1-(06)霊との交信

「人間の心は死後もある程度の同一性を持って存続する」ということを、最も端的に示すのは、死後の存在から、何らかの発信がもたらされることです。宗教の教義のように、「安らかに眠っている」とか「浄土に生まれている」といったことを掲げても、それを示唆する何らかの情報がなければ、単なる空想になってしまいます。

死後の「霊」からの発信といっても、よくある「幽霊」(死者の姿が見える現象。心霊研究の用語では、霊姿[apparition])は、ほとんど証明にはなりません。一人で見た場合は単なる空想に等しいものとされますし、複数が同時に体験したとしても、「後知」(かつてその場所で起こったことを現実のように子細に知覚すること)の可能性もあるからです(用語集の「後知」参照)。
スピリチュアリズムの初期に流行した「交霊会のテーブル傾げ」では、叩音(こうおん。通常の現象とは思われない仕方で音が発生する現象。「ラップ」とも言われる)や浮揚したテーブルの立てる音(ないし傾き)によって、メッセージが発せられ、それによって「死者」との交信が成り立つという現象が頻繁に起こりました。この場合には、参会者が質問をして、イエスなら1回、ノーなら2回、音を鳴らす方法とか、アルファベットを読み上げて、音が起こったところの文字を1字1字つなげていく方法などで、コミュニケーションが行なわれました。また後には、「ウイジャ板」という大きな文字盤を作り、その上に移動しやすい物(コップとか車のついた指示板とか)を置き、何人かがそれに手を乗せて動くのを待ち、止まった所の文字をつないでいく方法も生まれました(これは「こっくりさん」として日本でも知られていますが、実はイギリス人が伝えたものだと言われています)。
しかし、こういった方法はわずかな情報を取り出すにも手間がかかり、盛り込まれる内容も限られています。これに対して、霊媒の口を通して「死者の霊」と参会者との間に会話がなされるという、いわゆる「憑依」現象による交信は、内容も豊かで、現実感もあり、証拠としての質も高くなります。
「憑依」では、霊媒は変性意識状態(トランス)に入り、まったく違う口調、声によって、死者の霊からのメッセージを語ります。その際、霊媒自身の意識や記憶はないのが普通です。時に物体浮揚や物質出現などの超常現象が付随することもあります。
また、トランス状態(時には通常意識に近い状態)で、霊媒が文字を綴り出す「自動筆記」による伝達もあります。
交信の真実性
もちろん、このような方法によるものですから、それが霊からのメッセージであるかどうかを確定することはきわめて困難を伴います。いくら指示板が独りでに動くように見えても、霊媒がトランス状態で違った声でしゃべったとしても、それをすぐ鵜呑みにする人間はまずいないでしょう。
1-3で述べたように、こういう時に同時に超常的な現象が起こっているとしても、それはメッセージの真実性を保証するものにはなりません。超常的な現象は霊媒の「心の力」によっても起こされる可能性があるわけですから、そこに「霊」が関与していることを証明することにはなりません。
そこで問題になるのは、メッセージの内容です。いちばん重要な点は、実際に生きていて、そして今は死んでいる特定の人でなければ知ることができない情報が、そこに盛り込まれているか、ということです。
スピリチュアリズム(およびサイキカル・リサーチの一部)の厖大な記録の中には、肉親を亡くして悲しんでいる人に、死者が霊媒の口を通してメッセージを伝え、それが死者の生前の出来事と完璧に符合する、というケースがたくさんあります。時には、死者とその人しか知らなかった秘密の事柄(たとえばニックネームなど)が明らかにされる場合もあります。また、優れた霊媒の場合は、ほとんど生前の人間と話しているように親しげな会話がなされることもあります。
死者との交信の記録の一例
次に引用するのは、創立直後のSPR(心霊研究協会)で中核的存在としてESPや死後存続の研究に尽力したリチャード・ホッジソン(であると主張する霊)が、レオノア・パイパー夫人を霊媒として、ホッジソンの生前の親友ドール氏と会話をしたとされている記録です。

