【エッセイ】スピリチュアリズム一問一答

スピリチュアリズム一問一答

掲載日:2006年4月26日
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(本稿は1984年2月刊の雑誌『たま』に掲載され、1985年に『世界心霊宝典第5巻 人間個性を超えて』(G・カミンズ著、梅原伸太郎訳、国書刊行会)に収録されたものである。前回および今回の再録にあたり、加筆修正が行なわれている。)
◆心霊の世界との出会い

問=まずはじめに梅原さんご自身が、スピリチュアリズム、あるいは心霊研究の分野に、深く入られた動機をお伺いしたいと思います。
梅原=私が確か二六、七の頃だったと思うんですが、それまで私は哲学、科学哲学という領域を大学院で専攻していたのですけれども、その前は学部でフランス文学なんですよ。ポール・ヴァレリーという人をテーマにしたわけですけれど、私が元来興味を持っている領域というのは、精神、および意識なんです。ヴァレリーのテーマになっているのは、精神それ自体、意識それ自体なんですが、私自身も全く同じ関心を抱いていまして、とくに意志のメカニズムに興味が集中してきました。意識の構造がどうなっているのか、考える自分があって、考えられる対象があるとすると、両者の関係はどうなっているのか、自分の意識というものは一体どこまで自分の意識的な操作の対象となりうるかという問題ですね。
とにかく精神現象それ自体についてできるだけ知りたい、全部知りたいという衝動が非常に強かったわけです。いわば内面的な意識の達人になろうと思って、思春期以降の全青春を投入していたようなもので、とにかく朝、昼、晩と考えることが仕事のようなものだったのですね。文学からも埒(らち)外に出た、いわば狂的な徒弟修業時代のようなものだったと今では思っています。そういうことで、フランス文学から科学哲学に変わり意識と論理の問題、それから意識とイメージの問題を考えていたわけです。
問=極めて合理主義的なアプローチのしかたですね。
梅原=ええ、こういう風に合理主義で押し進めてゆくと、自分の精神については解明できたような気になる段階があるわけですよね。それから同時に、自分以外の世界についても非常によく分かった、了解できたと思う時期が、これは誰にもあることだと思うんですけれども、そういう段階があって、一応安心しきっていたという時期があるわけですね。
ただ一方で、そういう合理主義的な考え方でいきますとね、自分の内面的な生命感覚と大いに矛盾してくるんです。私は自己の内的感覚も誠実にとり上げて排除しない方針でしたから当然のことでしょう。精神のメカニズムを徹底的に追究していくことは、ある意味では自分自身の生命構造の秘密をいじりまわす結果になるんです。意識について合理主義を徹底するかぎり、生命は生きえない面がありますね。
そこでこの心霊世界との接触の動機になるのですが、当時、弟が司法試験の勉強をしていまして、それがうまくいかなくて軽度のノイローゼ状態になっていたようなんですね。それでいつの間にか霊能者めぐりのようなことをはじめまして、最初は私は黙って弟の報告を聞いていたんです。そのうち日本心霊科学協会にも顔を出しまして、当時、高齢の非常に有能な――亡くなりましたが――霊能者がおりましたが、その霊能者から「徳さん」という我々もほとんど知らなかった曾祖母の名前を言われて帰って来たんですね。
そこで、「おかしい」と思い調査をしてみようと思ったのがキッカケです。むろん例のテレパシー説というのを検討してみたんですが、テレパシー説にしたって不合理は不合理なんですから、それでよいというわけにはいかないんです。その後も、そこへ何回か訪ねて精神統一をしているうちに、同じ霊能者から、その人自身知り得るはずのない、そしてまた私自身知らなかった身内の先祖に関する事を告げられ、まったくどう説明してよいか分からず、随分妙な気持ちになったものです。
そんなことがありまして、それまでの私の合理主義的な世界観が根底からグラつき出しました。今言ったようなことがあるとすると、自分の世界観というものが、たとえばそれが一つの特異現象であったとしてもですね、それを許すようなルールはこれまでの自分の中にはないから、全部根本から崩壊するわけですね。そういう危機感を感じたわけです。これはもっと深く追究しなくてはいけないと思いました。いわゆる先祖の霊魂の世界などというものは全く考えなかったのですけれど、それはこっちがないとして済ましているだけで、向こうがあったらどうしようもないわけです。
今までの精神とか意識に対する考え方をそのまま踏襲して、あわよくば哲学者になって全部説明できたつもりになっても、それが一つのフィクションであって、ごまかしの理論体系みたいなものを創ってしまう危険があるのではないか、一生というのは一回しかないんだから、もしそういう誤った人生観、世界観で一生を過ごしたら大変なことになる、これは一つ根本的に考え直さなきゃならないというのが、心霊科学の世界に深入りしていった動機といえば動機なんです。

◆スピリチュアリズムと心霊

問=それではいよいよ本題に入りたいと思うんですけれども、まずスピリチュアリズムと心霊研究あるいは心霊科学との相違点を御説明いただきたいと思います。
梅原=スピリチュアリズムという言葉で問題になるのは、心霊研究とのかかわりですね。で、心霊という言葉が、心霊研究の場合には、サイキカル・リサーチで、サイキカルの意味なんですよ。ところが、霊交思想の場合は、スピリチュアリズムなんですね。同じ「心霊」という言葉でサイキカルとスピリチュアリズムという二つの意味を表わしているわけです。そういう面を排除して、田中千代松先生が「霊交思想」という言葉を使われたと思うんですね。
問=あくまでも心霊研究という分野は違うんだと、区別するために霊交思想というわけですね。
梅原=そうですね。それとスピリチュアリズムの中にでも後で申し上げたいと思うんですが、思想的な意味だけではなく、運動的、実践的な意味があるわけですね。欧米では実践的、運動的な色彩の方が強いんですよ。日本では、故浅野和三郎氏以降その点が希薄になっていたのかもしれませんけどもね。そこの点が霊交思想という言葉では排除されるという問題があるかもしれない。
