2-(12)霊的成長とは

スピリチュアリズムが最も強調することは、自らが霊魂であることを自覚し、霊的成長を求めることです。
霊的成長とはどういうことか。これはなかなか難しい問題です。
成長するための課題やプロセスは、それぞれの魂にとって異なります。現世的な成功をめざす若い魂もあれば、困難な環境で苦闘する高貴な魂もあります。地上の価値観・幸福観は問題になりません。一概に「これが成長だ」と言えるものではないのです。
それに、課題は、それぞれが手探りで見いだしていくもので、他から教えられたり押しつけられたりするものでもありません。スピリチュアリズムは、教条主義に陥ることを嫌います。固定した価値観は、しばしば霊魂の成長を妨げるものです。
ですから、霊的成長について子細に述べた霊信はあまりありません。「愛」「共感」「奉仕」といった、きわめて抽象的な表現が主流です。
しかし、いくつか、基本になる考え方はありますので、それについて見ていきます。

肉体を否定しない
私たち人間は、霊魂と肉体からなっています。霊魂が、この困難な物質世界に宿り、そこで成長を果たしていく、それが人間の生です。言い方を換えれば、霊魂と物質とのぶつかり合いの場、それが人生です。
である以上、物質性を極度に嫌い、無化しようとすることは、人生の本質に違反します。砂漠や僧院に引き籠もり、極度の禁欲生活を送るということは、一般には推奨されません。
むしろ、健康な肉体をつくり、運動の歓びを味わったり、食生活・性生活を適宜に楽しむことは、よいことです。もちろんそれに溺れたり、過度の執着を持ったりすることはよくありませんが。
セックスは人間にとって重大な問題です。しばしばこれによって人は苦しみ、あるいは重大な罪を犯したりします。しかし、肉体を持っている以上、セックスの問題は回避することができません。ひたすら目をそむけ、否定・抑圧することがよいことではない、ということは、心理療法理論でも言われています。性エネルギーは生きる上での根源的情熱でもあり(例外もあるかもしれませんが)、しばしば危険で「性悪な」ものであるにせよ、人間からこれがなくなってしまうことは考えられません。こういったものが人間に背負わされていることは、ある意味、解明できない神秘かもしれません。手強く、なかなか解決できない困難を、いかに創造的なものに変えていくか、親密な愛情を築くための基礎にしていけるか――それが肉体を持った人間に課せられた課題なのでしょう。
ともあれ、肉体を全否定することはよいことではないとされています。スポーツを楽しんで健康な肉体をつくること、食事を始めとする肉体的快楽を精神的健康の基礎にすること、性生活をかけがえのない愛の基盤にすること、それらはとても大切なことです。

想像力は創造力である
マイヤーズ霊の通信は、現実世界・霊界を含む壮大な宇宙の根源に、「想像力」という概念を見いだしています。
想像力は、しばしばとらえどころのないもの、無価値なものと見なされますが、そうではありません。想像力は想念の活動であり、自己と他者を結びつけるものであり、また新たな世界を創造することでもある、きわめて大切な働きです。
マイヤーズは、想像は創造であり、神の創造になるこの全宇宙は神の想像力の具現であるとさえ言っています。そしてその想像力のわずかな片鱗が人間にも与えられている、だから人間はそれを用いて、芸術であれ、実生活の方法であれ、内面的思索でれ、他者との関係であれ、多様な創造的活動をすべきだと言うのです。
このことは、霊界のありようとも深く結びついています。マイヤーズの情報によれば、地上の上の「幻想界」をもう一段超えた、「色彩界あるいは形相界」では、あらゆる形相の破壊と再創造が行なわれている、と言われています。難解な説ですが、単純に言えば、宇宙内のすべては形・姿を持っている(思念でさえもそうだと言われます)、形・姿は存在の本質であり、その多様な創造・発展こそが、宇宙の生成・運動の本質だということでしょう。(ちなみに、「神は多様性を好む」というのは確かな命題のように思われます。地上の生物にしろ、人間の精神にしろ、その多様なありようは驚くべきものです。)
人間の想像力は、高級な霊界における霊魂の主要な働きを、きわめて狭小でみすぼらしいものであるにせよ、いくばくかは反映した「霊魂の力」なのです。ですから、想像力を用いた創造は、よいことです。芸術にしろ、学問にしろ、具体的な物品にしろ、人間は、神の創造にならって、多様な創造をしていくべきだとされています。

