【エッセイ】『世界心霊宝典』(全5巻)解説集

『世界心霊宝典』(全5巻)解説集

掲載日:2011年10月21日
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本稿は、梅原伸太郎編・監修『世界心霊宝典』(全5巻、国書刊行会、1985-86年)の各巻末に収載された梅原伸太郎氏による解説・あとがき等をまとめたものである。
【目次】
第一巻『霊訓』(ステイントン・モーゼス著、近藤千雄訳、国書刊行会、1985年) 編者解説
第二巻『不滅への道』(ジェラルディーン・カミンズ著、梅原伸太郎訳、国書刊行会、1985年) 解説
第三巻『スピリチュアリズムの真髄』(ジョン・レナード著、近藤千雄訳、国書刊行会、1985年)付録
第四巻『ジャック・ウェバーの霊現象』(ハリー・エドワーズ著、近藤千雄訳、国書刊行会、1985年) 編者解説
第五巻『人間個性を超えて』(ジェラルディーン・カミンズ著、梅原伸太郎訳、国書刊行会、1986年) 訳者あとがき

世界心霊宝典第一巻
『霊訓』(ステイントン・モーゼス著、近藤千雄訳、国書刊行会、1985年)
編者解説
人間の代理人としてのモーゼス

ステイントン・モーゼスに生じた霊現象を単なる個人的怪異現象とみるべきでないことは、スピリチュアリズム勃興の端緒となったハイズヴィルの叩音現象その他が、単なる騒霊事件や時代の一エピソードとみなされるべきでないのと同様である。
霊や霊界を認めるに至った人は、初めのうちは、とかく霊界を怪異現象や妖魅怨霊の卸問屋のように考える傾向がある。これはおよそ霊のインテリジェンスを認めない考え方で、そういう人々の判断力には少なからぬ問題があろう。何故なら霊とはそもそも intelligence であるからである。スコラ哲学で純粋知性といえば天使のことを意味する。
一八四八年に起こったハイズヴィル事件(詳しくは本集の『スピリチュアリズムの真髄』参照)が忽ちアメリカ全土にスピリチュアリズムの広がる契機となり、それが欧州に飛び火して心霊現象の科学的研究の発端ともなったことは、歴史の示すところ、水上に船の航跡を見るよりも明らかである。霊界や霊の知性を認めれば、これらの歴史的経緯に霊界の意図が働いているとみることがむしろ自然である。
もっともこうした推論は唯物論的知性の最も嫌うところであろう。がしかし、まさにそうした唯物論的知性の無制限な一般化こそスピリチュアリズムの阻止しようとするものであり、その源泉はこの世を超えたところにある。唯物論が力を失いつつある現在、こうしたいささか乱暴な言い方でさえ多少の権利を有するようになった。(唯物論の側は殆ど常に乱暴であったが。)
モーゼスの身辺に起きた霊現象は並々のものではない。最初は空中浮揚であった。スピリチュアリズムとの接触があってから五箇月目に、モーゼス自身の身に異変が起きたのである。突然彼の身体が、何者か目に見えないものの手によってテーブルの上に投げ出され、それから近くのソファの上に運ばれたのである。同じことが三度起きた。寝室の置きものなどが十字形に並べられていることなどもあった。二人がかりでなければ一インチも動かないような大テーブルが片足を上げてギシギシと動き出す。エネルギーが満ちているときは部屋中が絶えまなく震動していた。
交霊会ではアポーツ(物体移動)や霊光現象が頻出した。楽器もないのに音楽の奏でられることもある。直接談話〔何もないところから声が発せられる〕や物質化現象〔霊の身体が実体として出現する〕も一通りは起こった。これらのことはポルターガイストのように無秩序に起こるのではなく、高級霊団の指図によってよくコントロールされていたのである。またこうした客観現象は、友人のスピア医師夫妻や、サージャント・コックスが目撃して証言しているので、幻想や、妄覚ではない。(物理的心霊現象の客観性は『ジャック・ウェバーの霊現象』でよく示されるであろう。)
モーゼスの自動書記現象はこうした客観的な物理現象と併せて生起したのである。イムペレーターの霊団があまり好ましいこととは思わぬながら、霊の世界の実在を証拠だてるために低次の霊を使ってこうした物理現象を起こしていたことは本文にみられる通りであるが、この点自動書記のみが現出する例と違った迫真力がある。
この自動書記は、本人の意思とまったく無関係に筆記されるものでありながら、なおモーゼスはこれを潜在意識の作用によるものではないかと疑っている。そのために自動書記中に一方で難解な本を読みつづけるようなことまで試みている。それでも彼の手は立派な文章を綴りつづけたのである。大切なことはモーゼスがあくまでも冷静な自己観察の態度を失わないことである。
自動書記現象の客観性や内面機構については『不滅への道』や『人間個性を超えて』のカミンズの例をみればよく分かる筈である。およそこの類の真性自動書記現象は、最近わが国でとりざたされているようないわゆる自動書記といわれているものとは違う。巷間では霊感書記(インスピレイショナル・ライティング)と呼ぶべき主観性の混入の甚だしいものを無批判に自動書記と言っていることが多いようである。こうしたものには元来その価値に仲間内での市場性しかないと判断すべきなのである。
『霊訓』に示されたモーゼスとイムペレーター霊団の問答をみているとその応酬の凄まじさに思わず息がつまるほどである。これほどまでに様々な現象や証拠を提示されながら(イムペレーターが、自分たちは充分な証拠を示したと言っているのもむべなるかな)なおかつモーゼスは霊の客観性を疑い、それが疑いえなくなると今度は霊の正邪、霊信の真偽を問題にして果敢に応戦している。けだし神との論争をさえ辞さなかったギリシャ的知性の伝統が生きているというべきか。
わが国の審神法(さにわ)(神廷に巫女と審神者(さにわ)が対座して下りた神や霊を審問する法)においても神や霊の高下正邪をただすのであるが、通常これほどまでの言語性と思想性はみられない。
身辺にあらゆる超常現象が起き、自分の身体や精神さえもがしばしば他界の霊に占有されている者としては、よくここまで頑張れたものであると思う。またイムペレーターの側が単なる霊媒体質の人間を選んだのではなく、このような強固な理性の所有者を霊的顕現の対象者として選んだのには、深く意図したものがあるに相違ない。こうした高級霊と霊的、知的素質者の出会いが滅多にあるものでないことは、モーゼスの例がスピリチュアリズムの歴史のなかでも一頭地を抜いていることでも明らかであろう。
モーゼスは近代的知性を備えた人類の代理人、それも既成の宗教に深く帰依した者の一典型として、霊の顕現と真向かっている。霊の方もそれをよく承知していて、モーゼスに理性を棄却せよとは言わない。しかし、イムペレーターはモーゼスに極端な懐疑を持つことを戒めている。極端な懐疑は全てのものを破壊し尽くして精神の営為やその源をも危うくしてしまうのである。懐疑とはもともとそうした出自のものなのである。知性がその基準を極限まで適用するときは、自己破壊作用を引き起こす。
ある種の知的な人々には生ぬるく感ずるかもしれないが、魂の成長に応じて生ずる高級霊の光への感知力をそのまま素直に享受してゆく以外に霊魂の進化を計る道はないようである。ここのところは大事な分かれ目になるところである。モーゼスの問答はこうした究極のことを人類に教え、示唆しているようである。モーゼスをたった一人の特異な経験者とせず、人類共通の体験として評価することが大切なのではないか。そうでなければ物理的心霊現象など百千起きたとしても意味はない。
後に、ステイントン・モーゼスは科学的心霊現象の研究団体として名高い英国心霊研究会(SPR)創始者の一人となる。バレット教授の協力要請を受けて、シジウィック教授、マイヤーズ、ホジソン博士、ガーニーなどを勧誘し、自らはSPR副会長のうちに名を列ねた。しかし二年後の一八八四年、彼は不必要に懐疑的な科学主義的態度に飽きたらずSPRを去ることになる。モーゼスがSPRと訣別したことは、スピリチュアリズムと心霊研究(サイキカル・リサーチ)が現在までのところそれぞれの異なった道を歩まざるをえなかった事情を象徴的に示していると思う。イムペレーターの教育はモーゼス個人に関する限り効を奏したわけであるが、人類が一つの類魂として、モーゼスの経験に学ぶのはいつの日のことであろうか。

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余談になるが、イムペレーターとブラヴァツキー夫人について触れておきたい。ブラヴァツキー夫人が初期のスピリチュアリズム運動に加わっていたことは周知の事実であるが、後に彼女の創設した神智学協会とスピリチュアリストのグループの間には不幸な摩擦の生じた時期があった。しかし会員名簿などでみると両者の構成人員は互いに重なるところがあったようである。ブラヴァツキー夫人はスピリチュアリズムのある面について非常に批判的であったが、当時『ライト』誌によって論陣を張っていたモーゼスとイムペレーターからの霊信だけは評価していた。
一八八一年頃、神智学協会の中で、イムペレーターを名のる霊は、実は現在生きている神智学協会の幹部の一人で、その人物がモーゼス本人に気付かれずに陰でモーゼスを操作しているのだという噂が広まったことがあった。事実、ブラヴァツキー夫人はイムペレーターが神智学会のロッジに関係しているとほのめかしていたことがあった。これを伝え聞いたモーゼスがイムペレーターにこの噂の真偽を尋ねてみたところ、イムペレーターは、それは全くの作りばなしであると答えた。そして、ブラヴァツキー夫人については、「彼女は我々と話したことはない。しかし、彼女には必要とあれば我々の存在に関する事実を確かめるだけの力はある」と言った。このエピソードは、スピリチュアリズム嫌いのブラヴァツキー夫人がモーゼスやイムペレーターには特別の位置を与えていたこと、またイムペレーターの方もとかく評判のあるブラヴァツキー夫人について、すくなくともその霊的能力については認めていたことが分かって面白いし、またスピリチュアリズムと神智学の関係をみる上でも示唆するものがある。

世界心霊宝典第二巻
『不滅への道』(ジェラルディーン・カミンズ著、梅原伸太郎訳、国書刊行会、1985年)
解説
◆カミンズとマイヤーズ

本書はジェラルディーン・カミンズ“The Road to Immortality”(初版一九三二年、本訳書は一九六七年版を使用)の翻訳である。戦前に浅野和三郎訳のものが『永遠の大道』として出ているが、本書所収の序文、交差通信記録、補遺等を含んでいない。『永遠の大道』は明治の美文家として鳴らした浅野先生(以下簡単に浅野とする)らしい名訳であるが、余り原文に忠実であるとはいえない。適当に省いている所もあり、自家の説を加えている所もある。当時の啓蒙書として立派に役割を果たしていると思うが、現在の段階になると、重要書であるだけに細部が気になる所もあり、また本書には、浅野訳にない部分も大分加わっているので、再訳の意義はあるであろう。しかし実をいえば、永いことこの浅野訳も一般読者に入手できない事情がつづき、再訳の要望が多数あったので、是非という近藤氏の勧めもあり本集に加えることにしたものである。この書はいわゆる霊界を語ったもののうちの白眉である。欧米でもスピリチュアリズムの最重要文献として挙げられている。単なる霊界描写とは異なり、各界の特質や相異点が哲学的にえぐり出されている。それでいながら必要な具体性も備わっている。また意識や記憶についてもその本質を知るうえで示唆に富んでいる。さすがは学者で、心霊研究に打ちこんでいた人の通信であるという気がする。霊界のことを描き出したり報告したりするにしても、要はそれをなす人(霊)の問題意識が重要である。観察者に問題意識や各階層間の識別能力がなければ、たとえ霊界の実相を描写したとしても陳腐なものとなるのではなかろうか。
ジェラルディーン・カミンズ Geraldine Cummins(一八九〇-一九六九)はアイルランド、コーク市のアシュレー・カミンズ教授の娘で、女流作家であった。優れた自動書記霊能者として知られ、使徒フィリップ(ピリポ)や、クレオファス(クレオパ)やF・W・H・マイヤーズからの言信を受け取ったとされる。彼女の霊媒能力は、一九二三年十二月、E・B・ギブズ嬢と交霊の試みをした時に始まった。彼女はそれまで神学やそれに類似の学問を学んだことはなかった。広く国外を旅行したが、エジプトやパレスチナの地を訪れたことはなかった。
普通彼女が創作する時の速度は極めて遅いが、自動書記を取るとなるとその速さは驚異的であった。一九二六年三月十六日の書記では、一時間五分の間に一七五〇語を書き上げた。彼女の最初の本『クレオファスの書』は、『使徒行伝』や『パウロ書簡』の内容を補うもので、初期教会やイエスの死の直後から、聖パウロがベレアの地を出立してアテネに向かうまでの使徒たちの行跡を物語った歴史物語である。この本の最初の部分は、ブライ・ボンド【補注1】らとの協力のもとに通信を受け取ったが、その後は彼女自身で受け取ったものである。
二番目の本『アテネにおけるパウロ』はこの話の続きである。第三番目の本『エフェサスの偉大な日々』もまたこの流れに沿ったものである。これらの自動書記が書かれる模様は高名な神学者やその他の権威者によって目撃された。彼女の本を編集した学者たちはこれらの本には立派な価値があると認めている。額面通り受け取ってよいものならば画期的なものである。一連の本は使徒行伝のあいまいな部分に新たな解明を与えるもので、作者は使徒たちのグループやその時代のことによく通じていたことを示している。どうみてもそれらが潜在意識の産物であるとは考え難い内容を含んでいるのである。その一例を挙げれば、アンタキアのユダヤ人社会の長をアルコーンと呼んでいるが、通常、クレオファスの時代の少し前まではエテルナクと呼んでいたものなので、それが分かるのはよほどの学者でなければならない。
クレオファスというのはこれらの自動書記の直接の書き手ではなく、物語は使いの者を通してやってくる。すなわち七人の書き手たちがクレオファスに導かれているのだという。クレオファスの年代記は初期の教会では知られていたが、幾らか残っていた写本は失われてしまったものらしい。
第四の本は『不滅への道』である。霊界のF・W・H・マイヤーズが伝えてきたといわれる通信集で、人間の魂が永遠に進化する様を壮麗な絵巻物として描きだしている。
オリバー・ロッジは序文のなかで次のような賛辞を呈している。「この本は、十分な教養を持ち、献身的な奉仕心に溢れ、かつ一点の曇りなき誠実さを備えた自動書記者を通して得られた、能う限りの真実を伝えんとする純一の企てであると信ずる」(以上、ナンドー・フォドー著『心霊科学事典』よりG・カミンズの項訳出)

