3-(01)死後存続証明の新たな展開――臨死体験と前世療法

 

スピリチュアリズムは、1848年の「ハイズヴィル事件」に始まり、その後欧米で大きな運動を巻き起こしました。優れた能力を持った霊媒が続々と輩出し、死後存続に関するたくさんの研究や事例が積み重ねられました。数においても、質においても、現在では考えられないほどの規模でした。
ところが、サイキカル・リサーチが厳密性を高め、ついに超心理学が登場する頃、つまり第一次世界大戦の前頃になると、この「大きな波」は鎮静化していったようです。そして、大戦間や第二次大戦後は、死後存続を証明するような事件や、それに伴う大衆的な動きといったものは、あまり見られなくなります。特に、優秀な霊媒は、かつての時代ほど生まれなくなったようです。
スピリチュアリズムは、過ぎ去ったのでしょうか。あれだけの現象や「霊信」が世界で同時多発的に発生していながら、結局それは唯物論の牙城を崩すことなく、一時のブームとして終わったのでしょうか。
ところが、20世紀の後半から、興味深い動きが生まれてきています。「臨死体験」と「前世療法」です。これらは医学や心理学の領域で生まれてきたもので、スピリチュアリズムと直接関係を持っていません(むしろ研究者たちは半ば意図的に関係を否定する傾向があります)。しかし、それらは明らかに「死後存続」「霊の実在」を立証する方向へと向かっています。
19世紀のスピリチュアリズムは「霊媒による超常的な現象」によって、死後存続と霊の実在を明らかにしようとする一大ムーブメントでしたが、20世紀のこれらの動きは、「より多くの一般人の体験」によって、それを世に広めていく働きをするもだと見ることができるのではないでしょうか。あえて言えば、それは「新たな形式での霊界側の働きかけ」なのではないでしょうか。
臨死体験
臨死体験研究の出発点になったのは、1975年に刊行されたレイモンド・ムーディ『かいまみた死後の世界』(Life after Life)であることは、定説となっています。この本は世界中で翻訳され、多くの読者に読まれました。また、ムーディと独立に、サイキカル・リサーチおよび超心理学を踏まえつつ、臨死体験の調査研究をしたカーリス・オシスとアーレンダ・ハラルドソンが、1977年に『人は死ぬ時何を見るのか――臨死体験一〇〇〇人の証言』を刊行しています。これらの本は大きな反響を呼び、以後、臨死体験に関する本は洪水のように刊行されていきます。
そして1981年に、ムーディを中心に、マイクル・セイボム、ケネス・リングらの医学・心理学者によって、国際臨死研究学会(IANDS)が結成されます。
このような臨死体験の広がりの背景には、もちろん人工呼吸器や心臓電気ショックなどの救命医療技術の飛躍的向上があります。「死の瀬戸際」まで行きながら蘇生できた患者が激増し、当然、多くの臨死体験報告がなされるようになったわけです。1982年のギャラップ調査による推計では、このような体験をした人は800万人に上るのではないかとされています。
臨死体験は、人間の魂が肉体から離れ(しばしば自らの体を上から見たり、周囲の状況を鳥瞰的に見たりする)、光の世界へと吸い寄せられ、そこで先に他界した親族や「天使のような存在」と出会う、という体験です(稀に不愉快な状況の体験もあるようです)が、特に注目すべきは、このような体験をした人々が、人間の魂は死後も存続することを確信し、死を恐れなくなり、精神性・宗教的傾向が強くなるということです。
しかしながら、臨死体験研究は、死後存続説や霊魂研究という点では、あまり広い射程を持っているとは言えません。
まず、臨死体験研究者の多くは、医師や心理学者であり、それまでサイキカル・リサーチやスピリチュアリズムが蓄積してきた知見を、知らないかあるいは無視しています。臨死体験研究の本をいくつも翻訳している笠原敏雄氏は、研究者たちのそうした態度を、先行業績を参照するという科学的手続きを無視したものだと指摘してます。したがって、多くの研究では、実証性ということが充分に考慮されていないのです。また、同氏は、サイキカル・リサーチ(超心理学)を踏まえたオシスらの研究ですら、超ESP仮説への取り組みが不十分で、理論上の中心主題は残されたままだとしています。これはオシスら自身も認めるところで、重版の序文には、次のようなコメントが記されています。
「このような〔10年ほどの間に大きな広がりを見せた〕新しい形態の学際的研究法のおかげで臨死体験の多くの側面に関する知識はかなり豊かになったが、臨死体験と死後生存仮説との関係という中心的問題を明らかにすることに対しては、こうした研究法はあまり貢献していない。……この問題は本研究をもって決着がついたと公言することは、実際のところ傲慢でもあろうし、心得違いというものであろう。」
