけ、それによって何がしかの利益を得よう としていると非難されないだろうか。
わが国でも近年治療信仰が盛んになっていることは、あるいはこれが人類霊化のための世界的脈動とどこかで符節を合わせる動きであるのかもしれない。なぜならば人類の霊化が達せられるためには、諸宗教も再びその霊的源泉に帰って霊化しなければならないからである。
信仰治療から霊的治療への移行形態にあると思われるものを見てみると、わが国においては次のような例がある。
戦前において霊治療の特異傑出したものとして、九州長州(ながす)の「生き神様」と言われた松下松蔵氏の例がある。一見何の変哲もないお百姓さんであっ たが難病奇病を笏の一振りで瞬時に治癒せしめる力があった。結核、癌、ハンセン氏病も例外ではなく、全国から治療を求める人が長州腹赤村のこのお百姓さん の家へと蝟集した。国鉄長州駅に汽車がとまると、「神様行き」と行き先の書かれたバスが三台列になって出発したという。この人のことは九州毎日新聞の社主 であった澤井元善という人が三年ほどこの松下氏にかかりきりになって『神人松下先生』という本を著している。
この松下松蔵氏は、あるとき(四〇過ぎて)神前で神拝中一升ほどの血を吐いて以来治病能力を得たという。特定の信仰を強制するわけではなかったが、敬神崇祖と親孝行だけをすすめた。まず霊視して、親孝行でないとわかると治療しなかったといわれる。
戦後発足した「千鳥会」という会は、塩谷信男博士という東京帝大医学部出身の医師によって主宰され、「まなて」とよぶ独自の治療法を施した。この治療形 態は信仰治療に近いものを残しているが実態は霊的治療であったと思われる。日本のスピリチュアリズムの独自な発展の中に位置づけられ、スピリチュアリス ティックな認識の高さで他を圧している(聖徳太子にゆかりのある霊団が働いたといわれる)。
霊的治療は日本においては未だ本格的な普及の緒についていない。その最も大きな理由の一つは、スピリチュアリズムの基本的理念が、これを推進させようと する人々のグループにおいてさえ、未だしっかりと根を下ろしていないために、これを人類的規模で展開しようとする霊界の意図と結びつかないためであると考 えられる。従って霊的治療を行なおうとする人の観点が、従来の信仰治療ないし霊術家の霊術的段階を脱しえていない。その結果、現在見られる治療の小規模な 成功例は、個人の背後霊のカルマの発動の範囲であり、治癒はたかだかその陰徳の発露でしかないもののようである。残念なことに、わが国における霊治療の実 態は未だに「治癒」を奇跡の領分にとどめているのである。
いずれにしてもハリー・エドワーズの霊的治療における理論と実践は、こうしたわが国の霊的治療家のあり方にも今後大きな影響を与えていくことは間違いの ないことであると思われる。現在、霊的治療の最も盛んな英国には「英国霊的治療家連盟」(NFSH)という権威ある統合組織が存在し、霊的治療は英国の至 るところで行なわれている。「NFSH」には数千人の治療家が登録されており、法改正や英国医師会との交渉に団体交渉力を発揮するまでになっている。治療 家たちは病院を訪問する権利を獲得し、かれらの基本的立場は「慈善法」(チャリティ・アクト)という法律によっても是認されるのである。このことは大戦後 のつい先頃まで、現実に中世以来の「魔女法」(ウィッチクラフト・アクト)なるものが存在し、実際にそれの違反に問われる者があったことを考えれば隔世の 感がある。
このことにはハリー・エドワーズやジョージ・チャップマンの他にも、エドワード・フリッカーやゴードン・ターナー、M・H・テスターその他の真に驚異的 な能力者が相次いで輩出したことも力あったに相違ない。現在では英国国教会の牧師の中にも霊的治療にまじめに取り組むグループができている。伝えられると ころによると、英国医師会の会長を務めたこともあるチャールズ皇太子は、昨年(一九八三年)七月の「ブリストル癌救助センター」の開所式で、霊的治療家と 医師の協力をよびかける演説を行なった。また英国医師会の年次大会にも、これらの領域に対する医師のオープン・マインドを要求する書簡を寄せた。これに対 し数ヵ月後、英国医師会は二年間の本格的調査を実施する約束をしたということである。これらのことは英国において霊的治療家たちがいかに成果をあげ実際に 受け入れられているかを示している。また同時にこの百数十年の間、スピリチュアリズムと心霊研究の分野において、英国がたえず世界の先頭を切って進む国で あったことを思えばこの結果も充分に首肯される。