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「献身的な奉仕心に溢れ、かつ一点の曇りなき誠実さを備えた」というのはけだし霊能力者に要求しうる最高のものであり、それはそのまま最高の賛辞である。わが国の霊能力者がいつの日かこうした水準に到達することを心から希望する。
またこれは必ずしもすべての霊媒に要求されることではないが、マイヤーズほどの学識ある霊の通信ともなると、よほど教養ある霊媒でなければその通信を受け取ることができないようである。それは、マイヤーズ霊が言うように、自動書記は無意識になされるとはいえ、霊媒の内在意識が行なう通訳なのだということである。霊媒の内在意識が翻訳することもできないような霊信は受け取ることも不可能だというのである。われわれは知識のないうちはとかく霊というものを否定してかかるが、一旦それを仮定するときは、どういう訳か無意識の内に霊媒の万能を前提としてしまう。しかしそれは誤りで、霊信は送り手と受け手の共同作業だということになる。この点にもわれわれの「霊」というものに対して抱きがちな先入主の大いに修正されなければならない点があるようである。
F・W・H・マイヤーズ Frederick William Henry Myers(一八四三-一九〇一)は古典学者、詩人としての一面をもった最も卓越した心霊研究者の一人である。科学思想に革命をもたらすかもしれない宇宙哲学の創始者。特にその著『人間個性とその死後存続』は心理学と心霊研究にまたがる大著として有名である。ケンブリッジ大学の古典文学の講師および学監を勤めた。
彼はこう考えたという。もし霊的世界がかつて人間世界と交渉をもったことがあったとするならば、現在も同様のことが起こっているのに相違ない、従ってそのことの明白な証拠を見出すためのまじめな研究がなされるべきだ、と。彼はそうした研究の結果、霊的世界からの働きかけがないと科学的にはっきりすれば、人間の道徳や宗教にたいする打撃ははかりしれないものがあると考えた。何故なら、現代では幻想でありトリックであることが、昔は真理や啓示であったというのでは現代人の知性を納得させることはできないからである。
彼は可視世界の現実的な知識を組み立てるのと同じく冷静で厳密な研究をするための幾つかの方法を考えだした。そして心理学方面からの科学研究に全力を傾注した。彼の生前に出されたSPR十六年間の報告書のすべてに彼の研究結果が掲載されている。有名な『生者の幻像』の分類法は彼のアイディアによっている。「テレパシー(telepathy)」、「超常的(supernormal)」、「真性の(veridical)」とかいうことばは彼の創案になるもので、その他にも彼が初めて用いてそれほど一般化していないこの種のことばはかなりある。
彼は心理学国際会議の組織化にあたって重要な役割を果たした。SPRにおいては一九〇〇年にはそれまで高名な科学者によってのみ占められてきた会長の座に選ばれた。『フォートナイトリーレヴュー』や『十九世紀』誌の寄稿家として活躍し、一八九三年には論集『科学と未来生活』を上梓している。
主著『人間個性とその死後存続』は死後に刊行された。これは当時マドラス大学の教科書として採用された。この著は、人間の識閾下の自我こそが真の自我であり、かつ心霊機関であり、いわゆる通常意識はこの真の自我の一断片にすぎないこと、また超常的知覚は肉体に拘束されない「魂の生命」のもつ通常の知覚であることを明らかにした。彼はそれまでスピリチュアリストによって主張されていた「殆どの超常現象は死者の霊によってひき起こされる」という考えを退けて、作用者、ないし受け手の人間自身の霊によってひき起こされるものが多いと結論した。こうした考え方は混沌とした心霊現象を整理するのに役立った。一方彼は死後存続についても大いに可能性ありとしている。閾下自我の力とされる能力が生きている間の魂の進化過程を通じて衰えず、この世において何の目的もなく保存されるのは明らかに死後の生活のためである。もしそうした目的がないとしたら、無意識があらゆる思想や記憶を注意深く保存しつづけるのはいったい何のためか?
ジェイムズ教授はこの潜在意識の問題を「マイヤーズ問題」と名付けた。「この問題について将来どのような結論が下されるにしても、彼の研究に、幻覚、自動現象、二重人格、霊媒現象およびそれに付帯する諸現象を研究した最初の試みであるという名誉が与えられることは間違いない」といっている。また心理学者フルールノワ教授は「もし将来、帰幽者の霊が錯綜したわれわれの心的物理的世界に干渉するという彼の理論が証明されれば、マイヤーズの名はコペルニクスやダーウィンと並んで、宇宙論、生物学、心理学の分野における科学思想に革命的変革をもたらした天才として永遠に記録されるであろう」と最大級の賛辞を述べている。そして彼を精神科学の分野における同時代の第一人者としている。リシェはといえば「マイヤーズは神秘家ではないとしても、神秘家のもつあらゆる信念、使徒のもつ情熱に併せて学者のもつ智慮と正確さを合わせもっていた」といっている。またオリバー・ロッジはその覚え書きに次のように記した。「私は彼ほど人間の死後の運命について楽観的であった人物を知らない。彼はある時、私にこう尋ねた。もし君の死後の運命と引き換えにこの世の太陽が消滅するまでの永きにわたる純乎として賢明な地上生活の幸福が保証されるとしたら、両者を交換できるかね、と。彼は自分ならそうはしないと言った」
『人間個性―』においては物理的心霊現象について殆ど言及していない。彼は念動現象の起こることを信じてはいたが、クルックスとの実験にも立ち合ったにもかかわらず彼の観察した限りでは、彼の本のなかで正当なものとして公表しうるほどのものではないと思えた。しかしながら、憑依作用を扱ったところで、彼は憑依霊は肉体をその所有者以上に巧みに使用し、肉体との関わりなしにかなりの重さのものを動かしてみせると率直に述べている。一八七二年から七六年までの間に観察した事例については退屈で厭うべきものとの感想を記している。
マイヤーズは一八七四年五月、エドモンド・ガーニーと共にステイントン・モーゼスと知りあい、その後親交を結んだ。一八九二年にモーゼスが亡くなったとき、マイヤーズはモーゼスが霊信を記録したノートを研究用に託されている。SPR報告書の第九巻、第十一巻に載せられたマイヤーズの記事はモーゼスの驚くべき交霊現象について見事な説明をほどこしている。がしかし、マイヤーズ自身はモーゼスの交霊の模様を実際に見たことはなかった。
マイヤーズは物理的心霊現象については一貫して冷ややかな態度をとりつづけている。しかし現象そのものは何度か観察している。一八七八年にはウッド夫人とフェアラム夫人の現象を見ており、これはケンブリッジのシジウィック教授の部屋でSPRの援助の下で行なわれたものであり、現象は真性のものであったが、これについてマイヤーズは沈黙を守っている。その後リシェ教授がルボ島で行なった有名なユーサピア・パラディーノの実験を見たり、エヴェット夫人やデスペランス夫人、デヴィッド・ダグィッドなどの交霊実験などを目撃した。パラディーノについてはリシェからの強い要望で、念動現象とエクトプラズムの現象については真性のものだったと証言している。しかし、依然として彼は物理現象には余り気のりがしなかったらしい。SPR所属の霊媒トンプソン夫人は、彼のお蔭で物理霊媒になるのをやめてしまい、専ら主観的入神霊媒としての能力を開発した。その結果、マイヤーズは彼女から死後存続の証拠を得ることができた。
マイヤーズの死後多くの霊媒が彼からの通信を受け取ったと称した。このなかには信用のおけないものもあったが、バイパー夫人の受け取ったものは最も信頼度の高いものだったとされる。カミンズの受け取ったとされる『不滅への道』に関しては、マイヤーズの友人であったオリバー・ロッジが、それをマイヤーズのものと考えても何らおかしいところはないと言っている。(以上前記『心霊科学辞典』マイヤーズの項より。一部は要約)
マイヤーズの主著『人間個性とその死後存続』“Human Personality and its Survival of Bodily Death”(1903)は真に大著というに値する浩潮なもので、一九〇三年版(Longmans, Green, and Co.)のものをみると大判で、上下二巻に分かれ、それぞれ細かい活字で七〇〇頁、六六〇頁にのぼる大部のものである。内容は上巻が、一、序説、二、人格の崩壊、三、天才、四、睡眠、五、催眠、六、感覚の自動現象、下巻は、七、死者の幽霊、八、運動の自動現象、九、トランス、憑依、エクスタシー、などの項目を載せ、それぞれ付帯資料を集めた本文と同じ程の分量の付録を付している。
心理学者としてのマイヤーズの人間探究は識閾下の真の自我とその潜在能力を明らかにし、遂に人間死後の存続の事実をも解明しつつあった。カミンズの自動書記の伝えるところによれば、彼は死後においても生前の宇宙論的魂の進化の説をますます発展させつつ、人間個性を超えた永遠の魂の進化の旅路についての研究を継続したということになるであろう。

◆スピリチュアリズムと証拠

いったいスピリチュアリズムといわれるものの信頼性とはどの程度のものであろうか。スピリチュアリズムにはそもそも信頼性など存在しないと考える人がいるかと思えば、一方で、信頼性の問題などはそこそこにして、いきなり霊媒の言うところを鵜呑みにしてかかる人もいる。そのどちらでもない人々のあいだでも、この一領域全体の信頼性を客観的に検討してみた人は比較的少ないのではないかと思われる。
従来、わが国で心霊研究といわれてきたものの実態はスピリチュアリズムである。スピリチュアリズムには「心霊主義」「霊交思想」などの訳語があり、心霊研究はサイキカル・リサーチの訳語とされながら、一時期かなりの長期にわたって、わが国の研究者たちのサイキカル・リサーチに対する理解が厳密性を欠いていたために、心霊研究とスピリチュアリズムとを混同し、両者を殆ど同じ意味に用いる伝統ができあがってしまった。従ってわが国では心霊研究とスピリチュアリズムは殆ど区別されていないが、この二者は欧米でははっきりと区別されている。今ここでは心霊研究をその本来のサイキカル・リサーチの意味に用いることにする。
心霊研究は心霊現象についての科学的な研究であり、百年余の歴史をもつ。その中心となったのは英国のSPRと米国のASPRであった。心霊研究に要求される厳密さは、あらゆる科学研究の厳密さを凌ぐものだといわれてきた。その心霊研究によって、いわゆる心霊現象の客観的な存在と、人間の超常能力については繰り返し観察され、それらのうちの主要なものは既に確実であると証明されたといってよかろう[例えばESPやPKの能力]。しかし、その現象や能力の背景説明としての「霊魂仮説」や「霊交」の可能性については多くの研究者は証明されていないと考えている。そうしたところまでは踏みこまないのが心霊研究一般の態度であり、超心理学は、この点を一層鮮明にすることによってようやく一般科学の仲間入りを果たすことになった。それ以上に踏みこんで、「霊魂説」の立場に立てば、その瞬間から、スピリチュアリストの仲間入りをしたと考えられているのである。
しかし心霊研究のこれまでの主要な研究者のなかには、既にこの二項については証明されたと考えた人がいたことも確かである。その点で現代の心霊研究は、クルックス、ロッジ、リシェの時代から後退したものと言えるのである。
スピリチュアリストの信念は、国際スピリチュアリスト連盟の採択した共通原則の二項(すなわち、一、死後に人間の個性は存続する。二、現界霊界間の交信は可能である。)に関して言えば、こうした初期心霊研究者のなかの大物たちの到達した結論と一致しているので、「科学的でない」という非難はあたらないであろう。後代の心霊研究者たちはこうした初期の大物たちの研究は厳密性を欠いていたとか、科学的な方法基準がその後みなおしされて厳密性を増したとか言いがちである。しかし果たしてそうか。その後の科学的な研究者たちが傑出した霊媒たちを得心がゆくまで研究していないことも事実だ。そうした霊媒(特に物理的霊媒)が払底してきたせいもあるが(その理由については本集第三巻『スピリチュアリズムの真髄』編者あとがきを参照)、心霊研究者たちが二流の霊媒のペテンを暴くことに熱中したり、ポドモアのように一つの失敗例で全体を推し量るという否定型の推論を専らにしていることにもよる。そして、いつの頃からか研究者たちが霊媒研究を殆どやらなくなってしまったことにもその原因がある。霊媒研究は学者としての危険を冒す確率が高いが、ことはそうした失敗を嫌う学者の功利性によって結論づけられるような種類のことではない。霊魂仮説や、交霊の事実を最もよく裏付けうるのが霊媒だとすると、霊媒研究をしなくなったのは、フェアではないようである。
証拠というものについてよく考えてみる必要がある。科学的な証拠とは何か。科学が独自の基準を立て、科学的証拠とは、万人の普遍的に承認しうる証拠を指すのだというならば、それはそれとして科学独自の道を行くのもよいのである。こうした普遍性の定義そのものが難しく、問題をはらんでいるが、ISFの二項といえども未だそのような意味での科学的普遍性を獲得してはいないとひとまず言えるであろう。しかし「証拠」とは必ずしも万人向けのものではない。また更にいえば「人間の知識」とは必ずしも万人向けのものとは限らない。
私の家で三十年前に飼っていた猫の「ミケ」を例にとっていえば、「ミケ」が存在していた科学的証拠は今はない。というよりもあらゆる証拠は跡形もなくなっている。それは私と、数人の家族の記憶のなかにしかないのである。従って、科学者が、確かに「ミケ」の存在していた科学的証拠を提出せよといっても、私にそれを提出することはできない。しかし、「ミケ」の存在したことはまぎれもない事実である。それは私に証拠を要求する科学者の存在と同じくらい確かなことなのである。
同様なことが他のいろいろな局面でも起こりうる。例えば私はこうもり傘に名札を付けておく習慣がないが、いつか科学者に、私の傘が確かに私のものである証拠を提出せよといわれたら、そうすることが出来ないと思う。しかし私は多分それが私の傘であると主張し続けることだろう。私の不確実で主観的な記憶に基づいて……。私は南極大陸は確かに存在していると学校で教わったが、格別の科学的証拠を握っているわけではない。私は虎の子の預金をある銀行の定期預金口座に置いているが、明日その銀行が破産しないという科学的証拠を誰からも受け取ってはいない等々。
右にあげた僅かな例をみても私の信念や知識、また何かが存在する、ないし存在しないという確信は、科学的証拠や証明と殆ど関係がないことが分かる。私が右のように非科学的な根拠に基づいて信念を形成しているからといって、私のことを非理性的だとか空想的だとか非難する人もいないと思う。
無論、ことは個人的レヴェルの信念の問題ではない。しかしこのことだけは確実である。人間の知識や信念は確実性や普遍性という点で段階がある。人間がこれまで獲得した知識のうちで絶対的普遍性ないし確実性を獲得したと思われるものは極く僅かである。「科学」といわれているものも、この絶対的普遍性の尺度を何処まであてはめるか次第で、不確実なものになってしまう。そうなれば科学が科学を自己否定する結果になるであろう。
スピリチュアリズムがこの百数十年間に霊魂の存在や、霊交の事実について提供しつづけた証拠は、私達が日常に採用している知識の確実性の根拠からしてみれば遥かに科学的で、かつ合理主義的過ぎるほどのものである。事実、神秘主義の陣営からはそう非難されている。霊魂問題については、前世紀以来の永い裁判が継続しているといってよかろう。科学は検事の側にまわり、スピリチュアリストは弁護側についている。公平にみれば弁護側は既におびただしい証拠を提出した。しかし、この裁判は科学の基準をどこにとるかで争われているようである。今世紀初めまで科学的でないとして検事側の退けていた、人間の超常能力の存在については既にスピリチュアリスト陣営の主張が認められ確実な証拠として採用された。検事側は、霊魂の存在を認めることが科学的基準を満たしていないと言っているだけで、存在しないことについての積極的証拠は何もないことを既に暴露されてしまった。それに対して、スピリチュアリストの提出した証拠は、それが在ることについての積極的な証拠である。こうした結果を見守りつつ、現在陪審員たる一般常識は次第に霊魂仮説を認めつつあるという状況である。この係争はあるいは二百年裁判となるかもしれない。しかし、その時争点は科学的基準とは何かの問題に移って行き、最終的にはこれまでの科学というものそれ自体が裁かれる結果となっていることであろう。
一方、被告たる宗教や、伝統的神秘主義は従来の証拠の提出なき主張はもはや受け入れられないことを知るべきである。スピリチュアリズムが手弁当で弁護をかって出ている事態に気付かず、それを競争相手が低次の宗教的信念の所有者だからとして攻撃するような愚はただちにやめるべきであろう。
スピリチュアリストと神秘家の主張の違いの大きな相異点は、右に述べた証拠の問題が主である。神秘家は証拠を提示せず、むしろそれを秘する。故にその教説は密教であるとか隠秘主義とかいわれる。彼らのもつ知識はもともと一般化を前提としていない。彼らは知識の独占を好むとしてしばしば非難される。しかし、彼らのもつ知識の本質が無用な一般化を忌むことも確かである。霊的知識は魂の成長に応じて与えられるのが原則であり、師たるものはよく弟子の素質と霊的成長をみてその教えを与えなければならないとされてきたからである。このことは今もって考慮されなければならない一点である。しかし科学的唯物論が力を奮って、人類の霊的起源に根源的な否定の矢を放った段階では事情が変わったといえる。と同時に人類全体が新たな成長期に達して、霊的知識がより多くの人に分け持たれることが必要な段階にきたのでもあるらしい。フォックス家のリーは「あなた方はもはやこの真理をおし隠してはならない」という霊界からの啓示を受け取った。前世紀以来同様な霊信が何度も受け取られている。
例えばここに一つの霊的現象があったとして、またある霊媒が霊界からの霊信と称するものを受け取ったといわれるとして、スピリチュアリズムにおいてはそのことが秘密にされたり、情報源が秘匿されるようなことはない。そうした現象は様々の角度から検討され、その現象や霊信の元となった霊媒もまたあらゆる角度から調べられるのである。
カミンズ嬢におけるマイヤーズの通信においてもそうした条件を具備していることを読者はみられるであろう。ギブズ嬢はよくその役割を果たしている。霊媒たるカミンズ嬢の日常や履歴についてよく知られていなければならない。そして霊信とカミンズ嬢のもてる知識の比較がなされる。また霊媒が霊信を受け取るときの書記のスピードはどのようであるか、書き損じや書き加えがないかどうか、書記に霊と称する者の特徴は現われているか、などが詳しく観察される。そして次のように記される。
《ひとりの人が今まで会ったこともない多くの人々の談話の癖、用字の特色、その人の具体的な個性などを似せて書くことができるなどとは考え難いのです。しかしカミンズ嬢の場合にはそれが当てはまるのです。何故ならこうした人格の劇化現象は彼の友人や親戚であるとされる人々によって調べられた結果、その人々によって是認されたからです。この現象は、心霊研究の既知の理論では説明できないものです。霊媒(ないし通訳)が未知の知識を獲得することの説明としては、テレパシー説ないし潜在テレパシー説さえ持ち出されるかもしれませんが、人格の再生となると不可能なのです。》(本書「要約」参照)
更にもうひとりの確実な霊媒(レナード夫人)との交差通信によってこの霊信が信頼するに足るものかどうかが確かめられている。従って、スピリチュアリズムの文献は、いきなり霊信が述べられるだけでは完結しない。その霊信が書かれるに至った経緯その他がよく分かっていることが大事なのである。本書の場合のように様々な人の証言や付帯資料によって資料的価値が完結するのである。その意味で本書の序文やレナード夫人との交差通信の記録が重要な意味を持つのである。
無論そのことによってすべてのことが為されたと考えるわけでもないし科学的な観点から十分であると主張するわけでもない。「スピリチュアリズムのこれまでの歩みは、人間がそもそも霊的な存在であることの堂々の主張であり、またそのための証拠提供の真に自己を滅した奉仕の道程」(ハリー・エドワーズ著、梅原隆雅訳『霊的治療の解明』解説参照)である。科学がその役割をより高次な段階にまで高め得る日まで、スピリチュアリズムはより少ない普遍性しか示しえないとしても、次々とその時期に到達しつつある人類の同胞のために霊的な真実への方向を示しつづける働きをやめることはないであろう。