(ドール氏が、ホッジソンが生前よく訪れた彼の別荘を覚えているかと尋ねると)
「覚えているとも。いつだったか、夜遅くまでいっしょに外出して、君のお母さんがとても心配されたっけ。(中略)
それからお母さんがある日曜日の朝、僕を外へ呼び出して、使用人たちが軽四輪馬車で教会へ出て行くところを見せてくれたのも思い出すな……居間の暖炉が見えるよ」
ドール「どこで寝たか覚えているかな?」
「中庭の向こうにあった小さな離れさ。そこでよくタバコを吸ったもんだ。泳いだりボートを漕いだり森を散歩したりしたことも覚えているよ」
ドール「どんな場所で泳いだと思う? 砂浜の沖かな、それとも岩の多い場所かな」
「岩の多いところだ。はっきり覚えているよ。今の僕にはその場所がそっくり見えるよ……君のお母さんの部屋についている小さなベランダや、そこから海に向けての素晴らしい眺めが今映っているよ」
――この証言はすべて事実と符合し、特にベランダは、「母親と親しくした人にしか知られておらず、生活を共にした人でないと自然に思い出せる性質のものではない」とドール氏は証言したとされています。

懐疑論者の反論
こういった「死者との交信記録」は、かなりの数存在します。たいていの人は、このような事例を相当数知ったり、実際に体験したりすれば、納得するかもしれませんが、懐疑的な人々はそうはいかないようです。確かに、厳密な「理論的」証明としては、これは成立しません。まず、霊媒が雑談でそれとなく聞き出しておいたことを、死者からのメッセージのように見せかけて語るというトリックもありえます(事実そういうことを行なったことがあると告白した霊媒もいます)。また、霊媒が通常の仕方で(本や新聞などで)その情報を入手できたという可能性もあります。これらを理論的に棄却するのは、たいへんな手続きを要します。たとえば、ある人間がある経験(本や新聞記事を読んだり話を聞いたこと)をして「いない」ということを「理論的に」証明するためには、その人間の全過去を洗い出して検証しなければ不可能です。上記の「会話」の場合も、パイパー夫人はその場所に行ったことはないと言っていますが、それがありえないということを完璧に証明すること、またその場所のことをドール氏から聞いたことがないということを完璧に証明することは、きわめて困難です。

交差通信
こういった懐疑論に再反論するために、いろいろと工夫をこらした方法が考えられました。その一つが、「交差通信」(cross correspondence)というものです。これはたいへん入り組んだやり方なので、説明もややこしくなります。
たとえば、M1という霊媒の口から、Dという死者のメッセージとしてある断片的な言葉がRという人物に向けて出される。それと前後して、M1と交渉のないM2やM3という霊媒を通して、やはりDという人物にからRへむけた別の断片的な言葉が出されます。そしてそれらをRが組み合わせると、ひとつのまとまった意味をなすDからのメッセージができあがる、というものです。
わかりにくいでしょうから、具体的に、美しいケースを紹介しましょう。

1901年、ヴェロール夫人とその娘、さらにホランド夫人という、三人の霊媒は、憑依による自動書記現象で、メアリー・リトルトンという女性からのメッセージを相次いで受け取りました。このメアリーという女性は26年前に死去しており、メッセージの宛名はアーサー・バルフォアという人物になっていました。メッセージの内容は、「自分は死の後も生きている、そしてアーサーを愛し続けている」というものでした。
人づてにメッセージを受け取ったアーサー・バルフォアは、恋人の死を悼んで独身を保ち、命日には死者の妹とともに追憶の一日を過ごしていたものの、スピリチュアリズムにはあまり関心がなく、メッセージの真実性も認めようとはしませんでした。しかし、筆記通信はさらに続き、そこには暗号めいた言葉の断片やイラストなどが、一見意味不明に挿入されていました。「棕櫚の乙女」「髪の毛」「紫のもの」「金属の小箱」「ペリウィンクル(花の名)」といった言葉、そして燭台と蝋燭の絵など……。このメッセージは十余年にわたって続きました。
そして1916年、アーサー・バルフォアは、ウィレット夫人という霊媒から「交霊会」に参加するよう強く要請を受け、それに出席しました。その場で、メアリーを名乗る霊から、これまで綴り出された通信にちりばめられていた意味不明の断片的な言葉や絵について、説明がなされました。自分は「棕櫚の日曜日」に死んだこと、アーサーは恋人の遺髪を、紫色の縁取りがされ、ペリウィンクルなどの花を彫った銀の小箱に納めていること、蝋燭の灯った燭台を手にしている彼女の写真を、大切に秘蔵していること……。すべてが事実と符合しました。これによってアーサーは、メアリーの死後存続を確信したのでした。
ちなみに、このアーサー・バルフォアは、イギリスの首相を務めた人物です。そしてこのケースは、様々な研究者によって調査され、トリックは発見できなかったという結論が出ています。