それから、心霊研究と、スピリチュアリズムと、もう一つ、心霊科学という言葉ですね。これがどういうふうにかかわるかということをちょっと説明しておいた方がいいと思うんです。端的に言いますとね、心霊研究という言葉は元来は、サイキカル・リサーチという言葉の翻訳なんです。サイキカル・リサーチという言葉は、心霊現象についての、純科学的な研究というふうに定義されているわけですね。特にサイキカル・リサーチの面を代表するのは、英国にSPR(The Society for Psychical Research)というのがありまして、もう百年ほど純粋に学術的な研究団体を作って研究してるわけですけれども、これは現在では霊魂が存在するか、存在しないかについては態度保留になっているわけですね。どちらかというと霊魂の問題については、まあ否定的な態度を採る人の方が多いと言った方がいいかもしれないですね。
問=かなり著名な研究者が名を連ねてきましたね。あくまで合理的に捉えようとするわけですね。方法論として。
梅原=ええ。ところが一方、スピリチュアリズムの方はですね、これは霊魂の存在を抜きにしては語れないわけですね。霊魂の存在というものを確認するところから出発するわけでから。歴史的にみるとアメリカが発端で、その後英国が中心になったのですが、出発点においては心霊研究と仲良く共存していたのです。むしろスピリチュアリズムから心霊研究が生み落とされたといった方が正確でしょう。しかし、いろいろの歴史的な過程を辿るうちに、両者が決別してしまったのです。現に、欧米ではこの二つははっきり区別されているわけですよ、団体も違いますしね。その考え方は、はっきり違うわけです。ですから、この二つを同時に一つのものとして語るのはむずかしいわけです。一方、心霊科学という言葉がありまして、これは実は、非常に僕は曖昧(あいまい)な言葉だと思うんですけれども、しかしかなり実際は使われましてね、実用的な意味を持っているかもしれない。
問=現に、日本心霊科学協会で採用されている。
梅原=ええ、私もその会員(84年当時)なのですが、心霊科学の呼称は、ナンドー・フォドーという、『心霊科学事典(Encyclopedia of Psychic Science)』を著した人が用いています。それによりますと、心霊科学という言葉は、サイキカル・リサーチとスピリチュアリズムを含むというように定義しているんですね。私も一応、その定義に乗っかりたいと思うんですよ。
問=サイキカルとスピリチュアルとでは同じ範疇(はんちゅう)に属する言葉だと思いますが、次元の相違があるのでしょうか。
梅原=サイキカルのサイキは元々ギリシャ語のプシュケで「魂」を表します。スピリチュアルの基の形は「スピリット」で霊を表しています。同じ眼に見えぬものにも段階的な差別があって、霊は魂よりももっと高次のものと一応考えてよいと思います。魂は霊よりも肉体に近い中間的なものです。人間精神の情動的な面を表すとも考えられています。従ってサイキカルという言葉までは一応人間能力の延長といったい解釈もとれるところから、サイキカル・リサーチは霊魂論の段階に足を踏み入れないでも済むといった面があり、SPRの人たちなどはこの言葉を用いているわけです。私なりの一応のメドとしては遊離魂を考える段階からスピリットになると思っていますが、日本語では魂もまた遊離しますから、厳密なものではありません。
ついでに言いますと、欧米でいう心霊研究者(サイキカル・リサーチャー)とは概して言えば教授資格か博士号を具えた人たちで、霊魂問題については保留、しかも実質的な研究に従事している人のことですから、日本にはこれに当たる人がほとんどいないということになります。日本では従来、心霊研究者というのはほとんどスピリチュアリストというのと同義ですね。少なくとも分類上はそうなります。しかし心霊研究が超心理学に引き継がれたという観念をとれば、最近輩出しつつある超心理学者が心霊研究者ということになります。

◆スピリチュアリズムの意義

問=ところでスピリチュアリズムだとか、霊あるいは心霊というと一般の人はテレビや週刊誌、雑誌等のジャーナリズムによる影響がかなり大きいと思いますが、たとえば先祖の祟(たた)りであるとか、水子の障(さわ)りであるとかですね、そういった次元で非常におどろおどろしいものだという印象を持っている人が多いと思います。もちろんそれも心霊現象ないしスピリチュアリズムの中に含まれるのかも知れませんが、本来あるべきスピリチュアリズムとはどのような内容なのか、そのへん重要なところだと思いますのでお聞かせ願いたいと思います。
梅原=今おっしゃったような現象はすでに歴史以前から日本の社会的、宗教的現象の中にあったことなんで、そういうのを漠然と語る時は、私はむしろオカルティズム、あるいは、私の言葉で言うと、俗流オカルティズムという言葉で全部ひっくくった方がいいんじゃないかと思うんです。しかし、スピリチュアリズムについて語る場合には、やはりこれは、歴史的な視点がある程度必要だと思うんです。ですから、スピリチュアリズムというものが出てきた背景と、それを推進してきた人たちの考え方というものをやはり一応、正しく受け取らないといけないと思うんです。霊的なことの何もかもに関心を持つというのが、スピリチュアリズムの意味じゃなくて、私がスピリチュアリズムから受け取っている一番のポイントは、これは欧米の文献をちょっと読んでみると分かりますが、霊魂の存在、すなわち死後個性存続の問題だと思うんですよ。なぜ死後個性存続の問題というのがそんなにポイントになるのかと言いますと、結局霊魂の存在を認めるか認めないかという問題が、いろんな現代の思想との関連において、あるいは世界観、人生観との関連において決定的な意味を持つ点だからだと思うんですね。霊魂というものが客観的に存在すると証明できるかどうか、スピリチュアリスト(霊交思想家)の立場に立てば、これはまさに前提とされてるわけですね。ところが彼らの運動、あるいはその啓蒙活動というものは、自分自身に死後存続の事実というものをくりかえし納得させるということにあるのではなくて、人類一般を対象としているところが特長でありまた意義がある訳なのです。人類的な規模で霊魂の問題をはっきり確実なものとして捉えられているかどうかということは、非常に重大な問題です。それをはっきりさせないといけないというふうに考えているわけですね。