◆類魂と再生

本書に述べられた「類魂」の概念は、再生の問題ともからんで霊魂研究の最も神秘、最も深奥な問題点を呈示しているといえる。この死後のマイヤーズが語る類魂説は、他のいかなる神秘学説にもみられない独自性をもっている。しかも、われわれが、霊魂研究の途次で遭遇する個々の事実の多面性や、時としては相互矛盾するかにみえる諸部分を全体として非常によく整合的に解決してくれる考え方なのである。
『不滅への道』の続編ともいうべき『人間個性を超えて』を読むと、魂はもともと集合的、共同体的な性格をもっているものらしい。これは個々の魂が一つの霊から分かれたものであるとすればむしろ当然のことである。まず、魂の基本的単位である「心霊単子」(サイキック・ユニット。男女一対になっていることがある)なるものがある。それから「家族類魂」(ファミリー・グループ)があり、ついで本書に述べられたような「類魂」(グループ・ソウル)がある。そして実はこの類魂よりも更に大きな「心霊族」(サイキック・トライブ)なるものがあるという。つまり魂はそもそも「類」として集まる性質をもち、次第に大きな類族をなしているようなのである。
『不滅への道』第六章では、類魂の成員として二十、百、千、二千という数字を挙げているが、第七章では、植物、動物はおろか他星界の生物までもがこの類魂のうちに養われているというような説明をしているのは、後者においては多分この類魂の単位を「心霊族」かあるいはそれ以上に大きな類魂にまで広げて考えているからであろう。敢えて推測すれば、死後のマイヤーズ霊がいるという第四界の「色彩界」においては先に挙げた数字が常態なのであろう。第五界、六界に至ればその類魂の範囲も一段と広がるものと想像される。しかし、そのうちに植物や動物や他星界の生物までを含む類魂とは、何と広大な生命の共同体であることか!
われわれは、もともと、一つの類魂に属しているが死後第四界の色彩界に辿りつくまでは自分がどのような類魂の成員であるかを知らない。というよりも、そもそも、類魂のなかに在るということすら知らずに過ごしているのである。幻想界ではまだこの類魂の事実は魂の間に知られていない(従って通常の霊界通信で類魂のことが語られていないのも宜なるかな)。第四界に至ってようやく類魂の存在に気がつき、また類魂を統括する本霊(上方の霊)の指導を強く意識するようになる。
しかし第五界に至って初めて魂は自己の属する類魂の特性や共同の目的を知るのだという。「心霊族」という更に大きな類魂の存在も知るようになり、必要とあれば他の星界に誕生して一層広大な宇宙の経験をする。第五界こそ魂にとっての革命的飛躍の時である。ここで魂は地上の雰囲気圏から脱し、各星界に共通の炎の身体を獲得する。「太陽人」としての再生(エジプトや目本の神話を想わせる)である(本集『人間個性を超えて』参照)。いわゆる火の壁を越えた存在となるのである。地球人もここまでくれば宇宙人である。宇宙人は他星界から飛来すると同時に地球からも出掛けていっていることになる。第五界では類魂の感情的な側面に通じ、第六界では知的な側面についても知悉する。そして本霊との合体を果たすのだが、こうなるとわが国でいう守護神や産土神の段階から更にそれをも越えているかもしれない。第六界を超えると時空を超えた宇宙神霊ともいうべきもののなかに参入するようであるが、そこへの最後の飛躍を行なうためには自己の属する類魂がすべて同じ六界のレヴェルまで向上するのを待つというのである。ここにこそ世界愛、人類愛の根源があるのではなかろうか。
地上においても様々なグループが形成され、われわれは地上においてそうした大小のグループの幾つかに属している。時としては自ら新しいグループを組織したりもしている。れわれはグループに入りグループを脱け出す。そしてまた新たなグループのなかに入る。われわれの一生の最大の冒険は一つのグループから他のグループヘ移行する時に経験されるであろう。われわれはそうした経験によって次第にこのグループなるものの意味を知るようになるのであるが、このグループとはどれも似たような内部機構を有することに気付くようになる。グループは地上では任意に形成されているようにみえるが、その印象がどれもいやに実体的でかつ生命的なのである。われわれは時としてこのグループの存在を不条理なものと思いながらも、それを架空のものとして無視することはできない。
こうしたグループがわれわれに感じさせる有機的、生命的実感はそれがそもそも霊魂のもつ類魂の生活を模倣したものであるからに相違ない。その意味でもこの世はあの世の反映的世界である。考えてみれば、地上においてもよく出来た組織においては、上位の者は必ず下位の者の経験を総合し、それらを併せて使用できるようになっている。自ら経験しないものも自分の経験と同じように使用できるのである。またそうした特能を備えた者が集団の長となる。上位の者は必ず想像力によって下位の者を使役している。死後の上層世界と違ってなかなか他の類魂の経験を知悉するというところまではいかないが、その練習をしているとまではいいうるであろう。
われわれの個としての根源的な不安も安心も皆このグループとの関係いかんに存するらしいが、地上でのグループ形成は仮のものであって、すべて模倣と練習なのではなかろうか。死後の世界にこそわれわれの本当の類魂があり、そこでこそ、その類魂が宇宙生命のなかで織りなしつつある模様、つまりその特性や存在目的や使命を知るのだというのであるから。
動物的な人や、幻想界までの魂は再び地上に再生する。しかし此処を越えて色彩界まで登った魂的な段階の人は殆ど再生しない。その代わりに、これまでの地上経験でつくり上げてきた生命の鋳型のようなものを新しい魂に委ねて代理の経験をさせる。そして自らは上方の光の一部としてこの未経験な魂を導くのである。いずれこの新参者の経験も自分のものとなる。そして類魂のなかにおける同類の魂と同調共鳴することによって、それらの魂の経験を自己の経験と変わらず吸収して学んでゆく。従って共感覚とはもともと魂の本質をなすものでなくてはならない。ESPないしテレパシーのもとをなす魂同士の共鳴感覚をわれわれは持ち、しかも将来にわたってこの感覚と能力を磨きつづけなければならないのである。そうしなければ魂としての高次の成長はないことになる。
わが国の心霊研究とスピリチュアリズムの大先達、浅野和三郎がこの類魂説と出会った時、彼は驚きかつ共鳴した。これまでの彼自身の調査結果と符節を合わせるように一致したからである。浅野には研究者と実践家の両面があった。英文学者であった浅野は欧米のこの方面の文献を渉猟紹介する一方、大本入信によって、既に二万例近い憑霊体験者を審神(さにわ。人に憑霊した霊と問答し、霊の正邪高下を判定すること)していた。
当初浅野の関心は類魂というより再生の問題にあった。彼は再生を肯定する立場であったが、実際に招霊してみると招霊しようとする当人は常に霊界にいるということが分かった。すると再生はないということになるが、腑に落ちず、もっとこの方面を調査してみる必要を感じたのであった。生前の浅野を知る井上忠一氏はこのいきさつを次のように書いている。

《先生が、人の背後霊を、招霊実験して調べておられた時、誰の場合にも、当人と性格や体質が酷似している霊が必ず一人いることに気付かれた。そこで、この霊は、当人の前生の人で、この人は、前生の分霊ではないだろうか、という発想を生じ、当時、先生の友達で霊媒の扱い方に慣れていた今井梅軒さん、この人と共同研究をされていたので、梅軒さんに話された。そこで仏教の「全部再生」が真実か、分霊の「部分再生」が真実かを調べてみようということになった。方法として、多くの人を呼び出してみる。ところが、全部再生論からは、呼び出している中その人は現界に出ているので、霊界にいないということで、呼び出せないことになる。つまり霊界不在である。そのパーセントが呼び出し総数に対して、どのくらいあるかという統計的な考え方である。(中略)
先生のお話では、三百人以上の招霊をされた。呼び出しできなかったのは、たった二人。しかし、その一人は菅公である。菅公は天神さんとしておびただしい信者から拝まれている。霊界におられるが、神格が非常に高くなっておられ、霊媒にかかって貰えなくなっている、と考えられる。もう一人の方の名は忘れたが、同様な理由であろう。そこで死んだ人は全部霊界にいるということになる。このことは分霊再生が真実だということを立証したことになる。
しかし例外がある。死んでから十年か二十年くらいの短期の中で再生している例がある。こんな場合は分霊を出すだけの年数を経ていない。
この分霊を出した前生の霊は、背後霊の中にいるので、「守護霊」と定義された。》(日本心霊科学協会『心霊研究』一九八〇-十一、井上忠一「老人の眼――部分再生論ほか」)

「分霊再生」は前生霊(守護霊)がそのまま生まれ変わるのではなく、自分の未浄化な部分を再生させるので「部分再生」ともいわれる。また、守護霊があたかも親が子を生むように分霊を生むので、「創造的再生」ともいわれた。
浅野の再生説は昭和三年頃から出ているが、その頃は議論がまだ充分に熟していず不充分であった、と後に述懐している。欧米行脚(昭和四年)を終え、海外の動きに大いに触発されて帰国したあたりから、浅野の許に少しずつ優秀な霊媒が集まるようになった。浅野はそれらの霊媒を用いて自前の研究を進めることができるようになった。井上氏のいう再生霊の調査とはこの時期のことなのであろう。昭和五年には「創造的再生説」を出している。

《私は再生肯定論者でありますが、ただ私の所謂再生説は、在来一般に信ぜられてゐるやうな、一本調子の機械的再生説ではなく、よほど複雑な手続きを踏む所の、創造的再生説とも称すべきものであります。そしてその出所は、自分の頭脳ではなく、又古経典でもなく、主として自分の手元にある、霊界との交通能力の活用に基づいたものであります。》(浅野和三郎「創造的再生説に就きて」『心霊と人生』昭和五年八月号所収)

「自分の手元にある、霊界との交通能力の活用」とは、すなわち霊媒による招霊のことである。浅野の用いた招霊法は、欧米の交霊会とは異なる日本独自の審神法による審問方式で(もっとも物理的交霊会などの時は専ら西洋式を用いた)、浅野はこれをごく無造作に行なったといわれる。多分彼一流の合理主義で無駄だと思われることは省いたのであろう。古式の帰神法よりはよほどその手続きが簡略化されているが、大体次のような方法を用いる。まず霊媒となる人間を神前などに座らせ、審神者がこれと対座する。祝詞などを唱えた後、霊媒を軽く瞑目鎮魂せしめる。この間、審神者は招霊したい霊を心に念じつつ石笛を奏する。審神者は一般に指頭よりいわゆる気を発してこれを霊媒の眉間に注ぎこむ。こうすることによって霊媒はやがてトランスか半トランス状態におちいり、やがて発言するようになる。これを霊信という。審神者は降霊した霊の名を問うなどして問答を進めるのである。こうした交霊がうまくいくためには、霊媒が天性の素質者であること、審神者に招霊の力や、備わった力量があることの二条件が必要なようである。
こうして浅野によって唱えられるようになった創造的再生説とマイヤーズの再生説には厳密に言えば相違点がある。マイヤーズは前生霊が新しい分霊を生み出すとまでいっていないし、また浅野が前生霊の未浄化な部分が第二の自我として分裂発生するのが再生であるといっているが、マイヤーズはそこまで言っていない。マイヤーズの言っているのは、前生霊がある枠組み(カルマ)を残し、そこに類魂のなかから新たな魂が入ってその枠組みを継承するということである。浅野の場合は第一の自我である前生霊は「守護霊」と名付けられる。マイヤーズの場合ではこれが本霊に連なる上方の霊の光となり、自己の枠組みを与えた霊と相互反射を営む。確かに表現と視角が違ってはいるが、矛盾はせず、お互いに相補的であると言いうるかもしれない。とにかく浅野はこのマイヤーズの通信を読んで初めて納得のいく再生の説明に出会ったと思った。浅野訳『永遠の大道』の評訳のなかで浅野は次のように記している。
《不敏ながら私も心霊学徒の席末を汚すものである。従って私の最大の関心事の一つは、いかに幽明交通の活用により、這間の真相を明らかにするかにあり、年来実験を重ねた結果、最後に思い切って提唱することになったのが、取りも直さず私の所謂『創造的再生説』である。それは事実、全部再生説に訂正を加へたものであるから、『再生』という文字を踏襲したのであるが、実をいふと必ずしもこの文字を使はなくてもよい。むしろ『創造的地上降臨説』とでも命名した方が正当であるかも知れない。私の調査した所によると、超現象の世界には、各自の自我の本体――所謂本霊がある。そしてその本霊から分かれた霊魂――所謂分霊は沢山あり、それぞれ異なった時代に地上生活を営んでゐる。此等の分霊中、普通地上の人間を直接守護してゐるのは、その人間と時代も近く、又関係も最も深い一個の霊魂で、それが私の所謂守護霊である。即ち守護霊といふのは、多くの分霊中の最も親密の一代表を指したので、無論同一系統に属する他の霊魂とても、悉く連動関係のあることは言ふまでもない……。
以上が私の『創造的再生説』の梗概であるが、今マイヤーズの『類魂説』を読んでみると、表現の方法に多少の相違があるのみで、その内容は殆ど一から十まで同一であると謂ってよい。》

