3-(03)超ESP仮説は棄却された―スティーヴンソンの「真性異言」および 「先天性刻印」の研究をめぐって

超ESP仮説とは

ある人が、有能だと評判のある霊媒(あるいは「霊能者」)のもとへ行ったとします。そこで、霊媒は、「あなたの死んだお母さんが、今ここに来ている」と告げ、母親が当人に対して使っていた特殊なニックネームや、幼かった頃の出来事、特に母親と当人自身しか知らなかった出来事などを、明かしたとします。
ごく普通の人であれば、この体験は非常に驚きとなるはずです。そして、母親が死後も生きていることを実感するでしょう。
ところが、ここにはトリックの介在する余地があります。霊媒は、その人の心の中を、「ESP」(テレパシーないし読心術)で読み、そこから「母親の証言」を捏造した可能性があるからです。(このような能力はしばしば報告されていますし、また、こうした「捏造」を意図的に行なうことによって、利益獲得やその他の目的を果たそうとする霊媒がいる可能性も充分あるでしょう。ですから、こうした懐疑は、抱いて当然のことですし、場合によっては必要なことです。ちょっとやそっとのことを当てられたからといって、「霊能者」に過度の信頼を置くことは危険です。)
こうした「ESP」によるトリックの混入可能性は、死後存続の証明問題に、常に介在するものです。(これについては「導入編」でも簡単に触れました。)
さらに「強力な透視能力」を想定すると、証明問題はさらに困難になります。
ある人が、何らかの契機(幼児期の証言や催眠など)で、「前世」の記憶を語ったとします。そしてそれが、歴史資料などの記録によって、事実と一致することが証明されたとします。当人はもちろん、同席していた人も、それらの事実を知っていた可能性がないとしたら(これを証明することはきわめて大変なことですが)、それは真正な前世記憶だと言えるでしょうか。
ここに、「強力な透視能力」を登場させると、証明は困難になります。人間の透視能力が、かなり離れた場所や時間の事実を、認知できることがある(非常に稀ですが)ことは、テレビの「超能力捜査官」などをご覧になって、ご存じの方も多いでしょう。これを敷衍していって、当人は、突然(普通は当人には透視能力がないのに)、無意識に(当人はやっていないと証言しているのに)、「強力な透視能力」を発揮し、しかるべきところにある「記録」や、人々の心の中にある「記憶」を読み取って、それらを瞬時に総合して、その「前世記憶」を捏造したのだ、という主張が、少なくとも論理的には、可能になるのです。
この仮説が「超ESP仮説」と呼ばれるものです。百数十年に及ぶ「死後存続の証明努力」の前に、最後に立ちはだかったのが、この仮説でした。多くの心霊研究者や超心理学者は、「超ESP仮説がなければ、死後存続はとっくに証明済みとされていたはずだ」と考えています。というより、この「超ESP仮説」は、死後存続を何としても否定しようとして、ひねり出された仮説だと言えるでしょう。
ノッチンガム大学心理学講師で超心理学者のアラン・ゴールドは、この仮説について、次のように述べています。少々引用が長くなりますがご容赦ください。

