2-(13)祈りについて

スピリチュアリズムは、教条的な倫理(戒律:肉を食べるなとか不倫をするなとか)を説きません。形式にとらわれたり、硬直的になったりすることは、返って霊的成長にとってよくないと捉えられているからです。霊的な生活への具体的な実践規範も同じです。
スピリチュアリズムは、守護霊・高級霊とのより親密な交渉を奨励し、そのために祈りや瞑想が重要だと説いていますが、具体的なやり方を決めているわけではありません。問題は、その時の心のあり方、霊的な希求の深さだというわけです。
特に、祈りについては、多くのアドバイスがあります。瞑想については、あまり細かい言及はないように思われます。キリスト教文化圏では祈りの方が理解されやすいということかもしれませんし、すでにこの世界には、様々な瞑想の知恵があるからかもしれません。ただ、瞑想も、神(守護霊・高級霊)に思いをこらし、心を開いていくということを主眼にすれば、祈りに近いものになります。あまりに内省的・自己探求的な瞑想よりは、祈りの方が望ましいと言えるかもしれません。
ここでは、様々な霊信から、祈りについての教えを、抜粋して紹介します。

シルバー・バーチのメッセージより
目的もなく言葉を繰り返すだけなら、それは単に空気の振動にすぎない。心をこめ魂のかぎり、神に触れようと神に従おうと願いをこめる祈りなら、初めてその強さを増し、神のしもべにふさわしいものとなる。この祈り、自己をさらけ出して、心をひらくこの行為によって、我々はすべて一つに結び付くことができるのである。(A・W・オースティン編『シルバー・バーチ霊言集』(桑原啓善訳、潮文社、56頁)

祈りは自分の義務を避けたいと思う憶病者の避難所ではありません。人間としてなすべき仕事の代用とはなりません。責任を逃れる手段ではありません。いかなる祈りにもその力はありませんし、絶対的な因果関係をみじんも変えることはできません。人のためという動機、自己の責任を義務を自覚した時に油然として湧き出るもの以外の祈りをすべて無視されるがよろしい。そのあとに残るのがサイキックないしスピリチュアルな行為であるがゆえに自動的に反応の返ってくる祈りです。その反応は必ずしも当人の期待した通りのものではありません。その祈りの行為によって生じたバイブレーションが生み出す自然な結果です。
あなたがたを悩ますすべての問題と困難に対して正直に、正々堂々と真正面から取り組んだ時――解決のためにありたけの能力を駆使して、しかも力が及ばないと悟った時、その時こそ、あなたは何らかの力、自分より大きな力をもつ霊に対して問題解決のための光を求めて祈る、完全な権利があるといえましょう。そして、きっとその導き、その光を手にされるはずです。なぜなら、あなたのまわりにいる者、霊的な目をもって洞察する霊は、あなたの魂の状態をありのままに見抜く力があるからです。たとえば、あなたが本当に正直であるか否かは一目瞭然です。
さて、その種の祈りとは別に、宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求めるための祈りもあります。つまり肉体に宿るがゆえの宿命的な障壁を克服して本来の自我を見出したいと望む魂の祈りです。これは必ず叶えられます。なぜなら、その魂の行為そのものがそれにふさわしい当然の結果を招来するからです。

祈りとはただ一つしかない。すなわち「どのように奉仕したらよろしいか、お教えください」これである。この神と人類への奉仕の願い、これより大きな仕事はない。これにまさる愛はなく、これにすぎる宗教も哲学もない。どの道で奉仕するかは問うところではない。たとえば神法の真理を述べ伝えるか、飢えた人に食を与えるか、または苦しむ人の心から悩みを取り除いてやるか、道はそれぞれ違っていても、肝心なことはただ一つ、いかにひたすら奉仕するか、このことである。(オースティン編『シルバー・バーチ霊言集』58頁)

インペレーターのメッセージより
いずれにせよ、霊界側からの援助を可能にしてくれる人間側の真摯にして積極的な祈念を怠らないでほしい。祈りの実際の威力を知れば、人間はもっともっとそれを活用することになるのであろうが……。人間が勝手にこうあってほしいと望む通りになるというのではない。待機せる霊が悲しみを慰め、煩悩を和らげ、人間が想像するよりはるかに豊かな恵みをもたらす、その機縁となるということである。(モーゼス『インペレーターの霊訓――続『霊訓』』近藤千雄訳、潮文社、190頁)