スピリチュアリズムとそれに引き続いて心霊研究が勃興したのは十九世紀の半ば頃からだったのですが、その当時この領域の研究というのはアメリカ大陸の発見に比せられたんですね。これを現代的に言い直せばもう一つの地球が出現したと同じくらいのショッキングな内容を含んでいるというふうに言ってもよいと思います。このことはこれまで、世界というものが唯物論的な視点で全部説明し考えられると思っていたのが、そうでない広大な領域、むしろ唯物論がその世界の一部にしか過ぎないんだというようなことで、領土の一部が増えたのではなくて、世界そのものがもう一つ加わったとか、あるいは逆にその中に取り込まれてしまうような、そういう世界観の変革なわけですよね。要するに、霊的な世界というものが現代の科学的な認識の上で徹底的に否定されてきた、学校教育の面でも否定されて、それから個人の精神形成史の上でも十歳ぐらいから二十歳ぐらいの間に徹底的にそれを否定する時期がありますね。また自分自身でもそういうことを知的成長のためにやらなきゃいけいない、というふうに考えてきたわけですね。そして自分自身の精神の中で徹底的な霊魂観の排除を行なった、そういう歴史があるわけですね。それが知的であり、また合理的であって正しいんだという、いったんそういう世界観が確立されてるわけです。ですからそれに対して、いやそうではないんだという立場からの事実と証拠を持った反撃ですね。スピリチュアリズムというのは、そういうところに意味があるので、ですから否定の否定なわけですね。霊的な世界というものを、一度徹底的に知的に否定した後でなければ、このスピリチュアリズムの意味というのはわからない。これは個人の問題というよりも人類全体の意識の発展の問題です。単に古典的霊的世界観を継承するというだけではすまない現代文明の問題が響いているわけです。神秘家の人たちにとっては、霊魂の存在などというものは当然なんでしょうが、しかしそれは、個人の立場においては確かにそうかもしれないけれども、人類全体の問題としては、霊魂の問題はまだ証明されたわけでも常識になったわけでもない。ですから、これをその個人の立場と人類の認識の成長の問題を分けて考えなきゃいけないと思うんですね。後者の場合に立つ時に、このスピリチュアリズムの立場というものが、非常に意味を持つわけです。神秘家は証拠の提供などということを考えません。彼等はむしろ秘密を守るのです。その時にまずその霊魂の実証の問題というのが第一の関門になるわけですね。その関門を通らなければ、あとすべての霊的な問題が出てこないという最初の通過点です。ここを通過しない神秘家や宗教家は自己欺瞞の輩(やから)だと僕は思っているんです。
問=スピリチュアリズムの根底に流れるのが死後の個性存続であるということはよくわかるのですが、それ以外に我々の住んでいる物理的な三次元世界と、高度に意識が発達したというか高いレベルの霊魂といいますかね、そういう存在との、いわゆる交流あるいは交信を通して歴史の発展だとか文明の光明化とか、あるいは個人の幸福が実現され得るというような考え方がると思うんですけれども……。
梅原=ええ、おっしゃる通りです。ですからスピリチュアリズムの基本的テーゼを端的にいいますと、まず、霊魂が存在すること、これは死後、個性が存続するのと同じようなことです。それから、霊界が存在する。それは霊魂が単に人間の肉体から遊離して存在するのではなくて、それが一つの霊的な社会を形成して、その世界が一つの階層を成して存在する。すなわち非常に低次なレベルから神に至るといってもいいでしょうけれども、高次なレベルまで階層を成して存在する。それから、霊界と我々の世界が交流するとういことですね。相互に交渉を持ち影響を及ぼしあってるということが非常に重要な点だと思うんですね。それからもう一つ重要な点は、霊魂自体も成長し進歩するという観点をスピリチュアリズムは持っているわけですよ。ですからスピリチュアリズムの啓蒙の問題を考えた時には、死後個性の存続をできるだけ多くの人に悟らせてですね、そして自分が霊的な存在であるということを納得させて、霊的な世界について目覚めさせると言いますか、そういう世界についての認識のきっかけを作る、という意味があるわけです。それから先を考えますと更に霊魂の進歩と成長の問題があると思うんですが、その段階に来ますと、ハイヤー・スピリチュアリズム(高等霊交思想)といわれていて、それは今言った前提からさらに進みまして、どうすればその霊魂というものが成長するのか、人生の問題、世界の問題を霊界との相互交流があるという事実に基づいて、どういうふうに考え、人生をどういうふうに過ごしていくかと、そういう問題ですね。これは非常に高次な問題になると思うんです。ですから、ハイヤー・スピリチュアリズムを紹介してゆくことはこれからの一つの重要な課題と言えます。
問=東洋あるいは日本では、輪廻転生の信仰と言いますか霊魂再生を信じている人がたくさんいるしまたそういうふうに解釈するというか、あるいは信じることによって、非常に人生を生きていく上にうまく説明がつけられると思っている人は、かなりいると思うんです。たとえば具体的な例で言えば家族との関係、特に親と子の関係を考える場合、生物学的に言えば、母親と父親の遺伝子を五〇%ずつ引き継いで生まれ育つということは、何か自分自身の肉体の延長みたいな考え方になって、子供の鋳型(いがた)が親であって、その鋳型を破ることはできないんだ、という考え方になってくると思うんです。しかし、輪廻転生あるいは再生といいますか、魂が実在するというような人生観に立つと、たとえ親と子の関係であっても、生物学的関係とは別の見方といいますか、人生におけるかかわりあい方が可能になると思うんですが。また倫理観や道徳観についても、霊魂の存在というものを認めることによって、違ったものになるんじゃないかと思うんですけどね。スピリチュアリズムを信奉することによって人生を生きていく上でですね、具体的にどういう形で反映され、また我々に影響を及ぼすことができるのでしょうか。
梅原=ハイヤー・スピリチュアリズムの各論の問題になりますと、それだけで大変な問題です。それだけでもう一回の対談が必要でしょう。霊魂の存在は階層を成していると先程言いましたが、我々に先祖や高級霊の導きがあると知ることは、これまで一階建てだった家が、二階建て三階建ての家に変わるようなものなのです。多層建築的人生観や行動様式が導き出されてくるのです。とにかく一階建てのときよりは厚みもあれば奥行きもあり、またずっと便利になることは間違いありません。スピリチュアリストでない人は二階以上を、あるのに使おうとしない単層主義者のようなものですね。私自身そのことで決定的に変わったと思っています。
問=倫理観に与える影響についてはいかがでしょう。
梅原=個人のみかひいては社会制度や人間全体の生き方や行動様式に根本的な変革をもたらすと思います。
霊界とこの世は相互交流的なものですから、放っておいてもたえず善悪の影響をあの世から受けているものですが、それを否定する考え方と受け容れる考え方とではお互いの波動の合い方が違いますから、結果もまた大きく違ってくると思います。古来の英雄傑士などは、こうした高級霊の導きを本能的に知っている人々でしたから、その行動様式は通常の人と全く違っていたと思いますね。それは度々、憧憬(アスピレーション)とか霊感(インスピレーション)の形でやって来て人を導くものです。ソクラテスが霊の導きを受けていたことは有名ですが、歴史上では霊媒からのことばで奴隷解放をすすめたリンカーン、近くは、チャーチル、ドゴール、アイゼンハウワーといった人々が知られざるスピリチュアリストでした。
