3-(15)スピリチュアリズムの3つのステージ

 

スピリチュアリズムの内容というものは、非常に多岐にわたっていますが、そこにはある種の段階というものを見て取ることができます。スピリチュアリズムに入っていく際の歩みとでも言うべきものです。

◆死後存続・霊魂実在を認める

まず、スピリチュアリズムは何よりも、「人間の個性は死後も存続する」ということを主眼にしています。死後存続、霊魂の実在ということが、出発点であり、核心でもあるわけです。
このことは、様々な方法によって提示されます。霊媒を通した死者からのメッセージ、臨死体験や生まれ変わりの研究、前世記憶の想起、あるいは高次の知性体と思われる存在からの教え(ただしこれは前三者に比べるとより主観的となりますが)など。
このことを、できるだけ理性的・実証的に示そうとする点で、スピリチュアリズムは諸宗教とは異なりますし、またこの点で、スピリチュアリズムはサイキカル・リサーチ=心霊研究を重視するわけです。もっとも、心霊研究者――特に超心理学者――の側は、スピリチュアリズムを信仰だとして――むしろ「軽信」として――軽蔑するようですが。
死後存続を受け入れるということ、これはある意味では、とてつもないことです。このことを心底から、全身全霊をもって受け入れるということは、通常の世界観・人生観の完全な転覆となるわけで、ひょっとするときわめて困難なことかもしれません。頭だけで考えている、そうだろうと思っているけれども何となく徹底してはいない、という人は案外多いのでしょう。素晴らしい霊信を読んで感動し、それを信じるようになったといっても、自分の日々の生き方までそれに基づいているとまでになることは、むずかしいことです。死後存続・霊魂実在という真理は、一度通ったらおしまいというようなものではなく、何度も繰り返し立ち返り、深めていくものなのかもしれません。
しかし、あくまでスピリチュアリズムの基本は、死後存続を受け入れるということにあります。どんなに浅い形であっても、そして何度もこの問題に還ってくるにしても、ここからすべては始まるわけです。

◆霊的存在ないし知識との関係

死後存続を認めると、そこに必然的に出てくるのが、「霊的存在」との関係(ないし霊的知識)です。
誰もが気になるのは、他界した愛する人、親しい人のことでしょう。その人たちはどうしているのか、向こうで再会することができるのか、このことは、霊媒に尋ねる質問として最もポピュラーなものです。個人的な慰安とはいえ、切実な問題であることは確かです。
しかし、霊的存在との関係はさらに広がりを持っています。自分を見守り導いてくれる霊的存在(守護霊)との関係、より進化を遂げた高次の存在との関係、さらには、この世と関係を持とうとしている様々な霊的存在との関係。そして、何よりも、そうした関係(導きや教えなど)を自分の生き方にどう応用していくか……。
実はこの場面は様々な問題をはらんでいます。死後存続を認めた人々が、すべて同じ道を歩くわけではありません。
ある人々は、特定の霊(ないし霊団)と特別な関係を結ぼうとします。自分が好む思想や信仰に関連する霊団との交渉を求める人々(たとえば日本神道の神々やマリア霊団やヒマラヤの聖者などと交渉しようとする人たち)もいれば、特定の霊能者や教祖に関係する霊団と結縁する人々もいます。深遠な秘術を教えてくれるような霊団(神智学や修験道など)に向かおうとする人々もいれば、病気治療を得意とする霊団に頼ろうとする人々もいるでしょう。
この様々な関係のことを、時に「霊統」と呼んだりします。霊的存在を認める人々は一様なのではなく、しばしば縁や好みによって様々な系統・派閥(あまりよくない言葉ですが)に分かれ、そうした系統の間では、かなりの世界観の違いがあったり、時には批判・敵対の関係が生じたりするようです。
特に日本の霊能者や修験系行者を中心とした集団では、霊的存在との間に非常に濃密な関係が結ばれることがあるようです。そこでは、奇跡的な現象が頻発したり、霊から教示された特定の所作(九字を切ったりマントラを称えたり)をすると病人がたちどころに治ったり、といったことが起こります。ところが、しばしば一方では、霊からの様々な命令が出され、あちこちの神社めぐりをしたり、厳しい規則にのっとった祭祀儀礼をしたり、ということが要求されます。時には日常生活ができなくなるほどの課題・義務が求められることすらあるようです。
こうしたことを悪い、おかしいと判断することは、人間の分際ではできません。神社めぐりや霊供養にしても、何らかの霊的意味があるのかもしれませんし、それに加わる人たちにはそれなりに必要な学びなのかもしれません。ただ、いささか偏った見方かもしれませんが、こうした活動が、人類一般の霊的知識の進化に、あるいは普遍的な霊的行動規範に、あまり大きな貢献をしているようには思われません。中心となる霊能者や行者が死んでしまうと雲散霧消し、また別の中心が誕生する、そういったことが繰り返されるだけで、公共的な財産にはなかなかなっていないような気もします。また、そこで霊的儀礼に心酔した人たちが、死後、「特定の教義に固執することで霊的成長が阻害される」(マイヤーズ通信)ようなことがないかということも、いささか心配されることです。
正統的スピリチュアリズム(そうしたものがあるかどうかは議論の余地があるでしょうが)では、こうした特定の霊団との特殊な関係を、あまり推奨しません。強力な霊能者や信仰集団に依存するのではなく、個々は、それぞれを見守り導いている守護霊と、祈り・瞑想を通じて関係を持つべきである、とされます。霊的知識・教えは、様々な霊信によってすでに十分に示されている、それ以上の秘儀・秘術は必要ないし、奇跡的現象・治療は必要とされるところに自然に与えられる――それがスピリチュアリズムの基本的姿勢のように思われます。もちろん、それを他力的すぎるとか、面白みがないと思い、神智学や修験系・密教系霊術に向かう人々もいるでしょう。そしてそういう人たちから見れば、スピリチュアリズムも「一つの霊統」に過ぎないのだからそれを絶対化する資格はない、となるでしょう。それはやむを得ないことです。