真実の祈りは、守護せんとして待機する背後霊への魂の奥底からの叫びの、直情的発露であらねばならぬ。気まぐれな要求に応えて、変え得べからざるはずの法則を喜んで変えてくれるが如き神への他愛なき幻想が、祈りの観念を大きく傷つけてしまっている。そのようなことを信じてはならぬ! 祈り――魂の無言の希求を読み取り、それを叶えさせんとして遥か上界との連絡の労を取らんとして待機せる背後霊を通じての神への直情的叫び――これは形式の問題ではない。一語一語述べる必要もない。ましてや宗教的慣習、紋切り型の用語等によって拘束する必要などさらさらない。真の祈りとは魂と魂の直接の交わりであり、日頃より交信せる見えざる仲間への魂の叫びであり、磁気的連絡網を通じてその要求が電光石火の速さで送り届けられ、かつその回答が思念の如き速さで送り返される、その一連の営みを言うのである。
言い換えるならば、悩める魂を、慰め癒すことのできる霊の手にあずけることである。それには言葉も身構えも形式もいらぬ。むしろそうしたものへのこだわりが消えた時こそ最も真実味を帯びる性質のものである。必要なのは背後霊の存在の認識と、それとの霊交を求めんとする直情的衝動のみである。そのためには、日頃の訓練が望まれる。さもなければ、日頃の使用を怠れる手足の如く、その衝動に反応を示さなくなる。それゆえ、日頃より霊性に目覚めたる生活を営む者ほど霊的世界の深奥に深入りできることになる。その種の者にはわれらのほうからも近づきやすい。外界の喧噪に影響されることなく、その者のみが有するところの、われらにのみ反応する奥深き琴線に触れることを得るのである。彼らは地上に在りながら極めて高き霊性を発揮する。何となれば、日頃より霊と交わることを知り、霊的栄養を摂取しつつあるからである。彼らには、物的生活に埋もれる者に閉ざされた霊的真理の秘密の扉が開かれている。そして不断の祈りによって彼らは、少なくとも、地上生活においては苦しみも悲しみも魂の成長にとって不可欠であることを悟りつつ、なおそれに超然とした生活を送ることができるのである。
ああ、かくの如き素晴しき摂理を地上の人間が知らぬとは何と悲しきことであるか! この真相が今少し理解されれば、人間は聖純にして気高き霊の雰囲気の中で暮らせるものを! 霊性の自覚によって、覗き趣味的好奇心に駆られ、己れの分際も顧みずに心霊の世界に深入りせる者を悩ませ、また時には、悲しいかな、真摯なる探求者をも悩ませる、かの邪悪霊の影響から免れることを得るであろう。たとえ完全に免れ得ずとも、その真理の普及は少なくとも危険からの保護を提供し、かつ人間になしうる他のいかなる手段にも増して、われらの力となるであろう。それはわれらの行為の正当性を是認し、動機の純粋性の証となり、霊界通信の真実性を不滅のものとする最も有効な力となるであろう。(モーゼス『霊訓』近藤千雄訳、国書刊行会、138頁)

マイヤーズのメッセージより
あなたがたが自分のために祈る時は、本霊が賜物を下すようにと祈りなさい。ただ他人のために祈る時のみ、物質的窮乏の軽減のことを願いなさい。(カミンズ著『人間個性を超えて』(梅原伸太郎訳、国書刊行会)

祈りの効果はそのことばにあるのではなくそのときの心の態度による。神を呼び、神に己が心を開かんとする者はまず厳しく己れの心を浄めなければならない。自らの創造者の前に祈願や嘆願の祈りをしようと決した時は、利己心の混入や己れの利益を図る気持ちがあってはならぬことを心に銘記しておかなければならない。その時は人類同胞への想い、宇宙の奇びに触れる想いに満ち溢れた状態でなければならないのである。言い換えれば、自分自身の小さな個我から出て、あらゆる生命あるものの魂と融合しようとしなければならない。そこで初めて彼は神の前に立ち、祈りのことばを口にし、他人を傷つけたりするものでない限りにおいて、自分の赤心からの願いを述べることができるのである。
祈りの行為をなしつつある人は、今まさに神の国に入らんとしているのだということをよく心に留めておかなければならない。彼は取るに足らない煩いや些細なことを気に掛ける日常意識から無限意識へと移っていく。彼は永遠の生命と一体にならなければならない。それ故、心と目的を単純にして、疑いや恐れや不信その他神の国の入り口を閉ざしてしまう人生のあらゆる重荷を投げ捨ててしまわなければならないのである。(同前)