再生に関しては従来から強力な肯定派と否定派がある。インド思想、神智学、人智学においては再生が強く主張されていることはご存知の通りである。スピリチュアリズムではラテン系のスピリティズム【補注2】が再生を教義としているほどであるが、英米には従来から再生否定派が多かった(これは最近変わってきているが)。大どころでは、ステイントン・モーゼスが否定派であった。本集『スピリチュアリズムの真髄』を著わしたジョン・レナードなども断然否定派にまわっている。肯定も否定もそうそうたる陣容を抱えこんで互いに譲らない。
ところで、これを霊界通信に徴してみると、通信霊にも両派があって、「今まで再生した例をみない」という霊があるかと思うと、「再生を知らないのはその霊が未熟だから」という霊もあり、これも二派に分かれている。こうしてみると、霊界通信などやはり当てにならないという人も出てこよう。しかしマイヤーズの類魂再生説を知れば、真理は両者の中間にあることが分かるであろう。前生霊のつくった枠組みをそのまま継承して新しい魂が地上に下りる。これを再生と呼べば再生と言えるし、再生ということばの本来の意味から外れると言えば確かにその通りでもある。つまり生きた真実とは人間の簡単な再生、非再生ということばで説明しきれるようなものではなく、そこには類魂を統体とした複雑な生命の連続機構があったのである。
このような比喩はどうであろうか。類魂を本店と考え、この世に生まれた個人を支店とする。そして全体を一つの法人格と考えてみる。今、支店の支店長が本店に帰って、新たに本店から支店長がやってきたとすると、この支店長は支店にとって、支店長が再来したというべきか、いや新来というべきか。前任者の作った支店という枠組みをすべて引き受け責任も負わなければならないという意味では、支店長は一旦死んだが再生したということもできよう。しかし法人格を取り除けば支店長は明らかに別人である。したがって支店長は新生したともいいうる。もし「再生」と「新生」の二つしかことばがないとすれば、ある人は支店長は再生したといい、ある人は支店長は新生したというであろう。
いったい子は親の再生なのか、それとも全く新しい個体の新生なのかという問題にもつながる。人間のように各個体が個性的な場合はともかく、アミーバのような段階では一つの個体が死んでも、全く同じものが連続しているのと変わらない。物的条件のなかで連続を維持するためにやむなく死という方法をとっているようにもみえる。これは人間以外の動物には多かれ少なかれ当てはまることである。考え方によっては生命発生以来、死はなかったのだともいいうる。
生命や意識の連続の問題を類魂という複雑な生命装置を本源として考える時、すべては全く今までの人間の常識を超えた様相を呈してくる。類魂は死なず生きつづける。そしてその一部を絶えず地上に下ろし、再生せしめ、これを養い導くことによって地上の経験を拡充している。
個は一つの天命を帯びて地上におり、経験の収集と自魂の成長を計るが、融合と同一化の本性を忘れずに類魂に帰一してゆく。マイヤーズ霊の言うように、「全体即個、個即全体」の境地が霊魂の高次の段階であるようだ。こうした感覚をわれわれはすべて予感的に持っている。地上における類魂集団(と見えるもの)はしばしば不快の観念さえもたらすが、あの世の高次な類魂となれば憧憬の念さえ覚えるほどである。
類魂再生説の重要無比な点は、それが、意識と「個」の連続の観念に全く新しい視野を提供することである。近代以後われわれの思考は「個」を中心とした考え方であって、特に生死を考える時は、肉体的な「個」を起点として考える考え方によっている。それは誰の目からみても一つの肉体が生成し、消滅すると見えるからである。肉体の消滅をもって個の意識も消滅したとする考え方は、意識の連続を考えるようになってからも痕跡を残す。すなわち個を絶対の条件とみなす考え方である。生命と霊の連続性からみれば、純然たる個として再生しなければならない理由はないのではないか。マイヤーズの通信において、動物的な人は再生するという。しかしわれわれは二度と肉体をもっては再生しない、とも言っているのである。これは「魂的な人以上は」と条件を付けたようでもあり、そうでないようでもある。もし類魂内での部分再生が生命の法則ならば、動物的な人の全部再生も割合の問題なのではなかろうか。殆ど前者の霊とそっくりに再生するためにそう言いうるだけで、必ずしも一〇〇パーセントではないのではなかろうか。その方が真理としては一貫しているように思えるのだが……。
もしマイヤーズの伝える類魂の説が正しいとすると、将来人間の意識の進化とともに、信仰の形態にも革命的な変化の生ずる可能性がある。そもそもわれわれの個々の魂にそれぞれの類魂があり、われわれが絶えずその上方の光から導かれているのだとすれば、この世に様々ある宗教団体が、その神を唯一の神と立て、自己の教団を地上の人間すべての所属すべき唯一の教団であると説くのは、いったい何なのであろうか? あの世はおろか、永遠にわれわれを導くように言っているが、もし個々人がやがて第四界まで登ったときに気がつくそれぞれの類魂の本籍があり、その類魂内での同化と上昇にその魂本来の辿るべき道程があるのだとすれば、この世の諸宗教はいわばそれまでの模倣物を与えて、類魂本来の籍を隠蔽することにならないのであろうか? そのことによってわれわれ魂が本来辿るべき故郷への帰還の道を遅らせることにはならないのであろうか?
今仮に将来興るべき信仰を『類魂信仰』と名付けるものとする。すると、この類魂信仰はわれわれの先祖の系列を一つの類魂とする祖先信仰(地縁による産土信仰なども同じ)に案外近いところがあるかもしれない。しかしマイヤーズ霊の言うように、一つの類魂のなかには西洋人として生まれるものもいれば東洋人として生まれるものもおり、また他の星界に転生して行くものもあるというような広いものだとすると、単純な祖先信仰でおさまりきるようなものではない。狭い祖先信仰を打ち破るという点ではキリスト教の説く愛や普遍性の高さから大いに借りるところもある。意識が個我を離れた大自我に広がって行くという点ではインドの仏教哲学に似たところもある。しかしマイヤーズの大自我とインドの大我は同じものではない。インド哲学のように抽象的な宇宙我に至るまでに本霊ないし類魂系列の大小の意識存在の導きが具体的に問題になりそうである。それらの中途段階をすべて幻とみたり、変化を無常とみて成長を考えないのは真理の一面をしか見ていないようである。
個我を超えた本霊の導きを受けるためにはヨーガ的瞑想や各宗教共通の祈りのようなものがその向かう焦点を変えた形で必要とされるように思われる。また現在一部の民間信仰のなかにある親神を探す親神信仰はこうしたあるべき類魂信仰の反映であるかもしれない。
このように類魂説を受け入れると、現在までみられる諸信仰および諸宗教の形態は類魂の事実から出て様々にその一部が実現されたものであるかもしれない。従って、将来類魂の事実に基づく信仰がはっきりしてくれば、世界の宗教形態は根本的に変わらざるをえない。各個人は自己意識の内面を通してその本籍たる類魂の上方の光を求め、その導きの下にそこへ融合帰一するような信仰形態をとることになる。それは半ば祖先崇拝的、半ばインド的、なかばキリスト教的、そして大いにスピリチュアリスティクな信仰形態となるのではなかろうか。
このようにして、類魂信仰は各宗教の持つ長所と特長を集めながら、教祖というものを持たない信仰となろう。導き手は類魂の上方の光しかありえないからである。類魂信仰は個々人の内面への上方からの光の反射を通して導かれる個人的な宗教のようでありながら、結局は個を超えた大きな類魂集団への帰入融合を目差すという意味で個人を超えた宗教である。現在わが国で次第に形を整えつつある「守護霊信仰」はこうした未来の宗教の模索といえるものであるかもしれない。
【補注1】ブライ・ボンド(Frederick Bligh Bond) 王立英国建築家協会会員。一八六四年生まれ。教会建築家、考古学者として、失われたグラストンベリー教会の発掘にあたった。『心霊科学』誌、ASPR『報告書』などの編集者を勤める。『記憶の門』『幻影の丘』『アヴァロン団』その他の初期教会の様子に触れる著作があるが、これらはジョン・アレインやドーデン夫人の自動書記に基づいたものと言われる。ブライ・ボンドの特殊な使命がこうした霊と霊信を引きつける作用を果たしたと考えられる。(心霊科学事典)
【補注2】スピリティズム フランスのアラン・カルデック(Allan Kardec 1804-1869)によって創始されラテン系国に広まったスピリチュアリズム。英米系スピリチュアリズムに比して、「再生」を確信する点、キリスト教信仰色が濃厚であるなどの差異がある。ブラジル、アルゼンチンなどに信者が多い。

世界心霊宝典第三巻
『スピリチュアリズムの真髄』(ジョン・レナード著、近藤千雄訳、国書刊行会、1985年)
付録
スピリチュアリズムの歴史的変遷

◆発端と波及

ハイズヴィル事件の起こった一八四八年という年に特別の意味を認めるかどうかについては色々な意見がありうるであろう。しかし、この事件以降、スピリチュアリズムの思想と運動はまたたくまにアメリカ、ヨーロッパに広まり、ついでロシア、南米に及び、そして更に世界各地に波及していったというのも歴史的な事実である。
ハイズヴィル事件の起きた一八四八年は世界的な激動の年であった。この年、アメリカ合衆国の領土はようやく太平洋岸に達した。この頃産業革命の影響は、ヨーロッパ、アメリカの各地に及び、革命、民族統一運動、独立運動などを刺激した。フランスの二月革命、ドイツ、ハンガリーの三月革命、ポーランド、ハンガリー、アイルランドの独立運動、イタリアの統一運動などがこの年に起こった。また高まる民衆意識のなかで、労働階級といわれる新たな一群が自らの存在主張をなしつつあった。イギリスではこの年、普通選挙を目ざすチャーチスト運動が盛りあがった。
このような世界史的激動の分岐点にあって、一つの主張と一つの示唆がなされた。一つはマルクス、エンゲルスの『共産党宣言』であり、一つはハイズヴィルの事件であった。前者は人間がこれをなし、後者は霊界がそれを反駁したのである。唯物論もスピリチュアリズムも同時に世界を駆け巡った。唯物論は科学の世俗的成功に助けられて一世紀半この地上の大部分の知的な人々の固い信念となり、大衆の意識に浸透し、主要国の政治体制に多くの影響を与えるまでになった。唯物論と科学主義は二〇世紀の殆どあらゆる学的主張の根底にあり、固い枠組をつくり上げ、少数派のスピリチュアリスティックな主張や、実感的表現をタブー化している。これはかつてスコラ哲学が新しい学的発展や自由な表現を抑えつけていたのと変わらない。
共産党宣言とハイズヴィル事件の間にみられるような対偶的現象は歴史上の他の時点でもみられた。チャールス・ダーウィンの進化論がアルフレッド・ウォーレスのそれと殆ど同時であったことは余りにも有名である。進化論は二〇世紀の諸思想に最も影響のあったものの一つであるが、もし進化論の功績が、スピリチュアリズムの強力な宣揚者であったウォーレスの手に帰せられていたなら、人類は唯物論的な世界観の受容についてもっと慎重であったかもしれない。また、現代数学における確率論的な方法の導入と発展が、一方で超心理学の学的成立を可能ならしめているのも面白い。

◆ハイズヴィル事件のもう一つの意義

交霊会などというとただただ神秘的なことと思う人も多いであろうが、ハイズヴィル事件以降の近代スピリチュアリズムの展開は、神秘的事実に加えて、近代的合理主義的な面があった。その顕著な現われが例の叩音現象の取り扱いにみられる。叩音現象それ自体は訳の分からぬいわば不気味な現象(従来の感じ方からすれば)であったが、これを逆に通信手段として活用するに至った着想はいかにも近代的な合理主義の産物であった。当時実用普及の段階にあったモールス信号にアイディアを借りて、叩音を通信手段とすることを思いついたのである。単なる騒霊的怪音もあの世からの或るアピールであることには変わりがない。しかしそうした情動的訴えにルールを設けて、交信の手段とするという考えは、十九世紀も半ばになって初めて人の心に生じたことである。あの世とこの世にようやく理性的な交信の約束が締結したのであった。
ハイズヴィル事件以降アメリカ、ヨーロッパ各地に広まった家庭交霊会については、これまで重要な観点が看過ごされてきた。
「流行」という安易な説明概念がことの本質を見失わせてきたようである。確かに表面的にみれば単なる家庭交霊会の異常な流行であり、これに眉をひそめた人も多かったことであろう。しかし流行というものには常に一考の余地がある。
ハイズヴィル事件以降の家庭交霊会の流行によって、歴史上でこの時期のみ異常に多く超常現象が発生したことは、「超常」ということばのそもそもの意味から言ってもおかしな事態であるし、確率論的にも偶然としてはとらえ難いのである。第二には、これと関連するが、こうした家庭交霊会が、超常現象の発生装置であり、またいわゆる霊媒者の生まれ出る揺籃の働きをするものではなかったかという点である。偶然か企みか、何の変哲もない丸テーブル、その周囲に男女が手をつないで座ること、十人内外で一杯になる小部屋、外光の遮断やキャビネットといわれる暗室の備え等々といった条件が、科学者が合理的に考えだすよりも、あの世と協力して霊的現象を発生させる、またそうした媒体となる能力者を胚胎させる自然条件に合致していたとしたらどうであろうか? こうしたことに長いこと気づかなかったことは迂闊であった。例えば、物理現象の生起に必須とされるエクトプラズムは大きな部屋では拡散し易く現象の生起に不利である。従って家庭交霊会に用いられる小部屋は合理的である。
交霊会の参会者(シッターといわれる)はできるだけいつも同じ気心の知れた人たちの方がよい。参会者の反対観念は微妙な霊媒の意識に影響を与えるし、エクトプラズムの供給者は何も霊媒ばかりではなく参会者からも集められるということは、任意な参会者によって不定期に行なわれる実験が現象の発生のためには不合理であることを意味している。
「パキプシーの預言者」として知られるアンドリュー・ジャクソン・デービスは、スピリチュアリズムの到来を新しい時代の曙光として予告していた。デービスの日記にはフォックス事件の始まった一八四八年三月三十一日のことが記されている。この日、何の関わりもない場所で、見知らぬ人々の身の上に起きた出来事を、デービスは「今日、偉大なことがなされた」と記録したのである。
人類は科学主義と結びついた唯物論的世界観の潮流に呑みこまれつつあった。そしてそれは台頭しつつある「個」や、民衆や、ひいては労働者階級といわれるものの存在主張と共同歩調をとりつつあったのである。従って、大部分の人が、霊的な世界を“ないものとしてすます”――それこそが自己の存在と意識の源泉であるにもかかわらず――世界観を選択するであろうことは、ほぼ確実であった。しかしそれは誤っている。人類はむしろ、意識の成長と新しい発展段階に応じた霊的真理を受け入れなければならない。そのことが、種々の対偶的現象をもって霊界が人類に示そうとすることのように思われる。スピリチュアリズムのここ百数十年にわたる運動の展開は人類に霊的真実を気づかせ、今よりも一段と全体の霊化を図るための一大啓発運動だとされている。

◆心霊現象の三段階

スピリチュアリズムにおける心霊現象の発生はこれまで三段階の時期を経ているという。第一段階は、客観的、物理的心霊現象の多発した時代で、その内容は叩音、物体浮揚、物品引き寄せ、直接談話、怪光、幽姿出現などである。霊媒の身体から離れた所で客観的に生ずる現象といってもよい。霊媒の体から取り出されるエクトプラズムという半物質が介在してこれらの現象が生ずるといわれる。勿論、このエクトプラズムを操作するのは霊の側で、その時霊媒は意識を失っているか、夢の状態にある。初期の心霊研究者が研究対象としたのは専らこの種の心霊現象で、ブラバツキー女史(彼女自身その初期においてはスピリチュアリズムの運動に加わっていた)などの神智学の流れからは、心霊研究は低次の物理現象にのみ興味をもちスピリチュアリスティックな領域を唯物論的な方法で扱うと非難された。確かにこの種の実験は低次な精霊が関与するという側面がある。しかし、当時の人々の唯物論的傾向や科学者たちの関心のもち方からすれば、まずこうした客観的物理現象をもって人々の関心を引き付ける以外になかった。なお現在では地球上の特殊な地域(たとえばブラジル)を別とすればこの種の心霊現象は極端に減少している。日本では、浅野和三郎(一八七四-一九三七)が活躍した昭和初期から十数年が物理的心霊現象の最盛期で、昭和も四〇年代になると殆ど能力者が払底してしまった。
第二段階は主観的、心理的心霊現象といわれるものが主流を占めた時代で、現象は一応霊媒の肉体及び意識を通過した形で現われる。自動書記、霊視、霊聴、サイコメトリーなどがこれに当たる。こうした特殊能力を発揮しつつある間、霊媒の意識は、一般的には半睡状態であるが、日常のことを普通になしつつある間に瞬間的にこうした印象を感受することがある。霊媒はこうした意識の二重状態を達成した人である。この主観的な心霊現象の発生する条件は、物理的心霊現象のそれほど厳しくないので、より多くの人にスピリチュアリズムの真理を普及する便がある。
次にやって来たのが現在の霊的治療を主とする活動期であるといわれている。霊的治療はスピリチュアリズム勃興の初期からみられたが、これに専心してハリー・エドワーズ(梅原訳『霊的治療の解明』一九八四年、国書刊行会刊、参照)のような成果をあげる人は出なかった。ここ数十年が治療を主とした動きとなっている。霊的治療は物理現象と心理現象のどちらの側面も持っている。心霊手術はほとんど物理現象といってよい。霊的治療は難病者の現実的救済という面からみて、その波及的影響力が非常に大きく、また現代科学の一端を担う科学者たちの意識の変革にも役立つ。現代において霊的治療が主として用いられる理由は、この期に再生しつつある人々の心が、かつてほどハードなものではなく、そうした人々にとっては、霊的世界が存在することの証拠の呈示も霊的治療で充分であるからだという。
これらの三期の分類は、内容が交錯して現われているので必ずしも奇麗な分類ではなく、あくまで力点の移行の問題である。なお一九七〇年ぐらいから輩出したいわゆる超能力者のグループについては別に考察する必要があるであろう。