しかし、懐疑的な人は、これでも納得しないようです。そういった人々は、次のように主張します。「これは、霊媒が、強力なESP(透視・読心)能力によって、話し相手の心の中の記憶を読み取り、死者からのメッセージのように見せ掛けてでっちあげているのだ」と。この場合、それぞれ別個に離れて活動している霊媒4人が、何らかの方法で無意識的に共同謀議を計画し、離れたところにいるバルフォアの記憶を読み取り、それをパズルのように組み立てて、一つのドラマを作ろうとしたということになります。まずあり得ないことでしょうが、「理論的にありうる以上、死後存続の証明とは認められない」と懐疑論者は主張するわけです。
「飛び入り交信者」

そのような反論に対して、さらに強力な事例が出されました。それは、そこにいる人々(もちろん霊媒も)がまったく知らず、また知ることも不可能な死者がメッセージを伝え(これを「飛び入り交信者 drop-in comunicator」と呼んでいます)、その内容を後に調査したところ、事実と符合したという事例です。その一つを紹介しましょう。

ロシアのタンボフ県の大地主であり、貴族であるM・A・ナルツェフ氏は、伯母と召使の女性、そして県のオフィシャルな外科医トゥルーチェフ氏という4人のメンバーで、テーブル交霊会を行なっていました。1887年11月18日、メンバーがほとんど闇の、閉ざされた部屋で、テーブルに手を置いていると、何かを叩くような音が床で響き、壁、天井へと伝わりました。音はすぐにテーブルの中心で激しく鳴り出しました。ナルツェフ氏は、音に向かって、イエスなら3回、ノーなら1回で答えよと言うと、音は3回鳴り、交信が始まりました。アルファベットが読み上げられ、音は目指している文字のところで3回鳴るというやり方で、交信者の名前がつづり出されました。その存在はアナスタジー(ないしはアナスターシャ)・ペレリギーヌと名乗り、「わたしはみじめな人間です。わたしのために祈ってください。わたしは昨日、病院で死にました。おととい、マッチを呑んで自殺しようとしたのです」と述べたのです。
「もっと詳しいことを教えてほしい。何歳ですか。音で示してください」
17回音が鳴りました。
「あなたは誰ですか」
「わたしは召使でした。マッチを呑んで服毒自殺したのです」
「なんでそんなことをしたんですか」
「それは言えません。これ以上は言えません」
突然、壁際にあった重いテーブルが、一同の囲んでいるテーブルの方に引き寄せられ、また元に戻り、これが3回繰り返されました。それがどういう意味なのか、誰もわかりませんでした。交霊会の終わりを告げる7回の叩音が壁で鳴り、午後10時から始まった会は11時20分に終了しました。
このアナスタジーという女性については、誰も知りませんでした。県の外科医であったトゥルーチェフ氏は、自殺などがあった場合、警察から報告を受ける役職にあったのですが、アナスタジーという報告はなかったため、当初この交信を信じませんでした。しかし、念のため、県の唯一の病院に、事情を伏せて、「この数日自殺者があったかどうか、あった場合はその詳細を教えてほしい」との依頼状を書いたところ、病院の外科医長であったスンドブラット氏は次のような返信を送ってきたのです。
「自殺とおぼしい患者は2人あり、1人は、コソヴィッチという女性……もう1人はアナスタジー・ペレリギーヌという名で、年齢は17歳、一箱ぶんのマッチ(黄リン)とコップ一杯の灯油を呑んでいた。16日午後10時に運ばれてきて、17日午前1時に死亡。解剖は19日に行なわれた。ペレリギーヌは自殺の理由については述べなかった。」