そもそも、臨死体験は、体験者が生き返っているわけですから、「真の死後の体験」だということには無理があります。呼吸停止・心停止であっても、脳は生きていただろうから、それは脳内現象であり、せいぜい体脱体験と同様のものに過ぎない、というわけです。脳活動(脳幹活動まで含む)が完全に停止した状態で体験された「パム・レイノルズのケース」(セイボム『続「あの世」からの帰還』)でも、厳密に理論的に検証すると、完璧であるわけではありません。実証的側面は、非常に脆弱なのです。
実証性を別にして考えても、臨死体験には限界があります。臨死者は、死後の世界の入り口まで行ってはいるにしても、それはあくまで「かいま見た」程度のものでしかないからです。前世療法の本をホイットンとともにまとめたライターは、臨死体験を、「国境に足止めされた海外特派員がそこからその国の事情を報告する」ようなものだと表現しています。
臨死体験者の宗教的意見
ですから、臨死体験研究者が、実証的研究から踏み出して、宗教や霊魂の問題を扱うと、きわめて恣意的な、奇怪な形態を取ることがあります。
先駆者レイモンド・ムーディは、かつて次のように書いていました。
《最後に警告しておきたい。私見によれば、死の瀬戸際まで行った患者たちを対象にした、これらの研究によって得られた興味深い所見を、心霊主義〔スピリチュアリズム〕がその奇怪な付属物とともに、医学に入り込むのを容認する口実に使ってはならない。おそらく人類が誕生して以来のことであろうが、シャーマンたちは、自らの依頼人を死者の霊と接触させられるという主張を行なってきた。このような行為にまつわる不正や詐欺の歴史は、あまりによく知られている(し、あまりに古くからある)ので、もはや繰り返すまでもない。この種の行為の妥当性(がもしあるとすれば、それ)については、プロの奇術師が調べるのが相当であり、それは医師の仕事ではない。それに対して臨死体験は、呪医がしつらえた、おどろおどろしい暗闇の中で起こるわけではない。医師が管理する、現代の明るい救急処置室や手術室の中で起こるのである。》(The Journal of Nervous and Mental Disease 168/5 (1980):264-265. セイボム『続「あの世」からの帰還』より再引用)
ところが、そのムーディは1995年になると、「“死者の召還”という、新機軸の悲嘆カウンセリングを創始していた。……古いアラバマの農家を霊通館(サイコマンティアム)――生者と死者が、実際に対話できるという場所――に改造する」に至り、「その館で、悲嘆に暮れる“患者たち”は、黒いカーテンで暗くした二階の部屋に入り、古風な椅子に座って、金縁の大きな鏡をのぞき込むのだ。……そこには霊姿や故人の霊がしばしば登場し、完了できずに終わっていた人生の課題を、この“中間領域”でつつがなく完了できるのだという」といった華麗な転身を見せています。
また、ムーディに続くナンバー2と見なされ、IANDSの会長などを歴任してきた、ケネス・リングは、テイヤール・ド・シャルダンの思想に影響を受け、臨死体験を、「地球上での人間進化の頂点」である「オメガ点」への道を開くものだと位置づけました。リングによれば、臨死体験者は、伝統的な宗教を離れ、霊的普遍主義へと向かう傾向を見せており、それらの人々は、諸宗教を包含しつつそれを超えた、新たな普遍的世界宗教への先駆的な存在と捉えられるべきだ、というのです。
このリングの説に厳しい批判を出したのが、セイボムでした。セイボムは、リングが依拠したデータの特殊性、解釈の恣意性を実証的に指摘し、臨死体験が霊的普遍主義へと向かわせるというのは間違いであり、伝統的キリスト教徒は、さらにその信仰を深めることが多いというデータを提出しています(この論争はセイボムに分があったようです)。ただし、セイボムは、臨死体験やその周囲にある「超常的現象」を、すべて聖書に照らして正しいか(あってもいいものなのか)そうでないか(悪魔的なものなのか)判断するという信仰的意見を開陳しており、伝統的キリスト教徒の驚くべき頑迷さを何とも鮮やかに披瀝してくれています。
「奇怪な付属物をともなった」スピリチュアリストから見れば、こうした研究者たちの迷走ぶりには、皮肉な微笑で応えるしかありません。「先行業績を参照しない」ことによって、この種の分野にはこの種の迷走がよく見られるのは、何とも悲しいことです。しかも、臨死体験は、あくまで「国境に足止めされた特派員」の体験でしかありませんから、そこから重大な情報がもたらされることはまずなく、体験者や研究者がいくら背伸びをしたところで、肝心なことは見えてこないと言えるでしょう。