◆わが国におけるスピリチュアリズムの展開

ここ数年、私は(「日本心霊科学協会」等において)右に述べたような西欧におけるスピリチュアリズムの歴史的展開は、わが国において江戸後期ぐらいから始まった霊界研究や、霊的民衆宗教の流れと奇妙な連関をなしていることを指摘してきた。その後、若き畏友である國學院大學講師の鎌田東二氏が、その指摘をやや跡付ける結果になった(鎌田東二著『神界のフィールドワーク』一九八五年、参照)。しかし、この観点はなお精細に検討され、裏付けを与えられる必要があろう。
平田篤胤(一七七六-一八四三)の幽明界研究や、黒住を始めとする妙霊、天理、金光などによって啓示される霊的実在への関心とその高まりは、その後わが国に出現する新宗教の共通項であるともいえる。こうした新宗教は、殆ど日本型スピリチュアリズム(大きく分けて、神道型、仏教型、あるいは両者の混淆型とがある。最近ではキリスト教との習合型もみられるが)といってもよいものである。無論、あらゆる宗教にこうしたスピリチュアリスティックな側面がある。しかし歴史上のある時期に強く特色づけられる色調や潮流を見逃してはならないであろう。
平田篤胤に始まる霊界研究と黒住などの民衆宗教にみられる霊的衝動は、寄せ来る文明の波濤の底に潜んで明治維新の激湍を超え、大本教に流れこんでいる。大本はわが国の霊的衝動のルツボである。大本によってわが国の霊的世界は蠢動(しゅんどう)し、旋回し、やがて爆発した。霊的エネルギーはここから再び放散して新興の諸宗の間に分け持たれてゆくことになった。
わが国近代のスピリチュアリスティックな展開のなかで最も注目されるのは浅野和三郎である。浅野の業績の評価はまだ充分になされていない。
浅野が篤胤以来のわが国霊界研究の流れを汲み、また本田親徳(一八二二-一八八九)、長沢雄楯(一八五八-一九四〇)の流れを継承する審神者の系統にあることはわが国の心霊関係者のうちではよく知られている。この流れを浅野は本田流の伝授を受けた出口王仁三郎(一八七一-一九四八)から吸収した。王仁三郎は審神者型というよりも霊媒型(あるいは両者の混淆型かもしれないが)。と同時に浅野はこうした日本の審神者の伝統と西欧渡来の「心霊研究(サイキカルリサーチ)」(心霊現象の純科学的研究をいう)およびスピリチュアリズム(科学的研究に加えて思想的、宗教的側面をもつ)を習合した。否、習合したというよりはこの霊的世界の二大流を受けてそれらの奥にある生きた霊的真実のありのままを探ろうとした。習合によって折衷を図ろうなどという考えは浅野のなかに毛ほどもなかったであろう。浅野の研究は現代の科学者の前提とするものとは少しく異なる。浅野の目ざしたものは人間の身体と意識(霊媒の)を媒体とした霊界の実証的研究であった。浅野はこれを科学であると信じて疑わなかったが、その点で、欧米の科学研究たる「心霊研究」とは違ったものである。このことを本人もその後継者たちも暫く気付かなかった。浅野の立場は欧米でいえばスピリチュアリズムの範疇に入れられるものである。もっともこうした分類もあまり奇麗にはいかない。
いったい西欧のスピリチュアリズムといい、これとシンクロナイズするかに見えるわが国の江戸後期以来の霊流といい、何か関連し共通するものがあるのであろうか。第一にいえることは、新しい意識の発展と個の成長に応じた霊的認識の問題がある。十九世紀半ばからのスピリチュアリズムの勃興は、霊的知識が教会や少数のグルたちの専売になりえないことを示している。ハイズヴィル事件で重要な役割を果たしたフォックスの三姉妹のうちのリーが受け取った霊信に「この真理をもはや隠してはならない」というものがある。個の意識の発達、そして科学と唯物論の結びついた強力な世界観の台頭を見る時、霊的知識が単に宗教のヴェールのなかに隠匿されているのみでは収まらない時代が始まっていることが、あの世の高次な知性からみればあまりにも歴然としていた。
私は江戸後期の民衆宗教は、黒住宗忠(一七八〇-一八五〇)が天照大神を、本来それをただ一人受けるべき天皇を差しおいて一個人の腹中に感受して以来、個の意識(霊我)を開いて明治維新の改革を準備したと考えている。もし天照大神が誰によらず、一個人たる民草のなかに入りその霊光を輝かせ得るならば、この世の諸々の権威などいったいどうなるであろうか。その意味で黒住の出現はわが国における偉大な宗教革命であり、また霊的真実が民衆の中に分け持たれ浸透してゆく前兆であった。
第二に既成の宗教的権威を破って、その奥の霊的源泉に迫ろうとする衝動がある。既成宗教の権威は霊的権威であるとともにこの世の権威なのである。霊的源泉に及んではいるが、後からこの世の権威の付けたしたものが多い。これについてはモーゼスがイムペレーターと交わした問答をみれば想い半ばに過ぐるものがあろう(本集『霊訓』参照)。わが国においても事情は同じである。天皇の宗教、儀式の宗教、道徳の宗教は皆一様に霊的真実の上に厚い表皮を重ねている。従って「大本」に代表される「元の神が世に出るぞよ」とはこうした表皮の部分を貫通して、より本源の霊的古層に至りたい衝動とみることができる。元の神とはより深く霊的真実を湛えた神である。西欧においてもキリスト教的表皮をはぎ取ってみれば必ず元の神が顔を現わす筈である。

◆人類と宗教の霊化

しかし、わが国の多くの新宗教がこれまでやっているように、自分の集団の神を第一として、単に本源の神の神名を言い変えることを繰りかえしているだけでは何もならない。カミンズの『不滅への道』や『人間個性を超えて』を読む人は、既成の宗教の枠組を超えて、個人の魂の上昇の旅を忍耐強い真実の目で望遠するに至るであろう。全ての宗教の古層にはスピリチュアリズムが存在する。霊的世界の存在が真実ならば、スピリチュアリズムは必ず人類のなかに浸透し諸宗教を変革する。このことはトートロジー(同語反復)を言うのと同じほど確実であろう。
人類が霊的真実を知って一様に霊化してゆくためには、諸宗教も霊化していかなくてはならない。従って、スピリチュアリズムの運動とともに、これと並行して諸宗教のなかにおける霊化運動が起こる筈である。キリスト教も霊化し、仏教も霊化し、神道も霊化する。これまでのところの動きはこうした人類霊化への一道程なのであろう。ブラジル、アルゼンチン、フィリピン等についで韓国にキリスト教を核とした宗教の霊化が起こっているようである。そしていずこに於いても霊的治療が道を拓く。宗教のルツボたるわが日本では諸宗教が霊化する。ソ連、中国については何が何時始まるのか、人類の未来を担ったこの課題は、これから最も注目されるところであろう。
(一九八五・七・三十一)

世界心霊宝典第四巻
『ジャック・ウェバーの霊現象』(ハリー・エドワーズ著、近藤千雄訳、国書刊行会、1985年)
編者解説
物理的心霊現象と認識論

今回の配本(第四集)は物理的心霊現象に関するものである。他にも幾つかの小篇を集めて、本シリーズ中の資料編といった趣となった。なかでも英国国教会がスピリチュアリズムについて調査した「多数意見報告書」は重要である。〔補注1〕
世界心霊宝典全五巻のうち三巻は主観的心霊現象に属する霊界通信によるものを採っているが、スピリチュアリズムの基礎部分をなすものとしては物理現象も見過ごされてはならない。ことに近代人には神秘なるものに関して目に見える形での証拠を掴みたいという衝動が根底にある。サンデーピクトリアル紙記者バーナード・グレイのことばはその典型的な心情を述べたものであろう。「ことばによる証言ではなく、驚異的現象による実際の証拠をうることが目的である。病気が奇跡的に治ったとか、死者からの紛れもない存続の証拠となるメッセージを受け取ったとかの証言ではない。私のような唯物論的な精神構造をした人間にも得心のいく物的証拠である」(本書四四頁)。次のことばはもっともさし迫った心の状態を示している。「ヒットラーだの枢軸国だの戦争の脅威だのといった類の問題より、今の私にとってはその方がより重要なのである」(同、四五頁)と。われわれが本書をシリーズ中に加える理由は、世の多くのバーナード・グレイ氏の心情に答えるためである。
スピリチュアリズムの側から言えば、物理的心霊現象はより高次の霊的真理に目を向けるための突破口になるのである。現象の有る無しも重要な科学上の問題であるには違いない。しかしそれの世界観に及ぼす影響となると更に重要である。もし霊魂が存在するとすると我々の得たものは地球より重く大きい。何故なら、唯物論によればわれわれは死によって確実に地球その他一切を失う筈であるから。しかしわれわれが地球以上のものを得るといっても、霊魂存在の一点において疑いがあれば、他は砂上の楼閣となる。どのような高論卓説、霊智霊妙の神秘学もその基礎を築くことができない。霊界が苦心の末物理的心霊現象を多発させた意図はそこにあったのであろう。しかし人間の方は物理的心霊現象の存在は必ずしも霊魂および霊界の存在の証明にはならぬという理論を立てはじめた。そしてそもそも霊媒とか交霊会で起こる現象は科学的証拠として認められないと言いはじめたのである。事実ここ数十年物理霊媒が世界的に払底してしまった。研究者たちはこれをおかしなことだと思っているが、霊界の方は、これからは霊的治療に力をいれると宣言している(ハリー・エドワーズ著、梅原訳『霊的治療の解明』国書刊行会刊、参照)。もともと交霊会における現象は多数者を納得させるためには不利である。人間の方が頭を切り替えて認識の方法を変えるか、科学的方法についてもう一段工夫を凝らすかするまでは、物理霊媒による啓蒙は取りやめというところであろう。何度やってみせても信ずるものは見た人だけ、結論も一向先に進まないという状況であれば、霊界が物理現象を起こすそもそもの目的を考えてみると、世界的に物理的心霊現象が払底してしまったのも無理はない。かつては一つのものであった心霊研究(心霊現象についての純科学的研究)とスピリチュアリズム(科学的側面に加えて哲学的・宗教的側面を持つ)に切れ目が生じたのである。