感情
マイヤーズ通信は、さらに「感情」の重要性についても述べています。
感情は、「色彩界あるいは形相界」のさらに上、「火焔界」において、基本となるものだと言われます。そこでは形・姿は次第に薄れ、感情(特に知的な感情)が燃えさかる炎のように活動します。魂は類魂(別項参照)すべての感情生活(情熱、知的表現形式などを含む)を知悉し、「観相への没入、夢見ることの苦悩」と表現されるような生を生きます。地上の人間には想像することもなかなか難しい世界です。
感情というのも、しばしば否定的に見られる概念です。感情は理性を妨害し、知性を破壊し、健全な人間関係を台無しにするものと考えられがちです。しかし、それは低劣で狭小な感情のことでしょう。人間生活において、感情は根源的な要素ですし、高尚な感情は、人間の活動にとって、不可欠なものです。よい芸術は、必ず人を感動させます。その時人は、地上的な低次元の感情ではない、言葉ではなかなか表現できない、大きな感情に満たされています。これがなければ、いかなる芸術も成り立ちません。私たちの心の奥にある、低俗でつまらない感情ではない、名状しがたい感情、私たちが愛情や知的創造や芸術活動などにおいて、ごくまれに浸ることができる大いなる感情、それは、霊魂の本質をなすものだと言えます。
ですから、感情を大切にすること、低俗な感情を洗練させ、高度な感情を感じられるようになっていくこと、それは人間の魂の成長にとって、きわめて重要なことです。

共感
「共感」は、現実生活においても重要な要素です。他者の痛みに共感できる人は、慈愛を持つことができ、人から愛され尊敬されます。共感がなければ、真の人間関係は成り立ちません。相手の感情に無頓着な人は、我執の強い、孤独で不幸な人と言えるでしょう。
しかし、共感は、単に人間的な美徳ということにとどまるものではありません。それは霊魂の本質に深くかかわっているものです。
類魂という概念については、すでに2-5で述べました。霊魂は、それぞれがばらばらなのではありません。「私」は、この地上に、そして様々な霊界に、仲間を持っています。志を同じくする人間、守護霊、そしてさらに上の本霊――それは類魂という霊魂の共同体をつくっています。
これらの霊魂は、それぞれの世界においては、一見ばらばらに活動をしているように見えます。しかし、高い「火焔界」の世界においては、霊魂はすべての類魂の感情的体験を、自らのものにします。彼の経験は私の経験であり、その逆も成り立ちます。つまり、共感は、高度な霊魂の本質なのです。
想像力と感情、それは共感をつくりあげます。他者の置かれている状況を想像し、そこに動いている感情に、自らの感情を共振させること、それこそが共感です。ですから共感は、霊魂の重要な営みなのです。
私たちを守り導いている守護霊も、また私たちに大いなる共感をもってくれています。私たちが愚行をなし、道に迷っていても、焦らず、怒らず、大きな愛を持って見守ってくれています。そして本当に私たちに必要なものを引き寄せてくれています。
共感のない人は、他者と関係することができません。そこでは単なるやりとり、取り引き、攻撃と防御しか生まれません。それは、殺伐とした、孤独で不幸な世界ではないでしょうか。そして、そのような魂は、守護霊の導きも感じ取ることができません。自己中心的な観念に浸り、自殺を犯してしまうような魂には、おおむね共感が欠けています。死後の世界へ行っても、生前の欲得ずくの攻撃ばかりに囚われ、他の霊魂と関係を結び、さらに成長していくことができません。
共感を踏まえていくことによって、「愛」が生まれます。共感しえないような、自分にとっていやな相手にも、その心の奥深くを想像し、そこにある痛みの感情を見つけ出せれば、共感は可能になるでしょう(もちろん難しいことですが)。そうすれば、その魂がこれからどのように成長していけばよいのか、想像することができるでしょう。そしてそれを祈り願うことが、愛になっていきます。