前世療法
前世療法は、退行催眠によって出生以前にさかのぼり、さらに「あなたの現在の症状に関係した過去の人生があるなら、そこに行ってみましょう」という誘導によって、過去生らしき記憶が出てくるというものです。そして、それによってクライアントの抱えていた心身症状が軽減するという効果があるとされています。
退行催眠によって前世記憶の想起が可能になるという「発見」は、1956年にアメリカで起きた「ブライディ・マーフィー事件」にまでさかのぼります。モーリー・バーンステインという催眠術師が、ヴァージニア・タイという女性に退行催眠をほどこしたところ、彼女は、アイルランドに暮らし、1864年に66歳で死んだブライディ・マーフィーという女性の前世を想起し、建造物や自然地形を始め様々な記憶を語りました。ヴァージニアはアイルランドを訪れたことがないのに、そこで語られた情報は、調査をしてみると驚くべき一致を見せました。そしてこの実験は『ニューヨーク・タイムズ』を始めとするメディアで大きく取り上げられ、全米およびヨーロッパで話題となったのです。これ以降、様々な医師や催眠療法士が、「前世退行」の研究を開始したものと思われます。「ブライディ・マーフィー事件」は、ちょうどスピリチュアリズムにとっての「ハイズヴィル事件」のように、ある時代の幕開けを告げる事件だったのかもしれません。(この事件に関しては、モーレー・バーンステイン著『第二の記憶』光文社、1959年〔Morey Bernstein, The Search for Bridey Murphy, 1956〕、および、C. J. Ducasse, How the case of The Search for Bridey Murphy stands today, Journal of American Society for Psychical Research, 54, 3-22. を参照)
1970年には、イアン・スティーヴンソンが生まれ変わりの綿密な調査研究論文を発表して話題となり、再生問題は広い関心を集めるようになりました。その頃から、ホイットンやウィリストンらは前世療法を試みていたようです。イギリスでも1979年に、ピーター・モスという催眠療法家によって『Encounters with the Past』という前世記憶に関する本が刊行されています。
ところが、前世療法に関する書物は、なかなか刊行されなかったようです。生まれ変わりは、キリスト教ではタブーとされていることなので、ブレーキがかかったのかもしれません。そこに、触媒として登場したのが、ムーディの『かいま見た死後の世界』を皮切りとした、臨死体験に関する本でした。後に前世療法の本を刊行するホイットンもワイスも、ムーディの研究とその大きな反響に促された旨のことを述べています。前世療法を実施していた療法家たちは、クライエントの語る死直後の記憶が臨死体験の報告と共通性を持つことを発見し、死後の世界への確信を深めたようです。
1980年代に入ると、死後存続問題へのまなざしはいっそう高まることになります。よく引用されるデータですが、1982年のギャラップ世論調査では、輪廻転生を信じる人は23%に昇りました。輪廻説を一切認めないキリスト教の国で、この数字はきわめて高いものと言えます。そして、1983年にグレン・ウィリストンの『Discovering Your Past Life』、86年にジョエル・ホイットンの『輪廻転生』が刊行されます。前世療法専門の学会ができ、会報誌も刊行されるようになりました。
前世療法が一大ブームを巻き起こしたのは、88年のワイスの著書『前世療法』によってです。ワイスは普通の医師・催眠療法家で、死後存続や輪廻説に関する知識は全くなく、1980年、偶然の手違いから患者の「前世想起」に出会い、疑いを抱きつつ探究の道に入ることになりました。「手違い」とは、「あなたの症状の原因となった幼い頃の出来事に戻りなさい」と指示するところを、ただ「原因となった時まで戻りなさい」と指示したため、クライエントは何と紀元前19世紀に生きた女性の人生を語り出した、というものです。一人の患者をめぐっての未知の探究プロセスを描いた同書は、ミステリアスで感動的な物語として、多くの読者を引きつけました。
これ以後、前世療法は一大ブームとなり、かなりの大衆的人気を獲得しました。アメリカはもちろん、日本でも人気があり、現在、100近い機関が前世療法を実施していると見られます。