これはロシアの超常現象研究の先駆者アクサコフが調査したもので、調査報告には「虚偽は述べていない」という参加者たちの署名がなされています。(F・マイヤーズ『人間個性とその死後存続』下巻、471-3頁)

このほかに、死者しか知り得なかった情報がもたらされたという事例、たとえば、生前ひそかに加入し証書も秘蔵していた保険の番号が明らかにされ、それによって遺族が保険金を得ることができたという事例もあります。また、死者がまったく遠いところにいる人に宛てて書いた手紙の内容が知らされ、それを後になって調査したところ、真実であったという事例もあります。

反論への再反論
しかし、こうした様々な報告・記録があるにもかかわらず、「死後存続」を認めない人は多くいます。そもそもこういった主題に関して決して近寄ろうとせず、資料も見ずにペテン、妄想と決めつける人はたくさんいます(これに関しては別項「超常現象への心理的抵抗」を参照してください)。それは論外にしても、これらの出来事は人間の手によって記録・調査がなされているので、どこかに漏れがあったのではないか、全員が妄想ないし幻覚に捉えられていたのではないかとして、拒否を続ける人もいます。また、超ESP仮説やほかの可能性の存在を盾にして、死後存続の承認を拒否し続けている研究者も多いことは事実です。
拒否派の中には、物質的公理に反するという理由とは違う次元の、いくつかの反論をあげる人々もいます。まず、「霊からのメッセージ」とされるものには、確かに事実と符合するものもあるが、同様に誤りもあり、これは信用性を損なうものである、という主張があります。また、霊が存在しているのなら、なぜもっと頻繁に交信をもたらしたり、助力をしてくれたりしないのか、というものもあります。さらには、「死後存続」と霊の実在が真実であるのなら、そのような重要事が、なぜ全員が疑いなく認めるようなはっきりとした形で証明されないのか、という議論もあります。
これらの主張に対して、残念ながら絶対的な答えを出すことはできません。ただし、「霊からのメッセージ」には、その答えとなるものがあります。言うまでもなくこれらの問いは、「死後存続」を受け入れたスピリチュアリスト自身が抱く疑問でもあり、その答えがいくつも出されているからです。
まず、メッセージと言われるものの中に、明らかな間違いや、低い内容のものがあることについては、「交信の技術的困難」と「いたずら好きの霊の存在」があるとされてます。前者についての「霊」の申し立てを紹介しましょう。

《通信を送る時の難しさを譬え話でいうならば、見通しが悪く声も通らない霜のついたガラス窓の外側に立ち、いやいや仕事をしている血のめぐりの悪い秘書に指示を与えているようなもので、ひどい無力感に悩まされます。言いたいことがなかなか伝わらないむなしさ――私を理解し私を信じてくださろうとする方とうまく交信できないのが残念でなりません。》(カミンズの自動書記によるマイヤーズ霊からの通信)

同じ霊からの別のメッセージでは、(1)通信の内容は人間の言葉や概念に翻訳することが困難なものがある、(2)表現は霊媒の知性や言語能力によって大きく制限される、(3)霊媒は感受性が強いために、周囲の人間の心や霊媒自身の心配・不安などの影響によって乱されることが多いこと、などをあげ、通信を鵜呑みにしてはいけないとまで言っています。(1)は人間の知性は限界があるものであり、それを超えた知があるということで、一部の傲慢な人々を除けば、ごく自然なことと受け入れられるものでしょう。(2)も、たとえばラジオの性能が悪ければどんなにすぐれた音楽でもゆがんで聞こえるのと同様のことです。霊媒の知性・理性が貧しいものであれば、よい内容のメッセージが伝達できるわけがないという、きわめて辛辣で重要なことを教えています。(3)は、少し複雑になりますので、別項(「霊媒について」)で述べることにします。
また、ここで表明されていることはきわめて重要な問題を含んでいます。それは、「霊」が存在するということと、「霊」が万能であるということは、イコールではないということです。よく「神や仏が存在するのなら、地上にこれほどの悲劇は存在するはずがない」という考え方をする人がいますが(時にそう思わざるを得ない状況があることは充分理解できますが)、この条件節と主節の間には論理的飛躍があります。霊にしろ、神仏にしろ、人間が望むようなことをしようと思っているかどうかはわからないし、またできるかどうかもわからないのです。頻繁に交信がなされないこと、確実な証拠が与えられないことも、一部はここに答えがあると思われます。