《……霊媒が、故人の癖を再現しながら特徴的な話し方で、霊媒にも会席者にもわからないはずの、その故人に関する事実を語ったとしても、人が故人の幽霊を目撃し、その幽霊から、それまで知らなかった生前の事実を知らされたとしても、それが事実であると確認するためには、その事実を知っている者がいるか、文書のような形でそれが残っている必要がある。そうすると、霊媒や幽霊の目撃者が、そうした人物や文書から、ESPでその情報を引き出した可能性が生ずるのである。テレパシーや透視の存在は知られているが、人間の死後存続の証拠は直接には知られていない。したがって、死後生存という考え方自体非常に空想的であるとして、いかに奇怪であれ他の仮説を良しとする者が多いのである。
死後生存を裏づけるように思われるあらゆる現象は、生者のESPで説明できるとする理論を、これから「超ESP仮説」と呼ぶことにする。この用語はハート教授の造語であると私は理解している。
……喩えを引いて説明してみよう。森の中を野鳥観察しながら歩いていると、そこここから珍しくもすばらしい囀りが聞こえた。しかし隈なく探してもその囀りの主は杳として見つからない。そこでひとりが言う。「やれやれ、どうやら鳥の幽霊だったらしいな。見えないし雲をつかむようだし、声だけだものな」。するともうひとりが言う。「鳥の幽霊なんているわけないじゃないか。きっと誰かが腹話術を使ったんだよ。もちろん、ふつうの腹話術じゃできっこないから、超腹話術だな、これは。無意識にわからないようにやったんだな。でもね、ぼくの考えの方が君のより当たっていると思うよ。少なくとも腹話術はあることがわかっているけど、鳥の幽霊がいる証拠なんてないからね」
明らかに両者の理論は事実の埒外にある。ふたりとも事実に即した科学理論を唱えているのではなく、事実の周囲にお話を作りあげてしまったと言わざるをえないのではないだろうか。超腹話術仮説と超ESP仮説は相通ずる点がある。さらに事実が明らかになっても確証も棄却もできないという点で、ともに内容を伴わない仮説であるが、腹話術とESPという、実在が知られている現象名が含まれているために、ともに実在が確認できるかに見える点である。
超ESP仮説を科学的理論と呼ぶとしても、超腹話術仮説を科学的理論と呼ぶのと同程度の根拠しかなさそうである。両者とも、事実を元に織りあげたお話ないし神話に過ぎない。とはいえ、神話から出発した科学理論も少なくないので、それだけで、この種のお話を全く無意味であるとするわけにはいかないが、超ESP理論には、お話というレッテルを張ってしかるべき理由がある。超ESP仮説には、「霊魂」ないし「霊体」が発見されない限り、あらゆる点を説明してしまうからである。
この種のお話を科学的理論であるとして堂々と唱える者は、この点自分の周囲のあらゆる出来事を、誇大妄想や被害妄想に結びつけるパラノイアの論理と似ているので、「妄想着想」と呼ぶべき状態にあると言える。このような理論の主唱者であれば、観察可能な事実をいくら突き付けられても、目を醒ますことはまずないのではなかろうか。》
(アラン・ゴールド「超ESP仮説(抄)」笠原敏雄編・著『死後の生存の科学』叢文社、1984年、303-305頁。Alan Gauld: The ‘super-ESP’ hypothesis, PSPR, 1961, 53.)