一方、前世療法に関する批判も多く出されています。もちろん、死後存続や輪廻説などをはなから否定する唯物論者が、前世療法を批判するのは当然のことです。ところが、生まれ変わり研究の第一人者スティーヴンソンも、前世療法や催眠による過去生想起に対して、厳しい批判をしています。
「遺憾ながら催眠の専門家の中には、催眠を使えば誰でも前世の記憶を蘇らせることができるし、それによる大きな治療効果が挙がるはずだと主張するか、そう受け取れる発言をしている者もある。私としては、心得違いの催眠ブームを、あるいは、それに乗じて不届きにも金儲けの対象にしている者があるという現状を、特に前世の記憶を探り出す確実な方法だとして催眠が用いられている現状を、何とか終息させたいと考えている」(『前世を記憶する子どもたち』7頁)
厖大な労力を費やし、周到な情報収集と綿密な検討を重ねて、反対論者にも納得できるような事例を蓄積してきたスティーヴンソンからすれば、安易に前世を云々する大衆的セラピストや巷の霊能者と一緒くたにされるのは心外だというのは当然でしょう(ただし、スティーヴンソンは催眠による前世想起を全面否定しているわけではありません)。しかしそれにしても、この批判はいささか厳しすぎるような気がしないでもありません。
一般の催眠療法家にとっても、前世療法は目障りな存在のようです。そもそも催眠というものは、一般人からは偏見を持たれやすいものです。「正規の催眠療法」を自認し、現在の科学体系に加わろうと必死に苦労している催眠療法士にとって、前世療法は世間の白眼視をさらにひどいものにする、けしからぬ存在と映るのも当然です。
このように、大衆的な人気があり、アカデミーや正統を自負する人々から白眼視されるというのは、どことなくスピリチュアリズムと似ているようですが、そこには何か符合があるのかもしれません。
(なお、前世記憶と歴史的事実との符合を研究した論文として、Linda Tarazi, An Unusual Case of Hypnotic Regression with Some Unexplained Contents, The Journal of the American Society for Psychical Research, Vol.84, No.4, Oct. 1990 がある。)

前世療法の謎
前世療法は、療法家の誘導に従ってクライエントが前世の記憶を想起し、それによってクライエントの症状が改善されるというもので、基本的には心理療法の形式です。その際、クライエントは、想起した前世が、自分の前世であるという確信を持つようです。
前世療法に関しては、様々な研究点があります。まず、前世記憶は真実なのかという問題があります。これは、記憶として語られたことは実在の歴史のことか、という問題と、それがクライエント当人の生であるのかどうか、という問題です。さらに、前世療法で症状は本当に治るのか、治るとしたらそれはどうしてなのか、という問題もあります。
これらは厳密に突き詰めようとすると、きわめて難しい問題です。通常、前世療法は、心理的症状を抱えたクライエントに行なわれ、「前世想起」によって、症状が寛解すれば、療法として意義があったことになります。そこで出てきた前世記憶が真実かどうかは、治療的には大きな意味を持ちません。クライエントが主観的にそうだと思えば、それでいいわけです。ですから、ワイスにしろホイットンにしろ、前世記憶の実証性の追究は、まったく不十分です。ウィリストンは、いくつか、実際に史実と符合し、しかも通常の方法では得ることがほぼ不可能な想起があることを紹介していますが、厳密な立証の記述はありません。まして、その記憶が果たして当人のもの(当人が生きたもの)かどうかという問いは、哲学的で難解な問題を引き起こすので、はなから問われていません。
症状の寛解に関する検証も、意外と曖昧なところがあります。想起したことで劇的に効果が現れるケースが多く紹介されていますが、果たしてその効果が持続するのか、追跡的な調査がなされているかは不明です。また、なぜ症状が寛解するのかという問いは、心理療法におけるすべての場合と同様、仮説の域を出ません。ある仮説によって治療し、治ったとしても、厳密にその仮説が正しいと立証されるわけではないのです。
このように、前世療法をめぐっては、謎がたくさんあります。ただし、クライエントが、自らが前世に生きたことを実感することで、死後存続を確信し、死を恐れなくなり、さらには自らの人生の意味を知るということは確かにあるようです。このような自覚は、臨死体験の場合と同様であり、その意味で、臨死体験も前世療法も、主観的な体験として、死後存続への道を開くものだと言えるでしょう。

前世療法とスピリチュアリズム