何も英雄にだけ例をとる必要はないので、スピリチュアリズムの考え方を受け容れれば、人生は困難ではあるが、“悩み”というようなものは必要がないとうことが分かります。従ってノイローゼや精神異常は姿を消してゆくでしょう。
人生上の諸問題をたえず魂の成長の一過程として受け容れる態度が身につきます。これは生前死後を通してのことですから、死というものは基本的に不安の材料ではなくなってゆくのです。このような考え方を持つ確信的なスピリチュアリストこそが、死者をも説得し、また導くことができるのです。「供養(くよう)」というようなことばも、こうした見地からもう一度検討し直す必要があると思うんですね。死についても、霊魂についても知らない人がどうして迷える死者を慰めたり救ったりすることができるでしょうか。形式的な先祖供養をする前に是非考えてほしい事柄です。
問=何か具体的のごく一般の人が高い霊と接触できるというような方法とか修行法のようなものがありますか。
梅原=それこそ昔から「祈り」ということばで漠然と表現されていたものではないでしょうか。我々はこの祈りというような精神世界の事柄についても基礎的な知識や教養を身につけるべきだと言えます。現在親や世の中から漠然と教えられるだけの知識では不十分だと思います。特殊な能力者の交霊や日本でも鎮魂法とか帰神法とかいう特別の交霊形態のことはこの際省いておいて、一般の人のために言いますと、私たちは日々の安らぎのひと時、また人生上の狭間(はざま)においても、身体と神経をくつろがせて、できるだけ明るい気分で、高級霊や神の指導を受け容れる瞑想の習慣を身につける必要があると思いますね。このとき必要なのは「念力」や「熱祷(ねっとう)」ではなくて、「聴く」という心の中の態度なんですね。皆この逆をやってしまうんです。自分というものはあまり高級ではない自分という人霊がとり憑(つ)いているようなものですから、瞑想の際には最初からこれをはずしておかなくてはなりません。そうしないと高級霊の影響力は入って来れないんですよ。
親子間の断絶や非行に走る子供の問題なども、自分以上に大きく高い存在からの導きを「聴く」という態度を普段から双方が持ってれいば、自ずから解決するのではないでしょうか。人類は自らが霊的存在であることを自覚して、時々神の前に「聴く」態度を身につけるべきでしょう。日本人ならば、朝の綺麗に掃き清められた神社の拝殿の前で静かに頭(こうべ)をたれる心境です。このような時交霊はたえず行なわれているんだと考えて感謝の気持ちを持っていればそれでいいんです。英国の指導的スピリチュアリストで大変有能な霊能者であるグレイス・クックという婦人はスピリチュアリストに対し、霊との交信(スピリット・コミュニケーション)ではなく、もっと進んで霊との相互交流(スピリット・コムニオン)をすべきだと教えています。
問=スピリチュアリズムの教えの中で具体的に人生の指針になるようなものがありましたら一つだけあげていただきたいのですが。
梅原=そうですね。イギリスのステイントン・モーゼスという人が、四十九柱からなる高級霊団から受け取った自動書記による霊信が『霊訓』という本になって、この本がスピリチュアリズムの古典的バイブルとされていますが、その中に、人間がこの世を幸福に過ごしかつ魂の進歩を確実にするための指針として、三つの義務を果たしなさいと教えています。その一つは神への義務で、神を愛し敬うこと。その二つは隣人への義務で、隣人の進歩を助けること。その三つは自己に対する義務で、これは幾つかありますが、第一に自分の肉体の保護といたわり、次に心霊の進歩成長を助けるような知識と真理の吸収に努めること、第三に獲得した知識を実行に移すこと、そして最後に、祈りないし瞑想によって高級霊界との霊交を行なうことです。これははなはだ簡単明瞭で誰にでも実行でき、かつ理性にもかなっているので、私は最もよい指針だと思っているのです。

◆心霊現象の研究と霊的治療

問=さて、ところでこれまではスピリチュアリズムの思想的な面についてお話いただいたわけですけども、一方においてスピリチュアリズムの生み落とした子供といいますか科学的なアプローチの仕方に、サイキカル・リサーチ(心霊研究)の領域があります。一口に心霊研究といっても、それが対象とする心霊現象はきわめて多岐にわたっている訳ですが、それらの現象の中で現在特筆すべきものを挙げて御紹介して頂けないでしょうか。
梅原=心霊研究について考えるとき、ここでは私の立場から超心理学の領域のことは一応除外して考えたいと思うんです。超心理学の研究は我々の現実からみますと、分かっていることを確実にしただけで興味ある発見は少ないんです。
心霊研究が一時超心理学の方向へつき進んだことはやむをえなかったかもしれませんが、私が科学者であったならば、おそらく人体および生命そのものの研究に焦点を当てるでしょうね。
霊的法則と物理的法則はある面からみると全く異なった二つのものです。それは全く違った世界の法則であるように見えます。まず第一に前者は相互浸透的で、論理学の同一原理にさえ従いません。後者は非浸透分離的で、もちろん同一原理に従わないことはありません。前者は後者に比して時空に対してより自由度を有している。私の眼から見ますと、前者すなわち霊的世界の法則はエントロピーの法則にさえ従わないように見えます。こうした霊的世界の特異な点が科学者や合理主義者から見れば、まさしく霊的世界など存在しないことの論拠にされる点だと思いますがね。
問=確かに伝統科学のパラダイムでは心霊現象は認めがたいものでしょうね。
梅原=しかし霊的な世界は存在し、しかも物理的世界と交錯しています。今のところこの二つの極端に異なった世界を結びつける概念は、これも霊界の提供した言葉ですが、「振動(バイブレーション)」という概念しかないように見受けられますね。あらゆる事象の秘密は「振動」にあるというわけです。このことはおそらく正しいでしょうが、我々としてはもっと具体的な分かり方をしたいだけです。
二つの極端に異なったものの共通理解に達したい場合には、その両者の中間項を研究するのが一番いいんです。この場合両者の中間項というのは生命現象、もっと具体的には人体に表出される生命なんです。
霊的な世界が物理的世界に影響力を現す際に、その通路となるものはこの生命なんですね。なぜなら生命がこの中間項に当たるからです。一般に心霊現象は、そこに人体がなければ生起しません。そして人類の中でも最もこの通路になり易いものが霊媒者なんです。私の観点から言えば、大きくいえば人体によらず、あらゆる動物的生命や植物的生命は、霊的世界が物的世界に影響力を持つ際のチャンネルになっており、それによって両者は相互作用を営んでいると思いますが、とりあえず人体をとりあげて研究するのが便宜的だと思うんです。この人体を唯物論的観点からばかり研究しているのが現代医学ですが、それではダメなんです。