真性異言――ESPで伝達不可能なもの

この超ESP仮説に果敢に挑戦したのが、ヴァージニア大学精神科教授で、現代における超心理学(というよりむしろ伝統的サイキカル・リサーチ)の泰斗、そして「生まれ変わり研究」の先駆者として知られるイアン・スティーヴンソンです。
スティーヴンソンが注目したのは、ESPによっては伝達不可能なものの伝達、ということです。テレパシー、読心術、透視などによって、取得可能なのは、あくまで「情報」です。どこでいつ何が起こったか、どんなことを誰が感じ、あるいは思ったか、そういったことは、言葉になっているものであれ、イメージに過ぎないものであれ、いずれにせよ「情報」です。
しかし、前世証言者の中には、ESPによる「情報取得」では説明できない現象を示すケースがあります。その最大のものが「言語能力」です。前世を語り、その前世で語っていた言葉を口にするケースは、きわめて稀ですが、いくつか報告されています。これを「真性異言」と呼びます。
「真性異言」(xenoglossy ゼノグロッシー)とは、フランスの生理学者で心霊研究協会の会長も務めたシャルル・リシェの造語で、本人が習ったことのない外国語を話す現象のことを言います。『新約聖書』(使徒行伝19-6、コリントⅠ12-14)などにも「異言」(glossa、glossolaria、speaking in tongues)という現象が記述されていますが、「真性異言」は、その言語が特定の言語であることが確認されたものを言います。このうち、特定の文章ないし語句だけを繰り返すものを「朗唱型真性異言」、その言語の話者と意味のある会話ができるものを「応答型真性異言」と呼びます。
(なお、ブラジルの霊媒カルミネ・ミラベリ(1884-1951)は、様々な超常現象を起こしましたが、自動筆記によって30に及ぶ外国語を筆記しています。彼は学んだはずのないフランス語で1時間に1700語に及ぶ意味の通る文章を書き、またヘブライ語、アラビア語、さらには日本語でも死者からのものとおぼしきメッセージを自動記述しています。)
さて、真性異言のうち、「朗唱型真性異言」は、情報による伝達の範囲内と言えます。記録の透視や読心術などによって、断片的な文章およびその発音は、取得可能だからです(発音はかなり微妙だとは思いますが)。しかし、きちんとした会話ができる「応答性真性異言」は、そうではありません。言語を自由に操れるというのは、「技能」であり、いくら情報を集めても、実際にかなりの訓練をしない限り、可能にはなりません。自転車の乗り方をいくら本や映像で知っても、自転車に乗ることはできないように、言語も情報による伝達では「会話」できないのです。つまり、「超ESP」によって、「外国語の会話能力」は獲得することができないわけです。
ですから、ある人物が、前世の記憶を、その前世での言語で語り、かつ現世の当人がその言語を学んだことがないと証明された場合には、超ESP仮説は適用できず、生まれ変わりが最も有力な説明仮説となります。
応答性真性異言の事例は、きわめて珍しいもので、スティーヴンソンが収集した2000に及ぶ生まれ変わり事例の中で、わずか3例にすぎません。イェンセンの事例(Xenoglossy: A review and report of a case. Charlottesville: University Press of Virginia)と、グレートヒェンの事例、およびシャラーダの事例(いずれも『前世の言葉を話す人々』笠原敏雄訳、春秋社)です。イェンセンとグレートヒェンの事例は、催眠中に前世人格が出現したもので、前者はスウェーデン語、後者はドイツ語で、短い文章によるやりとりが記録されています。シャラーダの事例は、それらに比べて、前世人格が主人格に入れ替わったと思われるほど明確に出現し、きわめて長い文章で流ちょうに受け答えし、歌まで歌っています。シャラーダの事例のごく大まかな概略を紹介します。

シャラーダの事例

1941年、インド、マハーラーシュトラ州ナーグプルに生まれたウッタラ・フッダルという女性は、1970年からいつくかの身体的疾患により、ホメオパシー医の診察を受けるようになり、73年には入院生活に入った。その際、ヨガ行者が講演にやってきて、瞑想の講義をした。少々の瞑想経験を持っていたウッタラは、瞑想の練習に参加した。その後、本人の行動は顕著な変化を見せ、ウッタラの母語であるマラーティ語とはまったく異なる、ベンガル語を話し始め、ベンガル州プルドワンで1800年代前半に生きたシャラーダという女性に、ほぼ完璧に人格変換する。
シャラーダは、生まれて2ヶ月ほどして母を亡くし、叔母に育てられた。7歳の頃に、叔母の紹介でアーユルヴェーダ医と結婚した。2回の流産を経験した後、3回目の妊娠をしたが、妊娠5ヶ月の時、夫を家に残し、かつて住んだことのあるサプタグラムという村に旅行した。そこで2ヶ月経たないうちに、庭で花を摘んでいる時、右の爪先をヘビにかまれ、意識を失った。それ以降の記憶はなく、自分が死亡したという意識が彼女にはなかった。
シャラーダに「人格変換」している間、ウッタラには全く記憶がない。この人格変換は、不定期に起こったが、月に2度ほどある「アシュタミーの日」に起こることが多く、その「アシュタミーの日」は、シャラーダの生まれた日であり、また死亡した日である。またシャラーダが崇拝していたドゥルガー女神への礼拝にふさわしい日ともされている。シャラーダの「出現」は、大半は1~3日続くものであったが、1~2週間続く時もまれにあり、中には40日以上にわたることもあった。
シャラーダは、ほぼ完璧なベンガル語(ウッタラがこれを習った可能性は否定されている)で流ちょうに受け答えをし、マラーティ語、ヒンディー語、英語などはまったく理解できなかった。
シャラーダは、結婚時暮らしていた土地のことを、事実と一致する形で語った。また、生活習慣、身振り、ものの好みなどにおいて、ウッタラとは全く異なる、19世紀初頭のベンガル女性の特徴を見せた。彼女は文明の利器を知らず、テープレコーダーを再生すると仰天してその中に「悪霊がいる」と言った。また、電話という概念を知らず、「あなたは見たことがないからわからないでしょう」と言われると、天井の扇風機を指さして「あれみたいなものですか」と笑いながら言った。
シャラーダは、時に自分の死の直前の状況を発作のように再現した。舌と口内、唇がどす黒くなり、「キング・コブラが私を噛んだ」と述べ、爪先も黒くなった。その最中、シャラーダの息は、強い悪臭を放った。
奇妙なことに、シャラーダは自らが死んだことを知らず、夫や叔母夫妻の死も知らなかった。自分がもといた所に戻り、家族たちに再会したいと頻繁に主張した。

