2-(10)霊媒について

古くから、人間は、見えない存在と交信する特殊な能力を持つ人が少数いることを、認めてきました。「巫(ふ)」「卜人(ぼくじん)」「みこともち」「みこ」「いち(こ)」「イタコ」「ゴミソ」「ユタ」「カンカカリヤー」「ワカ」「シャーマン」「見者(voyant)」「ミディアム(medium:媒介者)」「呪医(magic-doctor)」「幻視者(visionaire)」など、あらゆる文化・歴史を通して様々な名前でそれは存在してきました。
最近では「霊媒師」などという奇妙な言葉もできました。霊媒は、スピリチュアリズムおよびサイキカル・リサーチの中で輩出した「medium」の翻訳語として定着してきた言葉ですが、霊媒だけでは失礼だということでしょうか。

霊媒は、しかるべき霊を自らに憑依させ(この表現は正しくないのですが)、人間とのコミュニケーションを成立させる役割です。物理的超常現象を生起させる場合もあります。
西欧の人類学におけるシャーマン研究では、もっぱら「脱魂」型、つまり、肉体を離れ、霊界に行ったり、病人・死者のさまよえる魂を引き戻したりするスタイルの超常能力者が主眼となっていました。霊が憑依して語ったり病気を治したりする「憑霊」型は、どういうわけかあまり重要視されていませんでした(これに対し日本の研究者は憑霊型も同位置に扱われるべきだと主張しました)。
スピリチュアリズムで主役となったのは、憑霊型の霊媒です。脱魂型の方は霊媒というよりサイ(超常現象)能力者として、わずかに超心理学での研究対象になったくらいです。
これは、霊の(死後存続の)証明という動機からは、自然なことでした。1-4のOBEの項で述べたように、体外離脱は、死後存続の証明にはなりません。また、得られる情報は、ESPと基本的に同じで、予知や透視には成果を発揮しますが、霊的存在との交渉という点ではあまり優れた結果を出していません。
そもそも脱魂型は、体外に抜け出している間も、意識は保持されます。ですから、そこでもたらされた情報は、しばしば能力者当人の主観・意図によって脚色・歪曲されます。「霊界に行って、こういう情景を見て、こういう人と話した」と言っても、信用性が低い、夢と同じだ、ということになります。
しかし、憑霊型では事情は異なります。基本的に霊媒は、霊が憑依している間、全く意識がなく、自立的な運動もありません(ただし自動書記現象のような場合は本人の意識がはっきりと残っています)。そこで寝言のように、霊が語り出し、あるいは周囲で超常現象が起こります。このような形でないと、霊や霊界の存在は明らかになりません。

霊媒能力は、生まれつき備わっている場合がほとんどです(これを born-medium と呼びます)。幼少から常人には見えない存在が見えたり、脱魂体験をしたりして、その延長で霊媒になります。時には、通常の生育をしてきた人が、事故や死に瀕する病気などを契機に、自ら望んだわけではないのに、霊媒能力を発揮するようになる場合もあります。
通常の人が、訓練を積んで超常能力を発揮できるようになるケースもあるようですが、現象のスケールや情報の確度などで、生まれつきの霊媒には及ばないとされています。

霊媒の仕組みとはどのようなものでしょうか。
霊信によれば、霊媒は「エーテル体」(通常は肉体と同じ姿をした半物質的/半霊的な身体の構成物)が「余分に」あって、身体からはみ出すほどになっていると言います。エーテル体は、霊と物質をつなぐ重要な物質で、霊の意志にフレキシブルに反応します。この余剰なエーテル体を利用して、霊は霊媒の声帯を操ったり、様々な物理的現象を起こしたりするというのです。
スピリチュアリズムやサイキカル・リサーチの交霊実験で、しばしば「エクトプラズム」現象が報告されました(命名者はフランスの高名な生理学者シャルル・リシェ)。これは、霊媒の身体から、もやもやとした煙のようなものが流れ出し、それが次第に固まり、人間の手や顔や体などの形を作る、というものです。これは霊媒のエーテル体を引き出し、その「振動数」を少し下げ、物質に近づけることによって生起する現象だと説明されています。
霊媒の身体からはみ出したエーテル体は、霊の目から見ると、明るく光っていると言います。そして時には、死んだことを自覚していない、あるいは地上に強く執着している「未浄化霊」が、ふらふらと光に引き寄せられ、そこに飛び込んでしまうこともあります。通常は霊媒には強力な指導霊がついているので、そういった危険性は排除されているのですが、指導霊との関係が未確立だったり、霊媒が自らバイブレーションを下げるような行為に及ぶと、危ない事態が起こります。
このような性質を持っているので、未熟な霊媒はしばしば非常に性格不安定になったり病気がちになったりします。人類学での研究でも、巫女は、しばしば「巫病(ふびょう)」という苦しみを経て、能力に目覚め、霊との媒介をするようになると報告されています。霊媒は得難い存在ですし、人類に役立つ存在ですが、霊媒に生まれることは、なかなか大変なことのようです。