問=それでは具体的に、両者の中間項として現象化したものにどのようなものがあるのですか。
梅原=人体と霊的な世界との中間項にあるのがエクトプラズムだと思いますが、このエクトプラズムはまさに霊的法則と物理的法則の両者に従う性質を持っており、心霊研究史上では明確にその存在が確認されているものです。もし現代医学が唯物論的観点に立ってさえいなければ、たとえその観察例は稀(まれ)だとしても正当な研究の対象にしていた筈(はず)のものです。これは一つのドグマが客観的に存在するものの観察すら拒ませていることの明らかな例証として挙げることができると思うんですね。エクトプラズムの研究としては、欧米には、ノッツィングやジュレーの詳細な研究がありますが、日本には戦前に中村宏治という関西のお医者さんであった人の有名な亀井三郎という物理霊媒を対象とした面白い観察例があることを指摘しておきましょう。
問=念写についてはどうお考えですか。
梅原=中間項と言えば、世の人々はよく心霊写真を問題にしますが、なぜあの陰画紙に塗られる臭化銀という物質の性質を詳しく研究しようとしないのかと不思議に思っているんです。あれこそまさに、生命ある物質以外では、霊的世界の影響に対して易感的な物質ではないでしょうか。少なくともそういう物質を探し出して研究すべきなんです。それと手前味噌になりますが、人間の意識の中ではイメージこそが霊的なものと物質的なものの中間項に当たるものです。
問=ところで、そのような立場で心霊現象あるいは超常現象を研究なさっている方を御紹介していただけますか。
梅原=ええ、一人はわが日本の本山博博士で、一人はブラジルのH・G・アンドラーデです。この両者とも人体という点に着目して、まさに心霊研究の真骨頂ともいうべき領域研究を進めたのです。
本山博士は長らく人体の気エネルギーについて研究し、気エネルギーが身体の真皮結合組織を通じて流れるという興味深い実証研究を致しましたが、最近は、人間の精神的意念が物理的な光を発生せしめるという真に注目すべき実験を行なって、これを科学的手段で観測記録したのですね。実験に不備な点がなければ画期的と言ってもよい研究になると思います。
もう一人注目しているのはブラジルのアンドラーデですが、ブラジルというのはある意味で心霊研究が進んでいるところなんです。そこに精神生命物理学研究所(IBPP)という研究グループがあり、それはH・G・アンドラーデという人が率いているのですがその人物がいわゆる熱心なスピリティストなのです。彼はスピリティズムの側に立ち心霊研究家としても功績をあげている人で、ソ連で開発したキルリアン写真を世界で最も早く追試したのも彼なんですね。アンドラーデの仮説による人体には生体磁場(バイオ・マグネティック・フィールド)というのがあるのだということです。そしてこれが各細胞間を有機化してるんで、これを取り除くと生命というのは、土と同じようなものになってしまう、無機的なものになってしまう。で、霊界の方から操作してそのバイオ・マグネティック・フィールドっていうのを抜き取りますとね、有機体ではなくなるわけですよね、土くれと同じようなものですね。
問=原子、分子の単なる集合体というような感じになるわけですね。
梅原=その不用な部分を取り除くのに血も流れないし、すでに有機体でなくなってますから、簡単に不用な部分だけを取り除ける。
問=粘土細工ができるというわけですね。
梅原=そしてその後にもう一度、バイオ・マグネティック・フィールドというのを流し込んでやると、また生命としてあるいは組織として統一的な働きを始める。そのような生命組織モデルといいますかね、そういうものを考えてその生命単位に肉体を取り巻く生命の磁場みたいなものがあるんだと、こういうことを言ってるんですね。たとえばある部分が死滅してもですね、その生命組織モデルというものがまだ有効である場合は、その部分は再生するんですね。肉体的に死滅したり破損しても、そのモデルそのものが残ってると再生が可能であるというようなことを理論立ててるんですよ。それと物理的心霊現象によく現われるエクトプラズムと厳密にイコールなものであるかどうかはわかりませんけれども、とにかくそういうのは人体と重なってそれに浸透して存在するらしい、そしてその生命現象の元になっているんだという、一応そのような推測はできると思うんですね。
問=ところで日本心霊科学協会の方ではどうなんでしょうか。実験会でエクトプラズムなどが出現したこともあるんじゃないでしょうか。
梅原=ええ、それはですね、戦後の実験会で物理霊媒はなやかなりし頃に東大教授・工業技術院長などを歴任された後藤似紀(もちのり)先生はじめ錚々たる研究者が厳密な準備と厳格な管理のもとにエクトプラズムの出現とか、その運動するさまを観察してるわけです。しかしある時期から物理的な現象をおこさせる霊媒が、世界的に不足したというか現われなくなったんですね。まったくではないけれども、非常に少なくなった。これは霊界の側から見ますとね、あえて霊界の側からと言ってしまいますけれども、心霊現象は我々(霊界)がある目的を持っておこしているんだということなんですよね。要するに人間にこういう世界があるぞということを知らせることが目的なんですね。物を1メートル持ち上げるとか、物質を消してみせるとか現わしてみせるとか、そういう手品みたいなことをやって度肝を抜いて喜んでいるわけではないというんです。あくまで目的は、要するに、自分たちの存在証明なわけですよ。そしてそれが人類にどういう影響を与えるかという問題、さっき言いましたような唯物論の爆発的な隆盛との関連で人間が霊的な世界というものをもう一度はっきり認識しなきゃならない、あるいは認識しないと危ないと、そういう観念に立ってるわけですね。で、最初は彼らは物理現象を非常に盛んにおこしたと言います。それはその時代の人々の意識のレベルに合わせたものであり、そういう現象をおこさないと当時の人々に霊的な世界を受け容(い)れる準備がなかったというのです。人間の側にですね。そういう物理的現象をどうしても起こさなければ納得しない風潮が非常に強かった、それでそれを盛んに行なったというんですよ。
問=それがどうして、現代では物理的現象も起こりにくくなったし、また物理霊媒も少なくなってきたのでしょう。