スティーヴンソンは、持ち前の熱意と忍耐力を発揮して、驚異的と思えるほどの周到な調査を行ない、主人格のウッタラがベンガル語を習得したことがないこと、シャラーダの記憶とその言語が、証言する前世に符合することをを立証しています。
報告されたシャラーダの言葉、記憶、仕草や身振りなどを読む限り、その前世「記憶」の信憑性は疑いありません。そして、超ESP仮説では、この言語能力を説明することができません。

先天性刻印

スティーヴンソンは、さらに、ESPでの情報取得によってはうまく解釈できない、生まれ変わりの証拠を提出しています。それが前世記憶と符合する母斑(birthmark)および先天性欠損(birth defect)です。総称する名称がないので、ここでは「先天性刻印」とします。
これは、前世の人格が死亡した際の創傷、あるいは前世人格が持っていた痣や欠損、ないしは創傷痕・手術痕などが、現世人格に痣や欠損型奇形として再現されるものです。つまり、現世人格に見られる痣や奇形などが、前世人格が殺された際の刀・銃弾の跡や、前世人格の体にあった傷跡、手術跡、ほくろ、あざなどと一致するということです。中には、殺される際に手や指を切断されたために、その部分が先天性奇形(欠損)となって現世人格に再現された例もあります。
スティーヴンソンは、Reincarnation and Biology: A Contribution to the Etiology of Birthmarks and Birth Defects (4 volumes, Westport, CT: Praeger Publishers, 1997) という厖大なモノグラフと、その概説書である『生まれ変わりの刻印』(笠原敏雄訳、春秋社)で、112に及ぶ「前世に関連する先天性刻印」の事例を報告しています。
その中から一例を簡単に紹介してみます(これが特に有力とか印象的とかいうことではありません)。

1935年トルコのハタイ地方(当時フランス占領下)アンタキヤに生まれたセミル・ファーリシは、誕生の2、3日前に死亡した遠い親戚のセミル・ハイイクの生涯と死の状況を話した。
セミル・ハイイクは、自分の2人の姉妹を強姦した2人の男を殺害し、逮捕されたが、逃亡に成功、山岳地帯に潜伏し、旅行者の金品を強奪していた。結局密告によって彼はフランス警察に包囲され、火をかけられた隠れ家の中で、ライフルで自殺した。
セミル・ファーリシが生まれる前の晩、父親はセミル・ハイイクが自宅に入ってくる夢を見、彼が自分たちの息子として生まれ変わろうとしていると思った。生まれてきたセミル・ファーリシは、右顎の下側に顕著な母斑があり、生まれて数日の間、そこから出血があったため、縫合する必要があった。
セミル・ファーリシは、言葉が話せるようになる2歳頃から、セミル・ハイイクであった「前世」を語り、警官に対して敵対的な態度を示し、投石すらした。棒きれをライフルに見立てて遊び、父親のライフルを持ち出して何人かの兵士を撃とうとしたこともあった。
セミル・ファーリシには、右顎の母斑のほかに、左頭頂部に髪の毛のない直線状の部分があった。これらの母斑は、喉にライフルの銃口を当て、足で引き金を引いて自殺したセミル・ハイイクの遺体の状況(姉妹の一人とフランス憲兵の証言)と一致した。頭頂部の直線上の部分は、顎から入った弾丸が頭蓋の骨を一部持ち上げて外へ貫通したことと対応した。