人間存在の本質に関する見方に根本的な変革が訪れて、人間が自分自身に嵌めた鉄の鋳型をはずす時がくれば、霊的治療の存在することはむしろ一つの自然と みなされるであろう。霊的治療は単に病気を癒すというにとどまらず、人類全体を霊化するという神の計画にそって霊界と霊魂の存在を教えようとする。霊的治 療は、人間がそもそも霊的な存在であることをアピールする。ハリー・エドワーズその他のスピリチュアリストたちの言う霊界の神聖な意図が現実のものである とすれば、現在世界中に澎湃と興り広がる霊的治療の普及と浸透の方向はもはや押しとどめることができないであろう。
スピリチュアリズムはやむをえずイズムという語尾をつけており、わが国の識者にはこうした特定の思想信条にくみすることを嫌う人が多い。しかし繰り返し 述べたように、スピリチュアリズムの向う方向は、特殊の思想信条というにはあまりに普遍的な基本認識の、人類全体に対する提示であって、特定の小党小派に 凝り固まることではないと思われる。スピリチュアリズムのこれまでの歩みは、人間がそもそも霊的な存在であることの堂々の主張であり、またそのための証拠 提供の真に己を滅した奉仕の道程であったと考えられる。
霊的世界の媒体になり易い人々が先天的に存在し、また通常の人でも、ハリー・エドワーズの言う〈霊的な心〉の働かせ方を習得することによって、「人類の霊化」という神聖な目的に沿う治療力の開発が可能ならば、そうした方向へと鼓舞し、活発化させるべきではないだろうか。
また一方において、現代医学をのみ信奉する人が、医師によって不治の病を宣告されることほど残酷なことはない。それは精神的な極刑宣告と同じことであ る。こうした悲惨を少しでも軽減すべきである。本書を読まれた方はおわかりのように、霊的な見地から見た「不治の病」というのはないのである。こうした悲 惨を防ぎとめることのできる人材が密かに世に埋れているのではなかろうか。そうした人々が真に奉仕的な治療者となるきっかけを本書が提供できれば、と思 う。
霊的治療を志す人は、個人のカルマを超えた大きな人類的規模の霊団の霊流の中に身を置くべきである。その時治療は自ずとやってくる。霊的治療は霊界の存 在をアピールするのに最もよい手段とされている。人類は物質的次元の存在の有効利用を組織的に考え出した時から、その部分的法則の操作のみに心を奪われ、 全体の生命の営みという観点から見ると大きな誤りを犯し、数世紀に亘って「世紀末」と呼ばれる人類病を病むに至った。今世紀においても人類はそれを完全に 克服しえたわけではない。その起源と目的を考察すれば、スピリチュアリズムそのものが、人類全体にとっての霊的治療に当たるものなのである。

最後に、ハリー・エドワーズが彼の妹と彼の家族に書き残した遺書から二、三のことばを引用したい。
「人生の価値は、他人の幸せのために尽くすところにあります。そしてこの“価値”は、地上生活を終えたあとにも、幸福な記憶として生き続けるはずのものです。このことが私にとっても、何ほどかは当てはまるものであってほしいと思います。」
「もしそうであるならば、それを可能にしてくれたのは私のこの肉体です。それが私にたいへん役立ってくれたことを私は感謝しています。しかし私が肉体を離れる以上、その働きは終わったのであり、もはや無価値です。」
「葬式というものは肉体のためのものです。それをどんな形式で行なっても、楽しからざるものになってしまうものです。ですから私は、今や無用のものと なった肉体を墓所に送るためのカラ騒ぎや儀式は一切なしにしたいのです。葬るだけでよいのです。私はいつまでもあなた方と一緒にいるのですから“さよな ら”を言う必要はありません。」
「私はいつも、花が摘み取られ、針金で束ねて花輪に造られ、見る間にその可憐さを失っていくのを見るのがいやでした。それならばどうか、私を思い出して くれる人は家に新鮮な花を飾って下さい。火葬場に乾からびて、翌朝にはごみとなって掃かれてしまうのを見るよりは、家に置かれた花を見たいものです。」
これらのことばはひたすら愛と奉仕に生涯を捧げたハリー・エドワーズの人柄を端的に表わしているように思う。いったいどのようにすればこのような高潔な人格をこの世で練り上げることができるのであろうか。
ハリー・エドワーズはスピリチュアリストで、いわゆるキリスト教徒ではないといわれる。筆者はこれまでキリスト教には縁もゆかりもなかった者である。し かしなぜか、ハリー・エドワーズの人間像を通して、この異国の教えに最大級の敬意を感じさせられた。そしてふと、次のような奇妙な想念を与えられたのであ る。ハリー・エドワーズこそは、時代を隔てて現われた、キリストの真の弟子の一人ではあるまいかと。

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