◆認識論上の問題

これまで言われてこなかったことだが、物理的心霊現象を考えるうえでは、認識論上の問題を解決しなくてはならない。人類がこの問題をクリアしなかったために物理的心霊現象は未だになかったことになってしまっている。およそこのような認識論上の極北に位置するような事実に関しては、人間の認識の装置そのものを再検討してみることなしには、それが事実としてあったかなかったかをさえ決めることはできないのである。
超常現象と呼ばれる事象はその言語上の定義からしても滅多に起きない種類のことである。それが常時起こるのであれば、そもそも、超常現象のなかに分類する必要はない。超常現象は現代科学の要求する「繰り返し」の基準になじまない。それは繰り返しはするが、科学者の要求するような条件のもとでは滅多に生起しないのである。
しかし物理的心霊現象は、十九世紀以来、いわゆる交霊会といわれる条件のもとでは頻出した(それが頻出した理由については本集第三巻『スピリチュアリズムの真髄』編者あとがきに述べた)。多くの人がそれを目撃し、代表的な科学者たちもその現象の生起に立ち会ってそれを保証した(クルックス、ウォーレス、ロッジ、リシェなど)が、結局人間の知識体系のなかではそれは“なかったこと”なのである。
実証的な人はよく「自分の目で見なければ信じられない」という。だがこのくらい科学を無視したことばはない。個人的に見られたことの多くは科学とは関係がないからである。と同時に、このことばは元来、「他人の見たことは信じない」という宣言でもある。とするとあなたがその宣言者だとすると、物理的心霊現象は生起したとしても、それらが他人の目で見られたものである限り、あなたにとっては存在しない。幸いそれがあなたにとって見られるものになったとする。すると今後はあなたが信じて貰えないということになろう。こうした難問を解決するためには、物理的心霊現象が盛んに起きて、多数の人に目撃されなければならないわけである。しかしそれは、先に述べた超常現象の定義からいって不可能なことである。とすると物理的心霊現象は圧倒的多数者にとって、永遠に存在しないことになってしまうのであろうか? 「目に見る」主義の人にとってはその通りである。物理的心霊現象はここ百数十年のあいだにかなりの回数(人類史のほかの時期と比べると比較にならないほどの高い確率で)生起し、観察されたが、これを見なかった人は見た人が何を言おうと無視しつづけたのであった。物理的心霊現象が起こるためには様々な難しい条件があり、その条件の満たされることは稀だが、人類全体を想う霊界の好意によって、それはある期間頻繁に起きたのである(ハイズヴィル事件以降約一〇〇年間)。がしかし、人類はといえばごく僅かな人々を除いてはこの機会を善用せず、その好意を無駄にしてきたのである。
物理的心霊現象の起こったのは何も西洋においてだけでなかった。わが国でも昭和五年頃から浅野和三郎が物理霊媒の亀井三郎を発見した頃から交霊会で物理現象が見られるようになった。奇妙なことに、それは浅野がヨーロッパ、アメリカの心霊行脚の旅に出て、彼地のスピリチュアリストのグループとの接触があってからのことである。それまでは浅野の霊媒発掘の試みも実を結ばなかった。私は西洋スピリチュアリズムの現実レヴェルでの流入がおこなわれたのは(浅野という稀有の使命をもった人物を通して)このときからではなかったかと推測している。
代表的物理霊媒で当時の関係者たちからその能力を保証された人には、上記の亀井三郎を初めとして、本吉嶺山、津田江山、萩原真、竹内満朋らがいる。なかでもその現象が最も見事だったのは亀井三郎であったといわれている。これらの現象を目撃した人のなかには相対性理論との関係で有名な物理学者石原純、気象庁長官藤原咲平、東大伝染病研究所長長谷川秀治、東大工学部長大山松次郎、また東大教授・工業技術院長後藤以紀氏などがいた。なかでも後藤氏は専門のかたわら終始心霊研究に意欲を燃やした人で、多数の観察記録や論文を発表しておられる((財)日本心霊科学協会刊、後藤以紀著『心霊科学と自然科学』)。また個人的にも理論的にも霊魂の存在を確信しておられる。日本では最も多くのこの種の実験に立ち会われた科学者であろう。これらの実験に立ち会った人は現象の生起に関しては殆どが文句なく認めたということである。ただその現象の生起する理由となると霊魂を原因として認める人もいたが、現代科学では説明できないこととするのが一般であったようである。これは科学者としてはむしろ当然の誠実さであったろう。
後藤氏に伺ったところでは当時実験に立ち会った科学者は、事前にトリックなどのないように徹底的に調べていたので現象の生起については疑う余地なく認めたが、心霊研究を専門にやっている立場ではないのでほかから質問などをされた場合に確実な答えをすることができない。それで自分が認めたということを世間に発表されるのは困ると言ったとのことである。後藤氏によれば大体一流の科学者というものは科学の限界をよく知っているので、心霊現象が存在しないというようなことは言わないものだ。例えば湯川秀樹博士などがそうで、そういうこともありうるという立場でいろいろ質問をされたそうである。個人的体験的納得から、科学としての知の体系に入れるというところまでは距離があるということであろう。
物理的心霊現象は存在する。繰り返しも存在する。しかしそれはこうした現象の生起に必要な条件が満たされたときである、とスピリチュアリストは主張する。しかしそうした条件とは科学者の要求する条件とは違った条件においてなのである。
物理的心霊現象が起こる条件とはなにか? 以下に思いつくままに挙げてみよう。
まず第一に、物理的霊媒(物理的心霊現象を起こしうる素質をもった人)の存在である。物理的霊媒は先天的にエクトプラズムの基となる生命原質(マイヤーズ霊のいわゆる複体――『人間個性を超えて』参照)を多量に保有した人であり、そのような人が存在する割合は数百万人に一人であるといわれている。これに対して科学はそもそも霊媒の存在自体を認めていない。
第二に、霊界の協力である。物理霊媒がいても霊界の協力がなければ現象は起こらない。このことは事情を知るものにとってはあたり前のことなのであるが、科学者は霊界の存在を認めていないから、実験に際してこの点を配慮しない。どちらかといえば現象を認める側がそれを起こすべきだと思っている。そして現象の生起を権利として要求しうると思っている。
第三に、霊媒といえども人間であるということである。そのためには霊媒の生理や感情を考慮して、彼らが非常に困難な奉仕を遂行するための安定した適切な環境を用意しなければならない。
第四に、交霊会における参会者(シッター)(実験ならば立会人ということになろう)の問題である。参会者は現象の生起に重要な役割を果たす。まず物理現象の生起に必要なエクトプラズムは霊媒からばかりではなく、不足分は参会者からも集められる。従って何人かこれを提供しうる人が必要である。このように、参会者は、生理的にも無意識的にも霊媒の協力者なのである。
私はある有名な物理霊媒であった(物理霊媒として活躍できる期間は短い)人から、参会者のなかに無意識的にこのエクトプラズムの貸与を拒否するものがあると霊媒は交霊中苦しくなる、またその参会者が誰か察知できて遂にはその参会者に怒りさえ覚えることがあると聞いたことがある。また本書にもあるように、物体浮揚が起きるときその重量のかなりの割合が参会者に掛けられるというのである。そればかりではない。参会者はそもそもこうした交霊が行なわれる際に引き寄せられる霊界の吸引力として重要である。何よりも重要なのは交霊の指導者(わが国のことばで言えば審神者[さにわ])であるが、その他の参会者も重要である。何故ならばそれによって接触をもってくる霊の高下や種類や目的が決まるからである。その他にも参会者の心理状態は霊媒に様々な心理的影響を与える。よく知られているのは交霊会がトリックであると思いこむ参会者の心理が霊媒の心理に潜在意識下からトリックを強いる結果になるということや、過度に懐疑的な心理状態が現象を抑止するする力として働くということである。霊界が念の交錯場であるとすればけだしこれも当然のことなのである。とすると、参会者は単なる立会人でも傍観者でもありえず、交霊の重要な構成要件である。従って、参会者は本来厳選されなければならない。この条件が満たされない場合(科学的実験などの名目で)は霊界も霊媒もある程度危険覚悟でやらなければならないのである。
細かなことであるが、交霊に適した部屋は余り広い場所でない方がよい。というのは広い部屋の場合には霊媒の身体から流出したエクトプラズムが広い範囲に拡散し易くなり、現象が起こりにくくなる。従って余り広い会場は適当ではない。また会の初めの賛美歌を歌ったり音楽をかけたりすることがあるがこれは人間が心理的存在であることを考えれば当然である(発生した音波のエネルギーを霊が使うともいわれているが)。その他、参会者が男女交互に円形に並んだり、手を組み合わせたり、時として両脇の人が霊媒の手を握ったりというようなことが必要なこともあるが煩瑣になるので述べない。またエクトプラズムと光の関係や赤燈の使用については広く知られたことである。最後になったが交霊会全体を構成する人達の精神的一致が必要である。
以上くだくだしく述べる結果になったが、もし科学的実験の主催者がこうした配慮をした上で実験を行なわなければならないとしたら、現代ではそれが科学的実験であるとは認められないのではなかろうか。そうした霊的な知識と配慮によって実験を行なう人は、科学者といわれるよりも司祭といわれる方がふさわしいと言われよう。従ってある条件の下では現象は確かに生起したが、それは科学の認める実験ではなかったことになる。本書に記録された誠実無比、一般人が行なう実験としては恐らく最良のものであろう実験記録も、おそらくは同様の扱いを受けることであろう。訳者は、このくらい科学的であれば充分といっている。私自身もそう思う。しかし現代科学はこれに満足しまい。このようにして多数生起した心霊現象は(SPRやASPRの記録したものを含めて)正統科学からは無視されてきたのである。私は現代の科学者たちにこのような事実があることを直ちに受け入れよというつもりはない。自らなる成長というものが必要だ。しかし次のようには質問してみたい。物理的心霊現象というものがもし仮に以上述べてきた条件の下にしか生起しないと仮定した場合、現代科学がこれに対応する方法が何かあるであろうか、と。
従って、問題は事実としての物理的心霊現象があるかどうかという問題ではなく、そのような現象が霊媒とか交霊会とかいう特殊な条件の下で起こるとき、それを事実だとして認める認識の装置が人間の側にあるのかという問題である。ある環境下である現象が起こるとき(仮にそれ以外の条件では殆ど起きないとする)、その環境下でしか起こらない限りその現象の起こったことを認めないというのでは、最初から事実いかんに関わらずその現象を認めないというのと同じである。つまり現象存否の審理が前提思考の段階で棄却されている。この場合交霊会にあるような条件を満たしつつなお科学的な実験を行なうためには、科学者が霊媒の取り扱いとか霊界の要求を考慮しつつキメの細かな準備をしなければならないが、それが組織的に辛抱強く行なわれるためには、科学の側が意識の変更をしなければならない。科学はまずそのようなことは起こりえないとする前提思考をやめなければならぬ。そしてそのような実験には伴いがちな不成功や、霊媒のトリックや無意識的な欺きに対しても、そうしたこともありうるとの立場で辛抱強く(つまり一事が万事式の考え方をせず)あらねばならぬ。そうした実験に立ち会っただけで科学者としての体面や地位に関わるというような恐れや不安や偏見が、科学者の社会のなかから取り除かれていなければならない。そうでなければこのような霊的条件、社会的条件、認識論上の問題等の複雑にからんだ領域を公平に研究できる準備が整ったとはいえないのである。こうしたことを考え合わせれば、現代科学はこの問題を扱うのに荒削りすぎており、もっと高次、かつ巧緻な研究体制を生みだすために成長しなければならないといわれても仕方あるまい。

問題はこれのみではすまない。物理的心霊現象が起こったというだけでは、霊魂や霊界を認めることから甚だ遠い。物理的心霊現象や超常現象が生起することを認めても、これを別の理由から説明しようとする科学者が多い(SPRの研究者や超心理学者の大半がそうであろう)。
このような人々はこうした現象の起こる真の原因については何も分かっていない。自ら分からないことを告白しておきながら次のどちらかの説に固執する。一つは、人間に潜在する未知の能力によるものだという能力延長説。二つは、それが人間には未知の宇宙間のエネルギーの作用によるものだという説である。この二つのいずれも従来の科学説からすると不合理なものでありながら、彼らはこうした説を霊魂説よりもましだとするのである。つまり不合理な説のあいだでも等級を付けている。しかし、その実この二つの仮説が霊魂説よりも合理的であるという根拠は何もないようにみえる(霊魂を認めた方が認識論上の多大な変更を強いられるということは事実であるが)。霊魂仮説は従来の科学にとって違和感があるということと、宗教との長い闘争のあいだにできた本能的な身構えという以外にこの説の方が“まし”である理由が見当たらない。
しかし弊害の方はある。J・B・ラインは人間のESPやPK能力を科学的に認知せしめたということで多大な功績があった。しかし一旦この仮説を固めるや、スピリチュアリストの主張をことごとくこの仮説の範囲で説明しようという傾向を生じた。多くの弟子たちのなかにはもっと強くこの説を押し進めようという傾向を生じた。こうなってみると、従来は心霊現象について科学的に説明できないという消極型の否定であったのが、「科学的に説明できる、但し、霊魂仮説以外の説で」というように一層積極的な霊魂否定説として登場してくるのである。
かつてフロイドが深層心理説をもちだして人間の無意識に照明を与えたのはよかったが、リビドー説を絶対化しようとしたために、そしてそれを科学として虚構したために生じた弊害があった。今日、フロイドの説を額面通り認めようとする人は心理学者や精神科医のなかにもそう多くはあるまい。
しかし神秘主義者からは評判のいいユング説からも同じような弊害がもたらされる恐れなしとしない。ユングは深層意識により一層深く光を当て、人間意識への理解や神秘なものへの感受性はより高いといえる。「集合的無意識」、「シンクロニシティー」、「原像」の各説は人類への偉大な貢献であったと評価してもよい。しかしすべてをそれで説明できると考えたときからその説は霊魂仮説の前に立ちはだかる。一歩ずつ真理に近づいてきてはいるのだが……。人類はいずれ霊魂をその無垢のままに認めるときがこよう(本シリーズの読者はそれを納得されよう)が、それまでは、合理的であると思われる説の方がかえってそれから先に人間の思考を進ませないための砦となるのである。何故それまでして霊魂仮設に対しては途中にあたる説をむしろましだと考えるのか。筆者はこれを認識論上の問題だというのである。

スピリチュアリズムと心霊研究の一世紀半にわたる歴史を精査してみると、事実を事実として認知できない、という問題があることに気づく(このことを疑問に思う人は直ちに調べてみることができる。本シリーズは資料の一部にすぎないのである)。そしてそれを事実があるかないかの問題として論争しているように思っている。実際は事実があってもそれを事実として認知できないという問題があるのだ。
一つは超常的現象に対するときの科学的方法の不備と未成熟からくる。しかしもっと深く、科学や、哲学や、それらを含めたわれわれの常識をつくりあげている認識の構造に問題があるのである。それは簡単に言ってしまえばわれわれの心の癖の問題なのである。その癖とは、一、世界をできるだけ少ない原理で説明したい。二、説明の際、われわれが物質と信じているものの原理から外へはでたくない。三、認識上の大きな変化には耐えられない。以上の三つである。
一般には知的な人や、理性的な人は超常現象や霊魂の存在を信じないといわれているが、私の経験ではそのようなことはない。全く知的でない人が、頑固な否定主義者である。そして否定の論法は知的な人のそれと殆ど変わりがない。要するに、認めないことにしているか、認めたくないのである。このような人は事実を精査してみようとはしないで断定的に推理している。しかし、スピリチュアリズムや心霊研究が自らに課している証拠採用の条件はこのような楽観的なものではない。およそ現代においてこのような問題に真剣に取り組もうとする人は、グレイ氏と同等か、それに近い考え方をする人達なのである。従ってスピリチュアリストを軽信家というのは当たらない。
歴史は繰り返しもしなければ、それを担う人間も科学的な実験の対象とはならない。にもかかわらず、人間の心に「歴史」は存在し、知の体系はそれを学問として存在せしめている。人類の知の体系は、今のところ同じ条件をスピリチュアリズムや心霊研究に関しては当てはめることを拒否している。もし人類の知の体系がこの二者を認めることを拒む厳密性を適用するなら、大部分の「歴史」はないことになってしまうことであろう。「経済」も「法律」も「政治」もその他の学問も成立しないであろう。

