2-(08)神

霊からの通信は、おしなべて神の実在を説き、神への信仰を説いています。
しかし、その神は、これまで諸宗教が説いていたものとはかなり異なります。

インペレーターは、人間が作った神の観念を痛烈に批判します。

《汝らは己れの本能的感覚をもって神を想像した。すなわち、いずこやら判らぬ高き所より人間を座視し、己れの権威と名誉を守ることにのみ汲々とし、己れの創造物については、己れに媚び己れへの信仰を告白する者のみを天国へ召して、その他に対しては容赦も寛恕もなき永遠の刑罰を科してはほくそえむ、悪魔の如き神をでっち上げた。そうした神を勝手に想像しながら、さらにその神の口を通して、真実の神には身に覚えもなき言葉を吐かせ、暖かき神の御心には到底そぐわぬ律法を定めた。……お粗末にして愚かな空想であり、人間の残忍性と無知と未熟なる心の産物にすぎぬ。そのような神は存在せぬ! 絶対に存在せぬ。》(モーゼス『霊訓』)

人間が宗教という形で作り上げた神の概念はすべて人間の投影に過ぎない、神は人間と同型のものではありえない、ということです。
では、神とはどのようなものか。神は本当に実在するのか。
多くの霊信は「神の姿を直接見ることなどわれわれ進化した霊にも不可能である」と言います。それは見ることも、言葉で表現することも不可能なものだと言うのです。神は「全宇宙」の創造主であり、すべての現象の第一原因であり、すべての法則を統御する法則であり、無慮無数の世界と宇宙の背後に控えるイデアであり、唯一の実在であるけれども、そういった言葉や概念をも超越するものだ、と。
インペレーターは次のように言っています。

《われらとて、超越界については何一つ知らぬ。が、われらは信ずる――その果てしなき未来永劫の彼方に、いつかは魂の旅に終止符をうつ時がある。そこは全知全能なる神の座。過去のすべてを捨て去り、神の光を浴びつつ宇宙の一切の秘密の中に寂滅する、と。が、それ以上は何一つ知らぬ。あまりに高く、あまりに遠すぎるのである。汝らはそこまで背伸びすることはない。生命には事実上終末はなきものと心得るがよい。そしてその無限の彼方の奥の院のことよりも、その奥の院に通じる遥か手前の門に近づくことを心がけておればよい。》

しかし、高位の霊にとって、神の実在は、きわめてはっきりと感覚できるものだと言います。それは至上の光のようなもの、強烈な影響力のようなもの、尽きることのない慈しみをたたえた愛のようなもの(しかし愛よりも遙かに偉大なもの)、と感じられるそうです。そして神の神秘への崇敬・帰依は低次の世界にいた時よりも、はるかに深いものになっていると言います。

神の実在は、霊の実在以上に「証明」は困難なものでしょう。霊の実在に関して、スピリチュアリズムやサイキカル・リサーチの探究は、たくさんの証拠を提示してきましたが、神の実在について、そういうものはありません(もっとも何をもって神の実在の証明とするのかは不明ですが)。
しかし、人間よりはるかに高次の存在が、神の実在を説き、神の信仰を説いているのだから、それを受け入れることは自然のことと言えるでしょう。(もちろん、そのような教えを待つこともなく、この現実のさなかに、現象のすべてに、神を感じ取れる人は「幸い」でしょうが。)
ただ、いずれにせよ、神はいかなる言葉も表現も超える存在であるわけですから、へたに人間的な観念を抱き、それに囚われるよりは、「われわれには理解不可能なもの」としておく方が間違いが少ないはずです。
それよりも、私たちには、もっと身近な高級霊、とりわけ私たちを守り導いてくれている守護霊への信を育てていくことが、ふさわしいことでしょう。守護霊は、深い慈悲を持って私たちを見守っています。いくぶん人間くささも持っています。私たちが直接呼びかけられる存在です。そういう意味では諸宗教の説いてきた神に近い性格を持っていると言えます。

守護霊を通して本霊へと連なる霊魂のグループは、たくさん存在します。ですから、神を守護霊・本霊と措定すれば、多神教こそが、霊界の構造に見合った神観念だと言えます。根源なる「一」は存在するが、それは彼方にあって知ることができない。私たちが信仰するのは、守護霊であり、その背後にいる本霊であって、それは多様に存在する。どちらが優位だと争うのではなく、それぞれの道を通して、究極の不可知の「一」へと向かうしかない。――こうした態度が、霊界の構造を適正に捉えた態度ではないでしょうか。
自分たちの信奉する神が唯一絶対であると主張し続けてきた一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム)を霊たちは厳しく非難しています。
《われらは一つの信仰を絶対唯一と決め込み他の全てを否定せんとする態度にも、一個の価値だに認めぬ。真理を一教派の専有物とする態度にも賛同しかねる。いかなる宗教にも真理の芽が包含されているものであり、同時に誤れる夾雑物も蓄積している。》(モーゼス『霊訓』)

神を喜ばせるために壮大な神殿を築いたり、大仰な儀礼をしたりすることの無意味さは、言うまでもないでしょう。もっとも、そういったもてなしを受けて、喜んで奇跡を起こしてくれる、あまり霊格の高くない霊もいるのかもしれませんが。

スピリチュアリズムの神信仰の基本は、それぞれ個人の守護霊に信を置くこと、そしてそれを通して遙か彼方の不可知の神を崇拝し、その法が全宇宙を支配していることを信じること、そして自分たちの奉じる神が絶対だという思い上がりを決して持たないこと、と言えるでしょう。それは、宗教同士が相も変わらず争いを繰り広げている現代にとって、未来を開く道になるのではないでしょうか。