もし全体が一つの心になって魂の底から祈りのことばを唱えるなら、大勢が集まってする祈りには霊的な力がある。その祈りは永遠の霊に届くばかりでなく、世の暗闇に霊感の明るい燈火を投げかけ、それが礼拝を意に介さない心の薄暗がりに灯りを点す。なぜなら、情動的で霊の吹き込まれた想念が熱烈に信念をもって発せられると、それは空間を伝播し、無分別、無自覚な心のなかに浸透する。それはあたかもそのときの音声がエーテル中を伝播して地球の最果てまでも伝わり、それを受信すべく同調した装置によって聴取されるのと変わらない。ある目的と必要から集団で全身全霊をもって祈る人々は、時満ちて豊かな収穫をもたらす種を蒔いているのである。(同前)

沈黙と孤独のなかにあってこそ、われわれはすべての仮装と虚飾を投げ捨て、人生の虚飾と見せかけを振り捨てることができる。われわれは今や問題を厳しく直視し、われわれ自身を、弱々しくであるが振り返ってみようと努力する。この反省を超えてさらに進んだとき、受動状態で神に聴く瞑想へと入っていくのである。
われわれが孤独のなかで無音の静けさに取り巻かれているときに味わう状態と統一の度合いは様々なのである。最初は沈黙のなかに自己の霊のかすかな光を見る。そしてその光に刺激される。しかしまだ「非我」との接触はない。これはまだ統一の初段階なのである。第二の状態に入ったとき、意識は魂の世界に気づく。第三に、これが最後の段階であり、それには多くの労苦と探求の道のりを覚悟しなくてはならないが、静寂の中で「神に聴く」(永遠の霊――内在意識の知覚によってのみ捉えられる――についての触知しえない感知力)段階に達するのである。(同前)

ホワイト・イーグルのメッセージより
毎朝、自分に向かってこう言いなさい、「父は私を完全なものとして創り給うた、だから私は完全である。私は神の愛、私は神の平和」と。眠りに就く前には、その日の最後の思いを神に向け、神に感謝しなさい。河を渡って光に世界へ行こうと、そう考えなさい。寝ても覚めても、内在の聖意に従う、その気持ちを持ちつづけなさい。地上のあなたの不調和なものに目を向けぬよう、あなたを傷つける者、粗野で不実な者に、目を向けることのないよう。上方に目を向けなさい。良いもの、真実なもの、美しいもの、これら神のいのちに頭を向けなさい。神の息吹きを吹き込み、地上に愛を、癒しを、その心を外に向かって発しなさい。神の子であるあなたは健全なもの、聖なるものです。ですから、あなたが真実に心から思えば、そのようにあなたはなります。苛立ちの心を、恐怖を、不調和の思いを捨てなさい。神の生命にあって、心静かに生きなさい。(クック『ホワイト・イーグル霊言集』桑原啓善訳、潮文社、180頁)

毎朝、呼吸実習の前に、少量の水を飲みなさい。飲むに際し、次のように思い、これに意味をもたせなさい。「私が飲むこの水によって、神の英知が私の体内にこもる」と。次の一飲みでこうまた思う「神の愛が私にこもる」と。最後の一飲みでさらに思う「神の力が私の内にこもる」と。こうして水を飲むたびに、あなたは神の一面ずつを取り入れることができる。またこれによって、あなたはたえず肉体とエーテル体を浄化しているのである。最後にかように祈りなさい「私に、神の息を……その息により、私がすべての人、すべての生きもの、すべての生命に、祝福を送る者となりますように」と。この後、その神の息を吸引しなさい。(クック『霊性進化の道』桑原啓善訳、潮文社、40頁)

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