◆他者への行為

死後存続の認識も、霊的存在・知識との関係の探究も、あくまで自己探究であり、求道の過程と言えますが、あらゆる宗教が示しているように、その先には、それらを踏まえて、他者に対してどのように振る舞っていくかという課題、難題があります。
他者への行為が、究極的には「利他行(菩薩行)」であり、「奉仕」であることは、ほぼすべての宗教が認めていることでしょう。スピリチュアリズムももちろん「奉仕」の価値を説いています。また、多くの人が霊魂の自覚を獲得していない現代の社会で、霊魂説を説き続けることも、利他行の一つと言えるかもしれません。
ただし、利他行為の蔭には自我拡大欲やその亜系である「自分の支持する教えや教団を拡げたい」という欲望がしばしば入り込んでいる、という批判は、常に自戒すべきものかもしれません。
これについては、「語るよりも為せ」で、互いに肝に銘じ、それぞれの仕方で努力するしかないでしょう。

以上の3つのステージは、ちょっと仏教の言う三乗、つまり「声聞乗――教えを聞いて帰依する」「縁覚乗――自力で覚りを開く」「菩薩乗――一切衆生の覚りをめざす」という教えと似ていなくもありません(別に参考にしたわけではないのですが)。
仏教の三乗については、直線的な進歩段階と捉える見方もあれば、人を導く方法の違いで段階ではないと捉える見方もあるようですが、上記の3つのステージも、ある意味では進む段階でありながら、やはり繰り返し「霊魂の認識」「霊的世界観の探究」へと戻って省察を深めるもので、いわばラセンのように進んでいくと考えることもできるかもしれません。
ただ、スピリチュアリズムが説いていることは、複雑難解なことではありません。まずは、「様々な証拠から死後存続・霊魂の実在が言えますよ」、そして、「いくつかの優れた霊信の教えと、自らの守護霊の導きに従うのがいいですよ」、最後に、「人に奉仕することが最善ですよ」という、きわめて素朴な主張です。上記はそれを少し敷衍しつつ、はっきりとさせようとした試みに過ぎません。

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