梅原=現代はですね、当時ほど物理的な現象にこだわる人間が少なくなっていると、霊界の側は見ているようです。つまり再生の問題ともからむらしいんですけれども、現在アクエリアン・エイジが始まっていて、その時代に再生してくる人はわりとそういう面でソフトな心を持っており、必ずしもハードな物理現象を見なくても、霊界の存在というものを納得するような魂の持ち主が多い。それで、彼らは主観的な心霊現象に切り替えているということを言っていますね。特に霊界の側から見ますと現在力を入れているのは霊的治療だというんですね。
問=そういえば、日本でも十年位前から、フィリピンの心霊手術が話題になっていますね……。
梅原=霊的治療は考え方によっては物理的な心霊現象とも言えるし、主観的、精神的な心霊現象とも言えるし、またどちらにも入らないとも言えるんですね。霊的治療に力を入れてこの世を援助することによって、霊魂の存在について人類を啓発しようとしているんだということを彼らははっきり言ってるんですね。ですからおそらく霊的治療が世界的に広まり成功して、それが人類に霊魂の存在を気づかせる役割を果たすと思うんですね。特に現代医学から不治であると言われた場合には、これはもう科学的な手段によってはなす術がないわけでね。しかし、そういう人間が奇跡的に回復するということを見た場合に、大部分の人が、何か物質意以外のものの存在について考えるだろう。あるいは自分自身も霊的な存在でなければ霊界からの援助というものを受けようがないわけだから、そういう意味で自分自身の霊的な成り立ちについて目を開くきっかけになるだろうと、そういう意味で我々は霊的治療というものを推進しているのだと言っているのです。現に、ここ数十年の間に欧米では霊的治療が非常な成功を収めているんですね。その代表的な例は、ハリー・エドワーズですけれどもね。この人はイギリスのシェアーというところに治療院を建てましてね、1976年に亡くなったと思うんですが、最盛時には年間に75万通を超える治療依頼があったというんです。それで、とにかく普通の人から見ると奇跡的な――彼らは奇跡ではないと言っていますが――もう枚挙にいとまがないほど厖大な実績を挙げたわけです。
問=霊的治療が世界的な規模で行われるようになるとすれば、これは、近代医学にとっては大変なインパクトを与えますし、心と肉体の因果関係を根底から見直さざるを得ないことになるでしょうね。
梅原=重要なことは、心霊手術にしても霊的治療にしても、近代スピリチュアリズムの運動の流れの中で起きて来ているということです。
いったいこうしたことは何を意味するものでしょうか。心霊手術者や治療者も一様に施療するのは自分ではなく、スピリットで、自分自身は道具にすぎないと明言しているんです。彼らを背後で指導する治療霊たちは、自分たちの目的は治療そのものにあるのではなく、人間たちに霊界の存在を気づかせて、霊的に啓発するためだと言っています。他の超常現象も皆そのことに意味があるので、単に人間の超能力を認めて、それに妙な理論をくっつけるだけでは何もならないのです。
もちろん霊的治療は昔ながらの信仰の中にも生起し、それはそれなりの信仰内における指導霊たちのいわば菩薩行なわけですが、現在世界各地に現われつつある霊的治療はそれとは規模も頻度も格段に違う、いわば霊界の戦略的なものなのです。ですから予言しておいてもいいですが、これから霊的治療はますます盛んになり、世界各地に広がりますよ。この場合も大事なことは、このスピリチュアリズムの源泉に触れて、霊界と共同歩調をとる治療家(ヒーラー)の誕生です。

◆スピリチュアリストとしての展望

問=わかりました。そろそろ時間もなくなってきましたので、最後に今おっしゃったこと、スピリチュアリズムの本来の目的といいますか、その目標とするところをふまえた上で、今後スピリチュアリズムの運動を展開していく場合、具体的にどのようなことを考えておられるか、精神世界の展望をまじえながら今日のお話を締めくくって頂きたいと思います。
梅原=ちょっと矛盾したことを言うことになるかもしれませんが、心霊研究の歴史に「挫折の法則」といわれているものがあるんです。「霊魂存在」の証明は、意図的にしようとすると、ここ一番という時になって必ず失敗するんですね。
問=ほう。それはまたどんなことなんですか。
梅原=非常に名のある研究者の集まった大事な実験会で、いつもは起こっている現象が全く起こらなくなったり、低調になったり、極端な場合には、それまでトリックをやらなかった霊能者が突然トリックめいたことをやってしまうこともあります。またあとになって反対論者につけ入る隙を与えるような実験のやり方の不備が発見される場合もあります。同じことが「超能力の証明」のときにも起きていますね。福来友吉博士が東京帝大の学長の協力まで仰いで行なった念写の実験は、日本のアカデミズムの世界に超常現象の研究が入りこめるか入りこめないかの瀬戸際の出来事でしたが、未だに釈然としない奇怪ないきさつで、逆に福来さんが帝大から追われる原因となってしまった。これらのことがいつも心霊研究全体を疑わせるものとして喧伝されるんですね。百の現象が一つの失敗例で否定されてしまう。
西洋の研究者の間で言われている「挫折の法則」の一番いい例は、心霊研究史上最大の証拠物件と言われる、木で作った独立した二つのリングの交差の問題です。これはアメリカ心霊研究協会の会長だったウイリアム・バットンという人の提案でやった実験例なんですけど、異なった木の材質で作られた、何組かのリングについての交差の実験が何回か行なわれ全て成功したのですが、不思議なことに、科学的証拠物件となるべきこれらのリングは、後日、厳重な保管の下にあったにもかかわらず、全部破壊されてしまっていたのです。人為的な原因はまったく考えられませんでした。
物理的心霊現象はスピリチュアリズムの勃興期から戦後のある時期まで、優秀な物理霊媒が輩出して盛んに生起したのですが、これの客観的記録ということになると、いろいろ問題があり、写真なんかでもエクトプラズムが白色光を嫌うので赤燈下でとらなければならないという制約があったのです。心霊写真はキメ手にならないというので、そこで暗闇でも自由に連続して写せるテレビのようなものが要求されたのですが技術の方が進んでこの条件を満たせるノクトヴィジョンのようなものができてくると、今度はその時期になって、どういうものか物理的霊媒の方が世界的に払底してきてしまって、現在では世界中のどこでもあまり物理的心霊現象が起こらなくなってしまったんです。さらに、いったいどういう実験が行なわれれば科学的に霊魂の存在が証明できたことになるのという問題に対しても、次々と妙なセオリーが現われてきました。その代表的なものは現在では超ESP仮説でして、結局どういう実験をしてみてもだめなんだというところまで行っちゃっているわけなんですね。つまりこの超ESP説はESP能力の限度をはずしてしまったようなもので、霊魂仮説はどこまでいってもこれを凌駕(りょうが)することはできそうもありません。しかも科学的な視点に立つ人から見ると同じように超常的な理論であっても、この超ESP説の方がなぜか科学的に見えるらしいのです。このような認識を改めなければどうにもならないのです。