今述べたように、前世療法は、クライエントが前世を想起し、それによって症状の改善や霊的な自覚が生まれるという基本構造になっていますが、それは単にそこにとどまるものではないように思われます。もちろん、魂がいくつもの生を生きるということを実感することは、それだけで大きな意味をもつものです。しかし、そこには、さらに深い情報が含まれているのです。
それが、「中間世」と「超越的存在者」の問題です。
中間世(中間生とも。interlife, between-life)とは、一つの人生が終わって、別の人生へと生まれ変わるまでに、留まる世界だとされます。前世を想起しているクライエントは、死の次の瞬間、魂が肉体を離れ、光に吸い寄せられるように上昇し、きわめて心地よい、輝きに満ちた世界に移行すると報告します。そしてそこには、次の生としてどのようなものを選ぶべきか、助言・指導してくれる「偉大な存在」がいるとも言われます。
この中間世問題をクローズアップさせたのが、ホイットンの研究でした。
ホイットンは多くのクライエントの報告を総合して、次のように説明します。
中間世に移行した魂は、「裁判官」「ガイド」などと表現される高度な存在に出会い、今過ごしてきた一生を回顧し、省察します。そして、「どのようなカルマの負債があるのか、またどんな点を学ぶ必要があるのか」を自覚すると、さらなる成長を求めて、やはり高度な存在からの助言に学びつつ、次の人生を選択します。つまり、生まれ変わりの目的は、やりそこなったこと、失敗したことの「負債」を返し、さらなる「学び」をすることだとされているのです。
このような考え方は、ウィリストンにも見られます。彼もまた、生まれ変わりは魂の成長と進化のためにあると述べ、人生はそのための学校のようなものだと述べています。ちなみに彼は次のようにも言っています。
《「生まれ変わり」を「進歩」そのものだと考えるのは、誤りです。「生まれ変わり」によって与えられるのは、「進歩の機会」にすぎません。「進歩」が約束されるわけではないのです。》
こうした考えは、ほとんどスピリチュアリズムそのものです。中間世は霊界の部分的な記憶(スピリチュアリズムの霊信が伝えるような霊界自体の詳細な記憶を語る例も稀にあるようです)であり、「偉大な存在」は、「守護霊」「指導霊」そのものです。用語が異なることと、死者がすぐに行くことができないような高い霊界の情報が欠けていることくらいが違いです。(ただし、ホイットンの研究を本にまとめた共著者のフィッシャーは、古今東西の宗教的思想をペダンティックと言えるほど引用しているのに、奇妙なことにスピリチュアリズムのことは全く触れていません。)

中間世の問題は、多くの謎を含んでいます。ホイットンの本では、「中間世の体験を何回も重ねるにつれ、病気や心理的な問題が治った人々もいる」と述べられ、さらに次のような記述があります。「ホイットン博士は中間世の人間の意識が、今生での過去に退行したり前世に退行したりしているあいだに経験する意識より、はるかに高い程度に達することを知った。……この並はずれた知覚状態を『超意識』と名づけている。」
単純に考えれば、退行催眠中に想起されるのは過去の出来事であり、前世はもとより、中間世の体験も、記憶としてとどめられたものということになります。催眠状態では、イメージは際立った鮮やかさと直接性を帯びるため、想起しているクライエントが、かなりその中に没入するということは、当然ありうることです。しかし、現世や前世での通常の意識よりはるかに高い「超意識」状態に達するというのは、記憶イメージの想起で可能になるものでしょうか。中間世に導入されたクライエントは、「光に包まれて幸福を感じている」とか「肉体も性別もなくなって、きわめて心地よい状態にいる」などといった感想を述べ、さらに通常意識では見られないような、人生に対する哲学的な考察や霊的に高い内容を述べたりもしますが、それは、「記憶を想起している」だけなのか、それとも、「現に中間世にいる」のか、判定するのは微妙な問題のように思えます。

さらに謎めいているのが、「偉大な存在者」の問題です。霊魂説を否定したい研究者は、これを「高位自我(ハイアー・セルフ)」」と捉えようとしていますが、これはかなり苦しい解釈でしょう。それまでの人生を省察することを命じ、次の生を選ぶ助言もするというこの存在は、明らかに他者であり、まさしく「守護霊」「指導霊」に近い存在です。ところが、この「偉大な存在者」も、「中間世での記憶」とは言い切れないありようを見せるのです。つまりクライエントは、「光に包まれた世界でこういう存在にあって、こういうことを言われた」といった、記憶の報告をするのみならず、実際に中間世の場面に今いて、その存在と話しつつ、そこから得られた情報を口にしているという状態になることがあるからです。また、ワイスの本の最後の場面のように、「偉大な存在者」が、クライエントの口を借りて、治療者へのメッセージを語るといった場面もあり(このようなシーンは日本で前世療法を行なっている治療者も報告しています)、こうなると、「偉大な存在者」は記憶の中に出てくるものというのではなく、現にそこに出現しているものとなります。