愛については、様々の霊信が縷々述べていることですし、あまりそればかり強調するとお説教のようになってしまいますので、ここではあまり述べません。
ただ、自分が好きなものを愛するのは、まだ未熟な愛だということは確かです。ナザレのイエスが「汝の敵を愛せ」と言ったように、愛することが難しい相手を愛すること、それが霊魂の成長(「神の国に入る」)には重要な要素です。もちろんそれは最大の難問であって、想像力や共感能力をしっかり働かせなくては不可能でしょう(それでもなお難しいでしょう)。
おそらく、究極の愛は、霊魂がそれぞれに進化・成長の途上にあるということを、深く信じ、実感することによって、生じるものでしょう。悪をなしている(ように見える)霊魂も、一時の迷いに囚われているだけであり、やがて自らそれを償い(罪は必ず自ら償わなければなりません)、霊魂の責務に目覚めることによって、再び成長の道を歩んでいく――そのことが真にわかれば、どのような魂も愛せるようになるのかもしれません。
神は愛だと多くの霊信は言います(「神は愛より偉大」であるにしても)。それは、この宇宙を貫いている法則は、すべての霊魂が、進化・成長の道を歩んでいくことを知っており、それを促しているということにほかなりません。どんな悪も愚かさも、やがては気づきが訪れ、進化・成長の道を歩みます。停滞や凝固(=真の死)を起こすことなく、その歩みを続けていくように、宇宙のエネルギーが注がれ続けています。それが神の愛ということでしょう。
守護霊や本霊は、私たちを愛してくれています。それは同情でも憐憫でもなく、私たちの霊魂が進化・成長の道を歩んでいることを信じ、それを促しているということです。そして私たちが守護霊や本霊にそれを願う時、それは必ずかなえられるのです。

奉仕
霊信が強調するものに、「奉仕」があります。
奉仕は愛を実践する行為です。自らの利得を手放して、他の存在を支援すること、それは愛の珠玉の行為です。これを非難する人はいないでしょう。
自らの利得を手放すことが奉仕ですから、奉仕することによって社会的賞賛を得たりすることは、本質を損なうことになります。イエスは「神に捧げものをする時には人に見られないようにせよ。右手のやっていることを左手も知らないようにせよ」と言っています。しかし、さらに厳密に考えて、自己の満足感を得たり、奉仕が自己の霊的成長につながると思うことさえ奉仕の精神にそむくものだとしてしまうと、奉仕はほとんど成立しなくなってしまいます。(冗談ではなく、フランクルは、ある開発途上国へボランティアに赴いた夫妻が、監督官から「あなたがたは、自分たちの優越感や自己満足のためにこれをやっているのだと自覚しなさい」と繰り返し説教されたという話を記しています。)
それは考えすぎというもので、ともかく、自己の欲望や利得を少し抑えて、人のため世のためになることをしよう、と素直に考えるべきなのでしょう。奉仕しなければ、とあまり思い詰めると苦しくなります。ある霊信でも、「むずかしく考えたり、大それたことを企図したりする必要はありません。最初はともかく、人に優しく、親切にしなさい」と述べられています。(もちろん、すべてを他者の救いのために投げ出す高貴な魂も実際にいますし、神を真に信じる魂はそれをめざすべきでしょうが。)
特に、私たちの守護霊は、自らの位置を低め、苦悩しつつ、私たちを守り導いてくれています。それはまさしく奉仕です。私たちは奉仕されているのですから、それを見習って、自分も人に奉仕するのは、自らを高めることになるのは間違いありません。

苦悩
霊的成長を考える際、充分注意しなければならないのは、地上的価値観と霊の成長とは異なるということです。事業に成功して、幸せな家族に囲まれて、といった地上的幸福が、必ずしも霊的価値があるものとは言えません。むしろ、困らず悩まず、のほほんと暮らすことは、霊的成長にはマイナスで、厳しい状況で苦悩することが、真の霊的成長をもたらすと言われています。
苦悩を何としても避けようとするのは、成長を拒むことです。わざわざ作り出したり、簡単に避けられるものをそのままにしておいたりするのは愚かなことですが、苦悩は、古来から宗教が言うように、「神の与え給うた試練」であることがしばしばあります。
あえて言えば、苦悩は霊的な成長に不可欠のものです。苦悩によって、人は物質的世界への埋没から離れ、人生の意味や、自らの存在の本質を問います。苦悩に押しつぶされてしまうこともないとは言えませんが、苦悩によって、人は霊的な課題に直面し、成長するのです。
世俗の成功や富に恵まれた、何の苦悩もない人生を思い描くより、自らの霊的な課題を探求し、苦悩しつつ魂を成長させていく人生を求めることが重要です。