問=科学者は、どうしても霊とか心霊という言葉を使いたがりませんからね。
梅原=要するに、これらの事情等をひっくるめていろいろ考えてみますと、現在までのところ霊魂存在の問題を科学的な立場で完全に証明するというのは不可能かもしれない。それはなぜかというと、霊界自体にその証明を拒んでいるフシがあるということで、私はそれに意味があると思っているんです。つまり、科学的に完全に証明されるということは、霊魂の存在についてそれを認めないことが不可能になるわけですね。つまりそれを認めることを強制されることになるわけですよ、科学的に。信じたくない人も、あるいは魂がまだその段階に来ていない人も科学的にはそれを信じなくてはならない。ところで、霊的な知識というものは、それを獲得する人間の魂の成長の度合いに応じてというのが鉄則なのですね。このことをマスターとか導師とかいう段階の人々はよく知っています。また誰でもいざ教える立場になれば分かることです。未熟な人間が霊魂および霊界の存在を教えられるとどういうことが起こるかというと、たとえば、中学生がビルの屋上から飛び降りるようなことが起こります。霊界があるならそれもいいじゃないかというような理屈がつけられます。それから裁判のようなものはどうなるのでしょうか。この世で起こることにすべて霊界が関与しているとなった場合には、裁判官は判決を下すことができるでしょうか。交通事故の際、事故の補償をするのは果たして加害者の側であるべきか被害者の側であるべきかも問題になります。真の霊的原因など裁判官に判断できるわけがないからです。そうした場合には霊能者を呼んで来ることになるでしょうか。しかしどの霊能者が一番正しいなどという基準が示せますか。この世の論理が根底から覆されて、収拾がつかなくなる可能性があるわけです。しかし科学が霊媒の存在を確証してしまった以上、裁判官もこれを顧慮せざるをえませんしね。
問=つまり、最高裁判所は霊界の側ということになるわけですよね。
梅原=それから、霊能力の悪用の問題も出て来ます。これも大変な弊害を呼ぶでしょう。つまり知識は常に両刃の剣で、霊的な知識についてもそれがいえます。人間のモラルや魂の成長がこれに伴わない限り、悲惨なことになります。ある意味では中世や古代の暗黒面が復活することになりかねません。しかも科学の保証付きで疑うことは許されないんですから、いったいどういうことになるでしょうか。個人の問題でもそうですが、人類全体の問題としても、霊の問題を解禁した場合の対処法を人間はまだ知らないのですね。先ほどの裁判のことをとってもそうですが、社会制度その他の面でも十分に対応できる段階まで人間はまだ全体として進化していない。このような段階ではまだ証明は個人的なレベルにとどめた方がいい。霊界ではそう判断していると私は思いますね。
問=数年前に比べると、確かに「精神世界」の台頭はめざましいものがありますが、全体としてみるとまだまだ圧倒的にマイノリティーですからね、とりわけ日本では。
梅原=しかし一方で、逆の強制ももちろんよくないのです。つまり、霊魂が絶対にありえないという強制ですね。唯物論と科学が結びつくとこの型になります。現代の学校教育は暗黙の中にこのルールに則ってなされていますよ。これは魂に対する逆の強制で、それがいかに個人の魂の成長を抑え、傷つけているか計り知れません。魂が霊の認識を必要とする段階が来ても、科学や唯物論の軛(くびき)あるいは伝統的パラダイムがあるためにそれから脱け出せないでいる人が無数にいます。魂にその時が来ても科学がそれを絶対的権威で抑えつける、ある国々では政治的にさえそれを強制される、これは魂の自由の問題としても見過ごすわけにはいきません。
ハイズヴィルの事件以来、霊的認識の民主主義が霊界の許可によって解禁になったと私は見ているわけですが、しかし無制約、無制限にではありません。人類全体はまだ霊的認識を謳歌しうる時期に達していないのです。しかしそれを求める人に対しては公平に与えられる時代がやって来ました。つまり一部宗教者や秘儀伝授者の特権ではなくなったのですね。近代人はあたかも権利のごとくすべての知識の公平を要求し、科学はこの原則に立っていますが、霊的な知識についてはもともと非公開が原則だったのです。教える場合には、師たるものが、弟子の魂の進化の度合いを見て一対一で教えたんですね。しかしその場合は弟子たるものがその知識を誤用した場合の責任は死後に至るまでも師の責任です。教えることを制限せざるをえないのも当然のことですね。
ハイズヴィル以降、霊的な知識が基本的認識の部分に限って解禁になったのには、大雑把に言って二つの理由が考えられると思います。一つは科学主義の成功と唯物論の潮流です。この二つは当面セットになって人類に受容されています。従って科学の成功は認識論的な霊魂の否定を結果するのです。このようなことを霊界が黙視するわけではありません。従ってスピリチュアリズムの運動は、理性に訴え証拠を提供する形での唯物論への反撃です。
もう一つは人類の進化の問題です。科学がここまで進んだということは人間の意識の進化がある一サイクルの極限まで進みつつあるということを意味しています。従ってもう一方の霊的意識もそれに応じた深まりを見せなければならない時期に来ていると思います。その意味で私は、最近数十年におけるコンピューターの進歩を非常に象徴的な出来事として受け取っているんです。このような反霊的な、いわば科学技術の粋のようなものが大成功を収めて、ついに思考という人間意識の聖域にまで押し入っていこうとしている時期こそ、もう一方で霊的認識の深められる時でもあると考えるわけです。右手の成長する時期は左手の成長する時期でもあるということです。言い換えれば神および高級霊界は霊的知識の普遍化を条件として、コンピューター的なものの普及を許したと考えられるのです。
進化は一時代サイクルの終焉を意味するものでこの時期には試練が伴います。魂は試練なしには成長できないからです。試練の時代というのは他面から見ると危機の時代です。人類は次の進化期に進級するための大きな危機に直面していると思いますね。科学的知識と霊的知識を総合して、いかにしてより高次の認識に達するかというテストの時代です。
問=それこそ、総合の時代つまりアクエリアン・エイジに課せられた使命かも知れませんね。