◆連続と非連続

物理的心霊現象は合理的に説明できるだろうか。合理的説明とは何か。合理的説明とは、ある事柄を既に合理的であるとされていることとの連続の上で説明することである。この連続がどこかで切れていると、人はそれを合理的説明であるように感じない。つまり合理主義には説明の前提となる幾つかの原理があり、たとえその原理の漸進的延長を計ることがあろうとも、本質的にはそれらの原理と違背しないように説明するのが合理主義的説明なのである。
ところで、物理的心霊現象を既に合理的であるとされている物理学上の諸原理で説明しようとするとうまくいかない。故に合理的説明はできない、ということになる。
しかし事実は科学的説明に先行する。既知の諸原理から説明できなくてもそれでそのことが「ない」ことにはならない筈である。ただうまく連続性が見出せないのである。しかし、よく考えてみると、通常の場合でも合理的説明の連続を原因から原因へと辿っていけば、必ずどこかでそのこと自体は合理的であるとも非合理的であるとも判断できないような初めの部分、つまり事実そのものをそのままに受け入れざるを得ない点にぶつかる筈である。
考えてみると自然の現象の連鎖のなかには必ずしもなだらかな連続性を示さないものがある。よく知られているように、進化論のなかにもミッシング・リンク「見失われた進化の輪」といわれるものがあって、われわれの目からみて自然はところどころ飛躍していると見える。物質から生命へ、植物から動物へ、猿から人へ、そして人間における意識の出現、これらは連続しているようで連続していない。断絶の後の突然の出現はエマージェント(創出)ということばで説明されているが、ようするに自然には非連続な飛躍が各所にあるということだ。
しかし自然が途切れたり飛躍したりしているように見えるのは、人間の認識の目から見えるからであろう。自然がどこかで絶対的に途切れたり断絶したりしているのではないようだ。しかし自然がところどころ力点をおいていわばダンゴ状になってつながっており、それが事象と事象の切れ目のように見えることのあるのは確かなことだ。自然の途切れたように見えるところはよく見ると必ず一筋の道がつながっている。
われわれは自然をできるだけ簡潔に、少ない原理で説明できたらよいと思っている。そしてこれは知性の原理であると同時に実のところは行動の原理である。環境に対してできるだけ少ないエネルギーで効率的に対処したいためである。だから知性の原理は元はといえば生命体としての功利的な欲から出ている。しかしこの欲がいつも適えられるとは限らない。われわれはしばしば自然をそのまま受け入れなければならない場面にぶつかる。そのようなとき過去や記憶のそのままの採用は許されないのだ。
言っておかなければならない一つの重要なことは、“われわれの認識の力は自然の緩やかな変化に対しては「合理」を感じ、自然の激しい急激な変化には「不合理」を感じる”ということである。前者には「善」を感じ、後者には「悪」を感じることさえもある。しかしこうした本能的で人間の身がってな功利主義が自然の目からみて妥当なものであるという保証は何もない。
自然がわれわれの目に飛躍して見えるとき、われわれはひとまずそれを受け入れなければならない。合理的な(というよりも功利的な)説明をつけることは後からやればよいのである。科学者は通常はよくこの方法を用いる。しかし意識や霊魂の問題となると突然この機能を停止してしまう。既知の物質原理に反すると思うと観察さえもやめてしまうのである。
エクトプラズムが最初に観察され、ノッチングやリシェの研究が出て以来何十年もたったが、科学はそれを研究の対象にするのをやめてしまった。それ以来研究の進展はない。確かにエクトプラズムといわれているものの運動は既知の原理からは説明されず、想像も絶している。観察事例は極端に少なく、その研究は他の科学者から魔術のように思われるかもしれない。しかしそれにしても科学がこれを正当な研究対象としなかったことは、これの重要さからいえば卑怯であり怠惰である。少なくともこれは霊魂のように目にも見えず手に取ることもできないといったようなものではないのである。自然が途切れ、合理的連続が突然の飛躍を見せるとき、そこに一筋の細い糸がつながっているかもしれないのだ。
エクトプラズムはそれ自体が生命であるように動きまわる。自分の運動の方向や目的がよく分かっているように行動する。物を持ち上げたり支えたり掴んだりもする。気体のように拡散したかと思うと固体のように凝固する。物質を難なく透過し、人間の目には可視的なものになったり不可視的なものになったりする。殆どあらゆる形に変形し生命体を細部に至るまで――形態ばかりではなく運動までも――模写する。しかもそれらを自発的に行なっているように見えるのである。およそ古代の魔術師がやると思われたことは殆ど可能にしてしまうものであるから、科学者が敬遠し手品師が嫉妬するのも無理はない。
当然のことながら、エクトプラズムは霊魂そのものではない。しかし物質そのものであるともいえない。エクトプラズムは半物質のようだと観察されている。“エクトプラズムはいわゆる物質よりも肉体以外の知性(すなわち霊魂)の意念に感応し易い性質がある”ようだ。故にこれを半物質と表現するのであろう。エクトプラズムの運動は観察者にとっては自動運動的であるが、霊界の説明によれば、その運動や変化はすべて霊の意念によって動かされているという。霊はエクトプラズムを動かし、それによって物質を動かす。
中村弘治という日本人の医師が亀井三郎の実験を観察したところによると、霊媒から出て空中を流れるエクトプラズムの力線をまぢかに見ると、そのなかを細かい粒子状のものが顫動しつつ霊媒の身体の出口から流れ出て先端の方へ移動していたという。ノーベル賞受賞生理学者シャルル・リシェによってプラズマ状であると観察されたこの粒子状のものは物体に浸透して、これを解体したり、変形し易くしたり、時としては消滅させる。あの世の説明によれば、エクトプラズムは物質の原子と原子のあいだに浸透しその結合を引き離すのだという。金属は水につけた固いパンのように柔らかくなるであろう。更にこの原子間の距離を引き離せば、人間の目に物体は消滅したと見えるに相違ない。再度この間隔を近接せしめて物質を出現させることもできるという。
エクトプラズムは、その材料となるものが肉体から取り出されると同時に、それに何か別の霊的な要素が加えられて生成されるのだとあの世からは説明されている。従って体内にあるままの物ではないようである。しかし、マイヤーズはそれを人間の複体をつくる材料と同じだと言っている(『人間個性を超えて』参照)。
いったい人間の生命のなかで細胞がフレキシブルに連接しながら空間中で自在に位置を変えても形が崩れたり統一がなくなったりせず運動できるのは、完全に力学的に説明できることなのであろうか。筋肉や筋を支えているのは骨格なのか、骨格を吊り上げているのが筋肉や筋なのか今ひとつ分からぬところがある。体内にエクトプラズム類似のものが存在し、自在に動きまわっていると考えた方が生命体の運動を説明し易いのではないか。人体のフレキシブルな動き、自分の意志が瞬時に肉体の各所に伝えられ、連携的な動きをする事実をすべて神経細胞による通信の原理で説明するのはむしろ荒唐無稽ではなかろうか。われわれが体を動かそうとするとまず何かの力動感のようなものがそこに向かって流れたような気がするが、通信が流れたといわれるよりもエクトプラズム的な力が流れたと言われたほうがピタリとくるのである。少なくともエクトプラズムの運動が観察された以上もはやそう考えた方が合理的である。
また逆にエクトプラズムが体外に流れだすとそれの存在する空間はまるで一つの生命場になったように物が吊り上げられたり移動したりする。エクトプラズムのある空間は体内と同じようになるのではなかろうか。
この第二の物質、第二の精神とも呼ばれるべき中間物質の奇想天外性は、それが常に生体のなかにあり、また光と併存しない性質をもつためにわれわれの目に触れないためである。いかに奇想天外のものであろうと絶えず目に触れていれば奇想天外ではありえまい。
およそあらゆるもののなかからこのエクトプラズムに近い性質のものを思い浮かべればそれは物質ではなく「イメージ」である。イメージは精神のなかにおけるエクトプラズムのカウンターパートである。逆にいえば人間精神のなかでもっとも物質に近い領域のものがイメージなのであろうか(『不滅への道』第十五章「記憶」参照)。これは精神が物質に影響力をもちたい場合の経路を暗示している。
マイヤーズの通信によれば、複体は睡眠中に体外へ飛び出さず肉体内に留まる。睡眠中や「体外離脱」で飛び出してゆくのはもっと希薄なエーテル部分である。エクトプラズムの流出は生体にとって通常は死を意味するのである。エクトプラズムが体外に流出した霊媒の身体は多重を失い(ときには十キロほども)、縮小凝固して死体のように横たわっているのが観察されるという。複体が、先に『霊的治療の解明』で筆者の述べた生命磁場と同じものだとすると、肉体に生命と可塑性を与えているのはこの複体である。物質に緩やかな結合を許して、その間に自由性を供与し、意識存在や霊の意のままに感応し易くしているのは、このエクトプラズムに似た体内の半物質であることになる。
精神と物質、霊魂と肉体は両者の性質があまりにも違いすぎる。合理的説明としては断絶している。しかし事実として両者が連関を保っていることは間違いないことだ。二つのものが連関をもちながら、その合理的な説明の糸が見つからないとき、われわれは普通二つのものの中間物を見付けようとするのではなかろうか。身体はいきなり霊魂と接触しているわけではない。これは古来あらゆる神秘学の教えるところである。霊界の説明によっても、まず肉体に類似した複体があり、霊体があり、このような中間物を経て、それ以上の高次な霊の世界があるのである。自然は連続しそして時たま飛躍する。神経細胞の結節点をみると、その先端は結び合わされず、断絶している。そして両者の連結は或る化学物質によって保たれていることが分かった。神経細胞と神経細胞は何故電線のように直接結び合っていないのであろうか。
意識世界と物質世界はお互いに別の糸である。それは連関を保ってはいるが、互いに独立した存在の次元を構成している。このようなとき、二つの世界の連関は必ずしも直接的でない方がよい場合があろう。直接的であれば両者の独立性が保たれず、むしろ二つの糸は混乱するであろう。非連続は緩衝地帯をつくり、濾過装置ともなり、弁としても働く。連結の糸は太くなく微妙で、人間の目には見えないが存在する。自然の作為はかくも巧妙である。
「霊媒」、「エクトプラズム」――科学はなお暫くこの余りにも古典的で手垢のついた名称に恐れをなし、それに近づくことを体面にかかわると思いつづけるのであろう。名称はいずれと名付けられようとも、科学が霊的世界に物質からの連続を求めるのであれば、そのとき踏査しなければならない領域がこの二つのものであることは、炳乎として明らかである。
(一九八五・八・十五)

〔補注1〕この『ジャック・ウェバーの霊現象』には、エドワーズによる同書のほか、次の「参考資料」が収められている。
エクトプラズム(J・G・E・ライト)
霊媒(ナンドー・フォドー)
英国国教会“スピリチュアリズム調査委員会”多数意見報告書
A・R・ウォーレスの実験会ノート
霊界(うら)からみた交霊会(シルバー・バーチ)

世界心霊宝典第五巻
『人間個性を超えて』(ジェラルディーン・カミンズ著、梅原伸太郎訳、国書刊行会、一九八六年)
訳者あとがき
マイヤーズの通信において意識の進化はたえず「記憶」と「形態」と「類魂」の関係において論じられていることに読者は気がつかれたであろうか。これはあくまでもマイヤーズ霊による霊界各界の識別の立て方であって、他にも意識や存在レヴェルを識別する基準はありうるであろう。例えばアリストテレスのように純粋知の現われる度合いにおいて形而上の高下を定めるやり方、またスウェデンボルグのように各界においてキリスト教的な「愛」の発現する度合いや人体との照応関係(高い世界は頭部に照応し、低い世界は足に照応するというように)において霊的世界の高低を見、神への距離を階梯づけるやり方がある。また神智学や人智学にもそれぞれ高次世界の識別法というものがある。しかし近代においてはスピリチュアリズムにおいても他の神秘学においても、物質を粗と見、これがリファインされ純化してゆく過程に高次世界をみようとする考え方が通底しているようである。そして更にこの精妙化をある根源的なもののヴァイブレーションの精粗によって説明しようとする考え方がある。マイヤーズの通信もそうした見方の一つである。
こうした基準の立て方がないと、一部の霊媒の報告のように、単に「もっと明るい」とか「もっと暗い」とかの識別しかできないことになる。甚だしい場合にはただ単にことばで「高い」「低い」といい、「――界」などとそれらしい名前をつけるだけにとどまっている。上層世界へいくに従って建物が立派だというようなつまらないものもある。これでは霊界の記述として甚だ要領をえないし、絵空事程度の印象しかあたえないのである。
意識というこの自己明証的な存在(誰でも自分の意識が存在することについてはよく分かっている)ほどいざ定義するとなると捉えどころのないものはない。この意識を具体的に把握するために、「記憶」「形態」「類魂」の視点をとったマイヤーズ霊の炯眼には脱帽する。例えば諸君が死後の世界といわず現世に一個の意識として自己と相対したとする。諸君は記憶と向かいあわざるをえない。諸君が自己運動する一個の意識として体験から学ぶと決めたとする。諸君は即ち諸君の記憶と向かいあわざるをえない。
また諸君の意識は自己を身体という形態のなかに見出す。われわれの意識は形態のなかに住んでおり、他の形態とのあいだで相互作用を営んでいるのである。
意識は形態のなかに住み、個であるとの自覚をもつが、しかしこうした個の意識は身体という形態表現によらないときは他との境界が甚だあいまいなものである。意識は自分以外の他の意識存在を自己と同一視する傾向がある。共感、共存、同一化、相互浸透の感覚は意識にとって個の感覚よりも本質的なものだ。意識は絶えず自己と他の関係を本質的なものとして自覚している。そうした本質的感覚を離れたときは不安、不幸、そして非現実の実感が生じ、極端な場合にはそれが病として発現する。マイヤーズ霊はこの個と全体の関係を不可視世界の類魂の問題として提示したのである。類魂についてのマイヤーズ霊の霊信は個と全体の問題についての初めての説得的な啓示である。

*      *      *

以下は右の観点からの筆者の覚え書きである。甚だ未整理で、誤りも多いと思うが将来の霊学的な検討の材料として参考のために摘記することにした。文中に*印をつけたところは、筆者の考えや推測が多くなっている部分である。

◆記憶

記憶は脳のなかになく、エーテルのなかに保存される。自己の精神をつぶさに観察し反省する習慣を身につけた者は、こうしたマイヤーズ霊の示唆にむしろ同意するのではなかろうか。御承知のように類似の観点がベルグソンの『物質と記憶』(Essai sur les donnees immediates de la conscience, 1889)のなかに述べられている。われわれは少なくともイメージの現われたり消えたりするところまでは自己観察できるわけであって、そうした出現と消滅の過程を眺める限り、マイヤーズ霊の霊界からの指摘に格別な違和感を持たないように思える。記憶がエーテル体の中に保存される様をマイヤーズは次のように述べている。

《あなた方のまわりに巨大な蜘蛛の巣があると想像せよ、この蜘蛛の巣の糸が記憶ないし想念を、あたかも電線が電信を送るように脳髄に運ぶ。というよりもむしろ、精妙体の援助で幽的流動体の上に刻印されたイメージの信号を脳に送るといった方がよい。》(『不滅への道』一三二頁)

また同じ「記憶」の章のところで、イメージを思い出すためには「適切な努力をもって幽糸とイメージを引き寄せ」ることが必要だと述べられている。
*この章でトム・ジョーンズの名前の想起に関して記されたところは、書記の一部が抜け落ちているのか、マイヤーズのいう通訳上の間違いがあるためか、文意がよく伝わらない。そのまま受け取ると、イメージの想起に関してそのつど幽的流動体に新たな刻印がなされるような印象を受ける。しかしイメージは記憶段階で既に幽的流動体の上に刻印されている筈である。従って記憶の際のことが混同されているような感じもする。また精妙体(といっても身体のことではなく、訳語の「体」は物体などのときの「体」のつもりである。精妙質と言った方がよいかもしれない)の働きについてもよく分からない。精妙なエーテル質(エーテルにも何段階かあるらしい)に記憶されたイメージが幽的流動体のところにやってくるというようにも考えられる。大事な点であるが保留にせざるをえない。また言語の記憶される場所および言語とイメージの関係づけられる場所についても述べられていないが、これはやはり幽的流動体のなかと考えてよいであろう。
冥府において地上記憶はすべて再現され、魂はそこを通り過ぎるあいだに記憶による自己の生涯の点検をする。これがいわゆる閻魔庁の鏡にあたるのであろう。マイヤーズは長い画廊のイメージでこれを語っている。
幻想界では地上記憶が魂の環境の大部分を構成している。幻想界は地上経験による魂の欲求不満をとりあえず満たす場所であるらしい。冥府と共に一種の補正期間の役割をしているようである。この段階では魂は類魂の大記憶とは殆ど接触がない。魂はまだ類魂の目的とするところにも気づかずにいる。
*幻想界は全体が一種の睡眠期と名づけてもよいのかもしれない。冥府が概して地上記憶からの「苦」を受け取る場所とすれば、幻想界は地上記憶から「快」を受け取る場所ともいえよう。しかしオリバー・ロッジが「まだほかにも進歩の低い段階の人や、よからぬ考えを待った人の行くべき所があるのであるが……」というように、マイヤーズの伝える冥府と幻想界のあいだに幻想界下部ともいうべき所が(他の霊界通信を参照すれば)あるとも思われる。
色彩界はまず地上記憶の破壊、ついでエーテル界における形態の再創造、そして創造物の形態の理想化の時期である。魂は類魂のそれを意識してその存在の意図を漠然とながら悟るとともに、類魂の記億である大記憶に次第に近づき、魂は時々この大記憶のなかに入って他の類魂の仲間の記憶を学習する。魂の進歩にとって直接関係のない記憶はすべて類魂の記憶のなかに預けられてしまっている。そのため、この界の魂が地上と通信するときは、大記憶の中に自己の記憶を取り戻しにいくという。
*この大記憶のなかに入るときは――地上に通信するときもそうだが――魂は地上にあるときの催眠状態にも似たマイヤーズの名付ける主観状態(第1、睡眠状態、第2、主観状態、第3、通常意識――前掲書一六六頁)で行くというが、このことは重要である。こうした意識の変容状態は地上におけるような例外的な状態ではなく、高次世界の魂の生活にとっては必須のものだということになる。魂と魂が同一化する際の必要技能といってもよかろう。私自身審神者として交霊に立ち会うときの経験からいえば、霊媒に憑かる霊がこうした催眠に似た状態にあり、現界の人の指示に従いやすい状態であることをしばしば観察している。
第五界には大記憶がある。他界の魂ばかりではなく地上の人も例の特殊な意識状態で魂の記憶のなかに入ってゆくことがありうる。交霊のときに出現した霊の記憶を探るのがしばしば霊媒の方の役目であるというのも面白い。心霊研究者の推測と一致するからである。霊媒は参会者の記憶の中からも霊の過去についての資料を探り出すという。この辺も研究者の知っておくべき点である。高次の霊が未来について一度考えたこともまた類魂の大記憶のなかに保存されている。地上の能力者がこれを読み取れば未来予知も可能なことになる。
第六界以上の記憶については書き記すこともあまりない。第四界にいるというマイヤーズ霊の記述も第六界以上のことについては漠然としている。