これを、超ESP仮説で説明すると、どうなるでしょうか。生まれる直前の胎児であったセミル・ファーリシは、なぜか、遠い親戚であるセミル・ハイイクの死をESPで知り、セミル・ハイイクの生涯の記憶や感情の一部を取得し、さらに死亡の際の銃弾創の状態を知り、それを自らの体に部分的に再現して、生まれてきた、ということになります。このようなことが正当な説明と言えるでしょうか。
確かに、人間が、ある種の特殊精神状態(極度の集中状態)で、実在体験や、時に非実在体験(イメージ体験)をありありと想起すると、その体験中の身体状況が、再現されることがある、ということが報告されています。幼少時(時には「前世」での)の暴行体験を想起した人が、殴打された部分に赤斑を生じさせたり、また、深い催眠下の被験者に、「熱い火箸を触れます」といって通常の火箸を接触させると、その箇所に水疱が出現したりする、という例です。先天性母斑や先天性欠損なども、これによって説明できるでしょうか。胎児のセミル・ファーリシは、なぜかセミル・ハイイクと強烈に自己同一化し、彼の体験を自らのものとして強烈にイメージしたために、銃弾創が生まれたことになるのでしょうか。

言語能力や身体刻印は「霊」自体にあるのか

ただし、真性異言にしろ先天性刻印にしろ、それがどのように「前世人格」から「現世人格」へと伝達されるのかは、もちろん現代の科学でも、またこれまでの霊信を総合した「霊学」でも、的確に説明されうるわけではありません。ここでは少し余談になりますが、その点を霊学的に推察してみます。
言語能力(あるいはその他の、「訓練」によって獲得された、身体と深く関連した動作や技能)は、人間の霊魂自体というより、霊と身体との中間にある「エーテル体」や「神経魂」(マイヤーズ通信に出る用語で、日常的生命活動や適応活動を司る精神の非意識的領域)などに関連しているように思われます。霊界においては言語は必要ではなく、思いはテレパシーによって伝達されると、ほぼすべての霊信が述べています。したがって、言語は、純粋に霊の世界に属するというより、霊界と現界との中間部分・媒介部分に属すると考えられるわけです。ですから、特殊な意図を持った場合や例外的な事例を除けば、生まれ変わりを経れば、言語能力を始めとする訓練獲得性の動作・技能は、消去されると考える方が自然でしょう。応答性真性異言が、きわめて珍しいのは、そこに由来すると思われます。シャラーダの事例では、当人自身に死んだという自覚がなく、現世(現世の状況や自らの身体)に強く執着しているために、彼女の霊魂は通常の「中間世」(つまりは霊界)を経ることなく、つまり消去のプロセスを通過せずに、ウッタラに再生したか、あるいは憑依したか(どちらの解釈が正しいかは決定されていません)なのでしょう。そのゆえに、好みや仕草などはもちろん、言語能力というものも、持ち越されたのだと思われます。
先天性刻印についても、同様のことが言えるでしょう。胎児が前世人格の体験を強烈に再現したために刻印が生じたのではなく、前世人格のエーテル体の欠損(これは当人の魂がそれをどれほど固定的なダメージだと捉えているかによって、保全されたり消去されたりするようです)が、そのまま現世の人格のエーテル体に影響を与え、生物学的には相同ではない(実際の致死創傷をそのまま保持したら当然、生存が危険になってしまいます)ものの、イメージ的に似た母斑なり欠損を作り出したということになるでしょう。

