1-(01)死後存続とは

死後存続という概念
「死後存続」とは、個人の主体が、肉体の死後も存続することを言います(「死後生存」と言うこともあります。英語では Survival after Death です)。

死後存続という概念は、きわめて広い意味を含んでいますので、取り方によっては、現代のわれわれが感じるほど異様な概念ではありません。むしろ、宗教や信仰にとって、死後存続は肝要な問題です。

たとえば、キリスト教では、「救世主(キリスト)の再臨」の日まで死者は眠ったような状態で存続を続け、その日が来れば復活し、最後の審判を受ける(そして善人は神の国に行き悪人は地獄で焼かれる)と考えています。仏教では、一部の派を除いて、輪廻転生があると考えています。おおかたの死者(さとりを開き解脱していない死者)の霊魂は、四十九日の間「中有」として浮遊した後、生まれ変わり、「六道」を輪廻していくわけです(生まれ変わりをしていく主体は霊魂ではないとする説もあります)。同じ仏教でも浄土教諸派では、阿弥陀の慈悲によって、浄土に生まれると考えています。
さらに、かつての日本人(そして現在もかなりの日本人)は、死んだ両親や祖父母の霊魂が、ある程度の間は個性を持ったまま存在し続け、供養を求めたり、時に生きている人間を助けてくれることを、漠然と信じています。
また、最近流行の神秘思想の影響を受けて、死後は「宇宙意識」のようなものと合体すると信じている人もいるようです。

しかし、こういった宗教の概念と、ここで言おうとしている「死後存続」とは、いくぶんずれるところがあります。最後の審判の時まで「眠っている」(不活動状態にある)というようなものは、最後の審判がいつ来るかわからない以上、死後存続と言えるかどうかはかなり微妙です。また、一部の仏教徒のように、生まれ変わりを続けるのは霊魂ではなく、カルマ(業)の束のようなもので、個性・主体性を持った存在が継続されるのではない、とする立場も、死後存続とは言えないでしょう。さらに、「神と一体になる」とか「宇宙意識と融合する」といった場合には、私という主体があるのかないのか、はっきりしません。「私」の記憶や感情や思いが断片的に残っていく、というような考え方も、死後存続とは言えません。
ここで言う「死後存続」とは、人間の人格的個性(少なくともその重要部分)が、意志などの主体的活動を伴って、少なくともある程度の長期にわたって、死後に存続するということです。簡単に言えば、「私は、私の肉体の死後も、私として生き続ける」ということです。

近代になって、唯物論が隆盛になると、このような考えは否定されるようになりました。唯物論では、人間の精神活動は、脳という生物器官の産出物だと考えますから、肉体が死んで脳が活動をやめれば、「私」のすべては失われます。現代の少なからぬ人々は、そう考えていますし、特に知識人を自認する人の多くは、科学や実証を重視し、唯物論的な考え方をする傾向が強いので、「死後存続」などあるはずもない、そんなことを言うのは前近代的な無知蒙昧か勝手な妄想だ、と考えているようです。

ところが、スピリチュアリズムの運動、そしてサイキカル・リサーチの探究の中では、人間の個性が死後も存続することを示すと思われる証拠が、かなり多く集められています。そういった証拠を、「いんちき、でっちあげ」と判断する人も多くいますが、それらを吟味し、「死後存続」を認めた人々もまた多くいます。どちらの判断を取るかは、それぞれの自由でしょうが、少なくとも、「死後存続」を受け入れた人々を、理性を欠いた人間だと決めつけることは、フェアではないと私たちは考えています。

以下、歴史や用語を概説しつつ、「死後存続」の証拠となるものを紹介していきたいと思います。