◆形態

肉体には複体(エーテル体、統一体、幽的流動体などと呼ばれる)が重なり合い、浸透しあって存在している。肉体は物質界における魂の形態的表現であり、複体は魂と肉体の媒体として存在し、相互の連関を可能ならしめる。また物質である肉体に全体的な統一を与えているのはこの複体である。複体は霊的世界から生命素の供給を受けており、これの供給が絶たれると人間は死ななければならない。また複体は類魂からの高次の意志や、マイヤーズによって「反射」と呼ばれている指示や示唆を受け取っており、これを複体流のイメージに翻訳、翻案、時としては変形する。
*神話、伝説、物語は複体のこうした機能と関係していよう。
複体はエクトプラズムを分泌する。エクトプラズムは細胞や神経に霊的な栄養を供給している。このエクトプラズムが多量に分泌される人物がいわゆる霊媒となる。
*このような人は、過感的で時としては体外流出するエクトプラズムのお陰で、自己の魂の作用以外の他魂(現界および他界の)からの作用を受けやすいのである。とはいえ、通常人であっても皆この複体やエクトプラズムを体内にもっているから、これを通じて他の魂や霊的存在からの影響を無意識裡には蒙っている。そのような意味において人間はすべて霊媒である。複体がある以上、人間が本質的に霊媒である運命から逃れることはできない。クンダリーニが上がるとか、太陽叢が開けると低級霊媒になるとかのヨガ流の表現はもっと本質的一に、もっと総合的に考察されなければならない問題であると思われる。
睡眠中はこの複体のうちからその精妙な部分(これが複体と区別してエーテル体と呼ばれる場合もある)が肉体から脱け出て、類魂や他の霊的存在と接触しそれらからの影響を受け取る。この影響は翻訳、変形された形で夢となり、あるいは無意識のなかに保存されてわれわれの日常的な行動に影響を及ぼす。
幽的流動体は神経魂とも言われ、肉体の神経作用から受け取った五官などの知覚を刻み込み記憶として保存する。また脳や肉体との相互作用を営む。それ故、このものが一見、自我そのもの、魂そのものであるような錯覚を与える。しかしこれは自我の本体でも魂そのものでもない中間物で、その働きは殆どが自動化作業である。この部分に蓄えられた記憶は神経記憶と呼ばれ、類魂の大記憶とは区別される。
*内在意識(内在精神という訳語も用いた)はこの複体レヴェルの機能から始まって魂や類魂に連なっているのであろう。一つ未解決の問題がある。意識の本体が肉体になくエーテル体や魂の方にあるとすれば、肉体からエーテル体が離れた睡眠時に何故われわれの意識がなくなる(というふうに思われる)かという問題である(死後や幽体離脱によって肉体から離れた魂は意識をもちつづけると報告されている)。この問題は仮に以下のように解釈しておく。あたっていないかもしれない。睡眠中も魂の意識は失われるわけではなく意識作用は営まれ、アウェアネス(気づき)は持続している。しかし、エーテル体が肉体に戻った瞬間にその記憶は忘れられる。つまり肉体を通しての知覚作用が余りにも優勢となるためにそれが魂の意識を表面から駆逐してしまう、と考えるのである。これは覚醒時においても魂は絶えず意識を有しているが、同じく肉体および複体レヴェルの知覚が優勢であるために自覚化されないという解釈にもつながる。われわれが何か話そうとするとき、現意識レヴェルでは次の次に話すところまでは意識化されていない。しかし、話のストーリーは魂のレヴェルで次々に創られているのだと考えるのである。聴衆の前で即席に長い話をする場合、どう考えても現意識だけで一貫した話のストーリーが出来てくるとは思えない。われわれは次に何を話すかを現意識では知っていず、また考えてもいないからである。しかるに前後の矛盾なく次々に話す事柄が準備されているという印象をわれわれは受ける。実際このことは難問である。しかし魂のレヴェルの意識ではこれを知り、かつ次の話の準備も整えているのだということになると説明がしやすい。それが知覚などの印象が強くて自覚されないのだ、と考えるのである。そうすると意識作用はいわば二重構造になってくるが、そう考えてはいけない理由というのは、先入見さえ持たなければ特にないのではないか。肉体を持つあいだの現意識(顕在意識)とは肉体と幽的流動体とが相互作用を営むところにあるのであろう。
*肉体を含め物質世界はエーテルないしそれ以上の霊的次元と比べると振動が粗雑で、変化速度が緩慢である。従って物質形態間の相互作用の結果が現われるのも緩慢である。そのため魂は現界においてはその分ゆっくりとした学習ができる。物質世界を離れると変化速度が遠く、周囲の反応も敏感すぎてそうはいかない。従って絶えず間違いを犯すような魂にとっては住みにくいことになる。
死とともに複体は肉体から分離する。冥府の経過期においては複体の表皮部分(外殻)は脱ぎ捨てられその中から精妙なエーテル部分のみが離脱し、幻想界へと旅立つ。
幻想界の環境は大部分地上時代の記憶によって構成される。当初魂はこの周囲の環境を造り変える自由を持たない。丁度夜の夢が昼の経験に影響されるように地上時代の思い出が幻想界に持ち越され、魂の心的、感情的レヴェルに合わせて再構成される。但し地上時代に愛情をもって他人と接した人は幻想界の仲間たちから手を貸してもらえるために豊かな生活を経験できる。魂の周囲の環境以外のエーテル世界全体については、「偉大な霊智の魂(恐らく第五界以上の上級の魂集団――訳者)の思念集中によって生み出」されるものらしい。魂が力を獲得するにつれて周囲の状況を整え、幻想によって次第に天国の生活をつくりだす。魂は幻想界において自己の欲するところを好きなだけ繰り返し、遂にはそれにも飽きてしまう。
幻想界の人(「魂的な人」、および「動物的な人」)は再生する。
地上の霊媒に通信を送るのは大部分がこの段階の魂で、それぞれの幻想を語るに過ぎない。
第四界の色彩界では魂はエーテル体を脱ぎ捨て更に精妙な振動をもった霊妙体を身に纏う。色彩界において魂は形態の理想を追求する。その前にまず地上的形態の破壊が行なわれる。魂は地上的形態の虚構であることを知り、あらゆる形象の破壊を徹底して行なう。そのことによって形態の統御法を学び、遂にはあらゆる形態を自由に創造する力を獲得する。従ってこの界の魂は自己の形姿を自由にすることができる。
*地上の人間に自分の形姿をどの様に見せるかも自由であろう。この界は文字通り色即是空、空即是色の世界である。しかしこれで悟ったというには未だ早い。
色彩界においてはすべての魂が芸術家であろう。自他共に形態のあらゆる理想を追求し創造するので、色彩界はあらゆる形態に満ち溢れる。ここにすべての地上的形態があるといわれる。
*地上の植物や動物の形態、芸術家のイメージ、発明家の着想の元はすべてこの界にあるのであろうか。
色彩界の魂はごく稀にしか再生しない。新しい魂(これは第五界において生み出されるらしい)に自己の過去の枠組み(カルマ)を託して地上に送りだす。
第五界に進むにあたって魂は火の身体(火焔体)を身に纏い、他の恒星世界に転生する(太陽人の誕生)。恒星世界における原子は地球に比べると猛烈なスピードで振動し、身体のなかの原子の組み合わせも瞬時に入れ代わってしまう。マイヤーズはこの恒星における生活は第二の物質的世界だと言っている。物質自体がエーテル体のように高速度で振動している世界なのであろう。こうした試練のなかで魂は宇宙人格としての資格を身につける。広い宇宙にはむしろこの段階に達した魂の方が惑星の地上圏で人間形態をとる魂より多いという。彼らはまだ完全な存在ではなく、感情もあれば闘争心もあるとマイヤーズはいう。
この界には人類とは別の進化系列で進化した高次の存在がおり、その形態は人間よりもむしろ動物、特に龍と呼ばれるものの形態に似ている。この自然霊も宇宙類魂のなかでの大事な役割を果たしている。
第五界における存在形態は「一即多、多即一」に近づきつつあり、個体としての輪郭は失われる。魂は個性を脱し、大自我霊と一体になり、自ら大自我そのものになっている。その在り方は幾つかの炎が集まって一つの火をなし、全体の輪郭が不定形に存在するという在り方に等しい。大自我霊は形態を自由に変える力をもっており、地上の人がこの大自我霊を呼び出す力をもてば、自分の身体や物の形態すらも変えることができる。
第五界の魂は宇宙社会の構成メンバーとして地上からみれば神にも等しい強大な力をもっている。彼らのうちのある者は物質法則の隅々まで計算し、その物質法則や調和の維持に従事している。幻想界はこの大自我霊の統括範囲にあたる。彼らは地上圏の部分的な統括を任されることがある。
第五界の魂は複数で新しい魂を生みだす。
*第五界の大自我霊はどこかチベットに住んで地球経営にあたるというアデプトや我が国でいう産土神、また各宗教でいう守護神を思わせる。こうした第五界の魂と交流のできた人は偉大な神秘力を現わし、一つの大きな宗教の開祖となることも可能であろう。
第六界においては魂はあらゆる形態的表現の束縛から脱しており、いわゆる個性というようなものは解消して自己の本霊と一体になっている。
ここにおいて次の第七界に進むためにすべての類魂の仲聞たちの到着を待ちうける。第七界は文字通り神の世界であり、一切の時空的顕現の外に出ている。時空は神の想像力の流出ともいうべきものである。

◆類魂

類魂については第三巻『不滅への道』の解説に詳しく記したので詳説はさけたい。
類魂と意識の問題で一番重要なのは、魂は元々一つの霊(本霊)から発しているので、共感共在的な在り方がその本性だということである。地上での分離的な在り方から出発して上昇するに従い、魂は次第にそのことを自覚し、類魂のなかに融け込んでゆく。第五界あたりがその分岐点で、大自我、大意識、大記憶というようなものは皆この時点に集まっている。個我に対する大我の源はひとまずここにある。さらに淵源をたどれば第六界の本霊ということになるが。それぞれの魂は類魂としての相互浸透、相互学習をするための機能をその各々のなかに予めもっているのである。愛、共感、宗教的心性、超常的知覚、憑依、霊媒、超意識、カルマ、再生、未来予知、霊的治療、前生透視その他諸々のことがこの類魂と意識の問題から解答を受け取ることが出来るように思う。読者の思索に委ねたい。

◆霊能者の役割について

スピリチュアリズムと霊媒――霊能者といっても同じであるが――の存在は切っても切り離せない関係にある。そのためにスピリチュアリズムはしばしば非難される。科学者からも、宗教家からも、良識あるという市民からも、神秘家からさえもである。要するに霊媒などといういかがわしい連中にうつつを抜かしているからだというのである。
しかし本集を読まれた方々はそのような偏見はお持ちになるまい。純正な霊媒とは人類のために如何に貴重な知識をもたらしてくれるものかを納得されるのではないかと思う。しかしここに示し得たのは限られた例証だけである。第三巻でお分かりのように未だスピリチュアリズムの資料と文献は山積みなのである。それらの資料文献がことごとく人間は霊的存在だということを教えているのである。このことは幻想ではあるまい。
スピリチュアリズムにおける霊媒の働きは二つに大別されると考える。一つはステイントン・モーゼスや本集には収録しなかったがモーリス・バーバネルのように、霊的世界についてや人間存在についての高次の知見をもたらしてくれる種類の霊媒である。もう一つは、とにかく人間が霊的存在であり、肉体と離れた霊魂の存在は事実だということを人々に実感させてくれる霊媒である。ジャック・ウェバーなどはそれに当たるであろう。ジェラルディーン・カミンズ女史の場合にはその両者の中間にあたるかもしれない。
スピリチュアリズムにおける霊媒の働きが二大別されるとして、私は大部分の霊媒の役割は後者に限る方がよいと感じている。そして事実一世紀半にわたるスピリチュアリズム運動の目的の大半はそこにあったのである。そうである理由は第一に、モーゼスやカミンズやモーリス・バーバネルによってもたらされた高次の霊的知識や教訓は(私はそれらを何ものにも替え難く貴重なものだと思うが)、一つの新しい啓示のようなものであって、一世紀のあいだに幾つも期待できるものではないこと。第二にそうした高次の霊的知識や教訓は諸宗教と競合し、スピリチュアリズム自体が一つの新興宗教とみなされる恐れがあること。第三に、高度な霊的知識や教訓などの正しさは結局それ自体が証明の対象にはならないので真ともいえず偽ともいえず、また高次の霊的知識といってもセオソフィ〔神智学〕などの教える霊的知識などと競合する。競合しても一向構わないともいえるが、そうした教えがあることをもってスピリチュアリズムの特色というわけにはいかなくなるからである。
それより何より私は、一般の霊能者が安易に人類の教師や救済者たらんと目差すことによって生ずる弊害をひそかに予感し、憂うるのである。「霊的教師症候群」とM・H・テスター(有名な英国の霊的治療家)はいう。霊能力者は自己の特殊な能力と任務について、謙虚に自己限定を課した方が良い場合が多いように思う。私は霊的教師や救済者の出現を決して妨げる者ではない。しかし次のことを心に銘記しておいてもらいたい。霊能力者は人の教師たらんとすれば、人格において教師となれ。救済者たらんとすれば真に己れを滅した奉仕者たれ。
スピリチュアリズムの特色と使命は、何といっても死後の個性の存続(つまりは肉体を離れた霊魂の存在)に強い証拠を与えることだと思われる。心霊研究と境を接しているところからみてもその辺に力点がおかれていることが分かるのである。如何に高次な霊的知識が述べられようとも、霊魂の存在が納得できなければそれらのすべては砂上の楼閣となる。すべての高度な霊的真理を生かすも殺すもこの点にあるのである。単に霊的真理というだけでは到底科学的真理や唯物論に対抗することはできない。
霊魂の存在については、自分自身の直覚や行や瞑想による体験体察でそれを知りうればそれはそれでさぞよいことであると思う。しかしそうはいかない人々が殆どである。科学であろうとする心霊研究、超心理学そしてサイ科学はこの点では当分助けにはならないであろう。私はスピリチュアリズムの意義と使命を体した霊媒が日本中に何十人かいればよいと思う。そうした人達はその人の許へいけば霊魂の存在について必ず納得のいく証拠を見せてくれる人達である。そのような人々の集まった場所が各国に一個所あれば、いつか世界は変わるであろう。何故なら、何人たりともそこへ行けば確証がもてるというのであれば、疑問を持つ人があればそこへゆけばよいからである。霊魂存在の一点が納得出来ないために高度な霊的世界の認識に足を踏み入れることが出来ないでいる人が多くいる。そのような人々にとってはそのような場所は福音である。のみならず、懐疑家であろうと、厳正な科学者であろうと、政府機関の者であろうと、またマスコミ関係者であろうとそこにゆけばすべて納得するというのであれば、やがて霊魂存在については社会の常識化し、唯物論には壊滅的な打撃を与えよう。
そのためにはスピリチュアリズムの意義と使命を体した、真に“奉仕的”な、“純正”な霊媒が出なくては駄目である。そうした霊媒が世に出るためにはまずスピリチュアリズムの崇高な目的と理念が世に広まらなければならない。そのためには基本となる文典がなければならない。編者が困難を押して本集の刊行を推し進めた理由である。随分迂遠で狂的な情操のなせる業と思う人もいるかもしれない。しかしスピリチュアリズムに挺身した先人たちの数代にわたる無垢の情念を思えば何ほどのこともないのである。現に天は近藤千雄氏が今日の時点では奇跡的とも言った本集の刊行を助けたではないか。スピリチュアリズムの持つ理想が達成されるのは数代の後でもよかろう。しかし私達に出来るのは現在におけるささやかな一歩である。
なお、『人間個性を超えて』の翻訳には、サイキック・プレス社一九五二年版(初版は一九三五年)を用いた。

◆刊行のおわりに

今から二年半ほど前の私が本集の刊行の最初の打診を編集者から受けたときの時点を思い起こすと、その頃私は日本におけるスピリチュアリズムの啓蒙と普及に一生を賭けても悔いないという想いを抱いていた。そしてその想いを決して人に語り尽くすことも説明することもできないと感じていた。そしてそうした理想達成のための基礎作業に身を挺するといった日常であったためにかえって、私には編集者の申し出を受け入れる時間的余裕はないと感じていた。しかし、具体的に本集刊行の計画を射程のうちにいれる直前において、私の人生上における未曾有の困難にであったのであった。そしてそのことは私の決心を固めさせるのに役立った。
スピリチュアリズムの普及と浸透が様々な困難に出会うことは先人たちの歩んだ道をみても思い半ばに過ぎるものがある。まして研究に実践を併せ行なうとすればその困難は重畳する。机上にスピリチュアリズムを云々する人々はけだしこの困難について知りえないであろう。たとえ全身全霊をもって道のために尽くしたところで、人の足下をすくい、石を投げ、唾を吐きかけるということばも軽いほどの報いを受けるものである。それに比べれば誤解などというものは未だ友情の範囲なのであろう。
想いの強烈さと希薄さは同じ理想のなかにあってさえ人を別(わか)つものである。私は私の困難の原因となり、人と霊の通る道を妨げた人々にいかなる遺恨も持つまい。それらの人々が悪意であったにしろ善意であったのにしろ、私の前に置かれた石はいささか私の筋肉と意志の力を強めたのである。
そして私はわが国において新たにスピリチュアリズム、或いは更に広く霊的真理の普及の戦列に加わる人達にこう言えばよいと思う。私達も先人も出来ることをしたのだから、あなた方もまた本集を野戦の枕として、いかなる困難に出会おうとも挫けず先に進みなさいと。
おわりに際し、本集刊行を助けて下さった近藤千雄氏および編集者、その他の皆様に心から感謝の意を表します。
(一九八五・十二・十五)

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