これらのことを考えると、前世療法における中間世の状態は、特異な意味を持つことになります。それはクライエントの記憶の報告ではなく、クライエントがその瞬間、中間世――つまりはこの世を超えた世界――へ部分的にであれ移行していることになるのかもしれません。そしてそこで、その瞬間に、この世を超えた世界にいる「偉大な存在者」と直接的なコンタクトを持っているのかもしれません。クライエントがその状態を、光に包まれた、至福の状態と表現し、ずっと留まりたいとさえ告白すること、またその状態に入ること自体が治癒効果を持ち、クライエントの意識の豊かさ(ないし霊的叡智)を増大させるということは、上記のことを証左するものなのではないでしょうか。
とすると、前世療法は、単に(という言い方はかなり変ですが)自らの前世の記憶を甦らせ、それによって「霊魂の不滅」を納得したり、生まれ変わりの仕組みや人生の意味に関する「偉大な存在者」の教えを思い出して、生きることへの霊的な自覚を再獲得する、といったことがすべてではないのかもしれません(それだけでもたいしたことでしょうが)。前世療法は、催眠を通して「この世を超えた世界」に現在進行形で触れ、「守護霊」と現在進行形で交渉することによるものだと、考えられるかもしれません。前世療法の顕著な治療効果は、そこに由来するものなのかもしれません。とすると、前世導入催眠とは、特に中間世導入催眠とは、「記憶想起」ではなく、現時点的に起こる「霊界との接触」、つまりは一種の「交霊会」なのかもしれません。あまたの宗教的営為が求めていた、超越世界との接触、高位霊との交渉が、催眠という形でそこに手軽に現出しているのかもしれません。――ただし、このような仮説は、きわめて大きな心理的抵抗を引き起こすものでしょうから、ほとんどの人が否定するでしょうが。

前世療法は、いくつもの死と誕生を経験し、中間世という「この世を超えた世界」を経験する(少なくとも主観的に)ということにおいて、臨死体験よりはるかに深い内容を持ちます。臨死体験は「国境まで行って足止めをされた」体験ですが、前世療法はたとえ想起であるにしても、国境を何度も越え、そして戻ってきた体験なのですから。
また、臨死体験は、いかに医学が発達して多くの人が体験するようになったにせよ、やはり特異な時点の特異な体験です。しかし、前世療法は、深い催眠に入れる資質さえあれば(ホイットンは4%~10%と言っていますが、もっと高い数字を上げる臨床家もいます)、ごく通常的な方法で体験できるものです。ですから、前世療法は、優秀な霊媒や、特殊な事故や病気に頼らず、多くの人が「死後存続」と「魂の実在」を実体験できる、新たな道なのかもしれません。あるいはひょっとすると、前世療法のこれほどのブームは、霊界側からのある種の働きかけによってもたらされている可能性があるかもしれません(そこに悪しき霊的影響も働く可能性がありますが)。前世療法が、一方で人気を博しながら、正統・主流派からはきわめて強く異端視・白眼視をされていることは、このことと何かしら関係があるのではないでしょうか。

スピリチュアリズムが何よりも伝えようとしたことは、人間の魂が死を超えて存続するということでした。19世紀、それは霊媒の起こす超常的現象によって、多くの人に伝えられました。そして20世紀、臨死体験と前世療法という形で、再び死後存続は多くの人に伝えられています。臨死体験研究者は、スピリチュアリズムを無視ないし拒否し、それぞればらばらに宗教思想を表明しましたが、前世療法家たちは、スピリチュアリズムにきわめて近い人間観・霊魂観を展開しています。(ただし臨死体験研究に近いキュブラー=ロスは、スピリチュアリズムにきわめて近い思想を表明しています。)
人間の魂は死後も存在し続ける、そして人間が現世を生きているのは、霊的な成長・進化を遂げるためである、そして人間を助け、指導してくれる高位の存在がある、といった、スピリチュアリズムの(といった名称にこだわる必要はまったくないし、邪魔になるのなら名称はない方がいいのですが)基本的考えは、150年前とは姿を変えながら、今もこの世界に静かに浸透し続けているのだと言えるでしょう。