超ESP仮説は棄却された――死後存続は証明された

さて、スティーヴンソンの研究は、その綿密な調査と、柔軟で慎重な検証態度によって、多くの人々を納得させつつあるようです。唯物論「教会」である科学アカデミーの中にも、彼の研究を正当に評価しようという動きは見られます。
有名な天文学者カール・セーガンは、「時として、小さな子どもたちは、調べてみると正確であることが判明し、生まれ変わり以外には知りえなかったはずの前世の詳細を物語る」という主張は、「真剣に検討する価値がある」と述べ(『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』新潮社、302頁)、また行動療法の創始者ハンス・アイゼンクは、「スティーヴンソンの著作を何百ページも読み、スティーヴンソンとは別個に研究が始められているのをみると、真にきわめて重要なことがわれわれの前に明らかにされつつあるという見解からむりやり目を逸らせることは、誠実であろうとする限りできない」と述べています(Eysenck & Sargent, Explaining the Unexplained, Prion, 1993. ――いずれも、『生まれ変わりの刻印』笠原敏雄・訳者後記による)。
とりわけ、応答性真性異言の事例は、超ESPによる前世記憶捏造という仮説を、おそらく完全に、棄却しえたものと言えるのではないでしょうか。
これはきわめて重大なことです。死後存続研究の長い歴史の中で、いかに奇矯とはいえ、超ESP仮説は、死後存続を否定するものとして立ちはだかっていました。それが突破されたということは、「死後存続は証明された」ということになります。
真性異言や先天性刻印に関するスティーヴンソンの研究を、論理的・実証的に論破した研究があるということは、寡聞にして知りません(多くの人々は、心理的抵抗から、無意識に「無視」を決め込んでいるようにさえ思われます)。死後存続を支持する側から見れば、決着はついた(何を今更という思いも無きにしもあらずではあるものの)ように思われますが、それは間違いでしょうか。
もちろん、超ESP仮説は、はなから妄想的・教条的護教主義的な仮説で、考慮する必要もないとする立場も、不当とは言えないでしょう。それは、なぜか死後存続をどうやっても否定したいために、ついに人間の超能力に「神の万能」を与えてしまうという、とんでもなく破廉恥な試みだからです。しかし、偉大なるスティーヴンソンの研究のおかげで(おそらく後世の人々は、彼を「死後存続を実証した偉大な科学者」として正当に評価するようになるでしょう)、私たちは、今、超ESP仮説を、大手を振って棄却できるようになったのではないでしょうか。そして、繰り返せば、百年余に及ぶ死後存続の証明問題は、超ESP仮説が棄却された以上、「すでに証明された」ということになるのではないでしょうか。

【付記】 以下、いささか個人的な意見を記す。スティーヴンソンの『前世の言葉を話す人々』『生まれ変わりの刻印』は、現在、版元品切・重版予定なしとのことである。様々な事情があるにせよ、このような「人類の文化にとって貴重な書籍」が、簡単に入手できないという、現在の日本の文化状況に関しては、索然とする思いがある。というより、はっきり言って悲しい。
ところで、スティーヴンソンの研究は、実証研究として偉大であることは全く否定するものではないが、スピリチュアリストとしての筆者は以下のようなスティーヴンソンの言及に関しては、驚きを禁じ得ない。
《心霊主義者〔スピリチュアリスト〕は、特殊な能力を持つ霊媒と言われる人たちを介して、死者から通信を受けることが時おりできると信じている。通信は夢の中に現れることもあるし、その故人が霊姿として見えることもある。/心霊主義者は、肉体のない人格とこうした交信がふつうにできると信ずる宗教集団に属しており、こうした交信を容易ならしめるため、規則正しく礼拝を行なう。》(笠原敏雄訳『前世を記憶する子どもたち2』訳書353頁、原注29)
これが博覧強記にして、きわめて公正な大心霊研究者の言とはとても信じられない。「プロ野球選手とは、一年のある時期、週に5日から6日、野球場という施設に通う人たちである」というような定義である。スティーヴンソンは本当にスピリチュアリズムの文献を読んでいないのか、それとも何らかの意図があってこのような記述になったのかはわからないが、最も近いはずのアカデミシャンからこのような扱いを受けることは、何とも索然とするところである。