また、後者の「いたずら好きの霊」については、次のようなメッセージがあります。

《類は類を呼ぶ。一時の気まぐれや愚かな好奇心の満足、あるいはわれらを罠にはめんとする魂胆からしか質問せぬ物は、同程度の霊と感応してしまう。軽薄で、無知で、ふざけた質問しかせぬ者は、似たような類の霊しか相手にせぬ。》(モーゼス『霊訓』)

多くのメッセージでは、霊すべてが精神的に高貴で善性にあふれているわけではない、とも言われています。それはある意味当然で、「人間が死んだからといってすぐに素晴らしい存在になるなどと考える方がおかしい、それは個性の死後存続ということ自体に反するではないか」ということをある霊は言っています。この問題は、「邪霊・悪霊」の存在とその影響という、あまり触れたくない話にもつながっていきますが、それについてはまた別に述べます。

公正を期するために言っておけば、純然たる「科学的」方法で(つまり実験室の中で)、他の説明可能性を一切排除する形で、死後存続が「証明」されたことは確かにありません。慎重に理性的に考えて納得できるような証拠に対しても、否を言い続ける人はいます。「実験室的証明」のみに固執する人は、死後存続は受け入れられないものなのかもしれません。終末期医療のパイオニアとして広く知られるエリザベス・キュブラー=ロスは次のように言っています。

《信じたい人は信じるし、知りたい人は答えを見つけます。しかし準備のできていない人は、1万5000件の例を見せたって1万5000の合理的な説明を思いつくのです。それは彼らの問題なのです。》

もう一つ、「死後存続の明らかな証明はなぜなされないのか」ということについて、スピリチュアリズムからの見解(というよりは霊からの教え)を紹介しておきます。
この証明不可能性は、一つには人間の心の問題(「心理的抵抗」)もありますが、それ以上に、大きな意味があるとされます。それは、「動かしようのない証明は“禁止”されている」ということです。なぜかというと、「霊魂の存在」という認識は、人間が自らの選択によって選び取るべきものだからであり、その内容も主体となる人間の状態によって違うものであるべきだから、というのです。
明証的なものは、選択の余地がありません。誰もが認めざるを得ず、また誰もがその認識を得るために苦労する必要もありません。それは自動的に与えられ、しかもそれから逃げる余地はありません。しかし、霊魂の認識は、そういうものであってはならず、選び取るものであり、選ぶことも選ばないことも可能なものでなくてはならないというのです。
ことさら神秘めいた言い方のようにも、また、逃げの詭弁にも聞こえるかもしれませんが、ここには何かしら重大な意味があることは確かではないでしょうか。

スピリチュアリストは、科学的証明は、絶対の条件ではないと思っています。科学的実証は、限定された領野(物質世界)にしか適用できないものでしょう(この点は別述)。そして、これまでに蓄積された「証拠」で、「死後存続」はある――控えめに言っても、「死後存続」を認めることは非合理・非理性的ではない――と主張できると考えています。
もちろん、スピリチュアリズムは、単に死後存続を証明することばかりに腐心しているわけではありません。では、人間の個性が存続する世界とはどういうものなのか、といったことについても、慎重に検証して一定の見解を提出しています。これについては別項を参照していただきたいと思いますが、以上のことで、スピリチュアリズムが、単に思い付きや宗教的教条から死後存続を主張しているのではないということは、ご理解いただけたのではないでしょうか。
霊魂の存在の「証拠」ならすでに充分に与えられています。「証明」と言いうるものもわずかながらあります。しかし、それらは多くの人の目には触れず、また認めようとしない人も多いでしょう。この状況が変わることは、しばらくの間ないでしょう。ただし、それらのことがまったく封じ込められてしまったら、人間の精神は窒息して死に絶えてしまうのではないでしょうか。