すぐれた霊媒能力が生まれつきのものであることは、いささか不公平なような感じもします。しかし、それは、魂に与えられた「使命」なのですから、仕方がありません。運動能力や芸術表現能力などと同様、それを用いて「いかに魂の進化・成長を果たし、何を他者のためになすか」が問われているわけです。霊媒は、持って生まれた霊能を、様々な困難を克服しながら、いかに世のために役立てるか、チャレンジしなければならない定めなのです。霊媒能力が、スポーツや芸術の才能と違うのは、それを無視していると、霊の側からの督促が来ることです。能力を持っていながら、そこから逃げていると、病気になったりして、警告を受けます。「巫病」がそうして起こるケースも多々あります。覚悟を決めて霊媒の道を歩むと、そういう「巫病」は治ります。

霊媒能力には、様々な形があります。音や香りの発生、物体浮揚、物体出現/消滅、といった物理的心霊現象を起こすのが得意な場合。超常的な治病をする場合。死者や高級霊のメッセージを話したり書いたりするのが得意な場合。霊から予知や透視による情報を得るだけの場合、などなど。それは、霊媒の資質と、指導霊の役割・特性によります。たとえば、物質的な現象は、物質世界に近い、比較的霊格の低い霊が担当します。
大規模な現象の場合は、おおむね、高級霊の指導・計画のもと、何人もの(神様と同様に「何柱もの」と言うべきかもしれません)霊が、集団で参与しています。例えば、名高い『霊訓』を自動書記したステイントン・モーゼスの場合には、インペレーターと名乗る、きわめて高い霊格の霊が全体を指導・統括し、その下に、書記役、調査役、物質現象役など、様々な役割をになう霊が働いていたとされます。現代ブラジルのスピリティストの「霊的治療」でも、故人となった有名な医師のほか、たくさんの霊が、執刀に従事したり、場所を保護したり、と役割分担して治療を行なっています。

霊媒の力は万能ではありません。霊の能力ですら、様々な制限を受けています。
霊現象を批判する人が、「もし霊ならば、そんな限定された現象しかできないのはおかしい」「霊がやっているならば、世の中の病人すべてを治してしまえるはず」というような主旨の発言をしますが、それはお門違いです。霊現象には、制限があり、限界があり、限界がある意味もあるのです。
もちろん、霊媒自身の能力にも影響されます。知性・理性の劣った霊媒では、高級・複雑なメッセージは通信できません。霊は霊媒の心にある語彙や思考型やイメージを駆使して通信するのです。小さなトランジスタラジオでは、すばらしい交響曲は再現できません。

霊媒とトリック

サイキカル・リサーチの研究の中で、まれに霊媒がトリックを使ったという報告があります。霊媒自ら認めたケースもあります。反対論者は、ここぞとばかりに「霊媒の現象はすべていんちきだ」と主張します。しかし、トリックがあったからといって、すべてがいんちきだということにはなりません。野球の試合で八百長が1回発覚しても、すべての試合が八百長であることにはならないでしょう。
なぜこのようなことが起こるのでしょうか。それは、霊媒が、非常に感受性が鋭敏で、霊からの影響のみならず、生きている人の心からも影響を受けるからだと言います。ある霊媒は次のように言っています。
《懐疑的で、否定してやろうという強い欲求を持っている人の前で、自分の能力を発揮することは、大きな困難を伴います。能力の発揮には、まわりの人たちが持っている霊的なエネルギーに助けられる面があるのですが、そういった人たちはそのエネルギーを与えてくれないばかりか、こちらの能力を押さえつけてやろうという強力な思念を放射していて、それがこちらの心や場をひどく乱してしまうのです。時には、その人が超常的な能力を発揮して、現象を妨害することもあります。》
つまり、「絶対いんちきをやるぞ」という観察者の想念が強力な呪力として働き、霊媒が無意識のうちにトリックをしてしまうというのです。
これを言い逃れと取ることは簡単です。しかし、霊媒の感受性の繊細さと、人間の想念の強力さがわかる人には、納得できる説明ではないでしょうか。

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