梅原=今日、科学的知識ばかりではなく、政治的状況や経済的状況も、またそれらを取り巻く危機ですら世界的な規模での普遍性を獲得しています。人間殺傷兵器ですらも世界的な規模のものになりました。にもかかわらずなぜか思想だけが、相対主義に陥って普遍化とは逆の方向に進んでいます。一つの思想は一つのグループの中だけでしか信じられていないのです。従って思想は今日の危機と対抗できるだけの普遍性を持ち合わせていません。思想は無力です。少なくとも現在の危機に対しては。
問=そこで、スピリチュアリズムの現代的意義が問われると思いますが。
梅原=スピリチュアリズムの持つ単純平明な普遍性は思想のように狭いものではなく、むしろ「認識」に近いものです。欧米の人はアウェアネス(覚識)とも言っています。それはたとえば「霊魂は存在する」という認識です。スピリチュアリズムは特にそれを言い立てます。ほかで言わないからこそスピリチュアリズムがそれを言うのです。こうした高い普遍性こそが今は必要だと思うのです。そして人類をある高次な認識に向かって結びつけることになるのだと思いますね。
人類の次の段階の進化のために、霊的世界への基本的認識が開示され、これをできるだけ多くの個人の魂に刻みつける必要が生じたのだと思うのですね。その基本的認識とはスピリチュアリズムの三つのテーゼです。すなわち、死後の個性存続(霊魂存在とその不滅)、顕幽の相互交渉、そして魂の永遠の進化です。スピリチュアリズムの運動は、この三つの基本的認識のために証拠を提供しつづけ、人類を霊的目ざめのために鼓舞することです。スピリチュアリズムはそれを個人のレベルを超えたある規模で行なおうとしており、従ってこれは世界的潮流として現われているんです。そのことが先ほども言いました人類の進化と危機の普遍化に対応するものとして時代的に要請されているわけです。
スピリチュアリズムの真理を科学的真理のように絶対的なものとして人類に強制はできないと言いましたが、またその必要もないんです。当面の戦略としては唯物論に対して五分五分の論拠を提供できれば十分だと思いますね。少なくとも唯物論の強制から免れさせて、個々の魂に選択の余地を与えれば上出来です。あとは個人の魂の責任と進化の問題になると考えています。人類全体が七分とか八分の割合でスピリチュアリズムの共通認識を持つようになったときは、人類全体として次の進化のためのイニシェーションを通過することでしょう。そしてそれがダメなときは当然退歩と破壊が予測されます。最近高まってきた人類の危機と破滅のあらゆる予言はこうした徴候の一方の面を表していると私は考えています。
さて、いよいよ質問に対する答えになりますが、こうしたスピリチュアリズムの世界的な潮流に呼応して、日本にもこのスピリチュアリズムの橋頭堡(ブリッジ・ヘッド)を築く必要があると考えます。もう一つは、こうしたスピリチュアリズムの歴史的、人類的要請をよく理解して、純粋にまた献身的に貢献できるスピリチュアリストの出現が望まれますね。とくに霊能者と言われる人々や啓蒙運動の組織者たちにこのことを理解してほしいんです。いずれ日本にもスピリチュアリストのユニオンが出来ることでしょう。
現在日本ではスピリチュアリストとして分類されるべき人々は、日本心霊科学協会の大部分の会員も含めて、スピリチュアリストというよりも、むしろスピリチュアリズムのある一面の需要家たちであると考えられます。ほとんどの人はスピリチュアリズムと俗流オカルティズムの区別をせず、功利的な感情からスピリチュアリズムに接触点を持っているのですね。もちろん最初はそれで構わないわけですが、肝心のスピリチュアリズムの供給者に擬せられる人たちがスピリチュアリズムの源泉に触れていず、またその本質を理解もしていないので世の中の澎湃(ほうはい)たる精神世界に対する要求に対して指導性を発揮しえず、また方向性を与えることもできないでいるのが現状ではないでしょうか。ですから人類の霊化に先立って、まず確信的なスピリチュアリストの養成、つまり指導者層の覚醒の方が必要だと思っているんです。
しかし別の面から言えば、スピリチュアリストはどこにでも、また密かにも存在します。何も決まった団体に属していなくてもよいわけですね。日本にシュタイナーの人智学を紹介された高橋巌(いわお)先生がかつて私の前でシルバー・バーチを引用されながら人智学はスピリチュアリズムであると明言されました。目的や方向は同じだけど、それぞれの役割と強調点が違うだけなんですね。スピリチュアリズムはその基礎的部分を担当するので、霊的義務教育だと私は表現しているんです。隣人の霊的成長を援(たす)けることは人間の義務なのです。人類の霊的覚醒と来るべき進級試験のために、第一関門の通過者たちが横に緩やかな連合を形成すべきで、こうした考え方への同調者はかなり多いと私は見ているんです。
問=アクエリアン革命(コンスパイラシー)というわけですね。
梅原=スピリチュアリズムを理論と実践と普及の三つの観点から考えてゆくことが必要だと思います。しかもそれらを総合的な視点から組織論的にも考え合わせる人材の出現が望まれます。私自身は必要に迫られてこの四つの点に留意したつもりです。
考えてみますと、私自身それほど変わった事件や個人的体験に遭遇したわけではありません。自分自身の精神に触れる習慣と、理詰めの思索と霊能者と言われる人々に接触することによってこの世界に引き入れられました。しかし何よりも肝心だったのは、誠実なと言ってもよいスピリチュアリストたちが残した諸記録を人間の体験として読んだことが魂を揺さぶり、その魂の感動によって確信的なスピリチュアリストになったのだと思います。この程度のことは誰にでも起こりえます。もし超常現象に出くわさなければスピリチュアリストになりえないのならば、人類の多くが体験するような事柄は超常現象とは言えないことですから、それは最初から不可能なことです。人々が私と同じだけの資料文献を偏見なく読む機会を持ったならとたえず思います。当面スピリチュアリズムがいかなるものであるか、それがいかに高貴であって、かつ人類の必要と合致するかを知らせるための資料提供の仕事をしなくてはならないと思っているんです。
スピリチュアリストは、スピリチュアリズムの理念を体して、社会に貢献できる態勢を早く整えるべきだというのが私の基本的な考え方です。それから、霊的なことを扱う団体は、どこの団体でもそうですが、指導者層がその責任と理念をはっきり自覚すべきです。そうでなければ一指も手を染めない方がよいのです。霊的なことは両刃の剣で、放任しておけば社会的な害悪となるか、最悪の場合にはブラックに利用される可能性が高いからです。

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